先日、昼寝起きに、ぼんやりとテレビを見ていたら、NHKで過去の大河ドラマのテーマ音楽集を流していました。
あぁこれは懐かしい、とついつい見とれてしまいましたが、惜しむらくは、各テーマとも短くカットされていて、全部を聞くことができないのが残念でした。
しかし、何十年ぶりかに聞いた曲もあり、例えば、その昔大好きだった「国取り物語」などは、ぁーこんな曲だったかな、と今聞くと、かなり記憶とは違った印象であったのには少々驚きました。
改めて時の流れというものは、記憶を曖昧にするものだと気付いたわけなのですが、これが魂レベルになると、何世代も前の前世の記憶が薄いというのも、なんとなくわかるような気がします。
ところで、この番組ではテーマ音楽とともに出演者や製作関係者などのキャストの字幕などもそのまま流れており、今はもう亡くなってしまった有名な俳優さんなどの名前も軒並み出てきました。
例えば、国取り物語では、斎藤道三の愛人のお万阿役をやった池内淳子さんとか(2010年に76歳で死去)、2009年に80歳で没した、金田龍之介さん(道三に国を盗られる土岐頼芸役)、羽柴秀吉の夫人の寧々役の太地喜和子さん(1992年、48歳で事故死)、足利義昭役の伊丹十三さん(1997年64歳没。自殺といわれている)、などなどです。
また、このころはまだ新進気鋭の役者さんたちも多数出演しており、中でも、徳川家康役を寺尾聡さんが演じており、羽柴秀吉役は火野正平さんがやっていたりしていて、改めてこの番組の豪華キャストぶりに目を見張る気がしました。
この国取り物語もそうなのですが、NHKの大河ドラマのオープニングではNHK交響楽団の演奏によるテーマ音楽をバックに出演者などのキャストが文字で紹介されるのが恒例です。このオープニング映像もなかなか毎年趣向が凝らされていて、かなり昔のものであってもそのデザイン性は秀逸です。
この字幕で紹介されるキャストの中には、出演者は無論のこと、演出や舞台装置、撮影や協力者といった人達も含まれており、このほか、「殺陣」というのもあります。そして、この殺陣の担当者として毎年の大河ドラマのオープニングで常連のように名前が現れるのが、「林邦史朗」という人です。
もともとは役者志望だったそうで、都立の向島工業高等学校卒業後に劇団ひまわりに入団し、そのとき講師に来ていた殺陣師の「大内竜生」の影響を受けました。すぐに劇団ひまわりを退団して大内氏の運営していた大内剣友会の門下生となったそうで、このことがその後の殺陣師人生の皮切りでした。
ここで殺陣の技能をマスターしていった林さんは、その後数々のドラマに切られ役とし出演していました。ところが、あるとき、とある番組のディレクターに「斬られ役ばかりやっていると、そういう根性が染み付いて役者として、見てもらえなくなるぞ」というアドバイスを受けます。
これにショックを受けた林さんは、やがて大内剣友会を去り、フリーになりました。
そしてフリーで仕事をしていくうちにNHKのプロデューサー・広江均から「今までの、歌舞伎のような舞踊めいた立ち廻りではなく、リアルな殺陣を林に付けてほしい」との依頼があり、その要望に応えるために1963年、日本初のスタントマングループ「若駒冒険グループ」(現・若駒)を創設します。
その後1965年、大河ドラマ「太閤記」のオープニングから殺陣師として林の名前が初めてクレジットされるようになり、以後、NHKの大河ドラマは無論のこと、多数の民放番組や映画、舞台などで殺陣を振り付けていきました。と同時に数多くの弟子を育て、過去に殺陣を教えた役者は100人以上にのぼり、現在でも80人以上の弟子がいるといいます。
また、大河ドラマの幾つかの作品では殺陣指導だけでなく、自らもゲスト出演することがあり、とくに「竜馬がゆく」「花神」「翔ぶが如く」などの幕末を題材にした司馬遼太郎原作の大河ドラマでは3度にわたり坂本竜馬を暗殺する刺客を演じたそうです。そういえば、私もその昔よく見ていた「花神」で、彼の雄姿を見たような記憶があります。
林さんが20代で殺陣師となった当時、「殺陣師なら本当の武術を学ぼう」との思いから、全国各地の武術家に入門し、柳生新陰流などの剣術の各流派、柔術や琉球古武術、合気道などの日本の武術全般の修行を重ねたそうです。そして、彼はこれらの修行を通じて「強くなることより、自分に勝つことの大切さを学んだ」と語っています。
しかし、殺陣師は、剣術や武術に長けている者だけが就ける仕事だと誤解をされている面がありますが、実際には殺陣師で武術を修めている者は少ないそうで、しかも自分の道場まで持って弟子を育てている殺陣師は、現在でも林さんを含め2人しかいないそうです。
こうした林さんの道場では独自の段位を定め、10年程度で一人前の殺陣師となれるように弟子達に指導を行っているといいます。
ところで、この殺陣は、「たて」と読みますが、もとはそのまま「さつじん」」と呼んでいたようです。かつて、歌舞伎よりもリアルな立ち回りを多用した時代物で一世を風靡した、「新国劇」の座長で、沢田正二郎という人が、ある公演の演目を決める際に冗談で「殺人」という名前にしてほしいと、座付きの作家に相談したそうです。
ところがこの演劇作家さんは、「殺人」というのはさすがに穏やかでないので、「陣」という字を当てることを提案したといい、これが「殺陣」の語源となりました。
この演目は1921年(大正10年)に初めて演じられましたが、このときの読みは「さつじん」でした。その後、この沢田正二郎座長が亡くなり、その七回忌記念公演が1936年(昭和11年)に行われたときから、「殺陣」の読みとして「たて」が使われるようになったということです。
「たて」のもともとの語源としては、目立つようにする、引き立てるという意味の「立てる」ではなかったかという意見や、いやそうではない、「太刀打ち」の太刀が変化したのだという説もあり、さまざまです。が、歌舞伎でも「立ち回り」という言葉があり、これを略した「立ち」が変化したのではないか、という説が有力だそうです。
本来この意味を表すのは、「擬闘」ですが、「ぎとう」では何のことかわからないので「たち」または「たて」と呼ぶようになり、この沢田氏の記念公演以降、「殺陣」と書くようになって、その読み方も「たて」ということで定着していったようです。
その定義はといえば、舞台、映画、テレビドラマなどで披露される、「俳優の肉体または武器を用いた格闘場面ならびに、それにまつわる動作」ということになるでしょうか。ただ、一般的には時代劇において日本刀や槍などの武器を用いた剣戟(けんげき)を指すことが多いようで、広義には、現代劇も含めた格闘場面全般を指すこともあるようです。
この振り付けや指導を行う人を殺陣師(たてし)と呼び、ときには擬闘スタッフなどと難しい呼び方もすることもあるようですが、ハリウッド映画などでは、「アクションスーパーバイザー」などがこれに相当するようです。
それにしても殺陣とはいかにもおどろおどろしい名称です。しかしあくまでも「演技」にすぎず、このため、本当に当たっている、あるいは当てられている「ように見せる」ことが肝要であり、実際には怪我をしない、させない配慮が不可欠です。
これを怠ると殺陣の場面を軸とした作品全体の評価の低下を招いたり、傷害及び死亡事故に発展する場合もあり、そうした意味でも高い技術が必要とされ、であるからこそ、NHKの大河ドラマなどでも、林邦史朗さんのような実力も実績もある人を長年抜擢し続けているのでしょう。
実際、過去には殺陣がうまくいかなかったための事故も起きており、1989年(平成元年)公開の勝新太郎の監督・主演映画「座頭市」の撮影中、俳優が振り回した真剣が殺陣師の首に刺さり死亡する事故が起きました。
これにより、以後は、同じような事故を防止する目的から、日本俳優連合に「殺陣対策委員会」(後のアクション部会)が設立され、この委員会が撮影現場での安全対策や傷害保険加入などの問題解決を図るようになりました。
また、この委員会の肝いりにより、2005年には、「アクションライセンス制度」が設立され、現在では俳優の殺陣技能は段位制になっているそうで、段位の低い役者は難しい殺陣はできないきまりになっているということです。
ところで、多少飛躍するかもしれませんが、こうした実際の演劇にまで使われる「日本刀」というものはいったいどういったものなんだろう、と改めて興味が沸いたので、調べてみることにしました。
そもそも、「日本刀」という呼称が正式にあるのか、ということから調べてみたのですが、すると、平安時代以前の古い時代には「刀(かたな)」、もしくは「剣(つるぎ)」と呼び、「日本刀」という呼称は使われていなかったそうです。
「日本刀」という呼称は、中国の北宋の時代(960~1127年)の政治家で、詩人だった欧陽脩(おうようしゅう)という人が、「日本刀歌」という詩の中でこれを使ったのが最も古い記述だといい、この詩の中では、越(華南)の商人が当時既に宝刀と呼ばれていた日本刀を日本まで買い付けに行く、といったことが描かれているそうです。
この日本刀の姿かたちの美しさなどの美術的な観点もまたこの詩の中で歌われているといい、従って「日本刀」という言葉が定着しはじめたのは、このころからのことのようであり、この当時既にその美しさが海外の好事家などにも認められ、日本の重要な輸出品の1つになっていたのでしょう。
この北宋の時代というのは、日本では、794~1185(もしくは1192年内外)の平安時代とギャップしています。しかし、中国ではそう呼ばれていたものの、日本国内ではこのころまだその呼称は「刀」、もしくは「剣」であり、「日本刀」という名称は一般的に使われていません。これが一般的名称として広まったのは幕末以降のことだそうです。
「刀」、「剣」以外にも「打刀(うちがたな)」や「太刀(たち)」といった呼び方もありますが、実はこれは「刀を」更に小分類する呼び方です。これについては後述します。
以上のことから、平安時代より以前の例えば古墳時代などに製作されていたものを日本刀と呼べるかというとそうではないことがわかります。また、一般に日本刀と呼ばれるものは、平安時代末期に出現してそれ以降主流となった「反り」があり片刃の刀剣のことを指すようです。
その美しい反りと、日本固有の鍛冶製法によって作られた荘厳ともいえるような表情ゆえに、中国でも美術品として扱われたものであり、平安時代以前の直刀や両刃の鉄剣もしくは青銅製の剣などは、一般的には日本刀とは呼びません。
従って、日本刀は、武器としての役割を持つと共に、美術品としても評価の高いその美しい姿を持つものを指します。そして、その象徴的な美により、平安の昔から続く血統では権威の証としても尊ばれました。また、のちの、鎌倉時代以降の武家政権を背景とする時代に至っては、「武士の魂」として精神文化の支柱ともされるようになりました。
その大きな特徴をあげると、「折り返し鍛錬法」で鍛え上げられた鋼を素材とするという点と、刀身と茎(なかご、中心。刀身の柄に被われる部分)が一体となった構造であるということです。
茎は、いわゆる「柄」の部分に相当する部位であり、「砥ぎ」の対象にはなりません。なかごには、刀身を目釘で柄に固定する目的で、孔(目釘孔)が設けられていますが、奉納用の刀などで目釘孔がないものもあります。
諸外国の刀剣類と根本的に異なるのは、外国の剣などでは鞘などの外装(日本では拵え(こしらえ)という)なども珍重されますが、日本では、刀身自体が最大の美術的価値を持っている点が特徴です。
著名な日本刀としては、国宝の「大包平(おおかねひら)」を初めとして、妖刀「村正」、「雷切」などのほか、豊臣秀吉の愛刀の「一期一振」、佐々木小次郎の愛刀「備前長船長光」などがあります。
このほかにも、「天下五剣」と称される5つの名刀があり、これは同じく国宝「童子切」、「三日月宗近」、「大典太」の三点と、重要文化財の「数珠丸」、および御物「鬼丸国綱」です。
……と書いたところで、文章ではその美しさはなかなか伝わってきません。
では、貨幣価値にすれば多少はその良し悪しが分かるだろうということで調べてみたところ、例えば国宝の「大包平」は、江戸時代に岡山藩主の池田家に代々伝わっていたもので、1967年(昭和42年)に文部省(当時)がこれを池田家から6500万円で買い上げており、現在であれば、優に億を超える値段がつくでしょう。
この「大包平」は現在も東京国立博物館に収蔵されていて、時々公開されているそうなので、実際に目で見てその価値を確かめてみたいという方は東京までお越しください。
また、豊臣秀吉の愛刀の「一期一振」は、尾張藩主・徳川茂徳より孝明天皇に献上され、以後、皇室に伝えられて皇室御物となっているほか、その他の名刀も徳川幕府所蔵の品々であるなど、いずれもその価値は莫大なものと考えられます。
国宝の「童子切」は、平安時代の伯耆国の名刀工・安綱作の作品であり、また「三日月宗近」、「大典太」なども平安時代後期から伝えられているもので、これらの名作には平安時代に造られたものが多く、かなり大きな「反り」があるのが特徴です。
平安時代後期からこうした刀が作られるようになった背景には、ちょうどこのころから武家の勢力が増大してきたことがあげられ、このころ戦は馬上決戦を中心に考えられていたため、振り回しやすいように反りを持たせた片刃の太刀が発達したものです。
その生産地としては、良質な砂鉄がとれる雲伯国境地域(現・鳥取県米子市と島根県安来市一帯)や備前国(現・岡山県南部)と、政治文化の中心である山城国・大和国(現・京都~奈良)などが有名であり、これらの地に刀工の各流派が現れました。
そもそも、日本刀は、寸法により刀(太刀・打刀)と、脇差(脇指)、短刀に分類されますが、広義には、長巻、薙刀、剣、槍なども含まれます。
室町時代中期以降、日本刀は刃を下向きにして腰に佩(は)く「太刀」から、刃を上向きにして腰に差す「打刀(うちがたな)」に変わってきますが、この平安時代にはまだ下向きの「太刀」が主流でした。
なお、太刀・打刀とも、身に付けた時に外側になる面が刀身の「表」だそうで、その面に刀工銘を切るのが普通だといいます。したがって、銘を切る位置によって太刀と打刀の区別がつく場合が多いそうです(ただし、ときには裏に銘に切る刀工もいるとか)。
その後時代が下って、鎌倉時代になっても日本刀の姿は平安時代末期とあまりかわらない姿をしていましたが、鎌倉幕府による武家政治の体制が確立し、「刀剣界」といえるほどの創作集団が確立されるようになっていきます。
後鳥羽上皇は「御番鍛冶」を設置し、月ごとに刀工を召して鍛刀させ、上皇自らも焼刃を施したといわれ、積極的に作刀を奨励しました。また、鎌倉幕府では、作刀研究推進のため、各地から名工を招聘しており、これらは主に山城国や備前国からの刀工です。
鎌倉時代中期になると、実用性を重視した結果、日本刀も身幅が広く元幅と先幅の差も少なくなり、平肉がよくついたゴツイものに代わってきます。「鋒」と呼ばれる背の部分も幅が広くなり、刀身もやや短くなって猪首(いくび)となり、質実剛健の気風がでてきました。また、この頃から太刀ばかりではなく、短刀の制作も活発になってきます。
さらに鎌倉時代末期になると、2度の元寇や政治体制の崩壊などの動乱により、作刀はさらに活気づいていきます。この時期の日本刀は、鎌倉中期の姿をさらに豪快にしたものに変わっていき、身幅はより広くなり元幅と先幅の差も少なくなり、鋒幅もさらに増えます。短刀やその他の刀剣も太刀と同じような傾向です。
その後、室町時代(南北朝時代)の刀剣は、大振りなものが多く造られるようになります。またこの時代の太刀の中には、元来長寸の大太刀(刃が下向き)であったものを磨上げてスリムにするとともに長さを調整し、刃が上向きの打刀に造り直されているものが多くなってきました。
天正年間に織田信長などの戦国武将が、秘蔵の太刀を多く磨上させており、これらの中には後世で名刀と言われるものも多いということです。
また、この時代には小太刀も多く造られるようになり、播磨・備前・美作の守護赤松満祐が室町幕府6代将軍足利義教を暗殺した、嘉吉の乱(かきつのらん)などが勃発すると、
室内戦闘用に短い刀が求められるようになり、この時代から「脇差」の製作がさかんに行われるようになりました。
それまでの太刀だけ一本を腰に差すというスタイルから、打刀・脇差の二本差しスタイルが生まれたのはちょうどこの時期です。この時代に作られた備前の2尺3寸(約66cm)前後の打刀や、1尺5寸(約45cm)前後の脇差は非常に姿が良く、のちの江戸時代に大名が美しい拵えを作る参考にするために珍重したといいます。
また、この室町時代には、製鉄反応に必要な空気をおくりこむ送風装置である、鞴(ふいご)を使った製鉄技術が発達し、ふいごは、別名「たたら(踏鞴)」と呼ばれていたため、こうした製法を「たたら製鉄」と呼ぶようになり、製刀のための鉄を得るための大規模なたたら製鉄場も造られるようになっていきました。
しかし、室町幕府の統制により平和な時代となったため、刀剣の国内需要は一時的に低下しました。とはいえ、このころにも日本刀は明などの諸外国への重要な貿易品として生産されつづけおり、廃れるということはありませんでした。
そして、8代将軍足利義政の継嗣争いなどによって有力守護大名が争い、全国的な内乱となった応仁の乱が勃発し、やがて戦乱の世が始まると、膨大な需要に応えるために再び刀剣製造はさかんになっていきます。
足軽など農民兵用に貸し出す「お貸し刀」と呼ばれる粗悪な刀が大量に出回るようになり、再び刀剣生産が各地で活発に行われるようになりました。
また備前(現岡山県)の長船派(おさふねは)という刀工の流派の鍛えた刀がもてはやされるようになり、この中から多数の名匠が生み出されました。長船派を名乗る刀工だけでもこの当時60名もいたといい、このほかでは、美濃国(現岐阜県)が生産拠点の双璧でした。
この時代、合戦に明け暮れる武将は、己が命運を託する刀剣をこれら諸国の名工に特注することも多く、これら「注文打ち」の中には、のちの世にも名刀として伝えられたものも少なくありません。
やがて、戦国末期になると、南蛮貿易によって鉄砲が伝来します。これによって、合戦の形態や刀剣の姿は急速に変わっていき、鉄砲に対抗するため甲冑が強化されるようになり、このためより強靭な日本刀が求められるようになります。
また、大規模な合戦が増えたため、長時間の戦闘に耐えるべく、従来の片手打ちから両手で柄を握る姿となり、これらのことから身幅が広くて重ね(刀の厚みのこと)も厚いものが増え、また切先も大きいというのがこの時代の日本刀の特徴です。
この姿は豊臣秀吉による天下統一後にも受け継がれ、これら豪壮な刀はのちの江戸時代の慶長年間にまで引き継がれたことから「慶長新刀」と呼ばれるようになりました。
ところが、安土桃山時代がちょうど終りに近づくころ、長らく名刀工を数多く生み出していた備前の長船一派の製造所が、度重なる吉井川の氾濫で壊滅状態になります。これによって備前鍛冶の伝統は一時休眠状態となり、このため各地の大名は量産体制のある美濃の鍛冶をこぞってお抱え刀工に採用しました。
刀剣史では、江戸初期の慶長年間(徳川家康、秀忠の時代)以降の作刀を「新刀」として、それ以前を「古刀」として区別していますが、この新刀と古刀の区別の違いには、この備前の長船一派の衰退による影響によるところが大きいそうです。
しかも江戸時代に入ってからは、刀を鍛えるために使用する「地鉄(じがね)」の品質も変わってきました。日本刀は折返し鍛錬の結果、刀身の表面に美しい地紋が現われますが、この鉄の肌模様を地肌と称し、その下地となる素地の様子を「地鉄」といいます。
従来は各々の地域で鋼を生産していたため、地方色が強く現われていたのですが、天下が落着いたことにより、全国にある程度均質な鋼が流通するようになり、刀剣の地鉄の差が少なくなったのです。
このため、この時代以降の「新刀」と呼ばれるものに使われている地鉄は基本的に「綺麗」だといいます。
また、江戸時代に入り、朱子学の発想に基づく風紀取締りを目的として、武家の大小差し(打刀、脇差)の差し料の寸法、町人などの差し料の寸法などが制定されました。
特に江戸時代に入ってすぐのころは、この寸法設定に伴う武家の大小差しの新規需要が多く、寛永から寛文、延宝にかけて各地の刀鍛冶は繁栄し、これに伴って技術水準も向上しました。一方でこれ以降の幕末までの間、脇差よりもさらに短い短刀の作刀は急激に減りました。
江戸初期には島原の乱などの大規模な内乱も起きましたが、その後は平和な時代が続き、剣術も竹刀稽古中心となった影響で、まっすぐな竹刀に近い、反りが浅くて切先も小さい刀のほうが人気が出るようになりました。
こうした刀が、ちょうど1661年から1672年までの寛文年間ころから流行るようになったことから、この姿を「寛文新刀」と呼び、江戸時代の刀剣の代表的なものといわれています。
一方、商業の中心地となった大坂では、紀州などの近郊から刀工が次第に集まってきており、これらの刀工集団の作は「大坂新刀」と呼ばれ、新刀の中でも特に区別されています。
その特徴は地鉄の美しさであり、しかも地鉄の上の華やかな刃文の美しさは数ある新刀の内でも群を抜くといいます。その背景には大坂の商業力によって優れた刀工が集まったことと、古来より鋼の産地である備前、出雲、伯耆、播磨が近かったことがあげられます。
一方、江戸時代では全体的にみれば平和になった分、刀剣の需要は衰退する一方であり、これに対して、刀等の付属品である、鐔(つば)や小柄(こづか)、目貫(めぬき)、笄(こうがい)といった刀装具の装飾が発達しました。
装剣金工の分野では熊本の肥後鐔工のほか、京都の京透かし鐔工、愛知の尾張鐔工、江戸の赤坂鐔工などが有名であり、多くの金工職人の中から独創的な名品が生まれました。
これら刀装具は各々時代の流行に合わせて変化していきましたが、片や刀装具の繁栄に対して、鍛刀界は反比例するかのように衰退していきました。
幕末動乱期になると、度重なる飢饉、貨幣社会の台頭による商人の肥大化などにより、武家の衰退が顕著となり、また黒船の来航もあって、社会の変革の風を人々は感じ始めます。
この幕末の時期に、出羽国(現秋田・山形)から江戸へ上り、鍛刀技術を磨いた優れた刀工が現れ、これは藤原正秀、または水心子正秀(すいしんしまさひで)という人物でした。
この藤原正秀の鍛えた刀の特徴としては、地鉄がほとんど無地に見えることであり、これは製鉄技術の更なる進歩により綺麗な鉄が量産されるようになったためでもありました。その作風の後期には洋鉄精錬技術も取り入れられてさらに無地風の地鉄が作られるようになり、これらは総称して「新々刀」と区分されています。
正秀の弟子は全国各地へ散り、新々刀期の刀工のうち、正秀の影響を受けていないものは皆無と言って良いほどだそうで、著名な弟子たちは正秀と同様、さらに多くの門人を育てました。
また、幕末には、姿は各国でまちまちですが、総じて身幅が広くて切先を伸ばし、反りの大きい古作の写しものともいわれるようなものも造られました。
実用刀剣の復古、即ち鎌倉時代・南北朝時代の刀剣への復古を唱えた刀工も多くなり、こうした復古運動は、後の勤王思想が盛んになりつつある社会情勢と響きあい、こうした復古主義者たちが各地の鍛冶と交流することが、勤皇思想が全国に広がるきっかけともなりました。
やがて幕末の動乱はピークを迎え、水戸勤皇派による天狗党の乱が起き、大老井伊直弼が暗殺された桜田門外の変が勃発し、諸国でも佐幕派と倒幕派が入り乱れて闘争が行われるようになると、時代環境に合わせてこれまであまり作られることのなかった短刀の需要が増え、また長大な刀を好む武士も増えました。
こうして、日本刀の作刀が再び繁栄を始めたかと思われたところで、時代は一気に明治維新へと突入していきました。新たな刀の需要は殆どなくなり、当時活躍した多くの刀鍛冶は職を失い、また、多くの名刀が海外に流出しました。
このため、明治政府は「帝室技芸員」の職を設け、伝統的な作刀技術の保存に努めるとともに、明治6年(1873年)には、オーストリアのウィーンで開かれた万国博覧会に日本刀を出品することなどで、国際社会に日本人の技術と精神を示そうとします。
しかしこの年には、同時に「仇討ち禁止令」が出され、明治9年(1876年)には廃刀令が発布されるともに、大礼服着用者・軍人・警察官以外は帯刀を禁止されたことにより、日本刀の作刀は急速に衰退してしまいました。
一方、新生大日本帝国の国軍として創建された日本軍(陸軍・海軍)は1875年(明治8年)の太政官布告において将校准士官の軍装品として「軍刀」を採用し、またこの軍刀とは別に、正装時に用いる「正剣」を採用しました。
「正剣」のほうはのちに廃止されましたが、軍刀のほうは以後、第二次世界大戦に至るまでの将校准士官の標準装具となりました。しかし、明治初期のその様式は日本刀ではなく、「サーベル」であり、拵え・刀身ともに洋式のものでした。
ところが、その後勃発した西南戦争において、警視隊の中から選抜して臨時に編成された白兵戦部隊である「抜刀隊」が活躍したことなどから、次第に外見はサーベル様式ながらも、中身には日本刀を仕込むことが普通となりました。
さらには日露戦争における白兵戦で、近代戦の武器としての刀剣類の有効性が再評価され、こうした軍刀需要の中で日本刀は復権をとげます。
さらに昭和時代には国粋主義的気運が高まったことと、満州事変や第一次上海事変において日本刀が国威の象徴として使われるといったことなどもあり、陸海軍ともにサーベル様式に代わって、鎌倉時代の太刀拵えをモチーフとした、「将校軍刀拵え」が登場しました。これはより江戸時代以前の昔の日本刀の拵えに近いものです。
また、同時期には下士官兵用の官給軍刀でも太刀拵え・日本刀々身が採用され、これは「九五式軍刀」と称されました。しかしこの官給刀はあまり人気がなく、それぞれの家に伝わる個人所有の日本刀のほうが使われることが多かったため、軍刀として出陣した古今の数多くの日本刀の名品が戦地で失われることにもなりました。
大正時代以降では、日本軍における下士官兵(騎兵・輜重兵・憲兵など帯刀本分者)は軍刀を所持するように義務付けられるようになりましたが、こうした軍刀そのものは1875年の太政官布告以降、一貫して「服装」の扱いであり、「兵器」ではなくあくまで軍服などと同じ「軍装品」ともいえるものでした。
しかも、軍刀を含む将校准士官が使用する大半の軍装品は自弁調達が原則であり、たとえ官製のものを購入していても「私物」という規定でした。
こうして多くの古来からの日本刀が戦場に持ち込まれ、戦闘が勃発するたびに失われていきました。が、その喪失の理由は戦闘によるもののみではなく、従来の日本刀は中国や朝鮮といった北方の極寒の中では簡単に折れやすいという性質を持っていたためでした。
このためこうした実用品としての軍刀の強度が問題となり、官製のものに対してはとくに改良の要望があがり、とくに海軍では海上で使うことも多いことから、錆の問題に対しての対処の声が高まっていました。
これに対して、陸海軍の造兵廠(工廠)は帝国大学など各機関の研究者の助力も得ながら、拵えだけでなく刀身においても実戦装備としてさらに優秀な日本刀の可能性を求めるようになり、とくに昭和に入っての満州事変以後はその改良が加速しました。
こうして、官給軍刀の刀身をベースにした陸軍造兵廠の「造兵刀」や、満州産出の鋼を用いた南満州鉄道の「興亜一心刀(満鉄刀)」、北支・北満や北方方面の厳寒に対応した「振武刀」、海軍が主に使用した塩害に強いステンレス鋼使用の「不錆刀」などなど、各種の刀身が研究開発されました。
日本刀の材料・製法を一部変更したものから、日本刀の形態を模した工業刀に至るまで様々な刀身が試作・量産され、「昭和刀」「昭和新刀」「新村田刀」「新日本刀」などと呼称されたものが製作されました。
これら特殊軍刀々身は、近代科学技術の力をもって開発されたものであるため、物によっては従来の日本刀よりも武器としての資質においてはるかに勝るものも数多くあったといいます。
そしてこれらの日本刀は、従来の日本刀に比べて手入れが少なく切れ味が持続するという圧倒的に優れた性能を持ち、安価で惜しげなく使える刀身として重宝されました。
あいかわらず軍刀は私物という規定は変わっていませんでしたが、下士官兵には事実上官給の軍刀の刀身が支給されて実戦投入されるようになり、第二次大戦終戦まで大量に使用されました。
ただし、これらの各特殊軍刀々身は、実用性に於いては究められたものの、刃紋を有しないなど見た目の美的要素は二の次な物が多く、今日では製造方法の上からも、狭義の意味での日本刀の範疇には含まれないことにはなっています。
従ってこれらの工業刀や満鉄刀は日本刀、鑑賞用の美術品としては「所有」登録することもできず、登録が取れなかった場合は銃刀法にも違反するということで切断するしかない、といったケースも多々あるそうです。
しかし、近年では刀剣界では今まで見向きもされなかったこれらの軍刀にも人気が出てきており、同時に研究家や収集家の中では再評価の声が高くなってきています。
昨今の軍刀人気は中国にも飛火し、軍刀を所有することが一種のステータスとなっているそうで、中国人ブローカーが日本国内の軍刀を買い漁るという現象まで起きているそうで、日本の刀剣愛好家の間では、これら中国人バイヤーから軍刀海外流出を防ぐことが今後の課題になっているといいます。
また、このように戦中には大量生産された工業刀を含む日本刀は、太平洋戦争終結後、日本刀を武器であると見なした連合国軍司令部(GHQ)により「刀狩」が行われた結果、数多くの刀が遺棄・散逸の憂き目にあいました。
「刀があるとGHQが金属探知機で探しに来る」との流言まで飛び交ったそうで、土中に隠匿して、その結果刀を朽ちさせて駄目にしてしまったり、回収基準の長さ以下になるように折って小刀としたり、日常生活に使えるよう鍛冶屋に持ち込み鉈や鎌、その他日常用の刃物に改造したりと日本刀の価値をおとしめた例は枚挙にいとまがないそうです。
GHQに没収された刀の多くは赤羽にあった米軍の倉庫に保管され、占領の解除と共に日本政府に返還されましたが、元の所有者が殆ど不明のため、所有権は政府に移り、刀剣愛好家の間でこれらの刀剣は「赤羽刀」と呼ばれています。
一時は日本刀そのものの存続が危ぶまれましたが、日本側の必死の努力により、GHQ支配下でも登録制による所有が可能となりました。この制度は現在までも引き継がれていますが、日本刀自体に登録を義務付ける制度であり、登録がなされていない刀は、警察に届け出た後審査を受ける必要があります。
また、その「所持(携帯、持ち歩き)」に関しては銃刀法による制限を受けます。ただ、自宅に保管し眺めて楽しむだけの「所有」については許可などは必要なく、誰でも保有が可能です。ただし、購入などの際には、登録証記載の各都道府県教育委員会への名義変更届が必要だそうです。
今日、新しく日本刀を作る場合の規定ですが、憲法に武器放棄までうたっている今日では日本刀は「武器ではなく」、居合道・抜刀道といった武道用の道具、絵画や陶器と同格の「美術品」であり、その目的でのみ製作・所有が認められています。
ただし、現代刀に関しては、刀匠1人当たり年に生産してよい本数の割り当てを決めているそうで、これにより粗製濫造による作品の質の低下を防いでいるといいます。
しかしその一方で、作刀需要が少ないため、一部の刀匠を除き多くの刀匠は本業(刀鍛冶)だけでは生活が難しく、かと言って上述の本数制限もあり無銘刀は作刀できず、武道家向けに数を多く安く作って、その分の利ザヤを稼ぐといったこともできません。
このため、他の伝統工芸の職人と同じくその存続の危機の問題を抱えており、こうした状況下でも現代の刀匠たちは、美術品としての日本刀の作刀技術を極め、古来から伝わるもの以上の逸品を創作しようと努力しているのです。
現在でもそこまでして造られる日本刀は、世界の刀剣の中でも美術品としての価値が高く、前述のように、国内の古いものでは国宝、重要文化財、重要美術品に指定されたものもあります。が、新しいものの評価はむしろ海外で高いようです。
日本刀の鑑賞の歴史は千年以上の歴史があり、その評価基準もまた外国人に理解できる形で伝えられるようになっているためであり、新しいものももちろん、千年以上の時を経ても健全な形で残っている名刀などは、これをひと目みようとそれだけで日本にやってくる愛好家も多いということです。
ちなみに、「折れず、曲がらず、よく切れる」といった3つの相反する性質を同時に達成したこの優れた武器としての性能もまた、外国人を魅了するようです。
「折れず、曲がらず」というのは材料工学においては強度と靭性の両立であり、両者の均衡を保つためには極めて高度な技術が必要です。また「よく切れる」と「折れず」の両立も極めて難しいといわれ、とりわけこの日本刀の「切れ味」については、様々なところで語られます。
その昔、放映されていた「トリビアの泉」では、2004年(平成16年)の夏頃、日本刀に向けて拳銃から垂直に弾丸を撃ち込むという乱暴な実験を行ったそうですが、このとき弾丸は両断され、全く刃こぼれしなかったといいます。
また、日本刀に垂直に、水圧の刃ともいわれる「ウォータージェット」を吹き付けたときも、キズ一つ無く通過したといい、同じ条件下では通常の包丁は両断されたといいます。
さらには、日本刀に向けて、重機関銃を使用して一般的な自動小銃弾の10倍以上の質量を持つ対機械車両用の大口径弾を撃ち込んだところ、6発まではこの銃弾を切断したそうです。
ただ、弾丸が当たるにつれ刃こぼれが深くなり、7発目で耐え切れずに折れたそうですが、このとき、安全のため後ろに置かれていたコンクリートの壁はほとんど完全に粉砕されていたといいます。
このように、金属の結晶の理論や相変化の理論が解明されていない時代において、刀工たちが連綿と工夫を重ねた結果が、科学的にも優れた刃物の到達点ともいえる日本刀を生み出したのであり、その工学的な性質については、現在も世界中の科学者によって関心がもたれているといいます。
いわんや、その美しさの秘密にもまた科学のメスが入ろうとしているといわれおり、理論や言語にならない、見た目の変化、手触り、においなどといった、この美しい武器の「ブラックボックス」をいかに解明するかが今後の課題ともいわれます。
すべてが、欧米社会から導入された技術で出来上がってしまったような現在の日本において、こうした武器を超えた美術的かつ工学的な価値を持つ古来からの宝物を今一度見直してみる時期かもしれません。
さて、かなり長くなりました。今日の項はこれで終わりにしたいと思います。