疏水

先日、世界文化遺産の2015年登録に向けた今年の政府推薦候補が、「日本の近代化産業遺産群−−九州・山口及び関連地域(産業遺産群)」に決まったとの報道がありました。

これは、内閣官房が中心となって検討していたものであり、実は、これとは別に文化庁が推していた「長崎の教会群とキリスト教関連遺産(教会群)」という案もあり、2件がせめぎ合った結果、「産業遺産群」のほうが採用されるという結果になりました。

いずれも長崎県が保有する遺産群が含まれており、例えば「産業遺産群」のほうには軍艦島や長崎造船所が、また「教会群」のほうはほとんどが長崎県の案件ですが、熊本の天草の教会集落が1件含まれています。

このため、長崎県の関係者は、当初からどちらを推薦する側に付くか悩んだようですが、結果的にはキリスト教関連遺産のほうを優先する姿勢を明確にしていたようです。

文化庁は今年の4月、世界文化遺産への登録を待つ10候補の準備状況などを評価した結果を文化審議会に報告し、その中でも教会群が最も「推薦可能」と判定しており、一方、これとは別に内閣官房も別途の観点から産業遺産群を選定し、こちらもこのほうがより推薦に向いていると政府に報告して、それぞれが争う形になっていました。

これまで、こうした世界遺産の推薦案件は、事実上、文化庁のみでその候補を決めていたのですが、昨年5月の閣議決定で、産業遺産群のように稼働中の工場や港湾などを含む場合、内閣官房が事務局を務める有識者会議で推薦できるようになりました。

しかしこの閣議決定では、今回のように文化庁や内閣官房などの異なる政府機関が違った候補を推薦した場合対立が避けられないため、こういう場合には関係閣僚会議で調整するという決まりも定められていました。

そして今回がその初の適用となり、閣議決定による調整が行われ、近代産業遺産群のほうに軍配が上がったというわけです。

長崎県が教会群の登録を強く推していたのは、2015年という年が、潜伏キリシタンが大浦天主堂で信仰を告白した「信徒発見」の年から数えてちょうど150周年という節目の年だったからだそうです。しかも、この教会群は、昨年2012年の登録に向けた政府推薦を巡って「富岡製糸場」(群馬県)に競り負けた経緯があります。

今回はこの2015年に向け、時間的余裕がない再挑戦だけに「今年の政府推薦は譲れない」と長崎県幹部はずいぶんと力を入れこんでいたそうなので、その落胆は尋常ではないでしょう。

しかし、前述のとおり、同県は長崎市の軍艦島(端島)などを含む産業遺産群の推薦書にも名を連ねており、今回もまた教会群が推薦から漏れたとはいえ、「負けてもなおおいしい」といったところはあるはずであり、今後新たな観光遺産が増えると、ひそかに喜んでいるに違いありません。

また、世界遺産への政府推薦はこれで終わりというわけではないはずなので、今後の頑張り具合によってはいずれ日の目を見る機会もあることでしょう。世界遺産になる案件が増えるというのは国民にとってもうれしいことには違いないので、これに懲りずに引き続き頑張っていってもらいたいものです。

政府は、このあと、14年2月までに国連教育科学文化機関(ユネスコ)にこの産業遺産群を推薦し、最終審査は2015年にユネスコで実施されるそうです。ただし、今回の政府推薦は、あくまで世界遺産の認定にさきだつユネスコの「暫定リスト」に掲載されるだけのことで、まだ世界遺産の認定は先のことです。

とはいえ、このリストに掲載されない限りは審査は行われない決まりになっているため、そこまでこぎつけたということは大きな前進になります。ちなみに、既に政府推薦が終り、リストに掲載されている「富岡製糸場と絹産業遺産群」のユネスコ本部による登録審査は、来年2014年の夏だそうです。

この「九州・山口の近代化産業遺産群」は、広範囲に点在する複数の物件をまとめて一つの遺産としており、これらは9つのエリア、全30資産により構成されています。

タイトルにあるとおり、主には九州と山口を主体として9つのテーマ別にストーリー構成されているのですが、このほかにも、佐賀県佐賀市の「三重津海軍所跡」や岩手県釜石市の「橋野高炉跡」などが追加されており、我が静岡県の伊豆の国市にある「韮山反射炉」もその対象です。

この韮山反射炉については、このブログにおける「伊豆の人物と歴史」→「人物」→「江川英龍(太郎左衛門)」の項でも多少詳しく述べているので、ご興味があればそちらものぞいてみてください。

ところで、この「九州・山口の近代化産業遺産群」は、経済産業省が認定している文化遺産の近代化産業遺産のごく一部に過ぎません。経産省は、2007年11月に33件の「近代化産業遺産群」と575件の個々の認定遺産を公表し、さらに2009年2月にもこの「続編」として「近代化産業遺産群・続33」を発表しており、新たに33件の近代化産業遺産群と540件の認定遺産が追加されています。

従って現時点においては、66のカテゴリー1115件もの膨大な産業遺産群が認定されていることになります。

これらの産業遺産には、幕末・明治維新から戦前にかけての工場跡や炭鉱跡等の建造物、画期的製造品、製造品の製造に用いられた機器や教育マニュアル等が含まれており、そのすべてが日本の産業近代化に貢献した産業遺産としての大きな価値を持っています。

また、中には従来その価値が理解されにくく、単なる一昔前の産業設備として破却されてしまう可能性があったものもあり、これらを保護し、まさに構成への「遺産」として保護することがこの産業遺産群への登録の目的のひとつでもあるようです。

「九州・山口の近代化産業遺産群」はこれらの中でもとりわけ貴重と内閣官房が考えたものを抽出し、これらをうまく組み合わせて世界遺産候補として練り上げたものということになります。が、しかしこのほかにも世界遺産クラスの貴重なものもまだまだ多数あります。

例えば「赤煉瓦建造物」にカテゴライズされている東京駅や、横浜赤レンガ倉庫・横浜税関・氷川丸といった一連の横浜における産業遺産群、黒部ダム・大井ダムなどの電源開発に関する遺産群、といった土木建築物があり、このほか個々には、トヨダ・AA型乗用車、零式艦上戦闘機・三式戦闘機(飛燕)、松下二股ソケットなんてのもあります。

こうしたものが世界遺産として認められるということは、すなわち日本がかつて歩んで来た産業化の道が世界に認められるほどに素晴らしかったと認めてもらうということにほかならず、日本人そのものの評価が世界で高まることでもあります。

それゆえに、これらをいかにまとめてユネスコへの推薦に値するような世界遺産にするか、できるかが、文化庁や内閣府で高給を食んでいる役人に求められている力量であるといえます。

が、今回はその結果として二つの官僚組織が争う形で一方が登録されたというのは、一般の我々からみるとまた縦割り行政の弊害か、と少々乱雑にみえてしまいます。

最初から調整し、一本化した上で政府推薦に至るというのが本来望ましい形であり、もしその調整がなされていたならば、「教会群」のほうも取り込んだ形でもっと広範囲の産業遺産群を世界遺産登録リストに送りこめたかもしれません。

当然その場合の推薦内容や推薦名も変わってくることになりますが、それをどういったものにするかを考えるのが役人の仕事です。2015年以降の推薦枠については、ぜひとも官僚組織の垣根を越えた共闘で望み、できるだけ多くの国民の遺産を世界登録していってほしいものです。

ところで、こうした近代化産業遺産といわれるものの中にほかにどんなものがあるのだろうと調べていたとき、東京駅や黒部ダムのようなかなり有名なものに並んで、これらにも匹敵するような優れた遺産であるにもかかわらず、あまり知られていないものをいくつか見つけました。

琵琶湖の湖水を京都市へ流すために作られた琵琶湖疏水(びわこそすい)もその一つであり、これは明治の中期に造られたものです。

なぜ水路といわずに「疏水」というかというと、疏水とはそもそも我が国の二千年にわたる歴史において営々と各地に築かれてきた農業用水路のことをさします。水源から水を引く、という意味もあり、舟運のために造られる運河とは区別するためにこの用語が作られたようです。

琵琶湖疏水は、1890年(明治23年)に完成した第1疏水と、これに並行して建設され、1912年(明治45年)に完成した第2疏水を総称したものです。

現在では両疏水を合わせ、毎秒24トンを琵琶湖で取水しており、その内訳は、水道用水約13トン(毎秒)、それ以外の11トンを水力発電、灌漑、工業用水などに使っています。

水力発電は第1疏水の通水の翌年に運転が開始され、これは営業用として日本初のものです。その電力は日本初の電車(京都電気鉄道、のち買収されて京都市電)を走らせるために利用され、さらに工業用動力としても使われて京都の近代化に貢献しました。

また、疏水を利用した水運も行なわれ、琵琶湖と京都、さらに京都と伏見・宇治川を結びました。しかし、疏水の途中には落差の大きい箇所が何ヶ所かあり、そのうちの最大の難所であった蹴上と伏見にはケーブルカーと同じ原理のインクラインが設置され、船は線路上の台車に載せて移動されました。

水運の消滅に伴いインクラインはいずれも廃止されましたが、蹴上では一部の設備が静態保存されており、これも遺構としては重要なものです。

このほか、山縣有朋の別邸で名庭師として知られた小川治兵衛が作庭したという「無鄰菴(京都市左京区)」にも疏水の水が引かれており、平安神宮神苑、瓢亭、菊水、何有荘、円山公園をはじめとする東山の庭園にも利用されるなど、疏水は現在の京都観光にも一役買っています。

なお、無鄰菴が水を引いているのは、京都市の左京区にある南禅寺境内にある琵琶湖疏水の一部である「水路閣」からであり、この煉瓦造りの美しい水道橋は、テレビドラマの撮影舞台として使われることも多く、京都の新名所としても定着しています。

しかし、建設当時は古都の景観を破壊するとして反対の声もあがったといい、その一方で、建設が決まると、南禅寺の三門にはこれをひと目見ようと見物人が殺到したといいます。

ちなみに、この南禅寺では、先日の台風18号による大雨の影響で、三門(重要文化財)や参道周辺に土砂や泥水があふれ、その撤去作業のため拝観を停止するなどの被害が出ていますが、水路閣とともにその構造自体に大きな被害はなかったようです。

さらに、疏水の水は京都御所や東本願寺の防火用水としても使われており、一部の区間は国の史跡に指定されていて、琵琶湖疏水全体は、日本に数ある疏水の中でも「疏水百選」の一つに選ばれています。

このように、飲料水や電力の供給といった今や京都市民にとってはなくてはならないライフラインを提供してくれている琵琶湖疏水ですが、その第一疏水の工事は、明治の初期の工事ということもあり、現在のような優れた建設機械もなく、その多くが手作業によったため、著しい難工事でした。

とくに比叡山の下をくりぬいて作られた、第一トンネルはその延長が2436メートルもあり、これをくり抜くには長い時間と労力がかかりました。

このため工期を短縮するため、トンネルの中央部に竪穴を開け、ここから垂直に穴を掘って水路位置まで達し、ここから両サイドに掘り進めるという工法がとられました。これによりトンネルの出入り口とここからの合計4カ所からの掘削が行われ、かなり工期が短縮できました。しかし、片やこの竪穴を掘るためだけに17人もの犠牲者を出しました。

しかし、難工事はこれだけでなく、トンネルのほか開水路も含めた総延長は、19307mにもおよび、この延長距離の中には、上述の第1トンネルを含めたトンネル3、船溜り6、橋梁28、暗渠10、閘門2、水越場(越流堰)5、放水場4という大規模なものでした。

そもそもなぜこうした大規模な疏水が作られるようになったかといえば、その背景には明治維新にともなう、東京遷都がありました。

東京遷都とは、明治維新のとき江戸が東京とされ、都として定められたことで、慶応4年7月14日(1868年9月3日)に江戸が東京と改称され、同時に都が京都から東京に移されたことをいいます。同年9月に元号が明治に改められ、同年10月に天皇が東京に入り、明治2年(1869年)から東京は正式に日本の国都になりました。

そもそも東京遷都の話は、慶応4年(1868年)大木喬任(軍務官判事)と江藤新平(東征大総督府監軍)が、京都と東京の両方を都とする「東西両都」の建白書を岩倉に提出したことに始まります。

これは、数千年もの間、王化の行き届かない東日本を治めるためには江戸を東京とし、ここを拠点にして人心を捉えることが重要であると主張したもので、江藤らはゆくゆくは東京と京都の東西両京を鉄道で結び、これにより安定した国政を実現できると考えたのでした。

その結果この案は採用され、天皇は、政情の激しい移り変わりにより遅れていた即位の礼を執り行うという理由で、明治元年9月に京都を出発して、その年の暮れまで東京に行幸しました。これがいわゆる「東幸」といわれるものです。

このときの行幸は、副総裁・岩倉具視を初めとし、議定・中山忠能、外国官知事・伊達宗城らをともない、警護の長州藩、土佐藩、備前藩、大洲藩の4藩の兵隊を含め、その総数は3300人にも及んだといいます。

こうして天皇の江戸城到着後、ここはその日のうちに東幸の皇居と定められ東京城と改称されましたが、このとき、東京の市民はこの東幸を盛大に祝ったといいます。

その後、天皇はひとまず京都に再び帰りましたが、この還幸にあたり、東京市民に不安を与えないよう再び東京に行幸することと、旧本丸跡に宮殿を造営することが発表されました。

天皇が京都に帰ったのは明治2年(1869年)3月のことでしたが、この翌年の3月に天皇はここで大嘗祭(おおにえのまつり、天皇が即位の礼の後、初めて行う大祭)を行うことが予定されており、その前に、天皇の再びの東幸が行われることが決まりました。

こうして、翌年の明治3年3月28日、天皇は再び東京城に入り、このとき、ここに滞在した東京城を「皇城」と称することが発表されました。

このとき「天皇は東京滞在中」という名目で「太政官」も東京に移され、京都には留守官が設置されました。太政官(だいじょうかん)とは、内閣制度が発足する前の司法・行政・立法を司る最高国家機関を指し、これを移すということは、たとえ一時期であったとしても都が東京に移ったことを示します。

同年10月には皇后も東京に移り、こうしてこれ以降、天皇は東京を拠点に活動することになりました。

このころ天皇・皇后の東京への行幸啓のたびに、公卿・諸藩主・京都の政府役人・京都市民などから行幸啓の中止・反対の声があがりました。

このため政府は「これからも四方へ天皇陛下の行幸があるだろうが、京都は千有余年の帝城で大切に思っておられるから心配はいらない」とする諭告(告諭大意)を京都府から出させ、人心の動揺を鎮めることに努めたといいます。

ところが、その後京都では、東北の平定が未だに行き届かないこと、諸国の凶作、国費の欠乏など諸々の理由で京都への還幸を延期することが京都市民に発表されました。

やがて京都御所を後に残して、明治4年(1871年)までに刑部省・大蔵省・兵部省などの京都留守・出張所が次々に廃され、中央行政機関が消えていきました。また留守官も京都府から宮中に移され、京都の宮内省に合併、完全に廃され、こうして東京への首都機能の移転は完了しました。

こうしてこの年、とうとう大嘗祭は東京で行うことが発表され、京都で実施されるはずであったこの大祭も東京で行なわれました。

こうして、東京に天皇と都という地位を奪われた京都は、その後活気を失い、多くの産業もまた東京へ転出していったため産業の地盤沈下を起こしました。また皇居出入りの多くの伝統産業もまた大きな打撃を受け、一時はその人口も四分の三ほどにまで低下しました。

ちょうどこのころ第3代京都府知事となった北垣国道は、明治維新による東京遷都のため沈みきった京都になんとか活力を呼び戻そうと考え、そこで考えだされたのが琵琶湖疏水の建設でした。

北垣知事は灌漑、上水道を目的とした琵琶湖疏水を計画し、また水車などの導入による水力で新しい工場を興し、さらには舟で物資の行き来を盛んにしようと考えました。

実は京都には、こうしたことを実現するために江戸時代から琵琶湖から水を引く試みは何度かあり、その実現は昔からの夢でした。しかし、なにぶん古い時代のことであり、十分な土木技術も計画もなく、実現したものはありませんでした。

しかし、明治になり、欧米の優れた科学技術が導入されると同時に、これらを教える場が数多くでき、そのひとつに、工部省が管轄した教育機関で工部大学校というものがありました。

この学校は、現在の東京大学工学部の前身のひとつであり、予科、専門科、実地科(いずれも2年)の3期6年制を採用し、土木、機械、造家(建築)、電信、化学、冶金、鉱山、造船の各科を持っていました。

同時代の理工系高等教育機関には、これとは別に東京大学工芸学部があり、こちらは学術理論に重きが置かれていました。一方、この工部大学校では実地教育が重点視され、そのため工部大は実務応用に秀で、東大と争うように各分野や業界における実践的な先覚者を多数輩出しました。

その一人が「田邉朔郎」であり、1861年(万延元年)、高島秋帆門下の洋式砲術家である田辺孫次郎の長男として江戸に生まれ、1883年に21歳で工部大学校を卒業しました。卒業論文は、「隧道建築編」であったそうで、これからもわかるようにその専門はトンネル掘削でした。

しかもこの卒業論文にはもうひとつ、「琵琶湖疏水工事編」というものもあり、これを見た北垣国道京都府知事が、わずか21歳にすぎなかった彼を抜擢したといわれており、こうして田邉は請われて京都府御用掛となり、琵琶湖疏水工事に主任技術者として従事することになったのです。

こうして、田邉の監督指導のもと、第1疏水は1885年(明治18年)に着工し、1890年(明治23年)に大津市三保ヶ崎から鴨川合流点までと、蹴上から分岐する疏水分線とが完成しました。

第1疏水(大津-鴨川合流点間)と疏水分線の建設には総額125万円の費用を要し、その財源には産業基立金、京都府、国費、市債や寄付金などのほか、市民に対しての目的税も充てられました。

この琵琶湖疏水の工事は、安積疏水など先行する近代水路がオランダ人などのお雇い外国人の指導に依ったのに対し、設計から施工まですべて日本人のみで完成されたのが特徴的であり、まさに日本が世界に誇ることのできる産業遺産といっても良いでしょう。

日本で初めての技術も多数取り入れられており、それらは近代化遺産としても非常に価値が高く、例えば前述した完成当時日本最長の第1トンネルに用いられた、竪坑(シャフト)工法もまた鉱山以外のトンネルとしては日本初のものでした。

これによって切羽の数を増やし工期短縮と完成後の通風も兼ねることができましたが、第1竪坑の工事は乏しい光源の下で、竪坑の大きさ故に2~3人しか人が入れなかったといい、しかも小規模ながらダイナマイトも使用されたものの、ほとんどの工事は手掘りのみで進められました。

しかし、想定以上の岩盤の硬さと、たびたびの出水にも悩まされ、この湧水をも人力で汲み上げねばならず、ほとんどの工事を人力に頼らざるを得ませんでした。このため、こうした過酷な重労働と出水事故などにより、犠牲者が続出しました。のみならず、ポンプ主任の自殺などもあったそうで、結局、殉職者の合計は17人もおよびました。

しかし、この数字の中には病死者や、下請けの人足の数は含まれておらず、おそらくは20人以上の人がこの工事で命を失ったと考えられています。しかし、これらの尊い犠牲の甲斐もあり竪坑はようやく完成しました。しかし、その深さはわずか47mに過ぎなかったのに対し、費やされた日数は196日という膨大なものでした。

工事主任であった田邉朔郎は、自分が計画した実行に移されたこの工事で、多数の命が失われたことを生涯気に病んでいたそうで、現在も残る琵琶湖疏水の蹴上の舟溜場横の公園には、田邉自身の私費で建てられた殉職者への慰霊碑が立てられています。

琵琶湖疏水では、水力発電は当初は計画されなかったそうです。しかし工事が完了する2年前の1888年、田邉は渡米して水力発電所などを視察しています。その結果、この視察結果に基づくアイデアを取り入れ、日本初の営業用水力発電所となる蹴上発電所を建設することが決定されました。

こうして疏水完成翌年の1891年(明治24年)には蹴上発電所が完成し、11月からは京都市内に送電が開始されました。この電力を用いて、1895年(明治28年)には京都・伏見間で日本初となる電気鉄道である京都電気鉄道(京電)の運転が始まり、以来、1942年(昭和17年)まで市営の発電所として機能し続けました。

これらの施設は戦後、関西電力に譲渡され、現在も同電力所有の無人発電所となって発電をつづけており、京都の街並みを明るく照らし続けています。

一方、舟運についても、開通から十数年は客貨とも大いに利用されました。貨物では、大津からの下りは米・砂利・薪炭・木材・煉瓦など、伏見からの上りは薪炭などでしたが、鉄道などの競合陸運の発展により衰退し、伏見行き下りは1935年にゼロとなり、大津行き上り貨物は1936年以降なくなりました。

その当時は旅客便もあったそうで、1891年(明治24年)に大津-蹴上の下りが1時間22分30秒で4銭、上りが2時間20分で5銭でした。1銭は現在の貨幣価値で100円ほどですから、だいたい4~500円といったところです。

これと並行する鉄道の京都~馬場間の運賃が、上等50銭、中等30銭、下等15銭だったといいますから、これよりはるかに安く、このためこの争いには馬車も参戦し、8銭を6銭に値下げして船便と競争したという話も残っています。

1911年(明治44年)には、渡航数もおよそ13万人を数えたそうですが、翌年の京津電気軌道(現京阪京津線)の開業でおよそ4万7千人に減少しました。

さらに1915年(大正4年)の京阪本線五条~三条の延長により電車で大津~京都市内~伏見が直結されると3万人台になり、このころには唯一の渡航船会社であった、「京近曳船」もついに廃業しました。

戦後1951年(昭和26年)に新会社が設立され屋形船が姿を現しましたが、同年冬の第1疏水取入口改造工事のため運航を停止。さらに1959年(昭和34年)に伏見インクラインが、また翌年には蹴上インクラインから電気設備が撤去され、水運の機能は実質的に失われました。

以後は生洲船や屋形船をつかった料亭が見られましたが、現在は観光目的の船が時折水面に浮かぶのみとなっています。

上水道としての利用のほうですが、現在、琵琶湖疏水を通して、上水利用に年間2億トンの琵琶湖の湖水が滋賀県側から京都に流れています。このため、京都市から「疏水感謝金」として年間およそ2億2千万円が滋賀県へ支払われているそうですが、これは大正時代までは「発電用水利使用料」として徴収されていたそうです。

しかし、国から「収入の少ない地方公共団体から使用料を徴収しないように」との通達が滋賀県にあり、このため、使用料が寄付金となったものです。この「疏水感謝金」という名前になったのは1947年からのことからであり、この年その名目での契約が滋賀県と京都市の間で結ばれました。

ただ、これは法的な根拠のない、あくまでも感謝金であり、滋賀県も「山の植林・間伐・林道整備など、水源地となる山の保護事業に使っている」としています。感謝金額の査定は10年ごとに物価変動を考慮して滋賀県と京都市が相談して決定されているそうで、現行契約は消費税が8パーセントに上る予定の2014年までとなっているとのことです。

こうした一見善意のやりとりとも見えるような金の流れにも「消費税」なるものが関わってくること自体が不思議でしょうがないのですが、このあたりのことにも本音と建て前をうまく使い分ける関西人の特質がよく出ていて、面白いなと思います。

さて、今日は伊豆から遥かに遠い滋賀・京都の産業以降の話になってしまいました。

振り返ってみると、ここ静岡でも冒頭で書いた韮山反射炉(江川代官所による事業の関連遺産)を初めとして、戸田村のヘダ号設計図 ディアナ号模型(幕末の戸田村における事業の関連遺産)、清水灯台などが産業遺産として認定されています。

そうしたことについてももう少し書こうかと思ったのですが、今日もやはり度が過ぎているようなので、またの機会にしたいと思います。

今日から三連休という方も多いと思います。今、韮山の反射炉周辺は曼珠沙華で一杯のはずです。ぜひ見に来てください。