もうすぐ11月……


10月も終わりに近づきました。明日の10月31日は、ハロウィンです。

ハロウィンは、ハロウィーンとも発音され、英語表記でも“Halloween”,“ Hallowe’en”のふたつあり、欧米諸国でも統一されていないみたいです。

もともとは、古代ケルト人がやっていたお祭りが起源だと考えられています。

ケルト人というのは、紀元前1200年以上の大昔に、中央アジアの草原から馬や、車輪付き戦車、馬車などを持ってヨーロッパに渡来した「ケルト語」を話していたという民族です。

青銅器時代に中部ヨーロッパに広がり、その後期の紀元前1200年~紀元前500年ごろから、鉄器時代初期にかけて、ここに「ハルシュタット文化」という文化を築きました。

しかし、この当時、ヨーロッパの文明の中心地はギリシャやエトルリアであり、このためケルト人たちは彼等からの大きな影響を受け、その結果このハルシュタット文化は紀元前500年~紀元前200年に隆盛を迎える「ラ・テーヌ文化」に発展していきます。

やがて紀元前1世紀頃に入ると、このころ既にヨーロッパ各地に広がっていたケルト人たちは、各地で他民族の支配下に入るようになります。とくに現在のドイツ人の祖先、ゲルマン人の圧迫を受けたケルト人は、西のフランスやスペインに移動し、紀元前1世紀にはローマのガイウス・ユリウス・カエサルらによって征服されます。

その後、500年にわたってローマ帝国の支配を受けたヨーロッパ西部ののケルト人たちは、被支配層として俗ラテン語を話すようになり、ローマ文化に従い、中世にはゲルマン系のフランク人に吸収され、これがやがてフランス人に変質していきました。

ケルト人は、無論、現在のイギリスであるブリテン諸島にも渡来しました。ローマ帝国に征服される以前のブリテン島には戦車に乗り、鉄製武器を持つケルト部族社会が幅を利かせていました。

しかし、西暦1世紀ころ、イングランドとウェールズもまたローマの支配を受けるようになります。しかし、このローマ人たちはその後イングランドに侵入したアングロ・サクソン人に駆逐され、アングロサクソンの支配の下でイギリスにおけるローマ文明は忘れ去られていきました。

ただ、同じブリテン島でも西部のウェールズはアングロサクソンの征服が及ばず、それ以前に隆盛を誇っていたケルト人の文化が残り、このため古代のケルト語が残存しました。

このほか、ブリテン島北部のスコットランドやアイルランドは、まったくといっていいほどローマの支配すら受けなかった地域であり、このため、現在でもケルト人の色濃い地域です。

こうして、現代に継承された「ケルト人」の国というのは、これを残存するケルト語派の言語が話される国と定義するのであれば、アイルランド、スコットランド、マン島、ウェールズ、及びブルターニュの人々ということになります。イギリスを中心としたヨーロッパ北西部の地域に住まう人たちです。

ただ、これら5ヶ国の人々の中で、いまだにケルト系言語を使って日常的生活を送る人の数は30%程度を超えないそうです。またアイルランド以外のケルト人の国は、より大きい異民族の国家に併合された上、本来の母語を話す人が次第に減少していっています。

しかし、ハロウィンのような風習だけは、廃れないまま現在も受け継がれています。

この古代ケルト人が発祥といわれるハロウィンというお祭りですが、もともとはケルト人の1年の終りが10月31日であり、この夜は死者の霊が家族を訪ねてくると信じられていたことに由来します。

ケルト人たちはこの時期に、死者以外にも、地獄から有害な精霊や魔女が出てくると信じており、これらから身を守るために仮面を被り、魔除けの焚き火を焚いていました。

古代ケルトのケルト人社会にはドルイドと呼ばれる祭司がいました。ドルイドの社会的役割は単に宗教的指導者にとどまらず、政治的な指導をしたり、公私を問わず争い事を調停したりと、ケルト社会におけるさまざまな局面で重要な役割を果たしていたとされています。

そのドルイドがもともと持っていた風習がハロウィンに変わっていきました。ドルイドたちの信仰では、新年の始まりは冬の季節の始まりである11月1日のサウィン(Samhain)祭でした。そして、普通は月の始まりがスタートと考えるところですが、彼等はその前日の日没こそが新しい年の始まりだと考えていました。

したがって、この祭りは「収穫祭」として毎年10月31日の夜に始まりました。ヨーロッパの中でもとくにアイルランドと英国に住んでいたケルト人のドルイド祭司たちは、この日の夜に火をつけ、作物と動物の犠牲を捧げるとともに火のまわりで踊りました。こうした儀式を行うことで、太陽の季節が過ぎ去り、やがてやってくる暗闇の季節の中でやってくる悪霊たちに備えようとしたのです。

というのも、1年のこの時期には、この世と霊界との間に目に見えない「門」が開き、この両方の世界の間で自由に行き来が可能となると信じられていたからです。

この祭典では悪霊を退散させるためには、とくにかがり火が大きな役割を演じました。更にこの祭典で村民たちは、屠殺した牛の骨を炎の上に投げ込みました。かがり火が燃え上がると、村人たちは他のすべての火を消して厳粛にその夜を過ごしました。

さらに11月1日の朝が来ると、ドルイド祭司は、各家庭にこの火から燃えさしを与えました。人々はそれぞれこのかがり火から炎を持ち帰り、自宅の炉床に火をつけ、かまどの火を新しくつけて家を暖め、これによって彼等が「シー(Sith)」と呼んだ妖精などの悪霊が入らないようにしたのです。

ケルト人たちの間でこうした祭典がある一方で、紀元1世紀ころにブリテン島にローマ人が侵入してきたとき、彼らは女神ポモナを讃える祭りという風習をケルト人たちにもたらしました。

偶然ですが、この祭りもまた11月1日頃に行われていたため、このあとこのポモナ祭りもまたハロウィンの行事のひとつとして定着していきました。ポモナとは果実・果樹・果樹園の女神で、そのシンボルはリンゴです。現在もハロウィンではダック・アップルと呼ばれるリンゴ喰い競争が行われるのはこれが由縁です。

またハロウィンのシンボルカラーである黒とオレンジのうち、オレンジはポモナに由来するとの説があり、また黒のほうは、古代ローマの死者の祭りであるパレンタリア(Parentalia)におけるシンボルカラーが黒であったからだともいわれています。

ところが、イングランド南部でせっかく定着しかけたこのハロウィンの習慣は、17世紀以降、同じ時期に祝われるようになったガイ・フォークス・デイに置き換わり、廃れていきました。ガイ・フォークスについては以前このブログでも少し書きましたが、国王ジェームズ1世らを爆殺する陰謀を企てた人物で、実行直前に露見して失敗に終わり、捕えられて処刑されました。

これにちなんだ祭事が毎年11月5日にイギリス各地で開催されるようになり、これと同時期に行われていたハロウィンのほうがあまり流行らなくなったのです。しかしながら、スコットランドおよびイングランド北部においては広く普及したままでした。

こうした一方、ヨーロッパからアメリカへ移住する移民が増えると、ハロウィンはむしろアメリカのほうでよく祝われるようになりました。

ハロウィンがアメリカの年鑑に祝祭日として記録されたのは19世紀初頭以降のことです。これ以前では、このころのアメリカの中心地であったニューイングランドでは改革派のピューリタンが幅を利かせており、彼等はハロウィンに強く反対していました。

しかし、19世紀になりアイルランドおよびスコットランドからの大量の移民がやってくるようになり、やがてアメリカ中でハロウィンが定着していきました。

ハロウィンは、アメリカでは19世紀半ばまで特定の移民コミュニティ内部のイベントとして行われていたようですが、徐々に主流社会に受け容れられ、20世紀初頭には、社会的、人種的、宗教的背景に関係なく、あらゆる人々に普及していきました。

やがて東海岸から西海岸へと浸透していき、やがてはこのアメリカが世界の大国となっていく中で、その風習は全世界へと広められていったのです。

しかし、その二次的な発祥地と目されるアメリカでは、現代では民間行事として定着しているだけであり、本来もっていた宗教的な意味合いはほとんどなくなっています。

ただ、古代ケルトのサウィン祭はアイルランドのキリスト教会に影響を与えていたため、アメリカに移住したアイルランド人たちが信奉していたカトリック教会も、彼等の民族の根幹にかかわるこのお祭りを民衆から取り去ることはできませんでした。

このため、カトリック教会にもともとあった「諸聖人の祝日」である11月1日の前夜祭をハロウィーンとして民衆のために残すことにしたのです。

諸聖人の日は、もともと東方教会に由来するもので、カトリック教会では609年に導入され、当初は5月13日に祝われていたものですが、8世紀頃から英国やアイルランドでは11月1日にすべての聖人を記念するようになったものです。

ハロウィンという名称も、もともとはキリスト教でいうところの「諸聖人の日前夜」です。これはこれ以後に用いられるようになったと考えられていますが、ハロウィンという用語が現在のように巷に定着するようになったのは、ずっとあとの16世紀ころと考えられています。

しかし、現代のキリスト教会では、ハロウィンの習俗がキリスト教的ではないとの認識ではおおむね一致しています。

たとえばカトリック教会では「諸聖人の日」が祭日とされていますが、10月31日のハロウィンは祭日ではなく典礼暦(教会暦)にも入っておらず、教会の宗教行事・公式行事として行われることはありません。

ただ、宗教には関係ないと割り切って、参加してもよい、あるいはキリスト教の行事ではないことを明確にし、娯楽として楽しむのならよいとしています。

カトリック信者の中にはキリスト教の伝統の中でなおも保持された風習に、キリスト教的意義を見出すことが大事と考えている人も多く、起源・歴史を知り、真実を伝えていくことが大切と考えている人もいるようです。

一方のプロテスタントもまた同様ですが、完全否定まではしないもののあまり積極的にハロウィンを祝おうという機運はなく、どちらかといえば否定派が多いようです。いくつかの福音派は完全にハロウィンを否定しています。

プロテスタントでハロウィンに否定的な人たちは、キリスト教信仰とは無縁、むしろ対立する恐ろしい悪魔崇拝であると考え、死神と邪悪な霊をたたえ、傷害事件まで誘発しているとまで考えているようです。

とはいえ、民間の風習としてのハロウィンは、現代では主にアイルランド、イギリス、アメリカ、カナダ、ニュージーランドでさかんに行われており、オーストラリアの一部でも広まっています。

これらの国ではハロウィンが盛大に祝われますが、アイルランド以外はプロテスタント信者が多いせいもあって、その翌日にあたるキリスト教の記念日である諸聖人の日には、通常これといった行事は催されないのが普通です。

こうしたプロテスタント諸国では宗教改革によってカトリック教会の祝日である諸聖人の日が徐々に廃れたためであり、ハロウィンのみが残された格好になっています。アメリカの一部キリスト教系学校では、ハロウィンがキリスト教由来の行事ではないことから、「ハロウィンを行わないように」という通達が出されることさえあるそうです。

しかし、こうした宗教の違いによる肯定・否定はともかく、ハロウィンはクリスマスと同じく、季節の風物詩を示す民間行事として欧米の人達の間ではなくてはならないもののようです。

主として肯定派たちが行事として行う、トリック・オア・トリート (Trick or Treat)の習慣もまた、楽しいものです。

この習慣は、ヨーロッパでその昔、クリスマスの時期に行われていた、soulingと呼ばれる「酒宴」の習慣から発展したといわれています。

カトリック教会では、先述の11月1日の聖者の日の翌日の2日は「死者の日」とされており、古くは「万霊節」と呼ばれていました。

この日に、信者たちは「魂のケーキ(soul cake)」を乞いながら、村から村へと歩いていたといい、物乞いをして施しを受けるときには、その代償として亡くなった家族や親類の霊魂の天国への道を助けるためのお祈りをしました。

これは、さきの古代ケルト人が、サウィン祭のとき徘徊する幽霊に食べ物とワインを残す風習を持っていたことに由来します。が、やがてこの魂のケーキの分配はケルトの人々の酒宴に変化していきました。

しかし、酒宴に変わったとはいえ、その基本的な考え方は慈悲を持って霊を救うというキリストの教えと合致したため、カトリックに代表されるキリスト教会はこれを奨励するようになっていきます。

とはいえ、教会で酒宴を行うわかにもいかず、このため本来の習慣に立ち戻って食べ物とワインを捧げることになり、やがてはこれを信者に求めるために、村々を回るようになりました、

しかし、時代が下がるにつれてこの食べ物はより現実的な菓子のようなものになり、さらに年月を経ていくうちにワインも姿を消し、やがてはケーキだけとなり、このケーキも現在のように飴や駄菓子などへと変わっていき、物乞いをする相手もご近所さんへと変わっていったわけです。

現在では、魔女やお化けに仮装した子供達が近くの家を1軒ずつ訪ねては、「トリック・オア・トリート(Trick or treat. ご馳走をくれないと悪戯するよ)」と唱えて回ります。

また、ハロウィンの催しとしては、冒頭の写真にもあるようなジャックランタンづくりが定着しています。

これは、この11月2日の死者の日に因み、その前々日の31日のハロウィイの夜から、カボチャをくりぬいた中に蝋燭を立てて「ジャックランタン(Jack-o’-lantern)」を作るというものです。

このほか、カボチャの菓子を作り、子供たちは貰ったお菓子を持ち寄り、ハロウィン・パーティーを開いたりもします。お菓子がもらえなかった場合は報復の悪戯をしてもよいということになっています。

このカボチャですが、ハロウィンにはオレンジ色のカボチャをくりぬき、刻み目を入れ、内側からろうそくで照らしたものを造ります。最もハロウィンらしいシンボルといえます。

カボチャを刻んで怖い顔や滑稽な顔を作り、悪い霊を怖がらせて追い払うためであり、ハロウィンの晩、家の戸口の上り段に置かれます。

正式には「ジャックランタン(Jack-o’-Lantern)」といい、読み方もジャック・オ・ランターンのほうが正しいようです。日本語では、お化けカボチャ、カボチャちょうちんなどと言われることもあるようです。

ハロウィンの本場のスコットランドでは、もともとはカボチャを使わず、カブの一種である「スィード(swede)」を用いました。現在のようにカボチャが多くなったのは、二次的な発祥地となったアメリカではカブよりもカボチャのほうが栽培に適していたためでしょう。

もともとは、「ウィル・オー・ザ・ウィスプ(Will o’ the wisp)」を象徴したものといわれます。ウィルオウィスプ、ウィラザウィスプともいい、世界各地に存在する、鬼火伝承の名の一つです。青白い光を放ち浮遊する球体、あるいは火の玉であり、イグニス・ファトゥス(愚者火)とも呼ばれます。

他にも別名が多数あり、地域や国によって様々な呼称がありますが、いずれも共通するのは、これが見られるのは夜の湖沼付近や墓場などであるということです。近くを通る旅人の前に現れ、道に迷わせたり、底なし沼に誘い込ませるなど危険な道へと誘うとされています。

その正体は、生前罪を犯した為に昇天しきれず現世を彷徨う魂、洗礼を受けずに死んだ子供の魂、拠りどころを求めて彷徨っている死者の魂、ゴブリン達や妖精の変身した姿などなどいろいろな言い伝えがあります。

その意味は「一掴みの藁のウィリアム」または「松明持ちのウィリアム」だそうで、このウィリアム(ウィル)というのは、死後の国へ向かわずに現世を彷徨い続けた男で、この鬼火はこの男の魂だという伝承もあります。

ウィリアムは生前は極悪人で、遺恨により殺された後、霊界で聖ペテロに地獄行きを言い渡されそうになった所を、言葉巧みに彼を説得し、再び人間界に生まれ変わります。

しかし、第二の人生もウィリアムは悪行三昧で、また死んだとき死者の門で、聖ペテロに「お前はもはや天国へ行くことも、地獄へ行くこともまかりならん」と言われ、煉獄の中を漂うことになります。

それを見て哀れんだ悪魔が、地獄の劫火から、轟々と燃える石炭を一つ、ウィリアムに明かりとして渡しました。この時からウィリアムは、この石炭の燃えさしを持ち歩くようになり、その石炭の光は人々に鬼火として恐れられるようになったといいます。

が、これはあくまで伝承です。この鬼火の正体は、球電(自然現象)と言う稲妻の一種、あるいは湖沼や地中から噴き出すリン化合物やメタンガスなどに引火したものであるといわれています。日本でも人魂現象としてよく知られています。

このほか、ハロウィンといえば仮装です。ハロウィンで仮装されるものには、幽霊、魔女、コウモリ、黒猫、ゴブリン、バンシー、ゾンビ、魔神、などの民間で伝承されるものや、ドラキュラやフランケンシュタインのような文学作品に登場する怪物が含まれます。ハロウィン前後の時期には、これらのシンボルで家を飾るのが習わしです。

また、日本ではあまり行われませんが、先述のダック・アップル (Duck Apple)もまた欧米でハロウィンらしい行事のひとつです。またの名を、「 アップル・ボビング(Apple Bobbing)」ともいい、ハロウィン・パーティーで行われる余興の1つであり、水を入れた大きめのたらいにリンゴを浮かべ、手を使わずに口でくわえてとるリンゴ食い競争です。

このほか、アガサ・クリスティの書いた「ハロウィーン・パーティー」の中ではこのリンゴ食い競争の他、昔から代々伝わってきたゲームとして、小麦粉の山から6ペンス硬貨を落とさないよう小麦粉を順番に削り取る「小麦粉切り」や、ブランディが燃えている皿から干しブドウを取り出す「スナップ・ドラゴン」(ブドウつまみ)などが紹介されています。

さて、こうしたハロウィンは、日本では、2000年頃まではハロウィンは英語の教科書の中もしくはテレビで知られるだけの行事であり、現在ほどさかんなものではありませんでした。

しかし、クリスマスと同様にアメリカで行われる娯楽行事のひとつとして日本でも定着し、多くのイベントが催されるようになり、さらなる娯楽化、商業化が進んでいます。

ハロウィンのパレードとしてはJR川崎駅前の「カワサキ・ハロウィン・パレード」などが有名であり、このパレードでは約3000人による仮装パレードで約10万人の人出を数えるそうです。1997年より毎年のように開催されています。

また、東京ディズニーランドでも、1997年10月31日に園内に仮装した入園者が集まるイベント「ディズニー・ハッピーハロウィーン」が開催されて以降、10月になると恒例のイベントとして行われるようになり、現在では時期も早まって9月初旬から始まるそうです。

欧米系島民が多数在住する東京都小笠原村父島では、島民の秋のイベントとして定着しており、幼年の子どもたちの大多数が参加するほどの盛況ぶりを見せているといい、このほかにも、欧米系村民が多数存在し、海外からの観光客も多い長野県白馬村では、毎年10月の最終日曜日に村民ボランティアによって「白馬deハロウィン」が行われています。

今やこの時期になるとどこのお店へ行ってもお化けカボチャのディスプレイを飾るのが通例になっていて、ハロウィン関連の商品の売れ行きも上々のようです。

それが別に悪いともいいませんが、それにつけてもちょっと流行るとすぐ右へ倣えをしてしまうところは、いかにもミーハーな国民性だなと思ってしまうのは私だけでしょうか。

ま、こうした行事によって季節感が感じられるのは悪いことではなく、この行事が行われるということは今年もあと二か月なんだなと、時の移ろう速さを教えてくれる指標でもあります。

そう、今年もあと二か月です。そろそろ年賀状の心配もせねばならず、同窓生の忘年会のセットもありで、何かと忙しい季節ではあります。そうそう、今のうちから大掃除もしておきましょう。庭の手入れもしかりです。

が、何を一番先にやるべきでしょう。皆さんは、あと二か月を何を優先してお過ごしでしょうか。

ソチは何者?

台風一過のあとの昨日は、久々に太陽の光を浴びました。洗濯物もよく乾いて、折り畳んだ衣類に鼻を近づけると、これもまたお日様の良いにおいがします。

一方では気温も低くなり、澄んだ空気の中で庭先に揺れているコスモスを見ると、あぁようやく秋になったな、と実感できます。

それにしても、もう来ないだろうな、台風……

さて、テレビでは連日、日本シリーズを放映していて、これは今年の日本プロ野球の最後のイベントであり、こちらも秋の深まりを感じさせる一幕です。と、同時にフィギア・スケートのグランプリ・シリーズもカナダで開催されていて、男女ともに日本選手の活躍が光ります。

そのフィギア・スケートの中継の中でも、再々アナウンサーさんが、ソチオリンピックの話題を口にしますが、その開催は、来年の2月7日ということで、あともう3か月ちょっとに迫っています。

ロシアのソチという町で開催予定の第22回冬季オリンピックであり、2007年シウダ・デ・グアテマラで開催されたIOC(国際オリンピック委員会)総会で、オーストリアのザルツブルクと韓国・平昌を破って、ここが開催都市に決定しました。

ロシアでの冬季オリンピックは、ロシア帝国・ソビエト連邦時代も含めて史上初となりますが、夏季オリンピックとしては、1980年にモスクワオリンピックが開催されています。

が、冷戦下において東側諸国の盟主的存在であるソ連で行われたこの大会は、前年1979年12月に起きたソ連のアフガニスタン侵攻の影響を強く受け、大量の西側諸国の集団ボイコットという事態の中で開催されました。

冷戦でソ連と対立するアメリカ合衆国のカーター大統領が1980年1月にボイコットを主唱し、この当時はまだ分断国家であった東西ドイツのうちの西ドイツや韓国が同調。無論、アメリカの子分の日本政府もボイコットを決めました。

さらには、この年の前年にIOC加盟が承認されたばかりの中華人民共和国もまた、1960年代以降ソ連と対立関係にあったことからこれをボイコット。

はたまた、アフガニスタンと同様にソ連の軍事的脅威に晒されていたイラン、パキスタンといった諸国、このほかにも反共的立場の強い諸国なども合わせて総計50カ国近くがこのオリンピックのボイコットを決めました。

一方では、西欧・オセアニアの西側諸国の大半、すなわちイギリス、フランス、イタリア、オーストラリア、オランダ、ベルギー、ポルトガル、スペインなどはこの大会に参加しています。

ただし、アメリカと仲良しのイギリスは、政府自体はボイコットを表明しており、この参加は、表向きはオリンピック委員会が独力で選手を派遣したもの、ということになりました。

また、フランス、イタリア、オランダなど7カ国は競技には参加したものの開会式の入場行進には参加せず、イギリス、ポルトガルなどの3ヵ国もまた旗手1人だけの入場行進となるなど、開会式は寂しいものでした。

しかも、これらの参加した西側諸国はおおむね国旗を用いず、優勝時や開会式などのセレモニーでは五輪旗と五輪賛歌が使用されました。これは一応参加はしたものの、国家としてのオリンピック参加ではないことを暗に示そうとしたものです(ただしギリシアだけは国旗を用いていたようです)。

政府が大会ボイコットの方針を固めた日本でも、イギリスと同じく、国家としての参加が無理ならば、ということで、日本オリンピック委員会(JOC)が単独での参加を模索し、多くの選手もまたJOC本部で大会参加を訴えました。が、結局最終的にはそのJOC総会の投票では、29対13で反対多数となり、ボイコットすることが決定づけられました。

このように有力なスポーツ選手を数多く抱える西側諸国の多くがボイコットしたことで、この大会は当然ながら、東側諸国のメダルラッシュとなりました。

キューバを含めた東側諸国の経済協力機構であるコメコン(1949年旧ソ連の提唱によって、西側諸国に対抗して創設された社会主義諸国間の経済相互援助機構)の加盟国全体では全204個の金メダルのうち161個を獲得し、これは実に79%を独占したことになります。

特にソビエトは自国開催の強みを最大限に発揮し、元来の得意種目の重量挙げや射撃系に加え、アメリカが不参加の競泳や陸上、日本が不参加の男子体操やバレーボールで順調に金メダルを獲得していきました。

その獲得した金メダル80個は、現在でもロサンゼルスオリンピックでのアメリカの83個に次いで、一つの大会で一国が獲得したメダルの数としては2番目の記録となっています。

また、ソ連と同じく「ステート・アマ」と呼ばれる選手のほとんどを占める東ドイツも、ボートで14種目中11個の金メダルを稼ぎ、ソ連に次ぐ47個もの金メダルを獲得しました。

ステート・アマというのは、ソビエト連邦や東ヨーロッパなどのかつての共産主義国で、プロのスポーツ選手としての道を選ばず、国家から報酬・物質的援助・身分保障をされ、競技に専念できる環境を整えられ、これによってアマチュアを貫く道を選んだスポーツ選手を指す言葉です。

東側諸国では「国威高揚」の名の下、有望な選手を各地から発掘し家族の身分を保証する代わりに、幼少期より国家が運営する学校とトレーニングセンターが併設されたスポーツ施設で育て、オリンピックや世界選手権などの国際舞台で優秀な成績を取らせるべく徹底的な管理と養成が行われました。

元卓球世界チャンピオンの荘則棟(そうそくとう)は、卓球の3つの世界大会で連続優勝していますが、1965年にスロベニアのリュブリャナで行われた大会での優勝戦では相手に同じ中国人があたり、このとき上層部からこの対戦相手にわざと負けるよう指令が下ったことなどをほのめかしています。

ステート・アマは国威高揚のために育てられた選手であるがゆえに、自国からの指示があればたとえ自分が負けるような状況をも甘んじて受けざるを得なかったわけであり、このほかにも、この当時中国選手には外国人に手の内を見せないため、彼等とは接触していけないという鉄の規律があり、接した場合にはスパイ扱いされたといいます。

ところが、のちに日本に帰化して日本選手として1996年のアトランタオリンピックと2000年のシドニーオリンピックに出場することになった、小山ちれ(中国名・何智麗)は、1987年の世界卓球選手権ニューデリー大会でこの指令を無視して中国選手同士の試合を制して優勝してしまいました。

このため、この翌年の1988年には、世界ランキング1位であったにもかかわらずソウルオリンピック中国代表から漏れ、このことが原因となって現役を引退。さらにその翌年に日本の池田銀行卓球部のコーチ、小山英之と結婚して来日し、大阪府池田市へ移住しました。

その後に現役へ復帰して夫の指導を受け、1992年10月に日本に帰化して日本国籍を取得し、同年の全日本卓球選手権大会で女子シングルスに初優勝。以来1997年までの6連覇を含む8度の優勝を飾るなどの活躍をしました。

残念ながらアトランタ、シドニーではメダルをとれませんでしたが、両大会とも準々決勝まで進出して大いに日本を沸かせました。ただ、この間、1997年には夫との離婚調停を申し立て、シドニーオリンピック後に成立。

引退後の現在は、池田銀行がその後の合併で名前を変えた池田泉州銀行に残り、同銀行のシンクタンクとして地域貢献活動を行っているそうで、年に数回行われる卓球教室なども指導しているということです。

こうしたステート・アマを育てていた東側諸国では、選手を大事に育てながらもその一方では、練習についていけない選手は文字通り「捨て去り」、またドーピングなどの倫理に反する行為が半ば正当化され、当たり前に行われていたといいます。

旧東ドイツでは女子のステート・アマの顔に髭が生えた事例まであるそうで、これはドーピングによりホルモンのバランスが崩れ、男性ホルモンが分泌されるようになったからです。

またインタビューの際には、自国に不利な発言をしないようにその言動のチェックがされたりすることもしばしばで、国家から肉体・精神面で徹底的な管理を受けることにもなるため、かつて活躍したナディア・コマネチなどのように、個人の自由を求めて西側諸国へ亡命するケースも時々発生しました。

その後、ソ連邦の崩壊やベルリンの壁の除去などによって東欧革命が進み、共産主義圏の解体が進む中、オリンピックのプロ化も進んだことも手伝って、現在ではステート・アマはいなくなり、そのことばさえ、ほとんど死語となっています。

かつての東側諸国で建設された多くのスポーツ施設は閉鎖されるか、国から運営費が支給されなくなったり、減らされたりするようになり、このためかつてのステート・アマの中には施設や報酬の面で恵まれた西側諸国でプレーすることを望み、祖国を捨てて、他国で帰化するものも数多く現れました。

日本でもかつて大相撲に所属していた露鵬・白露山兄弟の父親は、旧ソ連・ロシア連邦のアマチュアレスリングのステート・アマを育成していた教官でしたが、食べるのに困り、息子たちを日本に送り込んだといわれています。

さて、少し話が飛びすぎました。モスクワオリンピックの話でした。

このようにこのオリンピックではステート・アマが活躍する東側諸国に押され、参加した西側諸国はあまりふるいませんでした。しかし、イギリスが陸上男子のトラック競技で健闘し、100mのウェルズ、800mのオヴェット、1500mのコーと3つの金メダルを獲得するなど、なんとか面目を保ちました。

このモスクワ大会での閉会式で行われたマスゲームでは、アメリカや日本、西ドイツや韓国といった西側諸国がボイコットした事に対して、大会のマスコットであるミーシャの着ぐるみが涙を流すという演出が行われたそうです。

ミーシャというのは熊をモチーフにしたマスコットで、このころ日本ではテレビ朝日系列で開催の前年からこのマスコットを主人公とした「こぐまのミーシャ」というアニメが放映されていので、覚えている人もいるかもしれません。

ちなみに、モスクワ大会では、このテレビ朝日がその独占放映権を獲得していましたが、日本のボイコットが決まったため、中継体制は大幅に縮小され、深夜の録画放送のみとなりました。

テレビ朝日は、その三年前の1977年の社名変更に続き、大改革の柱と位置付けていたこのときのオリンピック独占中継がこのような結果になったことに起因して、株価が大幅に下がったといいます。また、社員たちも少なくないダメージを負い、この中継の留守番予備軍として大量に採用されていたアナウンサー達の多くが辞めていきました。

このときテレ朝を辞めてフリーとなった人達の中には、古舘伊知郎、南美希子、佐々木正洋などがおり、このほかにも、宮嶋泰子、吉澤一彦、渡辺宜嗣といった、現在でも他局の現場で活躍するメンバーがたくさんいます。

しかしモスクワ大会は、西側諸国の大量ボイコットというアクシデントに見舞われはしたものの、大会そのものは事件もなく平穏に終わりました。ただ、閉会式での電光掲示板では次のオリンピック開催地を称えた「ロサンゼルスで会いましょう」といった文字などは一切出なかったそうです。

このことからも、西側諸国の集団ボイコットを受けた東側諸国、とりわけソビエトの失望と怒りがいかに深かったかがうかがわれ、次のロサンゼルスオリンピックではこれらの東側諸国が大量に報復ボイコットをするという事態につながっていきました。

モスクワオリンピックへのボイコットを呼びかけた中心的存在であったアメリカが開催した1984年ロサンゼルスオリンピックでは、今度はアメリカのグレナダ侵攻を理由に多くの東側諸国が報復としてボイコットしました。

しかし、その後、モスクワオリンピックをボイコットした韓国で開催された次の1988年のソウルオリンピックでは、ソ連をはじめとする大半の東側諸国も参加し、これでようやくオリンピックは正常な大会に戻りました。

以後、夏季大会では、バルセロナ、アトランタ、シドニー、アテネ、北京、ロンドン、と順調に続いています。

一方の冬季オリンピックとしては、1980年のモスクワオリンピックのすぐ後に開催されたものは、1984年に開催されたユーゴスラビアでのサラエボ冬季オリンピックでした。

この大会は、共産圏で初めて開催された冬期オリンピックでしたから、すわ、またアメリカなどの西側諸国のボイコットか、と思われましたが、このときはそれはなく、ソビエトなどの東側諸国はほとんどが参加しています。

ただ、この同じ年の夏に行われた夏季オリンピックロサンゼルス大会はアメリカ主催の大会ということで、東側の多くの国がボイコットしました。上述のとおりです。

とはいえ、冬季オリンピックではこのサラエボ冬季オリンピックも含めてその後も一度もボイコットは起こっておらず、サラエボに続き、カルガルー、アルベールヴィル、リレハンメル、長野、ソルトレイクシティー、トリノ、バンクーバー、と順調に回を重ねてきました。

ちなみに、1992年にバルセロナで夏季オリンピック、フランスのアルベールヴィルで冬季オリンピックが行われて以降、夏季と冬季のオリンピックは、同じ年に行われなくなり、二年毎に夏季オリンピックと冬季オリンピックが交互に行われるように改められました。

そして、今回のソチでの第22回目となる冬期オリンピックです。

日程としては、2014年2月7日~2月23日の17日間行われます。この大会の決定は、
2007年7月4日にグアテマラのグアテマラシティで開催された第119次IOC総会でのことであり、総会直前までは、前回2010年冬季オリンピックの開催地投票でバンクーバーに接戦で負けた韓国・平昌が最有力候補でした。

しかし、ソチとの決選投票で平昌はまたしても接戦で落選しました。が、2011年7月に南アフリカで行われたIOC総会では、平昌はみごとに1回目の投票で過半数の票を得ることができ、2018年には晴れて冬季オリンピックを開催できることになりました。

ちなみにソチが開催地として選ばれた2007年のIOC総会では、平昌のほかには、ソフィア(ブルガリア)、アルマトイ(カザフスタン)、ボルジョミ(グルジア)、ハカ(スペイン)などが立候補していましたが、いずれも一次選考で敗退しています。

ソチでのオリンピックの競技会場は大きく分けて、ソチの黒海沿岸に面したソチ・オリンピックパークを中心とした地域と、クラースナヤ・ポリャーナと呼ばれる西カフカース山脈の「ソチ国立公園内」の山岳地区の2ヵ所に集まっています。

このソチ国立公園は、黒海沿岸のソチの北方50kmに位置しており、ロシアでも2番目に古い国立公園だそうで、といっても、1983年に制定されたばかりです。この公園がある西コーカサスという地方には、コーカサス諸国自然生物圏保護区があり、ここは重要な生態学的、生物学的特徴を持つとしてユネスコの世界遺産として登録されています。

これまではあまり人間の介在を経験してこなかかったヨーロッパで残された最後の自然であるということが世界遺産登録のユネスコ委員に評価されたようです。

その環境は、低地から氷河地帯まで、目まぐるしくかつ極端に変化していくそうで、とくにここはかつて、ヨーロッパバイソンの生息地として有名でした。バイソンというのはかなり大きなウシ科の大型哺乳類で、オスは角を持ち、その体長は2.5~3.5mもあり、メスも2.2~2.8mもあります。

世界最後の野生種ともいわれるヨーロッパバイソンは、その最後の自然種が1927年に密猟者によって殺されてしまったため、野生固体は絶滅状態にあり、このため、飼育したヨーロッパバイソンを野生に戻す試みが何十年にもわたって行われているそうです。

一方の、黒海沿岸にあるソチの町は、ロシア語では、「ソーチ」のほうが正しい発音に近いようです。ロシア連邦クラスノダール地方の都市で、ロシア随一の保養地でもあり、そのすぐ西側が黒海に面し、そのすぐ南側にはグルジアとの国境があり、グルジアのさらに南側には黒海南岸に横長く広がるトルコがあります。

黒海の周りには、このトルコの西北にブルガリア、ルーマニア、モルドバなどの東欧諸国があり、さらには黒海北岸に面したウクライナ、そしてソチを有するロシア連邦といった位置関係です。

人口はだいたい40万人ほどで、その市域は、黒海の東側沿岸に沿って細長く、およそ150kmほどに渡って広がっています。

6世紀から11世紀にかけて、この地域はグルジアのラジカ王国やラジカ王国から独立したアブハジア王国に属し、11世紀から15世紀はグルジア王国に属していました。

こられの国の国教はキリスト教であっため、ソチ市内にもこの当時から多くの教会が作られましたが、これらの教会は、もともとの住民であるテュルク系遊牧民に何度も打ち壊されてきており、古いものはそう多く残っていないようです。

15世紀からはオスマン帝国に領有されました。オスマン帝国というのはよく聞く名前ですが、これは、後のトルコ人の祖先であるテュルク系と呼ばれる人達の中から出た、「オスマン家」という家の君主を皇帝とするようになってから発展した多民族帝国です。

15世紀には現在のトルコの都市イスタンブールを征服して首都とし、17世紀の最大版図は、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南は紅海を挟んでイエメンからサウジアラビア、エジプト東部やサウジアラビア西部から、北は現在のレバノン、トルコ、ウクライナ、ハンガリー、チェコスロヴァキアに至る広大な領域に及びました。

現在のトルコを中心とするアナトリアと呼ばれる小アジアの片隅に生まれたこの小君侯国は、イスラム教を国教としたイスラム王朝であり、やがて東ローマ帝国などの東ヨーロッパのキリスト教諸国と敵対するようになり、これらをことごとく打ち破っていきました。

またマムルーク朝などの西アジア・北アフリカのイスラム教諸国を力でねじ伏せて征服し、地中海世界のほとんどを覆い尽くす世界帝国たるオスマン帝国へと発展していきました。

ところが、17世紀末頃から次第に衰退しはじめて、その領土は他国に蚕食されて急速に縮小していきます。この挽回を図るためにと、このころこの地域で強大な軍事力を持ち台頭してきていたロシアを攻略することを目的に第一次世界大戦に参戦。

しかし、逆にこの戦いでロシアに負けてしまい、敗戦により帝国は事実上解体されてしまいます。そして、20世紀初頭、最後まで残っていた領土アナトリアから新しく生まれ出たのが現在のトルコ民族と呼ばれる人たちです。彼等はかつてのオスマン帝国の家人を追い出し、自身たちの国民国家、すなわち、現在のトルコ共和国を建設することになります。

かつてのオスマン帝国は、一次大戦での敗北により英仏伊、ギリシャなどの占領下におかれ完全に解体されましたが、このときギリシャは、どさくさに紛れて自国民居住地の併合を目指してアナトリア内陸部深くまで進攻してきました。

また、東部ではアルメニア国家が建設されようとしており、こうした「外国人」らの横暴に対して、旧帝国軍人や旧勢力、進歩派の人といったトルコ人たちは、国土・国民の安全と独立を訴えて武装抵抗運動を起こします。

この抵抗運動をトルコ独立戦争といい、1919年5月に勃発しました。彼等はアンカラに抵抗政権を樹立したムスタファ・ケマル(アタテュルク)のもとに結集して戦い、1922年9月、現在のトルコ共和国の領土を勝ち取り、ムスタファ・ケマルはトルコ共和国の初代の大統領に就任しました。

こうしてアンカラ政権は1924年にオスマン王家のカリフ(国家指導者)をイスタンブールから追放し、以後、西洋化による近代化を目指すイスラム世界初の世俗主義国家として成長していきました。

第二次世界大戦後は、ソ連に南接するトルコは反共の防波堤として西側世界に迎えられ、NATO、OECDに加盟、以後も西洋化を邁進し続けています。欧州連合(EU)への加盟も現在申請中です。

しかし、かつてのオスマン帝国が所有していた、ソチを含む海岸地帯は、帝国の崩壊により、1829年にロシアに割譲されています。

オスマン帝国時代のソチは、多くの民族が入植し国際色豊かな都市でしたが、こうしてロシアの領土になった以降、ロシア革命期には白軍、ボリシェヴィキ、グルジア民主主義共和国の3勢力で激しい争奪戦の舞台となったこともありました。

しかしその後ソ連時代になってからはこれらの紛争は落ち着き、1923年、黒海の北東岸にある港湾都市・トゥアプセからグルジアの最西端に位置し、黒海北岸に面する、いわゆるアブハジア地域へ観光客・療養者を運ぶ目的の鉄道が開通しました。と同時にソチにも西ヨーロッパ方面からも少ないながらも観光客が訪れるようになりました。

その後この地にダーチャと呼ばれる別荘を設けたヨシフ・スターリンに愛され、スターリン政権時代はソ連最大のリゾート都市に成長し、多くのスターリン様式の豪華建造物が建てられるようになりました。

やがてニキータ・フルシチョフ政権時代にクリミア半島がロシア・ソビエト連邦社会主義共和国からウクライナ・ソビエト社会主義共和国に移されると、ソチはさらに隆盛し、ウラジーミル・プーチン政権下でさらなる投資が行われるようになります。

そしてアブハジア、南オセチア、グルジア、ロシア間の協定などいくつかの重要な条約締結の場所にも選ばれるなど、国際都市としても注目されるようになりました。

このように、ソビエト連邦時代から保養地として整備されてきたこともあり、ソチは北のアナパやトゥアプセ、南のグルジア領アブハジアのガグラやピツンダなどの黒海沿岸のリゾート都市とともに、「ソビエト版リビエラ」ともいえるリゾート地帯を形成してきました。

現地へ行くと、雪をかぶったカフカース山脈を望みつつ、その背後には黒海の美しい砂浜が広がるといった風情であり、気候は温暖でしかも温泉を産し、多くの療養施設もあるという、聞くとまるで夢のような場所のようです。

こうした立地から、現在では毎夏には数百万人もの人がソチを訪れるそうで、すぐ北にある西カフカース山脈が先述のとおり、ユネスコの世界遺産(自然遺産)に選ばれたこともあって、最近さらに観光客が増えているようです。

スターリンをはじめ、歴代のソビエト連邦やロシア連邦の指導者たちの別荘があり、プーチンもソチの別荘で夏期休暇を過ごしているそうで、また、イタリアの政治家シルヴィオ・ベルルスコーニも休暇を過ごすために毎夏ソチを訪れているといいます。

雄大なカフカース山脈の他にも、美しい砂浜や温暖な気候による亜熱帯風の植生、公園やスターリン時代の様々な建築などで、休暇を過ごす人々に大変人気があるといい、かつてのソ連邦時代には解放されていなかったような地域にまで、外国人が立ち入ることが可能になっています。

スポーツ設備も充実しており、ここにあるテニス・スクールでお父さんと貧しい暮らしをしながら練習をして世界チャンピオンになったのが、あのマリア・シャラポワです。また、1996年の全仏オープンと1999年の全豪オープンに優勝した男子テニスプレーヤー、エフゲニー・カフェルニコフもここで育ちました。

最近では、ロシアサッカー連盟もソチに年間を通じて利用できるサッカーロシア代表チームの練習施設を建設することが発表されており、こうしたメジャーなスポーツの誘致などがこの地で冬季オリンピックが開催しようという機運につながっていったようです。

2014年の冬季オリンピックに向けては、会場へ押し寄せる観客の利便性確保のため、ロシアで3都市目になるライトレール鉄道が運営予定だそうです。

ライトレールというのはあまり聞き慣れないことばですが、アメリカ人が名付けたようで、邦訳としては「輸送力が軽量級な都市旅客鉄道」ということになるでしょうか。普通の電鉄線と路面電鉄を足して二で割ったようなものであり、日本での例としては、ここ静岡県の静岡市にある、静岡鉄道静岡清水線がこれに近いようです。

これは旧静岡市・清水市の都市圏輸送兼インターアーバン路線として建設されたもので、1両約18mの2両編成・朝夕3~5分、昼間約6分間隔といった、短編成・高頻度運転が特徴で短い駅間距離、簡易な駅施設といった輸送形態を持ちます。また全線複線の鉄道でワンマン運転を行ったのはこの静岡鉄道が日本最初だそうです。

東京にある東京急行電鉄の世田谷線もこれに近いといわれており、全線が専用軌道を走り、プラットホームの若干のかさ上げとともに車両も全て低床タイプのものに置き換えられています。短編成、高頻度運転、短い駅間距離、簡易な駅施設といった輸送形態は静岡鉄道とよく似ています。

このソチのライトレールは、オリンピック村、市街地中心部、ソチ空港を結ぶ3路線からなり、総延長は86.4km、駅数24だそうです。高架と地下、山岳トンネルからなり、時速160kmで運行される予定です。

おそらく、こうした鉄道についての紹介もソチオリンピックが近づくにつれ、おいおいテレビでも紹介されていくと思うので、前知識として持っておくと良いでしょう。

ソチオリンピックの組織委員会は、今月30日で開幕まで100日になるのを前に、24日までの2日間、競技施設を外国メディアに公開しました。

黒海に面した沿岸部と山あいの2か所に分かれている会場のうち、沿岸部のほうでは、フィギュアスケートやスピードスケートなど5つの競技施設の建設がすべて終わっています。

組織委員会は、完成していない施設のうち、開会式が行われる予定のメインスタジアムは年内の完成を目指し急ピッチで建設を進められているとアナウンスしており、このほか、選手村も建物はほぼ完成しており、来年1月末のオープンまでには間に合わせるとしています。

委員会が準備は順調に進んでいると強調しているとおり、山あいの会場でも、スキージャンプやバイアスロンなどの施設の整備が終わり、沿岸部と山あいの会場を結ぶ全長およそ40キロのライトレールも、来月1日から無事に運行を開始するということです。

ソチオリンピックを巡っては、競技施設に加え他の地域のライトレールや道路も新しく整備するため作業が大幅に遅れ、建設費用も日本円でおよそ5兆円と当初の4倍以上に膨れあがったそうです。

心配性なプーチン大統領は、ホントに間に合うかいなと、ちょっと前までかなりいらだっていたそうで、つい先日もみずからが進捗(しんちょく)状況を監督するために現地に赴いたそうです。

が、まあおそらくは間に合うでしょう。というか、間に合わせるでしょう。ロシアとしては、西側諸国をも迎えた初の自国開催のオリンピックであり、ロシア連邦として生まれ変わった後に、その威信をかけた大会を成功させたいというその意気込みは相当なものであり、失敗は許されないからです。

それにしても、かつてはオスマン帝国時代とはいえ、自国の領土であった、すぐ近くのソチでオリンピックが開催されることについて、トルコの人たちはどう思っているでしょうか。

つい先日には、日本との2020年オリンピック開催を争って敗れたばかりでもあり、かつての自分のテリトリーで華やかに開催される大会について、多少は苦々しく思っているに違いありません。

が、その一方で、自国のすぐ近くで開催されるオリンピックであるともいえ、将来的にトルコにその開催権が手に入るときには、おおいに参考になることでしょう。近いこともありきっと、大勢のトルコ人がソチに入るに違いありません。

ちなみに、ですが、日本とソチとの時差は、5時間です。日本の方が、5時間進んでいます。なので、夕方から行われる競技の生放送は日本では深夜以降になりそうです。

また寝不足の日々が続くのか……と少々心配ですが、やはり二年に一度のお祭りですから、頑張ってニッポンを応援したいと思います。

2月といえば日本でも一番寒い時期です。風邪をひかないよう、みなさんも頑張って応援してください。

法隆寺の鬼


心配された台風はどうやら本土直撃は免れそうです。

しかし、前線の活動が活発となっているようで、四国や九州では激しい雨が降っているみたいです。これから更に東へ進むにつれ、ここ伊豆でも結構雨が降りそうです。先日土砂災害があった伊豆大島でも二次災害が発生しなければ良いのですが……

さて、ところで、ですが、私ぐらいの年齢の方は、カーペンターズをご存知の方も多いでしょう。

またまた前回に引き続いてCDの話からで恐縮ですが、前日の整理の際に昔懐かしこのグループのCDも出てきたので、懐かしさも手伝って久々に聞いてみることにしました。

すると思いもかけず斬新で、とても40年も前に流行した曲とは思えないほどであり、今聞いても十分に聞けるではありませんか。というわけで、改めて優れた楽曲は時間を超えても色あせないものだと感じた次第です。

カーペンターズは、アメリカの兄妹ポップス・デュオで、楽器を兄のリチャードが受け持ち、ヴォーカルを妹カレンが担当したグループです。ロック全盛の1970年代において独自の音楽スタイルを貫き、多くのファンを獲得しました。

私はこのころ、中学生から高校生にかけてのころであり、どうもロックには馴染めませんでしたが、このカーペンターズの歌は好きで、よく聞いていました。

代表曲の「スーパースター」、「イエスタデイ・ワンス・モア」は大ヒットしましたが、そのほかにもプチヒットした曲も多く、「プリーズ・ミスター・ポストマン」なども軽快な曲で、聞くと気持ちを明るくしてくれました。

また、あまりヒットはしなかったかもしれませんが、「マスカレード」というのがあり、これはジョージベンソンが歌っていたもののカバーのようでしたが、カレン・カーペンターの歌ったこのバージョンもまた魅力的でした。

しかし、この人気グループの活動は、兄妹の妹、カレンの1983年の死により、突然終わってしまいました。

カレンはその死の3年前の1980年、30歳のときに不動産業者のトーマス・ジェイムズ・バリスと瞬く間に恋に落ちたあと、結婚式をビバリーヒルズ・ホテルのクリスタル・ルームで盛大に行いました。

しかし、結婚してから1年ほどの間に彼女の容姿は変わり果てていき、ときおりテレビに登場するときや、コマーシャルで撮影されたビデオなどから窺えるその姿は、もはや彼女が重病人であることは明白でした。

カレンとバリスの結婚生活は惨憺たるものであり、彼らは1981年の終わりには別居します。二人の仲がうまくいかなくなったその理由はよくわかりませんが、彼女自身がこのころから喉の不調をかかえるようになり、仕事がうまくいかなくなったことに起因して、精神的に不安定になっていたことが関係しているようです。

その翌年の1982年、カレンは障害の診療を受けるためニューヨークの著名な心理セラピストを訪ね、この年の11月には仕事に復帰して離婚手続きを完了するためにカリフォルニアへ戻ります。

この当時、カレンの甲状腺を気にしており、新陳代謝を加速するために甲状腺薬を通常の10倍服用していたことが分かっています。またこれに加えて大量の下剤(日に90錠から100錠)を服用していたことが、彼女の心臓を弱める原因となったようです。

ニューヨークの病院での2ヶ月以上にわたる治療を経て、カレンは30ポンド(13.6キログラム)以上も体重を戻しましたが、急激な体重の増加は、長年の無理なダイエットですでに弱っていた彼女の心臓に、さらなる負担をかけました。

1983年の2月4日の朝、カレンはダウニーの両親の家で心肺停止状態に陥って病院に担ぎ込まれましたが、それから20分後に死亡が確認されました。彼女はその日、離婚届へ署名するつもりであったといいます。

検死によれば、カレンの死因は神経性無食欲症に起因するエメチンの心毒性であったようです。エチメンというのは、催吐薬(さいとやく)の一種であり、要は嘔吐を誘発させることによって胃の内容物を吐かせることを目的とした薬です。

拒食症に陥っていたカレンは、この薬を常用していたようで、解剖学的な結論としては、心臓麻痺が第1の原因で、拒食症が第2の原因であったということです。

しかし、カレンの死後も、兄のリチャードは未発表音源集やコンピレーション・アルバムなどデュオの作品のプロデュースを続けました。日本におけるカーペンターズのファン層は厚く、リチャードの努力もあって、カレンの死後もカーペンターズの人気はその後も長く続きました。

日本人でないアーティストのシングルが日本で大きく売れることは稀であり、しかも長く続くことは少ないようですが、カーペンターズの人気は例外といえます。

たとえばシングルの「スーパースター」、「イエスタデイ・ワンス・モア」、「青春の輝き」、「トップ・オブ・ザ・ワールド」などはオリコンチャートのトップ10入りしており、その他にも7曲がトップ40に入っています。

また、カレンの死後20年以上も経た1995年にも、日本市場向けにリチャードが編纂した「青春の輝き:ヴェリー・ベスト・オブ・カーペンターズ(22 Hits of the Carpenters”)」がチャートトップを獲得しており、2002年には累計の出荷枚数300万枚を突破したといい、2005年には10周年記念盤も発売されました。

現在、兄のリチャード・カーペンターは、妻のメアリ・ルドルフ・カーペンターおよび4人の娘と1人の息子らとともにカリフォルニア州サウザンド・オークスに住んでおり、夫妻は芸術家の後援活動をしているといいます。

カレンの死後もこの仲の良かった兄妹デュオの名曲は、これからも長く日本では歌い継がれていくことでしょう。

さて、話は一転します。いわずもがなですが、カーペンターとは英語では大工のことをさします。

カーペンター兄妹のご先祖が大工だったかどうかまではわかりませんが、欧米ではそれほど珍しい名前ではありません。そういえば、ドイツではトリューベルというのが大工という意味だと、その昔通っていた教会でこの苗字を持つドイツ系アメリカ人の牧師さんも言っていました。

このように、欧米では、職業の種類をそのまま苗字にする家庭も多かったようです。「大工のリチャード」が長い間に、「リチャード・カーペンター」のようにそのまま名前になっていったのでしょう。

しかし、日本では「大工」という苗字はあまり聞きません。名字は、元々、「名字(なあざな)」と呼ばれ、中国から日本に入ってきた「字(あざな)」の一種であったと思われます。現在も地名としては、「字」が残っている地域がたくさんありますが、このことから日本人の苗字としては職業よりも地名に由来するものが多いようです。

大工とは、現在では木造建造物の建築・修理を行う職人のことですが、古くは建築技術者の「職階」を示し、木工に限らず各職人を統率する長、または工事全体の長となる人物をさしていました。その呼び方も「大工」ではなく、番匠(ばんじょう)というのが普通だったようです。

その職階としては、宮大工のほか、家屋大工、数寄屋大工、船大工、建具大工、家具大工、 型枠大工、造作大工(たたき大工)などがありました。が、現在では家屋大工や数寄屋大工は統合されて普通に大工と呼ばれるようになり、そのほかの大工もまた、建具屋、型枠工などの専門職に統合されています。

しかし、宮大工や船大工は特殊な伝統的職業として、現在も昔ながらの技術がそのまま伝承されています。

とくに、宮大工は、神社・仏閣の建造などを行う大工であり、数ある大工の中でも最も技術力の高い大工として、昔から尊敬されてきました。堂宮大工とも、宮番匠とも言われ、釘を使わずに接木を行う、引き手・継ぎ手などの、伝統的な技法は芸術ともいえるほどのものです。

その昔、元々は寺社のことを親近感から「お宮さん」と言っていたので、これを建造する大工のことも宮大工というようになっていったようです。が、寺社大工とも呼ぶこともあり、いまでも宮大工といわず寺社大工という地域もあります。

宮大工は主に木造軸組構法で寺社を造ります。江戸時代に町奉行、寺社奉行という行政上の自治の管轄が違っており、一般庶民の家を建てるのは町奉行管轄の町大工であり、寺社奉行管轄の宮大工とは区別されていました。

ただし郊外などでは、どちらの管轄から外れる地域があり、この場合には明確な区別がなく、その名残で、現代でも町はずれでは、宮大工も町大工もできる大工さんを抱えた工務店が多いようです。

こうした郊外の町大工(宮大工)は、空間上の制限がない場所柄と農家の顧客が主なこともあり町中とは違い、大断面の木材を使うことも多く、仕口や材料も奢ったものを使うことが多かったようです。

基本となる間尺(和風建築の基本モジュール)も比較的大きい傾向にあり、こうした大工が造った都市部近郊の農家の古民家には、非常に立派なものが多いのはこのためです。

こうした寺社や古民家を造ってきた宮大工の中には、人間国宝級の人もいます。残念ながら日本文化財保護法の規定には、人間国宝として大工の設定はありませんが、文化財保存技術者として優れた技術を持った人を文化功労者として表彰するという仕組みがあります。

そうした一人に、「最後の宮大工」と称された西岡常一(にしおかつねかず)という人がいます。が、惜しくも1995年(平成7年)に47歳という若さでこの世を去っています。

飛鳥時代から受け継がれていた寺院建築の技術を後世に伝えるなどの業績を積み重ね、文化財保存技術者として認定されるとともに、1981年(昭和56年)には、勲四等瑞宝章と日本建築学会賞を同時受章、その後法隆寺のある斑鳩町の名誉町民にも指名されました。

西岡家は代々法隆寺の宮大工を拝命してきた家柄であり、祖父西岡常吉、父西岡楢光はともに法隆寺の宮大工棟梁でした。

祖父西岡常吉は、後継者たる男子に恵まれず(長男は夭折)、次女ツギの婿養子に二十四歳の松岡楢光を迎えて弟子に仕込みまし。やがて両者の間に長男が生まれると大いに喜び、自身の「常」の字をつけて「常一」と命名しました。

このため常一は、婿養子の楢光よりも祖父常吉を師匠として幼いころから厳しい指導を受けて育ち、長じてからは、法隆寺解体修理、法輪寺三重塔の再建、薬師寺金堂、西塔などの再建、道明寺天満宮の復元修羅の制作といった、いずれも歴史の教科書に出てくるような伝統構造物の修理・再建を手掛けています。

それでは、その名宮大工としての生涯をみていきましょう。

幼少期から見習いへ

常一は1908年(明治41年)9月4日に奈良県斑鳩町法隆寺西里で生まれました。幼少期は、祖父に連れられ法隆寺の佐伯定胤管主に可愛がられ、「カステラや羊羹を定胤さんからようもろうたことを覚えています」と述懐していることからもわかるように、棟梁になるべく早くから薫陶を受けていました。

斑鳩尋常高等小学校3年生から夏休みなどに現場で働かされました。そのころの法隆寺の境内では、西里の村の子供たちの絶好の遊び場で、休日にはよく野球をして遊んでいましたが、常一少年はみんなの遊んでいる姿が仕事場から見ることが多く、「なんで自分だけ大工をせんならんのやろ」とうらめしく思ったといいます。

1921年(大正10年)生駒農学校入学。父は工業学校に進学させるつもりでしたが、祖父の命令で農学校に入学することになります。一方在学中は祖父から道具の使い方を教えられるなど、大工としての技能も徹底的に仕込まれました。

西岡常吉は祖父としては普通に接し、菓子をすぐ与えたり、いたずらをしても厳しく注意することもないなど、この孫に対しては非常に甘いところもあったようですが、常一が四歳のころから法隆寺の現場に連れて行って雰囲気に慣れさせ、小学校に上がると雑用をさせました。そしてこのころから祖父は別人のように厳格になっていきました。

以降、祖父は婿の楢光と常一とを将来の棟梁として育成すべく尽力することになります。特に常一には徹底した英才教育を行い、常一自身にとっても貴重な財産となっていくことになります。

1924年(大正13年)に小学校卒業後は見習いとなりました。見習いの時から祖父常吉には、厳しく仕込まれました。まず、大工としての基本である道具の研ぎ方をしこまれましたが、常吉は一切その方法を教えず、常一は常吉の砥ぎ方を見よう見まねでマネし、これを覚えるまで毎晩のように研ぎ続けました。

後年常一は「頭でおぼえたものはすぐに忘れてしまう。身体におぼえこませようたんでしょう」と述懐し、「手がおぼえるー大事なことです。教えなければ子供は必至で考えます。考える先に教えてしまうから身につかん。今の学校教育が忘れていることやないですか。」とも述べています。

このころ祖父の意見で、渋々農学校に入った常一は、学習意欲に欠け農場の果実を無断で食べたりして怠けていたそうです。しかし、実習を重ねるうちに興味を持ち成績も上がっていきました。

肥料をどのくらいの分量を、いつ、どの時間に施すかは、自ら体験しながら、自分で考える必要があり、タネをおろして、芽が出、葉やつるが育ち、実りがあることなどがだんだん面白くなってきたのです。

「土の命」を知ることにこそ祖父は大事と考え、常一を農学校にやったのでしたが、本人は「それが本当にわかったのは、のちのことである」と述懐しています。祖父は生命の尊さと土の性質によって生命も変化することを学ばせようとしたのであり、この農学校時代は彼の将来の棟梁としての必要な資質を涵養する時期となりました。

果たして、後年になって原木の見極め方や地質調査などで農学校時代の知識が大いに役立ち、常一は「三年間の農業教育のおかげやと思います」と祖父や当時学校関係者に感謝の意を示しています。

さらに農学校を卒業した常一に、祖父は一年間の米作りをさせました。

このため学校で教えられた通りに稲作をはじめましたが、その結果、祖父は誉めるどころか、他家の農家よりも収穫が低いことを指摘し、「本と相談して米作りするのではなく、稲と話し合いしないと稲は育たない。大工もその通りで、木と話し合いをしないと本当の大工になれない」と諭したといいます。

このように大工の修業に関しては祖父はまず単に見本を示すだけか、全く関係のないことを指示し、後は一切教えず、自身で何回も試行錯誤させて覚えさせる指導方法をとっていました。

厳しく叱責することもありましたが、評価するのも上手く、母親を通して褒めさせたといいます。母親に対して、「常一は偉い奴や。わしが言わん先にこういうことをしおった」というふうに吹き込むと、母親が喜んで彼にそのことを話したのです。

また、祖父は、夜には、常一に身体をマッサージさせました。そして彼に身をゆだねながらも大工としての多くの知識を教えていきました。こうして常一の宮大工としての技量は次第に研ぎ澄まされたものとなっていきました。

独立

1928年(昭和3年)大工として独立し、法隆寺修理工事に参加することになります。1929年(昭和4年)1月から翌年7月まで舞鶴重砲兵大隊に入隊し衛生上等兵となり、除隊後の1932年(昭和7年)、法隆寺五重塔縮小模型作製を行いましたが、この経験を通じて、「設計」ということに関してもその技術を学ぶことになります。

その5年後の昭和8年に祖父が死去。享年80でした。祖父常吉はその晩年、一人前となった父楢光と常一に西岡家に代々伝わる口伝を教えました。これは一度しか口移しで教えることができない秘中の教えで、一つずつその意味となる要点を教え、十日後に質問して一語一句違わず意味を理解するまで次に進まなかったといいます。

その内容とは、例えば、

・神仏を崇めず仏法を賛仰せずして伽藍社頭を口にすべからず。
・伽藍造営には四神相應の地を選べ。
・堂塔の建立には木を買はず山を買へ。
・木は生育の方位のままに使へ。
・堂塔の木組は木の癖組。
・木の癖組は工人たちの心組。
・工人等の心根は匠長が工人への思やり。
・百工あれば百念あり。一つに統ぶるが匠長が裁量也。
・百論一つに止まるを正とや云う也。
・一つに止めるの器量なきは謹み惧れ匠長の座を去れ。
・諸々の技法は一日にして成らず。祖神の徳恵也。

といった具合であり、後年常一は、「法隆寺の棟梁がずっと受け継いできたもんです。文字にして伝えるんではなく、口伝です。文字に書かしませんのや。百人の大工の中から、この人こそ棟梁になれる人、腕前といい、人柄といい、この人こそが棟梁の資格があるという人にだけ、口を持って伝えます」と述べています。

また、丸暗記してしまうと、「それではちっともわかってない。そういうのはいかんちゅうので、本当にこの人こそという人にだけ、口を持って伝える。これが口伝や。どんな難しいもんやろかと思っていましたが、あほみたいなもんや。何でもない当然のことやね」
とも語っています。

1934年(昭和9年)には法隆寺東院解体工事の地質鑑別の成果が認められ、法隆寺棟梁となり、と同時に父の西岡楢光もこのとき、法隆寺大修理の総棟梁をつとめることになりました。

しかし、戦火の拡大と共に、西岡自身も戦争に巻き込まれていくことになります。1937年(昭和12年)8月、衛生兵として召集、京都伏見野砲第二十二連隊を経て、翌歩兵第三十八連隊、歩兵第百三十八連隊機関銃部隊に入り中国長江流域警備の任務につきました。

このとき軍務の傍ら中国の建築様式を見て歩いたといい、この経験は彼自身の知識を増やすために大いに役立ちました。1939年(昭和14年)に除隊されましたが、1941年(昭和16年)には今度は満州黒龍江省トルチハへ召集されました。

また、1945年(昭和20年)にも朝鮮の木浦望雲飛行場へ二度目の招集を受け、このとき陸軍衛生軍曹になったまま終戦を迎えることになります。これらの期間、日本に戻っている間中も常に法隆寺金堂の解体修理を続けていたといいます。

戦後は法隆寺の工事が中断され、「結婚のとき買うた袴、羽織、衣装、とんびとか、靴とか服はみんな手放してしもうた。」と述懐するほど、生活苦のため家財を売り払わざるをえなくなりました。

一時は靴の闇屋をしたり、栄養失調のために結核に感染して現場を離れるなど波乱含みの中で法隆寺解体修理を続けましたが、その卓抜した力量や豊富な知識は、寺関係者のほか学術専門家にも認められ、1956年(昭和31年)法隆寺文化財保存事務所技師代理となります。

さらに1959年(昭和34年)には明王院五重塔、1967年(昭和42年)から法輪寺三重塔(1975年(昭和50年)落慶法要)、1970年(昭和45年)より薬師寺金堂、同西塔などの再建を棟梁として手掛けるようになりました。

特に薬師寺金堂再建への関与は有名となり、NHKの「プロジェクトX」で取り上げられて紹介されています。ご覧になった方も多いのではないでしょうか。

また常一の大きな功績の一つに古代の大工道具「槍鉋(ヤリガンナ)」の復元があります。

焼けた法隆寺金堂の再建の際に飛鳥時代の柱の復元を目指した常一は、回廊や中門の柱の柔らかな手触りに注目し、その再現は、従来の台鉋や手斧ではなく創建当時に使用されていた槍鉋であれば可能だと気付きまし。しかし、槍鉋は15~16世紀に使用が途絶え、実物もなければ使用方法も分からない幻の道具でした。

そこでまず、古墳などから出土した槍鉋の資料を全国から集めたのですが、思うようなものはできず、やむなく正倉院にあった小さな槍鉋を元に再現してみました。しかし、鉄の質が悪くて思うように切れなかったため、そこで法隆寺の飛鳥時代の古釘を材料に堺の刀匠水野正範に制作を依頼。こうしてようやく思っていたような槍鉋が完成しました。

完成した槍鉋は刃の色から違っており、常一も感服するほどの出来栄えでした。常一は絵巻物などを研究し3年間の試行錯誤の末、身体を60度に傾けて腹部に力を入れ一気に引くやり方を見出し、これを「ヘソで削る」と表現する技法として仕上げていきました。

その切り口は、スプーンで切り取ったような跡になるのですが、そこに、あたたかみ、ぬくもりがかもし出される、独自のものであったといいます。使い方が上達すると鉋屑が長く巻いたきれいなものになり、その出来栄えに、常一自身も「家に持って帰ってしばらく吊っておいたことがあるんですけどね」と語るほどでした。

あまりの美しさに見学者がその木屑を記念に持ち帰ったこともあったといいます。

修羅の復元

1978年3月、大阪府藤井寺市三ツ塚古墳で橇式の木製運搬具「修羅」がほぼ完全な形で出土しました。修羅とは、古代の巨石運搬用の橇(そり)です。この修羅は樫の巨木が二股になった全長9mのもので、考古学関係者の関心を呼び、朝日新聞社の後援で、実際に復元して運搬の実験が計画され、その責任者に常一が抜擢されました。

折悪しく薬師寺西塔再建工事途中で、常一は躊躇したようですが、文化的な貢献にもつながると思い直し、薬師寺側の了解をとりつけました。

常一は元興寺文化財研究所に保存されている出土品を調査。ここで古代の技術者たちが、樫の木が水や衝撃に強い利点に着目した点と、二股の巨木から橇を自然なままほとんど手を加えずに完成させた点などを発見して驚嘆します。

しかし、実際の制作に際しては、問題が相次ぎました。材料には沖縄県の徳之島に生育するオキナワウラジロガシが用いられたのですが、出土した修羅と違い、材料は二本に分かれていて継がねばなりません。そして材質面でもかなり劣っていました。

さらに常一が激怒したのはこの木を切り出すタイミングが悪かったことです。「霜がおりんと切ったらあかんねん。ほかの時期に切るとみなボケてしまうんや。切り旬も考えんと切って復元やなんて、そんなん根本から間違うてるでというたわけですわ」と憤慨しました。

前途多難な開始でしたが、結局はこの二本を継ぐことになりました。しかし、二本を接合するボルトは、学者側が強度のために2~3本を主張したのに対して、常一は修羅は水平に引かれるのでなく、上下に揺れる事を予想すれば、そのボルトが本体を割ってしまうと主張しました。

高低差がついても、真ん中でどうにか動くように細工しておけば、ボルトは一本でよいと彼が主張したため、結局学者たちの意見は退けられ、ボルトは一本で済ませ、後は木材で補強することになりました。

作成にはできるだけ古代の作業工程が用いられ、鋸をあまり使用せず、斧とチョウナだけでたった一カ月で彫り上げました。

しかし、常一は、復元作業では接合という余分な作業があったことと、一方では古代には二股の樫の巨木が豊富にあったことを考え、古代のオリジナルの制作にあたっての所要時間は、その当時はもっと早く、半月ほどで完成したのではないかと推測しています。

また、このときこの巨木を鋸を用いずに斧で切ったといいます。

このときの経験から常一は「一日かかったら十分切れます。……力はね。今の人はつかれてきたらもうヒョロヒョロしまんがな。昔の人はああいうもんを使いなれててね。なんでっしゃろ。おそらくわれわれがいま一日かかるものは半日でやってしまうと思います。」と述べて、古代の職人の技量を評価しています。

こうして復元された修羅は同年9月、大阪府藤井寺市の石川と大和川の合流部の河川敷において巨石の運搬実験が行われて、このプロジェクトは成功裏に終わりました。これに感激した唐招提寺長老の森本孝順の依頼も受け、翌1979年インドから請来した大理石宝塔の運搬にもこの修羅が用いられました。

こうして復元された修羅は現在は道明寺天満宮に保存されています。常一はこの修羅復元に際し「昔の人の体力の強さというか優秀さといえばいいのか、それがしみじみと感じられたこと。・・・そして木の使い方がとてもうまいということ。・・・そらえらいもんやな。」と感想を述べています。

論戦

常一が手がけた数々のプロジェクトにおいては、時として学者との間に激しい論争や対立がありました。が、常一は一歩も引かず自論を通し、周囲から「法隆寺には鬼がおる」と畏敬を込めて呼ばれていました。

現場でたたき上げた豊富な経験と勘は、多くの寺院再建の際に大いに活用されたが、その際、多くの学識関係者が持論をもって口を挟んできても堂々と反論し、そのたびに衝突を繰り返しました。

常一は「学者は様式論です。……あんたら理屈言うてなはれ。仕事はわしや。……学者は学者同士喧嘩させとけ。こっちはこっちの思うようにする。結局は大工の造った後の者を系統的に並べて学問としてるだけのことで、大工の弟子以下ということです」と述べて、学者の意見を机上の空論扱いし、歯牙にもかけなかったといいます。

古代建築学の権威で、東京大学工学部名誉教授だった藤島亥治郎や京都大学工学部名誉教授の村田治郎らとも激しくやりあいました。

両者は、創建時の法隆寺金堂の屋根は玉虫厨子と同じ錏葺き(しろこぶき、兜の錏のように途中で流れを変えて二段にした屋根の葺き方)であったという説を指示していたのですが、常一は解体工事の際に垂木の位置と当て木に使われていた釘跡を発見したことから、これは入母屋造りと判断し、彼等にそう主張しました。

双方の論争にまで発展しましたが、結局は釘跡が決定的な証拠となって入母屋造りと判明します。が、常一は特にこのとについて根に持っている風はなかったといい、後年、この時のことを振り返り常一は「ありがたい釘穴やったなあ」とだけ述べていたといいます。

そのほかにも、学者同士の無意味な論争に業を煮やした時は、飛鳥時代は学者でなく大工が寺院を建てたもので「その大工の伝統をわれわれがふまえているのだから、われわれのやっていることは間違いない」と論破するなど、辛辣な言い方をすることも辞さなかったそうです。

法輪寺三重塔再建でも、名古屋工業大学教授の竹島卓一と大論争になりました。竹島教授は法隆寺大修理の工事事務局長で、常一とも面識があり、中国古代建築の専門家としての知識を生かして三重塔の設計を行いました。

しかし、その設計の中に、江戸時代に多用されていた補強用の鉄骨が使用されていたことから、常一はこれに猛反発しました。初めは法輪寺住職の井上慶覚の仲介で両者の関係は穏便になっていましたが、住職の死後、対立は激化していきます。

竹島は、常一の力量を認めながらも、地震などにより飛鳥時代方式の建築技術で造った構造物の崩壊によってその伝統技法が断絶することを恐れ、より高い強度の望める江戸期の技術を採用したいという考えでした。

しかし、常一は江戸期の鉄を補強したやり方ではかえって木材を痛め寿命を縮めるとし、伝統技術の点についても、たとえ構造物が崩壊しても伝承する人間さえ残れば断絶することはないと主張して竹島の考え方を真向否定しました。

やがて両者は感情的に口論する事態となり、果てには新聞紙面で論陣を張るまでに至ります。

もっとも常一は「あの人は学者としてちゃんとした意見を主張してはるわけですわ」と、竹島には敬意を示していて、むしろ本来仲介に立つべき文化庁関係者のほうをより批判していたといいます。

結局、最低限度の鉄骨使用ということで折り合いがつきましたが、帝塚山短期大学名誉教授で日本史家の青山茂が「非常に気持ちのいい論争」と評したように双方とも正論を吐き、情熱を傾けた事件であったといえます。

このように、職人肌の強面の常一でしたが、優しい面も持ち合わせており周囲の人々に慕われていました。弟子の一人がある日、初対面の時薬師寺の塔の図面を一週間貸してほしいと懇願すると、常一ははじめ「門外不出のもんやから貸すことはできん」と断ったそうです。

しかし、この弟子の残念そうな表情を見て「お前、本当に一週間で返しにくるか」と聞き、彼が「もちろんです」と答えたのに対して、「そうか」と言って図面を渡しました。弟子はその優しさに感激し、このときから家族を連れて奈良に住むことを決めたといいます。

1945年8月15日の終戦の日、常一は朝鮮南部の木浦にある望雲飛行場で衛生曹長として警備防衛に就いていました。昭和天皇の玉音放送が流れると、普段威張っていた将校たちは放心状態となり、師団司令部からの終戦報告書提出の命令が出ても書くこともできなかったそうです。

このため、上官から常一が報告書を書くよう命じられ、一時間くらいかかって「八月十五日、終戦の詔勅を拝す。全軍、粛として声なし……」から始まり、日本再建を誓う堂々とした内容の文を書きました。これを読んだ将校から職業を聞かれると「大工です」と答えたのに対して、この上官は驚嘆したといいます。

後年、この時の出来事について常一は「星は上やけど、人間はなっとらんかった」と述懐しています。

また、終戦直後の生活難の時代、息子たちが友人と草野球をするためにグローブを買ってほしいとねだったことがありました。

このとき常一は「お前、今の日本の現状を見よ。遊んでいる暇はないやろ。みんな腹すかしてるんやから、鍬持っていけ。たまには天秤棒でこやしをかついでいけ。それが今の日本のスポーツや。それで鍛錬せい。」と叱ったといいます。

さらには、先人の技術についても時に辛辣ながらも鋭い視点を持って的確にこれを評しました。

「古代の釘はねっとりしとる。これが鎌倉あたりから次第にカサカカして、近世以降のはちゃらちゃらした釘になる」

「寺社建築で一番悪いのは日光東照宮です。装飾のかたまりで……芸者さんです。細い体にベラベラかんざしつけて、打ち掛けつけて、ぽっくりはいて、押したらこける……」といった具合で、独自の感覚による表現を用いて建築、道具などを批評していましたが、どれもが分かりやすく核心を掴んだものでした。

また、大工の腕は一流でしたが、自身はあくまでも法隆寺の宮大工であるという分をわきまえており、神社仏閣は聖なるものとし、これ以外は造営しないという掟を堅く守っていました。

「宮大工は民家は建ててはいかん。けがれるといわれておりましたんや。民家建てた者は宮大工から外されました。ですから、用事のないときは畑作ったり、田んぼ耕しておりました」と語り、自宅を改装する時もわざわざ「よその大工さんにやってもろた」という程の徹底ぶりでした。そのために収入が少なくても気にすることなく清貧に甘んじていました。

幼くして法隆寺に出入りしていた影響から敬虔な仏教徒でもありました。太平洋戦争で召集された時にも、「お太子様が必要とおぼしめしならば、この私をどうぞ生かせてください。」と聖徳太子に祈ったといいます。

幼いころ、法隆寺の管主、佐伯常胤から法華経現代語訳全集を読むように勧められ、親から金を出して貰って購入して読みましたが、後に佐伯に感想を聞かれたとき、「理解できまへんが、ありがたいもんやいうことがわかります」と答え佐伯を喜ばせたといいます。

その晩年、息子には「宮大工というのは、お堂や伽藍を造営するねん。……仏法を知らなあかん。仏法もわからんようなやつは宮大工の座から謹んで去れ」との言葉も残しています。

最晩年は視力の衰えで砥げなくなり、さらに病気のため薬師寺伽藍復興工事の第一線から引いてしまいました。しかし以降も寺側の要請で棟梁の職にとどまり、現場に見回りに出たときには、若い大工に優しく声をかけて教えていたといいます。

後輩たちには優しい棟梁でしたが、しかしそれでも常一が現場に来ると現場には緊張感が走り、休憩時間にもかかわらずテレビが消されるほどであったといいます。

常一はインタビューや座談会で数々の言葉を残しています。ここではそのすべてを紹介できませんが、そのどれもが、彼の人生観や宮大工の仕事へのこだわりが感じられます。

建築史学の学者に対しての意見を求められたときには、「明治以来建築史学いうもんができたけれどね、それまでは史学みたいなもん、あらへん。大工がみな造ったんやね、飛鳥にしろ、白鳳にしろ……結局は大工の造ったあとのものを、系統的に並べて学問としてるだけのことで、大工の弟子以下やというんです」など宮大工という職業に高い誇りを持っていました。

「自然の試験を通らんと、ほんとうにできたといえんのやから、安心はできません」とは、薬師寺西塔再建直後の感想であり、自分が完成させたものがパーフェクトではないという謙虚な姿勢を生涯崩しませんでした。

「自然を征服すると言いますが、それは西洋の考え方です。日本ではそうやない。日本は自然の中にわれわれが生かされている、と、こう思わなくちゃいけませんねえ。」など、東洋と西洋の比較などの文化・歴史的な視点についても独自の考えを持っていました。

そして、「今は太陽はあたりまえ、空気もあたりまえと思っとる。心から自然を尊ぶという人がありませんわな。このままやったら、わたしは1世紀から3世紀のうちに日本は砂漠になるんやないかと思います」と、日本の将来についても警鐘を鳴らしています。

ちなみに常一の父の西岡楢光は、修羅の復元の3年前の昭和50年3月に90歳でその生涯を閉じました。前述のとおり、常一が法隆寺の棟梁となった昭和9年から法隆寺大修理の総棟梁を長らく勤め、のちに法隆寺保存事務所の棟梁となりました。そして死去の前年の昭和49年、常一と次男の楢二郎とともに吉川英治文化賞を受賞しています。

常一本人は、その20年後の1995年(平成7年)癌で死去しました。その墓所からは右前方に、法隆寺大宝蔵院の金色に輝く宝珠を望むことができます。戒名は「光棟院常念大居士」であり、そこには宮大工の棟梁を示す「棟」の文字が誇らしく刻まれています。

常一は、その生涯に一人だけ内弟子を持ちました。寺社建築専門の建設会社「鵤工舎」の創設者であり、栃木県矢板市出身の小川三夫です。

小川は、高校の修学旅行で法隆寺五重塔を見たことがきっかけとなり、卒業後法隆寺宮大工の西岡常一の門を叩きましたが、このときこれを断られています。しかし、あきらめきれず、その後は仏壇屋などで修行をした後に、22歳で再度西岡家の門をたたき、その熱意が認められてこのとき西岡家棟梁の唯一の内弟子となりました。

その後、楢光・常一親子の片腕として彼等を支え、法輪寺三重塔、薬師寺金堂、薬師寺西塔(三重塔)の再建に副棟梁として活躍しました。

生前常一は、小川を評して「たった一人の弟子であるけれども、私の魂を受け継いでくれてると思います」と述べています。

1977年に独立し、徒弟制を基礎とした寺社建築専門の建設会社「鵤工舎」を設立。 弟子の育成とともに、現在も国土安穏寺、国泰寺ほか全国各地の寺院の改修、再建、新築等にあたっています。

こうして最後の宮大工、西岡常一の血脈は現在も絶えずに継承され続けています。その中からいつか、常一よりも優れた宮大工が再び現れることでしょう。

エースよ永遠に……

台風27号はどうやら本土直撃コースは免れそうなかんじですが、雨のほうはまだまだ予断がなりません。伊豆大島の例もあるので、予報にはくれぐれも注意を払うことにしましょう。私は使っているパソコン上に各種の「雨雲ウォッチ」を搭載して、雨域が近づいてくるのをチェックするようにしています。

それにしても曇り空ばかりで嫌になってしまいます。昨日も天気予報では晴れ間が出るようなことを言っていたのですが、結局終日曇天で、がっかりしてしまいました。

早く秋のスカッとした青空が見たいものです。

その青空にちなんでの話ですが、5年ほど前の夏のこと、夏休みに入っていたので、このころもう高校生になっていた息子君ともども山口に帰郷しました。が、近所に友達がいるわけでもなく、退屈そうなので、映画でも見に行くか、と誘ったところ、彼のご指定で、「スカイ・クロラ」というアニメを見ることになりました。

最初はアニメ、ということであまり期待していなかったのですが、本編が始まるとその内容にぐいぐいと引き込まれてしまい、終わったあとには家族3人で大絶賛。映画館と同じビル内にあった、本屋さんでオリジナル・サウンドトラックまで買ってしまいました。

そのCD内の曲を先日もウォークマンに入れて、朝のジョギングの際に聞いていたのですが、久々に聞いたその曲で、3人で暮らしていた東京時代を思い出していました。

「スカイ・クロラシリーズ」は森博嗣の小説「スカイ・クロラ」を初めとする6編からなる小説シリーズであり、そのうちの一番最初のものを映画化したものです。

森博嗣(もり ひろし)さんは小説家ですが、工学博士でもあり、元名古屋大学助教授です。
作者が工学部の助教授であったこともあり、作中ではコンピュータや電子メールを駆使する人物、科学がたくさん出てきます。

また、工学分野に関する専門的な会話が登場人物の間で説明無しに出てくるなど、かなりマニアックな内容のものが多く、難解な数学問題が提示されるという展開から「理系ミステリ」と評されています。

このころ息子君は工業系の高校に在学しており、その関係もあってこの小説については詳しかったようで、彼が我々との映画鑑賞にこれを指定したのも、大人の我々が見たとしても飽きない内容だと思ったからでしょう。そんなところにまで気を使っていたのかな、と改めて思い返している次第です。

森さんは1996年のデビュー当初、広義の推理小説を中心として執筆していたそうですが、次第にSF、幻想小説、架空戦記、剣豪小説などの他ジャンル、ブログの書籍化、エッセイ、絵本、詩集といった他の分野へも進出を果たしていきました。

その後現実とはやや違う世界を舞台に、PMC(民間軍事会社)の戦闘機パイロットをする人間が主人公の作品である、スカイクロラを書こうと思い立ったといいます。この物語の背景には、戦争がありながら政治背景や戦況に関する説明はほとんど無く、物語は終始淡々とした「僕」を語り手として進んでいきます。

主人公は、函南優一といい、本作の語り部でもあるエースパイロットです。詳しい作品の説明はここではしませんが、新しい基地から移って来たカンナミが、何度か敵を迎撃するための出撃を重ねながらも淡々と日々を過ごしていく様子が描かれます。

戦争と並んで「キルドレ」と呼ばれる不思議なクローン人間?の存在が物語に大きく関わってきますが、その詳細は謎に包まれたまま、登場人物の意見が断片的に提示されるという設定です。また登場人物の名前は日本人風なのですが、それ以外に日本を感じさせる要素は全く排除されている点もまたこの作品の不思議さを醸し出すことに寄与しています。

その徹底ぶりは、作中の食事のメニューもステーキやパイなど、特定の国との関わりを連想させないものに限られているそうで、このことから森さんは戦時中の日本のパラレルワールドをを意識してこれを書いたのではないかと思われます。

シリーズは全6巻は、ハードカバー、ノベルス、文庫ともに中央公論新社より刊行されているので、ご興味のある方は購入して呼んでみてください(自分が読んでもいないのに人に勧めるのもなんですが)。

映画版のほうは、「スカイ・クロラ The Sky Crawlers」というタイトルで、2008年8月2日にアニメーション映画化されました。日本テレビ開局55周年記念作品でもあり、日テレ協賛ということで制作会社としてもかなり力の入った作品だったようです。

監督はこうしたアニメで定評のある押井守で、2004年の「イノセンス」以来4年ぶりのアニメ作品となりました。公開は内容は原作にほぼ忠実ですが、映像表現や音楽・音声などはコリにこっており、押井さんはこの作品をもって「若い人に、生きることの意味を伝えたい」と述べ、「本作が成功しなかったら辞める」とまで語ったといいます。

そこまで入れ込んだこの作品は、2008年9月の、第65回ヴェネツィア国際映画祭コンペティション部門では、フューチャー・フィルム・フェスティバル・デジタル・アワード受賞しています。

また、同年10月の第41回シッチェス・カタロニア国際映画祭では、ファンタスティック長編映画コンペティション部門で最優秀映画音楽賞・批評家連盟賞・ヤング審査員賞を受賞などを軒並み受賞したほか、さらに翌年の2009年2月、第63回毎日映画コンクール・アニメーション映画賞を受賞しています。

さらには、東京国際アニメフェア2009・東京アニメアワードキャラクターデザイン賞をも受賞するなど、数々の栄冠に輝き、アニメ作品としての仕上がりは、宮崎駿の諸作品をも凌駕するのではないかと評する向きもあったようです。

オリジナル・サウンドトラックなどの音楽を担当したのは、作曲家の川井憲次さんで、押井守さんとは、映画「紅い眼鏡」でと出会い、その後も押井作品のほとんどの劇場版の作曲を担当しています。上記の2008年の第41回シッチェス・カタロニア国際映画祭では、押井さんの映画本編の各賞受賞とともに最優秀映画音楽賞受賞しています。

音楽のほうも、なかなかのものですから、みなさんもCDショップで見かけたら試聴してみてください。

さて、前置きが長くなりすぎました。そろそろ本題に入りましょう。

この映画でも描かれた「エース・パイロット」は日本では「撃墜王」と訳されています。多数の敵機を主に空中戦で撃墜したパイロット(主に戦闘機パイロット)に与えられる称号ですが、実はれっきとした定義があり、この「多数」とは現在は5機以上と決められています。

航空機が戦闘に使用され始めた第一次世界大戦時からある名称であり、単にエースとも称されます。中でも撃墜機数上位者はトップ・エースと称されることもあります。

第一次世界大戦で戦闘機が誕生した当初、フランスが10機以上撃墜者をエースの資格と定義し、同じ連合国のイギリスや、対戦相手のドイツも同様に10機以上撃墜者をエースとしたのが始まりです。

しかし大戦終盤の1917年に参戦したアメリカは戦闘が短期間であったことを考慮し、5機以上の撃墜者をエースの資格と定義しました。戦間期を経て第二次世界大戦が開始されると、各国は各々の第一次大戦の定義で使用を再開しましたが、のちに連合国・枢軸国ともに5機以上撃墜者をエースの資格とするようルール更新されました。

エースの定義とは別に、第一次大戦時のフランス軍、および第二次大戦時のドイツ軍は、東部戦線・西部戦線作戦方面の難易度に応じたポイント制により叙勲と昇進で表彰しました。また、第二次大戦終盤に空中戦機会が乏しくなったアメリカ軍は、地上破壊機数を貢献ポイントとして別途カウントしたといいます。

日本には「多数機撃墜者」という通称があり、日本軍航空部隊が本格的に参戦した日中戦争以降は上級部隊からの感状・賞詞・叙勲・祝品授与などで表彰され、個人が所属する各飛行部隊もまた、その功績を称えて戦闘記録などを保存するようになりました。

とくに陸軍では将兵の士気高揚の面からも、太平洋戦争時にも引き続いて奨励が行われましたが、残念ながら敗戦により記録文書の多くは焼却されてしまいました。一方の海軍では1943年後半以降軍令部の指示で多くの部隊は個人撃墜数の記録を廃止しており、こちらも太平洋戦争以後のきちんとした記録は残っていません。

そのため操縦者の日記記録などを除き戦歴の詳細が不明な部分が少なくありません。戦後日本の戦史家達は、まだ生存していた彼等の実績を聞き取りなどから解明しようと努力をしつつ、撃墜数についても当時の史料などから全体数の把握を試みたようです。が、はっきりした数は出なかったようです。

しかし1990年代以降、アメリカ軍などの戦勝国の当時の秘密開示が進んだことから、日本軍の戦果報告と連合国軍の損害報告の比較の中で、双方を照合することにより、ある程度客観的に真の撃墜機数を検証することができるようになりました。

その結果として、推定の部分もまだまだありますが、実在した日本のエースパイロットの実際の撃墜数がおおむね把握されるようになりました。

それによれば、5機以上の撃墜数を誇るエースパイロットしては、帝国陸軍では約60名、帝国海軍が約40名となっています。陸軍のほうが多いのは、上述のとおり、海軍に比べて陸軍のほうが記録の保持に熱心だったためです。

そのリストをすべてここに掲載することはできませんが、エースパイロットして記録されている人数は陸軍に多いものの、個人個人の撃墜数においては、圧倒的に海軍のパイロットのほうが多いようです。

これは海軍のパイロットのほうが優秀であったというよりも、広く太平洋中に広がっていた戦線に参加した海軍機が多かったことや、連合艦隊などの援護などのために敵機と遭遇する機会がより陸軍機などよりも多かったためでしょう。

この海軍のエースパイロットの中でも、その撃墜数において群を抜いているのが、西沢広義という人です。協同撃墜429機、撃破49機、単独撃墜36機・撃破2機といわれており、個人としての撃墜記録は87機とも120機以上であったとも言われています。

しかし、海軍では1943年からは個人撃墜数を公式記録に残さなくなったため、詳細な数は不明であり、彼の家族への手紙では143機、戦死時の新聞報道では150機と書かれています。

西沢広義は、1944年(昭和19年)10月、捷号作戦(来襲するアメリカ軍を迎え撃つためにフィリピンから小笠原諸島にかけて引かれた防衛体制)参加のためフィリピンへ進出した際に、戦死しました。

このとき西沢は、乗機をセブ基地の特別攻撃隊に引渡し、新しい飛行機受領のためマバラカット基地へ輸送機に便乗して移動しましたが、その途中、輸送機がミンドロ島北端上空に達したところで、米軍のグラマンF6Fに攻撃を受けて撃墜されました。

戦死後、飛曹長から二階級特進。身長は180センチ以上あったそうで、写真が残されていますが、なかなかの美男子です。ラバウル方面での活躍が多く、戦後書かれた戦記では「ラバウルの魔王」と評されました。

ところが海軍にはまだ、このラバウルの魔王の撃墜記録をはるかに上回る記録を持つ男がいました。

岩本徹三といい、またの名を「零戦虎徹」。「最強の零戦パイロット」と謳われ、日中戦争から太平洋戦争終戦までほぼ最前線で戦い続けました。戦後、その手記は「零戦撃墜王」の題名で出版されていますが。この本で明らかにされている撃墜数は、なんと202機にのぼります。

岩本は、1916年(大正5年)6月14日、警察官の父親の元に樺太国境近くで三男一女のうちの三男として生まれました。父親は東京の警視庁勤務でしたが危険な外地勤務を志願し、陸軍守備隊陣地に囲まれた樺太国境に勤務していたのでした。

父親が北海道札幌の署長に転勤した小学校時代は、札幌で過ごし昭和初期当時にはスキーで小学校に通っていたこともあります。13歳のとき父親の退官で父親の故郷の島根県益田へ引越し、高等科2年から県立益田農林学校に進みました。幼少時よりワンパクですばしっこく勉強より体を動かすことを好んだといいます。

地引網で魚の群れを追い込む浜辺の漁師を手伝ったりする反面、一本気の頑固な正義感の持ち主で教師を辟易させたことがあると伝えられており、子供の頃は、魚突きをして捕らえる名手であったそうです。

益田農林学校を18歳で卒業後、「若いときは勉強のため大学受験し、大学卒業後都会からもどらないつもりの長男や亡くなった次男の代わりに、家に残ってほしい」という父親の意に反して、大学受験と偽って海軍の志願兵試験(豫科練習生予定者)を受験し1934年(昭和9年)に呉海兵団に四等航空兵として入団。

海兵団に入団する際に「自分は三男に生まれたのだから、お国のためにこの命を捧げます」と岩本は、両親に告げたといいます。航空科を選択し、半年後に第三一期普通科整備術練習生として霞ヶ浦海軍航空隊に入隊。1935年(昭和10年)8月20日付けで航空母艦「龍驤」の艦上整備員となりました。

次いで操縦員を志望し、難関を越えて入団してから二年後、1936年(昭和11年)に霞ヶ浦海軍航空隊の第三四期操縦練習生となり、その後も激しい競争を勝ち抜き、同年12月付けで佐伯海軍航空隊勤務、翌年7月に大村航空隊勤務となりました。

これらの操縦訓練生時代ではとくに射撃の成績が抜群だったそうですが、勉学にも励み、消灯のあとでも教本を持って外に出て街灯の光でおそくまで勉強したこともあったと伝えられています。

日中戦争開始後の1938年に第一三航空隊付となり、南京に着任しました。その初陣は、1938年2月25日の南昌空襲であり、このときに4機撃墜確実1機不確実という目覚しい戦果をあげました。さらにその後の支那事変においてはわずか半年の間に日本軍最多数撃墜数である14機を公認されています。

こうした実績を受け、1940年(昭和15年)に勃発した支那事変では、その論功行賞で金鵄勲章の申請の栄誉をうけ、2年後の1942年(昭和17年)夏に、正式に下士官としては異例の「武功抜群相当」に相当する功5級金鵄勲章を叙勲されました。

太平洋戦争開戦前の1940年4月には、日本海軍の中心である連合艦隊第1艦隊の所属として艦隊訓練を開始。とくに予備艦になって整備中だった「龍驤」を使っての激しい母艦訓練を行いました。

その訓練内容は、離艦・着艦、母艦へ夜間着艦訓練、編隊空戦の連携訓練、洋上航法、夜間航法、無線兵器の電信での母艦との通信連絡および電波航法(フェアチャイルド社製クルシー方位探知機による)による帰投などなどであり、それまでは大陸での戦闘が多かった岩本はこの訓練によって、海戦でのコツを徐々につかんでいきました。

翌年、1941年(昭和16年)4月付で連合艦隊内の第1航空艦隊創設にともない、この航空艦隊の第3航空戦隊の所属となり、航空母艦「瑞鳳」の戦闘機隊に配属になり、ここで飛行学校を卒業したての若い後輩たちをも迎え、更なる訓練を続行しました。

その後1941年秋まで、岩本たち搭乗員はその理由を知らされず九州各基地のさまざまな艦で集合して、当時の2大海軍国の米国、英国の飛行技量をしのぐ世界最高の艦隊搭乗員実力を目指して連日、日夜激しい訓練がつづけられました。

種類の違う艦でのその訓練の目的は無論、その後の米国との海戦に備えてのことであり、航空機隊の面々にこれを掩護する場合に備え、その艦形や行動形態を覚えさせるためでした。

しかし、この当時彼が所属していた第1航空艦隊には3人乗り雷撃隊、水平爆撃攻撃隊、2人乗り急降下爆撃隊、単座戦闘機隊合せても艦隊搭乗飛行士総数1000名に満たず、とくに岩本のような熟練者はかなり少なかったといいます。

戦後の岩本の回想録の記述には、こうした人員不足を補うため、以後の太平洋戦線での様々な実戦局面では、幸運や勘ではなく、この時期に艦隊戦闘機隊訓練で体得した技術を生かし、洋上、夜間の飛行操縦術へ科学的に応用活用し、確率を上げて生き抜くことだったと、書かれています。

やがて開戦が近づくにつれ、岩本が開戦前から所属した母艦戦闘機隊は新型航空母艦の登場と艦隊の陣容一新に伴い、編成が順次変更されていきましたが、そのなかにおいて岩本は貴重な中堅かつ中核的な熟練搭乗員の一人でした。

岩本は1940年当時「瑞鳳」の所属でしたが、訓練自体は「龍驤」を中心に行われ、その技量実力ともに太平洋戦争直前には最高潮に達するレベルにまで達し、この訓練によってもっともレベルの高い搭乗員と目されるようになっていました。

また「龍驤」は第1航空艦隊の最強軍艦であり、これを筆頭として「赤城」、「加賀」、「鳳翔」などの他の航空母艦とローテーションを組み、整備と前線配備の質の向上が図られていきました。

この半年後の、1941年9月、10月に最新最大の高速大型航空母艦の「翔鶴」、「瑞鶴」が進水、相次いで予定通り就役し、これに伴い、第5航空戦隊が創設されました。このとき、
岩本ら瑞鳳の戦闘機隊隊員たちは抜擢され、二手に分かれてこの最新鋭艦所属の戦闘機隊に着任し、ここで開戦を迎えることになります。

こうして米軍との開戦準備が進む中、やがてハワイ奇襲に始まる太平洋戦争がはじまりました。開戦時に岩本は、航空母艦「瑞鶴」戦闘機隊員でしたが、瑞鶴も参加した真珠湾攻撃時では、主に艦隊の上空直衛任務に就き戦果はありませんでした。

しかし、その後母艦と共にインド洋作戦で4月5日機動部隊に接触してきたコンソリーデーテッドPBY飛行艇一機撃墜し、この太平洋戦争における初撃墜の戦果を得ました。岩本はその後、この瑞鶴とともに珊瑚海海戦へと転戦します。

1942年5月8日の珊瑚海海戦では、「瑞鶴」上空を直接掩護しつつ、米軍の「レキシントン」、「ヨークタウン」から発した攻撃機による数次攻撃を迎撃しました。

このときもそうですが、以後の太平洋戦争において米軍邀撃機は空母レーダーから日本軍機の位置の指示を受けて時々刻々の対応ができました。が、日本軍は母艦から簡単な敵情程度しか知らされないことも多く、情報戦においては圧倒的に不利でした。

そんな中でも岩本は母艦「瑞鶴」をよく護り、戦闘中には度々艦長や飛行長からたびたび賞賛を受けたといいます。

この海戦では、瑞鶴の岩本の瑞鶴直衛隊の戦闘機3機と翔鶴隊3機が上空警戒に上がり、
高度7500メートルで、30キロメートル先の米攻撃隊を発見し、優位の高度から敵米軍機17機に急降下爆撃を攻撃して投弾を妨害しました。

この攻撃で低空に下がった岩本小隊は、上昇中に瑞鶴後方で味方戦闘機を攻撃中の米F4F戦闘機隊を発見し、これに対して攻撃を加えて岩本は1機を撃墜しています。

この後、米軍は第二次攻撃を開始し、岩本はこの迎撃のために他の小隊と共に発艦し、空母護衛の日本軍巡洋艦に向かった急降下爆撃機に攻撃を加えます。

このとき母艦の瑞鶴はスコールの中に退避して無事でしたが、僚艦の翔鶴は甲板に爆撃を受け、航行に支障はなかったものの、飛行機の発着が不能となりました。さらに翔鶴は集中攻撃を受けた上、米軍のSBD4機が放った500ポンド爆弾の1発が艦橋後方に命中しました。

被害の大きさから艦隊を指揮していた井上成美中将は、日本空母部隊を撤退させましたが、瑞鶴だけは攻撃続行命令受けたために反転。しかし、その後両軍が再度会敵することはなく、瑞鶴の護衛に上がった岩本戦闘機隊の収容が珊瑚海海戦の終了となりました。

この海戦では、瑞鶴と岩本が所属する直衛隊は1名の戦死もなく無傷でした。しかし、他の直衛隊や攻撃隊では多くの搭乗員を失っており、この時岩本は同僚に、「さびしい。涙がにじむ。このように一度に多数の戦友を失ったのははじめてだ。優秀な搭乗員を多数なくして、これからさき、いかにして闘ってゆくつもりだろう」と語っています。

また、この時期、後輩に当たる堀建二2飛曹という人物は岩本から次のような指導を受けたことを記憶していました。

「どんな場合でも、実戦で墜されるのは不注意による。まず第一は見張りだ。真剣に見張りをやって最初にこちらから敵を発見する。そして、その敵がかかってきたら、機銃弾の軸線を外す。そうすれば墜されることはまずない」

1943年11月、岩本らが所属していた部隊の16名は一大航空戦が展開されていたラバウルに派遣されます。ラバウル到着から一週間後に爆撃を受け迎撃のため出撃した岩本は同じ中隊9名に損害を出さず7機を撃墜。また、隊全体で敵52機を撃墜する大戦果をあげました。

しかし、激しい戦いによりベテランパイロットが次々と戦死していきました。そんな中も、生残りの数少ない実力派の搭乗士官(飛曹長=准士官)として岩本は空中指揮を担当し続けていきました。

彼はラバウル航空隊の誇りにかけて、死力を尽くして戦いました。

このころラバウルでは「ラバウルの空は岩本でもつ」と称えられるほどであったといい、ラバウル要塞と周辺空域は、米軍からドラゴンジョーズ(竜のアゴ)と呼ばれ恐れられていました。これは、ラバウルの地形が竜のアゴに似ていることと、侵攻すれば大損害を受けることを恐れてのあだ名でした。

ラバウルでの岩本は、迎撃戦のみならず対地攻撃でも多大な戦果を挙げています。特にブーゲンビル島のタロキナ飛行場への攻撃任務では、単機で出撃して超低空侵入で奇襲に成功し、20機以上の米軍機を銃撃で破壊しました。

しかし、12月以降、敵戦爆連合のラバウル空襲は猛烈で、爆撃機を1週間のべ1000機平均、陸・海・海兵隊と連合国空軍によるラバウル総攻撃(グレゴリー・ボイントン作戦と呼ばれた)が行われ、空前の規模で数ヶ月間、圧倒的機数で日本軍に対する攻撃が連日行われました。

これに対して日本軍はわずか20~30機の零戦で粘り強く対抗しつづけ、岩本の同僚・後輩たちもまた多数の敵機を撃墜しました。このため、実際には少数に過ぎなかった日本軍の兵力をアメリカ軍は過剰に見誤り、日本軍は約1000機をもってアメリカ軍に対抗していると考え、このためにアメリカ本国に増援を求める報告まで発信しています。

このころ、日本軍は、「ラバウル航空隊69対0勝利」といった内容に偽りのある記録フィルムを作成しており、これは日本ではニュース映画「ラバウル」「南海決戦場」として公開されました。69対0はいかにも誇張ではありますが、この時期、地上員から撃墜50機以上の撃墜が実際に目撃されたこともあったそうです。

このニュース映画は、岩本の郷里の益田でも流され、この映画にエースパイロットとしてゼロ戦に搭乗していた岩本を見て「益田の岩本さん」を知ったある女学生がいました。戦後岩本とお見合いで知り合い、結婚することになる幸子夫人です。

このラバウル時代の岩本は、劣勢をカバーするため、とくに編隊による優位位置からの一撃離脱戦法を多用し、極力少ない兵力の消耗を避けようとしていたといいます。

1943年末のラバウルは、飛行機の供給が少なく、すでに4機編隊単位の編隊攻撃になっていましたが、海軍戦闘機では稀と言われた機上無線機のモールス電信を活用し連携を心がけ、基地司令部との交信で来襲情報を受信し、常に迎撃隊を有利な位置に導いて戦闘指揮していました。

岩本の空戦戦法は、常に先制攻撃、優位優速のうちに離脱する編隊戦法が主流でしたが、格闘戦でも絶対的な自信を持っており、ある日の空中戦では、岩本単機対F6F戦闘機4機で空戦に入り、そのことごとくを撃墜したことが地上監視所から報告されています。

この頃の岩本は「5倍や10倍の敵など恐くはない。ただし、エンジントラブルだけはどうしようもない」と戦場で活躍する零戦の現実を記しています。

しかし、岩本の同僚の後年の証言によれば、「岩本君は空戦になると、まず空戦圏外に離れて戦況を見て、戦闘が終わって帰ろうとしている敵機を狙うそうで、そうすれば確かに二百何機も墜とせるのかもしれません」と語っています。

また別の同僚は、「岩本君は撃墜の証として、自分で機体いっぱいに桜の花を描いたけれども、海軍では個人の撃墜記録を認めていなかったこともあり、その行為はあまり良くは思われていませんでした」とも語っており、彼を批判する人も少なくなかったようです。

この証言にもあるように、昭和18年末から19年2月まで、岩本飛曹長の搭乗した253航空隊の102号機は零戦二二型で、撃墜数を表す桜のマークが60~70個も描かれており、遠目からは機体後部がピンク色に見えたといいます。

もちろん、この機体は上空でも敵の目を惹きましたが、岩本はこのピンクを標的にやってくる敵機をことごとく返り討ちにしていったといいます。かつての中国戦線を皮切りに数々の激戦を乗り越えてきただけに、その腕は磨きあげられたものであり、このラバウル時代から既に彼を撃墜王と呼び、頼りにする同僚も多かったそうです。

その後のラバウルは、マッカーサーの南西太平洋方面軍のフィリッピンへの進路にあって米陸海軍が圧倒的な戦力で重点的に攻撃を集中するようになります。

岩本はラバウルで邀撃後、基地に帰還する米軍機を狙ってよく奇襲をかけました。多くの日本軍戦闘機を撃墜したアメリカ軍機の帰路、彼等を待ち伏せ攻撃で奇襲しその多くを撃墜したため、米軍は岩本らを「送り狼」と呼んでいました。

このことが、先述のように同僚が、「戦闘が終わって帰ろうとしている敵機を狙う」と評されることにつながったのです。

このように、攻撃を終えて帰還中の敵を攻撃する「敵側の味方攻撃への直接的阻止」に目的を置かない「送り狼戦法」について岩本は、「我々の今やっている戦法は長い間の実戦の経験から体得されたもので、今来たばかりの部隊にはとうてい理解できないところがあった」と後年述べています。

岩本は、空中戦では常に一番に敵を発見していましたが、実際には視力検査をすると彼の視力は日本海軍パイロットとしては良い方ではなかったといいます。

敵機の索敵方法について教えを請われると「敵機は目でみるんじゃありゃせん、感じるもんです」と言いつつ、同僚や部下たちには戦場の経験から敵編隊群の進攻方向を想定し、プロペラが太陽の光を反射する輝きを察知してゆく彼独自の索敵方法を教えてくれたそうです。

また、会敵までの敵距離の予測を、米軍機の機上電話(短波無線)を傍受しその強弱によって、敵との遠近を推測する彼独自の電子戦を実施していました。

さらに、岩本らのラバウル航空隊では、敵爆撃機の編隊に対して1000~2000m上空から敵の進行方向と正対する様に飛行し、緩降下して敵編隊長機との直線距離が3~500m程度になった時に背面飛行に入り射撃角度を調整しながら急降下するという戦法をよくとっていました。

そして敵機との距離が150m以内に近づいた時に20mm機関砲と7.7mm機銃を直上から爆撃機の操縦席を狙って1~2秒の間に発射し高速で下方向に離脱、再度上昇して反復攻撃するのです。

岩本らはこの戦法を繰り返してB-24撃墜の戦果をあげていたといい、大きな相手に対してはかなり効果的な攻撃方法だったようです。後に岩本は大隈半島上空でこの攻撃法によりB-29を一撃で撃墜したこともあるといいます。

この戦法のメリットは、敵編隊は自機の機速と敵の機動により照準がつけにくく、自機へ向けられる機銃の数が制限される点ですが、デメリットとしては高度な飛行テクニックと計算力、射撃能力が要求されることです。

岩本は「この攻撃方法は1秒でも時間を誤れば失敗するが操作時期さえ良ければ十中八九成功するが、若い搭乗員にはそんな難しい攻撃法はとても無理である」と述べています。

1944年2月、米機動艦隊により大損害を受けたトラック島の防御を固めるため岩本の所属する部隊はラバウルより撤収しトラック島に移動し、ここでの防空戦に従事するようになりました。ところがそれ以来部隊はほとんど機材も人員も補充を受けることが出来ず、遂に飛行可能機が搭乗員の1/3となるまでになりました。

1944年6月、機材を自力で補充するべく岩本ら空輸要員4名は、内地に帰還します。当然機材受領後にトラック島に復帰する予定でしたが、帰還直後に米軍のサイパン侵攻が始まり、戻るための主要空路が遮断されてしまいます。

このため復帰は取り止めとなり、岩本はしばらく木更津空にとどまったあと、8月、柴田武雄司令の岩国三三二空に異動となりました。この時期までに飛行時間は8,000時間を超え、離着陸回数 13,400 回を超えていたといいます。

内地では各航空隊を転々としつつ、教官兼指揮官として勤務しました。戦争は既に末期であり、日本軍が敗退を重ねる戦況でしたが、そんな中にあっても岩本は戦果を重ねていきました。そうした実績も上層部は見逃しておらず、1944年(昭和19年)11月に台湾沖航空戦・フィリピン戦から戻ったとき、岩本は少尉に任官されました。

1945年(昭和20年)6月ころまでは岩国で教育任務を果たすことも比較的多くなった岩本でしたが、この時期になってもなお激戦地での前線での戦闘にも多数参加していました。

先述のように台湾沖航空戦、フィリピン戦にも参加し、帰国後の1945年2月16日の関東地区の米軍来襲においてもこれを迎撃して、戦争末期の日本軍の空戦としては珍しいといわれるような勝利を得ています。

さらには沖縄戦開始の米軍上陸地点を最初に確認した夜間単機強行偵察まで行い、4月~6月半ばまで数次にわたる特攻作戦の直掩もし、4月7日の戦艦「大和」の特攻作戦の時にも出撃しました。その後も鹿児島の鹿屋基地上空でのB-29編隊単機撃墜など何度か死線を越えて引き続き戦果を挙げ続けていました。

沖縄戦開始初頭の夜間強行偵察では、岩本が単機で慶良間諸島で上陸作業中の米軍艦艇を銃撃し、大損害を与えたこともありました。日本軍守備隊があっけなく撃破され、島民が自決を選ぶ最中、勇敢な日本の飛行機がたった1機で米軍に挑む姿が多数の住民に目撃されており、今なおそのときの記憶を留めている人も多いといいます。

太平洋戦争末期には、いろんな形で特攻攻撃が行われるようになりましたが、岩本はこれに対して「この戦法が全軍に伝わると、わが軍の士気は目に見えて衰えてきた。神ならぬ身、生きる道あってこそ兵の士気は上がる。表向きは作ったような元気を装っているが、影では泣いている。」と批判していました。

特攻隊員募集の調査があり、賛否の意思表示を書類に記入するよう上官に命じられた際「死んでは戦争は終わりだ。われわれ戦闘機乗りはどこまでも戦い抜き、敵を一機でも多く叩き落としていくのが任務じゃないか。一度きりの体当たりで死んでたまるか。俺は否だ」との自論を展開し、相手を詰ったといいます。

それでも特攻を推進しようとする上官には「命ある限り戦ってこそ、戦闘機乗りです」と激しく詰め寄ったといい、後年岩本は「こうまでして、下り坂の戦争をやる必要があるのだろうか?勝算のない上層部のやぶれかぶれの最後のあがきとしか思えなかった」と回想しています。

しかし軍隊では命令は至上のものであり、全軍的な特攻への流れにも抗する術もありませんでした。心に湧き上がる怒りを抑えつつ、やむをえず自身も教官として補充搭乗員の教育指導にあたりましたが、彼の指導を受けた者のうち多くが特攻配備となってその若い命を散らしていきました。

その部下たちのその後の死出の活躍を伝え聞き、「短期訓練で、あれだけ困難な任務をよくもやりとげたもものだと、強い感銘を受けた」と語っており、また別の回想録では、近接護衛戦闘機として数十機の特攻機の突入を目の当たりにし、数刻前まで共に存在していた部下たちが消えてしまったことについて次のように書いています。

「髪の毛が逆立つ思いであった。せめて彼らの最後と、その戦果を詳細に見届けておこうと、私は何時までも上空を旋回していた」

さらに戦争末期に自分が訓練を施した搭乗員が次々と散っていったことに対しては、「訓練しては前線に送り、一作戦で全滅させて、またもや訓練の繰り返しである。実戦に役立つ戦力に達するには程遠い。しかし、前線では搭乗員が不足しているのだ」と教官としての葛藤も述べています。

岩本の容貌ですが、このころに指導を受けたある後輩の印象では、目つきが鋭くて眉も太い精悍な顔つきだったそうで、なるほどあれが撃墜数150機の撃墜王だと感じたといいます。強い殺気を感じさせるものがあり、さながら昔の剣客といった印象を持つものも多かったようです。

一方で、日ごろは物静かで、その小柄の体でやさしい風貌の岩本少尉には、どこにそのような力があるのだろうかと感じた、と述懐する人も多くいます。

部下や訓練生、整備兵たちにも信頼され愛された人間でした。予科練出身の若年搭乗員の回想録には「優しい人柄で決して乱暴はせず、むしろそれほどエライ方といった印象は受けなかった」と記述されています。

また、上官からも高い評判を得ていました。

ある上官の中尉の編隊が場外飛行に向かう途中、天候不良で岩国に引き返してきたとき、岩本はこの中尉に「無理をしてはいけないですよ。よく引き返しましたね」とその判断を褒め、褒められた中尉は「あの恐ろしいと思っていた岩本少尉が褒めてくれたのは、何よりも嬉しいことであった」と感じたといいます。

岩本は、常軌を逸した命令に対してはたとえ上官であっても決然と筋を通そうとし、時々上官とも衝突を起しましたが、岩本を理解する上官たちからは強い信頼を寄せられ、前線の戦闘員として以上に後方の教育任務に就くことが望まれていたといいます。

「普段は、見たところ田舎のじいさんのような格好をしていましたが、一旦空に飛び上がれば、向かうところ敵なしでたいてい撃墜して帰ってきました。彼の放った射弾は垂直降下中でも、どの方向からでも敵機に吸い込まれていきました」という証言もあります。

しかし被弾して帰ってくることも多かったといい、あるときは、機体じゅうに被弾しても帰還し、同僚から「よく墜ちなかったなあ」と感嘆されたといいます。

岩本は、救命胴衣の背面には通常は所属部隊と姓名官職を書くところに「零戦虎徹」と書いていたそうで、この「虎徹」とは、新選組局長・近藤勇の佩刀の作者として有名な刀工長曾彌虎徹興里になぞらえたものです。

「天下の浪人」など大書していたといい、この「天下の浪人虎徹」の文字はよく目立ち、名前を聞かずとも岩本少尉であるとすぐわかったといいます。

終戦直前、岩本はB-29への空対空特攻を主任務とする「天雷特別攻撃隊」教官として岩国におり、ここで終戦を迎えました。

しかし天皇による玉音放送を聞いたあとは、喪失感のあまり3日ほど抜け殻のようになっていたそうです。終戦から数日後、搭乗員解散命令で、写真など全部の所持品を焼いて、ウイスキー1本を軍用自転車に積んで、岩国から益田まで帰郷しました。

終戦後の9月5日、海軍中尉に昇任しましたが、官位が上がったこともあり、戦後は東京のGHQに2度呼び出されラバウルなどの戦闘の様子について尋問されました。戦犯にこそ問われることはありませんでしたが、公職追放の身分となりました。

その後、北海道の開拓にあたる日本開拓公社に入社し、昭和22年2月11日、同郷の幸子夫人と見合い結婚することになります。しかし、結婚後わずか3日後には、北海道の開拓に単身出発したといい、しかしながら1年半で心臓を病み帰郷。このとき夫人と再会した岩本は、夫人の顔を忘れていたかのようであったと知人が語っています。

その後の生活は不遇であり、空の生活から地上の生活になじめず、また軍隊気分も抜けず、戦後の世相への適応も簡単ではありませんでした。そしてありがちなことですが、次第に心のはけ口をアルコールへ依存していきました。

しかし、近所の人たちには戦時中の話をして喜ばせることも多かったといい、隣家で結核患者が病死した際、感染を恐れて誰も遺体に近づかない状況をみかねて、岩本は鼻の穴に綿をつめて一人淡々と遺体を葬った、との逸話が残っています。

その後は、益田土木事務所をはじめ、畑仕事、鶏の飼育、駅前の菓子問屋などの職を転々と変わりました。2人の子を持つ父親としての岩本は、手先が器用だったので、子供のおもちゃは自分で作っていたそうです。

トタン、ブリキを買ってきては、おもちゃの自動車を作って色を塗り、このほかにも時計、電蓄、バイクなどもよく自分で修理しました。自動車でさえ近所のポンコツ屋から入手して修理し、これも立派に動きだすので夫人に感心されていたといいます。

1952年(昭和27年)、GHQ統治支配が終わり益田大和紡績会社に職を得てようやく落ち着きましたが、1953年(昭和28年)、盲腸炎を腸炎と誤診され腹部を大手術すること3回、さらに入院中に戦傷を受けた背中が痛みだし、4~5回の手術を受けました。

手術機材がそろわない時代のことでもあり、麻酔をかけずに脇の下を30cmくらい切開して肋骨を2本取り出したこともあったそうです。

その最後は、敗血症により、原発の病名も不明のまま1955年(昭和30年)5月12日、7歳と5歳の男の子を残して逝去。享年38という若さでした。病床にあっても「元気になったらまた飛行機に乗りたい」と語っていたといいます。

戦後20年を経て、彼自身の詳細な回想録が世に出るに至り、その戦歴が明らかにされるようになりました。岩本の次男はその後航空自衛隊に入隊しました。

彼の死後、上官だったひとりは「岩本は、戦闘機乗りになるために生まれてきたような男でした」と語っています。

幸子夫人は、未公開の回想録を後世に伝えた功労者の一人です。先述のとおり、彼がラバウルで活躍していた頃は郷里の女学生であり、日本海軍のエースパイロットとして報道映画を見たのが彼を見た最初のときのことでした。

戦後山陰の郷里にもどった彼と平凡な見合い結婚で結婚し、生き残って苦しい生活の続いた彼を助けましたが、その彼は不運にも早世してしまいました。このため海軍時代を詳細に記した大学ノート3冊の回想録は日の目をみることなく死後10数年間夫人の下に保管されたままになっていたといいます。

その後、ある出版社の人間がこの遺稿の存在を知り、原文を極力尊重して書き写し、戦史研究家にも監修協力してもらって、これは「零戦撃墜王」と題して出版されました。単行本の出版に際し、戦記画家の高荷義之が挿画・装丁図を描き、彼は新装本ではさらに零戦の武装系統図と動作解説を追加し、全面的にその改定に協力したそうです。

幸子夫人もみた、「南海決戦場」という映画は現在も残されているそうです。

1944年1月に撮影されたラバウル基地上空の戦闘を中心にしたフィルムで、岩本の姿が大写しで撮影収録されており、彼自身もこの映画をみたことがあるそうで、彼の回想記には、最後に自分が一人、スクリーンいっぱいに大写しになっているのにはびっくりした、と記述されています。

幸子夫人のほうの回想記には、当時はのちに結婚するとも知らぬまま、彼がラバウル出陣していた頃に益田小学校の屋内体操場で「益田の岩本さん」のニュースが上映されたので大勢で見に行ったと書かれています。そのとき、指揮所の上官に向かって戦果を報告する岩本を見て強い印象を持ったようです。

この映画ではその後半で、白い半そで服、半ズボン夏服姿といういでたちで、難しい顔した部隊の長官らしい人物や他の上級士官たちが、帰りの遅れている搭乗員たちを心配し指揮所の前に出てきて待ち、指揮所前の階段わき、指揮所建物向かって下手側に立てかけた大きな黒板に戦闘報告記入しているシーンもありました。

その次のシーンでは、カボック(綿を中に詰め、ミシンで縫い合わせた救命胴衣)と落下傘バンドを外し、搭乗員帽をかぶったまま搭乗員服に身をつつんだ小柄な空中指揮官である岩本が、中腰で黒板に白墨で書いている斜め後ろ姿が映し出されています。

横書き文字筆跡は、クセや固さ崩しのない整った横書き楷書、当日ラバウル東飛行場零戦隊の全体集計した戦果報告をそのまま最後まで書きつづけ、撃墜計69、被害・被弾8、全機帰着。そして、その最後の「全機帰着」の行に、嬉しく誇らしい勢いある動作でアンダーラインを2本書き込む姿が収録されていました。

このニュースフィルムからは多くの出版社によってスチール写真が取られ、ラバウル戦闘中の零戦関連の写真として焼き増しされ、多くの出版物に掲載されました。

これらのフィルムから焼きだされた写真に写っていた零戦の尾翼機番の部隊マークは、そのすべてが、岩本が所属していた204海軍航空隊の識別番号、「9」で始まっていたそうです……

電流戦争

またまた大型の台風がやってくるようで、今年の秋は短く終わるのかな~とカレンダーをみたところ、まだまだ10月下旬です。

本格的な紅葉の始まる前であり、今度の台風が過ぎ去ってから本番の秋がやってくるはずです。今少し我慢してこの悪天候を見過ごすこととしましょう。

さて、今日は、日本電気協会・日本電球工業会などが定めた「あかりの日」だそうです。

1879年(明治12年)のこの日、エジソンが日本・京都産の竹を使って白熱電球を完成させたのにちなんでおり、このエジソンが白熱電球に使った京都産の竹というのは、京都男山の石清水八幡宮の竹だそうで、この神社の境内には彼の功績を称えた記念碑があります。

電球工業会では「あかりのありがたみを認識する日」と言っているようです。

確かに、今灯りが無くなったら困ることも多いでしょう。夜には何もできなくなりますし、とくに冬場は日が短いので極端に活動時間が減ります。それだけ経済活動も縮小されるということになりますが、逆に子宝に恵まれる家庭が増え、少子化に歯止めがかかるかもしれませんが……

しかし、白熱電球の発明者は実はエジソンではない、ということは意外に知られていません。ご存知だったでしょうか。

実際に白熱電球を発明したのはジョゼフ・スワンという人物で、エジソン自身もフィラメントに京都の竹を使うことで電球の寿命を長くした実績だけを主張していたそうです。

つまり、エジソンはこのスワンの発明した電球を改良しただけということになります。ただ、エジソンにはこの電球に電気を送りこむための送電システムについての大きな功績があり、従って、エジソンは電球を発明したというよりも、電球を改良して「電灯の事業化を成功させた人」として歴史に刻まれるべきでしょう。

電球の発明

この電球を発明した、スワンは、正確には、サー・ジョゼフ・ウィルスン・スワン(Sir Joseph Wilson Swan)といいます。イングランドの物理学者、化学者であり、エジソンが日本の竹を使った電球を開発した1879年よりも30年以上も前の1848年ごろには既に白熱電球の実験に取り組んでいたそうです。

彼の発明した電球は、減圧したガラス球の中に炭化した紙製のフィラメントを入れるというコンセプトでした。1860年にその試作品を実際に発光させることに成功し、この電球はまだ不完全真空でしたが、この炭素フィラメント・白熱電球の特許はイギリスにおいて認められました。

しかし、彼の電球は、充分な真空度がなく、またこのころはまだ一般家庭に対して電力供給が得られなかったことから、小型化と長寿命化、そして実用化はまだ果たせないでいました。

その後、スワンはこの研究から離れていたようですが、15年後の1875年、スワンはより優れた真空技術を手に入れるとともに木綿糸を苛性ソーダで処理したのち炭化させた新型の炭素フィラメントを作成することに成功します。そして、改めてこれを電球に使う研究を再開しました。

このとき、彼はほぼ真空である球内に微量の酸素を残留させることでフィラメントは燃えることなく定常的に白熱し、発光することを発見しました。これによって、これまで懸念であった耐久性(点灯時間)についても飛躍的な性能向上が実現し、1878年12月にはその寿命を40時間にまで伸ばすことに成功しています。

しかし、40時間というのは、これでもまだ実用上はかなり短い寿命であり、しかもスワンのフィラメントは電気抵抗が小さいものだったため、これに対応して電流を小さくするために電力の供給には太い銅線を必要とするというような短所もありました。

しかし、それまではオイルランプが主流であったヨーロッパにおいてはこの発明は画期的なものといえ、スワンがこの電球に関する特許を申請した結果、これは1878年にイギリスで新型電球として再度認可されました。トーマス・エジソンの電球がアメリカにおいて特許認可を受ける一年前のことです。

その翌年の1879年、まだフィラメントの耐久性などに問題はあったものの、スワンはイギリスの一般家庭への電球の導入を検討し始め、その事始めにと歴史的建造物などに電球を試用しました。

また、このころから一部家庭への電気の送電が始まり、イギリスの北東部、ゲイツヘッドのロウ・フェルという場所にあった彼の家にも電気が供給されるようになったため、彼の家は電球が灯った世界最初の一般家庭となりました。

その後彼は、エジソンの改良した竹によるフィラメントのアイデアなども導入し、1881年に彼は「スワン電灯会社」(The Swan Electric Light Company)を創立し、商業的に電球の生産を開始します。

これにエジソンも賛同し、1883 年、二人は合弁でイギリスにエジソン&スワン連合電灯会社(the Edison & Swan United Electric Light Company)を設立しました。

略して「エジスワン」(”Ediswan”)と通称されたこの会社は、エジソンが改良した竹炭にさらに改良を加えて開発した「セルロース製フィラメント」を主力とした電球の販売を本格化させました。

このセルロース製フィラメントは、事実上業界における標準となりましたが、その一方でエジソンは自分が開発した竹製のフィラメントにこだわり続け、自前会社の「エジソン社
(在アメリカ)」は竹製フィラメントによる電球を販売し続けました。

しかしやがてセルロース電球の優位性に兜を脱ぎ、その後エジソン社が1892年にゼネラル・エレクトリック社に吸収されて以降は、完全にセルロースを用いた電球販売に転向しています。セルロースはその後タングステンの発見によりこれに取って代わられ、現在に至っています。

ちなみに、この電球を実用化したスワンは、写真術の研究者としても有名です。このころの写真は湿板写真が主流であり、スワンもまたその研究に取り組んでいましたが、ある日スワンは湿板写真に用いる臭化銀感光剤の感光度が熱によって増進することに気付ましたきました。

こうして1871年までには湿板の乾燥化法を考案し、これが、現在も使われている印画紙となり、写真術の世界に革新をもたらしました。この8年後、彼はこの印画紙の発明によっても特許を取得しています。

戦争の勃発

さて、こうして電球の開発はエジソンとスワンという二人の天才によって実用化の端尾を切り、現代に至るまで人類は暗い夜を照らす灯りに恵まれるようになりました。

その後、エジソンはトースターや電気アイロンなどの数々の電気製品を発明し、自分が設立した研究所で電話、レコードプレーヤー、電気鉄道、鉱石分離装置などを矢継ぎ早に商品化していきました。

しかし、白熱電球にはとくに思い入れがあったようで、彼は白熱電球の名称をゾロアスター教の光と英知の神、アフラ・マズダーから引用し、「マズダ」とも名付けています。

こうして数々の電化製品を開発したエジソンでしたが、その販売拡大のためには、一般家庭への電気の送電の普及化が最重要課題であることを理解していました。このため、電球などの実用化と並行して電力を供給するシステムを確立し、これをこの時代の標準とする運動なども始めていました。

ところが、エジソンが構築した配電システムは、直流でした。ご存知のとおり、我々が現在一般家庭で使っている電力のほとんどは交流による配電システムによって供給されています。

これはなぜかというと、エジソンが提案した直流による送電システムと、交流による送電システムを提案した人物たちの間に熾烈な競争があり、エジソン側がこれに敗れたためです。

1880年代後半の電力事業の黎明期に起こったこの争いは、電流戦争(War of Currents)と呼ばれています。

このエジソンの直流による配電システムに対して、交流による配電システムを主張したのは、ジョージ・ウェスティングハウスとニコラ・テスラという二人でした。

ウェスティングハウスは、アメリカの機械工場所有者の息子として生まれ、鉄道関連の機械技術に関してその才能を発揮した人物として知られており、彼の最初の発明、ロータリースチームエンジンを作成したのは、彼がまだ19歳の時でした。

その後も鉄道車両用の空気ブレーキ等を発明し、1872年には、発明品を製造・販売するため、ウェスティングハウス・エア・ブレーキ・カンパニー(Westinghouse Air Brake Company)を設立しました。

まもなく彼の発明はほとんどの鉄道車両で採用されるようになり、その後もオイルランプを用いていた鉄道信号機の改善を追求し、1881年に彼の信号システムに関する発明品を製造するためにユニオン・スイッチ・アンド・シグナルを設立しています。

一方、ウェスティングハウスはガスの供給や電話の回線交換へも関心を持っており、そこから必然的に電力供給システムへの関心を持つに至りました。彼はこのころエジソンが提唱していた直流による送電システムを検討し、直流ではこれを大規模な送電システムとして発展させていくにはあまりにも非効率である、と結論付けます。

ちょうどこのころ、オーストリア出身で1884年にアメリカに渡り、エジソンの会社・エジソン電灯に採用された技師がおり、これがニコラ・テスラでした。

このテスラは後年、ラジオやラジコン、蛍光灯、空中放電実験で有名なテスラコイルなどの多数の発明を行い、また無線送電システムを提唱したことでも知られ、磁束密度の単位「テスラ」としてその名を歴史に残すようになった人物です。

1856年にオーストリア帝国(現在のクロアチア西部)でセルビア人の両親のもとに生まれました。父はセルビア正教会司祭で、姉が2人と兄、妹が1人ずついましたが、この兄が12歳で事故で亡くなった5歳の頃から幻覚を頻繁に見るようになったとされています。

亡くなった兄が彼の守護霊として彼に付くようになったためかもしれず、その後の彼の天才ぶりはこの兄の助けによるものかもしれません。

この兄は「テスラ以上の神童」と呼ばれていたそうで、テスラはこの兄を上回るために勉学に励み、特に数学において突出した才能を発揮しました。そして23歳のとき、オーストリア中部グラーツという小さな町のポリテクニック・スクールに在学中に、その後生涯に渡って関わることになる交流の電磁誘導の原理を発見します。

その後プラハ大学を卒業したのち、エジソン社のフランス法人に勤められて渡米。エジソンのもとで働くようになりました。テスラがエジソン電灯に入社した当時、エジソンは既に研究者・発明家として実績を積み重ねた有名人であり、テスラはエジソンに対して憧れや敬意を持って就職したものと考えられています。

このエジソン社に入社したばかりの新人のテスラをエジソンも高く評価していたようですが、技術的には自分のほうが上という奢りがあったのか、エジソンは彼好みの直流用に設計されたシステムをテスラの交流電源で動かすことが出来たなら、褒賞金として5万ドルを払うと彼に提案しました。

直流の優位性・安全性また交流の難しさなどを考慮したうえでの発言だったといわれていますが、ところがテスラはこの難題に挑戦してみごとこれをクリアし、交流の効率の良さを見せつけました。

ところが、交流の優位性を認めたくないエジソンはこの褒賞の件を「冗談」で済ませたため、テスラは激怒し、その後退社することになります。

こうしてエジソンの元を去ったテスラが、交流による送電システムの検討をしていたジョージ・ウェスティングハウスと知り合ったのは1880年代後半のことであり、必然のように二人は手を組むようになり、トーマス・エジソンと敵対するようになります。

この争いは無論、次世代の送電システムに関して、エジソンが直流送電(DC)を提案したのに対して、ウエスティングハウスとニコラ・テスラが交流送電(AC)を主張したために始まったものです。

このころアメリカ合衆国においては、電力事業の創世時代における送電システムは、エジソンの直流送電が標準方式と目されていました。直流は、このころ発明されていたモーターと同様に白熱灯にも適した送電方式であると考えられ、直流の普及こそが電力需要を押し上げると考えられていたためです。

また、直流送電が主流であり続ければ、これに関しての特許を持つエジソンはこのシステムを電力会社が使うことから得られる莫大な特許使用料を手に入れることができました。このため、彼は直流送電システムへのテコ入れをとりやめるつもりはありませんでした。

しかし、一方のテスラは自身の回転磁界の研究から交流電力の発電、送電、使用のシステムの優位性を確信し、これを商業化するためにジョージ・ウェスティングハウスと契約を結んだのです。

交流送電は、テスラが持っていたようなかなり高度な数学的物理学な知識がなければ、理解し開発することができなかったといわれています。冷静に考えれば、こうした確固たる科学技術に裏付けされた交流システムとの勝負の行方は見切れたでしょうが、残念なことにエジソンは数学物理の専門家とはいえませんでした。

完全無欠な実験科学者であり、大変な努力家でしたが、小学校しか出ておらず、こうした高度な知識を持ったテスラに対しても反感を持っていたと思われ、しかもこのころ電球の実用化によって成功を積んで天狗になっていたエジソンには、実績もない彼等に負けることは許されませんでした。

一方のテスラと手を組むようになったウエスティングハウスは、これ以前からもテスラの業績を評価しており、このため彼の多相システムの特許権を買うとともに、フランスの発明家であるルシアン・ゴーラールらからもAC変圧器のための特許権を買い、これらの技術を用いた交流送電システムをもってエジソンに対抗する準備を着々と進めました。

交流の最大の利点は、変圧器を用いた電圧の変換が容易であることにあります。電線自体の抵抗によって送電する電流の減衰はやむを得ない事ですがが、交流の場合、電圧をより高くすれば減衰は低く抑えられるため、効率良い送電ができます。

このため発電所からの送電を高電圧で行えば遠くへ送電しやすく、家庭で使うときには配電する直前に使用しやすい電圧にまで下げるということが可能となります。

また直流が必須である電気器具を使用する場合も、交流から直流への変換は容易です。ところが、逆に直流から交流への変換は困難であり、こうした点からも一般家庭で電気を送る場合のシステムとしては交流のほうが直流よりも有利であることは明白でした。

一方のエジソンの直流送電システムはまた、発電所と重い配電線、そしてそれらから電気を取り出す消費者の家電製品、例えば照明とモーターなどで構成されていました。

このシステムは全体を通じて同じ電圧で作動します。例えば100Vの電球が消費者の場所に接続されていたとすると、発電機は発電所から消費地までの送電線の抵抗による電圧降下を考慮して、若干高めの110Vで発電を行います。

仮に発電所に近い場所の家庭で110Vに近い電圧がかかっても、この程度の電圧差は電球などの持つ性能で相殺できる程度のものであり、この当時は大きな問題ではないとされていました。

しかし、直流の伝送システムの場合は三線式の配線が必要でした。このシステムでは、三本の線はそれぞれ+110V、0V、-110Vの電圧がかけられています。

そして、例えば100Vの電球を試用する場合、この+110Vの線と0Vの線の間、または0Vと-110Vの線の間のいずれかに電球が接続され、0Vの線(「中性線」)には、+線と-線の電流差分だけが流れるしくみになっていました。

この三線式システムは、送電圧が100V程度と交流に比べるとかなり低い値に留められたにもかかわらず、比較的高い効率を出すことができました。

しかし、電流を流す電線、つまり導体の抵抗による電圧降下はかなり大きく、このため発電所と消費地(一般家庭)との距離はせいぜい1.6km程度にとどめるか、あるいは電圧低下を防ぐために高価な銅線を試用した極太の電線を使用する必要がありました。

一方の交流送電の最大の長所は、前術のとおり、変圧器によって容易に電圧を変えられることです。電力は電圧と電流の積によってあらわされ、電圧V、電流I、電力Pとすると、P=VIの関係が成立します。

これが意味するところは、高い電圧を送電線で送れば、同じ電力を送るときでも電線に流す電流を相対的に低い値で抑えることができるということです。

また、電流を電線に流すとき、金属電線には電気抵抗があるので、送電時に一部の電力は熱として失われます。しかし、変圧器で高い電圧に変えてから送電すれば、この電流を相対的に減らすことができ、この送電損失を減らすことができます。

こうした送電損失を式で表すと、送電線の電気抵抗Rとして、送電損失はP’=R・I2(二乗)となります。すなわち、電圧を10倍にあげてやれば、電流I=P/Vは10分の1となり、この計算式によればこのときの損失は、電流に比例してその二乗分の100分の1にまで減らすことができることになります。

しかし、このために送電線には高圧の電流が流れることになり、大変危険です。ただ、これを人が近づけないような高所に設けるなどして隔離できれば、安全にかなり遠くまで電力を送ることができます。

現在も送電線は人の手の届かないような高架に吊り下げられて取り付けられていますが、今日では、ここでの交流送電のために100万ボルト級もの高電圧の電流が流せるようになっています。

こうした現在では中学校あたりでも教えているような理論も、小学校しか出ていないエジソンには理解できなかったようです。一説によればエジソンは微分積分などの高等数学の知識もなかったといわれており、両者の確執もまたこのエジソンの無知(といえるかどうか)から出たものともいわれています。

が、無論学力の差うんぬんはともかく、近代的な送電システムとしては、この当時としては交流のほうが直流よりもすぐれていたことがこれらのことからもわかります。そしてエジソンは必然的にこの争いに敗れていくことになります。

エジソンの妨害活動

やがてエジソンはこうしたウェスティングハウスとテスラによる交流による伝送システムの提唱に対して、妨害のための激しい宣伝工作を行うようになっていきました。

人々に交流の危険性を印象付けるため、個人的に動物を交流電気によって処分する実験まではじめ、その犠牲者ははじめは野良犬や野良猫でしたが、最終的には象にまで及んでいます。

ニューヨーク市のブルックリン地区にコニーアイランドという半島がありますが、ここの遊園地の象のトプシーは、飼育員を殺すなどしたことから薬殺処分されることが決まっていました。

ところが、エジソン側は交流電流の危険を訴えるために公開の場でこの象を電気ショックで殺すことを提案しました。そして遊園地側はこの提案を受け、こうして哀れなトプシーは、交流電気のショックで殺処分されることとなり、彼がわずか数秒で殺される場面を収めた映画は、エジソンの手によって全米で公開され話題を集めます。

これに対して、テスラ側も黙っておらず、逆に人体に交流電気を流しても安全であることを示すショーを行い、これを新聞に報道させることなどによりその安全性を主張しました。

しかし、エジソンの攻撃はエスカレートする一方であり、新聞などを使って「処刑される」ことを「ウェスティングハウスされる」と呼ぶように働きかけをするなどさらにその攻撃はエスカレートしていきます。

また、エジソンは死刑制度には反対派だったといわれていますが、このころ発明された電気椅子が交流電源を用いていたことから、このことを世間に知らしめることによって交流が非難されるよう仕向けるようになります。

そして、このころ電気椅子を発明したハロルド・P・ブラウン(Harold Pitney Brown)という男を使って、交流はより致命的であるという考えを普及させようとたくらみます。

あるとき、交流電流で感電死した若い技術者の事故死の記事をブラウンがニューヨークポストに書いたのがトーマス・エジソンの目に留まり、感電死の研究ならびに電気椅子の開発の為にわざわざ彼を雇うことにしたのです。

やがてブラウンはこのエジソンの意向を受け、交流電流の危険性をアピールするためにニュージャージー州の研究所で様々な感電ショーを開催しはじめました。

犬や猫から豚や牛などの大型獣の殺処分を交流により行い、先述の「トプシー感電死」も彼が企画したものであり、電気+処刑(Electric+execution)で感電死(Electrocution)という造語を作ったのも彼だといわれています。

このころ、ニューヨーク州は、絞首刑に代る新しい、より人道的な死刑執行システムを模索しており、1886年、これを検討するための委員会を設立しました。エジソンらはここにも電気椅子を売り込み、この電気椅子は1889年にニューヨーク市に正式に採用されました。

こうして、ブラウンの感電ショーは最終的に人間で行われることにまで発展しました。

最初の電気椅子は1890年に使用されるところとなり、その最初の処刑は、州の電気技師のエドウィン・デーヴィスの管理によって一般公開で実施されることになりました。このとき、「被験者」である死刑囚ウィリアム・ケムラーへの最初の死刑執行では必要な電圧が足りず、最初の電撃では処刑ができませんでした。

ケムラーの体からは煙のようなものが上がったものの重傷を負わせただけで死にきれず、電撃を繰り返さねばならなかったといい、このとき公開処刑場には肉が焼ける臭いが充満したといいます。この公開処刑を取材していたリポーターは「恐ろしい光景だ。絞首刑よりはるかに悪い」と書き残しています。

この事実を知ったジョージ・ウェスティングハウスは、のちに新聞記者の取材を受けたときに次のようにコメントしたと伝えられています。「彼らは斧を使うべきだった」……

ナイアガラの滝

さて、こうして両陣営化に激しい電流戦争が生じていたこのころのアメリカは、エジソンらが世に送り出した電球やその他の電気製品の普及により、次第に莫大な電力が必要になってきていました。

このため、政府お抱えの専門家たちは、とくに東部に集中する電力需要の上昇に対して、このエネルギー問題の解決手段としてナイアガラの滝を利用して発電することを提案しました。

このころ、エジソンは現在までも続くゼネラル・エレクトリック社を既に設立しており、彼はこのナイアガラ発電所からの送電システムにおいてもこの会社を配給会社として直流電流を送ることの提案をし始め、これに対して、テスラ側もまたACシステムの採用を提案してきました。

ナイアガラの滝は、カナダとの国境にあります。このため、このナイアガラ発電所からのこの送電システムの論争については、両国による国際的なナイアガラフォールズ委員会が結論を下すことになりました。

この委員会は電磁気学や流体力学の権威でイギリスの著名な物理学者ケルヴィン卿によってリードされ、アメリカの五大財閥のひとつ、J・P・モルガンや、かの有名なロスチャイルド家のロートシルト卿のような企業家に支持されたた委員会でした。

その結果として、委員会はテスラ側の交流式を正式採用しました。こうしてナイアガラフォールズ発電プロジェクトは1893年に始まり、テスラらの技術は滝からの電力を生成する過程においても適用されるようになり、また送電ステムにおいても交流が採用されることになりました。

しかし、実際に発電所が完成し、設備が完成するのにはその後5年もの年月がかかりました。

この間、このシステムが米東部のとくにバッファローなどの工業の電力需要をまかなうことができるか否かについては、エジソンを含めて疑問を呈する者が多数でましたが、テスラは発電所がうまく機能することを確信しており、ナイアガラの滝は東海岸のすべての電力需要をまかなうことができると発言しました。

1896年11月16日、ついにナイアガラの滝のE・D・アダムズ発電所(Edward Dean Adams Station)に設置された水力発電機からバッファローの工業地帯への送電が始まりました。水力発電機はテスラの特許を用いてウェスティングハウス・エレクトリックが作成したもので、発電機の銘板にはテスラの名前が刻まれていました。

ただ、このとき、テスラは北アメリカの電源周波数の標準として60ヘルツを設定しましたが、このナイアガラの最初の発電所は25ヘルツであり、この発電所はその後も長い間25ヘルツで発電されることになりました。が、それ以外ではテスラらの技術力が全面的に米政府に認められた形となり、このときエジソンらの敗退が決定づけられました。

戦争の末

その後交流による配電システムは、全米の発電および送電において直流から主役の座を交替させることになっていきました。これは交流の特性を生かした送電範囲の大幅な拡大と、送電における安全性と効率の向上によるものにほかなりません。

エジソンの直流を用いた低電圧送電システムは、最終的にはテスラの多相システムに敗れることになりましたが、エジソン傘下のゼネラル・エレクトリックの中にも交流を支持する者が出てくるようになり、その一人、チャールズ・プロテウス・スタインメッツという技師が提案した交流用機器が政府に採用されるといったようなことも起きました。

こうしてテスラらによるナイアガラの滝の発電所の成功は、その後アメリカという国が、国をあげて交流を受け入れる上でのターニングポイントとなりました。その後、最終的には、エジソンのジェネラル・エレクトリック社もまた交流システムに転換し、交流用機器を製作するようになっていきました。

しかし、20世紀に入ってもなおアメリカ以外の世界の幾つかの都市では直流送電網を採用していました。例えばフィンランドのヘルシンキの中心部では1940年代の後半まで直流送電網がありました。そのため都市部の直流送電網のために水銀整流器による整流所で交流を直流に変換していました。

その理由は、直流送電には電線などの送電設備が重厚になるという欠点はありますが、小規模な送電網においては、末端で使われる機器の規模も小さくできるという利点があったためです。

このほか、アメリカでもニューヨーク市の電力会社であるコンソリデーテッド・エジソン社は、20世紀初めまでは主としてエレベータ用として直流を採用した利用者のために直流の供給を続けていました。ただ、2005年1月、コンソリデーテッド・エジソンは、年末までにマンハッタンの残り1600件の顧客への直流送電を停止すると発表し、現在は停止しています。

しかし、現在もなおニューヨーク市の地下鉄は直流で動き続けています。他にも世界中で直流電化のもと稼動している鉄道は数多く、日本でも大都市圏を中心に人口密集地を走る路線で多用されています。

ただし、これらのほとんどは電力会社から直流の電流を直接供給されているのではなく、交流で供給された電流をいったん変電所で直流に整流してから車両に供給されています。

鉄道の電化については、運転密度が過密であるほど直流送電のほうが低コストとなる事情が絡んでいるため、都市近郊路線では、現在でも直流送電が主力であり、これは日本も同じです。

そもそも電気鉄道は、アメリカも日本も直流電源を用いる方式ではじまったものです。しかし市内電車や近距離鉄道には向いていましたが、長距離鉄道には変電所の建設や送電のコスト、電圧降下などの問題があり、このために現在では交流電化のほうが主流になりました。

交流は変圧が容易なため、交流電化方式では架線に特別に高い電圧(10kV以上)をかけ、車上でこれを降圧・整流してモータに供給するため、少ない変電所の増設で50~100kmもの長大区間に同一システムを使って鉄道を敷設することができます。

これに対して、直流では500~3000V程度の電圧で済みますが、太い架線や給電線を使う必要があり、これによる電圧降下を考慮すると変電所間隔は5~10km程度と狭くなり、多数の変電所が必要となります。

このため、直流電化では地上設備側のコストが高くつきますが、一方では車両側では降圧・整流装置などが不要となり、製造コストは交流車両にくらべて低くなります。したがって、運転頻度が高く、編成両数の多い路線に向いた電化方式といえます。

このため、日本でも現在も北陸本線のように、列車本数を増やすため、および他線区からの直通を目的として、交流電化区間の一部をわざわざ直流電化に転換した例さえあります。

また、電圧の高い交流電化に比べて周囲の絶縁物を少なくすることができるので、結果として鉄道を構成する線路周りの建築物等の規模もまた小さくできます。このため、トンネルなどのような重厚な断面区間が多い地下鉄では直流電化のほうが有利になります。このため東京などの地下鉄では直流システムが大多数です。

このほか、非電化であった七尾線をディーゼルから電化するにあたっては、既に交流電化が終わっていた金沢駅が起点とされましたが、従来の小断面トンネルをそのまま利用するため、直流電化が採用されたといった例もあります。

このように、テスラとの電流戦争に破れはしたものの、エジソンの提案した直流による電力伝送システムは現在も我々の生活を支えています。

さて、今日の話もだんだんと長くなってきたので、そろそろ終わりにしましょう。が、最後にもうひとつだけエジソンにまつわるお話をひとつだけ。

京都嵐山の法輪寺というお寺にはエジソンの記念碑があります。この境内には「電電宮」というお宮があり、これは法輪寺の鎮守社のひとつで、電気・電波の祖神として信仰されている神社です。

昭和31年(1956年)、当時の近畿電波監理局長・平林金之助は、今後電波の利用が多くなることから、それまでこの地にあった電電明神を電気電波の祖神として祀り、併せて電気電波関連の研究先覚者や事業者の霊を顕彰すべきであると主唱しました。

これに賛同した関西の電気電波関係者により、法輪寺境内に電気電波関係者の霊を顕彰する記念碑として「電電塔」が建てられました。このとき、この電電塔には電気研究者の代表としてエジソンの銅製の肖像が掲げられることとなり、また電波研究者の代表としてヘルツの銅製の肖像も掲げられました。

昭和44年(1969年)には大阪万博を記念して社殿が再建され、これは正式に電電宮と改称されました。

そしてその後の昭和54年(1979年)には、電電宮護持会という後援組織まで結成され、電電宮・電電塔の維持行われるようになり、この電電宮は今日では、電気・電波だけでなくコンピュータ関係者や電気通信事業者からも信仰を集めるようになっています。

おそらく今日はエジソンにもちなむ「あかりの日」ということで、このお宮さんでは奉納神事が行われているに違いありません。いつもコンピュータにお世話になっている私としては、今すぐにでも手を合わせに行きたいところですが、さすがに距離があることでもあり、西方に手を合わせるだけにしたいと思います。

ちなみにこの法輪寺では、電気自動車およびハイブリッドカーの電気システム安全祈願を受け付けているそうです。

プリウスやフィットにお乗りの貴兄も、一度参拝に参られてはいかがでしょうか。