憑いてますか?


1912年に、北大西洋上で氷山に接触して沈没したタイタニック号の遭難者の中には、多数の有名人がいました。

その中には、タイタニックの設計者であるトーマス・アンドリューズをはじめとして、アメリカの実業家や、小説家、著名な図書収集家や土木技術者なども含まれていましたが、もうひとり、ウィリアム・トーマス・ステッド(William Thomas Stead)という人がいました。

イギリスのジャーナリストであり、スピリチュアリズムの開拓者ともいわれ、タイタニックの沈没を予言していたともいわれる人物です。

1849年にイングランド最北の地、ノーザンブリアというところで英国教会の牧師であった父の元に生まれ、学校には行かず、この父から教育を受けて、14歳でニューキャッスルの会計事務所で働き始めました。

もともと文才があったようです。21歳のときに地元の新聞に寄稿し、認められて編集者になり、ここで10年以上勤めたあと、34歳のときにロンドンに出て「ペルメル・ガゼット」という新聞社の編集者となりました。

その後、救世軍に助けを求めた少女を取材したのをきっかけに、同紙に「現代のバビロンにおける少女の生贄」を掲載して白人少女奴隷売買に反対するキャンペーンを張るなどの活動を始めましたが、この運動では34万人の署名を集めました。また、政府を動かして女性の性交同意年齢を13歳から16歳に引き上げることに成功しました。

救世軍(The Salvation Army)というのは、現在も世界126の国と地域で伝道事業、社会福祉事業、教育事業、医療事業を推進するプロテスタント系の教派団体で、日本でも日本福音同盟に加盟して活動を行っています。

アメリカの著名な経済専門誌「フォーブス」の1997年8月11日号ではピーター・ドラッカーから「全米で最も効率の高い組織」として評価され、1991年と2004年にはノーベル平和賞候補に挙げられており、現在イギリス国内においては政府に次ぐ規模の社会福祉団体であり、全世界でも有数な社会福祉団体です。

42歳のとき、この救世軍の創立者ウィリアム・ブースによる、英国の貧困層3百万人の救済構想「最暗黒の英国及びその出路」が執筆されたときにもこの出版に協力しており、現在の救世軍の礎を築いた人物のひとりといっても過言ではないでしょう。

実はこのトーマス・ステッドは、霊媒師としても知られており、自動書記能力を持っているとされていました。ウィリアム・ブースの著作の出版に尽力していたころの4年間ほどには、自らの自動書記を通じて、死去した友人ジュリア・エイムスという人物からの通信を受け取ったとして、それを編集したもの出版しています。

これは「Letters from Julia」(ジュリアからの便り)というタイトルの本で、これはイギリスのみならず世界的にみてもスピリチュアリズムの本としてはもっとも売れたもののひとつです。

1909年、故ジュリアからの要望と称して、霊界通信のための事務局「ジュリア顕幽連絡局」を設立し、肉親と死別した人々のため無償で通信を試みるなどの新たな取り組みも開始し始めていましたが、その三年後の1912年、ステッドはタイタニック号沈没で死去。享年63歳でした。

この「自動筆記」ですが、「自動記述」ともいわれ、原語の英語表記ではオートマティスム(Automatism、Automatic writing)といいます。もともとは心理学用語であり、科学的にも研究されています。

あたかも、何か別の存在に憑依されて肉体を支配されているかのように、自分の意識とは無関係に動作を行ってしまう現象などを指します。

たとえば霊媒や、予言者・チャネラーなどと呼ばれる人々は、「死者の霊が下りてきた」「神や霊に命令されている・体を乗っ取られている」「高次元の存在や宇宙人とチャネリングと行う」などの「理由」により、無意識的にペンを動かしたり語り始めたりする行動です。

その多くは霊などがこの世界に接触を図る方法として説明されており、日本ではかつて「神がかり」「お筆先」とも呼ばれていました。

以前、我が家に泊まりにいらっしゃったことのある広島の御神職、Sさんもこの自動書記ができる方で、我々夫婦も先祖の霊からの伝言を自動書記していただいたことがあります。

私の場合、Sさんに見て頂いたときは、かなり古い先祖の霊が降りてこられたようで、文書化されたその文章もかなり古い日本語でした。今も大事に取ってありますが、そのことはまたいつか別の機会にでも書きましょう。

この「自動書記(Automatism)」というものを世界的に有名にしたのは、フランスの詩人でダダイストでもあったアンドレ・ブルトンであるといわれています。

アンドレ・ブルトンは、第一次世界大戦後にダダイスムと決別して精神分析などを取り入れ、新たな芸術運動を展開しようとした人物として知られています。

ダダイスム(Dadaïsme)というのはフランス語で、1910年代半ばに起こった芸術思想・芸術運動のことです。ダダイズム、あるいは単にダダとも呼ばれます。

第一次世界大戦に対する抵抗やそれによってもたらされた虚無を根底に持っており、既成の秩序や常識に対する、否定、攻撃、破壊といった思想を大きな特徴とし、このダダイスムに傾倒した芸術家たちはダダイストと呼ばれました。

アンドレ・ブルトンは、第一次世界大戦頃、この当時はまだフランスではあまり知られていなかったオーストリアの精神分析学者、フロイトの心理学に触れ、終戦後ルイ・アラゴン、フィリップ・スーポーといった共産主義文学者らとともに、ダダに参加しました。

が、1920年代に入ってダダの中で台頭してきた別の一派と対立するようになり、盟友のアラゴンやスーポーらとともにダダと決別します。そのあと1924年になり、盟友のアラゴンやスーポーらとともに新たな芸術運動を展開、その活動開始を宣言する「シュルレアリスム宣言」の起草によって、いわゆるシュルレアリスムを創始しました。

シュルレアリスム( Surréalisme)はフランス語で日本語では「超現実主義」と訳されます。自動書記によって眠りながらの口述や、常軌を逸した高速で文章や絵を書く実験から始まったもので、半ば眠って意識の朦朧とした状態で芸術作品を仕上げていきます。

このとき、彼が宣言前後から行っていた詩作の実験がのちにオートマティスム(自動書記)と呼ばれるようになっていきました。

自動書記は、内容は二の次で時間内に原稿用紙を単語で埋めるという過酷な状態の中で作業を進めます。美意識や倫理といったような意識が邪魔をしない状況の中で書かれるもので、こうした奇抜な方法により、それまで誰もが考えもしなかったような意外な文章が出来上がるといいます。

無意識や意識下の世界を反映して出来上がった文や詩から、自分達の過ごす現実の裏側や内側にあると定義されたより過剰な現実・「超現実」が表現でき、自分達の現実も見直すことができるといわれています。

この自動書記に代表されるシュルレアリスムとは、もともとはまるで夢の中を覘いているような独特の現実感といったような意味で、略語の「シュール」は日本語では「非現実的」「現実離れ」と訳され、現在の日本ではブラックジョークを指す時のことばとして扱われることもあります。

やがてシュルレアリスムということば、文学作品だけでなく、絵画や写真の世界でも使われるようになり、新しい芸術の形態、主張として定着していきました。

シュルレアリスムは、思想的には上述のフロイトの精神分析の強い影響下にあって人間が意識していないいわゆる「無意識」を表現するという心理学的側面を持っていました。

また、視覚的にはジョルジョ・デ・キリコに代表される形而上絵画作品の影響下にありました。

形而上絵画というのは、キリコの典型的な作品の例をあげると、画面の左右で、遠近法における焦点がずれている、彫刻、または、マネキンなどの特異な静物が描かれている、長い影が描かれている、時計は、正午示しているのに、影がひどく長い、煙を吐く汽車が描かれてきるのに、煙はまっすぐ上に向かっている、などなどです。

こうした「いびつな」絵を見る者は、静謐、郷愁、謎、幻惑、困惑、不安などを感じることが多いものですが、これが書き手の狙いでもあり、個人の意識よりも、無意識や集団の意識、夢、偶然などを重視する技法です。

こうした技術がシュルレアリスムと直結しました。結果として文学や絵画全体を含めて合体し、自動筆記による文学作品やデペイズマン、コラージュなど偶然性を利用して見る側の主観を排除した技法や手法として世界中に広まっていきました。

コラージュというのはお分かりだと思います。新聞の切り抜き、壁紙、書類、雑多な物体などを組み合わせることで、例えば壁画のような造形作品を構成する芸術的な創作技法であり、見る相手を混乱させます。

デペイズマン (dépaysement) というのは、もともとは「異郷の地に送ること」というような意味ですが、こちれも意外な組み合わせをおこなうことによって、受け手を驚かせ、途方にくれさせるという技法で、マグリットやキリコなどが得意とした技法です。

例えば、野球をする人たちの上に黒いオサガメが浮かんでいる、部屋いっぱいに、巨大なリンゴが描かれている、絵の一部が夜なのに、他の一部が昼であったりする、石でできた巨大なリンゴとナシ、波打ちぎわに上半身が魚・下半身が人間の体をした生き物が横たわっている、などの奇抜な絵をご覧になった方も多いでしょう。

キリコらの形而上絵画とも似てはいますが、困惑、不安などは感じさせず、こちらはあくまで受けてを驚かせ、混乱させ、別の次元に連れて行くことを目的とした技法です。

なお、アンドレ・ブルトンが見限ったダダイスムとシュルレアリスムの関係としては、ダダに参加していた多くの作家がシュルレアリスムに移行しているという事実からしてもわかるように、思想的にも似通っています。いずれも既成の秩序や常識等を否定し、新しい芸術分野を切り開こうとした点では共通点が多いようです。

ダダイズムはシュルレアリスムの勃興により衰えましたが、1960年代にアメリカで復興し、これはネオダダと呼ばれ、「反芸術」運動として隆盛し、のちのポップ・アートやコンセプチュアリズムなどへと分岐するもととなりました。ダダの表現方法とし現在も生き残っているものの代表には写真表現としてのフォトモンタージュなどがあります。

さて、このようにシュルレアリスムは、アンドレ・ブルトンはらの詩人によって先導されました。その後他の芸術分野にも広く支持され、多岐にわたって派生し、絵画だけでなく写真の分野などでも大きな影響を与えたことは上述のとおりです。

写真の世界でシュルレアリスム写真家として最も有名なのはマン・レイでしょう。ダダにも参加しており、もともとは画家でもあり、実験映画なども作った多才な人でした。もう一人、写真家のアンリ・カルティエ=ブレッソンも有名な人ですが、彼もまたこの頃シュルレアリスムの影響を受けているとも言われています。

一方、シュルレアリスムに属する主たる画家としては、マックス・エルンスト、サルバドール・ダリ、ルネ・マグリット、イヴ・タンギー、ポール・デルヴォー、エドガー・エンデなどがいます。ピカソも後にシュルレアリスムに傾倒したそうです。

シュルレアリスム絵画の書き手たちもまた、自動筆記を多く用いたといわれています。ほかにもやデペイズマン、コラージュなどの技術を駆使し、自意識が介在できない状況下で絵画を描くことで、無意識の世界を表現しようとしました。

彼らの絵画は具象的な形態がなくさまざまな記号的イメージにあふれており、また不条理な世界、事物のありえない組み合わせなどが写実的に描かれました。

ちなみに私はこのダリが大好きで、スペインに仕事で行った折りには、時間を作ってわざわざわざバルセロナのダリ美術館へ作品を見に行きました。無論とても素晴らしいものでしたが、驚いたのはその細緻さで、細かい部分は0.1mmもあるかないかの細い線で描かれていて、これはとても素人では真似はできないわ、と思いました。

ダリといえば奇抜なファッションやびよ~んと上に伸びた髭が有名ですが、ダリの絵のあの幻想的な雰囲気は確固たる技術に裏打ちされているのであって、単なる酔狂な変人が描いたお遊び絵画ではありません。

ダリに代表されるようにシュルレアリスムのブーム下では、夢や無意識下でしか起こりえない奇妙な世界が数多く描かれましたが、彼らの絵の中に出てくる人物や風景はあくまで具象的であり、ダリの絵と同じくその多くは非常に細密です。日本画でいえば、横山大観とか、古き時代の狩野派の画家でしかなしえないような綿密な写実の技術を持っています。

こうした奇妙な世界を写実的に描くダリやマグリットの作品は、見るものに強い混乱を起こすとともに、その対照的で親しみやすい画風から一躍人気作家となりましたが、特にダリはアメリカで大人気を博しました。

ただ、晩年にはあまりにも金儲けに走ったため、後にかつてのシュルレアリスム関係者から「ドルの亡者」と非難されています。

こうしたシュルレアリスムの大家たちは、作品の内容こそ色々違いがありますが、いずれもが独自のトランス状態を作り出し、何等かの憑依状態にあって作品を作っていったといわれています。

話が絵画などの芸術作品のほうの話に飛びすぎたきらいがあるので、少し元に戻していこうと思います。

冒頭で紹介したトーマス・ステッドが1912年にタイタニック号沈没で死去したのち、彼が創った肉親と死別した人々のため無償で通信を試みる組織、「ジュリア顕幽連絡局」は資金難で一時中断しました。

しかし、その二年後の1914年には、ステッドの友人の支援で「ステッド局」という名称で再開し、1914年、生前ステッドがあの世のジュリアから自動書記で受け取ったとしていたとされる、7年間にもわたった通信を娘のエステルが発表。これは、“After Death or Letters from Julia(邦題 死後-ジュリアからの便り)”として刊行されました。

彼の死後、ステッド自らがは複数の交霊会に現れたとされており、さまざまな手段で通信を送ってきたといい、死後も苦しんでいる霊を救済する仕事をしていたとされています。

その死後の4年後の1916年には、精神科医のウィックランド博士が催した交霊会にもステッドが現れたとされており、タイタニック号事件で水死した人の霊を連れて来て、博士のカウンセリングを受けさせたそうです。

このウィックランド博士という人は、正確にはカール・オーガスト・ウィックランドと(1861~1945年)といい、スウェーデン生まれの米国精神科医です。妻のアンナを霊媒とし、Mercy Band (マーシーバンド)と呼ばれる霊界の医療団とともに精神病の治療を行ったとされています。

青年期まで父から家具職人と時計職人の技術を学んだ後、20歳で渡米。シカゴに移住してダラム医科大学で精神医学を専攻したあと、1909年から9年に渡って国立シカゴ精神病学会の会長を務めました。その後ロサンジェルスに移住し、国立精神病学会の研究機関で晩年まで精神科医として働き続けました。

ウィックランド博士が心霊現象に興味を持つようになったきっかけは患者だったといい、心霊現象を調べるため交霊会に出席するうちに、妻のアンナに優れた霊媒能力があることがわかったといいます。

やがて妻を通して、霊界の医療団から治療に協力するよう要請を受けるようになります。人間に憑依した霊は混乱した精神状態にあり、感覚的にも地上人に近く、霊界の医療団を見たり声を聞いたりできず、治療を受けることもできないといいます。このため、一度博士の妻の体を借りて霊を説得する必要があったのだそうです。

治療ではまずアンナが霊の憑依を確認し、博士たちが患者に軽い電気ショックを与えて、憑依している霊をアンナに乗り移らせ、次に博士が霊に状況を説明し、自分の肉体の死を認めるようにもっていきました。

そして、霊の生前の様子を聞いて問題点をはっきりさせ、それを乗り越えて霊界に行くよう説得します。霊が納得して霊界に向かう気が起きると、霊界の医療団の協力で家族が迎えに来たり、霊が自ら離れて行ったりしてこうして「除霊」が完了します。

治療が終了し霊が離れると、多くの患者は生来の人格を取り戻したといいます。

ただ、患者によっては多数の霊が憑依しているため、数回にわたる治療が行われ、また、どうしても説得に応じない霊も中にはおり、こうした場合には霊界の医療団が隔離し、特別に治療したそうです。

こうした「患者」には狂信的な宗教者に間違った信仰を教え込まれた者や、わがまま一杯に育った青年、麻薬中毒患者などの霊が多かったそうです。

さて、このように、ウィックランド博士が行った除霊も、トーマス・ステッドが得意とした自動書記もいずれもが、「憑依」というものを利用している点が特徴です。

シュルレアリスムの小説家や画家たちもまた、何か別の存在に憑依されて肉体を支配されているかのように、自分の意識とは無関係に作品を作ったとされています。

いずれもが、本人がその行動をとっているのではなく、死者の霊や高次元の存在、時には神や宇宙人といった存在によって憑依されることで、無意識的にペンや筆を動かしたりするといわれています。

この憑依ということばですが、これはドイツ語の Besessenheit や英語の “spirit”“ possession” などの学術語を翻訳するために、昭和ごろから使われるようになり、特に第二次世界大戦後からは一般的にも用いられるようになったもののようです。

文字どおり霊などが人に乗り移ることで、憑(つ)くとは「憑りつく」の意味です。憑霊、神降ろし・神懸り・神宿りなどがそれであり、「憑き物」ともいう場合もあります。とりつくのが霊の場合、時には悪魔憑き、狐憑きなどと呼ばれる悪質なものである場合もあるようです。

古代から、シャーマンという職業霊媒師が、世界中に存在しました。トランス状態に入って超自然的存在(霊、神霊、精霊、死霊など)と交信する現象を起こすとされる職能・人物のことであり、憑依はこうしたトランスの一形態であり、通常はある人物に対して、外在する何等かの霊がこの人物の行動を支配します。

こうした職業霊媒のように、人間が意図的に霊を乗り移らせる場合もありますが、一方では霊が一方的に人間に憑くとされるものも多く、しかも本人がそれに気がつかない場合もあるといいます。

とりつく霊とされているのは、本人やその家族に恨みなどを持つ人の霊であったり、動物霊であったりする場合もあります。何らかのメッセージを伝えるために憑くとされている場合もあり、あるいは本人の人格を抑えて霊の人格のほうが前面に出て別人になったり、動物霊が憑依した場合は行動や容貌がその動物に似てくる場合さえあるそうです。

こうした悪質な憑依霊が様々な害悪を起こすと考えられる場合は、これは「霊障」と呼ばれています。

イギリスの超常現象専門の研究者として知られるリン・ピクネットという女性は、種々の文献や、証言を調査した結果、憑依という現象は太古の昔から洋の東西を問わず見られることを確認しています。

すでに人類の歴史の初期段階から、トランス状態に入り、有意義な情報を得ることができるらしい人がいたことが分かっているそうで、その後部族社会が出現しはじめた頃には、憑依状態になった人たちはいつもとは違う声で発語し、これによって周囲の人々は霊が一時的に乗り移った気配を感じていたらしいことなども明らかになっています。

初期文明では憑依は「神の介入」と見なされていたようですが、古代ギリシャのヒポクラテスは「憑依は、他の身体的疾患と同様、神の行為ではない」と異議を唱えていたといいます。

古代イスラエルのヘブライ語聖書、すなわち旧約聖書にも憑依の記述は存在するそうで、その状態は霊に乗っ取られた状態であり、乗っ取る霊は悪い霊のこともあり、サタンの代理として登場する記述があるといます。

キリスト教では、憑依に対する見解は時代とともに変化が見られ、聖霊がとりつくことが好意的に評価されたり、中世には魔法使いや異端と見なされ迫害されたり、近代でも悪魔祓いの対象とされたりしました。現在でも憑依についての解釈は宗派によって、見解の相違が存在します。

しかし、時代が下るほど憑依を悪霊のしわざとする考え方が一般的になり、憑依状態の人が語る内容がキリスト教の正統教義に一致しない場合は目の敵にされ、そこまでいかないまでも、憑依は悪魔祓いの対象とされるようになりました。憑依状態になる人が、魔法使い、あるいは異端者として迫害される事例が多くなっていきました。

1630年代のフランスのルーダンで起きた「尼僧集団憑依」事件では、尼僧たちの悪魔祓いを行うために修道士でシュランという人物が派遣されましたが、このシュラン自身も憑依されてしまったそうです。

このとき、尼僧の一人でジャンヌという人がこう証言しています。

「卑猥な言葉や神をあざける言葉を口にしながら、それを眺め耳を傾けているもうひとりの自分がいた。しかも口から出る言葉を止めることができない。奇怪な体験だった。」

しかし、現在ではキリスト教徒の中にも実践的な人が増え、「憑依は悪魔のしわざ」説はかなり説得力を失っているようです。が、英国国教会のように今でも悪魔祓いを専門とする牧師団が存在す組織もあるようです。

それでは日本などのアジアにおいてはどうかというと、北海道・樺太・シベリア・満州・モンゴル・朝鮮半島を中心とした北方文化圏から沖縄(琉球)・台湾・中国南部・東南アジア・インドを中心とした南方文化圏に至るまで、広くシャーマン、巫師・祈祷師と呼ばれる人が古くから存在しました。

とくにシャーマンが行う自動書記は、日本では「神がかり」「お筆先」とも呼ばれ、これは神霊などがこの世界に接触を図る方法として説明されていました。

現在日本中にある神社も古くは、神様が降りてくる儀式をする場所でした。神宿りとか、神降ろし、神懸りなどという言葉が使われ、これは神を宿すための儀式をさす言葉で、「神降ろしを行って神を宿した」などと使われました。

降ろす神によって、夷下ろし、稲荷下ろしと称されるようになり、現在ある稲荷神社などはその名残です。また、神社でやってもらうお祓いというのも、実は憑依を取り除く儀式のひとつで、昔の巫女は1週間程度水垢離をとりながら祈祷を行うことで、自分に憑いた霊を祓い浄める「サバキ」の行をおこなったといいます。

このように和御魂の状態の神霊ばかりが降りてくるばかりではなく、ときには「憑き物」とよばれるような低級な霊も降りてきます。

これは、人だけでなく動物や道具などの器具に、荒御魂の状態の神霊や、位の低い神である妖怪や九十九神や貧乏神や疫病神が宿るとされるもので、ときには悪霊といわれる怨霊や生霊の憑依をさします。

古来、「童」と書いて「ヨリマシ」というのもあり、これは祭礼用語で、稚児などに神霊を降ろし託宣を受けるというもので、そうした資格のある少年少女がこう呼ばれました。

相撲も、その昔は皇室に奉納される神事であり、実は相撲取りはそのときの「戦いの神」の宿る御霊代であり、これも一種のヨリマシです。無論、現在ではヨリマシなどとは呼ばず力士といいますが、その昔はシャーマン的な意味合いも持っていたわけです。

こうした神がかり的な「憑依」は、近年では医学領域でも研究されるようになっています。

大正から昭和にかけて活躍した森田正馬というお医者さんは、「森田療法」と呼ばれる神経質に対する精神療法を提唱した人で、その一環として「祈祷性精神病」なる症状を研究しています。

その結果、憑依とされているものの一部は、精神疾患の一種であると結論を下し、このため日本の医学界ではこのころから憑依は病気の一種ととらえるようになりました。

現在でも医学領域や心理学の領域で、憑依は二重人格あるいは多重人格の表れとみなす考え方が多く、こうした患者にとっては「自分」というのは単一ではなく、複数の自分の寄せ集めで普段はそれが一致して動いている、あるいは、日々の管理を筆頭格のそれに委ねていると考えているとされています。

しかし、霊媒師などが降霊を行う場合、「筆頭格」のそれは、明らかに当の本人とは何か異なる実在のように見えることが多く、またその人が通常の状態ならば絶対に知っているはずのない情報を提供している場合もあり、医学では割り切れない事実があるのも確かです。

沖縄では「ターリ」あるいは「フリ」「カカイ」などと呼ばれる憑依現象があるそうで、現在でも一部の人から「聖なる狂気」として人々から神聖視されています。

このためその昔、このターリと目される憑依者は、本土のように精神病患者として病院に隔離・監禁すされることもなかったといい、本土復帰以降の現在でも憑依を人間の示す積極的な営為の一つであるというふうに肯定的に受け止める傾向が強いといいます。

しかし、憑依される側も必ずしも「忘我状態になる」とは限らず、憑依された者に意識がある場合もあるといい、このことから、憑依は必ずしも自分以外の存在に乗っ取られている状態ではなく、「マナ」によって支配されている現象ではないかという文化人類学者もいます。

マナ(Mana)というのは、太平洋の島嶼で見られる原始的な宗教において、神秘的な力の源とされる概念です。魔法や超能力といった尋常ならざる特別な力の源とも言われており、この世の各所に遍在する超自然的な力です。

これらの原始宗教では、これを槍や網などの道具類、もしくは病気・疲労などで衰弱した人に注入することによって、より望ましい状態に変化させることができると考えられていました。

例えば、メラネシアの土人が際立って早く進むカヌーを説明するとき「あのカヌーにはマナが宿っている」という言い方をします。これからわかるように、彼等の間にはマナという非人格的な力の観念が存在しているようです。

この「非人格的な力」というのが何であるか、というのは我々日本人には非常にわかりにくいものです。フランスの著名な社会人類学者、民族学者のクロード・レヴィ=ストロースによれば、これは「通常の能力・状態に宿る神秘的な付加要素」と説明していることから、日本人にとっては神といえるようなものに近い存在のようです。

それでもストロースらはこれは神ではないといいます。ますますわかりにくくなってしまうのですが、別の説明ではマナはその人物の実体であり、資質そのもの、力でもあるそうで、人が潜在的に持っている霊能力やカリスマ的魅力などがマナとして現れてくるのだそうです。

ところが、日本でも民俗学者として有名な柳田國男は、マナは日本人の霊魂観の中にもあり、神道はマナ信仰の最高峰であるということを言っていたそうです。ということは、表現は違えど、マナというのは人間そのものの内にある、「神性」のようなものなのかもしれません。

また、柳田博士によれば、このマナは、増えたり減ったりするということで、これはどういうことかといえば、おそらく魂はその長い歴史において、成長したり退化したりする、という考え方が日本の神道の中にもあるということを言っているのでしょう。

よくスピリチュアリズムでは、「魂の年齢」ということが言われますが、長い間に苦労して高い次元に達した霊は霊性が高く、つまり大きな成長をとげた魂であり、また霊性の低い魂は小さいといわれます。

また、一人の人間の魂は他の目的を同じくする魂の集合体の一部であるともいわれ、それを地上に落とすことで魂の成長を図り、浄化されたその魂はやがてまたあの世に帰って元の魂達と合体し、こうして魂の集合体全体が成長していくのです。柳田國男がマナが増えたり減ったりするといったのは、このことを指しているに違いありません。

他方、マナは、お守りやジンクスといった人が何かとすがりたがるものにも「憑く」という説もあるそうです。つまり、人間以外の物質にも憑くということになります。そしてこの「憑く」とはゲームの最中に回ってくる幸運を指す「ツキ」を表すのではないかという学者もいるようです。

つまり、憑いていないと、ツキにもめぐまれない、マナが発揮されないと運がめぐってこないということにもなります。

この辺の話になると、どんどんと「形而上的」になりそうですし、頭が混乱してきそうなので、ここいらでそろそろやめたいと思います。

が、「憑いている」が「ツイている」と等しいなら、何かに憑依されているときに宝くじを買うと当たるかもしれません。

今、宝くじを買おうとしているあなた、今日は憑いていますか?

かぐや姫


昔々、京に近いところのある村に、おじいさんとおばあさんが住んでいました。おじいさんは竹藪から竹を切りだしては、いろいろな用途に加工して自分たちで使ったり、売ったりして暮らしており、その名をさかきの造(みやつこ)といい、村人たちは彼のことを「竹取の翁」と呼んでいました。

ある日、おじいさんがいつものように近所の竹林にでかけると、竹林の真ん中に何やらぼーっと光るものがあります。不思議に思って近寄ってみると、一本の竹の中ごろがまぶしいばかりに光っているではありませんか。

なんだろうこれは、といぶかしみながら両手でその光る竹を触ってみましたが、なんとなく暖かみもあるようです。そこで、おじいさんは手に持っていたナタで、おそるおそる光っている部分を切らないように、少し上の部分からこの竹を切り落としてみることにしました。

すると、なんということでしょう。その切り口の下には三寸(約9 cm)ほどの可愛らしい女の子がちょこんと座わっているではありませんか。女の子はきょとんとした顔でおじいさんを見上げていましたが、とくに驚きもせず、怖がっている様子もありません。

子供がいなかったおじいさんは、女の子をみているうちにだんだんと愛しさがこみあげてきました。そして、家にこの子を連れ帰り、おばあさんに見せたところ、おばあさんも大喜び。こうして、女の子は老夫婦の子供として育てられることになったのです。

ところがその後も、異変は続きます。おじいさんが竹藪に入るたびに、光る竹が見つかり、また女の子がいるのかと思いきや、切り落としてみるとそこにはきらきらと光る「金」の粒が入っているではありませんか。

毎日竹藪に入るたびにこの金は見つかるようになり、そのうちには厨に山ほども積もるほどの量になりました。このため、それまで苦しかった夫婦の暮らし向きは次第に豊かになっていきました。

その金でそれまで買いたくても変えなかった調度品や食料を買い、きれいな布地を買って自分たちの着物に仕立てるだけでなく、この富をもたらしてくれた女の子にもきれいな晴れ着を着せて、大事に大事にこの子を育てていきました。

竹藪でみつけたときには三寸しかなかった女の子も、おばあさんが毎日丹精をこめて作るおいしい食事を食べてみるみるうちに大きくなり、驚くことに三ヶ月ほどでもすると、美しい妙齢の娘に成長しました。

これはきっとただ者ではない、きっと天の皇帝か何かの娘を授かったに違いないと思った夫婦は、娘の髪を結い上げる儀式を手配し、京のお公家さんと見まごうばかりの十二単を着せました。さらに容姿を整えた娘は、この世のものとは思えない程の美しさで、まるで暗い家の中に煌々と光が満ちているかのようでした。

おじいさんとおばあさんは、長い間貧しい暮らしをしてきましたが、思いがけなく豊かになっただけでなく、こんなにも美しい娘を得ることができ、それまでの苦労が吹き飛ぶような思いであるとともに、この美しい娘を見るたびに、この子を守るためにはどんな苦労をも厭うまいと誓うのでした。

娘はさらに大きくなっていき、また更に美しくなっていきましたが、ある時から一時の著しい成長は止まったかのようでした。

それまで娘には特段名前をつけていませんでしたが、そろそろ名前をつけようと、名付け親にふさわしい人を人づてに尋ねたところ、御室戸斎部(みむろどいんべ)という朝廷の祭祀を司る氏族が良いのではないかという人がいました。

さっそく、斎部の秋田という宮司を呼んで名前をつけてもらうことにしたところ、秋田は「なよ竹のかぐや姫」という名前はいかがでしょうか、と二人に告げました。「なよ竹」とは「しなやかな竹」という意味で、この名を二人は美しい姫にぴったりだと思い、それからというもの「かぐや姫」の名で娘を呼ぶことにしました。

名前も決まったことでもあり、さらにはお披露目をということで、村人を集めて詩歌や舞など色々な遊びを催し、三日に渡り盛大な祝宴をしました。こうして、美しい娘の存在は、村中に広まるところとなり、やがてその噂は京の町にまで知れ渡っていきました。

都中の男どもは、そんな美しい姫の噂を聞きつけ、貴賤を問わず皆どうにかしてかぐや姫に近づきたいと考えるようになりました。かぐや姫を見てもいない者でさえ、噂に聞いては恋い慕い思い悩むほどだったといいます。

その美しい姿を覗き見ようと、用もないのに竹取の翁の家の周りをうろつく輩は後を絶たず、彼らは翁の家の垣根の間や門の外から家の中を覗き込もうとします。昼間だけでなく、夜になっても家の周りを歩きまわるほどで、やがては多くの男たちが夜も寝ずに一晩中翁の家の周りをたむろするというほどの騒動になりました。

このように、このころから男たちが夜通しで女性の家をのぞき込み、時には忍び込んで求婚する行為のことを「よばひ(夜這い)」と言うようになったといいます。

しかし、こうしたフィーバーは長続きしませんでした。おじいさんとおばあさんは用心棒を雇い、家の外から覗き込む輩を徹底的に排除したせいもあり、そのうちに、あれほどたくさんいたギャラリーたちも次第に姿を見せなくなりました。

しかし、最後の最後まで残った連中がいました。いずれも京の町でも女好きの遊び人として有名な男たちで、彼らは諦めず夜昼となく翁の家に通ってきていました。彼等の名はそれぞれ、

石作皇子(いしづくりのみこ)
車持皇子(くらもちのみこ)
右大臣・阿倍御主人(あべのみうし)
大納言・大伴御行(おおとものみゆき)
中納言・石上麻呂(いそのかみのまろ)

といい、いずれも宮中でも身分の高い貴公子ばかりでした。

遊び人とはいえ、官位の高い人物ばかりが残ったのを見たおじいさんは、かぐや姫にこういいました。

「わたしも七十となり今日とも明日とも知れない。たとえあなたが神仏が人の形をとってこの世に現れたとしても、この世の男女は結婚するもので、あなたも夫のいないままいらっしゃるわけにはいかないでしょう。」

するとかぐや姫は、格好ばかりよくても心無い男と結婚して、もし浮気でもされたら後悔するに違いないといい、また「世におそれ多い方々であっても、高い志を持たない人とは結婚できません。また、本当に勇気を持っているかどうかもわかりません。」といいました。

しかし、少し考えたあとにこう付け足しました。「もし本当に勇気のある方々ならば、私の言う物を持って来ることが出来るでしょう。もしそれができた人がいたならばその方にお仕えいたしましょう」と言いました。

こうして、おじいさんは、姫の言葉を伝えるべく、夜になってからこの五人の公家を集めました。それまで門前払いばかりを食らっていた彼等は、ここぞとばかりに姫の気を引こうと、ある者は笛を吹き、ある者は和歌を詠い、またある者は唱歌し口笛を吹きつつ、扇を鳴らしたりして、皆文字通り鳴物入りで屋敷にやってきました。

そして、おじいさんは公達を集めてかぐや姫の意思を伝えました。

その姫が持ってきてほしいと望んだものとは、石作皇子には「仏の御石の鉢」、車持皇子には、根が銀、茎が金、実が真珠であるという、「蓬莱の玉の枝」、右大臣阿倍御主人には、焼いても燃えない布である、「火鼠の裘(かわごろも)」、大納言大伴御行には「龍の首の珠」、中納言石上麻呂には「燕の産んだ子安貝」でした。

無論、これを伝え聞いた公家たちの誰もが見たことも聞いたこともない珍しい宝ばかりで、これを手に入れることははなはだ難しそうだと思いました。

しかし、いずれも美しい姫をぜひとも自分のものにしたいと考え、おじいさんに必ず持ち帰ります、と誓いつつ、それぞれの算段を胸に京の町へ帰っていきました。

こうして五人の苦闘が始まりました。

まず最初に行動を起こしたのが、石作皇子でした。彼は四方八方に手下を遣わして「仏の御石の鉢」を探させましたが、そんなものはどこにもあるわけはありません。仕方なく、大和国十市郡の山寺にあった、ただの石の鉢を持ってきて、おじいさんに見せました。が、これをひと目みたかぐや姫は、偽物だとすぐに見抜きました。

こうして石作皇子は、最初に行動を起こしましたが、また結婚候補からも最初に脱落しました。しかし、その去り際に、鉢を捨ててまたかぐや姫に言い寄ろうとしたことから、この時からこうした面目ないことをして大胆な行動をとろうとする人のことを称して「はぢを捨てる」(恥を捨てる)と言うようになりました。

続いて車持皇子もまた、日本中を旅して玉の枝を探し始めましたが、なかなかみつかりません。仕方なく、玉の枝の偽物をわざわざ職人に造らせ、これを竹取の家に持っていきました。

ところが翁の家の門をくぐったところ、運悪くその報酬を支払われていない職人たちがその場にやってきたために、これも即座に偽物と発覚。彼もまた候補からはずれてしまいました。

車持皇子の場合、玉の枝を日本中を探していたため、長い年月の間京から姿が見えなくなったことから、このように長い間人に姿を見せない様子を「たまさかに」(偶さか=稀(まれ)に)と言うようになったということです。

三人目の公家、右大臣・阿倍御主人もまた、八方手を尽しましたが火鼠の皮衣を自分で見つけることができず、彼の場合は唐の商人からこれを購入しました。自身満々にこれを翁の家に持ち込み、おじいさんと姫に見せました。

ところが、姫は顔色一つ変えず、そばにあった火鉢の中にこれを放り込むと、火鼠の皮衣のはずであった布はメラメラと炎をあげて燃えつきてしまいました。

これも贋作と分かり、右大臣の安倍もまた婿候補から脱落したため、「安倍」に因んでこれそれからはこのように目的を達することができずに挫折することを「あべなし=あへなし」(敢えなく)と言うようになりました。

大納言・大伴御行は、五人の中でも最も苦労した一人です。彼の場合、船に乗って龍の首の珠を探す旅に出ましたが、これを探索する途中で大嵐に遭い、命からがら京へ逃げ帰ってきました。更にはその帰路に重病にかかって両目がスモモのように腫れ上がってしまい、以後人目に姿をさらすことができないような容貌になりました。

ほうほうの体で京へ逃げ帰った大伴御行を世間の人々が見て、「大伴の大納言は、龍の首の珠を取りなさったのか」「いや、御目に二つのスモモのような珠をつけていらっしゃる」「ああたべがたい」と言ったことから、このときから、理に合わないことを「ああ堪へがた」(ああ堪え難い)と言うようになりました。

最後に残った中納言の石上麻呂だけは、どうやら本物の「燕の産んだ子安貝」らしきものがあるとの噂を聞きつけました。

それは、宮中の仏事、神事の供物がしまってある大炊寮(おおいりょう)という役所の倉庫の屋根にとりつけてあるとのことで、石上麻呂はこの倉庫の前にあった大八洲という名の大釜によじ登って小屋の屋根に手を伸ばそうとしました。

ところが、安定していると思った大釜の端に立ったものですから、釜が傾いてしまい、子安貝らしきものを掴んだと思ったとたんに転落して地面にたたきつけられてしたたかに腰を打ちました。

それでも子安貝を掴んだと大喜びしたものですが、手の中にあるものをよく見るとそれは燕の古い糞でした。

こうして、石上麻呂もまた、かぐや姫が望んだ宝を手に入れることができず、期待外れに終わったことから、このときから、苦労しても成果が得られないことを「かひなし(貝なし)」(甲斐がない)と言うようになりました。

しかも、大釜から落ちて腰を打った中納言は病の床に付くようになりましたが、これを伝え聞いたかぐや姫は、さすがに気の毒に思い、「まつかひもない(待つ貝もない=待った甲斐がない)」と書いた見舞いの歌を送りました。

これを読んだ中納言は、喜びました。そしてこのときから、少し嬉しいことがあることを「かひあり(貝あり)」(甲斐がある)と言うようになりました。そして中納言は、あなたの歌を頂けたのだから「かひはかくありける(苦労した甲斐はあった)」、と返歌を書きましたが、これを書き終わった直後に息絶えてしまいました。

こうして結局、かぐや姫が出した難題をこなした者は誰一人としてありませんでした。

この噂は、やがて御所におわする帝にも伝わりました。帝もまた姫の美しさを伝え聞いており、また、五人の公家たちをまんまとあしらったことも伝え聞いて、姫に会いたくなり、竹取の翁の家に使いを出しました。

使いの者から帝が会いたがっているという話を聞いたおじいさんは大喜びです。さっそく、姫に伝え、帝に会うようにと取りなしましたが、かぐや姫は「たとえ帝が私をお召しになりたいと仰せられたとしても、私はこれを少しも畏れ多いとも思っておりません」と言い放ちました。

使いの者はさすがにこの言葉を帝に直接伝えはしませんでしたが、帝ともあろう自分の申し出を断ってきたことに対してむしろ興を深めたご様子で、「さすがに多くの公家たちをいなしてきた美女のことはある、が、そんな女の心積もりに負けるような私ではない」と言って諦めませんでした。そして更にかぐや姫に出仕させようと再度使いを出しました。

これに対してさすがのかぐや姫も困り果て、「無理にお仕えさせようとなさるならば私は、消え失せてしまうしかありません」とおじいさんに言い、おじいさんはその言葉をそのまま使者に伝えました。

帝は二度目の使者も不首尾に終わったことから、何度促しても出仕しよとしないかぐや姫に業を煮やし、あるとき、狩りに行くと周囲の側人たちに偽り、不意に竹取の翁の家のある村に向かいました。

驚いたおじいさんとおばあさんは、恐れ入って帝を居宅に導きいれ、かぐや姫にも面会させました。

奥の間に座り、ものおじもせず帝を見つめるかぐや姫は、光に満ち満ちており、帝ですらたじろぐほどでした。しかし神々たる威厳を持ちながらも、それでいて清廉なその姿を初めて見た帝は、彼女の美貌を比類なきものと驚き、神輿を寄せて彼女を連れ帰ろうとしました。

ところが、彼女の手をとろうと手を伸ばした瞬間、姫は一瞬のうちにまばゆい光と化し、その明るさに帝は目を開けることすらできないほどでした。帝は噂には聞いていたものの、これは本当に地上の人間ではない、とその時思いましたが、一方ではこれほどまでにすばらしい女なら、ぜがひでも連れ帰りたいと思いました。

それでも、とうとうと光り輝き続けるかぐや姫についに手を出せず、その日帝は内なる思いを心の奥深くに抱えたまま、かぐや姫を残して帰らざるを得ませんでした。

こうして御所に帰り、改めて日頃仕えている女官たちを見ては、かぐや姫のことを思い返したりしましたが、普段から巷の女たちよりも数倍清く美しいと思っていたこうした女官たちでさえ、あのかぐや姫に比べると人並でもないことがわかりました。

やがて帝は、毎日かぐや姫のことばかり心にかかるようになります。そして、会えないならばせめてもと、かぐや姫のもとに手紙を書いて届けるようになり、姫もまた、文だけならばと和歌を返事として返してくるようになりました。

こうして帝とかぐや姫が和歌を遣り取りするようになって、瞬く間に三年の月日が経ちました。

しかしこのころから、かぐや姫は毎晩のように月を見て物思いに耽るようになりました。

それは、夏の真っ盛りのことであり、もうすぐ八月の満月が近づくころのことです。やがて日に日に姫は悲しそうな顔をするようになり、ある晩ついにおじいさんの前で激しく泣き崩れてしまいます。

驚いたおじいさんが訳を問うと「お気づきでしょうが、じつはわたしはこの国の人ではなく月の都人です。ほんの少しの間ということであの国からやって来たのですが、この様にこの国で長い年月を経てしまいました。育てて頂いたご恩を忘れたわけではないのですが、そろそろ、お暇(いとま)申し上げなくてはなりません」と答えました。

しかも、姫によれば次の満月のある十五日には月に帰らねばならないといいます。おじいさんとおばあさんはたいそう悲しみましたが、竹藪で姫を見つけて以来、もともとこの世の人ではないことを知っていたため、諦めざるをえません。しかし、文通をしている帝にだけはそのことを伝えておいては、という二人に姫は笑ってうなずきました。

こうして姫が月に帰ることを知った帝は、たいそう驚き、また残念がりましたが、ふと思い返し、月から迎えの軍勢が来るというのなら、これを打ち破ってでも姫をわが物にしたいと考えるようになりました。

そして月の迎えを討つべく軍勢を集め、各役所に命じ勅使として各地の大国に派遣して指名し、十五夜までには、六衛府合せて二千人もの武士を集めました。そして竹取の翁の家に向かわせ、築地の上に千人、建物の上に千人を守らせたため、狭い翁の家中は空いている隙もないほど士たちで埋めつくされました。

こうして十五夜の満月のその日がやってきました。

おばあさんはといえば、塗籠(周囲を壁で塗り籠めた部屋)の内でかぐや姫を抱きかかえ、おじいさんもまた、塗籠の戸に錠を下ろして戸口の前で竹槍を持っていさましく陣取りました。

そんな二人を見てかぐや姫は「私を閉じ込めて、守り戦う準備をしていても、あの国の人に対して戦うことはできないのです。弓矢で射ることもできないでしょう。このように閉じ込めていても、あの国の人が来たら、みな開いてしまうでしょう。」といいました。

また、「戦い合おうとしても、あの国の人たちが来たら、勇猛な心を奮う人たちも戦意を喪失してしまうに違いありません。」とまで言うではありませんか。

おじいさんは、「この長い爪で迎え人の眼を掴み潰し、髪の毛をむしり取り尻を引き出して恥をかかせてやる!」とか言って強がっています。これを見たかぐや姫は「そんな下品なことを大声でおっしゃいますな。屋根の上にいる者どもが聞くと、大層よろしくない。」とたしなめました。

そして、「お爺さま、お婆さまのこれまでのご愛情をわきまえもしないでお別れしようとすることは大変残念でございます。両親に対するお世話を、僅かも致さずに、帰っていく道中も安らかにはなりますまい。」といいました。

姫もまた月に帰りたくはないらしく、「あの都の人は、とても清らかで美しく、老いることもないのですが、しかし地上のあなた方のような美しい心根は持っていません。そのような所へ帰ることを、私もけっして嬉しいとは思っておりません」と、この帰郷を必ずしも喜んでいる風ではありません。

こうして子の刻(午前零時頃)がやってくると、にわかに家の周りが昼の明るさよりも輝き始め、光が満ちてくるではありませんか。

翁の家を守っている武士たちが空を見上げると、その大空に浮かぶ月の方向から大勢の人たちが馬車のような乗り物ともに雲に乗って降りて来るのが見えました。そして、その姿はどんどん大きくなり、やがて、地面から五尺(約1.5メートル)くらい上った所にずらりと立ち並びました。

家の内外に構えていた武士たちは、この得体の知れない存在に恐れおののき、完全に固まってしまいました。なぜか戦い合おうという気がおきず、心を奮って弓矢を構えようとするのですが、手に力が入らず、萎えてしまってやがて弓矢さえ持つことができなくなってしまいました。

それでも気丈な者が堪えて矢を射ようとしましたが、撃った矢はあらぬ方へ飛んでいくばかりで、それを見たほかの武士たちもただ茫然とお互い見つめ合っているだけとなりました。

空中に浮遊する月の人々の中には、とびきり神々しく見える人物がおり、どうやらこの人が月の王と思われました。彼は翁の家に向かって「さかきの造(さかきのみやつこ)出て参れ」と言うと、姫を押し込めた塗籠の前で猛々しく吠えていたおじいさんも、何か酔ったようになってひょろひょろと家から出てきて、王の前でひれ伏しました。

王はおじいさんに向かって、「おいお前、幼き者(未熟者)よ。少しばかり善行を行っておったので、その助けにと、僅かばかりの間ということで姫は地上に下されたのだ。そのおかげもあってお前たちは長い年月の間に多くの黄金を賜って、生まれ変わったように金持ちになったはずだ。」とすべてを知っているといわんばかりに高々と言い放ちました。

そして、「かぐや姫は月の世界で罪をお作りになったので、このように賤しいお前の元にしばらくいらっしゃったのだ。罪の期限は過ぎた。早くお出し申しあげよ」とおじいさんに言いました。こうした高言を聞いていると、どうやら王といえどもその身分はかぐや姫よりもさらに下のようです。

かくも月の世界では姫は身分の高い方だったかと思いながらも、おじいさんは王の顔を見つめるばかりで首を縦に振ることができません。これに対して月の王は、屋根の上に自分が乗ってきた飛ぶ車を近づけて「さあ、かぐや姫。こんな穢れた所にいつまでもこうして長く居られるのでしょうか。」と言いました。

すると突然、締め切られていた塗籠の入口の戸や格子がすべて開け放たれ、おばあさんに抱きかかえられて座っていたかぐや姫はそっと彼女から身を離し、しずしずと外に出てきました。おばあさんは茫然としたように、戸口の前に座り込んでしまいました。

かぐや姫は、王の顔を無表情で見つめ返し、続いておじいさんの方を向いて、「おじいさん、お別れです。せめて天に上っていくのだけでもお見送りください。」と言いましたが、これを聞いたおじいさんはたまらずその場に泣き伏します。

このおじいさんの様子を見たかぐや姫も心乱れた様子でしたが、「この先、恋しい折々に取り出してご覧ください」と一通の手紙をその前に置きました。そして、天から降りてきた天女の一人に目配せし、中に羽衣のようなものが入っている箱と、ほかにも薬のようなものが入っている箱を持ってこさせました。

この天女は姫のところに近よってきて、「穢い所の食べ物をお召し上がりになってきたので、さぞご気分が悪いことでしょう」と言いながらこの箱からその薬のようなものを取り出し、姫に差し出すと、彼女はこれを手にとって少し口に入れました。

そして、さらに袂からもう一通の手紙を取り出し、武士たちの真ん中にいた頭領らしい中将のところへ行くと、その薬を添えて手紙を彼に手渡しました。そして、「この薬は不死の薬です。手紙と一緒に帝へ渡してほしい。」と中将に言いました。

中将がこれを受け取ると、ほかの天女がもうひとつの箱に入っていた天の羽衣をさっと姫に着せました。すると、かぐや姫がこれまでおじいさんを痛ましい、愛しいと思っていた気持ちがさっとひとかたもなく消えてしまったかのようでした。

どうやらこの羽衣を着ると感情のない月の人に戻ってしまうようです。こうして、まるで無表情の別人のようになってしまったかぐや姫はおじいさんやおばあさんに別れを告げることもなく、さっさっと車に乗りこむと、あれよあれよという間に天上に昇って行ってしまいました。

と同時に月からの他の訪問者たちもこれを追って月に向かって帰っていきました。

月の王が中将に手渡した手紙は薬とともに帝に届けられました。帝は手紙を読むとひどく落ち込み、やがて深く悲しむようになり、何日も食べ物を口にせず、あれほど好きだった詩歌や管弦もしなくなってしまいました。

それから何カ月も経ったころ突然、大臣や上達部を呼びつけ、「お前たちは、どこの山が一番天に近いか知っているか」と尋ねました。一同互いに顔を見合わせましたが、地方を旅した経験の最も豊富な一人が、駿河の国にある山が一番高いと聞いていると答えました。

これを聞いた帝は、「もう姫とも会うことも無くなり、こぼれ落ちる涙に浮かんでいるようなわが身にとって、不死の薬が何になろう。」という意味の歌をひとつ詠みました。

そして、家来の中から岩笠という男を選び、かぐや姫からもらった不死の薬と手紙、そしてひとつの壺も添えて彼に手渡し、それらを駿河国にあるという日本で一番高い山の頂上で焼くように命じました。

この岩笠の一族は、その後、朝廷のときおりの行事で月世界への思いを表現する歌を詠む仕事を代々の帝から受けるようになったといいます。

岩笠はこの仕事を謹んで受け、士(つわもの)らを大勢連れ、この山に登り、不死薬を焼いて帰ってきました。これにちなんで、その後この山は、不死の山と呼ばれるようになり、やがてこれは「富士の山」と書かれるようになりました。

富士と呼ばれるようになったのは、岩笠が大勢の士(つわもの)を連れて登ったことから、「士に富む山」ともとれることに由来します。

そして岩笠たちが不死の薬と手紙を焼いたときに出た煙は今もなお、富士の高嶺の雲の中に立ち昇っていると言い伝えられています。また、その頂きに積もっていた雪はこの時から決して溶けることがなくなり、「万年雪」と言われるようになったということです……

それにしてもこのように穢れた地上に降ろされるという罰を受けた、姫の犯した罪とはいったいなんだったのでしょうか……

夢日記


先週末の伊豆はお天気もよかったためか、他県ナンバーの車であふれかえっていました。

麓の紅葉の様子を見にいこうと、久々に修禅寺の温泉街まで足を向けてみましたが、ここも観光客で一杯で、みなさん、深まりゆく秋の修禅寺を堪能されているようでした。

おそらくこの紅葉の見ごろは今週一杯ぐらいで、来週あたりにはかなり葉を落としはじめ、やがて本格的な冬になります。美しい紅葉の修禅寺を見たいと思われる方は、そろそろ最後のチャンスです。急ぎましょう。

ところで、最近涼しくなった、というか寒くなったせいか、床についてからの眠りも深く、ここ連日、めずらしくよく夢を見ます。

その内容は人さまに披露するようなものでもないのですが、吉夢と思えるようなものや不吉なものまでさまざまです。

私はもともとあまりたくさん夢を見るほうではないので、たまに夢をみると、何か魂レベルでのメッセージがあるのかな……と起き上ったあとによく考えてしまいます。

が、朝方に見た夢もお昼過ぎには忘れてしまっていることも多いので、その夢に意味があるかないかは別として、「夢日記」なるものを作ってこれに見た夢の内容を書き込むようにしています。

その日記をたまに見返してみると、あぁあのときの夢はそういう意味だったのかな、といった気づきもあることもあり、この作業もまんざら無駄ではないなと思ったりしています。

もっともその意味の解釈も、自分勝手なものではあるのですが、自分自身の本当の気持ち(深層心理?)を知る上ではそれこそ意味のあることのように思えてなりません。

この「夢」とはいったい何なのか?ということについては、古代からさまざまな解釈がされてきており、その後の時代には信仰者がこれを紐解き、20世紀に入ってからは心理学者がこれを解釈し、現代に至っては神経生理学者などが研究の対象としています。が、その理解や分析の結果は、無論それぞれ大きく異なっています。

人類が発祥したころの未開人や古代人の間には、睡眠中に肉体から抜け出した魂が実際に経験したことがらが夢としてあらわれるのだという考え方が広く存在したようです。

夢は神や悪魔といった超自然的存在からのお告げである、という考え方は世界中に残された文献に見られており、旧約聖書でも、神のお告げとしての夢は豊富に登場します。

著名なところでは、例えば創世記の第20章のアビメレクの夢のくだりなどがそれです。

アビメレクはゲラルという地方の王でしたが、あるときアブラハム(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の始祖)がそこに滞在するところとなり、このときアブラハムはその妻であるサラを妹であると偽って紹介していました。

ところが、このサラは絶世の美女だったため、アビメレクはひと目で好きになり、アブラハムの留守中にかどわかそうかと考えます。ところが、夢で神様のお告げを受け、実はサラはアブラハムの妻である事実を知ります。

このためアビメレクは姦淫の罪を犯さずに済んだ、というまぁ教訓のようなそうでないような話です。

また、古代ギリシャでは、夢の送り手がゼウスだとかアポロなどの神様だと考えられており、こうした神様からの「贈り物」は絶対的な意味を持っていました。

すなわち古代ギリシャにおいて夢は神託でした。夢の意味するものはそのままの形で神の告げる未来であり、これは「解釈を必要としない」、あるいは解釈してはならないものと考えられていたのです。

一方、古代バビロニアにおいては夢は必ずしも神とは関係なく、夢の解釈技法だけが発達し、夢解釈のテキストまで作られていたそうです。

古代の北欧でもやはり人々は夢解釈に習熟しており、ある種の夢に関しては、その解釈について一般的な意見が一致していたといいます。たとえば、白熊の夢は東方から嵐がやってくる予告だ、といった共通の認識があったわけです。これは現在でも同じで、日本でも正月に見る夢は一富士二鷹三茄子が吉夢とされています。

ユダヤ法典にも、エルサレムに12人の職業的夢解釈家がいたことが書かれているそうで、さらに、アメリカ大陸のネイティブアメリカンの部族の中には、夢を霊的なお告げと捉え、朝起きると家族で見た夢の解釈をし合うという習慣があったそうです。

中世になると、宗教は次第に学問的な色彩を帯びてくるようになり、信仰においても「神学者」といわれる人達が出てきました。

そのひとり、イタリアの神学者、トマス・アクィナスは夢の原因として①精神的原因、②肉体的原因 ③外界の影響 ④神の啓示の四つがあるとし、ここで初めて夢は神のお告げ以外にもそれぞれの個人が置かれた状況を表す意味があることが示されました。

一方では、夢はオカルティックなものとしても扱われるようになり、世界中でいろんな形の夢占い、あるいは「夢判断」が行われるようになりました。

これらの夢占い(夢判断)では、夢を見た者の将来に対する希望・願望であると解釈するか、あるいはこれから起き得る危機を知らせる信号、もしくは吉兆と考えたりします。また、夢でみた現象がそのまま実現する夢を予知夢と呼び、可能性がある夢を詳細に検討する占い師も登場するようになりました。

これらの夢判断の習慣は主にヨーロッパのものですが、東洋でも古来から夢占いの解説書などが作られており、日本でもかの有名な陰陽師の安倍晴明が、「周公解夢全書」や「神霊感応夢判断秘蔵書」などを記したとされています。

さらに時代が下ると、夢は心理学の対象となっていきました。現在でも深層心理学においては、無意識の働きを意識的に把握するための「夢分析」という研究分野があります。

夢分析の古典としてはジークムント・フロイトの研究、あるいはカール・ユングの研究が広く知られています。彼らは、神経症の治療という臨床的立場から夢を研究しはじめました。そして、当初の夢分析は心理的側面からの神経症の治療を目的とした精神分析のための研究手法の一つでした。

例えば、フロイトは、夢の中に出てくる事物は、「何か」を象徴するものとして位置づけ、人が体験する夢を manifest dream(顕在夢)と呼びました。

そして、無意識的に抑圧されてきた幼いころからの願望や、この願望と結びついた現在の体験の残滓(ざんし)がこの顕在夢をみさせるのだと解釈しました。

フロイトによればこの夢は、latent thought(潜在思考)の検閲を受けつつ、dream work(夢の仕事)によって加工され歪曲されて現われるのものだ、ということなのですが、これはなんだかわかったようなわからんような説明です。

このフロイトという人は、1856年に生まれ、1939年に82歳で亡くなった、オーストリアの精神分析学者、で精神科医です。神経病理学者を経て精神科医となり、神経症研究、心的外傷論研究(PTSD研究)、自由連想法、無意識研究、精神分析の創始を行いました。

非常に詳細で精密な観察眼を示す症例報告を多数残し、これらの研究は現在においても次々と新しい角度から研究されるほど斬新で、フロイトの提唱した数々の理論は、のちに弟子たちによって後世の精神医学や臨床心理学などの基礎となったのみならず、20世紀以降の文学・芸術・人間理解に広く甚大な影響を与えました。

しかし、このあまりにも有名なフロイトの夢分析に対しては実はかなり批判的な意見が多いようです。

その理由は、彼の夢分析にはあまりにも性的な事象と関連づけられたものが多いためです。例えば、銃が男性器を、果実が女性器を、動物が性欲や性行為を象徴するなどとされたりしており、これには、フロイトがこの夢分析を提唱していた当時の禁欲的な世相が反映されているとする説があります。

また、フロイト自身が抑圧された性的願望を抱いていたために偏った解釈をしたのではないかとみる向きも多いようです。

一方、スイスの精神科医・心理学者であったカール・ユングは、このフロイトとは夢に関してはまるで真逆な解釈をしました。夢は、意識的な洞察よりもすぐれた智慧をあらわす能力があるとし、夢は基本的に宗教的なものであると断じたのです。

ユングは、人間の無意識のさらに深い領域には全人類に共有されている集合的無意識があり、古代から継承されたアーキタイプ(元型)が宗教・神話・夢といった象徴の形で現れると考えました。

ユングの夢分析の手法は、個々の人間の意識、無意識の分析から始めるという点ではフロイトの精神分析学と共通していましたが、その解釈においてはフロイトが考えたように個人的な無意識であるという域を出て、個人を超え人類に共通しているとされる「集合的無意識(普遍的無意識)」であるとした点が大きく異なります。

また、「深層心理」における夢の分析はフロイトも最も重視していた分野ですが、ユングの夢解釈がフロイトの精神分析と異なる点は、無意識の中で見る夢を学者が一方的に杓子定規で解釈するのではなく、クライアントとセラピスト、すなわち患者と医者が対等な立場で夢について話し合い、その多義的な意味・目的を考えることが重要と考えた点です。

患者の心の奥底で巻き起こっている事象は、歴史や宗教にも関心のある、はるかに広大な意味をもつものと考え、精神障害などで苦しむ患者などの治癒においてもそれを生かそうとした点などが特徴的であり、この点、患者が無意識にみる夢は個人の意識に抑圧された内容の「ごみ捨て場」のようなものであると考えたフロイトとは大きく異なりました。

このため、当初ユングは、フロイトの精神分析学の理論に自説との共通点を見出したために彼に接近し、一時期は蜜月状態といえるほど仲がよかったといいますが、その後徐々に方向性の違いから距離を置くようになりました。

そして、フロイトとの決別以後も治療を続け、人生の方向を決めるのは治療者ではなく、クライアントであるという考えを曲げず、クライアントの無意識的創造力を信頼するという姿勢を生涯崩しませんでした。

夢の解釈の手法がどうのこうのといった難しい話はさておき、フロイトとユングのこの夢分析に対しての姿勢がどちらが正しいかという点においては、明らかにユングのほうに軍配をあげて良いのではないかと私などは思います。

フロイトが正しいにせよ、ユングが正しいにせよ、この二人の功績により、その後はこうした精神分析学における夢分析は更に改良され、広く現代人の実情をも考慮した分析として世に出されることも多くなりました。

現在では自分で自分の夢分析をするためのガイドブックや事典なども出版されており、本屋では多くの夢分析の本が並んでいます。いかがわしいものも多いように思いますが、自己啓発という観点から良書を探してみると、意外と自己分析・自己発見の役に立つ本も多いように思います。

しかし、それにしても夢を見る理由については、依然、現在までのところはっきりとはわかっていないようです。

無論、心理学的にではなく、神経生理学的にも夢は研究されています。

近年の研究によれば、夢というのは、

「主としてレム睡眠の時に出現するとされ、睡眠中は感覚遮断に近い状態でありながら、大脳皮質や(記憶に関係のある)辺縁系の活動水準が覚醒時にほぼ近い水準にあるために、外的あるいは内的な刺激と関連する興奮によって脳の記憶貯蔵庫から過去の記憶映像が再生されつつ、記憶映像に合致する夢のストーリーをつくってゆく」

のだそうです。

これもわかったようなわからんような説明で、学者の説明というものはいつもこうなのでうんざりしてしまいますが、私なりに解釈すると夢とは起きていたときの刺激が元となった一種の脳への興奮作用だということなのでしょう。

ところが、一般的には夢は浅い眠りに陥るレム睡眠中に見るとされ、深い眠りのノンレム睡眠時は発現されないと考えられていましたが、最近の研究ではノンレム睡眠時にも夢を見ることなどが明らかになっているといいます。

また、神経生理学的な夢分析では、その人の普段は抑圧されて意識していない願望などが夢に如実に現れるケースが多いとされていますが、実際には個々人の抑うつとは全く関係のない夢を見ることも多いようです。

起きている時の状態がどんなに抑圧され、鬱屈したものでも、必ずしも悪夢を見るとは限らず、現実に眠っている間に見る夢は起きている時の事象とは全く無関係な不可解な現象で表現されることが多いものです。

そしてこうした夢と現実がどうしてこのように直結しないのか、時には逆説的なものになるのかについて、科学的に説明できた学者は一人もいません。

ようするに神経生理学的には、いつなんどき、どんな状況で夢を見る状態になるのかなどの夢を見るメカニズムについてはは、さっぱり明確になっていない、というのが現状のようです。

このように、夢に科学的なメスを入れるというのは結局はどだい無理な話なのかもしれません。ただ、科学的なメカニズムはわかっていないものの、傾向としてこういう夢を見やすい、ということはたくさんあるようです。

例えば、普段の生活から興味がある現象についてはその夢を見やすいといわれており、一例としてはある色について普段から大変興味を持っている人は、その色に関する夢を見やすい、といったことです。

覚醒時に考えていたり、悩んでいたりする事が影響するケースも多く、考えていたテーマの答えが夢に現れ、これにより新しい着想を夢の中より得たという事例は枚挙のいとまがありません。

ブラム・ストーカーは、カニを食べ過ぎて悪夢を見て、これを元に恐怖小説「ドラキュラ」を書くヒントを得たといい、この他にも、重要な発見や発明、芸術作品など、夢で得たイメージを元としている事例はいくらでもあります。

あなた自身も日常で行っていることのひとつやふたつは夢にヒントを得てやっていることだったりするのではないでしょうか。

「明晰夢」というのもあります。

通常、夢を見ているときには自分で夢を見ていると自覚できないことがほとんどで、覚醒するまでは夢であることが分かりません。これに対し、夢の中でも自覚している現象を明晰夢と呼び、その場合には夢の内容をコントロールすることが可能な場合があります。

このため、自分が望むまま、思うように夢が変化させることができ、夢の中ではありますが、自分の願望を叶えることができます。

目が覚めたあとも、しっかりと覚えている夢というのは、こうした夢であることが多いようです。私自身、よく夢の中で、こうしたらこうゆう風に変わっていくはずだと確信しながら、というか意識しながら夢をみていることが多く、たいがいその夢はその方向性に従って続いていきます。

一方、明晰夢とは別に、白昼夢というヤツがあります。目覚めていながら夢を見ているかのように現実から離れて何かを考えている状態で、空想と同様、夢を見ている自分を自覚できること、こちらも夢の内容を自分でコントロールすることができるという点で、明晰夢と少し似ています。

とはいえ、ようするに「妄想」とも呼ぶべきものであり、過度に自我が強い人が良くみるようです。「妄想族」と自分でも呼び、こよなく妄想を愛する隣人をときどきみかけますが、妄想をしている時の彼等はいかにも楽しそうです。そりゃー楽しいでしょう。現実にない世界を一人で旅できるわけですから。

が、「現実逃避」である場合も多いことから、白昼夢ばかりを見ている人は実際には自分から逃げていないかどうかをじっくり見つめてみる必要があります。

このほか、始末に悪いのが「悪夢」です。この世のものとは思えない程の悲惨な光景を目の当たりにし、大汗をかいて飛び起きたりします。

私も最近はほとんど見ることがありませんでしたが、一時期仕事がうまくいっていないときによく見ました。

ある夏の夜などは、自分で自分の腹を切り、介錯されて首なしでふらふら歩きながら、首もないくせに大声で叫ぶ、という悪夢を見たことがあります。

あまりにもリアルだったので今でも覚えているのですが、後日この話をある霊能者さんにしたら、これはその当時住んでいた家の場所の近くで、その昔討ち死にした人の地縛霊などが乗り移ったのではないか、といわれました。

その後調べてみたら驚くなかれそのとおり、その当時住んでいた家の隣に、その昔、鎌倉時代のころには古い砦があり、そこであった合戦により何人もの武士が自害していました。

これは本当のはなしで、この砦のすぐ近くにある神社の境内には、市の教育委員会によりその歴史が綴ってあると同時に、その神社の地に首塚があったことなどが書いてあります。

が、普通の人はそんなふうな悪夢は見ないようです。とはいえ、現実で凄惨な物を見たり、体験したりする、それが原因で悪夢を見ることが多いそうで、PTSDにでもなるほどひどい経験をすると、夢で何度もそれを体験するということも多いそうです。

しかし、一方ではこうした悪夢を観る事によって、気持ちが多少なりともすっきりするという浄化作用が起こるということもあるようです。怖い夢や悲しい夢といった悪夢でも、それなりの効用があるとされており、昼間の思い出したくない出来事を解消するため、いわば現実の反動によって悪夢=浄化作用が生じるのではないかという説もあります。

PTSDなどの原因で悪夢を観るケースは別ですが、このため通常の悪夢は心の健康維持に役立っているともいわれ、「自動的な健康管理」であるという人もいるくらいで、そう考えると悪夢もまた悪いものではないのかもしれません。

ちなみに、人間が一生に観る夢は総じて6年間という研究結果もあるそうです。ということは、仮に一生で観る夢の十分の一が悪夢だったとすると、そのトータルは半年程度ということになります。

人生70年と考えれば、この時間は0.7%に過ぎませんが、一方では一生の間に6か月もの間悪夢を見なければならないのか……と考えると少々暗くなります。が、それを自分の「健康管理」と考えられるかどうかはあなた次第です……

ところで、夢というものは、スピリチュアル的にみると、自分自身を充電させるために重要な役割をするものなのだそうです。

私たちは、遭難などで何も食べれない状態になったとしても、水さえあれば、ある程度なら生きていけます。2003年(平成15年)に沖縄県粟国島沖で漁船が遭難し、このときこの船に乗っていた漁師さんは、水は一度に盃1杯だけ飲んだだけで漂流15日を生き延び、生還しました。

しかし、我々は睡眠をまったくとらずに生きていくということはできません。

これまでで、眠らずにいられた記録の最高は、1964年に17歳の高校生が達成した264時間12分で、これは約11日間の断眠になります。が、これ以上の断眠は生理学的にも危険だといわれており、一説によると薬物などによってこれ以降も無理やり人を寝せないようにすると、ヒトは死んでしまうそうです。

それほど睡眠は大切なものというわけですが、無論、生理学的にも精神学的にも重要なものである以上に、魂にとっても睡眠は大切なものだといいます。

通常、眠っている間、我々の霊魂は体から離れて、スピリチュアル・ワールドに行きます。そこでスピリチュアルなエネルギーをもらって帰ってきて、日々の糧にしているといわれており、肉体の栄養は食べ物から得ますが、スピリチュアルな栄養は、睡眠によって得られるというわけです。

また、人生の転換期においては、不思議と眠くてたまらなくなる場合があるといい、これは、「あなたの人生がこれから変わりますよ」というメッセージを得るために、睡眠中にスピリチュアル・ワールドに行き、様々なアドバイスを授かってくるためだといいます。そしてそうしたアドバイスを貰うことこそが魂の充電になります。

たとえ自覚はなくても、自分の霊魂が疲弊すると自然とあちらに行ってエネルギーを充電するとのことで、魂は常にその状態を自己監視し、必要性があればその帰郷を実践するということを覚えているというわけです。

ただし、自分が見た夢のすべてがこうしたスピリチュアル的な夢とは限りません。「オーラの泉」で有名になったスピリチュアルカウンセラーの江原啓之さんによれば、夢は、「肉の夢」、「魂の夢」、「霊の夢」の三つに大別できるそうです。

自分の見た夢が3種類のどれかを知るには、肉の夢→魂の夢→霊の夢の順に、消去法でチェックしていけば良いといいます。

まず、肉の夢であるか否かは、睡眠時の物理的な環境や体調をかえりみれば、簡単にわかります。体調の悪い時やスポーツで体を痛めつけたあとなどは肉の夢をよくみます。また、睡眠中に肉体に何らかの刺激を受けているときに見ることがあり、例えば暑苦しさ、騒音、ふとんの重みなどでも肉の夢をみます。

江原さんによれば睡眠中でも「肉体の意識」の比率がどうしても高くなり、肉体が感じている不快さをそのまま反映する夢が肉の夢だということです。

一方、「魂の夢」というのは、自分自身の心にあるストレスや「思いぐ」せによって見る夢だそうです。日々の現実の中で悩みや恐れ、気にかかることがあると、睡眠中も意識がそちらに向き、心の状態を如実に表す夢を見ます。

肉体はしっかり休めていても、魂が静穏な状況にない場合、魂はのびのびと里帰りできず、自分の心をのぞき見るような魂の夢を見る、ということのようです。そして現実に追われる現代人が見ている夢には、魂の夢が多いのではないか、と江原さんは言っています。

おそらくは魂の夢か否かの判断もそう難しくなく、自分自身の心の状態を、つねにきちんと冷静に内観できていれば、「あぁ、この夢は私の今の心そのものだ」とわかるのではないでしょうか。

そして、「霊の夢」というのが、自分の霊体が里帰りをしている間に見る夢です。睡眠中に肉体をこの世に残し、幽体と霊体はスピリチュアルワールドの中の幽界へ里帰りします。

ただし、この世にとらわれていると、里帰りはしているのにその経験が記憶に残らず、見る夢もせいぜい肉の夢、魂の夢止まりになってしまうので注意が必要です。

あちらの世界で良いアドバイスを受けるためには、常に自分を冷静に見つめている必要があり、夢の中とはいえ俗世とある程度縁を切る覚悟を持っていなければならないようです。

そして、こうして見た夢が果たして霊の夢かどうかを見分けるポイントとしては、その夢でみたスピリチュアルワールドが、「光の世界」であるかどうか、だそうです。

私たちが見ている色は、じつは光の反射によって見えている色で、そのもの自体が発光して出している色ではありません。ところが、スピリチュアルワールドにあるものは、すべてが発光体なので、鮮明度がこの世とは格段に違うといいます。

特に幽界の中層部以上は、歓声をあげたくなるほど、「この世のものとは思えない」美しさだそうです。

つまり、霊の夢であるかどうかを見分ける最大のポイントはこの「鮮明度」だということです。鮮明なフルカラーの夢なら霊の夢で、白黒やセピア色の夢は、霊の夢ではありません。

ただし肉の夢や魂の夢でも、色がついていたように思えることがあるといい、その場合は、りんごは赤、空は青といった自分が普段から持っている先入観から色がついていたように思い込んでいるにすぎない場合が多いそうです。

もっとも睡眠中に行く幽界は高いところばかりではなく、中には闇の世界、すなわち低層の地獄に近い場所もあるそうです。しかし、江原さんによれば、その闇の世界でさえこの世の闇夜とは違い、じわーっという深みのある暗闇だといいます。

また、霊の夢を見たということは、よく眠れて、幽界への里帰りを記憶しているということを示すので、その記憶がはっきりとしているということもその夢が霊の夢であるかどかという判断材料になりそうです。

そして、その記憶を辿り、この夢で幽界のどのあたりの階層へ行ったのか、自己判断してみることも重要だといいます。

幽界は、階層によって明るさが違います。暗ければ下層界で、光の世界なら間違いなく「サマーランド」だそうです。幽界の下層界に行ったようなら「ソウルトリップ」、サマーランドへ行ったようなら、「スピリチュアル・トリップ」の夢です。

無論、スピリチュアル・トリップのほうが高次の夢です。人生にとって有益なメッセージを受け取れる可能性が高くなります。

さらには、他の魂との面会が加われば「スピリチュアル・ミーティング」の夢でもあります。この場合、必ずしも一人だけでなく、複数の他の魂と何等かの会話を交わすはずであり、その会話で何を話したかが、その夢での全体的なメッセージになります。

また、その会話を交わした魂がもしガーディアン・スピリット(守護霊の一人)であれば、その夢は「メッセージ・ドリーム」でもあります。

メッセージドリームの内容は様々で、アドバイスを授かることもあれば、注意されることもあります。今後起きることを知らされることもありますし、良いことが待っているからもう少し辛抱しなさいと励まされることもあります。

さらには、試練が待っているから心を引き締めなさいと言われることもあります。今後のことを映像でかいま見せてもらう夢もあるといい、その後、夢のとおりのことが起こるので、人はこれを「予知夢」、「デジャブ」と呼んだりします。

必ずしも自分に関する未来のことだけでなく、自分以外の親しい人や、有名人、社会に関わることの予知夢を見ることもあるようです。

このように、せっかくあの世に里帰りして貰ってきたメッセージも、朝目覚めたときには覚えていても、時間が経つにつれて、その記憶がだんだん薄れていくことが多いものです。

ときには、意味が分からない夢なので、自ら忘れてしまおうとする場合すらあるでしょうが、こうした夢は重要である場合も多いことから、意味はわからなくても、とりあえず何かに書き留めておくことをお勧めします。

ずいぶん先のことを暗示していることもあるので、今すぐわからなくて、書き留めていたことを見直して、あとであぁあの夢はそういう意味だったのだとわかります。

また、本当に重要なメッセージの場合、ガーディアン・スピリットはメッセージを送り直してくれるといいます。本人の霊を導くことが目的なので、その人にわかるまで、あの手この手と方法を変えて伝えてくるそうです。

時には夢以外に、例えば、身近な人に語らせるという形で伝えてくることさえあるそうで、「すべてのことに意味がある」と私がいつも言うように、日常で起こったほんの些細な出来事も、もしかしたら霊の夢を無視した際のガーディアン・スピリットからのメッセージであるかもしれません。

このように、自分の夢とよりよい関係を築いていくために、「夢日記」は大きな役割を果たすと思うので、皆さんも実戦してみてはいかがでしょうか。

夢日記を書くタイミングは、夢の記憶が濃く残っている朝、できれば、起きてすぐがベストです。ただ単に見た夢を書きとめるだけでも良いでしょうが、書く内容として、次のような要素を加えるとより効果的です

「夢の内容」+「それに対する自己分析」+「今の自分の心境」

それぞれ自分でフォーマットを決め、ノートに書き留めていきます。夢の内容の欄には、夢の場所、登場人物、ストーリー、夢の中で自分が味わっていた感情などを、記憶にある限り書き留めます。

「自己分析」の欄には、上で見たような肉の夢、魂の夢、霊の夢などの夢のタイプの分析を行い、結果を記入します。例え霊の夢でなはなく、肉の夢や魂の夢だったとしても、それは自分の現状を表している可能性がありますので、書き留めておくと良いでしょう。

また自分の心境の欄には、主に今の日常のあり方、心理状態などを記します。これもどんな状況のときにこうした夢をみたかを後に分析するときに役立ちます。

最後に、大事なことを一つ。書き終えたら、その夢は忘れてしまいましょう。昔、フロリダ大学の図書館で何かの論文記事を読んだのですが、夢というものはいつまでも覚えているとその人の精神に悪影響を与えるそうです。

夢の中で、重要なのはメッセージ性のある夢だけです。それ以外は、その夢を見た理由を自己分析した時点で、ほとんど忘れていいのです。ましてや悪夢などはいつまでも覚えている必要はありません。自分の「健康管理」のために見たのだと割り切り、さっさと忘れましょう。

こうして夢日記を長期にわたってつけていくと、自分はどういうときにどんな夢を見るのかという法則性が見えてきます。と同時に、自分とは何か、何のために生きているのかといった哲学的な問題も見えてくるかもしれません。

私の場合、ここ数年ほど夢日記をつけていますが、その内容が少しずつ変化してきているのを感じています。無論、良い方向にです。そのトレンドまでは今日はもう書きませんが、みなさんも長年日記をつけることで、そうしたものがわかってくるのではないでしょうか。

あなたも夢日記いかがでしょうか。

米本土空爆


先日書いた、「爆弾を乗せて……」では、日本海軍によりアメリカ本土の直接空爆が実施されたことを少し書きかけましたが、時間もなかったので、その先を書き切れませんでした。今日はせっかくですからその続きを書いてみたいと思います。

1941年12月に行われた日本陸軍のマレー作戦と日本海軍の真珠湾攻撃以降、日本軍は太平洋戦線において、アメリカ軍やイギリス軍をはじめとする連合国軍に対して連戦連勝を続けていました。

この様な状況下で日本海軍は10隻程度の潜水艦をアメリカ西海岸沿岸に展開し、アメリカおよびカナダ、メキシコの太平洋岸を中心としたアメリカ本土攻撃を計画しました。

そして、その一環として1942年2月24日に「伊号第一七潜水艦」(「伊17」)によりカリフォルニア州サンタバーバラのエルウッド石油製油所への砲撃作戦を行い、同製油所の設備に被害を出すことに成功し、アメリカ本土への日本軍の上陸を警戒していたアメリカ政府に大きな動揺を与えました。

なお、この攻撃に先立つ開戦直後の1941年12月末には、太平洋のアメリカ沿岸地域に展開していた日本海軍の潜水艦10隻が一斉にアメリカ西海岸沿岸のサンディエゴやモントレー、ユーレカやアストリアなど複数の都市を砲撃するという作戦計画がありました。

しかし、「クリスマス前後に砲撃を行い民間人に死者を出した場合、アメリカ国民を過度に刺激するので止めるように」との指令が出たため、この作戦の実施は中止になりました。

ちなみに、この伊号第一七潜水艦は大日本帝国海軍の「巡潜乙型潜水艦」の一隻です。巡潜乙型潜水艦は、「伊一五型潜水艦」とも呼ばれ、太平洋戦争に突入する前の第三次海軍補充計画(通称マル三計画)以降、合計で20隻も建造さました。

太平洋戦争における大日本帝国海軍が最も多く建造された大型潜水艦ですが、しかしながら太平洋戦争ですべて沈没しました。とはいえ、その長大な航続力により東はアメリカ西海岸から西はアフリカ東岸まで広く活動し、この潜水艦が残した戦績は日本軍が保有していた潜水艦の中では最大です。

さらにちなみに、ですが、私の母型の祖父は、日本帝国海軍の潜水学校を卒業しており、卒業後、戦艦、巡洋艦など多くの艦船に搭乗勤務し、その中でも潜水艦勤務が一番長かったようです。従って、この1939年(昭和14年)に進水したという、伊号第一七潜水艦にも乗っていたはずです。

もっとも、祖父は太平洋戦争中には予備役として引退していたため、実戦には参加していません。なので戦闘で死亡することもなく、それゆえに、私がここに生きていてこのブログを書いているというわけです。

さて、上記のサンターバーバラのエルウッド石油製油所への砲撃が行われて以降、日本海軍の潜水艦は主に通商破壊戦に従事するようになり、同年の6月20日には伊17と同じ乙型潜水艦の「伊26」が、カナダ、バンクーバー島太平洋岸にあるカナダ軍の無線羅針局を14センチ砲で砲撃しました。

この攻撃による砲弾は無人の森林に数発が着弾したのみで大きな被害を与えることはありませんでした。しかし、翌21日にオレゴン州アストリア市のスティーブンス海軍基地へ伊25潜水艦が行った砲撃では、同海軍基地の施設に被害を与えた上に、基地に勤務する兵士に負傷者を出しました。

この攻撃は、1812年にイギリスの軍艦がアメリカ軍基地に砲撃を与えて以来のアメリカ本土にある基地への攻撃であるだけでなく、第二次世界大戦中のアメリカ本土における初のアメリカ軍兵士の負傷となりました。

これらの活動に併せて、太平洋のアメリカ沿岸地域に展開していた他の日本海軍の他の潜水艦もまた、通商破壊戦を実施しました。

これらの攻撃により、アメリカ西海岸沿岸を航行中のアメリカのタンカーや貨物船が10隻以上撃沈され、中には西海岸沿岸の住宅街の沖わずか数キロにおいて、日中多くの市民が見ている目前で貨物船を撃沈した他、浮上して砲撃を行い撃沈するなど、開戦当初はかなり大胆な行動をとっていました。

以来、日本海軍の潜水艦による攻撃行動がアメリカ及びカナダの太平洋岸地域で多数行われるようになり、アメリカ国民は戦々恐々としていたようです。実際にも、開戦後数週間の間、アメリカ西海岸では日本軍の上陸や空襲を伝える誤報が陸軍当局に度々報告されていたそうです。

また、サンフランシスコやロングビーチ、サンディエゴ等の西海岸の主要な港湾においては、日本海軍機動部隊の襲来や陸軍部隊の上陸作戦の実行を恐れて、陸海軍の主導で潜水艦の侵入を阻止するネットや機雷の敷設を行われていました。

このほか、その他の都市でも爆撃を恐れ、防空壕を作り、灯火管制を行い、防毒マスクの市民への配布などを行っていたという話も残っています。

このように、アメリカ国民が日本からの本土襲撃を恐れ、極端に神経質になることでパニックを起こしていたという状況を体現するような事件も起こっています。

上で述べたとおり、日本海軍の潜水艦によって1942年の2月24日にサンタバーバラのエルウッド石油製油所への砲撃作戦が実施された翌日には、同じ南カリフォルニアのロサンゼルス近郊において、アメリカ陸軍が日本軍の航空機の襲来があったと誤認し、多数の対空砲火で同士討ちが発生しました。

この同士討ちは、多少の自嘲をこめてアメリカ側では「ロサンゼルスの戦い」と呼ばれました。

この当時、サンフランシスコやロングビーチ、サンディエゴ等のアメリカ西海岸沿岸の主要な港湾においては、日本海軍機動部隊の襲来や陸軍部隊の上陸作戦の実行を恐れて、陸海軍の主導で潜水艦の侵入を阻止する防潜網や機雷の敷設を行っており、その他の都市でも爆撃を恐れて防空壕を作るなどしていたことは上でも述べたとおりです。

さらには、前述のとおり防毒マスクの市民への配布や灯火管制が行われ、警察や市民による沿岸警備などを行っていた上に、黄色人種である日本人と日系アメリカ人に対する人種差別を背景にした日系人の強制収容までが行われるという状況でした。

こうした厳戒態勢下にあったにもかかわらず、日本海軍艦艇によりサンタバーバラに対する砲撃を許し、これに対してアメリカ軍が何も反撃をできなかっただけでなく、石油施設に被害を受けたことは、日本軍のアメリカ本土攻撃とそれに続く上陸作戦の実施を恐れるアメリカの軍民に大きな衝撃を持って受け止められました。

しかしその後、日本海軍艦艇によるアメリカ西海岸一帯への再攻撃の兆候が見られなかったことから、アメリカ西海岸一帯に出されていた警戒態勢は解かれることとなりました。

ところが、警戒解除のわずか3時間後に、ロサンゼルス市にある陸軍の防空レーダーが西方120マイルの地点に日本軍機と思われる飛行物体の飛来を感知しました。この情報はただちに各方面に伝えられ、対空砲火の体制が整えられるとともに陸軍航空隊の迎撃機がスクランブル態勢に入ります。

その後飛来数は「25機」とも報告され、さらに午前3時過ぎにサンタモニカ上空で日本軍機と思われる、時速約320キロで移動する赤く光る飛行物体が陸軍の兵士のみならず多くの市民からも目視されたため、陸軍第37沿岸砲兵旅団はこれを撃墜しようと対空射撃を開始しました。

ロサンゼルス市の沿岸部上空をサーチライトで照らされながら飛来する飛行物体に対して、陸軍第37沿岸砲兵旅団は午前4時過ぎまでの間に約1430発の高射砲を発射したものの、飛行物体には命中しませんでした。

さらに陸軍航空隊のカーチスP-40戦闘機などが迎撃を行ったものの飛行物体の迎撃に失敗し、その後もこの飛行物体はサンタモニカとロングビーチを結ぶ太平洋沿岸地帯を約20分間にわたり飛行しました。

その後、この飛行物体は、目視からもレーダーからも消えてしまいました。ロサンゼルスというアメリカ有数の大都市圏への突然の「日本軍機の空襲」と、それに対する対空砲火の応酬はロサンゼルス市民に大きな混乱を招き、CBSなど全国ネットのラジオ局でこの状況が放送されました。

さらに、多くの市民によって「どこからともなく現れた小型の物体が空いっぱいをジグザグに飛び回って、突然姿を消した」、「正確な数は把握できなかったが、30機から40機の飛行物体が高速で飛び回り、交差したり追いかけっこをしたりしていた」などの詳細な目撃談も報告されたほか、サーチライトに照らされた飛行物体の写真も多数撮影されました。

また翌日の地元紙には「4機が撃墜された」と報じられ、ハリウッドの中心地への「日本軍機の墜落」を伝える通報すらあったといいます。

こうした騒動の間に、対空砲火の落下弾により3人が死亡、日本軍上陸の報に驚いた市民が心臓麻痺で3人死亡、ほかにも多数の家屋や自動車などが損壊しました。

この「戦い」では、飛行物体が飛行する様を多くの軍民が観察したのみならず、飛行物体に対して陸軍が対空砲火による攻撃を行い、その一部始終を多くの市民やマスコミが観察し、さらには多数の飛行物体の写真が撮影されたというのが特徴です。

しかし、事件の起きた1942年2月25日の午後にはフランクリン・ノックス海軍長官が、「日本海軍機と思われる飛行物体の飛来とその後の警報は誤報であり、攻撃も確認されていない」と発表しました。

これに対し、ヘンリー・スティムソン陸軍長官は26日に会見し「ロサンゼルス市上空で、1時間にわたって15機の航空機が9000フィートから18000フィートの高度を上昇と下降を繰り返していたことを確認している」と反論しました。

さらに、ジョージ・C・マーシャル陸軍参謀総長は、ルーズベルト大統領に向けた報告書内で、「15機に上る航空機の飛来が確認されたものの、空襲などの攻撃による被害がなかったことから、日本軍がアメリカ西海岸地域の対空砲の位置を暴くとともに、灯火管制を敷かせることで生産性を低めるために偵察機を飛ばしたと推測する」との自らの意見を記しています。

国防総省は、こうした事件の記録があることを戦後も長い間、否定し続けていましたが、先年、情報公開法によりこれらの当時の記録が初めて日の目を見ました。

この情報公開法に基づく公開情報のひとつ、1942年2月26日付のマーシャル陸軍参謀総長の覚書は、ロサンゼルス上空の未確認飛行物体事件を大統領へ伝える機密文書であり、陸軍総司令部の情報をまとめたものでした。

それによれば、未確認の航空機は、合衆国陸軍または海軍のものではないことが明記され、おそらくロサンゼルス上空を飛行したものとされており、第37沿岸砲兵旅団(対空砲兵中隊)の複数の小隊が、午前3時12分から4時15分までの間砲撃したことが明らかになっているほか、これらの部隊は1430発の弾薬を使用したことまで記されていました。

関係した未確認航空機は15~25機に及んだらしく、この公式の報告書によれば「非常に遅い速度から時速200マイル(約322Km/h)に至るさまざまな速度で、9000-18000フィート(約2743m-5486m)に及ぶ高度で飛行したとされています。

しかし、爆弾はまったく落とされず、米軍の戦闘犠牲者はなく、またこれらの未確認航空機は1機も撃墜されなかったという記述も見られます。

ところが、この記録には、「当時活動中のアメリカの陸・海軍航空機はなかった」とも書かれており、この点は明らかに事実と異なります。実際には陸軍航空隊のカーチスP-40戦闘機などが「迎撃」のために発進しており、米軍としては「誤認」にもとづくこうした対処を極力伏せたかったものと考えられます。

一方、第二次世界大戦後明らかになった日本海軍の記録では、この日に日本海軍の潜水艦とその艦載機によるロサンゼルス市一帯への空襲は記録されていません。

またこの記録には「15機が飛来」や「25機が飛来」と報告されていたものの、当時アメリカ西海岸沿岸に展開していた航空母艦はなく、さらに同地域で活動していた日本海軍の潜水艦は10隻程度で、その艦載機を全部足しても15機に足りませんでした。

他にも、「日本軍が飛ばした爆弾付き気球(風船爆弾)ではないか」という報道もなされたものの、当時まだ風船爆弾は実用化されていませんでした。ただ、当日に陸軍第205防空部隊が気象観測気球をサンタモニカで上げていたことだけが判明しました。

結局、最終的にはこの文書では、「24日の日本海軍の潜水艦によるサンタバーバラ砲撃とその後の警戒態勢を受けて過敏になっていた陸軍部隊が、この気象観測気球を日本軍機と見間違え過剰対応したことがこの「戦い」の発端である」と結論付けられています。

太平洋戦争の緒戦では各戦線において日本軍に敗北を続けていた上に、本土上陸も危惧される中、陸海軍ともにこのような大きな被害がない事件の分析に人員を取られるだけの余裕がなくなっていたこともあり、この文書の結論も早急に出された感があります。

しかし、陸軍のレーダー上でサンタモニカよりはるかに離れた地点から上昇と下降を繰り返しながら飛来する飛行物体が観察されたことも記録されているうえに、目視においても多数の兵士や民間人が赤く光る飛行物体を確認し、撮影もされていることから、情報公開後のこの結論を疑問視する人も多いようです。

マーシャル陸軍参謀総長による報告書のように日本軍機の飛来を主張する者や、「日本軍の脅威を強調するために、軍需関連企業の意を受けた保守派団体などが航空機を飛ばし故意に騒ぎを起こした」という説を唱えるものがいるほか、これはやはり「未確認飛行物体(UFO)が飛来した」と考えられるのではないかと主張する人が多数出てきました。

英語版ウィキペディアにおける「ロサンゼルスの戦い」の項においては、この方面からの分析が記事の多くを占めています。

なお、事件が起きた1942年においては、アメリカにおいていわゆる「UFO」の概念は一般市民のみならず軍内部においても認識されていません。

「地球外生命体の乗り物」という意味でUFOの語が広く用いられるようになったのは戦後の1947年、アメリカ合衆国ニューメキシコ州ロズウェル付近で墜落したUFOが米軍によって回収されたとして有名になった「ロズウェル事件」以降のことです。

このため、事件当時には「UFOの飛来ではないか」という意見は大戦後に至るまで軍民、マスコミのいずれからも起きることはありませんでした。

いずれにしても、実際の被害の大きさよりも、アメリカ軍民に衝撃と混乱を与えることが目標とされた2月24日のサンタバーバラへの日本海軍艦艇による砲撃の成功が、このような形でのアメリカ軍の混乱と、同士討ちによる被害を招いたともいえます。

さて、このように太平洋戦線において各地で敗北を続けるだけでなく、本土に対する数度にわたる攻撃を受けたことによるアメリカ国民の士気の低下を危惧したアメリカ海軍は、1942年4月に、中型陸上機であるアメリカ陸軍航空隊のノースアメリカン B-25爆撃機を航空母艦に搭載し、史上初の日本本土空襲(ドーリットル空襲)を行いました。

この初空襲はアメリカ本土上陸の恐怖に慄くアメリカ国民の士気を鼓舞すると同時に、各地で勝利を続ける日本に対して一矢報いるものであったといえます。

開戦以来連勝を続けている上に、度重なるアメリカ本土攻撃を成功させていた最中に突然の本土空襲を許し、面目を潰された大日本帝国海軍令部は、これに対抗して急遽巡潜乙型潜水艦「伊号第二五潜水艦」(伊25)に搭載されている零式小型水上偵察機によるアメリカ本土への空襲を計画しました。

なお日本海軍令部は、日本陸軍部隊の上陸に対する対応を整えつつある生産施設や都市部を避けるという理由と、少量の爆弾でも延焼効果が期待できるという理由から、空襲の目標をアメリカ西海岸のオレゴン州の森林部と位置づけました。

これは同州を縦断するエミリー山脈の森林に焼夷弾により山火事を発生させ、延焼効果により近隣の都市部に被害を与えることを目的とするものでした。零式小型水上偵察機には通常装備は機銃だけで爆弾等を搭載できませんでしたが、この計画に合わせて、急遽焼夷弾2発を搭載するように改造されました。

アストリア市の海軍基地への攻撃を終えて1942年7月11日に母港である横須賀港へと戻った「伊25」は、1ヶ月あまりの休暇を経て、8月15日に再び横須賀を出港。アリューシャン列島をかすめて9月7日にオレゴン州沖に到着し、第一回目の空襲準備を行います。

天候の回復を待ち沖合いで2日待機した後、9月9日の深夜に空襲を決意し、田上艦長ら搭乗員が見守る中、藤田信雄飛曹長と奥田兵曹が操縦する零式小型水上偵察機は76キロ焼夷弾2個を積んで太平洋上の「伊25」を飛び立ちました。

目標地点である太平洋沿岸のブランコ岬に到達してから内陸に進み、カリフォルニア州との州境近くのブルッキングス近郊の森林部に2個の焼夷弾を投下し森林部を延焼させました。そして地上からの砲撃も戦闘機の迎撃もなく無事任務を遂行し、沖合いで待つ「伊25」に帰還しました。

なお、藤田機は空襲を終えて「伊25」に帰還すべく飛行していたさ中に、オレゴン州森林警備隊の隊員によって発見されてアメリカ陸軍に通報されています。この結果、アメリカ陸軍航空隊のロッキード P-38戦闘機が迎撃に向かったものの、防空体制の不備により発見されることはありませんでした。

しかし、突然の空襲を受けて、陸軍や地元警察が沿岸地域を徹底的に捜索しました。この結果、藤田機の帰還後、「伊25」は沿岸警備行動中の陸軍航空隊のロッキード A-29ハドソン哨戒爆撃機に発見されて攻撃を受けましたが、損害を受けることはありませんでした。

2回目の空襲は20日後の9月29日の真夜中に行われ、藤田機はこのときも同じく76キロ爆弾2個を再びオレゴン州オーフォード近郊の森林部に投下、森林部を延焼させ、「伊25」へ戻っています。

この2回目の空襲においても、地上からの砲撃も戦闘機の迎撃もなく任務を遂行し、無事に沖合いで待つ「伊25」に帰還しました。「伊25」には予備の爆弾がまだ残っていたものの、前回の空襲の結果、太平洋沿岸部の警備が厳しくなっていたことから、2回目の空襲を最後に空襲を取りやめることとし、帰還することとなりました。

「伊25」はその後10月4日と6日に、アメリカのタンカーを1隻ずつ撃沈したのち、太平洋を横断し母港の横須賀へと帰還しています。なお、帰還中の10月11日に、ウラジオストクからパナマ運河経由でムルマンスクへ回航中のソ連海軍の潜水艦L-16を「アメリカ海軍の潜水艦」と思い込んで撃沈しています。

しかしこの時点で日本とソビエト連邦の間には日ソ中立条約が締結されており、戦争状態になかったこともあり日本を刺激することを避けるためか、日本軍の潜水艦による攻撃と判断できなかったためかソ連から日本に対する抗議や損害請求などはまったく行われませんでした。

この2回にわたる空襲は、「アメリカ本土爆撃」というインパクトがアメリカ国民の心理に与える影響を狙ったものでしたが、同時に森林を爆撃することによる延焼被害を起こすという実質的な被害効果をも狙ったものでした。しかし、直接的に人的被害を出すことを目的とした空襲でなかったこともあり、軍人や民間人に死者は発生しませんでした。

また、最初の爆撃が行われた日よりも前の9月のはじめと、爆撃前日までの数日間に降り続いた雨により湿気があったためもあり、空襲による森林の延焼は本格的な消火活動が行われる前に自然消火するなど、空襲による直接的な被害は大きなものではありませんでした。

しかし、アメリカ史上初の敵軍機による本土空襲に驚いたアメリカ政府は、太平洋戦線における日本軍に対する相次ぐアメリカ軍の敗北に意気消沈する国民に対する精神的ダメージを与えないために、軍民に厳重な緘口令を敷きこの空襲があった事実を極秘扱いにしました。

しかし、まもなくマスコミに知れ渡ることになり、当時太平洋戦線で負け続きであったアメリカ国民をさらに怯えさせ、この空襲以降、西海岸地域を問わずアメリカの全ての沿岸部における哨戒活動及び防空はより厳重なものとなっていきました。

併せてサンフランシスコなどの西海岸地域の大都市には、日本軍機による空襲に備えたシェルターや防空壕が急遽設置されるようになりました。

この本土空襲の前には同年の6月にもアラスカのダッチハーバーへの空襲が実施されていましたが、この二度の空爆と合わせ、以降は連合国軍によるアメリカ西海岸部及びアラスカ沿岸部への日本軍の艦船接近への監視は格段に厳しくなりました。

しかし、これらの空襲以降、日本軍はアメリカ以外の太平洋各地に転戦するようになり、その戦線は伸びに延びました。このため、危険を冒してまで相手に与える被害が軽微であり、しかも心理的なダメージを与えることぐらいしか意味合いしか持たない潜水艦搭載偵察機による攻撃には軍部内でも批判が多くなってきました。

また、このころの日本軍は太平洋各地での戦闘に追われるようになっており、アメリカ本土まで空襲を行う余裕がなくなっていたということもあるようです。

このため、この二回に渡る米本土空爆を最後に日本軍の航空機によるアメリカ本土に対する空襲が行われることはなくなりました。

なお、この2度目の空襲以降もドイツやイタリア王国などの他のアメリカの敵国によるアメリカ本土への航空機による空襲は行われていません。また、この日本海軍機による空襲は、アメリカ史上初でした。このため現在までに到るまで唯一の外国軍用機によるアメリカ本土への空襲として記憶されることになりました。

しかし、外国軍用機ではないとはいえ、民間航空機を使ってエンパイアーステートビルなどの「空爆」に及んだ2001年の9.11テロ事件、アメリカ同時多発テロ事件は、この太平洋戦争時の日本軍による本土空爆以来の攻撃であり、アメリカ人にとっては衝撃的、かついかに屈辱的なものであったかについては想像に難くありません。

ところで、終戦後の1962年に、この空爆を行った一人である藤田飛曹長は、アメリカ人に敵視されるどころか、オレゴン州ブルッキングス市から招待を受けアメリカに渡り、同市市民から「歴史上唯一アメリカ本土を空襲した敵軍の英雄」として大歓迎を受け、同市の名誉市民の称号まで贈られています。

この時、同市市民からは藤田飛曹長が投下した焼夷弾の破片まで贈られたといい、その破片からはかすかに火薬の臭いがしたといいます。なお藤田飛曹長は、そのお返しとして、戦争中、軍刀として用いた愛刀をブルッキングス市に寄贈したそうです。

この招待は外務省を通じて伝えられましたが、当の本人には招待の趣旨が知らされていなかったため、現地に到着するまで「戦犯として収監されるのかもしれない」と思っていたそうです。寄贈した軍刀は戦後も密かに所持していたものを、収監されそうになった時には自決するため、荷物に忍ばせて持参したものであったといいます。

その後、藤田飛曹長は贖罪の意味を込めて同市に植林を行ったり、同市市民を日本に招待するなど日米友好に残りの半生を費やしました。また、そのような貢献を受けて、後にロナルド・レーガン大統領よりホワイトハウスに掲揚されていた星条旗が贈られています。

その当時、藤田飛曹長が受け取った爆弾片と星条旗は、茨城県土浦市の「まちかど蔵野村」に保存公開されているそうです。

その後、アメリカは大規模な空爆を日本に対して行い、その結果日本全土が焦土と化しましたことは周知のとおりです。しかし、その後友好国同志となり、現在までに同盟を結び続けているのは、まるで奇跡かマジックのようにさえ思えます。

おそらくは2国間で再び同じ歴史が繰り返されることはないでしょう。

が、もしかしたら、UFOが原因の同士討ちはまた起こるかもしれません。「ロサンゼルスの戦い」を見て大笑いしていた宇宙人がいたとしたら、どんな目的で飛来してきていたのか、またどんな姿をしていたのか知りたいものです。

さて、今日も天気はよく、夜空も綺麗そうです。UFOは見れるでしょうか。

爆弾を乗せて……


今日は、230年ほど前の1783年に、フランス人のモンゴルフィエ兄弟が発明した気球による世界初の有人飛行成功が成功した日です。

このことは、6月ごろに書いた、「気球に乗って……」にも詳しく書きました。が、ざっとおさらいをしておきましょう。

実はこれよりも前の10月15日、モンゴルフィエ兄弟の弟のジャックが、係留した気球に乗って高さ24mまで上がりましたが、この日は係留していない熱気球による実験は行われませんでした。

このため、人類初史上初の無係留の有人飛行を行うという栄誉を得たのは、ラートル・ド・ロジェとフランソワ・ダルランドという二人の侯爵でした。なぜ発明者であるモンゴルフィエ兄弟自身がこのフライトを行わなかったかといえば、それはおそらくフランス王室に配慮したためでしょう。

世界初の快挙の栄誉を貴族に譲ることにより、気球という新しい乗り物をその後普及させていくにあたって、国家的な援助を手にすることができるようになり、そのほうが得と考えたためではないかと私は推察してます。

二人の侯爵を乗せた熱気球は、パリの西にあるブローニュの森に近いシャトー・ド・ラ・ミュエットの庭から発進して910mほどまで上昇し、パリ上空の9kmの距離を25分間にわたって飛行しました。

この飛行は一大センセーションを巻き起こし、ヨーロッパ中にその話題がもちきりとなり、やがて多数の版画まで作られるようになりました。また、独立戦争を勝ち取ったアメリカにも伝えられ、アメリカ人自身による気球開発も始まりました。

この成功からわずか10日後には同じフランスの発明家で、物理学者のジャック・シャルルが、今度は「ガス気球」によって人類初の有人飛行を成功させています。このときは、2時間5分滞空して36kmの距離を飛び、モンゴルフィエ兄弟の熱気球の9km・25分を大きく上回りました。

その後の気球に関する世界初の多くは、このガス気球によるものであり、例えば1784年9月19日には、シャルルとロベールの兄弟と M. Collin-Hullinが6時間40分の飛行を行い、パリからベテューヌ近郊のバーヴリーまでの186kmの飛行に成功しており、これが世界ではじめて航続距離100kmを越えたフライトといわれています。

また、1785年1月7日には、ジャン=ピエール・ブランシャールとジョン・ジェフリーズが水素気球によってドーヴァー海峡の横断に成功しています。

こうして、熱気球とガス気球は競い合うようにして発展していきましたが、飛行中に燃料を燃やし続けなければならない熱気球よりも、一度ガスを詰めればそれで済む水素気球のほうが効率的だったため、その後熱気球はあまり使われなくなり、水素気球に取って代わられるようになります。

ところが、1785年(天明5年)6月15日にピラトール・ド・ロジェという人がドーバー海峡横断に挑んだ際には、水素が引火爆発を起こし、気球は墜落してロジェは死亡。これは史上初の航空事故となりました。

こうした事故があったにも関わらず、その後、1852年にフランスのアンリ・ジファールによって世界で初めて蒸気機関をつけた「飛行船」の試験飛行が成功すると、水素ガスを充填したこの新型乗り物はまたたくまに世界中に広まっていきました。

その後ドイツのツェッペリン号に代表されるように、飛行船は第一次世界大戦までは時代の花形であり続けましたが、1937年に大西洋横断航路に就航していたドイツのヒンデンブルク号が、アメリカ合衆国ニュージャージー州のレイクハースト空港に着陸する際に、原因不明の出火事故を起こし爆発炎上しました。

この事故の後、航空機(固定翼機)の発達もあり、民生用飛行船はほとんど使われなくなっていきました。現在飛んでいるものも、昔のような水素気球は水素の引火爆発の危険性があるため、製造はほとんど行われておらず、引火爆発の危険性の無いヘリウム気球に取って代わられています。

こうして飛行船は飛行機の発明により衰退していき、そんな中、気球もまた歴史の中に埋もれていきます。

ところが、第二次世界大戦以後、気球はスカイスポーツとして新たに復活を果たすようになり、1959年にアメリカでNASAなどとアメリカ企業との共同作業により、「近代的熱気球」が作られ、試験飛行が行われました。

この気球はナイロンなどの化学繊維を球皮とし、バーナーの燃料にプロパンガスを利用するより安全な気球を実現させたものであり、モンゴルフィエ式の熱気球をさらに改良したものでした。

この飛行の成功から数年後、初のスポーツ用熱気球が市場に販売開始されると、その後イギリス、フランスなどのヨーロッパにも気球メーカーが出来るようになり、これはやがて日本にも導入されるようになりました。

京都大学、同志社大学を中心とする京都の学生達などが協同して熱気球を作成し、その後何機もの後継機が作られるようになりました。その後も日本の各大学では次々と熱気球活動を行う団体が設立され、国内のいたるところでスカイスポーツとしての熱気球が盛んになっていきました。

しかし、当初は大学生の趣味の世界の域を出ず、また一般の人が独自に開発できるようなものでもありませんでした。ところが、その後欧米の気球メーカーが汎用性のある機体を開発し、これが日本にも輸入される様になり、一般の人も熱気球を楽しめるようになっていきました。

それ以降は、日本中至るところで、バルーンフェスティバルが開かれるようになり、その中でも1978年(昭和53年)に始まった佐賀インターナショナルバルーンフェスタは、熱気球競技大会としては日本国内のみならずアジアで最大級の参加機数の大会であり、内外共に有名です。

佐賀県佐賀市の嘉瀬川河川敷を主会場として佐賀平野中西部の広範囲で毎年秋に開催され毎年十数ヵ国の選手が70~80機が参加し、うち日本国内からの参加は50機程度参加しています。今年も10月30日から11月4日までの日程で行われ、多数の色とりどりの熱気球が佐賀の空を飛び交いました。

ところで、日本で初めてガス気球で日本初の有人飛行に成功したのは誰かというと、これは島津源蔵という人です。鹿児島薩摩の人で、現在さまざまな科学分析・計測機器の開発で有名な島津製作所の創業者でもあります。没後に息子の梅次郎が後継者となり、二代目・源蔵となったこの人が、製作所を更に発展させました。

島津源蔵は、京都の醒ヶ井魚棚(現・堀川六条付近)で仏具の製造をしていた島津清兵衛の次男として、天保10年(1839年)5月15日に生まれました。家業を治め、1860年(万延元年)に21歳で木屋町二条に出店しましたが、この場所は高瀬川の船便の終点に近く、当時の重要な流通拠点でした。

また、先日も書きましたが、東京へ遷都後に没落傾向にあった京都府は殖産興業のため1870年(明治3年)に勧業場、舎密局(化学局)などをこの付近に設立し、源蔵はこの舎密局に出入りするようになりました。

ここで化学の知識を得た源蔵は1875年(明治8年)に教育用理化学機器の製造を始めており、これが島津製作所の始まりです。1877年(明治10年)の第一回内国勧業博覧会では錫製の医療用ブーシーを出展し、内務卿・大久保利通から褒状を受けるなど、その開業当時から高い技術力で定評がありました。

このころ、日本では先述のヨーロッパでの気球の成功の情報を受け、軍用の気球の研究が始まっていました。日本で初めて無人の気球が飛ばされたのは1877年(明治10年)5月23日ということになっています。

西南戦争で、薩軍に包囲された熊本城救援作戦に気球を利用する計画が立てられたためで、築地海軍省練兵所で行われたこの気球実験は成功しましたが、熊本城攻防戦に決着がついたためその実用化は見送られていました。

同じ年、こうした軍用目的とは別に、京都府が「科学思想啓発のため」と称して国内初の有人気球を計画した折り、その実行責任者として島津源蔵に白羽の矢が立ちました。無論、島津製作所を興し、化学の造詣にも深いと評判が立っていたためです。

源蔵は、まず、気球の本体部分として胡麻油で溶かした樹脂ゴムを塗布した羽二重をつくりました。そして中に封入するガスとしえ、鉄くずと硫酸を四斗樽10個を使って水素ガスを発生させ、これを羽二重の中に封入しました。

そして、招魂祭(靖国神社などで始められた死者に対する例祭)のある1877年(明治10年)12月6日に京都の仙洞御所で飛行試験が行なわれました。仙洞御所というのは、京都御苑内の京都御所の南東に位置している代々退位した天皇が居住されてきた(上皇・法皇)御所です。

広い広場があり、ここに5万人の観衆が集まったそうです。その大観衆の面前で、源蔵のガス気球は36mの高さまで見事に浮上し、人々はこれに対して大喝采を送りました。これにより、源蔵の知名度はさらに大きく向上し、と同時に島津製作所の名もまた世に知れ渡っていくようになりました。

翌1878年(明治11年)2月3日から3年間、京都府はドイツからゴットフリード・ワグネルという人物を舎密局に招聘し、雇用し始めました。彼は化学工芸の指導などを職務とし、理化学器械の製造のため出入りしていた源蔵とも親しく接しています。

このため、ワグネルから源蔵には木製旋盤が贈られ、これは現在も島津創業記念資料館に現存し、また、同製作所の当時のカタログには「ワグネル新発明」という説明の付いた蒸留器なども掲載されています。

このワグネルという人は、来日後、これ以外にも京都府立医学校(現・京都府立医科大学)、東京大学教師、および東京職工学校(現・東京工業大学)教授として活躍し、また、陶磁器やガラスなどの製造を指導しました。

1892年(明治25年)に持病だったリウマチが悪化し、栃木県塩原温泉で療養しましたが快復せず、この年の11月に東京・駿河台の自宅で亡くなっています。国から勲三等旭日章を受けており、没年齢は61歳でした。京都在住時から駿河台在住時にかけて女性と同居していましたが結婚せず、生涯独身だったそうです。

教育者としても立派な人だったようで、ワグネルの教育を受けた生徒の多くは、その後日本の教育界で活躍しました。源蔵もこれに触発されて後には自らも科学教育に携わるようになり、1886年(明治19年)には「理化学的工芸雑誌」を発刊し、京都府師範学校(現・京都教育大学)の金工科で教職を一年間務めたことがあります。

源蔵自身は1894年(明治27年)に脳溢血のため、55歳で亡くなっています。前述のとおり、長男の梅次郎が二代目・源蔵を襲名し、その後の大島津製作所を育てました。

島津源蔵の死後から10年が経った1904年(明治37年)、日露戦争の際には、芝浦製作所製の気球を配備した臨時気球隊が旅順攻囲戦に投入されるようになり、戦況偵察に活躍しました。この臨時気球隊の成功を受けて、翌1905年(明治38年)には、東京中野の電信教導学校内に気球班が設置されるようになります。

1907年(明治40年)に、気球班は改組されて陸軍気球隊となり、鉄道連隊、電信大隊、気球隊を合わせた交通兵旅団の一部となりました。1913年(大正2年)10月20日、気球隊は陸軍の航空基地であった所沢飛行場に転出します。

1927年(昭和2年)、所沢の混雑のため鉄道連隊に近い千葉市稲毛区作草部町に移転。このときの兵力は気球2個予備2個を持つ2個中隊でした。1936年(昭和11年)陸軍気球聯隊に改組され、それまでの航空科の所属から砲兵科所属に移管されました。

1937年(昭和12年)、日中戦争に動員、南京攻略戦に参加。1941年(昭和16年)、防空気球隊編成、1942年(昭和17年)、タイ、仏印、シンガポール作戦などに参加しましたが、その後、気球隊の任務は航空機の発達により次第に失われていきました。その後は内地にとどめ置かれることも多く、華々しい作戦とは無縁のままうち過ぎます。

ところが、大戦末期の1944年(昭和19年)年、この気球隊に日の目が当たります。対米攻撃のための「風船爆弾」の計画が持ち上がり、気球聯隊を母体とした「ふ」号作戦気球部隊が編制されたのです。

同部隊は、陸軍唯一の気球部隊であり、対外的には秘密部隊とされたため、聯隊番号はつけられませんでした。連隊長を井上茂大佐とし、連隊本部は茨城県大津に置かれ、部隊に所属する兵員はおよそ2千名もいました。連隊本部のほか、通信隊、気象隊、材料廠を持ち、放球3個大隊で編制された堂々たる大部隊です。

その後戦局が日本に不利になっていくにつれ、人員は3000名に増員され、3個大隊で編制された気球部隊は、茨城(第1大隊)、千葉(第2大隊)、福島(第3大隊)の3カ所の基地に展開し風船爆弾作戦に従事するようになります。

各大隊にはそれぞれ、茨城県大津で3個中隊、千葉県一宮で2個中隊、福島県勿来で1個中隊を持ち、各中隊人員は、将校12~13名、下士官22~23名、兵約190名で編成されていました。さらに各大隊には水素ガスの充填、焼夷弾・爆弾等の運搬・装備を担当する段列中隊1個が設けられました。

この各部隊は、1944年11月から1945年(昭和20年)4月までの間に合計9300個の風船爆弾を放球しました。千葉市稲毛区作草部にある千葉第2大隊の跡地には、現在も巨大な気球格納庫をはじめ当時の建物などの遺構が残されているそうです。

この部隊が放った風船爆弾は、大平洋戦争において日本陸軍が秘密裡に開発した気球に爆弾を搭載した兵器であり、戦争末期に造られたため、別の意味での「最終兵器」です。最後のあがきともいえるでしょう。

最初に思いついたのは、陸軍少佐であった近藤至誠という軍人で、彼はデパートのアドバルーンを見て「風船爆弾」での空挺作戦への利用を思いつき、軍に提案をしましたが、採用されず、このため軍籍を離れてまで自主研究を進めました。

しかし、その開発は進まないまま、近藤は病死。しかし同志によって研究は進められ、その後日本が太平洋各地でアメリカにやっつけられ始めるようになってからようやく軍で採用され、その結果、陸軍神奈川県の陸軍登戸研究所で改めて開発が行われるようになりました。

満州事変後の昭和8年(1933年)頃から関東軍、陸軍によって対ソ連の宣伝ビラ配布用としての開発が進み、戦争末期の昭和19年(1944年)になってようやく風船爆弾として実用化しました。

実際に行われた作戦も「ふ」号作戦でしたが、この開発兵器のコードネームもまた、「ふ号兵器」とされ、秘匿名称で呼ばれていました。なお、「風船爆弾」は主に戦後の用語で、当時の本来の呼称は「気球爆弾」でした。

さて、実施に移された「ふ」号作戦の成果ですが、ご存知のとおり、戦果は僅少でした。しかし、第二次世界大戦で用いられた数々の兵器の中にあって、ほぼ無誘導で8000キロもの長距離を飛んだものはこれ以外にはなく、史上初めて大陸間を跨いで使用された兵器となった点は現在でも評価されています。

この風船爆弾の構造ですが、材質は楮(コウゾ)製の和紙とコンニャク糊で、薄い和紙を5層にしてコンニャク糊で貼り合わせ、乾燥させた後に、風船の表面に苛性ソーダ液を塗ってコンニャク糊を強化し、直径10mほどの和紙製の風船に仕立て上げるというものでした。気球内には水素ガスが充填されました。

無誘導の兵器でしたが、発射されると気球からは徐々に水素ガスが抜け、気球の高度は低下します。このため、航続距離を伸ばすためには、自動的に高度を維持する装置は必須であり、これにはアネロイド気圧計の原理を応用した高度保持装置が考案されました。

アネロイド気圧計は、内部を真空にした金属製容器の円板状の面が、外の気圧に応じて膨らんだり凹んだりするのを、針の動きに変えて気圧を読む形式の気圧計です。

これを応用し、高度が低下すると気圧の変化で気圧計の円盤に相当する「空盒」と呼ばれる部品が縮み、針を動かす代わりに電熱線に電流が流れるようにしました。そしてこの電流によりバラスト嚢を吊している麻紐が焼き切られ、気球は軽くなりふたたび高度を上げるというあんばいです。

これをアメリカ本土に到達するおよそ50時間もの間、約二昼夜くり返して落下するしくみでした。軍が開発した機械名称としては、正式には三〇七航法装置と呼ばれました。

長引く戦争によって物資は不足し、国内にある軍需工場の多くは爆撃の被害に会うようになっていたため、この風船爆弾は日本劇場でも製作されました(日本劇場は焼失し、現在は有楽町マリオン)。

これは気球を天井から吊り下げて、水素ガスを注入して漏洩を検査するために天井が高い建物が必要とされたためで、日劇の他、東京では東京宝塚劇場、有楽座、浅草国際劇場、両国国技館でも同じく製作され、東京以外では名古屋でも東海中学校・高等学校の講堂を使って作られました。

他にも毒ガスの製造施設があり機密性の高かった瀬戸内海の大久野島などでも製作が行われたといいます。

作業にあたったその多くは学徒動員された女子学生であり、短期間の間に数多くの風船の製作を強いられたため、紙の扱いによって彼女たちの指紋が消えたというエピソードが残されています。さらには、製造中の水素爆発などの事故により6名の死者を出しています。

当初は海軍も対米攻撃用にゴム引き絹製の気球の研究をしていましたが、海軍のほうは「木製航空機」などの製作のほうに重きが置かれるようになったため途中で放棄され、開発中の機材と研究資料は陸軍に引き渡されました。ただし、海軍が開発したゴム引きの気球も多少実戦に使用されたということです。

この気球の直径は約10mで総重量は200kgあり、兵装は15kg爆弾1発と5kg焼夷弾2発でした。ほかにさらに焼夷弾の性能を上げたものも発射されたようです。爆弾の代わりに兵士2~3名を搭乗させる研究も行われましたが、結局は実現しませんでした。

当時、日本の高層気象台(現・つくば市)の台長だった大石和三郎らが発見していたジェット気流(偏西風の流れ)を利用し、気球に爆弾を乗せ、日本本土から直接アメリカ本土の空襲がおこなわれ、上述の部隊のある千葉県一ノ宮・茨城県大津・福島県勿来の各海岸から放球されました。

一番最初の攻撃日は、昭和19年11月3日未明であり、このときは3カ所の基地から同時に放球されました。この日が選ばれたのは、明治天皇の誕生日(明治節)であったことと、統計的に晴れの日が多い(晴れの特異日)とされたためでした。が、蓋を空けてみるとこの日は朝から土砂降りの雨だったそうです。

これに先立ち、千葉県一宮には試射隊が置かれ、この試射隊はラジオゾンデ装備の観測気球を放球し気象条件を探っています。このほかにも気球の行方を追う標定隊が設けられ、これは宮城県岩沼に本部を置いていました。

が、実際の標定所は青森県古間木、宮城県岩沼、千葉県一宮の3カ所に設置され、これでも不足だと思ったのか、後には樺太にまで標定所が設置されています。

昭和19年冬から20年春まで攻撃が続けられましたが、戦況の悪化によりこれ以降、終戦の間際までにはほとんど発射されることはなかったようです。

しかし、生産個数はおよそ1万発で、このうち9300発が放球されましたから、当初立てられた計画はほぼ完遂されたと言ってよいでしょう。しかし、実際にアメリカまで届いたものは数少なかったようです。

ただ、アメリカ合衆国で確認されたのは361発だといい、これを成功率として換算すると4%弱です。ほかに山中や湖など人知れぬところに到着したものも多数あったと思われ、1000発程度が到達したとする推計もあるようです。だとすると、10発撃って1発当たったということですから、無誘導の兵器の当たる確率としてはまずまずといえるのではないでしょうか。

風船爆弾によるアメリカ側の人的被害は、すでに作戦が終了していた1945年5月5日、オレゴン州で起こりました。アメリカ西海岸から500kmほども内陸に入ったブライという町で、不発弾に触れたピクニック中の女性1人と子供5人の計6人の民間人が爆死したというもので、確認されている人的被害としては、これが唯一のものです。

また、ワシントン州リッチランドのプルトニウム製造工場の送電線にこの風船爆弾が引っかかり、短い停電を引き起こしました。これが原爆の製造を3日間遅らせたという説が伝えられていますが、よくある都市伝説のひとつかもしれません。実際には工場は予備電源で運転され、原爆の完成にほとんど影響はなかったという説もあるようです。

このほか風船爆弾に吊り下げられた焼夷弾によって、小規模の山火事が各地で起こったようです。しかし、この爆弾の多くは11月以降の冬季に発射されたため、アメリカでもこの季節の山林は積雪で覆われていたため火が燃え広がりづらく、大きな戦果をあげませんでした。

ただし、風船爆弾による心理的効果は大きかったといえ、アメリカ陸軍は、風船爆弾が生物兵器を搭載することを危惧し、着地した不発弾を調査するにあたり、担当者には防毒マスクと防護服を着用させました。

また、少人数の日本兵が風船に乗って米本土に潜入するという噂が広がり、このほかにも少数回ではありますが、実際に日本軍機によるアメリカ攻撃も行われたため、日本軍のアメリカ本土上陸という懸念を終戦まで払拭することはできず、この風船爆弾対策においても、アメリカは大きな努力を強いられました。

このころアメリカ軍は既に大量のレーダーを持っていましたから、これを駆使して発見につとめようとしましたが、なにぶん紙でできていることからすべてを確認することはできませんでした。しかし、ごくまれに風船爆弾を発見すると、安全地帯上空で迎撃を試みており、風船爆弾を撃墜するアメリカ軍戦闘機のガンカメラ映像が残っています。

一方でアメリカは厳重な報道管制を敷き、風船爆弾による被害を隠蔽しました。これはアメリカ側の戦意維持のためと、日本側が戦果を確認できないようにするためでした。この報道管制は徹底したもので、戦争終結まで日本側では風船爆弾の効果は1件の報道を除いてまったくわからなかったといいます。

こうして、たいした成果も上がらぬまま、しかもその成果がどの程度かも確認できぬまま、作戦終了後「ふ」号部隊は解隊され、隊員は原隊に復帰し8月の終戦をむかえています。

それにしても、結果もわからぬまま作戦を実施し、そうした実施後の観測をどのように行うかなどについてまでが計画に取り入れていないといったところは、まったくおまぬけな作戦です。ほかに打つ手がなかったというのもあるでしょうが、特攻攻撃と同じくまったく愚かなことをやったものです。

現在においても、来年実施されようとしている消費税の増税や、特定秘密保護法案、原発対策などなど、どれをあげても先の見えない政策ばかりで、今の日本はこの当時からほとんど進化していないのではないかとついつい思ってしまいます。

終戦時に残存していた700発は焼却処分されたそうです。このため、この兵器の現物は日本国内に残存しませんが、江戸東京博物館に5分の1模型があり、埼玉県平和資料館にも7分の1模型が展示されています。ただし、国立科学博物館には非公開ながら、重要部品の風船爆弾の気圧計が保管されているとうことです。

一方の「被害国」のアメリカのスミソニアン博物館の保管庫には気球部分が保管されているそうです。気圧計及び爆弾部分の気球下部部分の実物に至っては、スミソニアン国立航空宇宙博物館に展示されているといいます。そういえば20年ほど前にここを訪れたときに、見たようなかすかな記憶があります。

なお、1950年にはアメリカにおいても日本の風船爆弾の設計を基礎としたE77気球爆弾がテストされているといいます。

さらに、なお、ですが、実はあまり知られていないことですが、アメリカ本土空襲はこの風船爆弾以外にも、大日本帝国海軍の艦載機による本土直接空襲が何度か行われています。

この話ももう少し追ってみようかな思ったのですが、また長くなりそうなので、今日はこのくらいにしたいと思います。

今日も晴天で富士山がきれいです!ブログなど書いていないで(読んでいないで)、外へ出かけましょう!