秋が深まってきました。
ついこの間までの台風によって各地で大きな被害が出たことなども、なぜか遠い昔のような気がします。
しかし、久々に近所にある修禅寺自然公園の側までジョギングに行ったら、ここの紅葉はまだまだといったかんじでした。さらにその先にある修禅寺虹の郷の紅葉も、ホームページを見る限りでは見ごろはまだ先のようです。
今週末からは、毎年恒例の夜間ライトアップも始まるようですが、夜の紅葉狩りに出かけるのは来週ぐらいにしてみようかと思っています。
さて、今日は鉄道電化の日ということになっているようで、これは1956年(昭和31年)、東海道本線の全線が電化されたことを記念して1964年(昭和39年)に鉄道電化協会が設定したものだそうです。
しかし、日本で初めて電気鉄道が走ったのは、1895年(明治28年)のことであり、京都市で京都電気鉄道が開通したのが最初です。
ただし、1890年(明治23年)の第2回内国勧業博覧会のとき、会場となった上野公園において東京電燈が5月4日から一時試験運転を行っていた事があり、日本初を追及するならば、このときが初めてになるでしょう。
もっとも、商業化された電気鉄道がその後も継続的に営業されたのは無論、この京都電気鉄道が初めてです。
この鉄道が導入されたいきさつですが、これは京都は明治維新以後、それまでここに居をおいていた天皇や皇族がこぞって東京に移り住むことになり、それまでは日本の中心としてにぎわいを見せていたこの町が火の気が消えたように静かになってしまったことに始まります。
このため、京都市民の中からこのまま街が衰退することを憂慮し、産業の振興を呼びかける声があがりました。産業振興を推し進める市民から出されたスローガンの中には、784年(延暦3年)の長岡京遷都と794年(延暦13年)の平安京遷都に伴い、急速に衰退した奈良(平城京)を挙げ、「第二の奈良になるな」というものもありました。
こうして京都を再び活気のある町にしようという機運が次第に高まっていく中で、とりわけ京都復興のための目玉と目されたのが琵琶湖疏水でした。
この琵琶湖疏水のお話については、9月に書いた「疏水」に詳しいので、ご興味がある方はこちらも読んでみてください。
琵琶湖疏水は、1890年(明治23年)に完成した第1疏水と、これに並行して建設され、1912年(明治45年)に完成した第2疏水を総称したもので、現在では両疏水を合わせ、毎秒24トンを琵琶湖で取水しており、その内訳は、水道用水約13トン(毎秒)、それ以外の11トンを水力発電、灌漑、工業用水などに使っています。
水力発電は第1疏水の通水の翌年に運転が開始され、これは営業用として日本初のものでした。そしてその電力を使った日本初の電気機関車が走らせたのが京都電気鉄道であり、この電力はさらに工業用動力としても使われてその後の京都の近代化に貢献しました。
京都における路面電車の運転計画は、その水力発電によって供給される安価で潤沢な電力を基にして立てられました。これに加え、計画的に建設された都市のため主要道路が碁盤の目状になっていて電車の運行に都合が良かったこともその導入に幸いしました。
また、人口が多く観光客も多く見込めること、前述のような理由によって市民に進取の風潮が根付いたこと、更に平安遷都1100周年を記念して1895年(明治28年)に京都で第4回の内国勧業博覧会が催される事になったことも、計画の追い風となりました。
この琵琶湖疏水の工期途中の1889年(明治22年)、疏水工事主任技師の田辺朔郎と上下京連合区会(後の京都市会)議員の高木文平は、疏水の水力利用についての視察のためアメリカへ赴きました。この渡米時に2人は水力発電とともに、マサチューセッツ州のホリヨークなどで電気鉄道を見学しています。
帰国後2人は水力利用は発電を主とするのがよいとの報告を議会に行い、それに基づき蹴上発電所の設置など疏水工事の計画修正がなされました。蹴上発電所の運転が始まると、高木文平らは、1892年(明治25年)電気鉄道の敷設を府知事に出願し、同年知事の諮問を受けた京都府会市部会は市内における敷設を可とする答申を出ています。
これを受け、高木文平ほかは、1893年(明治26年)に内務省へ電気鉄道の敷設を出願し、こうして1894年(明治27年)2月に、電車敷設の事業を行うための事業者として京都電気鉄道が設立され、路線の建設が開始されました。このとき、この新会社の社長には高木文平自らが選出されています。
この高木文平という人ですが、京都府の南丹市の出身で、実家は地元の旗本の代官も務めた豪農でした。明治維新後は、地元で学校教育の指導などを行っていましたが、その後実業界に転じ、1882年に京都商工会議所の初代会長に選出されました。
前述のとおり、田辺朔郎と米国視察を経験し、現地で電気鉄道を目の当たりにし、日本でもこれを実現すべく奔走するようになりますが、京都電気鉄道会社の社長に就任した後も京都政界で府議会議員、市議会議員として活躍しました。
また1900年には同郷の中川小十郎が設立にした京都法政学校(現在の立命館大学)の設立にも力を貸しています(明治43年に67歳で死去)。
1895年(明治28年)2月、現在の京都駅近くの「東洞院塩小路下ル」~「伏見下油掛」間で日本初の電気鉄道が走り、正式に京都電気鉄道が開業しました。続いて4月からは七条から岡崎の第4回の内国勧業博覧会々場にいたる路線も開業させ、その後も順次路線を延ばしていきました。
しかしなにぶん、日本初のことでもあり、この当時は運転技術や設備が未熟で、正面衝突や電圧変動による立往生・暴走なども発生したそうです。また開業当初は「停留所」という概念がなく、これは運営するほうもそうでしたが、利用する客のほうも同様で、電車は行きあたりばったりの場所で止まり、乗客を拾っていました。
勧業博覧会のほうも、日清戦争の勝利に伴って賠償金が入り好況になったこともあって、約112万人の入場者を集める活況を見せ、以後、毎年1万人ずつ人口が増加するようになった京都市の活況にあわせ、京都電気鉄道の利用客も増加し、会社は毎年1割配当を行えるまでの業績を上げていきました。
ところが、運行開始したころには、19箇所に交換所(電車の行き帰りを切り替える)が設けられましたが、「閉塞区間」という概念もまだこのころにはなく、このため事故もよく起きました。
閉塞区間というのは、線路を一定区間に区切り、1つの閉塞区間には同時に2つ以上の列車が入らないようにすることで、安全を確保するシステムであり、現在でも鉄道における安全確保の最も基本的な仕組みです。
ところが京都電気鉄道の発足のころには全線全区間が単線であり、時計を見ながら、この単線区間に複数の電車を乗り入れさせ、自由に初到着を行わせていました。が、この時計の精度さえもこの当時はまだ低く、このため電車の遅延はごくごく当たり前のことでした。
このため、単線区間に両方向から来た電車が同時進入して立往生し、どちらが交換所まで戻るかで運転士どうしが罵倒し、取っ組み合いが良く起こったといい、またこれに乗客まで参加した喧嘩騒ぎが頻発しました。現在から考えると、なんとのどかな、と笑ってしまえます。
しかし、笑って済ませられないのは、曲線区間で見通しが悪い場合などに、たびたび正面衝突などが起こったことです。また、このころは道路の幅が狭く、電車の開業によって更に道は狭くなり、かつ線路を横断する人が絶えなかったことから、開業2か月後には日本で初めての電気機関車による轢死事故が発生しました。
こうした事故を受け、京都電気鉄道に非難が集まるようになったため、1895年(明治28年)8月26日には、京都府によって電気鉄道取締規則が制定されました。
これに伴い、街角や曲線区間には昼間は旗などを使用して電車と歩行者に合図を送ることで安全を図り、また夜間には灯火によって単線区間に同時に2列車が進入しないよう監視する「信号人」を置くことなどの安全対策が義務付けられました。
ただし、このころの電車のスピードはかなり遅いもので、京都府の軌道条例でもその最高速度は8マイル毎時(12.9km/h)程度にすぎず、これは人間と並走しても、人のほうが電車を追い抜けるほどの速度でした。
このため、市街地などの危険な区間では電車の前を、歩行者に安全を知らせる「告知人(前走り人)」を走らせるようになり、また車両の前後に通行人を塵取りのように掬いこむための大きい網である「救助網」を設置することとなりました。これもまた現在では考えられないほどのどかな対策ではあります。
しかもこの告知人は大人ではなく、子供が多く登用されました。現在では信じがたいことです。この子供たちは、昼は赤旗を振り、夜は提灯を持って、街角や人の多い場所で電車を降り、先行して電車の通行を告知したそうです。
ところが、この子供たちは、走行中の電車からの飛び乗り・飛び降りを強いられる上、夜間は全線先走りが義務づけられるなど重労働を課されたため、鉄道の安全を図るべく導入された告知人である子供たち自らが電車に轢かれるといった悲惨な事故も多発するようになりました。
当然、世間からの非難も多くなり、京都電気鉄道としても府に告知人の廃止を申請したのですが、すぐには認可されず、1898年(明治31年)に夜間の全線先走りが廃止されたものの、告知人の制度自体は1904年(明治37年)まで継続されていたそうです。
ちなみに、こうした危険かつ重労働を子供にやらせていたため、京都では長らく、子供を叱るときに「電車の前走りにするぞ」という意味の京都弁が使われていたそうです。私は関西出身でないのでどんなふうな表現だったのか見当がつきませんが、かなりきついかんじの京都弁だったのではないでしょうか。
一方、信号人は子供にすぎなかったため状況判断の能力も十分とはいえず、このためミスや怠慢のために電車が出会い頭になる事故が絶えませんでした。こうしたことから、のちには行き違い箇所を必ず設けて、ここで電車を必ず行き違わせる方式にするとともに、信号人制度そのものを廃止しました。
そして信号人の代わりにはトロリーコンタクターや通票が導入されました。トロリーコンタクターとは、現在も使われている技術で、路面電車の分岐点におけるポイントや信号機を操作するために、電車の走行通路の高い箇所(架線)に取り付けられた装置のことです。
過去には、この分岐点にはポイント操作の信号人が置かれ、電車の行き先を確認して手動でポイントを操作していましたが、合理化が進む中でこの分岐点の無人化を行う技術が開発され、電車の停止位置でポイントを自動的に操作するしくみとして導入されたのがトロリーコンタクターです。
通常、架線にあるトロリーコンタクター棒状のスイッチがとりつけられており、電車が通過する際にパンタグラフがスイッチをたたくことで通過したことを検知します。と同時にその信号が電車内に伝えられるとともに、表示灯が点灯するなどして、閉塞区間内に電車が進入したことを知らせます。
また、通票というのは、1閉塞区間に1つ(1種)を定めてこれを持たない列車を閉塞区間内に入れないなどとするための、符合のようなものです。
一つの閉塞区間に電車が入るとき、その入口と出口で車上の車掌などの係員がポイントで立っている信号人とこの通票を交換し、仮に別の電車がこの区間に入って来たときには、もうこの区間用の通票は先行する車両に手渡してしまっているから、アンタは今は入れないよ、というふうに使います。
1つの閉塞区間(通常は駅間)で1つのみの通票を使用し、その通票を持っていない列車は出発できないと定めることにより閉塞を実現する方式であり、列車を発車させると、その通票が戻ってくるまで次の列車を発車させることができないわけで、チェックイン・チェックアウト方式の閉塞方法といえます
このほかにも、その後は円盤状をした金属製の「タブレット」ともよばれるものや、棒状の金具で「スタフ」などといったものも作られるようになりましたが、これらは通票を更に複雑化させて単純ミスがおきないように進化させたものです。
驚くなかれ、こうした閉塞確保のためのアイテムは現在も一部の鉄道で使われています。
もっともそんな時代遅れのことをやっていると人為ミスも出かねないため、現在ではJRをはじめ多くの鉄道会社が線路に電流を流して車両が線路上にあることを検知するなどの何等かの自動的な閉塞を行っています。
こうして、京都電気鉄道の事故は次第に減っていきましたが、これと同時に、当初は勝手な場所で乗降を行っていたのをとりやめ、停留所を設けてそこでのみ乗降を取り扱わせるようにあらためました。また、電気鉄道取締規則も改められ、街角や橋など往来の邪魔になる場所での乗降は禁じられるようになりました。
ただ、琵琶湖疏水の水力発電所は、こびり付いた藻を取り除くため月2回の停電日があったほか、保守点検のため年に数日の送電停止が行われており、これに伴い、電車も運休を余儀なくされていました。
これを解消するため、1899年(明治32年)には東九条村(現在の南区東九条東山王町)に京都電気鉄道自前の火力発電所が設置され、これによって運休も解消されました。このころにはまだ琵琶湖疏水の発電所からの受電と併用でしたが、さらに後に完全自給となりました。
しかし、大正に入るとこの自前の発電所は廃止され、停電のなくなっていた京都電灯からの受電へと戻され、京都電鉄が発電所を所有する必要はなくなりました。
こうした京都での電車導入の成功に伴い、次第に電化鉄道のノウハウも蓄積されるようになったころから、その後も全国で鉄道の電化が進んでいきました。
私有鉄道では、甲武鉄道に続き南海鉄道が難波~浜寺公園間を1907年(明治40年)に電化し、幹線鉄道としても、大正14年(1925年)までに東海道本線の東京~ 国府津間が電化されました。
その後も、名古屋鉄道など電気軌道系の路線が郊外へ延び大規模な路線網を形成していき、大正末期から昭和初期にかけて、東武鉄道・大阪鉄道・豊川鉄道など一般鉄道の電化が進むほか、目黒蒲田電鉄・宮城電気鉄道・富山電気鉄道など当初より電気軌道の利便性を兼ね備えた電気鉄道の開業が相次ぎました。
こうした結果、1930年代には全国的にいたるところで電化路線が散見されるようになります。中には、大阪電気軌道・参宮急行電鉄の上本町(大阪)~宇治山田(伊勢)や東武鉄道の浅草(東京)~日光、金剛山電気鉄道の鉄原~内金剛など、全長100kmを越える路線も出現しました。
さらに太平洋戦争の敗戦後、石炭の価格が高騰し、これにより非電化私鉄は燃料の確保に支障をきたし、1950年(昭和25年)前後に淡路交通、十和田観光電鉄などの多くの路線が電化を実施することになりました。
電化が遅れていた東北、北陸、九州、北海道の電化も進み、とくに国鉄は1950年代以降、多くの路線を電化していきました。東海道本線については、1956年(昭和31年)の今日、つまり11月19日に、米原~京都間を最後に、支線を除く全線の電化が完了しました。これを記念し、今日が「鉄道電化の日」になったことは冒頭でも述べたとおりです。
現在ではJRの在来線のうち、東北、北陸、九州、北海道では交流2万ボルトで電車が運営され、その他のJR在来線では直流1500ボルト、新幹線はすべて交流2万5千ボルトで運営されています。
ところで、電化電化とはいうのですが、日本の鉄道の電化率は、せいぜい50%を越える程度です。スイス、オランダといった国々が90%を越えるのに対し、日本のほかドイツ、ロシアは同じく50%をやや越える程度であり、2000年代以降は韓国・中国が鉄道電化比率を急速に上げていますが、アジア・太平洋地域は全体でも3割程度にすぎません。
この理由は、国策や資源の状況、電力事情、産業の動向などさまざまですが、世界的に電化率にはかなり偏りが見られます。
日本で旅客線が完全電化されている都府県は、奈良県、大阪府、神奈川県、東京都、沖縄県のたった5都県だけです。ただ、和歌山県、静岡県、滋賀県、石川県、福井県、埼玉県、群馬県、山梨県、愛知県などは、ほぼ電化が終わっています。
その他の県では電化はまだまだといった県も多く、いまだに山間を走る列車の多くがディーゼル機関車など気動車によって牽引されているといった状況です。
旅客線がほぼ非電化の県もあり、これは島根県、鳥取県、高知県の3県です。
島根県では電化路線は山陰本線の西出雲駅以東の区間と一畑電車のみで、その他JR線は非電化のままであり、鳥取県も電化路線は伯備線と山陰本線の一部区間のみで、私鉄とその他JR線は非電化のままです。高知県もJRの旅客鉄道路線は全線非電化のままで、電化路線は土佐電気鉄道のみです。
さらに、徳島県に至っては、索道以外の鉄道にはまったく電化区間がなく、全国で唯一電車が自走しない県です。過去にも一切電化された路線が存在しないため、歴史的にみても電車が自走したことのない唯一の県です。徳島県民にとっては、遅れてる~と言われそうで、あまりアピールされたくない事実かもしれません。
が、電化がすべて良いことかというと必ずしもそうではありません。
電化は確かに初期投資を要しますが、輸送量の大きい路線では輸送単位あたりの維持費用は一般に低く、このため、一度電化が行われた路線の電化設備が撤去されることはまれです。
このため、急勾配と長大トンネルにおける蒸気機関車の煤煙問題を解決するために各地で電化が進みました。アメリカのカスケード山脈越えの路線はかつて蒸気機関車時代に電化されていましたが、ここでもこのような理由からディーゼル化が行われました。
ところが、その後蒸気機関車に代わり、内燃動力で作動する強力なディーゼル機関車が登場し、長いトンネル内でも強力な換気装置が登場しました。このためこうした気動車を再導入したほうが、電化をそのまま維持するよりも有利なケースが増えており、電化が必ずしも経済的に有利でないケースも出てきました。
(注:石油や石炭などの燃料で水を沸騰させて蒸気を発生させ、この蒸気の力でタービンエンジンを回して動力を得るものは「外燃機関」という。蒸気機関車などがそれ。これに対して、ディーゼルエンジンなど、エンジン内で燃料を燃やす内燃機関のほうが一般的には効率が高い)
このため、日本の各県にも同様にかつては電化されていたものが、逆に非電化に転じる路線が出てくるようになりました。とくに都市部においてインターアーバン線では採算がとれなくなり、貨物鉄道などに転換されたケースなどで、電車による頻発運転の旅客列車の消滅により電化が不要になり、電化設備が撤去された事例が多いようです。
例えば、陸前小野~石巻間の仙石線は、東日本大震災による電化設備損壊のため、暫定的に気動車のみで運行しており、このほかにも電化は金がかかるというので、気動に転換した路線は数多く存在します。
さらには、特急列車・貨物列車は電車・電気機関車で運行しますが、普通列車は全列車気動車で運行するなど、ハイブリット的な運用も目立ちます。
石川県の七尾線(七尾~和倉温泉)は1991年の電化時から、特急列車はJR西日本の電車で運行され金沢方面からそのまま和倉温泉駅まで直通しますが、過疎化のために普通列車は七尾駅で運行系統が分断されており、当該区間は気動車で運行されています。
日本の電化率が50%程度と欧米の国に比べて低いのは、総じてこのように地方で過疎化が進む地域における非電化のためです。
電化が進まない多くの場合、その理由は電化を行うには路線への投資額が多くなることです。このため、ある程度需要が継続的に見込まれる都市周辺以外では非電化のままとなっている路線が少なくありません。
その代表的な地域が、最近JRの不祥事でたびたびメディアでも取り上げられることの多い北海道です。人口密度の希薄な地域が多いため駅間距離が長く、輸送密度が低く、また、北海道の場合は機器や架線の雪や寒さによる頻繁に故障も起こります。
その結果、もし電化したとしても電化に関わる投資額や維持・修理のためのコストが高くなり、その割には鉄道電化のメリットを発揮しにくいのです。
日本の非電化路線ではおもに内燃機関を用いた内燃機関車、気動車が使用されています。とくに機関効率や安全性においてディーゼルエンジンが最も有利とされ、多く採用されています。
このあたりのことは、このブログでも、「ディーゼルってなあに?」で詳しく書きましたので更にご興味のあるかたはのぞいてみてください。
ほかにガソリンエンジンやガスタービンエンジンを使用した例もあり、将来に向けては、ディーゼルや水素燃料電池によるハイブリッド車両の開発やバイオディーゼルの実用化検討(いすみ鉄道・北条鉄道)などの取り組みが進められています。
今日本が世界の最先端を進んでいるといわれているハイブリッド技術を用いた鉄道車両の開発も将来的には更に進むかもしれず、そうしたものを輸出することができるようになれば世界にも貢献できますし、日本の経済力アップにもつながっていくに違いありません。
新幹線とともに世界へ羽ばたく技術として大事に育てていってほしいものです。