タブー


今年もあとたった2日となりました。

こんな時になんなのですが、このブログなどでもたびたび使ってきた写真を販売するネットショップを立ち上げました。

Psycross DEPO という名前で、上のメニューバーからもアクセスできます。A4、A3の高品質プリントの領布を中心に販売活動を行っていきます。大儲けをするつもりはなく、ボチボチやっていくつもりでおりますので、ご愛顧いただければと思います。

来年からは額縁入りの完成品の販売も開始する予定です。なお、年明けは、1月6日より初売りです。

ところで、このPsycrossというのは、ギリシャ語のPshyche(プシュケー)とCross(クロス)を合わせて作った私の造語です。

「プシュケ」ーとは、古代ギリシャで、もともとは息(呼吸)を意味していましたが、長い間にはこれが転じて「生きること」すなわち、命や心、魂という意味として使われるようになりました。

ギリシャ哲学ではかなり広範囲の意味を持つ言葉として使われたようです。この当時の古い文献では、一つの箇所ではこのプシュケーが「命」という意味で使われているのに対し、別の場所では「心」あるいは「魂」という意味で使われたり、さらに別の文脈ではどちらとも解釈可能、ということもあるそうです。

ソクラテスは、プシュケーを知と徳を意味する言葉とし、またソクラテスの弟子のプラトンは、滅びる宿命にある人間に宿る「知」を司るものこそがプシュケーであり、プシュケーは不滅であると述べており、ここには輪廻転生の思想が見て取れます。

また、アリストテレスもプシュケーとは命の本質である「自己目的機能」であり、そして命を突き動かす「起動因」であるとし、人間が生きるために不可欠な能力の総合体である、といった意味のことを言っています。

こうしたプシュケーというものを日本語で表現するのは非常にやっかいなのですが、これを仮に「魂」と訳すとするとすれば、Psycross(サイクロス)とは、こうした魂(プシュケー)と魂が交叉する(クロスする)場、という意味になります。

人は一人では生きていけないもので、人との交流なくして人生はない、という意味を込めて私が造語したものなのですが、これを使うようになって、もう2年ほどにもなります。

が、いまだに色褪せない新鮮な響きがあるなと感じており、自分としてはなかなかいい造語だなと思っています(自画自賛)。みなさんの印象はいかがでしょうか

幸いこのブログは、ご好評いただいているようで、日々ほぼ900人近い方がご訪問くださっていて、日によっては1000人以上のアクセスがあるようです。

ブログという一つの場にこれだけの方が集ってくださるというのは、ある意味では、魂と魂のクロスする場になりつつある、ということでもあります。

サイクロスの名に恥じない場所になりつつあるな、と手ごたえを感じつつあるとともに、伊豆に移住してきて、毎日のらりくらりとこうしたものを書かせてもらえている環境にいるということは、大変ありがたいことと感謝しております。

今後ともできうる限り続けていきたいと思いますので、ご愛読いただければと思います。

さて、このプシュケーは、哲学的な用語ではありますが、ギリシア神話に登場する人物の名前でもあります。

このプシュケーは、もともとは神様ではなく、人間の娘で、ギリシャ時代のある国の3人いた王女の一人でした。

この三人の王女はいずれも美しく、中でも末のプシュケーの美しさは美の女神、ヴィーナスへ捧げられるべき人々の敬意をもこちらへ集めてしまうほどだったといいます。

北空の星座に「や座」というのがありますが、この星座は、これは当たった者は誰もが恋の虜になってしまうという、愛の神エロースの「矢」にちなんでつけられたものです。

エロースは人間の王女プシュケーに嫉妬し、矢を放とうとしますが、いざ矢を射ようとしたとき、ついついプシュケーに見とれてしまいます。そして、そのあまりの美しさのために手元が狂ってしまい、放った矢は誤って自分に刺さり、このため、自らプシュケーに恋をしてしまって、一生、その虜になってしまったといわれています。

ちなみに、このエロースは、原語のギリシャ語では「クピードー」であり、これは英語ではCupidと書き、日本語読みでは、「キューピッド」として知られています。

ヴィーナスもまた、美の女神であり、天界の男神たちの憧れの存在でしたが、ある日このプシュケーの噂を聞きつけ、それによれば彼女は自分よりも美しいというではありませんか。

まさか人間の女に負けることなどとは思いもよらないヴィーナスでしたが、自分よりも美しいなどという評判を黙っているわけにもいかず、息子であるエロースにその愛の弓矢を使ってプシュケーに卑しい男と恋をさせるよう命じました。

悪戯好きの愛の神として知られるエロースは、喜んでこの母の命令に従いますが、上で書いたとおり、誤って自分を傷つけてしまい、逆にプシュケーへの愛の虜となってしまいます。

ちょうどこのころ、プシュケーの両親である、王様とお妃は、年ごろになったというのにプシュケーに求婚者が現れないことを憂いていました。そんな中のある日、二人は突然、太陽神アポロの神託を受けます。

その神託とは、娘を遠くに見える山の頂上に置き、「全世界を飛び回り神々や冥府でさえも恐れる蝮のような悪人」と結婚させよ、という恐ろしいものでした。

悲しむ王様とお妃でしたが、プシュケーは健気にもこの神託に従うことを決意します。そして、高台にある城のある岸壁から、遥かかなたに見えるその山に向かって身を投げました。

すわまっさかさまに落ちていくかと思われたプシュケーでしたが、その時、北風の神であるゼピュロスが飛んできてプシュケーを抱きかかえると、そのままその遠く離れた山の頂まで連れて行きました。

ゼピュロスがプシュケーを連れて行った山の上は、地の果てかと思われましたが、実はこの世のものとは思えない素晴らしい宮殿がある美しい場所でした。

おそるおそる宮殿の中に足を踏み入れたプシュケーの耳に最初に飛び込んできたのは、地の底に鳴り響くような恐ろしげな男の声でした。声の持ち主は姿を見せませんでしたが、宮殿の中にまで轟くこの見えない声をよく聞くと、どうやらここにあるものはすべてプシュケーのものだといっているようです。

プシュケーが周囲を見渡すと、驚いたことに食事や寝所もすべて豪華なものが準備されており、美しい衣装や豪華な装飾品も用意されていて、それらを手にとって見とれているうちに、何やら心地よい音楽も聞こえてきました。

こうしてプシュケーは、アポロからあてがわれた夫は、ほんとうは「神々や冥府でさえも恐れる蝮のような悪人」ではないのではないか、と考えるようになりました。

しかし、この夫はその後もやはり姿を見せようとはしません。その日の夜遅くなっても、現れませんでしたが、眠くなったプシュケーが床に入ろうと寝所に向かったそのときです。何やら、寝所の向こうの暗闇から人気がし、その姿をはっきりと見ることはできませんでしたが、どうやら彼女が横になろうとした床の上にその人物も身を横たえたようでした。

しかし、あいかわらずその夫は自分のほうに顔をみせることはなく、プシュケーは身じろぎもせず夫からのリアクションを待っていましたが、そのうちついつい眠くなり、すっかり寝入ってしまいました。

そして目が覚めると朝でしたが、すぐ側にいたはずの夫は姿を消していました。こうして、この最初の日と同じような毎日が過ぎていきました。相変わらず夫は日中には姿を現さず、夜になって寝るころには現れるのですが、決して顔をみせようとはしません。

しかし、プシュケーも次第にこの奇妙な生活に慣れ、宮殿での生活を楽しむゆとりも出てきました。が、それしてもこの宮殿内には姿をみせようとしない夫以外の誰もおらず、日々を重ねていくにつれ、やがてプシュケーは遠く離れた故郷に暮らしている家族が恋しくなってしまいました。

そして、ある日の夜、いつものように寝所に入って来た夫に思い切って声をかけ、泣きながら、国にいる姉妹たちを呼び寄せてほしい、と懇願します。見えない夫は、渋っているようでしたが、やがて「わかった」とひとことだけ言葉を放ちました。

翌朝のこと、プシュケーが起き出すと、そこには懐かしい二人の姉の姿がありました。二人は眠っている間に連れてこられたようで、どうしてここにいるのかわからない、といったふうな顔をしていましたが、プシュケーの姿を見ると、三人は抱き合ってこの再会を喜びあいました。

ところが、この姉二人は、プシュケーのこの宮殿での豪華な暮らしぶりを見て、だんだんと嫉妬心が沸いてきました。そして、プシュケーから姿を見せない夫の話を聞くと、その夫は、きっと大蛇に違いない、プシュケーを太らせてから食うつもりではないかと言いました。

これを聞いたプシュケーは青ざめましたが、二人の姉はここぞとばかりに、さらに、喰われてしまう前に、夫が寝ている隙に剃刀で殺してはどうかと提案します。

こうしてその日の夜、プシュケーは寝ている夫を殺すべく、夫が寝所に入ったのを見計らって、ロウソクを持って近づきます。そして思い切ってその暗闇に沈む寝顔にロウソクの炎を近づけると、そこにはなんと凛とした若くて美しい男神の姿が照らし出されたではありませんか。

驚いたプシュケーは、あわててロウソクを落としてしまいましたが、そのロウソクから滴り落ちたロウが、エロースの顔にかかってしまい、さらにその火は毛布に燃え移ってエロースは大やけどを負ってしまいます。

妻の背信に気付いたエロースは、大声でプシュケーをののしり、怒った彼はその場を飛び去ってアポロのいる天界へ帰って行ってしまいました。

蛇だと思っていた夫が思いがけず美神だと知り、ようやく姉達の姦計に気づいたプシュケーでしたがもう後の祭りです。

しかし、自分をだました姉達のことを許すことはできませんでした。そして姉たちのところへ行き、エロースは自分を見限って天界へ帰ってしまったが、今度は姉達と再び結婚するために帰ってくるだろう、と嘘を教えました。

こうして、三人は、いったん国の両親のもとに帰りました。そして、城に帰った姉二人が両親にも妹の嘘を教えると、喜んだ王様と妃は、早速、妹と同じく断崖から飛び降りるよう二人に勧めました。

プシュケーの時には、風の神のゼピュロスが迎えに来たことを見ていた二人は、今回も彼が助けてくれるだろうと、さっそく、断崖から身を躍らせました。ところが、空を舞う二人に風が起きることはなく、二人は崖からまっさかさまに落ちて、ばらばらに砕け散ってしまいました。

一方、天界に帰ったエロースを見たヴィーナスは、息子からこの醜聞を聞いて激怒しました。そして、「自らの接吻を与える」という懸賞までかけて、息子を裏切ったプシュケーを捕らえようとしました。

美の神、ヴィーナスが自分を捕えようと怒っているという噂は、すぐにプシュケー達の住む国にも伝わりました。プシュケーは、このため地の神である、ケレースに助けを求めましたが、ケレースからは「ヴィーナスとは長い付き合いだから」といってとりなしを拒否されてしまいます。

そこで今度は母性の神である、ユーノーに助けを求めたプシュケーでしたが、ユーノーもまた、「逃亡した奴婢をかくまってはならないことになっている」という天界の掟を理由にこれを拒否しました。

こうして、行場を失ったプシュケーはやがて絶望し、観念してヴィーナスのもとに出頭することにしました。

素直に自分の元にやってきたプシュケーでしたが、ヴィーナスの怒りはそれだけでは収まらず、プシュケーを捕らえて折檻します。しかも、地上に帰って、私のこれからいうことを実行したら赦してやる、と多くの無理難題を押し付けました。

その一つは、地上にある大量の穀物にすべて名前をつけて、選別せよ、というものでした。しかし、これを命じられたときには、どこからともなく蟻がやってきて穀物の選別を手助けしてくれ、なんとかこの難題をクリアーすることができました。

また、あるときには、凶暴な金の羊の毛を取ってくるよう命じられたプシュケーでしたが、このときにも、河辺の葦が羊毛の取り方を助言してくれて、凶暴な羊をなだめることができ、無事、金の羊毛を持ち帰ることができました。

しかし、それでもヴィーナスは赦してくれず、今度は竜の棲む泉から水を汲んでくるようにプシュケーに命じました。ところが、このときもまた、ユーノーの夫で天空神であった、ユーピテルに助けられ、無事に水を汲んで帰ってくることができました。

このユーピテルは、かつてエロースに可愛がられていた神様の一人でした。

実はエロースは一度はプシュケーの行為を怒ったものの、あまりにもヴィーナスから難題を押し付けられるプシュケーを見てかわいそうになり、ユーピテルを大鷲の姿に変え、このときも竜の棲む池から水を汲みださせてくれたのでした。

こうして、今回もプシュケーは、ヴィーナスの難題を乗り越えることができました。

いくら難題を押し付けてもクリアーしてしまうプシュケーを見て業を煮やしたヴィーナスは、更なる難題をふっかけようと考えます。そして、今度は息子エロースの火傷の介抱のせいで自分の美貌が衰えた、とプシュケーに偽り、今度は、美貌を補うために冥府の女王プロセルピナに「美」をわけてもらってくるよう命じました。

しかし、この際もプシュケーに同情するエロースを初めとする神々のとりなしを得て、首尾よくプロセルピナから「美」が入っているという箱を貰うことができました。

しかし、ヴィーナスからあまりにも数々の難題を押し付けられたったプシュケーは、このときにはもうへとへとに疲れ切っていました。このため自分自身の容色もかなり衰えているのではないかと落ち込み、再びエロースの愛を失ってしまうのではないかと不安になりました。

そして、プロセルピナからはヴィーナスに渡すまでは、けっして箱を開けないよう警告されていたにもかかわらず、これを開けてしまいました。

実は、これはプロセルピナの姦計で、この箱の中には「冥府の眠り」が入っていました。プロセルピナは、地上と天上の人々の尊敬を集めているヴィーナスをかねてからねたんでおり、彼女を眠らせて、その地位を奪おうと考えていたのでした。

そんなことを何もしらないプシュケーが、箱を空けてしまったものですから、彼女は、すぐに深い眠りに入ってしまい、冥府のプロセルピナのところへ連れ込まれてしまいそうになりました。

そのとき、傷の癒えたエロースが現れ、昏倒している妻の周囲から彼女を奈落の底に貶めようとしている「眠り」をかき集めてもとの箱に納めることができ、プシュケーを目覚めさせて、なんとか事なきを得ました。

そして、再びユーピテルを呼び、なんとかヴィーナスの魔の手からプシュケーを助ける方法がないかを相談しました。一度はプシュケーを助けたユーピテルでしたが、さすがの彼もヴィーナスは恐ろしい存在であり、協力を渋ります。

しかし、ユーピテルにも弱点があり、それは三度の飯よりも、「女」が好きなことでした。エロースはこの稀代の女たらしであるユーピテルにいい女を見つけたら紹介してやるから、と言い聞かせ、ユーピテルもこれを聞くと目を輝かせてプシュケーを助けることに同意しました。

しかし、それにしてもどうやってヴィーナスを出しぬくか、を色々考えたユーピテルですが、はたと妙案を思いつきます。それは、プシュケーに神の酒であり、不老不死の霊薬でもある「ネクタール」を飲ませることでした。

ネクタールは「愛」の飲み物であり、これを飲むと、人間も神々の仲間入りをさせることができると言い伝えられていました。これをプシュケーに飲ませ、神にしてしまえば、エロースとの結婚ももう身分違いの結婚とはいえず、これを知ったヴィーナスもいじめをやめるに違いない、と思ったのです。

こうして、プシュケーはネクタールを飲み、かくて「魂」は「愛」に満たされることになりました。こうして、エロースと幸せな結婚生活を手に入れたプシュケーは、エロースとの間に「ウォルプタース」という名の子を設けました、

そして、このウォルプタースこそが、人間に持たらされる「喜び」になったと伝えられています。

しかし、この喜びは、時に「悦楽」ともなり、その後永遠に人々を苦しめる根源にもなっていきました……

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─── いかがだったでしょうか。なかなか斬新な物語であり、私もあまり耳にしたことのない話だったので、面白く感じました。

ところで、こういう話は、いわゆるひとつの「見るなのタブー」といわれるものです。

世界各地の神話や民話に見られるモチーフの一つであり、何かをしている所を「見てはいけない」とタブーが課せられたにも拘らず、それを見てしまったために悲劇や離別またはに恐ろしい目に遭うというパターンに陥る、という話です。

プシュケーの場合は、見てはいけないといわれた夫のエロースを好奇心で見てしまうことから、ヴィーナスにつけ狙われるようになりました。

心理学的にはこの様に見てはいけないと言われると余計に見たくなってしまう心理的欲求を「カリギュラ効果」と呼ぶそうで、これは一般には「タブー」ともいわれます。

こうしたギリシア神話だけでなく、日本神話にも多くみられ、その代表的なものは「鶴の恩返し」でしょうか。この場合、恩返しのために身の羽根を抜いて反物を織っていた鶴が、機を織るところを見てはいけないと釘をさしたにも関わらず、老夫妻がこれを見てしまい、夫婦と鶴の別離という悲劇が生まれます。

異類の者と結婚をした人間が、見るなのタブーを犯して異類の者の本当の姿を見てしまい、それが元で離別するという話は、メルシナタイプ(メリュジーヌ・モチーフ)とも呼ばれています。

メリジューヌというのは、フランスの伝説であり、頭部と胴体は中世の衣装をまとった美女の姿をしていますがが、下半身は水蛇の姿をしている怪物です。実はある王国の姫君なのですが、呪いをかけられ、週に一度この姿に変えられてしまう、といったストーリーで、こちらもその姿をみると災いがおこる、という話のようです。

こちらも面白そうなのでもう少し紹介したいところですが、長くなりそうなので、今日はやめておきます。

上述のようなギリシャ神話の中にもこうした「見るなのタブー」は多く、「パンドラの箱」などもその典型です。ただし、原作は「箱」ではなく、「壺」だったようです。

人間に火を使うことをもたらしたプロメーテウスを懲らしめるために、ゼウスはあえて彼の弟であるエピメーテウスの元に、「パンドラ」という女性に壺を持たせ、彼女とともに贈ります。

その時、「この壺だけは決して開けるな」と言い含めていたにもかかわらず、エピメーテウスと結婚したパンドラは、ふとしたときに「この壺は何かしら」と気になり、壺を開けてしまいます。

そして、そこからは、恨み、ねたみ、病気、猜疑心、不安、憎しみ、悪徳など負の感情が溢れ出て、世界中に広まってしまいます。慌てたパンドラはその箱を閉めようとしますがもう後の祭りで、もう既にたった一つのものしか残っていませんでした。

そして、その最後に残ったものこそが、「希望」でした。こうして、これ以来、人類は様々な災厄に見舞われながらも希望だけは失わず生きていくことになった、というオチがつきます。

このほかにも、竪琴の名手オルフェウスが、毒蛇に咬まれて死んだ妻エウリュディケーを生き返らせようと決意して冥界へ行く、という話も「見るなのタブー」として有名です。

オルフェウスは、冥王ハーデースと交渉を試みた末に「地上に戻るまでは決して後ろを振り向いてはいけない。成し遂げたら妻を返そう」と約束させることに成功します。しかし、エウリュディケーが本当に後ろにいるか不安だった彼は、もう少しで地上にたどり着くという所で後ろを振り向いてしまい、エウリュディケーは冥界に引き戻されてしまいます。

この話も有名なので、皆さんご存知だと思いますが、この話には後日談があり、それは、オルペウスは絶望しながら地上をさまよい歩いた末、悲惨な死を遂げてしまうというものです。が、その結果として再び冥界に行くことができ、オルペウスはエウリュディケーと一緒になることができました。まあハッピーエンドといえばハッピーエンドでしょう。

この話にそっくりなのが、日本神話のイザナミとイザナギの話ですが、こちらはハッピーエンドとはいえません。

亡くなった妻のイザナミを追って黄泉の国を訪れたイザナギは、中を見るなとイザナミに言われたにもかかわらず、自らの櫛に火をつけ、これを灯りにしてその正体を見てしまいます。自身の朽ち果てた姿を見られたイザナミは怒り、逃げるイザナギを追いかけますが、黄泉の国の入り口からは外に出れず、ここで二人は離婚してしまう、という話です。

現代でも、ある夜化粧を落としてすっぴんになった嫁の姿を見て「ギャー」と驚き、その結果離婚に至ったといった話は多い?ようですが、あなたのお宅はいかがでしょうか。

このほか、スサノオノミコトの話も有名です。これは、高天原を追放されたスサノオといが。下界へ下る途中でオオゲツヒメの饗応を受けますが、オオゲツヒメが料理を用意している所を覗き見てしまい、そこでオオゲツヒメが口や尻から食物を取り出していたことを知ります。

怒ったスサノオは、オオゲツヒメを斬り殺してしまう、という話ですが、このケースでは、とくに見ることを禁止はされていないものを勝手にみてしまったわけであり、必ずしも見るなのタブーとはいえないかもしれません。が、その変形であるということはいえそうです。

ほかにも日本神話の中には、いまや民話になってしまったものも多くありますが、これとよく似た民話で、山幸彦で有名な「ホオリ」という神様の話もあります。

これはオホリが天上界から下界へ降りる段で、妻となるトヨタマビメに子を産む所を見るなと言われたにもかかわらず、産屋を覗き見てしまい、妻が八尋の和邇というサメに姿を変えているのを目撃してしまうというものです。

これが元で、トヨタマビメは子を産んだ後、海の中へ帰って行ってしまい、このときに産まれた子がウガヤフキアエズで、その子が天皇家の始祖、神武天皇であるというお話なのですが、そうすると、今の天皇家はサメの子孫かい、という話になり、はなはだ不敬な民話でもあります。

さらには、日本書紀にも、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)という女の神様の話があります。この話では、倭迹迹日百襲姫命が大物主(おおものぬし)という男神と結婚しますが、大物主が夜にしか現れないので、姿を見たいと大物主に懇願すると、彼は姿を見ても驚かないようにと言います。

翌朝、蛇に姿を変えて、ちんまりと小さな櫛箱に入っていた大物主を見た倭迹迹日百襲姫命は、びっくりするどころか、大笑いしてしまいます。そしてこれを見た大物主は、それみたことか、わしに恥をかかせたなと怒って山に帰ってしまいます。

この話にはおそろしいオチがあり、これを悔いた倭迹迹日百襲姫命は自らの行いを恥じて女性器を箸で刺して自害したそうです。日本神話の場合、このように結構グロイものも多いようです。

このほか、日本の民話としては、上述の鶴の恩返しのほか、蛤女房、浦島太郎、見るなの座敷、舌切り雀、安達ヶ原の鬼婆、などなど、たくさんの見るなのタブーがあります。

それをひとつひとつ紹介しているとキリがないので、そろそろやめにし、来年の夢でもみる準備をすることにしましょう。

しかし、来年起こることを知りたいのはやまやまですが、見るなのタブーを犯すととんでもない災難がやってくるかもしれません。

夢でも知りたい未来は初夢にとっておくこととして、年末には何も夢見ず、酒を飲んでぐっすり眠ることにしましょう。

みなさんの年末はいかが進行中でしょうか。おそらくは大方の人が大掃除を終え、お節料理の準備に忙しいことでしょう。年末年始はおいしいものをいっぱい食べて英気を養ってください。

良いお年を迎えられるよう、祈っております。

その後


クリスマスも終わり、大晦日へのカウントダウンが始まりました。

そろそろ今年一年を振り返るころかな、と今年起こった出来事などが記載されているWEBページを眺めていたのですが、いやはや今年も色々ありました。

それを全部ここで挙げることはできませんが、例えば気象に関していえば、今年はかなり異常でした。

夏には高知県四万十市でこれまでの国内最高気温を更新し41.0°Cを記録、また気象庁の927観測点のうち143箇所でもこれまでの最高気温を更新するなど、各地で記録的な猛暑となりました。

一方、オホーツク海高気圧の影響により東北地方では梅雨明けが遅れ、また関東地方では早期に梅雨が明けたものの7月後半には一時的に低温傾向(戻り梅雨)となるなど時期により気温の差が激しくなりました。

また、多雨や少雨といった地域の差が見られたり、局地的な豪雨が発生するなど地域による偏りも大きかったようです。気象庁では今夏の特徴として、東南アジア周辺の海面水温が高かったことによって明らかに「異常気象」であったとの見解を示しています。

さらには、8月には気象庁は、13年ぶりの黒潮大蛇行を発表しています。これが影響したのか、9月に入ると大気の状態が不安定となったことにより、竜巻による被害が北関東で続発したのは記憶に新しいところです。

そして、そのあとの短い秋とこの寒い冬。これから年末にかけて大寒波がきそうな気配であり、来年にかけてどのくらい雪が降るのか見当もつきません。来年はいったいどんな異常気象が起こるのでしょう。

今年始まった、綾瀬はるかさん主演の2013年NHK大河ドラマ「八重の桜」の視聴率も気になったので調べてみると、全50話の平均は14.6%と低調で、大河ドラマ第52作目でしたが、「平清盛」(2012年)の12・0%、「花の乱」(1994年)の14.1%、「竜馬がゆく」(1968年)14.5%に続く、過去4番目の低さでした。

ただし、関西地区は13.7%でしたが、ドラマの前半の舞台となった福島地区などでは23・2%と比較的高く、東北では健闘したようです。

初回21.4%でスタートし、第5話までは18%を超えていたようですが、第6話頃から一気に15%台に落ち、第10話には12.6%で初めて15%を割り込みました。その後も11%台から16%の間を行ったり来たりでしたが、裏番組で放送されたプロ野球・日本シリーズの影響もあり、第44話ではなんと10.0%と最低を記録。

とくに後半戦は、戊辰戦争も終わって、主な話題が同志社大学の創設という地味なテーマも祟って、どんどんと視聴率を下げたようです。

久々の幕末モノということで、期待もし、我々夫婦としても最後まで見守ってはいたものの、やはり後半戦は、あまり面白くなかった……かな。それにしても、綾瀬はるかさん、熱演お疲れ様でした。次回、また別の大河ドラマでの活躍を期待しましょう。

こうした話題以外にも、今年起こった事件の中には遠い過去の出来事のように忘れていたことなども多々ありました。

その後どうなったのかな、と気にはなっていたものの、メディアなどの報道がトーンダウンしていったため、結局どうなったのかが分からずじまいになっていたものも多くあります。

例えば、ボーイング787のバッテリー問題もそのひとつです。

2013年1月7日の現地時間午前10時半頃、成田国際空港からのフライトを終えボストン・ローガン国際空港で駐機中のJAL008便の機体内部の電池から発火しました。

また、2013年1月16日午前8時25分頃、山口宇部空港発東京国際空港行きANA692便も香川県上空10000メートルを飛行中に、操縦席の計器に「機体前方の電気室で煙が感知された」との不具合のメッセージが表示されるとともに異臭もしたため、運航乗務員が緊急着陸を決断、午前8時47分に高松空港に緊急着陸しました。

ANA692便は、緊急着陸後に誘導路で脱出シューターを利用し緊急脱出をしたため、5人のけが人がでましたが、日本の運輸安全委員会はこの緊急着陸を重大インシデントとして調査を行いました。

アメリカ連邦航空局 (FAA) は、ANA機の事故を受けて耐空性改善命令を発行してアメリカ国籍の同型機に対し運航の一時停止を命じ、世界各国の航空当局に対し同様の措置をとるように求めました。このため、世界各国で運航中の787すべてが一時運航停止となりました。

先のJAL008便の事案では乗客172人、乗員11人の計183人は既に全員降機しており、人的被害はありませんでした。

しかし、事故発生場所は787を製造販売するボーイング社のおひざ元のアメリカ国内、FAAの管轄空港内であり、このため国家運輸安全委員会 (NTSB) までもが乗りだし、事故調査にあたっています。当事者のボーイング社もまた、FAAと共同で包括調査するなど、原因究明に躍起になりました。

これら一連の事故により、787の機体を数多く保有するANAとJALは、所有するすべてのボーイング787の飛行を自主的に一時停止しました。FAAは、ANAの事故を受け、1月16日に耐空性改善命令 (Airworthiness Directives:AD) を発行。

この処置を受け、日本の国土交通省もボーイング787の運航停止を命じる耐空性改善通報を出すと発表し、この処置に世界各国の航空当局も追随したことから、この当時世界各国で運航中であった8社50機の機体すべてが再開見通しのたたない無期延期の運航停止となりました。

ボーイング社もこの措置を受け、各社に予定していた787型機の納入すべてを一時停止することを決定しました。なおFAAが大型旅客機の運航停止を指示したのは1979年に発生したアメリカン航空191便墜落事故によるDC-10以来のことです。

787運行停止の措置は、同機材で運航していた路線だけでなく、これ以外の路線にも影響を与えました。787を使用していた路線を他種の機材で補充しながら運航するために他路線でも欠航、時刻・機材の変更が多発したためです。

また、787を新規就航させる予定だった路線の開設の延期も発生し、経営計画の大幅な変更や修正を強いられたため、数社の航空会社がボーイングに対して補償の権利行使を実行しました。しかし、補償額は莫大に及ぶため、ボーイング社との折り合いはまだついていないようです。

その後、NTSBが詳細な調査をおこなった結果、ボストンJAL機出火の事故原因としては、8個の電池セルの中の6番目がショートして「熱暴走」を起こし、他の電池セルに波及したとする経過報告が2月に発表されました。

ところがなんとこのバッテリーは日本の電池メーカーである、ジーエス・ユアサ コーポレーション(GSユアサ)が製造し、フランスのタレス・グループを通じて供給されたリチウムイオン電池で、最先端技術によるものでした。

このため、この発表以後、多くのメディアでGSユアサが事故の原因であったかのような報道がなされましたが、実際は周辺制御装置の異常など、複合的な問題も考えられ、ショートの原因は必ずしもバッテリーとは言い切れませんでした。

そもそも、問題となっているリチウムイオン二次電池は、一般家庭で使用される乾電池などとは違い、それ単体では使用ができず、使用するには電圧等を制御する制御システムが必須なためです。こうした制御システムは、GSユアサではなく、別会社が供給していました。

また、ボーイングは運行再開前にGSユアサ製バッテリーの使用を継続する事を発表しており、こうしたことからもGSユアサのバッテリー自体に問題があった可能性は低いと考えられ、日本を代表するメーカーの事故への関与という汚名は返上されました。

その後ボーイング社は、熱対策を行った新バッテリーユニットの再開発にとりくみ、FAA に申請した結果、3月中旬には、FAAはこの新バッテリーユニットの認証計画と新バッテリーに改修されたボーイング787の試験飛行を承認しました。

しかし、NTSBが主張している「熱暴走」については依然不安を残したままで、787の提供者であるボーイング社のチーフ・プロジェクト・エンジニアであり、副社長でもあるマイク・シネット氏すらも、「熱暴走の定義は人により異なるが、われわれは熱や圧力、炎が機体を危険にさらす状態にあると考えている」と熱暴走の実在を否定していません。

ところが一方では、「ボストン・ローガン空港も高松空港もそのレベルではなく、バッテリーに過充電も見られなかった」とも述べ、今回の事故が「熱暴走」を起因とするものであることを暗に否定しています。

ボーイング側の説明は更に二転三転します。同じ席で顧客の航空会社向けには、機体への重大な影響があるものを「熱暴走」と説明していたのです。このように、ボーイングの開発担当者もまたこの「熱暴走」なるものの見解を巡って、それがどういう原因で生じるかを把握しきっていないのは明らかであり、この現象に相当振り回されている様子がうかがえます。

しかし結局ボーイング社は、懸案となっているバッテリーの1つのセルから2つのセルへ波及するとされる、一般的には「熱暴走」という現象の科学的な意味は「認識している」ものの、一般顧客向けへの説明としては、これは「熱暴走とは異なる」と釈明し、最終的には「熱暴走なし」の独自見解は変えませんでした。

しかし、無論こうしたあいまいな見解を誰しもが鵜呑みにするわけはなく、その後も本当の原因究明をめぐっての追及の声はしばらくの間やむことはなかったようです。

そんな中、ボーイング社はバッテリー発火対策として、三段階での対策を提示しました。すなわち、バッテリーのセル単位での発生防止、不具合が生じた際の拡散防止、機体への影響防止、の3つです。

とくに最初のセル単位での発生防止においては、ショートにつながる結露など、原因として考えられる 約80項目を4グループに分け、セルとバッテリーは設計や製造工程や製造時テストを見直し、セルは絶縁テープで囲み使用される絶縁体も耐熱性や絶縁性を改良し、隣り合うセルでショートが起きないよう、徹底した対策を施しました。

また、充電器も電圧を見直し、充電時の上限を低く設定してバッテリーへの負荷を減らし、下限を高めて過放電を防止するとともに、新たにバッテリーを収めるエンクロージャー(ケース)と排気システムを採用。出火要因を排除し、仮に出火した場合でも燃焼が続かない環境を維持できる構造にしました。

さらには、バッテリーから電解液が漏れたり熱や圧力が発生した場合はエンクロージャー内にとどめ、煙や異臭は機外に放出するそれぞれの対策も施しました。

ボーイング社によれば、新型バッテリーではこれまでに予想されたもののおよそ三倍の圧力に耐えられるようになったといい、この性能を確認するため、エンクロージャー自体の耐圧試験を6万時間以上をも行ったといいます。

こうした対策強化を受け、FAAはボーイング社が提示していた改修した新バッテリーシステムの認証計画と試験飛行を3月25日に承認。これを受けて、同日と4月5日にも、新バッテリーシステムに改修した新しい機体で試験飛行を行い、新バッテリーシステムのデータを収集し、設計通りに機能するかを検証しました。

FAAはこれら検証を受けてボーイング社が提案した運航再開に向けたシステムの改修を承認。同年4月26日に新バッテリーユニットへの改修を行った「新ボーイング787」の運航再開を許可するAD(耐空性改善命令)の更新発行を行いました。

ボーイングとしては、FAAからAD(耐空性改善命令)が発行されたことを受け、バッテリー改修のための技術者のチームを全世界に派遣し、バッテリー改修を787のすべてに施しました。また、各運航航空会社に問題箇所の指摘とその解決作業手順や整備などの変更を指示する改修指示書も発行しました。

787はヨーロッパの航空各社に納入予定であるため、このアメリカでの決定を受け、欧州航空安全機関(EASA)もまた4月23日に運航再開に向けたシステムの改修を承認しました。

とはいえ、国家運輸安全委員会、NTSBはこの決定に先立つ4月23・24日の二日間、同型機のリチウムイオン電池に関する公聴会を開催するなどしており、この運航再開承認後も同組織としてはバッテリー火災の原因究明の姿勢を崩していません。

この辺が、アメリカの偉いところだと思います。日本では運輸省にあたるFAAが承認したからといって追及の手を緩めず、学識経験者で組織されて強い権限を持つNTSBなどが引き続き目を光らせ、交通のような重要インフラの安全に関しては万全を期す、という考え方が徹底しており、日本もこうした点などをまだまだ見習うべきでしょう。

もっとも日本も最近はこうした委員会の発言力がかなり強くなってきてはいますが、福島第一原発の事故究明にあたっての事故調査・検証委員会や原子力規制委員会の対応については、他の学識経験者から厳しい意見があいつぐなど、原子力の安全を監視する番人としての立場は盤石ではないことを示しています。

一方の日本の国土交通省航空局の対応ですが、このNTSBの公聴会でも一応、新しいバッテリーシステムについては大きな異論が出なかったことを受け、この翌日には、正式に国土交通省として耐空性改善通報(Technical Circular Directive:TCD)を発行し、これによって「新バッテリーユニット」は正式に受け入れられ、787の運航再開は承認されました。

しかし、日本独自の対策として、新たに以下を運行各社に要請しました。

・各機体改修後の確認飛行(全機を対象に各一回実施)
・バッテリーに対する安全性の確認(飛行中のバッテリー電圧監視を全機対象に飛行開始後継続的に実施、使用したバッテリーのサンプリング検査を継続的に実施)
・運航乗務員の慣熟飛行を全運航乗務員を対象に実施
・同型機の安全、運航に関する情報開示をあわせて実施

これは、787の製造元でない日本としては最善の措置を取りたかったということでしょう。

そもそもこの事故が日本製のバッテリーから発生したものの、バッテリーにまつわる運営システムの改良はアメリカ側に委ねざるを得ず、手も足も出ないので、せめてこうした運行手順だけはしっかり守らせて、日本からは新たな責任問題を出させないよう国内の航空会社にくぎを刺したわけです。

しかし、こうした新たな運用規則が増えた国内航空各社はたまったものではありません。「運航乗務員の慣熟飛行」ってどうやって証明するんでしょうか。

ともかくもこうした国土交通所の指示を厳守することを条件に、早くも4月22日には再開待ちに待っていたANAが国内4(羽田、成田、岡山、松山)空港で、新バッテリーユニットへの改修を開始し、JALもまた羽田、成田2空港で改修を始めました。

しかし、一機当たりの改修には一週間前後もかかったため、日本国内の787の全改修が終了したのは、5月23日でした。また、日本以外の各国にあった50機の787の改修もまた、5月29日までには完了しました。

787の日本での最大の利用者であるANAには、同機種のパイロットが200名近く在籍していますが、1月に運航停止になって以降、その多くは自宅待機を余儀なくされ、定期的にシミュレーターで訓練を行うだけとなっていました。

この間、長いお休みによって実機による運航ができなかったことによる操縦技能の低下が懸念され、また休止期間が長引いたことで機長資格を失効するパイロットも複数出ることとなり、会社としては正式な商業運航再開までに別の機体を使って訓練飛行などを複数回行いました。無論乗客はいませんから、この飛行による費用はドブ捨てになります。

しかし、改修が終わったことから、まずは旅客定期便運航再開よりも前に貨物定期便を再開しようということになり、4月28日には、羽田発着で約2時間の貨物機の試験飛行が実施されました。

さらには5月16日には高松空港に緊急着陸したJA804Aが運輸安全委員会の調査なども経てバッテリー改修を行い、121日ぶりに羽田へ回航と確認飛行も実現。

同年5月23日に同社は商業運航再開を前倒しして、同年5月26日の臨時便より商業運航を再開しました。これをもって1月16日に耐空性改善命令が出て以降運休していた全787の飛行が再開されました。この間、実に4か月余りであり、ANAだけでも減便や路線の運休による減収はおよそ80億円にも達しました。

JALもまた、5月2日に羽田と成田の2空港で試験飛行を行ったのち、ボストン・ローガン国際空港で出火した機体は、バッテリーユニットを交換、確認飛行を実施した後5月19日に成田空港に回航され、約130日ぶりに日本へ帰着しました。6月1日からは羽田発シンガポール行きの035便を皮切りに順次商業運航を再開するとともに、現在もJALにおいては同型機は国際線専用で運航されています。

ただ、JALでは成田~デリー線の再開が7月12日となり、また成田~モスクワ線に関しても9月1日になるなど、完全に停止前の運航規模に復帰するまでは時間がかかりました。また、787の導入を機会に新設を延期していた成田~ヘルシンキ線の開設も7月1日からとなりました。

ボーイングは、ANAに納入する予定だった他の787の納入も、運航再開後に初めており、それまで遅れていた納入遅れを挽回しようと現在躍起になっていますが、いまのところ、予定されていた機体は納期が大幅に遅れたものの納入されるようです。

こうして、ようやく787の問題は解消されたかのように見えますが、新しい機体であるだけにまた別のトラブルが発生しないか心配です。誰しもがそうでしょう。

実際、上述のバッテリー問題解決後も、787のトラブルは続いているようです。

例えば今年の7月12日、エチオピア航空の機体でロンドン・ヒースロー国際空港に到着し全電源を落とした数時間後に火災が発生しました。

英国航空事故調査局(AAIB)(en)は、航空機用救命無線機(ELT)が出火原因となった可能性が高いとの報告書を公表し、FAAなど各国航空当局に対して耐空性が確認されるまでは問題のELTの電源を切る通達を出すよう勧告しています。

これを受けFAA、JCAB、EASAそれぞれの当局は当該ELTについて、点検又は取り下ろしのいずれかの措置を求める通告を発表しています。

また、記憶に新しいところでは、先月11月の23日、日本航空は国際線の一部路線において使用機材をボーイング787から別機種へ変更することを発表しました。これは、787と同じGEnx-2Bエンジンを搭載している他社のボーイング747-8型機が積乱雲が発生している空域を飛行した際に、一時的にエンジン推力が減少する事案が発生したためです。

実は、私事ですが、来年の1月に広島で姪の結婚式があり、これに我々夫婦も招待されていて、この際、飛行機で行こうと思っており、ANAを利用することになりそうです。

なので、その機材が787であるかどうかは一応チェックしておこうと思っているのですが、時間を押した旅行なので、予定によっては787を利用せざるを得ないかもしれません。

とはいえ、日本のメーカーも参画して開発したというこの最先端機に乗ってみたい気持ちもあり、そこのところは少々複雑です。

787については、以前もこのブログでそのスペックを紹介したことがあったのですが(1/22 「787」参照)、ここで、この世界最先端技術を使って開発されたといいう787についてもういちどおさらいしておきましょう。

ボーイング787は、別名ドリームライナー(Boeing 787 Dreamliner)といいます。アメリカ合衆国のボーイング社が開発・製造する次世代中型ジェット旅客機で、これまでの中堅機、ボーイング757・767・777などの後継となる飛行機です。

中型機としては航続距離が長く、今までは大型機でないと飛行できなかった距離もボーイング787シリーズを使うことにより直行が可能になり、これにより、需要があまり多くなく大型機では採算ベースに乗りにくい長距離航空路線の開設も可能となりました。

1995年に就航開始した777に次ぐ機種の開発を検討していたボーイングは、将来必要な旅客機は音速に近い速度(遷音速)で巡航できる高速機であると考え、2001年初めに250席前後の「ソニック・クルーザー」と呼ばれる俊足機を世に提案しました。

しかし、2001年9月のアメリカ同時多発テロ事件後の航空業界の冷え込みの影響などから少しでも運航経費を抑えたいという航空会社各社の関心を得ることができず、2002年末にこのソニック・クルーザー開発を諦めて通常型の「7E7」の開発に着手しました。

この通常型7E7は、速度よりも効率を重視したボーイング767クラスの双発中型旅客機であり、2003年末には航空会社への販売が社内承認されました。

2004年4月、全日本空輸が50機発注したことによって開発がスタートし、呼称も787に改められました。その後、日本航空も発注したほか、ノースウエスト航空(現・デルタ航空)、コンチネンタル航空(現・ユナイテッド航空)など多数の大手航空会社が発注しています。

その最大の特徴は、特にターゲットとなる767より、航続距離や巡航速度は大幅に上回るとともに、燃費も向上している点です。炭素繊維を使用した炭素繊維強化プラスチック(カーボン)等の複合材料の使用比率が約50%であり、残り半分が複合材料に適さないエンジン等なので、実質機体は完全に複合材料化されたといえます。

この軽量化により、巡航速度はマッハ0.85となり、マッハ0.80の767、マッハ0.83程度のA330、A340より長距離路線での所要時間が短縮されることになりました。

航続距離は基本型の787-8(後述)での航続距離は最大で8,500海里(15,700km)、ロサンゼルスからロンドン、あるいはニューヨークから東京路線をカバーするのに十分であり、東京からヨハネスブルグへノンストップで飛ぶことも可能です。

従来機の767と比較すると燃費は20%向上しており、これは炭素繊維素材による空力改善と複合材の多用による軽量化・エンジンの燃費の改善、およびこれらの相乗効果によるものです。軽量化によって機内空間を増やすこともできるようになり、このため最大旅客数も若干増加させることができました。

実は、この787の製造ラインの3分の1以上を日本企業が担っています。日本企業の担当比率は合計で35%とアメリカ以外で最大かつ過去最大の割合であり(767は15%、777は20%を担当)、この35%という数字はボーイング社自身の担当割合と同じです。

ボーイング社外で製造された大型機体部品やエンジン等を最終組立工場に搬送するため、貨物型のボーイング747を改造した専用の輸送機が用いられており、日本では生産工場が名古屋近郊にある関係で中部国際空港に定期的に飛来しています。

日本企業の筆頭は、三菱重工業であり、同社は747計画時の2000年5月にボーイングとの包括提携を実現しており、機体製造における優位性を持っていました。

すでに1994年には787の重要部分の開発の日本担当が決定しており、三菱は海外企業として初めて主翼を担当しました。三菱が開発した炭素繊維複合材料は、この当時から開発が始まったF-2戦闘機のボーイング社との共同開発に際して初めて使用されたものです。

この時、アメリカ側も炭素系複合材の研究を行っていたものの、このF-2の協同開発から、ボーイング社が三菱側が開発した複合材の方が優秀であると評価したため、三菱が主翼の製造の権利を勝ち取ることになったものです。

三菱が主翼、川崎が前方胴体・主翼固定後縁・主脚格納庫、富士が中央翼・主脚格納庫の組立てと中央翼との結合を担当しており、エンジン開発でも、川崎重工とIHI、三菱(名誘)が参加しています。

機体重量比の半分以上に日本が得意分野とする炭素繊維複合材料が、1機あたり炭素繊維複合材料で35t以上、炭素繊維で23t以上をも採用されています。

こうした炭素繊維複合材料の製造は現在に日本の独断場であり、世界最大の炭素繊維メーカーである東レもまた、実質的にこの開発に加わることとなり、ボーイングと一次構造材料向けに2006年から2021年迄の16年間の長期供給契約に調印し、使用される炭素繊維材料の全量を供給していく予定です。

この787には、4種の派生機があります。

このうち、「787-3」は、航続距離約6500km、交通量が多い路線を的にした296座席(二列制)の短距離型であり、「787-8」は、座席数223座席(三列制)であり航続距離15700kmと787-3のほぼ倍です。787型機の基本型であり、最初に開発されたモデルでもあります。

このほか、胴体を延長させ、座席数259座席(三列制)の「787-9」というのがあり、「787-10」は、これをさらに胴体延長して、座席数290席に増やしたものです。これはエアバス社のA350-900に対抗するために計画されたモデルです

これら各派生機の受注状況は以下のようで、これからもわかるようにその主力は787-8と787-9となっています(2013年11月時点)。

787-3型機 : 0機
787-8型機 : 496機
787-9型機 : 396機
787-10型機 : 120機
787型機 全機種合計 1012機

各派生機とも、客室は従来より天井が20cm高くなっています。面積比で767の約1.2倍、777の約1.3倍にも及ぶとのことで、A350の1.65倍の大型の窓が採用され、窓側でなくとも外の景色を見ることができるといいます。

また窓にはシェードがなく、代わりにエレクトロクロミズムを使った電子カーテンを使用し、乗客各自が窓の透過光量を調節できるという斬新なものです。

さらに、客室内はLED光により、様々な電色が調整できるといい、トイレには、日本航空の主導で、TOTO株式会社、株式会社ジャムコ、ボーイング社との共同開発による、日本で一般に普及している温水洗浄便座がオプションとして採用され、ANAもこれを国際線用機に採用したそうです。

が、国内線には温泉洗浄便座は導入されていないようです。とまれ、飛行機や船が大好きな私としては、こうした数々の新しいシステムをこの目でみたくなりました。

先に述べたように、2013年の時点ではまだ、787の機体の信頼性が安定していないのも事実ですが、人はいつかはあの世にいくもの。生きているうちに、787に乗ってみるのも悪くはないな、と思い始めているところです。

ところで、ボーイングはこの787に飽き足らず、まだまだ新しい飛行機を開発しようとしているようです。

ボーイング・イエローストーン・プロジェクト(Boeing Yellowstone Project)というのがあり、これは、ボーイングが進めている、次世代旅客機の開発プロジェクトです。

現在までに、ボーイングY1・Y2・Y3と呼ばれる3機種の開発計画を発表しており、そのうちY2は787として実現しています。また、Y2(787)はそもそも757-300、767、777-200などの後継機となる200-300名程度を乗せる次世代中型旅客機を想定したものであり、エアバスではA350の開発でこれに対抗しています。

一方のボーイングY1は、ボーイング717、737NGシリーズ(737-600/700/800/900)、757-200などの後継機となる次世代小型旅客機で、100-200名程度を乗せる機体として開発中です。

ライバル会社のエアバスもまた、A320シリーズの後継機として同規模のエアバスNSRを開発中であり、このクラスではこれよりやや小ぶりですが(乗客数70~100程度)、日本のMRJも加わってさらに競争は激化しようとしています。

787の開発で得られた新しい技術、例えば、複合材料製のより軽量で丈夫な胴体や主翼、より大きなバイパス比で燃費や静粛性が向上した新世代のターボファンエンジン、進化したコックピット、より快適な客室技術、などが盛り込まれた新設計の旅客機を目指していると思われますが、MRJのライバル機としてどのような姿で登場してくるか楽しみです。

ただ、787の開発の遅延による影響や、新世代のエンジンを開発するメーカーの都合もあり、開発は未だ本格化しておらず、ボーイングは2008年に、Y1の環境負荷低減の技術が未熟であるため、当分の間は基礎技術研究に注力し、現行の737を改良したシリーズの生産を継続する方針を発表しています。

一方のボーイングY3は、ボーイング777-300、747(ジャンボ)の後継機となる次世代大型旅客機であり、300-600名以上を乗せる最大クラスの機体として開発中のものです。

別途ボーイングが開発中のボーイング747-8(3クラスで450~500名程度)と重複しますが、A380に匹敵する、より大型の機体(500~600名程度)を開発したいということのようです。

が、その全貌を表すのはまだまだかなり先のようです。その理由はいろいろあるようですが、こうした巨大な飛行機を作るのはもうやめにして、中型で航続距離が長く、燃費の良い飛行機のほうが効率的とする考え方が、世界の航空機メーカーに定尺しつつある、ということが理由としてあるようです。

いずれにせよ、これらの新たな飛行機開発においても、日本はボーイング社のようなアメリカの航空機製造メーカーの重要なパートナーとして引き続き、協力体制を築いていくことになりそうです。

MRJの開発によって日本はアメリカの水準に追いついたともいわれますが、アメリカの航空機産業のその裏には日本以上に進んでいるロケット開発を初めとする宇宙産業の技術があり、これに日本はまだまだ追いついていないためです。アメリカと共同で飛行機やロケットを開発していくことで、これらのノウハウを更に吸収する必要があります。

このイエローストーン・プロジェクトを初めとする、次世代のボーイングの飛行機開発にあたっては、既に2012年6月に、日本における航空機製造主要パートナーである三菱重工、川崎重工、富士重工、および東京大学生産技術研究所と製造技術に関する共同研究を開始しており、この研究結果は、上述の787開発にも応用されてきました。

ボーイングと日本のこれらの機関や企業は、産学連携の新たな枠組みであるコンソーシアムの設立に向けた協議を実施する覚書も締結しており、研究開発作業は東大生研の教授陣が主導し、主にその技術スタッフが実務を担当することなども決まっています。

まずはチタニウム、アルミニウム、複合材の切削加工に関する新たな技術開発に取り組み、コンソーシアム設立後は製造技術に関わるより多様な研究開発を実施することで、上記のY1、Y3の開発につなげていく予定だといいます。

しかし、日本も独自の旅客機開発を進めており、上で取り上げたMRJもそのひとつです。このMRJは、今年の10月より、愛知県豊山町の小牧南工場で飛行試験機初号機の最終組み立てが開始されており、来年早々にも日本の空を飛びそうです。

現時点で、世界中の航空会社から330機もの注文が来ており、国内でも日本国政府が政府専用機として10機程度の発注を検討しているそうです。MRJはボーイング737より小型で、滑走路が1,500m以上あれば離着陸できる見通しのため、政府などが災害時に運用できる空港の選択肢が多くなることが期待されています。

さらに、日本初の小型ジェット、ホンダジェット(Honda jet)も商用化実現が近づいています。

つい先だっての12月13日、ホンダとGEの折半出資子会社であるGE Honda エアロエンジンズは、Honda jetに搭載されるエンジン「HF120」が、米国連邦航空局による連邦航空規則のPart33が定める型式認定を取得し、量産に向けたステージに入ったと発表しています。

さらに先週の20日にはHonda JetがFAAの型式証明取得に先立ち必要になる型式検査承認(TIA)を取得したことを発表、これによりデリバリー開始予定は、来年こそは難しいものの、2015年1 ~3月期となることは確実となりました。

来年以降の数年は、日本の航空機産業にとっては劇的な進化を遂げる時期になるかもしれません。期待しましょう。

伊豆と伊予 旧中伊豆町(伊豆市)

今日はクリスマスイブで、今年もあと残すところ1週間になりました。

昨年の今頃はどんなだったかな~と思い返しているのですが、まだまだ引越し後一年にも満たず、家の中もまだ混とんとしていて、正月をじっくり迎えるような心の余裕もあまりなかったように思います。

が、今はもう家の中も片付き、今年の大掃除もおおまかなところは終え、年賀状の印刷も済ませて、あとまだ少々やり残したことはあるものの、なんとか今年一年を静かに振り返る時間ぐらいはできそう、といった感じになっています。

この年末年始には、山口に在住の母がこちらで過ごしたいというのでこちらに来ますし、千葉にいる息子君も帰ってくるというので、昨年末のように二人(プラス・ネコ一匹)の静かなお正月ではなく、少しく賑やかなお正月になりそうです。

ただ、今年、もう80歳を超えるこの母は、少々左足が悪く、階段などの上がり降りが不便なので、一緒に連れ出して、あちこち歩かせるわけにはいかないのが残念です。これは特に怪我をしたとかいうわけではないのですが、若いころに勤めていた会社での長時間の立ち仕事がたたったのではないかと思われます。

なので、長距離を歩くようなところや、長い階段があるようなところはタブーであり、来年のお正月の初詣も、三島神社のような長い参道があるところはやめにしようかなと思っています。

こうしたことを、先日行った修禅寺駅前の散髪屋さんとお話をしていたところ、この散髪屋さんの一家が毎年初詣に行くのは、近くの「広瀬神社」だと教えてくれました。

この広瀬神社というのは、駿豆線で修善寺から二駅の「田京」という駅の南側に鎮座する神社で、延喜式神名帳では、「従一位」とある名社であり、その昔は、この地方一の大社として崇めたてられていました。

主祭神は、溝杙姫命(みぞくいひめ)であり、これは玉櫛媛(たまくしひめ)ともいい、事代主(ことしろぬし)という神様との間に産まれた子供の一人は、神武天皇の后になったと言い伝えられています。

社名の起こりは地名に基づくと思われ、その昔、河川が山間から急に平野に出たり、河川に支流が合流したりして川瀬が急に広くなったところを「広瀬」と呼んだことから、この場所もその当時はそうした場所であったようです。

古くはこの一帯は、狩野川の河水が社域のすぐ傍を流れるような場所だったといい、社域はさながら河水のなかに島のように浮んでいたそうで、伊豆国の主要なる河川であるこの狩野川の広い瀬に臨んで、古人がその河神を祀るために創建したようです。

干ばつのときにも水が枯れず雨天に氾濫を起こさず、順調なる水の供給を希い、年々の農作の豊穣を祈ったのがその起原だと考えられますが、社伝には、この神社はその昔伊豆最南端の下田の白浜からこの地に移ったと書いてあるそうです。

さらに、この地からさらに北部の三島市に遷祀したのが、現在の三島大社だと言われており、本当だとすると、三島大社よりもさらに歴史のある古刹ということになります。

その創建年月は、天平5年(733年)とも伝えられており、往古のその社殿は金銀をちりばめた壮大なものだったとか。禰宜が36人、供僧も6坊もいたそうで、この当時は社域も現在よりもずっと大きかったようです。

が、天正18年(1589年)の豊臣秀吉の小田原征伐の際、兵火により社殿、宝物源頼朝、北条時政等の社領寄進状も焼失し、かなりの所領を失いました。

しかしその後、伊豆国全州の勧進を以って再興され、次いで江戸時代になってからも修営がおこなわれました。江戸時代には、「福沢大明神」と呼ばれていたようで、その後「深沢明神」と改称されて呼ばれるようになり、明治6年の記録でも「深沢神社」となっています。

しかし、明治新政府による神仏分離と廃仏毀釈に伴い、明治28年に、現社号「広瀬神社」になりましたが、これはもともとこの呼称で呼ばれていたものに復称したということになります。

このように、色々調べてみると、かなり由緒正しい神社であり、しかも三島大社よりも創建が古いと聞いて驚いています。

今年の正月の初詣には三島大社に夫婦してお参りしたのですが、すぐ近くにこうした古式ゆかしい神社があるなら、母を連れて行くのもここがいいかな、と思うようになりました。

現在の広瀬神社は、こじんまりとした社殿を持ち、また小公園ほどの社域しかなく、参道もそれほど長くないため、足の悪い母を連れていくにはちょうど良いに違いありません。

我々が住む別荘地のすぐ麓の修禅寺温泉街にも日枝神社という古い神社があるのですが、ここへも参拝するとして、来年のお正月の初詣はこうした近隣の神社で済ますことにしたいと思います。

ところで、この広瀬神社は、この地へ来る前に下田の白浜にあったと書きましたが、その前には、三宅島にあったという説もあるようで、さらに調べてみるとこの三宅島にあったという神社は、天平年間(729~749年ころ)に、伊予国から遷祀されたという記録も残っているようです。

この伊予の国、すなわち現在の愛媛県でこの当時一番大きかった神社というのは、「大三島」という島にある「大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)」であり、分祀されたのもこの神社からだと思われます。

大三島というのは、広島県中央部の竹原市と愛媛県の今治市のちょうど中間あたりの海に浮かぶ島で、この「大山祇神社」というのは、先の三島市にある三島大社とともに全国にある「三島神社」の総本社として崇拝されている大神社です。

主祭神の大山祇神は三島大明神とも称され、大山祇神社から勧請したと伝えられ、「三島神社」と呼称される神社は、四国を中心に新潟県や北海道まで全国に広がります。

従って、かつて三宅島にあったとされる広瀬神社もまた、瀬戸内海から太平洋側を通ってこの地に分祀されたものと考えることができ、これが事実だとすると、愛媛県の大三島と三宅島、下田市、広瀬神社のある伊豆の国市は「三島」というキーワードでつながっていることになります。

おそらく、現在三島にある三島大社もまた、広瀬神社と呼ばれていたものがここへ移されるとき、このゆかりで「三島」大社と呼ばれるようになったのではないか、と私は考えているのですが、これを裏付ける資料を探してみたところ、そうしたものはとくにみあたりません。

なので、これはあくまで私の推測にすぎませんが、それにしても、私にとってはとくに奇縁だなと思うのは、実は私が生まれたのが愛媛県だからです。

生まれ故郷である愛媛から遷祀された神社が回りまわって現在住むこの伊豆の地にあるというのは、なにやら不思議なかんじがします。

ただ、私は、愛媛県内でも南予と呼ばれる大洲市生まれであり、この「大山祇神社」のある大三島ともそれほど遠くはないものの、3才になるかならないかのころに、父の仕事の関係で山口県に移っていますから、この大洲時代の記憶はまったくといってありません。

にもかかわらず、生まれたところのすぐ近くにある場所から移ってきた神社が現在住む場所からすぐの場所にあると聞くと、妙に郷愁じみたものが沸いてくるのが不思議です。

愛媛は、育った場所でこそありませんが、広島や山口に近く、松山などへは頻繁にフェリーも出ていて、子供のころからよく旅行で出かけたりしていたので、まんざら知らない土地でもありません。その昔、伊予三島市と呼ばれていた現在の四国中央市には、父方の祖父夫婦が住んでいたこともあり、この東予地方にも遊びに行ったことがあります。

……と書いて、この伊予三島市もまた「三島」であることに今気が付きました。三島神社の総本社である大山祇神社もまた、「大三島」に存在し、広瀬神社が移転した三島大社のある地もまた三島市内であり、どうやら今日のキーワードは、「三島」のようです。

この大山祇神社には、残念ながら長じてからも行ったことがありません。なので、どんな場所かは想像するしかないのですが、瀬戸内海に浮かぶ大三島西岸、神体山とする鷲ヶ頭山(標高436.5m)西麓という風光明媚な場所に鎮座し、写真を見る限りはかなり壮大な神社のようです。

このあたりは、温暖な場所であり、みかんの産地として有名ですが、尾道~今治間を結ぶ近年本四連絡架橋として「しまなみ街道」がこの島を通っており、アクセスもしやすいようです。

広瀬神社にもゆかりの神社ということで、こちらについても少し調べてみたところ、ここはどうやら古来から、山の神・海の神・戦いの神として崇拝を集めていた神社のようです。

歴代の朝廷や武将から尊崇を集め、源氏・平氏をはじめ多くの武将が武具を奉納して武運長久を祈ったため、国宝・重要文化財の指定をうけた日本の甲冑の約4割がこの神社に集中して保存してあるといいます。

このほか、社殿・武具等の文化財として国宝8件を保有し、国の重要文化財に至っては76件をも有し、昭和天皇の海洋生物研究のための御採取船「葉山丸」を永久保存するために建設された「大三島海事博物館」などが大山祇神社に併設されているそうです。

ただ、昭和天皇=太平洋戦争といった関連の海事資料が提供されている、というわけではないようです。が、この大山祇神社そのものがもともと戦いの神様ということで、初代総理大臣の伊藤博文や、旧帝国海軍連合艦隊司令長官・山本五十六をはじめとして、政治や軍事の第一人者たちの多くが参拝のためにこの地を訪れています。

近年になっても、海上自衛隊・海上保安庁の幹部などの参拝があるといい、さながら軍事における「メッカ」とも言うべき場所として崇められているようです。

江戸時代以前の戦国時代・安土桃山時代には、このあたりには瀬戸内最大規模の「河野水軍」と呼ばれる武士集団があり、かの有名な村上水軍も形式的にはこの河野氏の配下である河野水軍に属していたそうです。

が、村上水軍のほうは、独自での活動も活発であり、必ずしも従属関係にはなかったようです。

村上水軍の勢力拠点は芸予諸島を中心とした海域であり、後に大まかに能島村上家、来島村上家、因島村上家の三家へ分かれました。彼らの多くは真言宗徒であり、京都などに数多く菩提寺が残されており、伊予国に本拠を持つ河野水軍と異なり、どちらかといえば畿内にその近親者が多かったようです。

とまれ、村上水軍も河野水軍も、伊予の水軍のほとんどが大三島の大山祇神社を崇拝し、祀りを執り行うことが習いであったといい、大山祇神社を中心としてこの地の海賊たちは結束を固めていたことは想像に難くありません。

この河野水軍の一派に、大祝(おおほうり)氏という一族がありました。伊予河野氏の一門であり、やはり大三島を拠点としていたようです。大祝氏は代々神職として大山祇神社を勤めており、このため戦場に立つことはあまり多くなかったようですが、それでも戦が起きた場合は一族の者を陣代として派遣していました。

ちょうどこのころは、戦国時代であり、周防(現山口県)の大内氏が中国地方や九州地方で勢力を拡大しているなか、河野氏や大祝氏の勢力下である瀬戸内海でもその勢力は拡大の一途を辿っていました。

とくに大内家16代当主の大内義隆が家督を継いだころには、大内家は周防をはじめ、長門・石見・安芸・備後・豊前・筑前を領するなど、名実共に西国随一の戦国大名となっており、大内家は全盛期を迎えていました。

当然、瀬戸内海を牛耳っていた河野氏とも争うようになり、大内義隆は、1534年(天文3年)、伊予にも侵攻してきましたが、このときは、大祝氏の「大祝安舎(やすいえ)」が陣代として出陣し、この大内軍を撃退しました。

この大祝安舎は、大山祇神社(愛媛県大三島)の大宮司・大祝安用(おおほうりやすもち)の長男であり、安用にはこのほか安房(やすふさ)という弟と、鶴(つる)という妹がいました。

この鶴姫は、長じてからは伊予きっての美しさだと評判になるほどの美人だったそうですが、その一方では男顔負けの武勇でも知られていました。

1541年(天文10年)にも、大内氏配下の水軍の将・白井房胤らが侵攻すると、このころ神職となった兄・安舎に代わって安房が陣代となりました。安房は主家である河野氏や来島水軍とも連合してこれを迎撃、大内軍を撤退させることはできたものの、このとき無念の討死を遂げてしまいます。

大内氏のこの地への執着は大きく、その後も同年10月に再び伊予へ侵攻してきました。このとき、亡き兄の安房に代わって陣代として出陣したのが、ほかならぬこの若干16歳の鶴姫であったといいます。

そして、この戦においても、彼女の指揮により河野水軍連合は大内氏を打ち破り、水軍の将・小原隆言を見事に討ち取りました。

実は、鶴姫は、このころ同じ河野衆で、越智安成という若者と恋中にありました。二人は、将来を誓い合っていたといいますが、越智家は大祝氏の配下にある家柄であり、安成にとっては鶴姫は主筋の娘という関係でした。

二人は幼馴染であったようで、同じく水軍の家に生まれたこともあり、子供のころから揃って文武に励み、鶴姫が長じてから安成はその右腕として仕えていたようです。

二年後の1543年(天文12年)6月、2度の敗北に業を煮やした大内義隆は、配下の陶隆房の水軍を河野氏の勢力域に派遣。再び大三島を攻略して、瀬戸内海の覇権の確立を目論もうとします。

このとき派遣されてきた大内水軍は、前回・前々回の規模を大きく上回るものであり、河野氏と大祝氏などその一門は全力でこれを迎え撃ちますが、その矢先、安成が討死してしまいます。

右腕であり、恋人でもあった越智安成を失った鶴姫は、怒りと悲しみから復讐を誓い、残存の兵力を集結させて最後の反撃を行います。この戦いは夜戦だったと思われ、不意を突かれた大内軍は壊走し、からくも鶴姫らは勝利を収めることができました。

しかし鶴姫は、この戦が終わったあとで失った兄や恋人のことを想い、18歳で入水自殺してしまいました。

この話は「鶴姫伝説」として現在まで伝えられて残っているのですが、あまりにもよくできた話なので、ウソ話かな~と思ったら、ちゃんと鶴姫が残した辞世の句というのがあるそうで、それは、

「わが恋は 三島の浦の うつせ貝 むなしくなりて 名をぞわづらふ」

というのだそうです。

鶴姫が着用したとされる胴丸も大山祇神社に保存されており、一般公開されていて見ることができるそうです。これは、「紺糸裾素懸威胴丸」といい、胸部が大きく膨らんでいて、逆に腰部が細くくびれていることから、現存している中では唯一の女性用の胴丸と確認されているといいます。

1959年に重要文化財に指定されており、本当に鶴姫が使用したかどうかの記録は残っていないものの、歴史作家の三島安精という人が、自著「つる姫さま(海と女と鎧)」において、これを鶴姫が使用したと推定したことから、彼女着用のものと言われるようになったようです。

郷土史家の喜連川豪規(きれがわひでき)という人も、「鎧が生んだお姫さま」という随筆を残しており、このお話を元に、NHKの「歴史秘話ヒストリア」が、2011年6月8日放送でこの鶴姫伝説を紹介しています。

500年以上も前のお話なので、真実かどうかはわかりませんが、現在でも大三島では鶴姫のこの一生を題材にした「鶴姫祭り」を毎年開催しているとのことです。大三島の高台の城跡近くには、地元の人が「おつるさん」と呼んでいる小さな祠があるとのことで、もしかしたら、これは本当に鶴姫のお墓なのかもしれません。

ちなみに、この鶴姫の話は、「鶴姫伝奇」として、日本テレビが1993年に「時代劇スペシャル」として製作、放映されており、このときの鶴姫役は、後藤久美子さんだったそうです。

その後大祝家の一族がどのような末路を辿っていったかはわかりませんが、大祝家が仕えていた河野家は、大内氏の魔の手から逃れ、戦国時代をなんとか生き抜こうとしています。

しかし、永禄11年(1568年)に河野家を継いだ「河野道直」の時代には、河野氏はすでに衰退しきっており、家中は、近隣の大名で敵対する大友氏や一条氏、長宗我部氏に内通した者たちの乱に苦しんでいたようです。

この河野通直という武将は、若年で頭領になりましたが、人徳厚く、多くの美談を持つ人物で知られています。反乱を繰り返していた家臣の一人に大野直之という人物がいましたが、通直に成敗されて降伏後その人柄に心従し、その後改心して、忠実な部下になったということです。

その後、豊臣秀吉による四国攻めが始まると、若き頭領を頂く河野家内では小田原評定の如く進退意見がまとまらず、一同は湯築城内(愛媛県松山市道後町の県立道後公園内にある河野氏の城跡)に篭城します。しかし、秀吉配下の、小早川隆景の勧めもあって約1ヶ月後、小早川勢に降伏。

この際、河野通直は城内にいた子供45人の助命嘆願のため自ら先頭に立って、隆景に謁見したといい、この逸話は、湯築城跡の石碑に刻まれて残されているそうです。

このとき通直は命こそ助けられましたが、所領は没収され、ここに伊予の大名として君臨した名家である河野氏は滅亡してしまいました。

かつて河野水軍と行動を共にすることの多かった村上水軍もまた、その後水軍としての役割を終えていきました。

来島村上氏は早くから豊臣秀吉についたため独立大名とされましたが、他の二家は能島村上氏が小早川氏、因島村上氏は毛利氏の家臣となりました。

1588年(天正16年)年に豊臣秀吉が海賊停止令を出すと、これら村上水軍の家々は従来のような活動が不可能となり、海賊衆としての活動から撤退を余儀なくされるようになります。

因島村上氏はそのまま毛利家の家臣となり、江戸期には長州藩の船手組となって周防国三田尻を根拠地としましたが、平穏な江戸時代にあっては水軍として使われることはありませんでした。

能島村上氏もまた毛利家から周防大島を与えられて臣従し、江戸期には因島村上氏とともに長州藩船手組となりました。豊臣の家臣となった来島村上氏はその後、江戸期には豊後国の玖珠郡に転封され、「森藩」となりましたが、こちらはこれによって完全に海から遠ざけられ、水軍として組織されることは二度とありませんでした。

こうして、水軍というものは時代の中から忘れ去られていきましたが、この村上水軍を吸収した長州藩は、その後明治維新における立役者となり、その後創設された帝国海軍でも長州人は登用されやすく、そうした中にこうした村上水軍の流れを汲む者も少なからずいたようです。

また、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を打ち破った連合艦隊の参謀、秋山真之はこの伊予の国の松山出身であり、バルチック艦隊を打ち破るための戦法の多くをこの村上水軍が残した戦術書から仕入れたといわれています。

こうした優れた戦法を編み出したかつての水軍の武将たちが崇めた、大三島の大山祇神社は、今も政治や軍事の第一人者たちのメッカであり続けており、現在も多くの関係者の参拝が絶えません。

そしてこの大山祇神社の系譜につながる、広瀬神社にお参りする日も、あと一週間ほどのちになりました。

残る一週間にはまだまだやること満載ですが、それをスッキリ終えて、気持ちよく新年を迎えたいもの。

来年は、午年ということなので、広瀬神社へ行ったらお馬さんのように疾走できるようお願いしたいと思います。間違っても「失踪」にならないよう、心して新しい一年を過ごしたいと思うのですが、そう「ウマ」くいくでしょうか。

皆さんはもう初詣の行先は決まりましたか? もしかしたら、あなたの行く先もまた大山祇神社つながりかもしれません。ぜひ一度調べてみてください。

FATE


今年ももうあと10日あまりとなりました。

昨日、おとといと降った雨は東京では雪にならなかったようですが、多摩の山奥や山中湖といった山間部では結構降ったようで、ここから双眼鏡で見ると、箱根駒ヶ岳も真っ白です。

無論、富士山も装い新たに化粧直しといったかんじで、まさに冬富士です。

今降った雪のどのくらいが来年まで根雪になるのかわかりませんが、昨年ここへ引っ越してきて以降、観察している限りでは、その多くは6月いっぱいぐらいで融けてしまうようです。

それから新たな冠雪があるのが、早ければ9月中旬、今年は10月末でしたから、合計するとだいたい8~9ヶ月は、雪を頭に頂く富士を眺めることができることになります。

全く雪のない富士もそれなりに美しいものですが、やはり富士には雪が良く似合います。太平洋高気圧が関東や伊豆を覆い、好天が続くこれからしばらくの間は、この景色をほぼ毎日見ることができることは、本当に幸せなことです。

ところで、年も押し迫ってきたこともあり、来年はいったいどんなことが予定されているのだろう、と調べてみることにしました。来年のことを話題にすると鬼が笑うといいますが、下品な鬼さんには腹をかかえて笑い死んでいただきましょう。

そうすると、世界的な話題としては、メジャーなところでは、以下のようなものがあるようです。

2月7日〜23日:ソチオリンピック
3月7日〜3月16日:ソチパラリンピック
6月12日〜7月13日:2014 FIFAワールドカップブラジル大会
9月19日〜10月4日:第17回アジア競技大会(韓国・仁川)
11月4日:アメリカ合衆国中間選挙投票日
12月:アフガニスタンからアメリカ含むNATOなど他国の治安部隊が2014年末までに全て撤退し、同国政府・軍に治安権限を移譲。
12月:FIFAクラブワールドカップモロッコ2014

その多くがあらかじめ予定が組まれているスポーツや政治・軍事がらみのことであり、世の中を秩序立てて進行させるためには予定をはっきりさせる必要があるのは当たり前といえばあたりまえです。

このほか、惑星や彗星などの天体の動きもあらかじめ予測できるものも多いため、来年起こるとされる現象がたくさん公表されています。

例えば、10月19日には、サイディング・スプリング彗星というのが、火星に極めて接近するといわれています。NASAはその衝突確率を0.17%(600分の1)以下と見込んでおり、その後のデータ解析により、衝突可能性をゼロに出来ると見ているようです。

しかし、衝突しない場合でも、火星軌道まで接近すれば彗星としての活動が活発になることが予想され、火星探査機によってこの彗星の状態を観測・撮影できる可能性があります。そしてこうした観測から、この彗星がどこから来たのか、成分は何かなどを調べることができ、ここから宇宙誕生の謎の一部が解明できる可能性があるということです。

もっともこれは、遠い火星のことですから、地球に住む我々の生活にはほとんど関係ありません。ところが、地球にぶつかる隕石となれば話は別です。

今年の2月15日、ロシア連邦のチェリャビンスク州付近で発生した隕石の落下では、飛来した隕石が大気圏を超音速で通過し、更に大気との圧力に耐え切れず分裂するという現象がおこりました。

そして、これによって発生したソニックブームは、落下地点に大きな被害を引き起こし、4つの都市において、8000棟近い建物の窓ガラスが割れたりドアが吹き飛ぶなどの被害が発生しました。

死者こそありませんでしたが、飛び散ったガラスなどで負傷する人が多数出るとともに、建物被害にあった商業施設や公共施設は長らく閉鎖を余儀なくされました。

被害総額は約10億ルーブル(約30億円)に及んだそうで、これは、自然災害による被害額としては少ないほうでしょうが、それでも今年8月に打ち上げられたJAXAの新型ロケット・イプシロンの打ち上げ費用とほぼ同じです。

これ以上大きなものがやってきたら、当然もっと大きな被害が出るでしょうから、今後ともできるものなら大きな隕石は降ってきてほしくないものです。

ところが、来年は、小惑星 “2003 QQ47″なるものが、地球に接近するそうです。NASAが今年の8月に自身のウェブサイトで明らかにした情報に基づき、CNNなどのメディアが、「2014年3月21日に地球に衝突する確率は90万9千分の1」などと報じ、一時大きな話題になりました。

しかしNASAはその翌月には同じページで「その後の調査の結果衝突の危険性なし」などと訂正文を加え、同時にNASAが地球に影響を及ぼす可能性のある天体のIMPACT RISKのリストからも”2003 QQ47″を削除しており、どうやら来年、地球消滅の憂き目を我々が味わう危険はなさそうです。

以上は海外の話題です。来年の予定を、上のようなスポーツや政治・軍事がらみのものをのぞいて、さらに日本に限定してみてみると、日程がはっきりしているメジャーな事項としては次のようなことがあるようです。

1月5日:NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」放送開始。
1月16日:オウム真理教事件の平田信被告の裁判員裁判の初公判。
2月1日:両国国技館で元大関雅山の引退相撲・断髪式.。
2月(日付未定):東京都知事選(12/19猪瀬知事引退表明を受けて)。
2月28日:ダイヤルQ2がサービス終了(NTTによる情報料代理徴収サービス)。
3月7日:近鉄・阿部野橋ターミナルビル(あべのハルカス)が大阪市阿倍野区に完成予定。地上60階、高さ300mの日本一高いビルとなる。
3月31日:
・TOKYO FMはじめJFN各局で行っていた文字多重放送「見えるラジオ」がサービス終了予定。
・NHK連続テレビ小説第90作品「花子とアン」放送開始。
・フジテレビ「森田一義アワー 笑っていいとも!」放送終了。
・JRの寝台特急「あけぼの」が廃止、東北地方を起点に運行する寝台特急が全て消滅。
4月1日:消費税が8%に増税される。生活保護法改正、手続き・不正受給等の厳格化。
4月9日:Windows XPがサポート期間の終了を予定。
4月(日付未定):三陸鉄道北リアス線・南リアス線が全線で運行を再開予定。岩泉線廃止。
5月12日:改良5000円札を発行開始(ホログラム変更)。
5月(日付未定):江差線(木古内 – 江差間)廃止。
7月(日付未定):国立競技場の解体工事が着工する予定。新競技場は2019年3月の完成予定。
9月29日:NHK連続テレビ小説「マッサン」放送開始。
10月12日~10月22日:長崎がんばらんば国体(長崎県・諫早市)
12月29日:秋篠宮家佳子内親王が成人になる。

総じて小粒の話題が多いような気がしますが、私的に楽しみなのは、NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の開始と、残念なのは、タモリさんの「笑っていいとも!」の終了でしょうか。5月の改良5000円札を発行というのも気になるところです。

つい昨日、辞職を表明した猪瀬都知事の後任が誰になるかについても、元都民としては興味津々ですが、来たる2020年のオリンピックで東京の姿が紹介されるまでに、世界に誇れるような街づくりをしてくれる人の登場を願いたいところです。

このほか、月も日付も未定のものとしては、以下のようなものがあります。

・北陸新幹線の長野駅〜金沢駅間が年度内に開業。
・リニア中央新幹線が2014年度中に着工予定。
・東北縦貫線(愛称:上野東京ライン)が年度内に開業予定。
・品川駅〜田町駅に、JR山手線としては、約40年ぶりとなる新駅建設の着工予定。
・新橋・虎ノ門区間(地下トンネル)が春に開通予定。関連して虎ノ門ヒルズが完成予定。
・普天間飛行場がキャンプ・シュワブ沖へ移転し、海兵関係者1万7千人以上がグアムへ。
・JAXAと欧州宇宙機関の共同開発による水星探査機「ベピ・コロンボ」が打ち上げ予定。
・小惑星探査機「はやぶさ2」が打ち上げ予定。
・防衛省が開発を進めている「心神(国産戦闘機)」の試作機が年度中に完工予定。
・舞鶴若狭自動車道が全線開通。
・新東名高速道路の浜松いなさジャンクションから豊田東ジャンクションが開通。
・首都圏中央連絡自動車道の桶川IC、境IC-水海道IC間開通予定。
・常磐自動車道が本年度以降に全線開通。
・Jリーグ ディビジョン3(J3)が開幕。
・首都高速道路中央環状品川線が開通。

交通関連のものが多いようですが、中でも大きいのは、「上野東京ライン」と呼ばれる東北縦貫線の開業でしょう。これによって上野駅発着の宇都宮線(東北本線)、高崎線、常磐線(常磐快速線)の列車が東京駅まで乗り入れ、東海道本線との相互直通運転が可能になります。

可能性は少ないでしょうが、この開通により東北本線始発の岩手県の盛岡から大阪や神戸まで直通の特急列車を走らせることも可能になるわけで、そうでなくてもこれまで東京駅でみることのできなかった常磐線や高崎線の電車が東京駅で見れるようになることは、鉄道ファンにとってはたまらない出来事に違いありません。

防衛相の「心神」というのは、将来の国産戦闘機に適用できる先進的な要素技術を実証するために開発されるステルス研究機で、既に2012年3月から、三菱重工業・飛島工場(愛知県飛島村)で試作機の組み立てが開始されています。

一応来年完成予定ということなのですが、開発にてこずっているようで、本当に来年完成できるかどか難しいという観測もあるようです。

純国産技術で開発する戦闘機ということのようなのですが、どうもアメリカあたりから少し技術供与があるのではないかという気がしています。が、詳しい話はまた今度調べてこのブログでも書いてみましょう。

とまあ、来年実施または実現など予定が決まっているものはそれとして、現実には予想もつかないこともいろいろ起こるでしょう。

今年もまたしかりです。予想だにもしなかったことも多々起こりましたが、私的には7月末の山口・島根県地方の集中豪雨被害と、10月中旬の伊豆大島での土砂災害が強く印象に残りました。いずれも身近な土地で起こった出来事ということもありますが。

年末ぎりぎりの12月になって起こる突発的な大事件というのもあります。おととし2012年の12月2日に中央自動車道の笹子トンネルで、コンクリート製の天井板落下事故が起き、走行中の車複数台が巻き込まれて多数の死傷者が出たことが思い起こされます。

今年も、昨日の朝、京都で餃子販売を主とする有名チェーン店の社長さんが銃殺されるというショッキングな事件が起こりました。2011年の12月17日にも、これは日本ではありませんが、北朝鮮の最高指導者金正日総書記が死去しています。

なにやら12月というのは、日本にとって大きな事件が起こりやすい、何かめぐりあわせのようなものがあるのかもしれません。

これから年末にかけては、こうした今年起こった重大事件などが、10大ニュースとかいったタイトルで、テレビ局各局から放映されることでしょう。いつもながらこうした際には亡くなった有名人の名前なども流され、こうしたものを見ながら、明日は我が身か、と感じるような年齢に私もなりました。

自分の寿命があとどのくらいあるか、などというのは想像もつきませんが、それを言えば、来年起こることに関しても、ここまで書いてきたように既知のことや予定が決まっていることは別として、何が起こる、いつ起こるかを知るには、あとは予言や占いに頼るしかありません。

予言に関していえば、過去から現在に至るまでいろいろなものがありますが、日本で有名になったのは、やはり「ノストラダムスの大予言」でしょう。

このタイトルで、1973年に祥伝社から発行された五島勉の著書は、「1999年7の月に人類が滅亡する」というのがウリで、公害問題などで将来に対する不安を抱えていた当時の日本でベストセラーとなりました。

しかし、実際にはそんなことは起こらず、このため2000年以後には日本でのノストラダムス関連書の刊行は激減しました。が、その二年後の2001年9月にアメリカ同時多発テロ事件が起こった際には、「あれこそが恐怖の大王だったのではないか?」と、アメリカなどでブームになり、日本でもインターネット上などでは一時的に盛り上がりを見せたようです。

しかし、予言の賞味期限が切れて10年以上も経った今後は、この予言も過去のものになっていくでしょう。

私自身は霊的な能力というか、我々の理解を超えたような能力を持った人がいて、こうした人達が未来を予測できる、というのは、ありえることだと信じてはいます。が、では、いったいどの人の言うことが本当かどうかというのを見極める能力はありません。

なので、テレビやインターネットで流される各種の予言というものを、頭から信じ込むということはしないようにしています。とはいえ、こうした報道が繰り返し繰り返しなされると、不思議なものでだんだんと本当かな~と思うようになってきます。

「自己成就予言」という言葉がありますが、これは予言をした者もしくはそれを受け止めた人が、予言の後でそれに沿った行動を取る事により、あたかもその予言が的中したかのように思い込むことです。

例えば、ある人が「血液型占いは正しい」のではないか、という思い込みをしたとします。

すると、この人はいつもも見ている隣人で、同じ血液型、例えばA型の人をみて、神経質な人とそうでない人の両方がいることを認識しているにも関わらず、血液型占いでA型の人は神経質だ、と書いてあったのを覚えていて、無意識的にA型で神経質な人のことだけを選択的に記憶していってしまいます。

その結果、「やはり、身近な人にもよく当てはまっているから、血液型占いは正しい」という期待通りの結果を自分で生み出してしまうという現象などが「自己成就予言」に当たります。

こうしたことは多くの人が経験することではないでしょうか。

占いに関しても、「バーナム効果」というものがあり、これは、誰にでも該当するような曖昧で一般的な性格をあらわす記述を、自分だけに当てはまる正確なものだと捉えてしまう心理学の現象です。

例えば次の文章を読んで自分にあてはまるかどうか試してみてください。

・あなたは他人から好かれたい、賞賛してほしいと思っており、それにかかわらず自己を批判する傾向にあります。
・また、あなたは弱みを持っているときでも、それを普段は克服することができます。
・あなたは使われず生かしきれていない才能をかなり持っています。
・外見的には規律正しく自制的ですが、内心ではくよくよしたり不安になる傾向があります。
・正しい判断や正しい行動をしたのかどうか真剣な疑問を持つときがあります。
・あなたはある程度の変化や多様性を好み、制約や限界に直面したときには不満を抱きます。
・そのうえ、あなたは独自の考えを持っていることを誇りに思い、十分な根拠もない他人の意見を聞き入れることはありません。
・しかし、あなたは他人に自分のことをさらけ出しすぎるのも賢明でないことにも気付いています。
・あなたは外向的・社交的で愛想がよいときもありますが、その一方で内向的で用心深く遠慮がちなときもあります。
・あなたの願望にはやや非現実的な傾向のものもあります。

どうでしょうか。あなたの性格としてかなりあてはまる、と感じたのではないでしょうか。

しかし、実はこれはアメリカの心理学者のバートラム・フォアという人が、星座占いの各星座に書いてある性格分析の文章を組み合わせて作文したものです。

フォアは学生たちに分析がどれだけ自分にあてはまっているかを0(まったく異なる)から5(非常に正確)の段階でそれぞれに評価させたそうで、このときの平均点はなんと4.26だったといいます。

このことから、フォアは、次のような条件を満たす時、被験者はテストの内容により高い評価を与える傾向がある事を明らかにしました。

・被験者がその分析は自分にだけに適合すると信じている
・被験者が評価者の権威を信じている
・分析が前向きな内容ばかりである

そしてこうした被験者が占いを信じてしまう状態を「バーナム効果」と呼んだわけですが、これはそもそもこれ以前に、P・T・バーナムという「ほら話」が得意なアメリカ人の有名な興行師が “we’ve got something for everyone”(誰にでも(ほら話を信じさせるためには)要点というものがある)と語ったことにちなんだものです。

誰にでも該当するような曖昧で一般的な性格をあらわす記述を、自分だけに当てはまる正確なものだと捉えてしまう心理学の現象であり、上述のバートラム・フォアの名をとってフォアラー効果(Forer effect)とも呼ぶようです。

このほか、目の前にいる占い師さんに何かを占ってもらう場合、この占い師さんが「優れた興行師」である場合、外観を観察したり何気ない会話を交わしたりするだけであなたのことを言い当てることができる場合があります。

これを「コールド・リーディング」といい、詐欺師・占い師・霊能者(もどき)などが、相手に自分の言うことを信じさせる時に用いる話術のひとつです。相手に「わたしはあなたよりもあなたのことをよく知っている」と信じさせる話術であり、「コールド」とは「事前の準備なしで」、「リーディング」とは「相手の心を読みとる」という意味です。

どうやって相手の心を読み取るかといえば、例えばその技法とてしては、「対象者の協力を引き出す(リーディングを始める前に、読み取る相手との会話から情報を引き出す)」、対象者に質問する(相手をよく観察しながら質問し、回答から踏み込んた推測を行う)、対象者の反応をさぐる(具体性のない推測を言って、相手の反応を見る)などがあります。

こうして相手の様子をみながら、さらに情報を引き出し、さらにリーディングを行う相手に関する情報の精度を高めていきますが、占われる相手としては何もしゃべっていないつもりなのに、自分の奥深くまで全てが言い当てられてしまった気分に陥っていきます。

こうなればしめたもので、相手はリーディングを行う人に対して「将来に関する占い」、「心霊による伝言」、「未来に関する予言」、「霊力のある商品の購入の薦め」といった不確かな結論まで信じさせてしまうのです。

なにやら昨今の「オレオレ詐欺」と似たようなところもありますが、その技術自体はセールスマンによる営業、警察官などの尋問、催眠療法家によるセラピー、筆跡学や筆跡診断、恋愛などに幅広く応用できるものであり、必ずしも悪の技術とは言えません。

たとえ相手に対する事前情報が全くなくても、コールドリーダーは相手の外観に対する注意深い観察と、コールド・リーディング特有の話術によって、いくらでも相手の情報を掴むことができます。

ただし、対象者への観察力や会話の説得力、相手に与える安心感・信頼感は当然必要であり、こうした高い技術を得るには、やはり場数を踏んだ経験がモノをいいます。

一方では、探偵を使ってた素行調査をしたり、占いの待合室で助手が世間話をしたりして事前に詳細に相手のプロフィールなどを調べておいた上で、あたかも本当に占いや霊感、超能力などで相手の心を読んだと見せかけるという手法もあり、こちらは、コールド・リーディングに対して、「ホット・リーディング」と呼ばれます。

テレビなどで「超能力者」を称する登場人物が、様々な事実を言い当てる際には、こうしたホット・リーディングとコールド・リーディングの技法を組み合わせて使っていることが多いともいわれています。

もともと占いや予言といったものは、はっきりとした科学的な根拠があると認められたことはありません。にもかかわらず、それでも占いを信じる者は少なくないため、占いはしばしばビジネスとして扱われます。

多くの場合は公認されていますが、占いの提供のされ方としては、テレビ・雑誌や本の他に、占い師が直接目の前で占う対面鑑定、電話で占う電話鑑定のほか、最近では携帯やパソコンでインターネットを利用したチャット鑑定まであり、ネット業界の進展により占いコンテンツの提供も増えてきているようです。

以上は必ずしも悪いこととはいえません。しかし、中にはこれらをエスカレートさせて悪徳商法に利用する者までおり、こうなるともはや詐欺です。最近ではインターネットを使った霊感商法も現れてきているようなので、何事につけ、のめり込みは禁物です。

私自身も星占いをなんとなく信じていて、テレビや雑誌で自分の星座の運勢が出ていたりすると、やはり気になります。

信じていようが信じていまいが、どうなるかわからない未来について、こうなります、と言われれば、そうかな~そうかもしれないし、ウソかもしれないが、一応気をつけるだけ気をつけておこうか、という気になってしまうのが不思議です。が、これは誰しもがそうなのではないでしょうか。

人は、よく「運」を口にします。運とは、その人の意思や努力ではどうしようもない巡り合わせを指します。今日のブログのタイトル、“FATE”は、「運命」という意味です。

運が良いとは到底実現しそうもないことを、偶然実現させてしまうことなどを指し、運が悪いとは、例えば楽しみにしていた旅行の当日に、発病してしまうことなどを指します。

占いや、神社・寺院のおみくじは、この運を予言する力があるとされ、勝負事などで運が良いことは「付き」(つき、ツキ)、「付いている」などともいいます。

こうした運やツキを信じる人というのは、よい言い方をすれば、自分の心の落ち着かせ方を知っている人であり、こうした占いによって、確率的な危険性を適切に回避しようと考える前向きな人であり、あるものごとを上手く成就させようとする才能を持った人、と考えることもできます。

しかし、こうした視点はあくまで結果論による定義であり、運のよい人が先験的にその「運のよさ」を判別しているかといったら必ずしもそうとは限りません。

ただ、何事かをなす場合、うまくやる人とうまく出来ない人がいるのは確かであり、その理由がよく説明できないために、占いなどの表現を応用して、あの人は「運が良い」「運が悪い」などといいます。

また、客観的に見て明らかに自分の能力をして「うまくいった」と感じられる手法や手段があり、逆に「うまくいかなかった」と感じる手法・手段も存在し、これらは実力で勝ち取ったもの、あるいは実力が伴わなかったために出た結果であり、運とは感じません。

が、なんとなくうまくいった、なぜだか失敗した、などのいずれとも判然としないものは「運」で語られることが多いものです。

何が言いたいかというと、人というものは自分の人生において、科学的に説明できないもの、自分自身でも判断できないものは、何かにつけてこれを「運」として語りたがる、ということです。

これは別にいいとか悪いとかの白黒がつけられる問題ではありません。

ただ、自分が判断できない何ものかによってその事象が形づけられ、それこそが「運命」だと考えることで、自分の本当の実力を深く考えずに済む、これによってあいまいさを回避できるため、自分自身が納得できてスッキリできる、あとでくよくよ考えずに済む、といった心理的な効果があるのは確かです。

このため、やはり、運命というのはある、と肯定的な人は多いでしょう。人の人生は生まれたときから、運に支配されていると言う人もおり、生年月日、出生地、性別、血液型、容姿などは運により決定づけられると考える人も多いでしょう。

しかし客観的にみれば、やはりこうした話には曖昧さがつきまといます。真剣に考えてみれば、決定論的に人間の一生の運勢が出生時に決まっているのか、それとも生まれた時に大体の運勢は決まっていて細部で運勢が上下するのか、はたまた運勢が決定されるメカニズムの問題などなど、多数の疑問点が生じてきます。

また、運には「流れ」があるとする主張があります。つまり、運が良くなると良い傾向が続き、運が悪くなると悪い傾向が続くとする主張です。麻雀などのギャンブルで多用される考え方です。

これを錯覚の一種であるとする主張もあります。人間は錯覚によってランダムな現象からも一定の法則を見いだしてしまうことがあります。例えばカジノにおいて賭け事をするとき、これに「運気」といったものがあるかといえば、冷徹な統計学処理をしてもそんなものは見いだすことはできません。ギャンブルはあくまでランダム現象です。

もしこうした運の流れを事前に知ることができるとすれば、それは人知を超えたものであり、そうしたことができると主張する人は稀有な存在であるといえ、当然のように人々はそのような人に惹きつけられます。しかしよくよく考えてみれば、そうした人に運命を占ってもらった結果が実際に起こったとしても、これを裏付ける確証は一切無いわけです。

しかし、それでもそうした人の予知や予言を信じてしまうのは何故なのでしょうか。逆説的には、自分にはそうした能力がない、ないからこそ信じてみたい、それに自分を賭けてみたい、とどこか思う部分があるからなのでしょう。

意志の力や祈りで運を変更できるとする主張も多く、信じさえすれば救われる、と考える人も多いと思います。一見、妄信的な考え方のようにも見えますが、意志の力や祈りなどで運を変更できれば良いとする気持ちは多くの人間が持っている感情であり、なかなかこれを捨て去ることはできないでしょう。

しかし、浄土真宗ではこうした占いは無益な迷信として一切否定されているそうです。また、旧約聖書でも占いは、邪悪な行いとして退けられています。こうした宗教の信仰者の中には、占いをニューエイジ思想や心霊主義とともに非難の対象にしていることも少なくないようです。

占いや予言を信じるのをやめ、こうした宗教を信じるほうが確かな将来がみえるのかもしれませんし、案外と占い頼りの人生よりもずっと楽になれるのかもしれません。

かといって、私自身は宗教に走るつもりはありませんし、占いを否定するものでもありません。

科学や人知によって我々が推し量れないものがあるのは確かであり、それを「運」という言葉で片付けていいかどかうかは別として、それを占いや予言という形で、我々の分かりやすい世界に「降ろしてくる」と考えれば、その形態はどんなものであっても良いと考えています。

来年の運勢を占おうとしているあなた、年末のこの時期、ここはひとつその方法が本当に自分の運を知る正しい行為かどうか、自分にふさわしいかどうかを一度検証してみてはいかがでしょうか。

TOKYO STATION


その昔、日本橋に本社のある会社に10年ほど勤めていたため、ここから各地方へ出張に行く際、最寄駅である東京駅をよく使いました。

丸の内や八重洲といった近代的なオフィス街の真っただ中にあって、その重厚感のある歴史を感じさせる煉瓦造りは、文字通り東京のシンボルであり、ここを通過するたびに、自分が生粋の東京人であるかのような錯覚を覚えさせてくれる建物でもありました。

その東京駅が、新築・落成したのは、1914年(大正3年)の今日12月18日です。

これに遡ること25年前の1889年(明治22年)には官設鉄道の新橋駅と神戸間の東海道線が全線開通していましたが、その後、この新橋駅と私鉄・日本鉄道の上野駅を結ぶ高架鉄道の建設の話が持ち上がり、1896年(明治29年)の第9回帝国議会では、この新線の途中に東京市を代表するような「中央停車場」を建設することが可決されました。

この中央停車場は皇居(宮城)の正面の原野に設定され、「東京駅」と名付けられました。

高架路線と駅の施工は大林組が担当することも決まりましたが、その後日清戦争と日露戦争が勃発したため、本格的な建設工事が始まったのは1908年(明治41年)のことであり、これから12年後の大正3年にこの高架路線は開通しました。開通・開業は東京駅の落成の二日後の12月20日のことでした。

5年後の1919年(大正8年)3月1日には、この東京駅に中央本線の乗り入れが実現し、その後も1925年(大正14年)11月1日の東北本線の乗り入れ、1929年(昭和4年)12月16日には東側の八重洲口が開設するなど、東京駅は日本の首都の中心的存在としてさらに発展していきました。

しかし、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)5月25日、アメリカ軍による東京大空襲では丸の内本屋の降車口に焼夷弾が着弾、大火災を引き起こしました。これによりレンガ造壁とコンクリート造床の構造体は残りましたが、鉄骨造の屋根は焼け落ち、内装も大半が失われてしまいます。

屋根の大半が崩れ落ち、内装もほとんどが炭化してボロボロとなり、鉄骨と煉瓦だけの醜い姿になった東京駅でしたが、同年8月に太平洋戦争が終わると、占領軍の要求もあってその直後から修復体制が整えられ、早くも年末から1947年(昭和22年)にかけて修復工事が始められ、その結果、ほぼ現在の外観になりました。

しかし、焼失の著しかった3階部分内外壁は取り除いて2階建てに変更するなどの大変更が加えられ、南北両ドームも元々は丸型だったものが台形に変更されるなど、修復された東京駅はオリジナルの景観とはかなり違ったものとなりました。

できるだけ早期に本格的な建て直しをするつもりで「4、5年もてば良い」とされた修復工事でしたが、当時の鉄道省の建築家たち、あるいは当初から東京駅の建設に関わってきた大林組の面々は、進駐軍によって工事を急がされる中においても、できるだけ日本の中央駅として恥ずかしくないデザインによる修復をしたという逸話が伝えられています。

こうした努力により、軒蛇腹・パラペット・壁面・柱型・窓枠などの細かい部分は、2階建てになっても忠実に復元され、南北ドーム内のホール天井はローマのパンテオンを模したモダンなデザインに変更されるなど、新旧を取り混ぜた新しい東京駅の復活は、焼け野原であった東京に一条の光を差し込むものでした。

3年後の1948年(昭和23年)にはモダンデザイン建築の八重洲駅舎も竣工しましたが、翌1949年(昭和24年)に失火で焼失してしまい、1954年(昭和29年)に建て替えられました。

ちなみに、1929年(昭和4年)に開設した八重洲口の前面には、この当時まだ江戸城の外堀が残っており、これを渡るための「八重洲橋」が建設され、この橋に接続してその正面入り口が開設されました。

終戦後もまだ八重洲側にはこの外堀が残されていましたが、戦災の残骸整理を行うために付近の住民が無秩序に外堀に瓦礫を捨て始めたことから、東京都で急遽瓦礫捨て場を指定してその範囲での外堀の埋立を行うことになりました。

大戦前には外堀の埋立ができれば理想的な駅舎および駅前広場を建設できるが到底許可が得られない、と関係者を嘆息させていたのですが、こうして合法的に外堀の埋立ができることになり、1947年(昭和22年)11月にはこの埋め立て工事が完成しました。

さらにこの埋め立て工事によって新たに得られた用地を八重洲駅舎や線路の増設に利用できるように鉄道側から東京都に対して申し入れがなされた結果、ここに今のような大丸などのデパートができるとともに、この用地は後に新幹線にも役立てられることになりました。

1964年(昭和39年)10月1日には、この東海道新幹線が開業し、1972年(昭和47年)7月15日には総武地下ホーム、1990年(平成2年)3月10日には京葉地下ホームがそれぞれ営業を開始、1991年(平成3年)6月20日には東北新幹線が当駅に乗り入れるなど、東京駅はさらにその機能を拡大していきました。

しかし、東京駅は一歩屋根裏などに足を踏み入れるとアメリカ軍の焼夷弾などに焼かれた鉄骨や壁材がそのまま残っており、これと新しい部材をつなぎ合わせてようやく形を保っているような箇所も多く、外観こそ昔の面影を保っていましたが、中身はボロボロでした。

このため、その後、何度も全面的な建て替え計画が持ち上がりましたが、その都度見送られ、長らく先延ばしされ続けていました。

ところが、1999年(平成11年)から2000年(平成12年)にかけて、500億円ほどもかかるとされていた復原工事の費用を丸の内地区の高層ビルへの容積率の移転という形で捻出することができる運びとなり、この結果、ようやく創建当初の形態に復原する方針がまとめられようになりました。

これはどういうことかというと、もともと東京駅のある土地には東京駅の高さである2階建て以上の高層建築物を建てることができます。つまりその分の容積率が余っている、という状況です。この容積率をそのまま目の前の丸の内地区を保有している三菱地所に譲渡してしまえば、その譲渡価格として東京駅の建築費用を賄うことができます。

丸の内側ではもっとたくさんの部屋数のあるビルを建てたいけれども、建築基準法の縛りがあって建てられない、けれどこれをJRから「買い取る」という形でより大きなビルが建てられるし、JR側もこれで東京駅の改修費用がまかなうことができ、お互いハッピーハッピーというわけです。

無論、一般にはそんなことは認められませんが、こと東京の中心である一等地でのことでもあり、東京に新たな新名所を作ることは地元にとっても国にとっても利益になる、ということで特例が認められたということのようです。

三菱はこの特例を用い、東京駅の南側に新たに地上34階、塔屋3階、地下4階. 高さ, 最高軒高157m、の「丸の内パークビルディング」を建設するとともに、明治期に三菱財閥の「本丸」として建設された近代的オフィスビル「三菱一号館」を復元し、ここを美術館としてオープンさせました。

こうして、丸の内地区の高層ビル建て替え事業と並行して、東京駅の復原工事が行われることとなり、復原工事自体は、2007年(平成19年)5月30日に起工され、2012年(平成24年)10月1日に完成しました。合わせて、東京駅の南側には復元された三菱一号館も2010年に完成しており、現在の東京駅丸の内口周辺は明治時代さながらのレトロな雰囲気を醸し出しています。

ところで、この東京駅は、実は東海道線の始発駅としてではなく、本州中部の内陸側を経由する中山道を通る鉄道の始点駅として計画されていたということをご存知でしょうか。

意外に知られていない事実ですが、東京駅の場所そのものも、そもそもはこの中山道に鉄道を引くための中継地として選定されたものでした。

東京の鉄道網の始まりは、1872年10月14日(旧暦明治5年9月12日)の日本の鉄道開業に際して新橋~横浜間が開通したことに始まります。

その後東京と関西を結ぶ鉄道の建設が検討されましたが、政府は国土開発の観点から、既に開けている東海道よりも内陸の発展を促進する目的で中山道がよいと考え、軍部も敵の軍艦による攻撃を受けやすい海岸沿いを避けられる内陸路線の建設に同調したことから、一旦は中山道経由の鉄道建設が決定されました。

この建設にあたり、日本政府は当初、国営を原則としていましたが、西南戦争による政府の財政悪化もあり、民間に建設を認める方向に方針転換しました。これを受けて発足した最初の私鉄が「日本鉄道」で、これがのちに国営化される日本国有鉄道(現JR)です。

こうして、日本最初の民間会社による鉄道建設区間として中山道鉄道の一部を構成する東京~高崎間の路線が建設されましたが、民間とは名ばかりで、路線の建設や運営には政府及び官設鉄道が関わっており、建設路線の決定も国策的要素が優先されたり、国有地無償貸与、建設国営など実質上は「半官半民」の会社でした

この鉄道建設に際しては、官設鉄道との連絡から品川を起点とすることも有力視されていましたが、距離がやや長くなり東京西部の丘陵地帯を通過する工事に時間がかかると見込まれたこともあり、とりあえず上野駅を起点とする方針となって、日本鉄道により1883年(明治16年)7月28日に上野~熊谷間が開通しました。

しかしその後、中山道経由の鉄道の建設の困難さが明らかになりました。中山道は、「木曾街道」や「木曽路」の異称を持つほど、山深い場所を通る街道であり、ここを鉄道を通すためには、数多くのトンネルの建設が必要なだけでなく、多くの渓谷を横断するための多数の橋梁も必要であり、それらの建設費用は莫大になることが予想されたのです。

このため、1886年(明治19年)に政府は方針を転換し、官営路線として東海道経由で東西連絡鉄道を建設することを決めました。

これを受け、当初は中山道経由の東西連絡鉄道に対する支線の位置づけであった新橋~横浜間の鉄道から延長する工事が始められ、1889年(明治22年)7月1日に現在の東海道本線である新橋~神戸間の国有鉄道が全通しました。

一方の日本鉄道は同じ1889年の9月1日に青森までの東北本線を全通させ、さらに1898年(明治31年)8月23日には常磐線も全通しました。また上野と秋葉原を結ぶ貨物線も1890年(明治23年)11月1日に開通しました。

このころまでには、「東京市」と呼ばれていた東京には人だけでなく、かなりのモノが集中するようになっており、道路交通網も発達し、道路だけでなく運河が縦横無尽に走るようになり、また上下水道、港などの都市施設も新設されてきたため、これらの計画についてまとめて議論して、各省庁・機関・地元との調整を行おうとする動きが出てきました。

これを「市区改正」と呼びます。現在の都市計画に相当する言葉で、東京においては第8代東京府知事の芳川顕正が、日本全体のことを考えた道路や鉄道網を構想し、1884年(明治17年)に内務省に対して市区改正意見書を提出しました。

この意見書には、「鉄道ハ新橋上野両停車場ノ線路ヲ接続セシメ、鍛冶橋内及万世橋ノ北ニ停車場ヲ設置スヘキモノトス」と書かれており、ここで東京駅の大まかな場所が初めて示されました。

この鍛冶橋に設置を提案された停車場が後の東京駅につながることになっていきます。また新橋と上野の間には繁華街が広がっていたため、ここに鉄道を通すためには「高架鉄道」が提案され、鍛冶橋付近に中央停車場を設置し旅客用の高架ホームを設けること、地平には貨物取扱設備を設けることなどの原案が固まりました。

こうして中央停車場が計画されたのが、皇居の前にあたる丸の内であり、当時の町名では「永楽町」と呼ばれていました。江戸時代には武家屋敷の建ち並んでいた一帯で、明治維新後には陸軍の兵営や練兵場、警視庁や裁判所などの政府関連施設が並んでいた場所です。

この当時ここは、皇居前とはいえ、繁華街にもほど近く、しかも監獄も置かれているなど、東京の場末と言ってもよい場所でした。しかし、西南戦争後、国内は安定してきており、明治政府が皇居の目前で警備を行う必要性も薄れてきたことから、兵営を郊外に移転させてこれらの土地の再開発が検討されることになり、丸の内の広大な敷地が三菱財閥に払い下げられて欧米様式のオフィス街の建設が開始されました。

こうして丸の内界隈は、明治末までに煉瓦造りのオフィスビルができあがって「一丁倫敦」と呼ばれました。その部分だけロンドンのようであるという意味です。しかしこの一帯以外の場所は依然として未開発で、岩崎弥太郎の弟、岩崎崎弥之助が購入した荒涼たるこの野原は「三菱ヶ原」と呼ばれていました。

しかし、この原野に中央停車場が建設されることになり、丸の内はこれにより初めて日本のビジネスセンターとしての道を歩み始めることになるのです。

1896年(明治29年)4月には高架線や中央停車場の工事を担当する部署として新永間建築事務所が発足しました。後のJR東日本東京工事事務所の前身組織です。また、高架線建設の技術指導を求めて、ドイツから建築技師の「フランツ・バルツァー」が新たに招聘され、1898年(明治31年)に着任しました。

新橋から上野を結ぶ間にある中央停車場までの市街地における長い区間の高架線という日本で前例のないプロジェクトの推進を、このころまだ技術水準の低かった日本人だけで遂行するのは容易ではなく、外国人技術者の支援を仰ぐことが必要だったのです。

バルツァーは日本人技術者を指導しながら高架線の設計を行い、彼の帰国後もこの指導を受けた日本人技術者が独自に設計した部分を含めると1904年(明治37年)までの8年もかかって設計が行われました。

バルツァーはさらに、東京全体の鉄道網を構想しました。これ以前にすでに東京を一周する環状鉄道の提案は出ていましたが、バルツァーはこれに加えて東へ延びる総武鉄道と西へ延びる甲武鉄道を連結して秋葉原で南北の縦貫線と十字に交差させ、この双方ともを中央停車場へ乗り入れるための短絡線を造るという全体構想を描きました。

東京に住んでいる人は、都内の路線図のうち、神田、秋葉原、お茶の水、東京の一角がかなりごちゃごちゃしており、どこでどの路線に乗りかえればどこにいけるのか、一度や二度は悩んだことがあると思いますが、これは、このバルツァーの仕業です。

結局彼のこの構想は、その後も長い間完成せず、1972年(昭和47年)の総武快速線東京駅乗り入れにより、細部は異なるものの結果的にほぼ実現しています。

一方でこのバルツァーは、中央停車場、つまり東京駅そのものの設計にも関与しましたが、このことも実はあまり知られていません。

この当時、駅部分の線路は盛土の上にあり、駅舎はその西側に設けられる計画となっており、日本建築に関心のあったバルツァーが提案した駅舎は、この盛土の斜面に部分的に切石を用い、煉瓦造としたもので、どちらかといえば昔風のお城のような雰囲気の和風の設計でした。

入母屋破風や唐破風を取り入れた屋根を載せるという構造で、バルツァー自身は、日本の文化を一顧だにせず洋風の建築様式の建物が無秩序に建てられていく東京の現状を兼ねてから苦々しく思っていたようで、日本の伝統的な城郭や寺社の建築様式を駅という新しい目的に利用することで一石を投じようと考えたようです。

こうしてバルツァーは中央停車場(東京駅)の具体的な設計にとりかかりましたが、このバルツァー提案の和風の駅舎案は、後に実際に東京駅舎の設計を担当することになる「辰野金吾」からは「赤毛の島田髷」と酷評されました。

辰野は、こうした日本建築物に西洋風の石や煉瓦を組み合わせること自体が容易ではなく、こうした和様折衷の建築物は、日本を訪れた西洋婦人が物珍しさから洋服を着ながら日本風に髪を結って日本の履物を履くようなものだとし、日本文化の消化が不十分であるとして、これを全面否定しました。

一方では、バルツァーの案ではまた、皇室用入口を駅の中央に配置することを提案していました。

これに対してこの配置は利用者に不便だとし、この案を疑問視する声もが上がっていましたが、皇室を中心とした国造りを進めていた政府の息のかかった鉄道作業局の上層部からは特に反論はなく、また設計を担当する辰野金吾がこれを名案として自分の設計に取り入れたことから、この皇室専用入口を中央に設けるという案は最終的には採用されました。

これに加えてプラットホームと通路の配置や駅構内の配線計画など、平面計画はアレンジを加えつつも基本的にバルツァー提案のものが受け継がれて実際に用いられることになりました。

しかし、バルツァーの提案した日本風の駅舎案は、ヨーロッパ崇拝の時代にあった当時の日本にあっては受け入れられるものではありませんでした。このため改めて駅舎についての設計が行われることになり、バルツァーに代わって辰野金吾に設計が依頼されることになったのです。

当時の建築界の権威であった辰野は、このころ日本中の西洋風建築物の設計を手掛けており、自らを権威と認め、日本銀行本店、中央停車場、国会議事堂の3つを手掛けることを目標としていたこともあり、その取り巻きの間でもまた辰野に依頼するのは当然とみなされる風潮があったようです。

辰野金吾は、1854年(嘉永7年)肥前国(現在の佐賀県)唐津藩の下級役人・姫松蔵右衛門の子として生まれました。姫松家は足軽よりも低い家格であったといい、金吾は次男であったため、14歳で養子に出され、叔父の辰野宗安の辰野家を継ぎました。

19歳のとき(明治6年)工部省工学寮(のち工部大学校、現在の東大工学部)に第一回生として入学。二年終了後に、工学寮で専門だった造船から造家(建築)に鞍替えし、ちょうどこのころ、来日して造家学教師に着任していたロンドン出身のジョサイア・コンドルの指導を受けるようになりました。

25歳のとき(明治12年)造家学科を首席で卒業。翌年英国留学に出発、コンドルの師であるバージェスの事務所やロンドン大学で学び、3年後に日本に帰国しています。

1884年(明治17年)、30歳のとき、コンドルと入れ替わるように、工部大学校(現・東京大学工学部建築学科)教授に就任。

二年後には、帝国大学工科大学教授に任ぜられ、同時に造家学会(のちの日本建築学会)を設立し、33歳のとき、工手学校(現工学院大学)の設立にも参加しています。1898年(明治31年)帝国大学工科大学学長となりますが、48歳で辞職。

その後、友人たちと各種建築事務所を設立して民間への建築技術の伝道に注力するようになり、1903年(明治36年)葛西萬司と辰野葛西事務所を東京に開設、1905年(明治38年)片岡安と辰野片岡事務所を大阪に開設しています。

1910年(明治43年)国会議事堂(議院建築)の建設をめぐり、建築設計競技(コンペ)の開催を主張しましたがすぐには容れられず、その後辰野が没する前年の1918年(大正7年)になって新議事堂の意匠が一般公募されました。

この結果、1919年(大正8年)、応募作品118通中、一次選考・二次選考を通過した4図案の中から、宮内省技手の渡辺福三案が1等に選ばれ、この当選案を参考に大蔵省臨時議院建築局が国会議事堂の設計を行いました。しかし、結局このデザインも最終的には大幅に変更されたそうです。

ちなみに、この渡辺福三による議事堂図案というのをWEBで検索してみてみましたが、私は現在のようなゴツゴツした印象の国会議事堂よりも、こちらのほうが数倍デザイン的には優れていると思いました。いつの世も、役人というのは自分の都合ばかりで芸術作品をまったく異質のつまらないものにしてしまうものです。

その後、辰野金吾は、63歳になった晩年の1917年(明治6年)にも日本基督教団の著名な教会で、三浦友和と山口百恵が結婚式を挙げた教会として有名な霊南坂教会旧会堂の建設などにも携わり、国会議事堂の設計競技で審査員も務めましたが、1919年(大正8年)当時大流行したスペインかぜに罹患し死去しました。満64歳。

この若き日の辰野を指導したのが先述のジョサイア・コンドルですが、イギリスのロンドン出身の建築家であり、バルツァーと同じくお雇い外国人として来日し、政府関連の建物の設計を初めとして数多くの西洋建築物の設計を手がけました。

また工部大学校の教授として辰野ら創成期の日本人建築家を育成し、明治以後の日本建築界の基礎を築いた人物としても有名です。辰野と同じく、のちには民間で建築設計事務所を開設し、財界関係者らの邸宅をも数多く設計しました。

「コンドル」はオランダ風の読み方で、実際には「コンダー」の方が英語に近いようです。著書「造家必携」には「ジョサイヤ・コンドル」とあり、このため政府公文書では「コンダー」「コンドル」が混在していますが、当時は一般に「コンドル先生」で通っていたようです。

鹿鳴館を設計した人としても知られており、これは明治16年(1883)に日比谷に完成しました。

赤い絨毯、きらめくシャンデリアや西洋音楽、華やかな衣装をまとった紳士淑女が社交ダンスを踊った鹿鳴館は、ルネッサンス風の2階建てで、インドなど英国の植民地に多いバルコニー付きの建物で、良く手入れされた庭とセットになっていました。

ここでは夜な夜な盛大なパーティーが繰り広げられ、「鹿鳴館時代」という言葉を生むほど一世を風靡しました。

長州閥の雄であった井上馨や伊藤博文などの肝いりで建設された建物で、それまで諸外国と結ばれていた不平等条約を改正するために外国人をもてなそうと建設された「迎賓館」でもありましたが、やがて井上馨が失脚すると、鹿鳴館は一気にその役割を失い、わずか3年余で閉館の憂き目を見ました。

明治23年には宮内省に移管され、その後皇族が社交場として使用する「華族会館」となりましたが、やがて保険会社に売却され、昭和15年に解体されました。

この鹿鳴館を設計したコンドルは、1852年にロンドンのケンジントン区で生まれました。父は銀行員でしたが、若くして急逝したため、商業学校に通うようになりますが、やがて建築家を志すようになり、父の従兄でロンドン大学教授の建築事務所で働きながら、サウスケンシントン美術学校とロンドン大学の建築科を卒業しました。

21歳でロンドンの建築事務所に入所し、念願の建築家としての道を歩み始めましたが、その僅か二年後には「カントリーハウスの設計」で一流建築家への登竜門であるソーン賞を受賞。これを耳にした日本政府の外交官に見いだされ、日本政府と5年間の技術指導の契約を結びます。

こうして、1877年(明治10年)24歳で来日したコンドルは、そのころ発足したばかりの工部大学校・造家学教師として就任するとともに工部省営繕局顧問を兼任して日本の建築界に息を吹き込み始めました。

教鞭をとるかたわら数多くの洋館の設計に着手しており、こうした彼に接することのできた学生たちは、教室での勉強だけでなく実際の西洋建築の設計・施工に携わることが出来ることとなり、その後の日本の建築界の形成に大きな影響を及ぼしました。

また、コンドルはただ単に西洋建築を設計するのではなく、その土地の文化も採り入れた洋館の設計に努め、アラベスクなど東洋的なイメージも積極的に採り入れていれており、先の東京駅における和風の建築設計も、日本人が西洋一点ばりで見失おうとしていた本来の文化を見直させたいという一心からでした。

明治16年に教え子の辰野金吾が4年間の英国留学から帰ると、コンドルは工部大学校教授の座を譲り工部省に移りました。21年に退官して設計事務所を開設、三菱財閥の岩崎家の邸宅のほか、数多くの「明治の洋館」を設計しました。三菱の顧問にもなり、丸の内ニュータウンの建設も手掛け、その系譜は現在にまで至っています。

先の三菱一号館も、三菱の丸の内最初の洋風貸事務所建築としての「第1号館」として彼が手がけたものであり、イギリスの「クイーンアン(en)洋式」の外観を持つ煉瓦造の建築物として設計されました。

しかしコンドルの真価が発揮されたのはやはり工部大学校での教育・人材育成といわれています。

東京駅以外にも日本銀行本館などを設計した辰野金吾を初めとし、のちに赤坂の迎賓館を設計した片山東熊、慶応義塾大学図書館や長崎造船所の迎賓館「占勝閣」を手掛けた曾禰達蔵など、そうそうたる建築家群を育て上げ、日本の近代化に大きく貢献しました。

コンドル自身の作品としては、上述の鹿鳴館や三菱一号館以外にも上野博物館、ニコライ堂、横浜山手教会、三井家倶楽部、島津忠重邸(現清泉女子大学)、古河虎之助邸(現古河庭園)などなど、現在も我々が良く知る建築物が多数残っています。

しかし、関東大震災で焼失したものも多く、それらの中には、顧問を勤めた岩崎家ないしは三菱関係のものが多いようです。

コンドルの手がけた三菱の仕事は、とくに邸宅に名作が多く、岩崎家の深川別邸のほか、岩崎久彌邸、岩崎彌之助高輪別邸、同箱根湯本別邸、それに岩崎家霊廟など、現在残っているものだけでも枚挙にいとまがありません。

とくに、岩崎久彌邸は岩崎家の茅町本邸とも言われ、久彌が留学していた米国の東海岸すなわち「風と共に去りぬ」の舞台のイメージを盛り込んで木造に設計し直したものです。関東大震災にも東京空襲にも無事だった運の強い洋館であり、戦後は国の所有となり、現在は東京都の「旧岩崎邸庭園」として公開され、親しまれています。

工部大学校の建築の教官として明治10年に来日したコンドルは、日本での生活が長くなるにつれ日本文化に深く傾倒していきました。

1881年(明治14年)には、大学校教官、工部省顧問を務めながら、浮世絵画家の「河鍋暁斎」に入門し、毎週土曜日を稽古日と定め、熱心に暁斎の指導を受けました。のちに師匠にも認められる腕前となり、弟子入り後二年後には「暁英(きょうえい)」の雅号を名のることを許され、多くの作品を残しています。

1884年(明治17年)には、絵画共進会というコンテストで、「大兄皇子会鎌足図」、「雨中鷺」を出品、見事に入選しているほどです。これはちょうど、辰野金吾が帰国し、彼に工部大学校教授の職を譲ったころのことです。

日本文化の紹介本も多く、暁斎の没後イギリスで出版された“Paintings & Studies by Kawanabe Kyosai”は、暁斎を西洋人の間で広重・北斎並みの有名人にしたといいます。

このコンドルの師の河鍋暁斎は静岡ゆかりの人でもあります。父が幕臣であったため彼自身も江戸育ちでしたが、明治維新によって幕府が瓦解したため、1868年(明治元年)に、徳川家の転封とともに一時的にではありますが静岡へ移ってきています。

河鍋暁斎は、「ぎょうさい」とは読まず、本人も「狂斎」の号を使っていたことから、「きょうさい」と読みます。天保2年(1831年)生まれで、明治22年(1889年)に58歳で没しましたが、幕末から明治にかけて活躍し、最後の浮世絵師ともいわれた人です。

明治初期に投獄されたこともあるほどの反骨精神の持ち主で、多くの戯画や風刺画を残しており、狩野派の流れを受けていますが、他の流派・画法も貪欲に取り入れ自らを「画鬼」とも号していました。

その筆力・写生力は群を抜いており、海外でも高く評価されており、遺作も多いことからテレ東の「なんでも鑑定団」などでも本物、偽物を問わずよく出てきます。

天保2年(1831年)、下総国古河(茨城県古河市)の生まれで、父は河鍋記右衛門といい、古河藩士で武士の出でしたが、江戸へ出て幕臣の火消同心の株を買って本郷お茶の水に住み、甲斐姓を名乗りました。このとき暁斎も江戸に出てきており、幼名は周三郎といいました。

二歳のとき、母につれられて親戚の家へ赴いたおり、初めて蛙の写生をしたといわれており、6歳のときには早くも浮世絵師歌川国芳に入門、8歳のとき、梅雨による出水時に神田川で拾った生首を精密に写し、周囲を吃驚させたといいます。

その後、複数の狩野派の絵師に師事してさらに腕を磨き、11歳で秋元藩の絵師坪山洞山の養子になって、坪山洞郁と称していましたが、21歳のころ、女遊びなどの遊興がたたって坪山家を離縁され、その後暫くは苦難の時代が続きました。

が、安政2年(1855年)に起こった江戸大地震の時に描いた鯰絵「お老なまず」が一躍有名になり、その後は、26歳で江戸琳派の絵師鈴木其一の次女お清と結婚、絵師として独立するとともに父の希望で河鍋姓を継ぐようになります。

安政5年(1858年)ごろから、狩野派を離れて「周麿」を称して本格的に浮世絵を描くようになり、さらに北斎の画風を学んで腕を磨きあげ、数多くの浮世絵を世に残しました。

明治18年(1885年)には44歳で仏門に入り、湯島の霊雲寺の法弟になって是空入道、如空居士と号しました。この後「狂斎画譜」「狂斎漫画」などを出版、漢画、狂画、浮世絵それぞれに腕を振るい、このころその号を「狂斎」と変更しました。

静岡へ移ってきたのは37歳のころで、この地でも戯画・風刺画で人気を博しましたが、仏門に入ったにも関わらず酒癖が悪くなり、自らを酒乱斎雷酔、酔雷坊と呼ぶほどでした。

明治3年ころには再び東京に戻ったようで、あるとき上野不忍池における書画会において新政府の役人を批判する戯画を描きましたが、政治批判をしたとして逮捕投獄されてしまいます。

「暁斎」の号を称すようになったのは、翌年の出獄後からのことであり、この「狂斎」から「暁斎」への改号は、改心というよりは愚かな挑発で二度と痛い目を見たくないという自分への警告の意図であったといわれています。

その後は改心したかのように書画に励むようになり、明治4年(1872年)には仮名垣魯文の「安愚楽鍋」「西洋道中膝栗毛」などの挿絵を描き、翌明治5年にはウィーン万国博覧会に大幟「神功皇后武内宿禰図」を送り、この絵は日本庭園入口に立てられる栄誉を得ました。

明治13年(1880年)には、新富座のために幅17m高さ4mの「妖怪引幕」をたった4時間で描いたことで有名となり、翌年の明治14年に第2回内国勧業博覧会に出品した「枯木寒鴉図」が「妙技二等」を受賞。暁斎はこの作品に100円という破格の値段をつけ、周囲から非難されると「これは烏の値段ではなく長年の苦学の価である」と答えたといいます。

明治17年(1884年)狩野洞春秀信が死去の際、狩野派の画法遵守を依頼されたため、改めて狩野永悳に入門し、狩野派最後の絵師を継承。さらに岡倉天心、フェノロサに東京美術学校の教授を依頼されましたが、果たせずに明治22年(1889年)、胃癌のため逝去。享年58でした。

墓所は谷中にある瑞輪寺で、その墓石は遺言により暁斎が好んだ蛙の形をしているそうです。

話が飛びましたが、話の飛びついでに、この暁斎に師事したコンドルは、同じお雇い外国人である、エルヴィン・フォン・ベルツとも親しかったようです。日本の近代医学の基礎作りに貢献したドイツ人医師で、明治35年には皇室侍医となり、天皇の保養地である沼津御用邸の建設にも関わり、沼津御用邸にもしばしば訪れていました。

ベルツは、来日後、長きに渡って日本人に医学を教え、医学界の発展に尽くし、その通算滞日年数は29年にも及びました。我が国に保養地(リゾート)の考え方を導入した人としても知られ、温泉療法や海水浴の有効性を主張していました。

草津温泉を発見し、このほかに箱根でも温泉開発の提案をしており、沼津だけでなく葉山などの御用邸の地の選定にも関わりを持ちました。

この沼津御用邸のことは、以前にも「御用邸」としてこのブログで取り上げましたので、興味のある方はご参照ください。

さて、コンドルの話に戻りますが、浮世絵画家、河鍋暁斎に入門したきっかけは、辰野金吾に工部大学校教授の職を譲り、自由に時間がとれるようになったためと思われます。

しかし、1886年(明治19年)には、帝国大学工科大学の講師に戻り咲いており、続いて官庁集中計画の一環で学生を引率しドイツ・イギリスへ出張するなど建築家としての活動をやめていたわけではありません。

さらにこの講師は、2年で辞任して自分の建築事務所を開設。このとき既に日本に来てから16年が経過しており、おそらく日本語もペラペラになっていたことでしょう。この事務所開設を機会に、1893年(明治26年)、花柳流の舞踊家、前波くめと結婚。コンドル41歳のときであり、この当時としてもかなりの晩婚といえます。

コンドルはこのころ、日本舞踊にものめり込んでいたようで、この愛妻くめとも日本舞踊を通じて知り合ったようで、彼女は河鍋暁斎とともに日本文化を学ぶ師匠でもありました。

くめは東京本郷の湯島天神町で安政3年(1856年)に生まれたという記録があるようなので、コンドルよりは4歳年下になります。

コンドルは、実は日本に来たてのころに、新橋芸者との間に女の子をなしており、くめと結婚したのを契機に、この子を引き取り、教育を施し育て上げました。この子はその後長じてからブリュッセルに留学し、帰国の船で知り合った外国人と結婚したようです。

コンドル夫妻が亡くなった時、この子はコンドルが収集していた暁斎の絵画を海外に持ち出したといい、現在河鍋暁斎の絵画や浮世絵が海外の美術館などにまとまってあるのはこのような理由からであるといいます。

コンドルはこの結婚の翌年に先述の三菱一号館を設計しており、このあと、引き続いて三菱二号館、三菱三号館を設計、その後も岩崎久弥茅町本邸、ドイツ公使館、松方正義邸、岩崎弥之助高輪邸(現・三菱開東閣)などなど多数の建築物を残しました。

その最後の作品は、1917年(大正6年)の古河虎之助邸であり、これは、東京都北区にある都立庭園である旧古河庭園にある大谷美術館として現在も使われています。現在は国有財産であり、国の名勝にも指定されているようです。

脳溢血により亡くなったのは、その3年後の大正9年(1920年)でしたが、これに先立つわずか11日前に愛妻のくめも亡くなっています。ふたりの亡きがらは仲良く文京区音羽の護国寺に葬られています。

東大の工学部の中庭には、その三年後の大正12年に建てられたコンドルの銅像が今も残されています。その長身の銅像の存在を知る学生は多いと思いますが、果たしてどんな人だったか関心を持つ者は少ないでしょう。

さて、今日は東京駅の話題を中心として明治期を中心に活躍したドイツ人建築家とその弟子である辰野金吾、そして彼等にまつわる人々の話題をお届けしました。

いつものように長くなりましたので、そろそろやめにしますが、お楽しみいただけたなら幸いです。