セブン

2014-1120652
1月も今日で終わりです。

昨年末の母の骨折に始まり、せわしなく始まった新年でしたが、さらにその後の母のリハビリ病院への転院、別荘地内の新年会へのはじめての出席、そして先日の広島での姪の結婚式への出席と、例年になくめまぐるしい年の始まりでもありました。

いずれのイベントでも、新たな出会いがあり、これだけ年のはじめから人との交流があることも珍しく、どうやら今年はそういう巡り合いの一年になりそうな予感です。

先日、広島に行った折には、いつもカウンセリングをして頂く霊能者のSさんにもお会いし、今後のことを見立てていただいたのですが、そのとき彼女に言われたことも印象的でした。

曰く、「自分のやりたいことを実現していくためには、人に会う機会を増やしていくべきであり、少なくとも「7人」の人に会った方が良い。自分の夢を実現するためには、7人の人に会え、といわれている。出会いによって自分を成功させるために会うべき人の数は、確率論的にも平均「7人」である」、と。

伊豆へ帰ってきてからもこの言葉が気になっていて、いったい「7人」の根拠は何だろうと思ったので調べてみたのですが、Sさんが「いわれている」とおっしゃるほどの根拠らしいものはみつかりませんでした。

ただ、仏教では、人が死ぬと、初七日以降の一週間ごとに、「7人の仏様」に出会ったあと、成仏する、という考えかたがあり、この7週間がすなわち「四十九日」ということになっています。

この間出会う仏様とは、初七日忌の「不動明王様」を始めとして、以下のようになっているようです。

初七日忌・不動明王(ふどうみょうおう)
二七日(二週)・釈迦如来(しゃかにょらい)
三七日(三週)・文殊(もんじゅ)菩薩
四七日(四週)・普賢(ふげん)菩薩
五七日(五週)・地蔵(じぞう)菩薩
六七日(六週)・弥勒(みろく)菩薩
七七日(四十九日)・薬師(やくし)如来

最初の初七日忌に出会うという、不動明王は、憤怒の表情とその劫火で、人の悪い心を蹴散らし焼き尽くすと言われています。が、人が亡くなって最初に会った際に、「よろしくおねがいします」とご挨拶すれば、そのお顔が優しくなると言われているそうです。

また、二週目の釈迦如来は、言わずと知れた2600年前にインドに生まれ、仏教を創始し広めたお釈迦さまのことです。

我々と同様にこの世で苦しみ、また悲惨な状況をたくさん見て、何とか人々を救いたいと願って修行した末に、悟りを開いた方で、人を苦しめるものには、怒りや悲しみや不安など色々ありますが、その感情も究極的には「愛」の変形したものであることを教えてくれます。

三週目の文殊菩薩、これは智慧の仏様として知られ、「三人寄らば文殊の知恵」という言葉があるほど、頭脳明晰な仏様です。計算能力や豊富な知識は無論、人として大切なこと、この宇宙の法則など、とても学校では教わることのできない大切なことを教えてくれます。そして、我々が及びもつかないような高い知識、高次の意識を学ばせてくれます。

四週目、普賢菩薩 。これは、上の文殊菩薩様の弟さんにあたる仏様です。文殊の知恵に対して、行願(ぎょうがん)を与えてくれるといわれます。慈悲深い仏さまで、行願とは、つまり私たちの願いのことです。「何になりたいの?」と問いかけてくれ、この仏様に出会うと、これに答える形で願望達成能力も一段と高まります。

五週目の地蔵菩薩。これは、「お地蔵さま」の名で親しまれている仏様です。あちらにいらっしゃる仏さまの中でも、とくに子供たちの世話を担当している仏さまです。いわば保育園の園長、あるいは担任の先生のような存在です。

ここを通過する幼くして亡くなった子供や、いわゆる「水子」などを励ますとともに、大人で亡くなった人にも「教育」を授けてさらに上に登っていくことを助けてくれます。

六週目、弥勒菩薩。これは、京都・広隆寺と奈良・中宮寺に同名の菩薩像があり、これをイメージする人も多いでしょう。「未来を守る」仏さまで、将来の人類救済のためにこの世に出現されると予言されています。古い習慣を打破し、新しい可能性に導いてくれ、すべてのことは、次の瞬間には変わり、すべては変化する、ということを教えてくれます。

最後の四十九日目に登場するのが、薬師如来です。この仏様は、左手に薬の壷を持つ「お薬師さま」です。病気平癒の力を持つ如来様で、飛鳥時代から広く人々の信仰を集め、 大医王仏(だいいおうぶつ)とも呼ばれています。 奈良・薬師寺のご本尊さまとしても有名です。無論、薬の神様で、ここからあの世に旅立つ魂に薬を授けてくださいます。

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仏教では、以上の7人の仏様に出会った後、人の魂は「精霊」となり、仏の世界の一員としても認められて、あちらの世界で永住ができる、ということになっているようです。

無論、私は仏教徒ではありませんから、これを信じているわけではありませんが、Sさんがおっしゃった、これから出会うべき7人とは、まさにこうした能力を持った人かもしれない、と思いめぐらしたりしています。

悪しき心を正し、愛と智恵と慈悲、そして教育を与え、未来を指示し、最後にこの世を渡っていくために必要な「薬」を与えてくれる、そういう人達に会いなさい、というわけです。確かにそういった人達に出会うことができれば、どんなことでも成功できるに違いありません。

人の心には「仏性」がある、とよく言われますが、7人の人に出会いなさい、というのはその7人を通じて、その心の中にある7人の仏様に出会いなさい、という教えかもしれません。

このほか、7人といってまっさきに思い浮かぶのが、黒澤明監督の映画作品、「七人の侍」でしょう。東宝が1954年(昭和29年)封切り公開した時代劇で、白黒ではありますが、207分にも及ぶ超大作で、1957年の第29回アカデミー賞で美術賞(白黒部門)と、衣裳デザイン賞を受賞しています。

日本よりも海外での評価の高い作品で、アメリカの西部劇である「荒野の七人」は、実はこの黒澤監督のオリジナル作品の権利許諾を得た正式リメイク作品でもあることはかなり有名です。

このほかにもその後のアメリカでは、この映画に触発されて「地獄の7人」「黄金の七人」「宇宙の7人」などなどの諸作品が作られており、中国でも「セブンソード」といった作品があります。

日本でも望月三起也作の漫画、「ワイルド7」がこの映画に着想を得た作品として知られ、このほかにもタイトルに「7」の数字は出てこないものの、登場人物が7人といった作品多数あります。70年代に放映されたテレビ漫画の「ガンバの冒険」などがそれであり、そういえば、「男女7人夏物語」なんてトレンディドラマも流行りましたっけ。

腕利きの7人の個性的なプロフェッショナルが、弱者を守る、秘宝を盗むなどの目的のために結集して戦う、というこの映画のプロットは、こうした「7人モノ」の映画・ドラマの原点とも言われており、また本作を通じて侍の精神や武士道の考え方なども海外に影響を与えています。

「スター・ウォーズ」のジェダイの騎士は七人の侍のキャラクターを元に創作されたとこれを製作したジョージ・ルーカスは述べているそうです。

それにしても、黒澤映画ではなぜ7人ではならなかったのか、について調べてみたのですが、黒澤監督もこれについてはとくに明らかにしていないようです。

ただ、故井上ひさしさんとの対談で、どうやったらこのような絶妙なシナリオが書けるのか問われたのに対して、この脚本の根底にあるのはトルストイの「戦争と平和」である、その中からいろいろなことを学んでいる、と黒澤監督は答えたそうです。

「戦争と平和」というのは、19世紀前半のロシアを舞台に、この時代に起こったナポレオンによるロシア遠征と、これに続き起こったロシアとフランスをはじめとするヨーロッパ諸国との戦いなどの歴史的背景を精緻に描写しながら、1805年から1813年にかけての、あるロシア貴族の3つの一族の興亡を扱ったものです。

主人公とその恋人の恋と新しい時代への目覚めを中心におきつつも、その周辺に彼等にまつわる多数の登場人物を置いたいわゆる「群像小説」であり、この戦争の時代に没落していったロシア貴族から、大地の上で強く生き続けるロシアの農民の生き様までを力強く書きあげ、世界の文学史に残る名作といわれています。

その主要な登場人物は14~15人に及び、到底7人というキャラクターには絞り込めないと思われるのですが、黒澤監督はその非凡な才能を生かし、不要なものを切り取るとともに重要なテーマを生かし、より分かりやすい時代劇へと変貌させていったのでしょう。

「戦争と平和」は、その表題に由来して不条理に思える戦争と紛争、そこに巻き込まれた人々の問題を考えるときに、この「戦争と平和」という表現がしばしば引用されてきましたが、7人の侍もまた、戦国時代を背景に生きぬく侍や百姓などの人物像を見事に表現しきり、以後の日本映画に影響を大きな影響を与え、最高傑作といわれるまでになりました。

こうしたことも考え合わせると、あらためて7人という数字は、人の生きざまを表わすには適度な数字だと思えてきます。先の仏教の例もしかりであり、ラッキー7ともいわれるほど、7という数字は縁起が良い数字とされており、7人に会え、とおっしゃったSさんの御教示は、なるほど正しいのかも、と一層思えてきました。

ところで、7といえば、ひところに「7つの習慣」というビジネス書が出版されて、ヒットしました。原題は、“The 7 Habits of Highly Effective People”であり、著者は、スティーブン・R・コヴィーというアメリカの経営コンサルタントです。

ハーバード・ビジネス・スクールでMBA取得後、ブリガムヤング大学にて博士号取得。 ブリガムヤング大学で教鞭をとり、経営管理と組織行動学の教授を務めたあと、コンサルタントとして世間一般人も指導するようになりましたが、イギリスの「エコノミスト」誌によれば、今、世界で最も大きな影響力を持つ経営コンサルタントと評されているそうです。

「7つの習慣」の原著の初版は1989年ですが、日本では1996年に翻訳版が出版されました。累計130万部を売り上げベストセラーとなり、また日本語を含む44ヶ国語に翻訳され、全世界では2000万部の大大ベストセラーとなっています。

フランスの有名経済紙、「フォーブス」が2002年に「もっとも影響を与えたマネジメント部門の書籍」のトップ10に選んでおり、日本のビジネス誌「プレジデント」でも2008年に「どの本&著者が一番役立つか」という特集をしたときに1位に選んでいます。

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実は私はまだこれを読んでいないのですが、このブログを書いている部屋の書棚には、ちゃんと一冊あり、「そのうち読もう本」の一つになっています。

読んでもいないのに、ここで紹介するのもなんですが、今日のテーマである「7」にちなんで、ついでに紹介しておくこととしましょう。コヴィー博士の提唱する7つの習慣とは以下です。

第一の習慣・主体性を発揮する (Habit 1 Be Proactive)
第二の習慣・目的を持って始める (Habit 2 Begin with the End in Mind)
第三の習慣・重要事項を優先する (Habit 3 Put First Things First)
第四の習慣・Win-Winを考える (Habit 4 Think Win/Win)
第五の習慣・理解してから理解される (Habit 5 Seek First to Understand, Then to Be Understood)
第六の習慣・相乗効果を発揮する (Habit 6 Synergize)
第七の習慣・刃を研ぐ (Habit 7 Sharpen the Saw)

この7つの習慣をひとつひとつ説明している暇はないのですが、ふと気が付くと、さきほど紹介した仏教で説いている、死後に出会うという7人の仏様のキャラクターと、この7つの習慣が類似しているような気がしてきました。

第一の習慣である、「主体性を発揮する」というのは、自分の身に起こることに対して自分がどういう態度を示し行動するか、自らで決める、ということであり、問題解決において強い意志を持って、心の中の悪心を蹴散らしながら進む、とういことで不動明王に通じるものがあります。

また、第二の習慣、「目的をもって始める」は、人生の最後のイメージ、光景、パラダイムを持って今日を始めることであり、これはお釈迦様が率先して我々に教えてくれたことにほかなりません。

第三の習慣、「重要事項を優先する」、これもまた文殊菩薩が与えてくれる計算能力や豊富な知識を持てば、目標を具現化でき、自由意志を発揮し、毎日の瞬間瞬間において目標を実行することができるようになるわけです。

第四の習慣である「Win-Winを考える」もまたしかり。Win-Winの原則を支える5つの柱「人格」「関係」「合意」「システム」「プロセス」は、何になりたいの?と語りかけてくれる普賢菩薩が与えてくれる行願の智恵にほかなりません。

第五の習慣、「理解してから理解される」とは、相手を理解するように努め、その後で、自分を理解してもらうようにすることです。これは人と人との触れ合う場、言い換えれば教育の場などで与えられるべき智恵です。教育を司るお地蔵さんと相通じるものがあります。

第六の習慣、「相乗効果を発揮する」。相乗効果とは、全体の合計が各部分の和よりも大きくなるということです。

自分と他人との意見に相違が生じた時に、自分の意見を通すのでなく、他人の意見に折れるのでもなく、第三案を探し出す、ということです。これは古い習慣を打破し、新しい可能性を導きだす、ということでもあり、その方法を教えてくれる弥勒菩薩にも通じます。

最後の、第七の習慣、「刃を研ぐ 」。これは武装する、という意味ではなく、人の持つ4つの資源である、肉体、精神、知性、社会・情緒を維持、再新再生するという習慣です。具体的な例としては、運動(肉体)、価値観に対する決意(精神)、読書(知性)、公的成功(社会・情緒)などがあげられます。

これだけは、病気平癒の力を持つという薬師如来とはつながらないようにも思えますが、よくよく考えてみれば、薬というものは、肉体や精神、知性、情緒といたものを平癒するためのものです。ここでもやはり仏の教えと相通じるものがあるといえるのではないでしょうか。

以上は私の勝手な解釈にすぎず、多少無理があると思われる向きもあるかもしれません。が、改めて自分で書いたものをみる、私としては意外とすんなり受け入れられるものがあります。

もしかしたら、コヴィー博士もまた、仏教の教えからこの七つの習慣を導いたのでは、などと考えてしまいますが、それはさすがに勘ぐりすぎでしょう。

が、西も東も問わず、7という数字とそれにまつわる事象には、なにやら不思議なパワーが秘められている、と感じるのは私だけではないでしょう。

そういえば、キリスト教には「7つの大罪」というのもあります。傲慢、嫉妬、憤怒、怠惰、強欲、暴食、色欲がそれですが、これをテーマとしたサスペンス映画で「セブン」というのもありました。

サスペンスというよりも猟奇殺人事件を扱ったホラーに近い内容ですが、これを製作したデヴィッド・フィンチャー監督もまた、その後世界中でもっとも有名な監督のひとりとなりました。が、この映画の内容は、七人の侍とは何の関係もありません。

さすがにこの七つの大罪と七人の仏様を結びつけるのは無理があるでしょうから、やめておきますが、案外とその解釈において仏様が消し去ってくださる罪として理解できるものなのかもしれません。

今度時間があったら、またその紐解きもやってみようかなと思いますが、今日のところは少々多忙なのでやめておきます。もしみなさんのほうで、時間がおありでしたら、ぜひやってみてください。

ちなみに、この7つの大罪に関連するのは、仏様ではなく、7人の悪魔です。かつてのブログ、「メランコリー」にも関連記事あるので、参照してみてください。

さて、2月になります。みなさんも7つの習慣を実行する準備はできましたでしょうか。

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ひろでん

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先週末からの2泊3日の広島旅行は、充実したものでした。

無論、姪の結婚式がメインイベントではあったのですが、行き帰りの久々の飛行機による移動は刺激に満ちたものであり、懐かしい面々との再会、お好み焼きや鮮魚といった広島ならではの食べ物もたらふく食べ、このほかにも久しく訪れていなかった市内各所をぶらつく時間もあって大満足でした。

結婚式当日の日曜日の朝にも、早起きして宿泊していたホテルから2kmほど離れた平和記念公園に出かけました。元安川のほとり沿いで、朝日を浴びて陰影のコントラストでたたずむ原爆ドームはこれまであまりみたことがなく新鮮な姿でした。

今回の旅行ではまた、何度か市内電車にも乗りました。

ご存知の方も多いとは思いますが、広島市内には路面電車がいまだに走っており、しかもその数、種類ともハンパではなく、「動く電車の博物館」と呼ばれています。

この路面電車を運営しているのが、地元の人からは通称「ひろでん(広電)」と呼ばれて親しまれている「広島電鉄」です。日本最大の路面電車事業者であり、中四国地方最大のバス事業者でもあって、電車事業・バス事業・不動産事業の三本が主要事業となっています。

設立当初は、「広島電気軌道株式会社」という名前でした。建設大手の大林組の傘下企業として発足し、同じく大林組が作った「広島瓦斯」はもともとその親会社でした。

この2社は「広島“瓦斯”電軌株式会社」として1つの会社だった時期もありますが、現在では全くの別会社であり、広島瓦斯も「広島ガス」となっています。広島では知る人ぞ知る大会社であり、いずれもが広島を代表する有名企業です。

「広島電気軌道株式会社」としての現在の広島電鉄は、1942年(昭和17年)4月10日に、この広島瓦斯から運輸事業を分離する、という形で設立されています。それ以前にこの広島瓦斯の一事業部門であった時代を含めると、その創立は1910年(明治43年)6月18日にまで遡ることになります。おそらくは広島でも最も古い企業のひとつといえるでしょう。

本社の所在地は中区の千田町というところで、市内の一番賑やかな繁華街ではありませんが、毛利輝元による広島城の築城以降に発達した城下町の中心部であり、広島のみならず、中国地方における中心業務地区 として機能してきた一角です。

1945年(昭和20年)の広島への原子爆弾投下からほんの一時期だけ、市西部の楽々園という場所に移転されていたこともありますが、現在は元に戻っています。

現在のように不動産事業も含めた多角経営を行っている広電の鉄道・軌道事業は、「電車事業本部」というところが担当しています。

さらにその下に電車企画部・電車営業部・電車技術部などがあり、軌道線6路線19.0kmと、鉄道線1路線16.1km、総延長35.1kmの路線を持ち、年間輸送人員は約5500万人で、軌道線と鉄道線を合わせた輸送人員と路線延長は、路面電車としては日本一です。

ちなみに、軌道線というのは、市内を縦横に走る広電のメインの路面電車線のことであり、鉄道線というのは広島市内から、市西部に位置する世界遺産の宮島方面へと向かう路線です。広島にはこの宮島の対岸に佐伯区という巨大なベッドタウンがあり、広島の人口1180万人のおよそ10%にあたる、約13万人がここに暮らしています。

この佐伯区に向かう宮島線は年間の乗客運搬数1719万人と軌道線である市内線での運搬数3780万人に比べてやや少なめですが、これでも地方の一私企業が運営する鉄道が運ぶ員数としてはかなり大きい方でしょう。

市内線と総称される軌道線のほぼ全線は、併用軌道でもあります。併用軌道とは、道路上に敷設された軌道のことで、「軌道」といえどもでは道路上でもあるため、その運行は軌道運転規則だけでなく道路交通法にも準拠して行われています。

広島へ出かけてここでレンタカーを借りたり、あるいは広島へ直接自家用車で乗り入れたことがある人はおわかりでしょうが、市内中心部を縦横に走るこの軌道線上の路面電車の数には本当に驚かされます。

また、どうやってこの路面電車を避けるべきなのか、その前を横切っていいものかどうかドギマギしながら運転をした、という経験をしたことのある人も多いでしょう。私も大学卒業後に免許を取って初めて自分の車で市内を走ったときは、ビビりまくった記憶があります。

この併用軌道上を走る路面電車が、通常の鉄道と違う点は、列車の長さは30m以下に制限されていること、最高速度は40km/h以下に制限されていることなどであり、また進行信号は黄色の矢印、停止信号は赤色×印などが別途用意されていて独特です。

しかし、基本的には道路交通法に従って走ることになっており、自動車用の信号機にも従わなければなりませんから、そうした前知識を持っていさえすれば、それほど恐れる必要もないでしょう。

この路面電車の運賃は、市内線が大人150円・小児80円の均一性ですが、上述の宮島線は区間制であり、運賃系統は別です。

乗車方法は「運賃後払い」方式で、降車時に現金や乗車カード等で運賃箱へ直接支払います。最近は、「PASPY」というICカードも導入されているそうですが、「レトロ電車」としてイベント用に運行されている古い車両にはICカードリーダーは配備されていないとのことで、注意が必要です。

各路線間で直通運転が行われており、合計1番から9番までの8つの運行系統があります。ちなみに、縁起が悪いということなのか、4号線は設定されていません。

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この市内を走る軌道線は、そもそも住民の増加による、広島城のお堀の汚水による伝染病問題を解決するために造られることになったという経緯があります。

日清戦争および日露戦争以降、広島市は爆発的に人口増加していき、その中で広島城の堀の悪臭が目立つようになり、そこで城下町時代の運河として使われていた西塔川や平田屋川といった河川とともに外堀も埋め立てられることになったのです。

この埋め立てを契機に4件の軌道建設申請が出され、審査の結果、大阪系資本の会社と東京系資本の会社の二社が残りましたが、最終的には大林芳五郎・片岡直輝らにより設立された大阪系資本の「広島電気軌道」が1910年(明治43年)に認可されました。

同年6月に資本金300万円で会社組織が立ち上げられましたが、上述のとおり、実際には発足当時には広島瓦斯の一部門としてスタートしています。

明治44年にはそのお堀の埋立も完了し、1912年(大正元年)11月に、現在の宇品線の一部となる広島駅前から紙屋町を経由して御幸橋に至る区間が完成。その後も市内に続々と延線を続け、大正4年ころには、「100形」と呼ばれる車両が50両ほども走るようになりました。

その後、前述のとおり、いったんは広島電気軌道として広島瓦斯から独立しましたが、1917年(大正6年)にはまた広島瓦斯と合併し、資本金600万円で「広島“瓦斯”電軌株式会社」になりました。

ただし、この合併は吸収合併ではなく対等のものでした。夏季に売り上げの多い電車部門と、冬季に売り上げの多いガス部門を統合させることにより、双方の経営体質を安定させるための合併であったそうです。

広島瓦斯電軌となってからは、大正から昭和のはじめまで、大阪市電などから数多くの車両を購入するとともに、次々と新型車両を導入していきました。

1929年(昭和4年)には、県によって市中心部の道路整備計画が建てられ、電車道の幅員も13間半(約24.5m)まで拡幅し、橋梁も道路・軌道併用橋として架け替えられたのを契機に、広島瓦斯電軌側も企業努力として軌道の複線化を行うなどして業務拡大し、私企業としての地位を高めていきました。

その後、1942年(昭和17年)になって、当時の国の政策により再度、運輸部門の分離が決められ臨時株主総会でこれを可決。こうして1942年(昭和17年)4月、広島瓦斯電軌の交通事業部門が分離して、現在の「広島電鉄」が誕生しました。

この頃までには、現在も広島市内を縦横に走る路線網がほぼでき上がっていたようです。また、ちょうどこの頃、保有する路面電車を動かすための集電装置についても大きな技術的な進歩があり、架線から電気を取り入れる「ビューゲル」という装置や、「パンタグラフ」が導入されました。

ビューゲルというのはあまり聞き慣れない用語だと思いますが、パンタグラフにも少々似たΩ型の装置で、古い映画などをみるとこれを屋根にとりつけてある路面電車が出てくることもあるので、見ればあーあれか、とお気づきの方も多いでしょう。

鉄道車両の屋根上に設置されて架線に「スライダーシュー」と呼ばれるすり板を圧接し、摺動させて集電する装置の一種です。

それまでは、トロリーポールと呼ばれる集電装置が使われていました。が、架線を押し上げる力の変動が大きく、質量が大きくて剛性も低いため、架線から外れてしまうこともしばしばあり、かつ火花が飛びやすいという欠点がありました。これがパンタグラフやビューゲルに置き換わることで、電車の運用性が大きく向上されることになりました。

1944年(昭和19年)8月までには、火花が飛びやすいトロリーポールのほぼすべてがビューゲルを置き換えられましたが、これは日本国内初のビューゲルの本格的実用化であったといわれています。

実はこのビューゲルの導入は、それまでのトロリーポールが火花を散らしやすく、これがこのころ既に始まっていた太平洋戦争の最中に飛来するアメリカ軍の標的になりやすかったために、急きょ導入が決められたものでした。

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そして、その実用化に成功した翌年の1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、人類史上初の原子爆弾が広島市に投下されました。

人類が経験したことのない未曾有の被害であり、この原爆投下で広電本社も半壊し、広島市内にあった広電の建物は1棟をのぞき50棟すべてが損壊しました。

当時は1241人の写真が在籍していましたが、このうちの185人が死亡、266人が負傷し、保有していた路面電車車両も、123両のうち108両が被災し、ほぼ壊滅状態となりました。

この原爆が投下された当時、広島市内の人口は約35万人と推定されていますが、その内訳は、居住一般市民約29万人、軍関係約4万人、市外から所用のため市内に入った者約2万人でした。広島は、明治の日清戦争時代に大本営が置かれたこともあり、「軍都」として発展してきた経緯もあり、軍事施設が多かったことも原爆投下の目標とされた理由でした。

この原爆投下により、爆心地から500メートル以内での被爆者では、即死および即日死の死亡率が約90パーセントを越え、500メートルから1キロメートル以内での被爆者では、即死および即日死の死亡率が約60から70パーセントに及びました。

さらに生き残った者も7日目までに約半数が死亡、次の7日間でさらに25パーセントが死亡していきました。11月までの集計では、爆心地から500メートル以内での被爆者は98から99パーセントが死亡し、500メートルから1キロメートル以内での被爆者では、約90パーセントが死亡しました。

1945年(昭和20年)の8月から12月の間の被爆死亡者は、9万人ないし12万人と推定されています。

火災は市内中心部の半径2キロメートルに集中していた家屋密集地の全域に広がり、大火による大量の熱気は強い上昇気流を生じ、それは周辺部から中心への強風を生み出し、火災旋風を引き起こしました。

風速は次第に強くなり18メートル/秒に達し、さらに旋風が生じて市北部を吹き荒れ、火災は半径2キロメートル以内の全ての家屋、半径3キロメートル以内の9割の家屋を焼失させました。

こうした中で、爆心地から僅か700m付近で脱線し黒焦げ状態で発見された電車があり、これは通称「被爆電車」と呼ばれ、奇跡的に残ったことから、修理改造され今も現役使用されています。

これは、広島電鉄650形という電車で、このころの広電の電車は4輪固定の単車ばかりであった中にあって、エアブレーキ装備を装備し、固定車輪ではなく、走行中に車輪を左右に動かすことのできる「ボギー」と呼ばれる車両であり、この当時は大変近代的な車輌として迎えられたといわれています。

原子爆弾の投下により、この広電が保有していたこの650型も全車が焼損し、全半壊しましたが、このうちの4両が被爆翌年の1946年3月までに原形に近い形で復旧し、そのうちの2両は、いまだ朝夕のラッシュ時に使われ、「被爆電車」として親しまれているということです。

この原爆投下では、爆心地を通過していた広電の車両の一両が、炎上したまま遺骸を乗せて、慣性力で暫く走り続けていたことなどが目撃されており、この電車に乗っていた乗客は吊革を手で持った形のまま発見されています。また運転台でマスター・コントローラーを握ったまま死んだ女性運転士もいたそうです。

このころ、広電は、学校事業も営んでおり、「広島電鉄家政女学校」という学校を1943年(昭和18年)4月に開校しています。3年制の全寮制女学校であり、943年第1期生は72人で、この1945年に当時には309人が在学していました。実業校であり、卒業後は広島電鉄に就職することが義務付けられていたようです。

太平洋戦争中には、戦地へと動員されることも多くなった広電職員の代わりとして、ここの生徒が電車・バスの車掌および電車の運転業務を務めていたそうで、上述の電車内で亡くなったという運転手もまたここの生徒であったようです。

実際、広島電鉄家政女学校では、普通の学科の他に電車運行の授業もあり、入学1年目から車掌を務めた後、2年目には電車の運転業務も任されていたそうです。交替制で、午前授業/午後業務と午前業務/午後授業の2グループで運営されていたといいます。

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この学校は、市中心部からやや西にある皆実町というところにあり、これは現在の南区皆実町二丁目ゆめタウン広島北側の一角にあたります。

入学対象者は国民学校高等科を卒業した女子に限られ、「電車の運転を手伝えばミシンやタイプライターも教える」が募集の際の謳い文句だったそうで、女学校の卒業資格と運転業務による賃金がもらえ、しかも全寮制のため衣食住が約束されていることから、人気が高かったようです。

生徒のほとんどは県北や島根県・鳥取県の農山村部出身であり、こうした田舎から都会の広島へ出て、広電に就職できるというのは、彼女たちにとっては文字通りのドリームカムトゥルーだったでしょう。

しかし原子爆弾投下によりこの学校も被爆。校舎は爆心地から約2.1キロメートルに位置していたため、全焼を免れませんでした。在校生のほとんどは学生寮の食堂におり朝食途中のことだったようで、このとき教師1名および生徒30名が被爆死しました。この中には前述のように電車運営の業務中に死亡した生徒も含まれています。

無事だった生徒は姉妹校である市西部の鈴峯という高台にあった、実践女学校に避難しました。この実践女学校が救護所となったこともあり、生き残った生徒たちはここに市内からぞくぞくと押し寄せてくる負傷者の看護にも当たったといいます。

広電自体はその後、職員や軍関係者の懸命な復旧作業により、3日後の8月9日には己斐から西天満町間までの単線運転を再開し、この際、家政女学校の生徒も業務に復帰しました。復旧1番電車の車掌はここの生徒であるという記録も残っているそうです。

終戦後、被爆からの復興に加え同年9月枕崎台風による水害により、市内の天満川に架かる広島電鉄の軌道専用橋梁である「広電天満橋」が落橋するなどしたこともあり、路線復旧費用がかさんだため、なかなか家政女学校の校舎復旧の目処はたちませんでした。

またその後終戦を迎えて男性運転士が復員してきたこともあり、この結果広電は運営を続けることを断念し、こうして家政学校は廃校の憂き目を見ることとなりました。

生徒たちはその一報を避難していた実践女学校の講堂で聞いて茫然自失になったといい、級長が島崎藤村が創作した「椰子の実」を歌いだすと皆泣きじゃくったといいます。

この「椰子の実」の歌詞は次のようなものでした。

名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実一つ
故郷(ふるさと)の岸を離れて 汝(なれ)はそも波に幾月
旧(もと)の木は生(お)いや茂れる 枝はなお影をやなせる
われもまた渚を枕 孤身(ひとりみ)の 浮寝の旅ぞ
実をとりて胸にあつれば 新たなり流離の憂
海の日の沈むを見れば 激(たぎ)り落つ異郷の涙
思いやる八重の汐々 いずれの日にか故国(くに)に帰らん

この歌は島根や鳥取の田舎から出てきた者が多かった彼女たちにとっては、心の拠り所のひとつとなる抒情詩だったようです。しかし、その翌日、生徒たちは実践女学校から離れ、散り散りになっていきました。

その後、1976年(昭和51年)には、「広島県動員学徒犠牲者の会」の運動により、被爆死した生徒および教師が「公務死」として厚生省に認められたそうで、現在、広島電鉄の本社内にその被爆死した生徒と教師の慰霊碑が設けられています。広島平和記念公園内にある「戦没学徒慰霊碑」にもここの名前である「広電家政」が刻まれているそうです。

当時、彼女たちが運転をしていた被爆電車は、前述のとおり今も朝夕のラッシュ時に使われていますが、保存されている他の一両については平和学習や原爆記念日などを中心に運行されているそうで、その中で家政女学校の話なども伝えられているということです。

このように原爆投下によって大きなダメージを受けた広電でしたが、宮島線は被爆翌日の7日には運行を始め、翌8日には全線で運行再開しました。

市内線についても、広電社員と軍の東京電信隊40名の協力により、電柱をトラックとロープを使って立て直したりしましたが、この作業を陸軍の船舶司令部に所属していた、通称「暁部隊」も手伝いました。

この暁部隊というのは、海上輸送など「海」にかかわることを担当していた陸軍の部隊であり、市の南部の広島港に隣接する宇品に司令部があり、その隊員の多くは少年兵たちでした。

彼らが所有していたマスト300本も活用され、さらに電線を引き直すなど行い、廿日市変電所から送電を行うことで、早くも8月9日には市西部の己斐から中央部の西天満町(現在の天満町)までの間で折り返し運転を再開することができるようになりました。

しかし、この復旧ではまだ、単線で運営が行われていました。しかもその時使われた車両は、2~3両にすぎなかったそうです。運行再開時に運賃が払えない乗客に無理に請求を行わなかったとも伝えられており、運行再開は途方にくれる市民を大いに勇気付けたとされています。

こうした努力により、終戦直前の8月14日までには、かなりの路線が復旧しました。戦後も復旧は進み、1952年(昭和27年)3月には、道路の付け替えで復旧が遅れていた白島線が復旧したことで、戦前までに運営していた路線のほぼ全部が復旧。

1951年(昭和26年)には800形と呼ばれる新型車両を10両導入したのを皮切りに、1953年(昭和28年)に5両、1955年(昭和30年)にも5両と次々に新型車両を導入してそのラインナップの充実が図られていきました。

また沿線整備も進められ、「楽々園」と呼ばれていた遊園地の内容も充実させて、市民の憩いの場として親しまれるようになりました。

宮島線の延長として、1958年(昭和33年)には、宮島松大観光船(現・宮島松大汽船)に出資して、宮島までのフェリー運営にも参画。その翌年の1959年(昭和34年)には、広島電鉄が大株主の広島観光開発が、「宮島ロープウエー」を開通させています。

ちなみに、この広電が開設した、楽々園は、この当時「電車で楽々行ける遊園地」というキャッチフレーズで広島の人に知られるようになり、1950年代に行われたテコ入れによって新しい遊具が増えると大レジャーランドとなり市民に親しまれました。

私の幼いころには、広島で遊園地といえばこの楽々園と乳製品を製造するチチヤスが運営していたチチヤスハイパークぐらいであり、安い入場料で日がな一日過ごすことのできるこの両者へ連れて行ってもらうのが楽しみで楽しみでしかたがありませんでした。

残念ながら、楽々園もチチヤスハイパークもその後集客数が減少していきました。楽々園のほうは1971年(昭和47年)に閉鎖され、現在はその跡地にショッピングセンターが建設されています。また、チチヤスハイパークのほうもその後中国新聞社に売却されてから規模を縮小され、現在はプールなどが運営されているだけということです。

が、「楽々園」の地名は閉園後も残され、現在でも広島近辺で単に「楽々園」といえば、この遊園地の跡地周辺であると般的には理解されているほど、広島の人には親しまれている場所です。

こうして戦後めざましい復活を果たした広電でしたが、昭和30~40年代には他の都市の路面電車と同様にモータリゼーションの進展に伴う渋滞の増加で定時運行ができなくなったことから利用客の減少により売り上げが減るようになりました。

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このため存廃問題に立たされるようになっいった広電ですが、ちょうどこのころ、広島市に地下鉄建設計画が持ち上がり、このために設立された会社に全株式を移行しようと検討された一時期もあったようです。

1963年(昭和38年)には、これまでにはありえないことであった軌道敷内への車両乗り入れが市から許可されるなど、邪魔者扱いを受けるようになったのもちょうどこのころのことです。

しかし、この地下鉄計画は、市中心部が太田川河口部の三角州にあって地下水脈や地質などの問題があるとされたため、結局この当時の技術では大規模な地下鉄建設は難しいと判断されて、見送られることとなりました。

この結果、広電の移設問題も廃止となりました。しかし経営悪化の問題解消の糸口はなかなかつかめず、このため、広電関係者が市や広島県警などにも働きかけて、当時路面電車が多数残っていたヨーロッパに調査団を派遣して共に調査をしようということになりました。

そして彼らがヨーロッパで見たものは、中心地の渋滞緩和のための方法としての新たな役割を任され、進化した新時代の路面電車の姿でした。

こうして1971年(昭和46年)、広電は「電車を守る」宣言を行い、路面電車存続へ方針転換します。そして路面電車の運営形態の見直しを進め、その結果、軌道廃止に伴う代替交通機関が決まらないまま廃止したならば、中心街のさらなる交通環境の悪化を引き起こすという結論に至ります。

こうした検討結果を市や警察にも知らせて彼らにも再度働きかけ、1963年(昭和38年)から8年もの間継続されていた軌道内への自動車進入を、1971年(昭和46年)には再びやめさせることに成功。

さらには、市内の全面駐車禁止、電車優先信号設置、右折レーン設置などの施策などを次々と実現させていきました。また、廃止された全国の鉄道事業者から車両の譲渡を受け、固定車両だった単車をボギー車に置き換えることで機動性を増し、さらには車両の大型化を図った上で、ワンマンカー化と高速化を推進しました。

こうした機構改正や合理化などを行い、1969年(昭和44年)には市中心部を走る白島線でワンマン運転を開始。1976年(昭和51年)に市内線は、ラッシュ時をのぞきほぼ全線でのワンマン運転化を実現。これが奏して経営は安定し、滅亡の危機にあった会社は復活しました。

さらに大阪市電から既に譲り受けていた750形や900形といった大型車両を核とし、1971年(昭和46年)にも神戸市電より比較的新しい車両を購入するなどによって、車両の大型化を進めていき、1973年から1974年にかけては、8両の車両を2両連結車に改造しました。

この750形電車というのは、1965年に大阪市電から譲り受けて登場させたもので、そもそも輸送力の小さい従来の単車を置き換え、大幅な輸送力増強を図るために導入されたものでした。

導入当時は広電の「標準色」としてのクリームとグリーンで彩色されていましたが、その後神戸市電や大阪市電から別の電車を導入した際、大阪市電色のクリームと茶色を経費節減から広電標準色に塗り替えずに使用しました。

この結果、複数色で種類の違う多数の電車が市内を走ることとなり、これが、観光客等の目にとまって「電車博物館」と呼ばれて好評を博す結果となりました。

つまり、この750形電車は、実質的に広電が「動く電車博物館」の異名を持つに至ったルーツといえる車輌になります。

「動く電車の博物館」や「路面電車の博物館」などと異名でファンから呼ばれるようになった当初は、広電はこの名称を嫌い、塗り替え色の公募を行ったそうですが、地元デザイン会議のメンバーの反対により、塗り替えを断念して現在に至っています。

塗り替えの手間が省けるようになった一方で、そのための費用を乗客へのサービスに転換し、方向幕の大型化、冷房改造などを積極的に行いました。

また、広電自らが開発導入した原型の電車にはには必ずしもこだわらず、他の街から購入した移籍車両の側面には、1979年(昭和54年)からは旧在籍事業者・移籍年を記載した「移籍プレート」を取り付けるほどになりました。

こうした、「路面電車の博物館」路線は、更に雑多な電車の導入へと拍車をかけていきました。日本国内だけでなく、外国からも車両の導入が行われるようになり、1977年(昭和52年)の開業65年時には、ドイツのドルトムント市の中古車両を導入が決定されました。

この電車は、1編成に付き車両購入費500万円・輸送費1500万円・改造費2500万円をかけて、1981年(昭和56年)に移籍を果たし、現在も広島市内を走り回っています。

このほかにも広島市とドイツのハノーバー市との姉妹都市提携を記念し、広島市が茶室を送った返礼として、1989年(平成元年)には、通称「ハノーバー電車」と呼ばれる車両も贈られました。1986年(昭和61年)には、逆に広電からサンフランシスコ市に500形の電車が寄贈されています。

外国からの電車導入はその後も続き、1988年(昭和63年)には、西ドイツから、「ピースバーン号」が導入され、その車体にはドイツの画家、ジョー・ブロッケルホフによりスプレー画が描かれ話題になりました。

その後、1980年(昭和55年)には、久方ぶりの新車になる3500形を導入。これは「軽快電車」と呼ばれる省エネタイプの車両で、このほかにも、廃車になった車両の中古モーターを利用した「セミ軽快電車」とよばれるものを次々と導入していきました。

1990年(平成2年)から広電は、欧州視察を行うなど、路面電車が急速に見直される中で新時代の公共交通機関を目指してLRT化に積極的に取り組んでいます。

LRTとは、ライトレールトランジット(Light rail transit, LRT)の略で、和訳としては「軽量軌道交通」になります。「1両ないし数両編成の列車が走行する、誰にも利便性が高く低コストで輸送能力の高い都市鉄道システム」の意であり、低コストな敷設で市の中心部と郊外を結び、高頻度な直通運行を行うことができるシステムです。

軽快電車をさらに進化させた、バリアフリー対応の超低床電車の導入も1990年代から検討しており、この結果、日本の気候に合った100%低床車両を実現したドイツシーメンス製のGREEN MOVER5000形も、1999年(平成11年)より導入されました。

この5000形は完成が遅れ船便で送った場合に、到着時期が政府の補助金給付期限を過ぎてしまうため、大型輸送機で空輸されており、このとき広島空港には多数の鉄道ファンと航空ファンが押しかけ、その様子が多くのマスコミから報道されました。ちなみにこの車両は、バリアフリー化推進功労者表彰・内閣官房長官賞を受賞しています。

しかしその後、広電としては、海外の車両を使うことで、車両を輸入することによる輸送費の増大を問題視するとともに、部品を輸入することでコストが高く時間がかかることや車両構造が日本での運用を考慮してないことなどの問題から、新たに海外からの輸入車両を増やすことは断念したようです。

そのかわりに、日本国産の低床車両の開発を開始しており、2004年(平成16年)には、国産初の100%超低床電車、「Green mover max 5100形」の運用が開始されました。また、既存の車両についても出入口に補助ステップ(踏み台)を設置するなど、高齢社会に相応しい公共交通機関を目指しています。

2013年1月発行の「路面鉄道年鑑2013」によれば、現時点での広電の在籍車両数は、299両におよび、このうち一両編成の「単行車」は13種68両、二両以上の「連接車」は10種62編成にもなります。このほか、上述の被爆電車を含む休車・保存車も3種20両ほど残されているようです。

広電は、2013年(平成25年)12月に、今年4月からの消費税増税に伴う運賃改訂を申請しており、これによれば、現在の市内線運賃は10円の値上げされ、160円になる予定です。

しかし、これだけたくさんの「生きた博物館」をこの値段でみれるなら安いと思いますし、しかも、これに乗って市内各地を見物できるというのは大変お得だと思います。

ちなみに、世界遺産である原爆ドーム前には、市内に9つある路線のうちの5つの路線が停車して、ここから数分の距離にあるドームを見に行くことができます。

原爆ドームをまだ見たことのないあなた、広島の動く博物館もまだ見ていないあなたも、ぜひ今年はこれを見に行ってほしいと思います。

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スッチー vs CA

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先週末の金曜日から昨日まで、夫婦で広島へ行っていました。

姉の末っ子の姪が結婚をするというので、その式に出席するためでしたが、ひさびさの旅行らしい旅行だったので、二人して大興奮だったのは言うまでもありません。

その結婚式の様子や、この旅行での出来事の数々についてはまた詳しく書き記すとして、今回のこの旅ではまた、ひさびさに飛行機に乗りました。

往復とも広島空港発着の最新式の787であり、かねてよりバッテリーの発火問題などで色々トラブルのあった機体であったことなどは、このブログでもかつて書きました。

が、そんな心配などみじんもないほど安定した飛びっぷりで、帰りに羽田に降りる際には、気象条件が少々悪く、結構揺れたのですが、急激に変わる気流の変化を軽く受け流しながら降下し、綺麗な三点着陸を果たしました。

無論、操縦するパイロットさんの技量にもよるのでしょうが、やはり最新鋭の機体をコントロールする装置などのたまものなのではないか、と思ったりもしたものです。

ここしばらく、おそらく3年以上飛行機には乗っていなかったのですが、往復の機内でのサービスは、従前と変わらず行き届いたもので、スチュワーデスさんの対応にもまた、日本ならではの「お・も・て・な・し」の精神は健在で、細かいところにも注意が行き届く、気持ちが良いものでした。

……と書いてきたところで、最近はこの「スチュワーデス」というのはあまり一般的な用語ではないのだな、と気づきました。

かつての日本の航空会社では、船舶の男性司厨員に由来する「スチュワード」と女性スタッフの「スチュワーデス」を客室乗務員の名称として採用して用いるようになったもののようですが、最近ではこの呼び方はなりをひそめ、「CA(Cabin Attendant)」「キャビンアテンダント」と呼ぶことのほうが多いようです。

実はこれは正式な英語ではなく、TVドラマなどの影響で作られた和製英語である、というのは意外と知られていません。正しい英語としては「フライトアテンダント」(Flight Attendant)、もしくは「キャビンクルー」(Cabin Crew)が正解です。

なんでもかんでも横文字にしたがり、それをカタカナで使っているうちに標準語になってしまうというのは日本ではありがちなことですが、それにつけても、CAのことを正しい英語であると主張してやまない輩もいたりして、そういう人に限って英語は得意でないことが多かったりします。

そもそも何でも、アルファベットを並べて説明したがる日本の風潮を私はかねてから苦々しく思っていて、BGMとかCADなどの分かりやすいものはまぁ許せるとして、LTEとか、IPとかいった本来は難解なコンピュータ用語までをも、意味もわからずにしたり顔で使っている人をみると、なにやら妙に腹がたってきます。

意味がわからない用語をそのまま略して使うのではなく、きちんと日本語に直してから略すなり流行させるなりすればいいのに、と思うのですが、その手間暇を省いて広めておいて、みんな分かったような顔をする風潮はそろそろやめればいいのにと、思うのですが、みなさんはいかがでしょう。

ま、それはともかく、この女性客室乗務員のことをスチュワーデスと呼ぶのは、かつては普通のことであり、これに対して「スチュワード」のほうは、男性乗務員がほとんどいないこともあり、あまり一般的な用語としては広まりませんでした。

むしろ、スチュワードと同じ意味の「パーサー」などと呼ばれる機会のほうが多く、男性乗務員というと、こちらのほうが正しいと思っている人さえいるのではないでしょうか。

女性乗務員の呼称としては、スチュワーデス以外にも、「エアホステス」「エアガール」などというのもあったようですが、ホステスのほうは、水商売のマダムみたいに聞こえるし、エアガールというと妙に軽々しいかんじもするためか、やはり「スチュワーデス」と呼ばれることのほうが多かったようです。

ところが、このスチュワーデスという呼び方は、日本では1990年代以降急速にされなくなり、今ではほとんどお蔵入り状態です。

調べてみると、これは1980年代以降、アメリカにおける「ポリティカル・コレクトネス」という風潮が出てくるようになり、この社会現象が日本へも伝播し、浸透したためのようです。

ポリティカル・コレクトネス(political correctness)というのは、それまでごく普通に使われていた用語に、社会的な差別・偏見が含まれていることが「発見」された場合、これを修正、すなわちCorrectしようとする動きであり、修正というよりも、むしろそういう言葉を見つけ出して、なくしてしまおう、とする社会的な動きです。

ご存知、人種のるつぼと呼ばれるアメリカでは、職業や性別、年齢・婚姻状況といった基本的な人的違いはもとより、文化・人種・民族・宗教などなどの各分野において多様な性格を帯びる人々が暮らしており、これに加えて、近年福祉国家としての発展を続ける中、ハンディキャップなどに基づく差別・偏見などに関する数々の問題も浮上してきています。

ポリティカル・コレクトネスは、こうしたアメリカに生じた差別や偏見を防ぐ目的で、言葉の表現や概念を変えていこうと起こった運動であり、とくに1980年代に入ってから、「用語における差別・偏見を取り除くために政治的な観点から見て正しい用語を使おう」という動きが活発になり、広く認知されるようになっていきました。

「偏った用語を追放し、中立的な表現を使用しよう」というわけであり、言葉を是正することによって、国家内の差別是正全体をめざそうという動きでもあります。法制化されたわけではありませんが、社会的な風潮として、いまやアメリカ各地で浸透しています。

また、こうした運動はアメリカ国内だけにとどまらず、ヨーロッパにも飛び火し、ひいては西側諸国の一員である日本でも流行するようになった、というわけです。

無論、もともとはアルファベットを用いる英語などの言葉を母国語とする欧米各国で起こったことだったわけですが、上述のとおり、なんでもかんでも外来語をカタカナに書き換えて、あるいはその手間を惜しんで略語のまま使うことが大好きな日本人の間でも近年急速に広まっていきました。

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この運動は(そもそも「運動」といえるかどうかもあやしいところですが)、社会的な差別・偏見が含まれていない公平な表現・用語を推奨しています。適切な表現が存在しない場合は、新語が造られることもあり、上述のスチュワーデスが、キャビンアテンダントなどという和製英語に置き換えられたのは、その好例といえます。

このとき、そもそもの「客室乗務員」を表す英語である、「Flight Attendant(フライトアテンダント)」という単語をなぜそのまま使わなかったのかよくわかりませんが、1990年代にはその業績も好調であった、日本航空がまず、1996年9月末日で「スチュワーデス」という呼称を廃止しました。

廃止した理由は、それまでの経緯から、スチュワーデス=女性という構図があまりにも定着してしまっており、女性特有の職業である、との世間からの印象を払しょくしたかっためでしょう。「偏った用語を追放し、中立的な表現を使用する」というポリティカル・コレクトネスがここでも適用されたわけです。

そして、「アテンダント」(AT)と呼ぶように改めたことから、この上に「キャビン」を冠して、いつしかキャビンアテンダントと呼ばれるようになっていったようです。

ちなみに、同時期にANA(全日本空輸)もまた、「スカイサービスアテンダント」呼ぶように改めたようですが、正式名称はそうであっても、やはり巷では「キャビンアテンダント」と呼ぶ人のほうが多くなってしまい、いつのまにやら社内外においてもCAのほうが通りがいい、ということになってしまっているようです。

とはいいながら、スチュワーデスと呼ばれた時代があまりにも長かったため、その後も日本ではこうした大手の航空会社自身が「スチュワーデス○○」などの言葉を女性の客室乗務員に対する用語として様々な形で使い続けており、マスコミなどでも多用されていて、スチュワーデス、という呼称がまったく消え去った、というわけではないようです。

略語で「スチュワーデス」さんのことを「スッチー」さんと呼ぶ人も多く、私自身もこの呼称の愛用者でもあります。

にもかかわらず、いまや「スチュワーデス」という用語は、キャビンアテンダントに駆逐されようとしており、この誰もが英語と信じて疑わない和製英語が、新聞や雑誌をはじめ、いたるところに氾濫しています。

こうしたポリティカル・コレクトネスの当初のアメリカにおける代表的なものとしてあげられるのが、英語の敬称において男性を指す「Mr.」や「Woman」などの性別に関するものです。

例えば英語では、Mr.が婚・既婚を問わないのに対し、女性の場合は未婚の場合は「Miss(ミス)」、既婚の場合は「Mrs.(ミセス)」と区別されますが、これを女性差別だとする観点から、未婚・既婚を問わない「Ms.(ミズ)」という表現に置き換えられるようになりました。

そもそもこの「Ms.」というのは、「mister」の女性形で、未婚・既婚を問わない語として17世紀頃に使用されていました。が、その後、女性を丁重に扱う場合には「Miss」「Mrs.」と区別したほうがいい、という風潮のほうが強くなっていたことから消え去っていたものが、奇しくもポリティカル・コレクトネスによって復活する、ということになったのです。

このように、言語において男性と女性の別を設けるのは女性蔑視にあたり、差別だとする風潮は、それまでは、伝統的に男性であることを示唆する)「~man」がつく「職業名」についても、女性差別的であり、ポリティカル・コレクトネスに反するものとされるようになり、manに代わって、「~person」などが使われるようになりました。

一例としては、「議長」を表す、chairmanが、chairpersonに、また、「警察官(policeman)」がpolice officerに、「消防官(fireman)が、fire fighterに、といった具合です。

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この風潮は、日本にも及んでおり、例えばこれまでは、実業家のことを「ビジネスマン(businessman)」と呼んでいたものが、最近では「ビジネスパーソン(businessperson)」
と呼ばれることが多くなっているのに気が付いている人も多いでしょう。

同様に、重要人物のことをその昔は、「key man」と読んでいたものが、最近ではポリティカル・コレクトネスの影響を受けて、「キーパーソン(key person)」と呼ぶ機会が増えています。

最近の日本の例では、このほかにも「専業主婦」などの例のように、女性であることが当然と決め付けるような表現も問題となっているそうで、じゃぁなんて呼ぶのよ、ということなのですが、「お籠りバーさん」でもまずいし、「子守オヤジ」もいけないとすれば、「専業家庭人」とでも呼べというのでしょうか。

このほか、アメリカにおけるポリティカル・コレクトネスは、人種・民族用語においてもその修正を迫りました。

黒人を指す「Black(ブラック)」がアフリカ系アメリカ人を意味する「African American(アフリカン・アメリカン)」に置き換えられたことは多くの人がご存知でしょう。とはいえ、肌が黒いからアフリカ系だとは限らず、またアフリカ出身だから黒人だとも限らないわけです。

また、African Americanは、「アフリカ系アメリカ人」を指し、これはアメリカに奴隷として連れてこられて以降の歴史が長い人種を意味します。が、一方では、奴隷制度が存在しない近年の移民で、そもそも英語を母語とせず、アフリカ以外の国から移住してきた者も、「アフリカ系アメリカ人」と呼べるか、というとそうではありません。

例えば、フランスで生まれて育ち、言語もフランス語の黒人もいるわけであり、これらを含めて一括して、アフリカン・アメリカンと呼ぶのには無理があり、こうした人達の中にはこう呼ばれるのを嫌がる人も少なからずいるようです。

また、人種の壁をなくそうと、アメリカの先住民族をさす「Indian(インディアン)」と呼ぶのをやめようという動きもあります。

インディアンというのは、もともとインド人という意味ですが、コロンブスがアメリカ中部のカリブ諸島に到達した時に、ここをインド周辺の島々であると誤認し、先住民をインド人の意味である「インディオス」と呼んだために、以降アメリカ先住民の大半をインディアンと呼ぶようになったものです。

が、インド人であるにせよ、アメリカ先住民であるにせよ、インディアンという呼び方は人種差別を思い浮かばせる、ということで、最近では「Native American(ネイティブ・アメリカン)」という表現に置き換えられており、またカナダでは「First Nation(ファースト・ネーション)」と呼ばれています。

さらに、とくに北米などでは、多様な宗教に配慮をしようという動きもあり、例えばクリスマスはキリスト教の行事であるため、公的な場所・機関、大手企業では他の宗教のことも考慮して「メリー・クリスマス」と言わずに、最近では「ハッピー・ホリデーズ」と呼ぶようです。

ホリデーズとしたのは、日本ではクリスマスは休日ではありませんが、アメリカなどでは、クリスマスは休日であることが多いためです。このほか「クリスマスカード」も「グリーティングカード」に置き換えられており、これはSeason’s Greetingつまり、「季節のご挨拶」の意味であって、これなら宗教臭さは消え去ります。

2004年に、ブッシュアメリカ合衆国大統領が年末のあいさつをしたときにも、「メリー・クリスマス」ではなく、「ハッピー・ホリデーズ」と述べたそうで、このほかヨーロッパにおいても、イタリアなどでは小学校の年末の演劇会において、例年恒例であったキリスト生誕劇を止めて、「赤ずきん」などに演目を変えるところが増えているとか。

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とはいえ、欧米ではこうした宗教におけるポリティカル・コレクトネスは、伝統や文化の否定にもつながる、ということで、反対意見もあり、論争となっているそうです。

また、フランス語やスペイン語では、男性名詞や女性名詞などのように、その言語における名詞や動詞、形容詞で男性形と女性形を分けており、言語において性別による差別の是正という点に関しては、あまりポリティカル・コレクトネスは進んでいないといいます。

アメリカなどでも、マンホールを意味する語を「manhole」から「personhole」と言い換えるのはさすがに行き過ぎとの批判も存在し、また日本においても、これは「言葉狩り」ではないかという人もいて、表現の規制につながる物であるとの批判があり、こうした表現の書き換えは、表層を変えるだけで何の本質的な意義がないとの批判も存在する声も多いようです。

たとえば、固有名詞として国民の間で広く定着している、「ウルトラマン」や「スーパーマン」、「スパイダーマン」を、ウルトラパーソンやスーパーパーソン、スパイダーパーソンと言いかえるか、といえば、誰もが嫌な顔をするでしょう。

アンパンマンに至っては、「アンパンパーソン」と言い換えたら、「わかんなーい」と多くの幼稚園児たちが大泣きするにちがいありません。大和ハウスのダイワマンをダイワパーソン、と言い換えたら、ファンからは大ブーイングがおこりそうです。

そもそも、この「ポリティカル・コレクトネス」という言葉は、アメリカ合衆国における政治の世界で、保守派などがその巻き返しにより、「人権政策」を掲げ、これに関する政策を選挙戦における目玉としようとしたところから出てきたようです。

「ポリティカル(political)」は、「政治の」、「政治に関する」の意であり、このことからもこれが政治用語だとわかります。わざわざ政治用語であることをわからせるために、その「まんま」の表現を冠したところを評して、「見てくれ」を狙った薄っぺらい政策であるとあからさまに批判する向きも当初からあったようです。

かくして、そんなことも露しらず、単に欧米で流行っているからという希薄な根拠の中において、日本においてもポリティカル・コレクトネスは浸透するようになり、発祥から20年以上経過した現在でもいまだその「発見」と「駆逐」は進行中です。

例えば、ちょっと前から「看護婦」は女性蔑視だということで、男性の看護士も含む「看護師」に改められ、「保健婦」は「保健師」、「助産婦」は「助産師」となりました

かつては、保母さんと言っていたものが、最近は男性も多いことから、「保育士」と呼ばれるようになり、こうした幼児教育施設や病院関連の福祉施設では世相を反映したポリティカル・コレクトネスが続々と進んでいます。

が、これらについてはこれまで女性の独断場と思われていた職場への男性の進出が相次いできているためか、あるいはその逆もあって、特に否定的な声はないようです。

ちなみに、この助産師に関しては、「師」といいながら、今でも、法律的には、資格付与対象は女性だけに限られています。が、将来的には、生まれてくる子供を取り上げる男性助産師も増えてくることになるかもしれません。

ところが、同じ福祉や医療の世界では、かつて「障害者」と呼んでいたのを、最近は「障がい者」とわざわざひらがなで書くことが奨励されています。ここまでくると少々やりすぎではないの、という気もしますが、これは「害」の字が周囲に害を与えるという印象を回避するためだということです。

こうした福祉用語以外にも、医学用語として「痴呆症」と呼んでいたものが最近は、「認知症」に、また、精神分裂病は「統合失調症」、らい病(癩病)は「ハンセン病」と呼ばれるようになっています。

痴呆というのは確かに多少悪意のある表現であると誰もが認めるところでしょうが、それでもバカやアホに比べれば格段に格調高い表現であり、また「癩」というのは、その症状から来ており、「鱗状の~」とか、「かさぶた状の」という意味であって、患部の状況を適切に表した非常にわかりやすい用語ではあります。

ところが、この病気に罹患したその外見を忌み嫌い隔離しようとした時代があったことからこれを反省し、この用語を使うのをやめよう、ということになったようですが、日本語の表現方法としてはかなり巧みな部類に入るものである、と言わざるを得ません。

精神分裂病もまたしかりです。精神がズタズタに引き裂かれるといえば、どういう状態かはすぐにわかるわけであり、実際に発症した方々の周囲では反論もあるでしょうが、なかなかうまい表現だと私は思います。

また、日本でも人種差別用語として多くのことばが改められてきています。かつての「土人」は、「先住民」に、トルコ風呂は「ソープランド」に改められ、肌色は、現在では「ぺールオレンジ」もしくは、「うすだいだい」と呼ばせるようです。

土人というのは、そもそも北海道におけるアイヌのことを指していたそうで、アイヌを先祖とする人々への蔑視だということで廃止されたもので、トルコ風呂もトルコの人達に配慮された結果廃止されました。

「肌色」については、従来からクレヨンやクレパスの色として慣れ親まれてきたものですが、これもネグロイドの肌は褐色で、白人の肌は白であることから、こうした言葉を使うことが人種差別につながる、ということのようです。

が、肌色の「肌」という言葉から、黒人や白人を連想する日本人がいったいどれだけいるというのでしょうか。

かつて、日本で「ちびくろサンボ」という大変抒情豊かな童話絵本がありましたがこれも「くろ」が黒人蔑視にあたるとして、出版社の自主規制により廃刊となり、いまやどこの本屋へ行ってもみられなくなってしまいました。これは必ずしもポリティカル・コレクトネスとはいえないかもしれませんが、その風潮の延長の上で起こったできごとです。

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さらには、日本でも性別によるポリティカル・コレクトネスが進んでいます。

学校などで名前を呼ぶとき、その昔は男子に「~君」、女子に「~さん」を用いていたのを、最近では男女とも「~さん」と呼ぶことが奨励されているそうで、実際に教育の現場で実践している学校も多いそうです。

ところが、慶応義塾大学の関連教育期間では、男女とも「~君」で呼び合うそうで、これは「先生」は創設者福澤諭吉だけという考え方から、教授を含む教師陣も含めすべて平等に先生以外の呼び方、つまり君付けで呼び合う、という風習があったことからきているそうです。

もともとは先生同士がお互いを呼び合う際に用いていたようですが、次第に生徒を呼ぶときにも君づけで呼ぶようになっていったようです。こうした伝統はやがて慶応以外の他校にも及び、現在でも各地の教育現場で生徒を女性であっても~君と呼ぶ先生がいるのはこのためです。

が、これは男女を平等に扱う風習としては数少ない例外であって、実際には現在でも、~さん、~君で男女を使い分けることが一般的です。しかし最近は、とくに指導がなくても、男子生徒のことを「~さん」と杓子定規に呼ぶ先生が増えているそうで、私などは、こうした話を聞くと、なんだか学校現場も殺伐としてきたな、という印象を覚えます。

逆に一般的な職場では、男性だけを君と呼ばず、女性をも君付けで呼ぶところも多くなっているという話も聞きます。また従来は女性を呼ぶ際には、その昔は愛情をこめて「~ちゃん」と下の名前で呼んでいましたが、現在ではこれも差別的だということで、苗字だけで~君と呼ぶようにと、わざわざお達しまで出している会社も多いとか。

男女の別を何をそこまで無理してなくす必要があるのかと私は思うのですが、みなさんの職場や学校ではいかがでしょうか。

このほか先ほどの障害者の呼び方にも関連しますが、最近は「ブラインドタッチ」のことを、「タッチタイピング」と呼ばなければならないそうで、これは、無論「ブラインド」が「盲目」」を意味し、視覚障碍者を差別することにつながるから、ということのようです。

盲目といえば、生物名でも、それまでは「メクラウナギ」と呼んでいたものを最近では、「ヌタウナギ」と呼ぶそうで、このほかにも、イザリウオをカエルアンコウ(いざりとは足の不自由な人のこと)、オシザメをチヒロザメ、セムシウナギをヤバネウナギ、バカジャコをリュウキュウキビナゴへ、といった改名がみられます。

こうした、ポリティカル・コレクトネスについては、行き過ぎたものもあるようですが、必ずしもそのすべてが批判されるようなものではありません。

改名、変名がすべて改悪というわけではなく、認知症、統合失調症などは言葉を変えた事により当事者や家族の気持ちが多少なりとも楽になったという人も多いようで、とくに病気が傷害といった医療の分野などで差別されていた人達が、こうしたポリティカル・コレクトネスの普及によって救われた、という例が多いようです。

しかし、このように言葉を変える事による心理的影響は無視できず、行き過ぎは表現の自由を束縛するものであるとして、批判する人もまた多数います。

表現者が自ら斟酌して自らの表現に制限を課すことを「自主規制」と呼びますが、こうした面でのポリティカル・コレクトネスが進行しすぎ、日常慣例化すると、これはやがて「タブー」になっていきます。

とくに芸術の世界においては、不特定多数の大衆を対象とした表現をなすことが多いことから、文芸などにおいては著者や出版社が、音楽の世界においては作曲家や作詞家、レコード会社、放送局などが主体的に判断して言葉の置きかえや著作物の発表を取り止めることなども往々にしてあります。

日本のテレビやラジオなどの放送局では、身体的障害を表現する用語を「放送禁止用語」などとして「○○が不自由な人」と言い換えるのが一般的ですが、これを例えば、過去に出版された文学作品においても適用しようとすれば、それは文学ではなくなってしまう可能性があります。

行き過ぎたものは、「言葉狩り」にほかならず、今日では、このような文学作品には、末尾などに「差別用語とされる語も含むが、当時の状況を鑑みまた芸術作品であることに配慮して原文のままとした」などと記されることも多くなっています。

受け手の立場や考え方などにより、不適切とも適切ともなるひとつひとつの表現を直接の表現者ではない第三者が判断して規制することは非常に難しいことです。

例えば「漫画」では、「ユーモア」と「毒」が作品の味付けに不可欠といわれていますが、差別表現で問題を起こした作品の「ユーモア」や「毒」は許されないもので、ときにそのような作品に限って発行部数が大きい場合も多く、こうした場合にはその社会的影響は非常に大きなものになります。

したがって、言葉の表現者には、才能やセンスがあることも重要ですが、その表現には「人権感覚」が強く求められなくてはなりません。

しかし、人権感覚はその専門家を称する運動団体の関係者ですら、差別のカテゴリーが異なると「自信がない」と述懐するほど難しい問題であり、出版業界などでもこうした人権感覚を養うためには、何十年もの経験が必要だという人もいます。

いわんや研鑽しても、その能力を培うことができない人も多いそうで、各出版社ともそうした人を養成するために、社内啓発に努力していますが、なかなかそういう能力は簡単には身につかないようです。

ましてや、国民の多くが接するような学術用語や、医学用語、福祉用語といった、難しい分野の用語を、こうした感覚が希薄な役人たちが司り、「勝手に改変しようとしている」とまで言い切るのは少々行きすぎかもしれませんが、彼等の造った新用語が必ずしも意味があるものばかりとはいえません。

先述の障害者の「害」を変えるなどというのは、明らかに行き過ぎです。「障害」というのはれっきとした由緒正しい日本語であり、わざわざ変える必要はないと思います。

このように、なんでもかんでも、時代に合わないから、差別だからという主張のみでいつのまにやらどんどん変えていってしまっている最近の風潮には少々苦言を呈したいと思います。

従来からある言葉の意味をかみしめ、その文化的な意義も確かめながら本当に必要なものだけを変えていかなければ、こうした風潮は文化の退潮にもつながっていくのではないかと思います。

なので、スチュワーデスはそのままでよく、キャビンアテンダントなどという、わけのわからない用語に変更する必要はないのです。

いまあなたが使っている言葉が、本当に意味がある言葉なのか、また意味が分かって使っているのかどうか、今一度、考えてみてください。

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ゴールドラッシュ

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今日は、「ゴールドラッシュの日」だそうです。

1848年1月24日に、アメリカの農場主ジョン・サッターの使用人、ジェームズ・マーシャルという人物が、サクラメント東方のアメリカン川の川底で金の粒を発見しました。

マーシャルはこれを元手に農業経営の拡大を考え、当初は秘密にしていたのですが、噂はすぐに広まりました。これにより、文字通り「新天地」となったカリフォルニアには金鉱脈目当ての山師や開拓者が押し寄せることとなりました。

「ゴールドラッシュ」の始まりです。

当時の金鉱はほぼ露天掘りに近く、誰もが金を採取できたといいます。極論すればスコップ一本あればだれでもが金を掘り当てることができる可能性があったのです。

こうして一獲千金を求めて集まった人達が急増したのが1949年だったことから、後年、カリフォルニア州に集合した彼等は、「フォーティーナイナーズ(”forty-niner”(49ers)」と呼ばれるようになりました。

彼らの多くは、アメリカ東部から噂を聞きつけて西部へやってきた人達でした。

そのルートとしては、船で多額の通行料を払ってパナマ地峡を経由するほか、南アメリカの大陸南端まで回り込み、大きく迂回して西海岸へアプローチを試みるのが主流でしたが、中には、幌馬車で熱間の大陸を横断して、カリフォルニアへ辿り着くつわものもいました。

しかし、パナマ以外のルートはかなり厳しい旅程であり、旅行途中で病死した者も多かったようですが、1849年の一年間だけでも8万を超す人々がカリフォルニアに到来しました。

この当時の記録をみると、これらの移住者には農民、労働者、商人、乞食などが多く、さらには牧師までもが含まれ、こうした人達がこぞって一攫千金を夢見てカリフォルニアへなだれ込んだのです。

こうした金目当ての移動は、アメリカ国内にとどまりませんでした。

1840年からのアヘン戦争によって清国がイギリスによって開国させられるとともに、香港がイギリスに割譲され、マカオもポルトガルの支配下になったことなどから、香港・マカオが帰属していた中国の広東省などでは多数の中国人難民が発生しました。

喰えない彼等は、このためゴールドラッシュの話を聞きつけると、こぞってアメリカへ渡るようになり、かれらもまた山や鉄道建設現場で働くようになったため、カリフォルニアでは、その後広東人を主体とする「チャイナタウン」が形成されるようになりました。

さらには、ヨーロッパでは1848年にフランスで2月革命、ドイツで3月革命などが相次いで起きました。これらは統合して「1848年革命」と呼ばれ、これによりヨーロッパの政情は著しく不安定になっていきました。

その余波で、ヨーロッパからアメリカへ移住する人も急増し、これが、いわゆる「ウィーン体制」の崩壊を招きました。

ウィーン体制というのは、1814~1815年に君制を敷くヨーロッパ各国がウィーンに集まって締結した国際協定です。

この協定では、各国に君臨する君主の利益が優先されたため、自由主義・国民主義運動が抑圧されるという側面はありましたが、これによって君主制を主張するヨーロッパ各国の協調が図られることになり、歴史的にみてもかなり長い安定をヨーロッパにもたらしました。

ところが、このヨーロッパにおいても、ゴールドラッシュの噂がもたらされ、多数の住民がアメリカを目指すようになりました。このことは、以後のヨーロッパ政情不安を招く結果となりましたが、その原因は多数の住民たちが渡米することにより、居住人口が減ったことにあります。

住民がいなくなるということは、君主国家としては、税金を貢いでくれる対象がいなくなるということでもあります。この結果、多数の民衆の存在の上に成り立っていた君主国家は衰退の道を歩んでいくこととなったのです。

この環境変化において、それまではなりをひそめていた自由主義・国民主義運動が活発となり、これが各地で革命を引き起こす要因になり、ウィーン体制の崩壊へと突き進んでいきました。

こうしたヨーロッパでの変化は、アメリカ国内においても時代の変革を促す作用を与えました。とくにカリフォルニアにおいては、フォーティナイナーズへの期待は大きくなり続け、人口が急増したことにより、ここを「州」へと昇格させることを求める声が高くなっていきました。

こうして、カリフォルニア州は1850年9月9日に連邦議会により公式に州昇格が認められましたが、この結果はまた南部と北部の対立に拍車をかけることとなり、その後の南北戦争のきっかけになりました。

カリフォルニアが州に昇格したときは、いわゆる「自由州」と呼ばれる奴隷を認めない諸州の一員として連邦に加入しており、この自由州というのは、いわゆる後年の「北部州」つまり北軍に属する州です。

奴隷制度を維持することを希望していた南部の「奴隷所有州」は、カリフォルニアを北部州に属する州として認めるかわりに、南部から逃げ出して北部諸州に逃げ込む奴隷を厳しく取り締まる「奴隷逃亡取締法」の施行を北部の自由州に認めさせました。

この当時、南部の諸州からは激しい労働から逃れるために脱走を図る黒人も多く、彼等の多くは、奴隷制を廃止しようとしていた北部州に逃げ込んでいました。

この法律はこうして南部州から逃げ出して北部に入った奴隷を南部に返還することを北部州に約束させるというもので、これとひきかえにカリフォルニアの州昇格を南部諸州が認める、というものであったことから、「1850年の妥協」ともいわれました。

しかし、この妥協は南北戦争の勃発のきっかけとなりました。

この後、カリフォルニアの州昇格に続いて、ニューメキシコ準州、ユタ準州についても州に昇格することが検討されるようになったのですが、このときには、住民自らが奴隷州か自由州かを決定すること(人民主権)が決められました。

ところが、この「1850年の妥協」によってカリフォルニア州が自由州に所属したことから、カリフォルニアにほど近い、ニューメキシコやユタでもこれに影響されて自由州になることを選ぶ人が多いことが予想されました。

もしこの二州が自由州になれば、これは連邦議会においてもこれらの自由州からの選出議員を増やす結果となります。当然、奴隷州からの選出議員は少数派になっていく可能性が高く、自州の議会での発言力の低下を懸念した南部諸州に危機感を抱かせる結果となっていきました。

そしてやがてはこうした情勢が、南北二つの陣営の間で銃器を手にしての争いに発展していったというわけです。

夕暮れの光景B

このように、ゴールドラッシュは、このようにアメリカのその後の歴史を書き換えるほど大きなきっかけとなりました。

州に昇格したカリフォルニアでは、1852年にはその人口が20万人にまで膨れあがり、さらに西部の開拓が急進展することになりましたが、これは、彼等にとっては「開拓」である一方で、もともとの原住民であった多くのインディアン部族に対しては「侵略」でもあり、白人の台頭はインディアンを駆逐する一種の「民族浄化」でもありました。

白人は自分たちの居住地を増やす度に、インディアンを皆殺しにしてこれを手に入れ、この結果、インディアンの一部族であるヤナ族などは、金鉱目当てに入植した白人たちによって根絶やしにされ、絶滅させられてしまっています。

その後もネイティブ・アメリカン(アメリカ・インディアン)への圧迫はつづき、現在ではアメリカ社会においてはかなりの少数派に追いやられてしまっています。また、自由州として黒人も開放されましたが、かつての奴隷であった彼等が政治などの社会的上部に登場するのは、かなり後年になってからのことでした。

こうして、カリフォルニアは現在のように、白人がマジョリティの社会へと変貌していきましたが、ゴールドラッシュによって一攫千金を狙った彼らが、すべて成功したかといえば、必ずしもそうではありません。

彼等の給料は確かに高額でした。アメリカ国内の一般労働者の日給が1ドル程度だった当時にあって毎日10~20ドルを稼ぎ出したとさえいわれていますが、しかし、フォーティナイナーズで成功した人はほとんどいなかったといわれ、むしろ多くは破綻したとされています。

その理由は、一度にあまりにも多くの人々が殺到して生活物資の供給不足を招きインフレーションが起こったためでした。小麦価格は40倍になり、土地価格では16ドルだったところが4万5000ドルにまで跳ね上がったところもあったそうです。これではいくら賃金が高くても逆に食べていくことはできなくなります。

ところが、こうした金にむらがる亡者よりも、成功者はむしろ、こうしたフォーティナイナーズの周辺で生まれました。

このうち最も有名なのがリーバイス創業者のリーバイ・ストラウスです。彼は、金を掘っていると従来のズボンではすぐ破れて困るということに着目し、キャンバス生地を元に銅リベットでポケットの両端を補強したワークパンツ、すなわち「ジーンズ」を発明しました。ご存知、現在でも世界中の人が愛用するズボンです。

彼はまたテントや荷馬車の幌を作るためにキャンバス帆布を準備し、採鉱者達に販売することで財をなしました。

また、サム・ブラナンという人は、金採掘に必要な道具を独占することで巨利を得ました。さらに、ヘンリー・ウェルズとウィリアム・ファーゴは、輸送手段や金融サービスを提供して利益を上げました。これがウェルズ・ファーゴの始まりです。

ウェルズ・ファーゴなどというと、何の会社だかよく知らない人が多いでしょうが、「アメリカンエキスプレス」を発行している会社だといえば、あぁあれか、と思い当たる人も多いでしょう。

アメリカだけでなく、カナダ、北マリアナ諸島、西インド諸島においても現地法人を持ち、2005年時点で、営業網は6,250店舗、顧客は2,300万人を数える世界的な金融機関です。

リーランド・スタンフォードもまたその成功者の一人です。彼は、ニューヨークからサクラメントへ移住し、ゴールドラッシュ時の雑貨商として事業を繁栄させ、この成功をもとにさらにセントラルパシフィック鉄道を創設し大陸横断鉄道時代に貢献しました。

また、愛息の死を痛み、その名前を永遠に残すためパロアルトの牧場に設立されたものがリーランド・スタンフォード・ジュニア大学、通称スタンフォード大学です。

カリフォルニア州のシリコンバレー中央のスタンフォードに本部を置く私立大学であり、世界屈指の名門校としてその名を轟かせるとともに、「西のハーバード」とも呼ばれています。

さらには、フォーティナイナーズの多くはヨーロッパからの移民だったことから、ブドウ栽培とワイン醸造の知識をもつ者も多く、彼等の中には、ワイン醸造によって財を成した人も多く、こうした多くのワイナリーの中から、名産品としてのカリフォルニアワインが生まれました。

ゴールドラッシュは、南北戦争の要因にもなっただけでなく、このようにカリフォルニアを中心とする西海岸で多くの成功者を生み、この地における経済発展にも大きく寄与したのです。

土佐出身の漂流民であるジョン万次郎もまた、このゴールドラッシュにおいて、カリフォルニアにやってきていた、というのはあまり知られていない事実です。

ゴールドラッシュにやってきた唯一の日本人ではないかとも言われているようです。

ジョンマンについては、居酒屋チェーン店の名前にもなっているくらいですから、知らない人はいないほどだと思いますが、幕末の天保12年(1841年)、手伝いで漁に出て嵐に遭い、漁師仲間4人と共に遭難、5日半の漂流後奇跡的に伊豆諸島の無人島鳥島に漂着し、ここで、アメリカの捕鯨船に仲間と共に救助されます。

この当時日本は鎖国していたため、漂流者のうち年配の仲間は寄港先のハワイで降ろされましたが、ジョンだけは、船長のホイットフィールドに頭の良さを気に入られて、一緒にそのまま航海を続け、アメリカ東海岸に到着しました。

ジョン・マン(John Mung)という名前は、このとき救助された捕鯨船のジョン・ハウランド号にちなんでつけられたものです。アメリカ本土に渡ったジョンマンは、その後もホイットフィールド船長の養子となって一緒に暮らし、1843年(天保15年)にはオックスフォード学校を卒業。

その後バーレット・アカデミーという英語・数学・測量・航海術・造船技術などの実学中心の教育を行う私立学校に入学させてもらい、ここを卒業した後は再び捕鯨船に乗る道を選びました。

やがて船員達の投票により副船長に選ばれるほど頭角を現すようになり、1846年(弘化3年)から数年間は近代捕鯨の捕鯨船員として生活していましたが、1850年(嘉永3年)になって日本に帰ることを決意します。

ところが、日本へ帰る船をチャーターするためにはそれなりの資金が必要です。このため、ジョンマンは帰国の資金を得るために、ゴールドラッシュに沸くサンフランシスコへ渡り、ここで一儲けしようと考えました。

サクラメント川を蒸気船で遡上し、鉄道で山へ向かい、数ヶ月間、金鉱で金を採掘する職に就いたといい、ここではおよそ600ドルの資金稼ぐことができました。

この金を使ってまずはホノルルに渡り、ここでかつての土佐からの漁師仲間とも再開し、共に日本へ向かうことを決めたジョンマンらは、上海行きの商船に漁師仲間と共に乗り込み、購入した小舟「アドベンチャー号」も載せて日本へ向け出航しました。

こうして、嘉永4年(1851年)2月2日、この当時薩摩藩に服属していた琉球にアドベンチャー号で仲間と共に上陸を図って成功しましたが、直後に役人に拘束され、番所で尋問を受けたあとに薩摩本土に送られました。

その後薩摩藩の取調べを受けることになり、厳しい処罰を予想していたジョンマンでしたが、意外にも薩摩藩は万次郎一行を厚遇し、とくに開明家で西洋文物に興味のあった藩主・島津斉彬などは、殿さまが一般庶民が口を交わすことなど考えられないこの時代に、しきたりを無視して彼等に拝謁を許しています。

とくにアメリカ本土に渡り、米国の内情に詳しいジョンマンに対しては、海外の情勢や文化等について根掘り葉掘り質問したといい、さらには、部下の藩士に命じて、ジョンマンから洋式の造船術や航海術について学ばせています。

これらの情報により、その後薩摩藩は実際に、和洋折衷船ではありましたが、近代的な帆船を建造しています。さらに斉彬は万次郎の英語・造船知識に注目し、後には薩摩藩の洋学校(開成所)の英語講師として招くなど、とくにジョンマンをかわいがりました。

その後、ジョンマンは土佐藩の士分に取り立てられ、その名も中浜万次郎と名乗って、土佐藩の藩校「教授館」の教授に任命されます。

時代はこのころから急展開し始め、明治維新に向かって突入していく中での万次郎も大活躍していきますが、これについては多くの人が知るところでもありますから、ここでは割愛したいと思います。

維新後の明治3年(1870年)には、万次郎は、普仏戦争視察団として大山巌らと共に欧州へ派遣されており、その帰国途上、アメリカにも立ち寄り、恩人のホイットフィールドとも再会しています。この時の視察では、万次郎は帰国途上にハワイにも立寄っており、往時の旧知の人々とも再会を果たしたと伝えられています。

このとき、身に着けていた日本刀をホイットフィールドに贈ったそうで、この刀は後にアメリカの図書館に寄贈され、第二次世界大戦の最中にあっても展示されていました。が、後に何者かに盗難され行方不明になったそうで、現在はレプリカが展示されているとのことです。

明治31年(1898年)、万次郎は72歳で死去。現在は雑司ヶ谷霊園に葬られていますが、その墓石は東京大空襲で傷ついているそうです。

万次郎は、奢ることなく謙虚な人物であったと伝えられており、晩年には貧しい人には積極的に施しを行っていたといい、そのことを役人に咎められても続けていたといいます。

日本にいる万次郎の子孫は、アメリカのホイットフィールド船長の子孫と代々交流を続けており、また出身地の土佐清水市はアメリカでの滞在先となったニューベッドフォード、フェアヘーブンの両市と姉妹都市盟約を締結し、現在も街ぐるみでの交流が続けられています。

幕末に帰国して以来、アメリカの様々な文物を紹介し、これらは西洋知識を貪欲に吸収しようとしていた幕末の志士や知識人達に多大な影響を与え、明治維新の立役者として活躍したかの坂本龍馬もまた、万次郎から直接聞いた世界観に影響を受けたと言われています。

しかし、その万次郎も、ゴールドラッシュがなければ日本に帰ってくることはなかったかもしれません。

カリフォルニアに渡り、ここの金鉱山で働き、帰国のための資金を得られたからこそ、日本に帰ってくることができたわけです。

その彼が帰国後に日本の改革に与えた影響は大きく、そう考えると、アメリカで起こったゴールドラッシュは、近代日本の形成にも大きな影響を与えたといえます。

近年、再び日本は改革の時を迎えようとしています。そのために影響を与えるのは、果たしでどこのゴールドラッシュでしょうか。

山伏峠からの駿河湾

スイセン

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気がつくと、一月もはや下旬に差しかかろうとしています。

1月は行く、2月は逃げる、3月は去るといいますが、いつものことではありますが、なぜか年のはじまりは気ぜわしく過ぎていきます。

1月も終わりとなると、そろそろ下田の爪木崎で咲き誇っているはずのスイセンもそろそろ終わりに近づいているはずです。水仙の群生地であり、12月下旬から1月の終わりまでは、早い春を感じたい観光客で賑わいます。

爪木崎には昨年、一昨年と連続して見にいったのですが(爪木崎にて)、3年目となる今年は、昨年暮れに骨折で入院した母のことなどもあって何かと多忙であり、ちょっと今年は見送りかな、といった展望です。

このスイセンの原産地はスペイン、ポルトガルなどの地中海沿岸地域だそうで、日本には中国を経由して渡来したようです。本州以南の比較的暖かい海岸近くで野生化し、各地で群生が見られます。ここ下田のものは、海流に乗って漂着して形成された小群落を、下田の観光名所に、ということで地元の方たちがさらに手植えで増やしたもののようです。

スイセンは、チューリップやヒヤシンスなどと同様に典型的な球根植物で、日本の気候とも相性が良いらしく、植え放しでも勝手に増えます。このため、温暖な伊豆半島の各地には、わざわざ下田まで見に行かなくても、各家庭で植えられたスイセンをここそこで見ることができます。

スイセンの学名は、Narcissus といいますが、これは、ギリシャ神話に登場する美少年「ナルキッソス」に由来します。神話によれば、ナルキッソスは、その美しさゆえにいろんな相手から言い寄られたといいます。

森のニンフである、エーコーもその一人で、このエーコーというのは、元々「木霊(こだま)」という意味です。日本語では、エコーとも呼ばれ、こだま、もしくはやまびこ(山彦)のことでもあります。

山に向かって、「ヤッホー」と呼びかけると、「アッホー」と返してくるあれです。

このエーコーは、かつてゼウスの浮気相手であった友達の山のニンフたちを助けようと、ゼウスの妻のヘーラーに長話をもちかけ、ゼウスの気をそらそうとしたそうです。このためヘーラーの怒りを買ってしまい、彼女の呪いによって自分からは話かけることができなくなってしまいました。

誰かが話しかけてくれても、言葉を繰り返すことしかできないようにされてしまったエーコーですが、彼もまたナルキッソスに恋をしてしまいます。が、いかんせん話しかけることができないために相手にしてもらえません。

可愛そうなエーコーはナルキッソスに振り向いてもらえない屈辱とその恋の悲しみから次第に痩せ衰えていき、ついには肉体をなくして声だけの存在になり、やがて山のこだまと化していきました。

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一方のナルキッソスは、エーコーに対してもそうであったように、その美貌を鼻にかけ、言い寄る相手をことごとく高慢にはねつけたため、多くのニンフたちから恨みを買うようになりました。

このため、ニンフの中にはついには、彼に悪意を持つものが現れ、彼らに同調した復讐の女神ネメシスによっておそろしい呪いにかけられます。

その呪いとは、自分自身の姿を水に移した水鏡の映像に恋をしてしまうというものでした。

こうしてナルキッソスは、来る日も来る日も水面の中に写る自分の像をながめては、うっとりするようになりますが、その相手は、けっして彼の想いに応えることはなく、やがて彼は憔悴し、そのまま死んでしまいます。

このとき、ナルキッソスは水辺で水面に向かってうつむきながら死んだといい、その姿はのちにスイセンに変わりました。これが、このスイセンにまつわるギリシャ神話です。

スイセンの写真を撮ろうとしたことのある人はお気づきだと思いますが、スイセンというのはみんな下を向いてうつむきがちに咲きます。なので、しっかりとしたスイセンの写真を撮ろうとすれば、思いっきりローアングルで撮らないと、良い写真になりません。

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ところが、この水辺のスイセンの姿は、中国では仙人に見えたようで、それゆえに、スイセンは「水仙」と書きます。「仙人」の「仙」の字は、仙境にて暮らし、仙術をあやつり、不老不死を得た人を示しています。また、この仙人になるために修行をする人は「道士」と呼びます。

この仙境とは、天にも地にも水辺にもあるとされ、従って、天境にあって道を極めた道士を「天仙」、地で修業をした人を「地仙」といいます。加えて、「水仙」というのは水辺で不老不死の域に達した道士、ということになります。

一般に仙人といえば白髯を生やした老人というイメージがありますが、中国では若々しい容貌で語られる仙人もおり、また女性の仙人もいるそうです。

上述のとおり、厳しい修業を積んだ末、高い山の上や仙島、天上といった仙境に住めるようになりますが、一般にこの仙境とは俗界を離れた静かで清浄な所であり、こうした神仙が住むような理想的な地のことを、「桃源郷」と呼びます。

そこへ行きさえすれば、仙人同様になれる、という伝説もあり、中国の東のほうの海には、「蓬莱」、「方丈」、「瀛洲」の三つの仙人の島(三島)があるともいわれています。

とはいえ、行さえすれば仙人になれるという安直な考え方はタブーであり、やはり仙人になるためには、さまざまな修行を積まなくてはなりません。その修行法には、呼吸法や歩行法、食事の選び方、住居の定め方、房中術までさまざまな方法がありますが、不老不死などの霊効をもつ霊薬「仙丹(金丹)」を練ることも修業のひとつです。

仙丹を練るので、「煉丹術」ともいい、これは「錬金術」とも言われます。昔の中国では、錬金術で金を生み出すためには、水銀(丹)を原料としており、このため仙道の求道者である道士の中には、水銀中毒になる人も多かったそうです。唐の皇帝も仙人修業をしたといわれており、水銀中毒であったといわれています。

いずれにせよ、仙人になるためには、心身の清浄を常に保ち、気としての「精」を漏らすことは禁物です。この「精」を練り続けることで、やがてこれは「気」に変化し、やがてこれが「仙丹(仙薬)」に発展します。こうした仙丹を練り続け仙人になるための修行法は「仙道」と呼ばれます。

この、仙人が造り出した仙丹を秦の始皇帝は欲しがり、道士のひとりであった「徐福」という人に命じたため、彼は東海にあるという仙人の島(三島)を探しもとめて出航しました。このとき、徐福は日本に逢着したとも伝えられており、このため日本各地に徐福伝説が残っています。

青森県から鹿児島県に至るまで、日本各地に徐福に関する伝承が残されていて、これらの徐福ゆかりの地としては、佐賀県佐賀市、三重県熊野市波田須町、和歌山県新宮市、鹿児島県いちき串木野市、山梨県富士吉田市、東京都八丈島、宮崎県延岡市などが有名です。

中国の軍師として知られる呂尚や諸葛亮なども仙術修業をしていたと伝えられており、実際に修業を終え、仙術を会得していたといわれています。

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そういえば、軍師といえば、この1月から、NHKの今年の大河ドラマとして、「軍師官兵衛」が始まりました。

調略に優れ、豊臣秀吉の側近として他大名との交渉などに活躍した人物ですが、本名は黒田孝高(くろだよしたか)といい、晩年に出家したあとに称した号によって「黒田如水」の名でも知られています。

生涯50数度の戦さで一度も負けたことがないとも言われ、しかもそのほとんどは、槍や刀で相手を殺すのではなく、智力で相手を倒したといわれています。キリシタン大名でもあり、その子には、こちらも有名な黒田長政がいます。

ドラマのほうの主演は、V6のメンバーでもある岡田准一さんで、その甘いマスクによってお茶の間の話題を独占……かと思われたのですが、初回放送ではまだこの岡田さんが登場していないせいもあってか、視聴率はかなり低かったようです。

が、私はそれほど悪くなかったと思うのですが、視聴率が低かったのは、有名な人物でありながら、秀吉の陰に隠れてわりと地味な人物であるためかもしれません。とはいえ、2回目からは岡田さんが登場するとのことなので、また視聴率もあがってくるのではないでしょうか。

実は、私はこの2回目以降をビデオに撮り貯めたままで、まだ見ていません。なので、ここでそのコメントはまだできませんが、おいおい、その感想なども書いていきたいと思います。

官兵衛の隠居後の号である「如水」の由来については、この時代にポルトガルからやってきたカトリック司祭で、宣教師のルイス・フロイスは、多年にわたる戦争で得た功績が彼にはその晩年、水泡が消え去るようなものだと感じていたからではないか、と書き残しているそうです。

このほか、如水とは、「水のごとし」という意味ですが、晩年の彼の心境が水の如く、清らかさで柔軟なものであったからではないか、という説もあるようです。

キリスト教の始祖、モーゼの後継者であり、カナンの地を攻め取った旧約聖書の「ヨシュア」のポルトガル語読みは、ジョズエ(Josué)であり、如水というのもここから取ったのではないかという説もあります。

そのキリスト教を日本にもたらしたのもポルトガル人宣教師たちであり、今日の冒頭のテーマであったスイセンもまた、ポルトガルが原産地だというのも、何か因縁めいたものを感じます。

無論、黒田官兵衛がスイセンが好きだったとかいった話はないようですが、彼が晩年徳川家康から賜った福岡の能古島(のこのしま)という博多湾に浮かぶ島は、博多湾を背景に10万本の水仙が咲く、花の名所だそうです。案外とここのスイセンもまたポルトガルからもたらされたものなのかもしれません。

官兵衛は、その最晩年には再建に努めた太宰府天満宮内に草庵を構えて暮らしており、その後、慶長9年に、京都伏見の黒田藩邸で59歳で死去しています。

死の間際、自分の「神の子羊」の祈祷文およびロザリオを持ってくるよう命じ、それを胸の上に置き、遺言としてポルトガルからの宣教師たちに教会を建てるための寄付金を与えるように命じたそうです。

その後、その遺骸は博多に運ばれ、この地で宣教師たちによって博多郊外のキリシタン墓地に隣接する松林のやや高い所に埋葬されました。主だった家臣が棺を担い、棺の側には長政がつきそっていたそうで、ポルトガル人宣教師たちもまた祭服を着て参列したそうです。

墓穴は人が200も入るほどの大きなものだったといい、その中に宣教師たちが降りて儀式を行い、如水を埋葬しましたが、おそらくその棺の周りにはきっと、遅咲きのスイセンが添えられていたに違いありません……

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