朝鮮戦争

2014-1130772昨今、テレビのニュースやワイドショーなどのいろんな番組をみていても、韓国と北朝鮮の話題が途切れることはまずありません。ほぼ毎日のように何等かのニュースがあちらから飛び込んできますが、これはやはり隣国であるという位置関係と、歴史的にみても腐れ縁の深い両国であるがゆえでしょう。

ところで、この二国が分裂する要因となった、朝鮮戦争というものが、いったいどんな戦争であったのか、については詳しい知識もないくせに、ことあるごとに拉致だの、竹島だと報道されるニュースにそりゃーないだろう、と憤慨だけしているのは、かねてから少々気恥ずかしい思いを持っていました。

なので、今日はひとつ、お勉強のつもりで、現在のような形の日本の存在とも関係のあるこの朝鮮戦争というものをまとめておきたいと思います。個人的、政治的な見解は抜きにして、ありのままを整理してみましょう。

朝鮮戦争は、成立したばかりの大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で、朝鮮半島の主権を巡り北朝鮮が、国境を越えて侵攻したことによって勃発した国際紛争であり、1950年6月25日に起こり、1953年7月27日にいったん、休戦の形をとって現在に至っています。

呼称に関しては、日本では朝鮮戦争もしくは朝鮮動乱と呼んでいますが、韓国では韓国戦争や韓国動乱、あるいは開戦日にちなみ6・25(ユギオ)と呼んでいます。

一方の北朝鮮では祖国解放戦争と呼んでいるようで、韓国を支援し国連軍として戦ったアメリカやイギリスでは英語でKorean War (朝鮮戦争)、北朝鮮を支援した中華人民共和国では抗美援朝戦争と呼ばれていて、この「美」は中国語表記でアメリカの略です。

また、一般的には戦線が朝鮮半島の北端から南端まで広く移動したことから「アコーディオン戦争」とも呼ばれているようです。

この戦争では、当事国ばかりでなく諸外国が交戦勢力として参戦し、朝鮮半島全土が戦場となって荒廃しました。前述のとおり1953年に休戦に至りましたが、北緯38度線付近の休戦時の前線が軍事境界線として認識され南北二国に分断されたままです。

現在も両国間に平和条約は結ばれておらず、緊張状態は解消されていません。北朝鮮側による領空・領海侵犯を原因とした武力衝突がたびたび発生していることはみなさんもご承知のとおりでしょう。

1945年8月15日、第二次世界大戦において日本は連合国に降伏しましたが、その時点で日本が併合していた朝鮮半島北部に連合国の1国のソ連軍(赤軍)が侵攻中であり、日本の降伏後も進軍を続けていました。

同じく連合国の1国で反共主義を掲げていたアメリカは、ソ連の急速な進軍で朝鮮半島全体が掌握されることを恐れ、ソ連に対し朝鮮半島の南北分割占領を提案。ソ連はこの提案を受け入れ、朝鮮半島は北緯38度線を境に北部をソ連軍が、南部をアメリカ軍が分割占領することになりました。

その後、米ソの対立を背景に南部は大韓民国(韓国)、北部は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)としてそれぞれが建国を行い、独立。

南北の軍事バランスは、ソ連および1949年に建国されたばかりの隣国中華人民共和国の支援を受けた北側が優勢で、武力による朝鮮半島の統一支配を目指す北朝鮮は1950年6月、韓国軍主力が半島南部に移動していた機を見て、防御が手薄となっていた国境の38度線を越え軍事侵攻に踏み切りました。

侵攻を受けた韓国側には進駐していたアメリカ軍を中心に、イギリスやフィリピン、オーストラリア、ベルギーやタイ王国などの国連加盟国で構成された国連軍(正式には「国連派遣軍」)が参戦しました。

一方の北朝鮮側には中国人民義勇軍(または「抗美援朝軍」「志願軍」)が、参戦しましたが、その実態は中国人民解放軍であり、これに加えてソ連は直接参戦はしないものの、武器調達や訓練などの形で支援し、これによってこの戦争はアメリカとソ連(中国)による代理戦争の様相を呈していきました。

戦争の経過としては、まず北朝鮮の奇襲攻撃にはじまりました。1950年6月25日午前4時(韓国時間)に、北緯38度線にて北朝鮮軍の砲撃が開始されましたが、このときとくに宣戦布告は行われなかったそうです。

そのわずか30分後には朝鮮人民軍が暗号命令「暴風」(ポップン)を受け、その約10万の兵力をもって38度線を越え、また、東海岸道においては、ゲリラ部隊が工作船団に分乗して後方に上陸し、韓国軍を分断し始めました。

このことを予測していなかった、韓国初の大統領、李承晩(イ・スンマン)とアメリカを初めとする西側諸国は大きな衝撃を受けます。

李承晩は、親米派の独立運動家で、ジョージ・ワシントン大学、ハーバード大学を経てプリンストン大学で博士号を取得した俊英であり、この頃起きた政界再編によって生まれた民主国民党(民国党)のリーダーとなって国民からも高い支持を得ていました。

前線の韓国軍では、一部の部隊が独断で警戒態勢をとっていたのみであり、農繁期だったこともあって、大部分の部隊は警戒態勢を解除していました。また、首都ソウルでは、前日に陸軍庁舎落成式の宴会があり、軍幹部の登庁が遅れて指揮系統が混乱していました。このため李承晩への報告は、奇襲後6時間経ってからだったといいます。

さらに、韓国軍には対戦車装備がなく、一方の北朝鮮軍にはソ連から貸与された当時の最新戦車であるT-34戦車を中核にした部隊があり、韓国軍はこの攻撃には全く歯が立たないまま、各所で敗退していきます。

ただしその一方では、開戦の翌々日には、春川市を攻撃していた北朝鮮軍がその半数の兵力しかない韓国軍の反撃によって潰滅状態になるなど、韓国軍の応戦体制も徐々に整いつつありました。

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ちょうどこのころ、連合国軍総司令官マッカーサーは日本にいて日本の占領統治に集中していました。このため、朝鮮半島の緊迫した情勢を把握していなかったらしく、このためトルーマン大統領がミズーリ州においこの開戦の報告を受けたのは、砲撃から10時間も過ぎた現地時間24日午後10時でした。

トルーマンは、ただちに国連安全保障理事会の開会措置をとるように命じてワシントンD.C.に帰還しましたが、彼の関心もまた、この当時の冷戦の最前線とみなされていたヨーロッパへ向いていました。

このため、まずはアメリカ人の韓国からの退去、および韓国軍への武器弾薬の補給、海軍第7艦隊の中華民国への出動を命じただけで、すぐには軍事介入を命じませんでした。

一方、6月27日に開催された国連の安保理は、北朝鮮を侵略者と認定、「その行動を非難し、軍事行動の停止と軍の撤退を求める」という主旨の「国際連合安全保障理事会決議」を全会一致で採択します。

南北の軍事バランスに差がある中で、北朝鮮軍の奇襲攻撃を受けた韓国軍は絶望的な戦いを続けていましたが、せめて国内にとどまる北朝鮮不正分子を排除しておこうと、6月27日に李承晩は、保導連盟員や南朝鮮労働党関係者の処刑命令を出します。

この保導連盟とは、韓国国軍や韓国警察が共産主義からの転向者やその家族を再教育するための統制組織であり、南朝鮮労働党とは、朝鮮の共産主義政党でした。この命令によって、これら組織の加盟者や収監中の政治犯や民間人など、少なくとも20万人あまりが大量虐殺されたといいます(保導連盟事件)。

同日、韓国政府はソウルを放棄し、南部に20kmほど離れた水原(スウォン)に遷都。他方、ソウルは6月28日、北朝鮮軍の攻撃により市民に多くの犠牲者を出した末についに陥落。この時、命令系統が混乱した韓国軍はソウル市内北部の漢江(ハンガン)にかかる橋を避難民ごと爆破しました(漢江人道橋爆破事件)。

これにより漢江以北には多数の軍部隊や住民が取り残され、自力で脱出することを迫られるところとなり、また、この失敗により韓国軍の士気も下がり、全滅が現実のものと感じられる状況になっていきました。

北朝鮮軍は中国共産党軍やソ連軍に属していた朝鮮族部隊をそのまま北朝鮮軍師団に改編した部隊など練度が高かったのに対し、韓国軍は将校の多くは太平洋戦争中には日本軍の軍人であり、建国後に新たに編成された師団の指揮官となった生粋の韓国軍人とは反りが合わず、各部隊毎の指揮系統に問題があると同時に訓練も十分ではありませんでした。

また、来るべき戦争に備えて訓練、準備を行っていた北朝鮮軍は、装備や戦術がソ連流に統一されていたのに対して、韓国軍は戦術が日本流のものとアメリカ流のものが混在し、装備はアメリカ軍から供給された比較的新しい物が中心であったためその扱いに不慣れでした。

しかも米韓軍事協定の制約により、重火器はわずかしか支給されず戦車は1輌も存在しませんでした。

また、航空機も、第二次世界大戦時に使用されていた旧式のアメリカ製戦闘機が少数あるのみであり、この結果、陸軍はまたたく間に朝鮮軍に蹂躙されて潰滅して敗走を続け、貧弱な空軍も、緒戦における北朝鮮軍のイリューシン Il-10攻撃機などによる空襲で撃破されていきました。

マッカーサーは6月29日に東京の羽田空港より専用機のダグラスC-54「バターン号」で水原に入り、自動車で前線を視察しました。敗走する韓国軍兵士と負傷者でひしめいている中、この時すでに彼は70歳を超えていましたが、自ら活発に戦場を歩き回ったといいます。

この日彼は派兵を韓国軍と約束し、その日の午後5時に本拠としていた東京へ戻りましたが、その後もたびたび東京を拠点に専用機で戦線へ出向き、日帰りでとんぼ返りするという指揮方式を取り続けました。

やがて、マッカーサーは本国の陸軍参謀総長に対して、在日アメリカ軍4個師団の内、2個師団を投入するように進言しますが、この進言にあたっては大統領の承認は得ていませんでした。

さらにマッカーサーは、本国からの回答が届く前に、ボーイングB-29やB-50大型爆撃機を日本の基地から発進させ、北朝鮮が占領した金浦空港を空襲させるなど、このころから既に独断でこの戦争を推し進めようとする風潮がありました。こうした空気を読み取ったトルーマンもまた、マッカーサーに、1個師団のみしか派兵を許可しませんでした。

ちなみに、この時、日米合わせたアメリカ陸軍の総兵力は59万2000人でしたが、これは第二次世界大戦参戦時の1941年12月の半分に過ぎず、第二次世界大戦に参戦した兵士はほとんど帰国、退役し、新たに徴兵された多くの兵士は実戦を経験していませんでした。

一方の韓国軍は、7月3日に蔡秉徳(チェ・ピョンドク・元日本陸軍少佐)が参謀総長を解任され、丁一権((チョン・イルグォン・元日本陸士)が新たに参謀総長となり、混乱した軍の建て直しに当たり始めました。しかし、派遣されたアメリカ軍先遣隊は7月4日に北朝鮮軍と交戦を開始しますが、7月5日には敗北してしまいます(烏山(オサン)の戦い)。

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これに先立つ一週間ほど前の、6月27日には、国連安保理は北朝鮮弾劾・武力制裁決議に基づき、韓国を防衛するため必要な援助を韓国に与えるよう加盟国に勧告していました。

これを受け、7月7日になって、アメリカ軍25万人を中心として、日本占領のために西日本に駐留していたイギリスやオーストラリア、ニュージーランドなどのイギリス連邦占領軍を含むイギリス連邦諸国、さらにタイ王国やコロンビア、ベルギーなども加わった国連軍が結成されます。

しかし、準備不足で人員、装備に劣る国連軍は各地で北朝鮮軍に敗北を続け、アメリカ軍が大田(テジョン)の戦いで大敗を喫すると、国連軍は最後の砦、洛東江戦線にまで追い詰められていきます。

しかし、この頃北朝鮮軍の勢力にも陰りが見え始めていました。不足し始めた兵力を現地から徴集した兵で補い人民義勇軍を組織化し、再三に渡り大攻勢を繰り広げましたが、各地からバラバラに兵士を募ったため、これは後の離散家族発生の一因ともなりました。

金日成(キム・イルソン)は「解放記念日」の8月15日までに国連軍を朝鮮半島から放逐し統一するつもりでしたが、国連軍は「韓国にダンケルクはない」と釜山橋頭堡の戦いで撤退を拒否し、徹底抗戦をして、釜山の周辺においてようやく北朝鮮軍の進撃を止めました。

ダンケルクというのは、第二次世界大戦の西部戦線において侵攻するドイツに対して連合国側が輸送船の他に小型艇、駆逐艦、民間船などすべてを動員した史上最大の撤退作戦です。

マッカーサーは新たに第10軍を編成し、数度に渡る牽制の後の9月15日、アメリカ第1海兵師団および第7歩兵師団、さらに韓国軍の一部からなる約7万人をソウル近郊の仁川(インチョン)に上陸させて仁川上陸作戦(クロマイト作戦)に成功します。

また、仁川上陸作戦に連動したスレッジハンマー作戦で、アメリカ軍とイギリス軍、韓国軍を中心とした国連軍の大規模な反攻が開始されると、戦局は一変しました。

補給部隊が貧弱であった北朝鮮軍は、38度線から300km以上離れた釜山周辺での戦闘で大きく消耗し、さらに補給線が分断していたこともあり敗走を続け、9月28日に国連軍がソウルを奪還し、9月29日には李承晩ら大韓民国の首脳もまたソウルへの帰還を果たしました。

10月1日、韓国軍は「祖国統一の好機」と踏んだ李承晩大統領の命を受け、第8軍の承認を受けて単独で38度線を突破。これを危機的な状況と考えた北朝鮮は、その翌日の2日、朴憲永(パク・ホニョン)が中華人民共和国首脳に参戦を要請します。

この朴憲永という人は、南朝鮮労働党系(南労党派)であり、満州派である金日成とは対立していましたが、朝鮮戦争当時は共通の敵のために結託していました。が、戦後に朴憲永以下南労党派はクーデター容疑および「アメリカ帝国主義のスパイ」「反党分裂分子」などの容疑で一斉に逮捕され、粛清されています。

彼の要請を受けた、中華人民共和国の国務院総理(首相)の周恩来は「韓国軍だけでなく、国連軍が38度線を越境すれば参戦する」と警告。一方、国連安保理では、国連軍による38度線突破の提案が出され、これは最初、ソ連の拒否権により葬られましたが、10月7日、アメリカの提案により国連総会で議決しました。

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これにより10月9日にアメリカ軍を中心とした国連軍も38度線を越えて進撃し、10月20日に国連軍は北朝鮮の臨時首都の平壌を制圧しました。ちなみに北朝鮮は1948年から1972年までソウルを首都に定めていました。

アメリカ軍を中心とした国連軍はさらに反撃を続け、トルーマン大統領やアメリカ統合参謀本部の警告を無視して北上し、敗走する北朝鮮軍を追いなおも進撃を続けていき、ついには、北朝鮮中部の東側にある軍港、元山市にまで迫ります。

国連軍よりさらに先行していた韓国軍に至っては朝鮮北部にまで到達し、一時は中朝国境の鴨緑江に達し、ついには、すわ南北両国の「統一間近」とまで騒がれました。ところが、彼等はちょうどこのころ中国軍が北朝鮮軍に合流すべくその派遣の準備を進めているとは考えていませんでした。

一方のソ連はアメリカを刺激することを恐れ、表立った軍事的支援は行わず、同盟関係の中華人民共和国に肩代わりを求めるだけにとどまっていました。

その、これまで参戦には消極的だった中華人民共和国が、北朝鮮への韓国軍・国連軍の攻勢を目の当たりにし、北朝鮮との約束に従って中国人民解放軍を「義勇兵」として派遣することを遂に決定します。

派兵された「中国人民志願軍」は、彭徳懐(ポン・ドーファイ)を司令官とし、ソ連から支給された最新鋭の武器のみならず、第二次世界大戦時にソ連やアメリカなどから支給された武器と、戦後に日本軍の武装解除により接収した武器を使用し、最前線だけで20万人規模、後方待機も含めると100万人規模の大軍に膨れ上がりました。

中朝国境付近に集結した中国人民解放軍は10月19日から隠密裏に北朝鮮への侵入を開始し、10月25日、迫撃砲を中心とした攻撃を韓国軍に仕掛けます。韓国側はこれを北朝鮮軍による攻撃ではないと気付き、捕虜を尋問した結果、中国人民解放軍の大部隊が鴨緑江を越えて進撃を始めたことを確認して、驚愕します。

が、とき既に遅しでした。11月に入ってからは、中国人民解放軍はさらに国連軍に対して攻勢をかけ、その猛烈な反撃に、アメリカ軍やイギリス軍はこれに抗しきれず徐々に南下し始めました。

国連軍・韓国軍としては、中国人民解放軍の早期参戦はまったく予想していなかった上、中国国境付近まで進撃したため補給線が延び切って、武器弾薬・防寒具が不足しており、これに即応することができなくなっていました。

また、中国人民解放軍は街道ではなく山間部を煙幕を張って進軍したため、国連軍の空からの偵察の目を欺くことにも成功していました。

国連軍も、11月24日には鴨緑江付近にまで戻って中国人民解放軍に対する反撃を開始し始めましたが、中国人民解放軍は山間部を移動し、神出鬼没な攻撃と人海戦術により国連軍を圧倒、その山間部を進撃していた韓国第二軍が壊滅すると、黄海側、日本海側を進む国連軍も包囲されてしまいます。

ついにはこらえきれなくなり、ついに平壌を放棄した国連軍と韓国軍は、一気に38度線近くまで潰走しました。

この戦いでは、また、ソ連の援助により最新鋭機であるジェット戦闘機のミコヤンMiG-15が投入され、国連軍に編入されたアメリカ空軍の主力ジェット戦闘機のリパブリックF-84やロッキードF-80、F9F、イギリス空軍のグロスター ミーティアとの間で史上初のジェット戦闘機同士の空中戦が繰り広げられました。

初期のMiG-15は機体設計に欠陥を抱えていたこともあり、F-86に圧倒されたものの、改良型のMiG-15bisが投入されると再び互角の戦いを見せ始め、これに対しアメリカ軍も改良型のF-86EやF-86Fを次々に投入しましたが、なかなか戦況の回復は見込めませんでした。

MiG-15の導入による一時的な制空権奪還で勢いづいた中朝共同軍は12月5日に平壌を奪回、年を越して、1951年1月4日にはソウルを再度奪回します。

ちょうどその二日後の1月6日には、韓国軍・民兵が北朝鮮に協力したなどとして江華島住民を虐殺するという悲惨な事件を起こしています(江華良民虐殺事件)。この島は南北両国の境界付近の西岸にあり、全員非武装の民間人、約1,300人が犠牲者となりました。

そんな事件を起こすほど、指揮系統は混乱していたのでしょう。韓国軍・国連軍の戦線はもはや潰滅し、2月までには現在の韓国の中央部に位置する忠清道(チュンチョンプクト)まで退却しました。

また、激しく南北に動く戦線に追われる中、横領によって食糧が不足して9万名の韓国兵が命を落としました。2月9日には韓国陸軍第11師団によって、385人の民間人が虐殺されるという事件も引き起こされました(居昌良民虐殺事件)。

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このように、中国軍が参戦してからは、日中戦争や国共内戦における中華民国軍との戦いで積んだ彼等の経験と人命を度外視した人海戦術が効を奏し、北朝鮮軍の優勢は続きました。また彼等はソ連から支給された最新兵器や日本軍の残して行った残存兵器を豊富に持っていました。

ところが、この頃には度重なる戦闘で高い経験を持つ古参兵の多くが戦死したことや、今度は逆に彼らが南部に深入りしすぎたことで補給線が延び切り、この攻勢にも徐々に陰りが出始めました。

これに対し、アメリカやイギリス製の最新兵器の調達が進んだ国連軍は、ようやく態勢を立て直して反撃を開始し3月14日にはソウルを再々奪回します。

こうして、戦況は38度線付近で膠着状態となり、1951年3月24日にトルーマンは、「停戦を模索する用意がある」との声明を発表する準備を始めました。ところが、これを事前に察知したマッカーサーは、「中華人民共和国を叩きのめす」との声明を政府の許可を得ずに発表し、38度線以北進撃を命令します。

これを受けて、国連軍は3月25日に東海岸地域から38度線を突破し、空戦においても、ここへきてようやく改良型のF-86EやF-86Fの投入が効を奏しはじめ、戦況は、アメリカ軍の優位へと変わっていきました。

こうした戦況の変化を見たマッカーサーは、太平洋戦争中に日本が多額の投資により一大工業地帯としていた満州国の工業設備やインフラストラクチャー施設を、ボーイングB-29で爆撃することをほのめかし始めました。

またB-29を改良した最新型のB-50からなる戦略空軍の派遣や中国軍の物資補給を絶つために放射性物質の散布まで行うと、言いはじめました。さらにマッカーサーは、他の中国国内各地への攻撃や、同国と激しく対立していた中華民国の中国国民党軍の朝鮮半島への投入、さらに原子爆弾の使用にまで言及するなど、次第に過激になっていきます。

戦闘状態の解決を模索していた国連やアメリカ政府中枢の意向を無視し、あからさまにシビリアンコントロールを無視した発言を繰り返るようになるマッカーサーを見ていたトルーマン大統領は、彼が暴走を続けた末に、戦闘が中華人民共和国の国内にまで拡大することを懸念しました。

中国への侵攻によってソ連を刺激し、ひいてはヨーロッパまで緊張状態にし、その結果として第三次世界大戦に発展することを恐れたトルーマン大統領は、こうして4月11日にマッカーサーをすべての軍の地位から解任しました。

国連軍総司令官および連合国軍最高司令官の後任には同じくアメリカ軍の第8軍及び第10軍司令官のマシュー・リッジウェイ大将が着任しました。

解任されたマッカーサーは、4月16日に専用機「バターン号」で家族とともに東京国際空港からアメリカに帰国し、帰国パレードを行った後にアメリカ連邦議会上下両院での退任演説をして退役し、こうして彼の華やかな軍歴は幕を閉じました。

この後、1951年6月23日にソ連のヤコフ・マリク国連大使が休戦協定の締結を提案したことによって停戦が模索され、1951年7月10日からは、開城(ケソン)において休戦会談が断続的に繰り返されました。しかし、双方が少しでも有利な条件での停戦を要求しようとするため交渉は難航します。

こうした状況下のなかで、さらに新しい年が明けます。1952年1月18日には、実質的な休戦状態となったことで軍事的に余裕をもった韓国は、李承晩ラインを宣言し竹島、対馬の領有を宣言。このころはまだ連合国占領下にあり、自国軍を持たないかつての宗主国である日本へ強硬姿勢を取るようになっていきました。

1953年に入ると、アメリカでは1月にトルーマンに代わってアイゼンハワー大統領が就任。ソ連では3月にスターリンが死去し、両陣営の指導者が交代して状況が変化しました。これを受けて、1953年7月27日には、38度線近辺の板門店で北朝鮮、中国軍両軍と国連軍の間でようやく休戦協定が結ばれる運びとなりました。

こうして、3年間続いた戦争は一時の終結をみます。が、現在も停戦中であることには変わりはありません。

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しかし、停戦協定は結ばれたものの、38度線以南の大都市である開城を奪回できなかったのは、国連軍の大失敗であったとされています。

ここで、なぜ開城は、38度線より南にあるのに北朝鮮領土なのだろうと疑問に思う人も多いでしょう。

38度線と言えば、この北緯38度のラインで東西にまっすぐなイメージを持つ人も多いと思いますが、実は、この「停戦ライン」としての38度線はあくまでも「付近」であり、実際には西南西から東北東へと向かうかなりいびつな線です。

第二次世界大戦後から朝鮮戦争勃発までは南側であった黄海道の海岸部や京畿道の開城は朝鮮戦争停戦後には北側となり、逆に江原道の一部(束草市など)は北側から南側となる、という具合に、この38度線は比較的大きな街の周囲を縫うように通っています。

北側になってからの開城もまた、戦争前は南側の韓国の統治圏内でしたが、戦争後は北朝鮮の統治圏内になりました。開城の人々は戦争の際、南に逃れた人もいれば、開城に留まった人もおり、この結果、南北間の離散家族は開城出身者が最も多くなっています。

このための配慮もあり、開城とその周辺地域は、現在、「朝鮮民主主義人民共和国」となった北朝鮮においても、どの道にも属さない「開城直轄市」として1950年代半ばから行政がなされてきました。軍事境界線に最も近い主要都市であることから、監視の目は厳しいながらも、韓国人にとって陸路での観光が可能な北朝鮮唯一の都市となっています。

2003年、開城市の一部と板門郡が特区「開城工業地区」として再編されるとともに、ここにおいてのみ、韓国と共同で各種工業を興こすことが試されるようになりました。

この「開城工業地区」の中にはソウルとまったく同じバスが走っておりコンビニエンスストアもあるそうです。が、韓国人に貧しい状況を見せないよう、観光開始に伴い北朝鮮政府が住民に自転車を配ったものの、街に人通りは少なく動いている車はほとんどない状態で、街に電気の通っている形跡さえほとんど見られないといいます。

南北経済協力事業として、開城工業団地に進出している韓国企業は120社以上にのぼるそうですが、韓国メディアによると現在10社以上が撤収を検討しており、撤収の動きが広まっているようです。

朝鮮戦争後、両国間には中立を宣言したスイス、スウェーデン、チェコスロバキア、ポーランドの4カ国によって中立国停戦監視委員会が置かれました。中国人民志願軍は停戦後も北朝鮮内に駐留していましたが、1958年10月26日に完全撤収しています。

近年、北朝鮮は、この協定を無視する動きを見せ始め、再び両国がきな臭くなり始めています。2013年3月には、「米韓が合同演習を開始したこと」を理由として、北朝鮮は朝鮮労働党機関紙で朝鮮戦争休戦協定を白紙に戻すと言明しており、今後ともその動きからは目が離せません。

ところで、この朝鮮戦争においては、いったいどのくらいの犠牲者が出たのでしょうか。

ソウルの支配者が二転三転する激しい戦闘の結果、韓国軍は約20万人、アメリカ軍は約14万人、国連軍全体では36万人が死傷したといわれ、この戦争では毛沢東の息子の一人毛岸英(もうがんえい)も戦死しています。

アメリカ国防総省の発表では、死亡者にだけ着目すると、アメリカ軍戦死者は3万3686人、戦闘以外での死者は2830人、戦闘中行方不明は8176人にのぼります。

また、西側の推定によれば中国人民志願軍は10万から150万人(多くの推計では約40万人)、人民解放軍は21万4000から52万人(多くの推計では50万人)の死者をそれぞれ出しているようです。

ただし、中華人民共和国側の公式情報によれば、中国人民志願軍は戦死者11万4000人、戦闘以外での死者は3万4000人、行方不明者7600人と西側の発表より少なくなっていますが、これは当然情報操作の結果でしょう。

また一般市民の犠牲者も多く、韓国では約24万5000から41万5000人にのぼる一般市民の犠牲が明らかにされ、戦争中の市民の犠牲は150万から300万(多くの推計では約200万)と見積もられています。

実は、朝鮮戦争における惨劇の最悪の実行者は、軍関係者ではなく、韓国警察であったとも言われています。開戦から間もないころまでは、欧米メディアによって韓国警察と韓国軍による子供を含む虐殺、強盗、たかりなどが報じられていたものの、アメリカ軍による報道検閲の実施により隠ぺいされたものも多数あるようです。

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一方の北朝鮮ですが、中華人民共和国側によれば、北朝鮮は29万人の犠牲を出し、9万人がとらえられ、「非常に多く」の市民の犠牲を出したとされています。

が、実際にはこれ以上だったはずであり、戦線が絶えず移動を続けたことにより、地上戦が数度に渡り行われた都市も多く、最終的な民間人の犠牲者の数は100万人とも200万人とも言われ、全体で400万人~500万人の犠牲者が出たという説もあるようです。

が、この数字は少々誇張が過ぎるようで、客観的にみれば、南北別の合計の死亡者数の内訳は、北朝鮮側の死者が250万人、韓国側は133万人といったところのようです。無論この数字の中には戦闘で亡くなった人以外の多数の一般市民が含まれています。

これに対して、中国人民志願軍と人民解放軍の死者の合計が推計約90万人、アメリカ軍はおよそ5万人です。従って、これらすべて合計すると、500万人もの人命がこの戦争で失われたことになります。ただし、あくまで推計でこれ以上になる可能性も高いようです。

北朝鮮軍に人的被害が特に多いのは、旧式の兵器と人的損害を顧みない人海戦術をとった為に、近代兵器を使用した国連軍の大規模な火力、空軍力、艦砲射撃により大きな損害を被った事が一因とされます。いずれにせよ、これだけ多くの国民が亡くなっているわけですから、アメリカなどの連合諸国への恨みは相当根深い、というのも分かる気がします。

中国軍も少なからぬ犠牲者を出していますが、これは中国人民志願軍側は最前線に政治犯を投入し、正規軍の弾よけかわりに政治犯を使用したとされたことも大きかったといわれています。大規模兵力を人海戦術で保った中国人民志願軍は補給に問題があり、それが分かった国連軍は、のちに強力な砲兵による集中火力と空からの攻撃で戦果を挙げました。

また、アメリカ空軍は80万回以上、海軍航空隊は25万回以上の爆撃を行いました。その85パーセントは民間施設を目標としたことが、民間への被害を拡大しました。56万4436トンの爆弾と3万2357トンのナパーム弾が投下され、爆弾の総重量は60万トン以上にのぼり、これは第二次世界大戦で日本に投下された16万トンの3.7倍です。

また、この戦争の結果、「夫が兵士として戦っている間に郷里が占領された」、というような離散家族が多数生まれました。マッカーサーは平壌に核爆弾を投下する構えを見せ、そのため大量の人が南側に脱出し、これも離散家族大量発生の原因となっています。

両軍の最前線の38度線が事実上の国境線となり、南北間の往来が絶望的となった上、その後双方の政権(李承晩、金日成)が独裁政権として安定することとなったことも、この一家離散の助長につながりました。

現在、日本は韓国と同じように北朝鮮を国家として正式には承認していません。外務省の各国・地域情勢ウェブページでも「北朝鮮」と地域扱いしているだけです。

これは南北朝鮮両国も同じです。両国とも互いに国家として承認せず、北朝鮮の地図では韓国が、韓国の地図では北朝鮮地区が自国内として記載されており、行政区分や町名、施設のマークなどは記載されていません。さらに国際法上では現在も戦闘が終結しておらず、依然「休戦中」のままです。

このあたりが、第二次大戦後に東西に分裂したドイツとは違うところです。ドイツでは、東西が分断されながらも互いが戦火を交えたことはなく、相互に主権を確認しあってきた結果、その後の国交樹立、国際連合加盟、そして統一まで至ったのです。

ところで、この朝鮮戦争には、実は日本人も参戦していたということをご存知でしょうか。

日本からは、日本を占領下においていた連合国軍の要請(事実上の命令)を受けて、海上保安官や民間船員など8000名以上を国連軍の作戦に参加しており、開戦からの半年に限っただけでも56名が命を落としています。

このうちの22名は、日本がこの朝鮮戦争に派遣していた海上保安省の職員で、彼等が乗船していた韓国の大型曳船が、1950年11月に元山沖で触雷して沈没した際に死亡したものです。

この海上保安庁職員の派遣についてもう少し詳しく書くと、朝鮮戦争では、第二次世界大戦の終戦以降日本を占領下に置いていた連合国軍、特に国連軍として朝鮮戦争に参戦していたアメリカ軍やイギリス軍がその指示を出し、日本の海上保安庁の掃海部隊からなる「特別掃海隊」という部隊が結成されました。

開戦直後から、北朝鮮軍は機雷戦活動を開始しており、これを確認したアメリカ海軍第7艦隊司令官は旗下の部隊に機雷対処を命じました。が、国連軍編成後も国連軍掃海部隊(事実上のアメリカ軍部隊)の機雷処理体制は不十分でした。

このため、北朝鮮東部の元山(ウォンサン)に上陸作戦などを予定していた国連軍は、日本の海上保安庁の掃海部隊の派遣を求めることを決定し、アメリカ極東海軍司令官から山崎猛運輸大臣に対し、日本の掃海艇使用について、文書をもって「指令」を出しました。

米軍占領下にあった日本は、「指令」ですから、この命令には抗えず、こうして吉田茂首相の承認の下、連合国軍の指示に従い、10月には海上保安庁に掃海部隊の編成を要請しました。

掃海とはいえ、戦場での活動は、実質的に戦争行為とみなされても仕方のない作戦行動であり、事実上この掃海活動は、第二次世界大戦後の日本にとっては、海外における初めての軍事行動ということになります。

しかし、この派遣は、国会承認もなしに行われ、のちに掃海艇を派遣していた事実が明るみに出たとき、憲法9条との兼ね合いから当時の国会において与野党の激しい論戦の火だねとなったことは言うまでもありません。

また、極秘であった筈のこの作戦の内容はソ連や中華人民共和国から、これらと関係の深い日本社会党と日本共産党にリークされ、第10回国会以降に吉田茂首相への攻撃材料ともなりました。

こうして元山沖に到着した日本掃海隊は10月10日から掃海作業に着手し、12月4日までの掃海作業において、能勢隊が処分した3個を含め計8個の機雷を処分する成果を挙げました。

が、10月17日には一隻の掃海艇が触雷により沈没し、行方不明者1名及び重軽傷者18名を出しているほか、上述のように韓国側が用意した曳船に乗船していた22名が命を落としています。

このほかにも、この掃海隊は鎮南浦(ナムポ)や群山(クンサン)でも掃海作業を行っており、12月15日に、国連軍のアメリカ極東海軍司令官は文書を以て掃海作業の終了を指示するまで、日本特別掃海隊の活動は続きました。

特別掃海隊が活動した全期間は、1950年10月10日から12月15日にかけての約二か月にすぎませんでしたが、この間に全部で46隻の掃海艇等により、機雷27個を処分する成果を挙げています。

この作戦は一見地味ですが、海運と近海漁業の安全確保を得たと同時に、国連軍が制海権を確保する為に役立ち、後の朝鮮戦争の戦局を大きく左右する要因となりました。

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この戦争においてはまた、日本人ではありませんが、多くの在日韓国人が戦場に狩り出されました。「在日本大韓民国民団」は在日韓国人の10人に1人にあたる6万人の志願者を予定し、志願兵の募集を行いましたが、結局集まったのは在日韓国人647名、日本人150名だけでした。

このとき、志願に応じた日本人は除外され、在日韓国人の中から641名だけが選抜されて前線に送りこまれましたが、このうちの在日学徒義勇軍の135名が戦死、行方不明となり、242名がそのまま韓国に残留する、という結果になりました。

このほかにも多数の在日韓国人が、この戦争に参加したようですが、正確な数はわかっていないようです。また、日本人も上記のような掃海隊の隊員のような正規の形ではなく、作業員として参加した民間人も多く、例えば、アメリカ軍によって集められた日本人港湾労働者数千人が韓国の港で荷役作業を行っています。

このように、朝鮮戦争は、被害は少なかったものの日本にとっても、「小さな戦争」でした。ただ、この戦争のおかげで日本は、いわゆる「朝鮮特需」を受けることができ、これは物資や人不足に悩む戦後日本の復興の大きな追い風となりました。

この朝鮮特需とは、朝鮮戦争に伴い、主に在朝鮮アメリカ軍、在日アメリカ軍から日本に発注された物資やサービスを指すものです。また在日国連軍、外国関係機関による間接特需という分類も存在しました。

朝鮮戦争勃発直後の 8月25日には横浜に在日兵站司令部が置かれ、主に直接調達方式により大量の物資が買い付けられています。

その額は1950年から1952年までの3年間に特需として10億ドル、1955年までの間接特需として36億ドルと言われます。なお、朝鮮特需によって引き起こされた好景気は特需景気、糸ヘン景気、金ヘン景気、朝鮮戦争ブーム、 朝鮮動乱ブームなどと呼ばれました。

この当時、占領軍は日本の物品税、揮発油税を免除されていたため、彼等との取引自体からの間接税収入は得られませんでしたが、特需の恩恵を受けた各種産業の業績が好転したことで、最終的に国内向け産品の税収が伸びました。

1951年の法人税上位10位はすべて繊維業種です。発注を受けた企業や関連企業は、敗戦によって中断されていた最新技術を入手できたほか、アメリカ式の大量生産技術を学ぶ機会を得ることが出来ました。

戦前の非効率的な生産方式から脱却し、再び産業立国になる上で重要な技術とノウハウを手に入れただけでなく、多くの雇用と外貨を確保することも出来ました。

それまでの日本の工場生産においては、品質管理的手法が取り入れられておらず、とにかく数を生産すれば良いという風潮があったため不良品がそのまま出荷されるということは珍しいことではなかったようです。

実際に太平洋戦争末期には工程管理という思想は一部では取り入れられつつありましたが、それも不十分なものであり、工員個人の技術力により製品の品質が左右される状態は戦後もそのままでした。

しかし不良品を受け取る米軍としてはたまったものではないため、直接的に日本の各工場へアメリカの技術者が出向いて品質管理や工程管理の指導を行ったことにより効率的な量産が行われるようになりました。そういう意味では日本の産業界の工場生産においては大転換期であり、戦後の高度経済成長の礎となったことは間違いありません。

また、表だっての動きではありませんが、日本の軍事産業もまた、この朝鮮戦争で復活したきらいがあります。

とくにこの特需によって日本の造船業は早期に海運業とともに回復するとともに成長路線に戻り、戦後日本の経済成長を支えました。

また、三菱重工や小松製作所などの国内主要軍事産業は、朝鮮特需と1950年に発足した警察予備隊に供与された車輌(M4A3E8中戦車、M24軽戦車など)の保守整備や修理を請け負う中で、米国の製造技術等を吸収し、戦後空白期の技術の遅れを取り戻しつつ、後に、ST(61式戦車)などを製造できるまでの技術力を得ました。

さらに、朝鮮戦争の際、アメリカ軍が戦闘機の修理や部品供給を日本に発注したことから、航空産業もまた復活を迎え、占領中に他業種で生き残りを図った三菱、富士、川崎といった大企業が復活し、こうして再取得した技術と戦前の技術を合わせ、のちにはT-1やYS-11といった名作が生まれました。

あまり上品な言い方とはいえませんが、この特需によって多大な利益を得た日本人にとっては、朝鮮戦争様様といったところがあったことは否めません。

がしかし、北朝鮮による拉致被害者問題や、韓国との竹島領有問題などなど、朝鮮戦争に端を発したこの北の2国との冷たい争乱はまだまだ続いていきそうです。いつの日か、二国間の休戦が終わった時、あるいはその刃は今度は日本に向けられるかもしれません。

戦争様様などと喜んでいてはいけません。最後にひとつだけ、私見を述べさせていただくとすれば、日本人は憲法9条を守り通し、その不戦の誓いを世界に発してつづけていってほしいと思う次第です。

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深海の使者

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昨夜ニュースをみていたら、兵庫県沖でまた体長4メートルあまりのダイオウイカが水揚げされたことを報道していました。

生きたまま捕獲されたのは今回が初めてで、サザエの素潜り漁をしていた漁師さんが、ふと上を見上げたら、頭上を悠々と泳いでいたダイオウイカを発見。咄嗟に持っていたロープをイカの胴体に絡めて、漁船まで引っ張っていったのだそうです。

これまでも、このダイオウイカに関してはさんざん報道されていて、捕獲してもアンモニア臭くて喰えたものではない、というのは漁師さんのほうも知っていたようですが、一生に一度出会えるかどうかわからない「主」ということで、興味のほうが先だったようです。

そのまま泳がせて逃がしてやればよかったのに、かわいそうに、とついつい思ってしまうのですが、こうした生物を研究している専門家にとっては新たな試料が増えたわけであり、小躍りして喜んでいるのかもしれません。

それにしても、最近はこのダイオウイカの目撃談が増えていて、日本海側では頻繁にあそこで見た、ここで見たという報告が増えているそうで、捕獲されたものとしてはこの兵庫県沖以外にも、先月の1月4日富山県氷見漁港で体長3.5メートルのダイオウイカが水揚げされました。

もっとも、こちらは陸まで上げたときには死んでいたようで、シーズンの寒ブリの網にかかって水揚げされたものでした。

かつては幻と言われていた魚が、これほど頻繁に我々の目の前に現れる理由としては、今年は寒かったために海流の変化が起こったためとか、地球温暖化のせいだとかいろいろ説があるようですが、地震の予兆ではないかと言う人まで出てきて、そういう話を聞くと少々不気味です。

3年前の東日本大震災は3月11日に起こっていますから、直近にまた地震が起きるのではと思ってしまいます。これは魚座の誕生月に発生した地震であり、この星座の生まれの心優しい私としては、必要もないのに罪悪感を感じてしまったりするのでした。

このダイオウイカですが、これまでもさんざん報道されているので、いまさらではあるのですが、通常のイカよりも数十倍もドデカイだけに興味深い対象物ではあります。

これまでは発見数が少なく、しかも台風によって浜辺に打ち上げられたりして、死骸になった状態で漂着するなどの発見例が大半でした。

生きている個体の目撃例はほとんどなく、その生きている映像は、日本の研究家が2006年(平成18年)12月に小笠原沖650M付近に仕掛けた深海たて縄で捕獲したダイオウイカを船上から撮影したものが世界初とされています。

この際の映像での体色は赤褐色でしたが、2013年にも行われた同じ小笠原沖の深海調査で発見された生きたダイオウイカの映像をみると、活発に活動しながら他のイカと同様に体色もカラフルに変化させ、光を反射する黄金色の体色でした。

標本や死んで打ち上げられた多くの個体は、表皮が剥がれ落ち、白く変色するため、その色素がどう変化するについては依然謎のままであり、また今回のように捕獲されたものもすぐに死んでしまったため、生きている時にどのように活動しているのかについてもよくわかっていないようです。

ニュージーランド近海の調査では、ダイオウイカが捕食する獲物は、オレンジラフィー(タイの一種)やホキといった魚や、アカイカ、深海に棲むもっと小さいイカなどであることが、胃の内容物などから明らかにされていそうですが、まだまだ生態、個体差ともに不明な点が多く、詳細は今後の研究が待たれる状態です。

そもそもその大きさのために、「大王」の名が付けられたようですが、日本での発見例は外套長1.8m、触腕を含めて6.5mほどが最大です。

英語では giant squid(ジャイアント・スクィッド)といいますが、ヨーロッパで発見された個体ともなると、大きなものは体長18mを超えており、この倍以上です。この個体は、直径30センチメートルにもなる巨大な目を持っていたそうで、これだけでなく、一般にダイオウイカは目玉がでかいのが特徴だといいます。

これによりごく僅かの光をも捉え、深海の暗闇においても視力を発揮するためといわれており、小笠原沖で撮影されたダイオウイカの目玉もビデオで見る限りはギョロリとデカく、見つめられると思わずすくんでしまいそうでした。

世界各地に存在する伝説に登場する巨大な海の怪物「クラーケン」はダイオウイカをモデルにしているといわれていますが、イカだけでなく、タコとして描かれることも多いようです。

クラーケンは、とくに北欧で数多くの伝承が残っていて、中世から近世にかけて、ノルウェー近海やアイスランド沖に数多く出現したとされています。

クラーケンの姿や大きさについては伝説によって異なり、巨大なタコやイカといった頭足類の姿で描かれることが多いものの、このほかにも、シーサーペント(大海蛇)やドラゴンの一種、エビ、ザリガニなどの甲殻類、クラゲやヒトデ等々、様々です。

姿がどのようであれ一貫して語られるのはその驚異的な大きさであり、「島と間違えて上陸した者がそのまま海に引きずり込まれるように消えてしまう」といった類の種類の伝承が数多く残っています。

日本にも赤鱏(あかえい)という巨大魚の伝説があり、江戸時代後期の奇談集『絵本百物語』(天保12年(1841年)刊)にも登場します。

この伝承では、安房国(現在の千葉県南端)の野島崎から出航した舟が、大風で遭難して海を漂っていたところ、島が近くに見えてきました。これで助かったと安堵した船乗りたちは舟を寄せ、上陸したところ、どこを探しても人がおらず、それどころか見渡せば、岩の上には見慣れない草木が茂り、その梢には藻がかかっています。

あちこちの岩の隙間には魚が棲んでおり、2、3里(およそ10キロメートル前後)歩きましたが人も家も一向に見つけることができず、せめて水たまりで渇きを癒そうとしたものの、どの水たまりも海水で飲めません。

結局、助けを求めるのは諦めて船へ戻り、島を離れたところ、実はそれまで島だと思ったものが、ドンブリコドンブリコと沈んでイクではありませんか。今までそこにあった島だと思ったものは、実は海面へ浮上した赤えいであった、というお話です。

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15世紀アイルランドの聖ブレンダン伝承に登場するクラーケンの場合は、島と間違えて上陸したブレンダンが祝福のミサを終えるまで動かずにいたと伝えられており、その体長は2.5kmに及んだといいます。

日本の赤エイも、このクラーケンもどちらとも非常にのんびりとしたもので、怖いというかんじはしませんが、このことから、これらのクラーケンには、クジラがその実体ではなかったかとの憶測があるようです。実際にクジラには漁業神や海神と見なされる側面があり、このような逸話が世界中に数多く存在します。

また、ダイオウイカの天敵はマッコウクジラであると考えられており、マッコウクジラの胃の内容物から本種の痕跡が多く発見されるそうです。

鯨の頭部の皮膚に吸盤の跡やその爪により引き裂かれた傷が残っていることもあるようで、ダイオウイカの吸盤には鋸状の硬い歯が円形をなして備えられており、獲物を捕獲する際、あるいはバトルを繰り広げる際には、これを相手の体に食い込ませることで強く絡みつくと考えられています。

よく昔の挿絵や映画で、大きなタコと鯨が戦っている映像を見ることがありますが、ダイオウイカの宿敵であるクジラもまた、同じクラーケンとしてしばしば歴史物語で登場してきます。

ただ、それらの中でも最も古いもののひとつと言われる、18世紀デンマークのベルゲン司教、エリック・ポントピダンという人が記した本には、クラーケンの正体ははっきりとは書かれていないものの、ヤツが吐いた墨で辺りの海が真っ黒になったとだけ書いてあります。

この記述からはマッコウクジラやシャチといった天敵に遭遇したとき、離脱用として煙幕のように墨を吐いたことが想像されます。従って、このころからクラーケンは、一般的にはタコやイカなどの頭足類の一種として認識されることが多かったことがわかります。

なお、言語学的にはこの書物が刊行された1755年をもって固有名詞 “Kraken” の初出とされているそうで、それ以前から似て非なる名前あるいは全く異なる名前で語られる怪物の存在は数々ありましたが、以後、こうした怪物をクラーケンの名で呼ぶようになったようです。

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ま、クラーケンの正体がクジラであるにせよ、イカタコにせよ、古代から中世・近世を通じて海に生きる船乗りや漁師にとって海そのものは大きな脅威であり、その象徴ともいえるクラーケンは、彼らから怖れられる存在であったことは確かです。

「凪(なぎ)で船が進まず、やがて海面が泡立つなら、それはクラーケンの出現を覚悟すべき前触れである。姿を現したが最後、この怪物から逃れる事は叶わない。たとえマストによじ登ろうともデッキの底に隠れようとも、クラーケンは船を壊し転覆させ、海に落ちた人間を1人残らず喰らってしまうのであ~る。」

といったふうな伝承が世界各国で語り継がれてきており、船出したまま戻らなかった船の多くは、クラーケンの餌食になったものと信じられてきました。

さすがに、最近では海難をクラーケンのせいにする人はいないでしょうが、19世紀末までは海での遭難は本気でクラーケンのせいにすることも多かったようです。

1872年(明治4年)に、メアリー・セレスト号が見つかったとき(1872年)、この船が無人となった理由として様々な検証・憶測がなされましたが、その中には「乗員が全てクラーケンの餌食になった」という説を唱える人が多かったといいます。

メアリー・セレスト号といのは、この年にポルトガル沖で、無人のまま漂流していたのを発見されたアメリカ船籍の船です。ニューヨークの工場から出荷された工業用アルコールを積み、ニューヨークからイタリア王国のジェノヴァへ向けて出航していました。

船には船員7人のほか、船長とその妻サラ、娘ソフィア・マチルダの計10人が乗っていましたが、発見当時、なぜか乗員が一人も乗っていませんでした。これにてついては、「バミューダより愛をこめて」というタイトルで以前書いたことがあるので、詳しくはそちらを読んでみてください。

なぜ乗員が乗っていなかったかは今もって分かっておらず、航海史上最大の謎とされますが、最も有力で信憑性のある説として、その積荷がアルコールの樽であったため、船長らがこれを危険と考え、それから離れようとした、というのがあります。

この説では、船には大量のアルコール樽が積まれていましたが、このアルコールが樽から激しく吹き出したため船長は船が爆発すると考え、全員に救命ボートに移るよう命令したのではないかとしています。

このとき海上が荒れ、風雨が激しくなったため、船は救命ボートから離れてしまい、命綱が切れて海上を漂流し、最後は全員が死んだのではないか、というのです。

しかし、もっともらしい説ではあるものの、これを裏付ける物証に乏しく、また関係者全員が発見されていないため、140年前という時代を考えると、これもやはりクラーケンのせいだとする声が高くなったのも無理はないかもしれません。

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実は、似たような例は日本でも起きています。戦後の1950年(昭和25年)12月30日、4隻の2000トン級の貨物船が、北海道での石炭積み込みのため津軽海峡東方を北上していた際、当日夜からの冬型気圧配置のため、強風が吹き始め、4隻の船は操船の自由を失って東方洋上に漂流し始めました。

年が明けて1951年1月、4隻のうち2隻は上旬から中旬にかけて自力で辛うじて港に入りましたが、あとの2隻は操船叶わず、船長と船員らの意思疎通がうまく行かなかったなどの理由もあって、船体の放棄を決め、救援に来た船に船長以下乗組員全員が無事に乗り移りました。

このとき、無人船となった2隻のうち、1隻は5日後に巡視船によって発見されましたが、残る1隻は実に1ヵ月半近くたってから、日付変更線付近の中部太平洋上を漂流しているのがアメリカ船により発見されました。

この例では、4隻の船はいずれも無線によって自船の状況や救援依頼を他船や関係機関等に逐次連絡したので大事には至らず、そのうちの一隻が無人のまま漂流した事も公になりました。

しかし、もし無線が無い船が同様の操船不能に陥り、救援を得られないまま乗員が救命ボートで脱出して行方不明になるような事態に至れば、メアリー・セレスト号と似た結果となる可能性はあります。

このように、大海原に取り残されたたった一隻の船で海難事故が起こった場合は、その当事者以外には誰もその事故原因を把握しておらず、乗組み員全員が亡くなった場合には、その原因が解明されずに永久にお蔵入り、ということはかなり多いようです。

このためクラーケンのような伝説が生まれたわけですが、それを「深海に棲む魔物」のせいに見立てたのは、やはり深い海の底がいまだに神秘の世界とされているためでもあります。

よく、宇宙、深海、人体の三つは人類に残された最後の未開拓地であると言われますが、宇宙開発と医学はどんどん進んでいるのに、深海開発だけは遅々として進みません。

実は私の専門は海洋工学であり、海洋開発を夢見てその関連の大学に進んだのですが、その当時から言われていた海洋資源開発は、30年以上も経った現在でもたいして進んでいません。

メタンハイグレードや、熱水鉱床、マンガン団塊といった海洋資源のことが最近になってよくテレビで取り上げられますが、そんな話は私が学生時代のころから耳にタコができるほど聞かされています。

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にもかかわらず、いまだにそれらの採掘が進まないのは、この深海という世界が宇宙以上に過酷な世界であるためです。

地球の海の平均水深は 3,729 mであり、深海は海面面積の約 80 % を占めます。また、水深 4,000~6,000 m には地球の表面積のほぼ半分を占める広大な深海底が存在し、ここまでを「深海帯」と呼んでいます。

これより深い超深海帯は海溝の深部のみが該当し、海全体に占める割合は 2 %程度にすぎませんが、ここまで潜るための潜水艇は世界でも数えるほどしかありません。

水深が深くなればなるほど大きな水圧がかかることになるためであり、有人潜水艇などの内部気圧を地上と同じに保つためには、10mごとに1気圧ずつ増える周囲の圧力に抗するだけの強度が求められます。

つまり、1000mであれば、100気圧の圧力がかかることとなり、これがどのくらいスゴイかというと、カップヌードルの容器の大きさが半分ほどになるほどです。

これよりもさらに深い深海だと、例えば日本が誇る深海探査船「しんかい6500」の潜航深度水深が、その最大の6500mに達したときに、試験的に外で吊り下げられていたカップヌードルの容器は、なんと1/8の大きさにまで圧縮されました。

なお、ダイオウイカの生息水深は、よくわかっていないようですが、水深600m以深ではないかといわれているようです。このような深海でも、そこに棲む生物はすでに体内の圧力が周囲の水圧と同じになっており、深海中では押しつぶされることはありません。

21 世紀の現在でもこうした大水圧に阻まれて深海探査は容易でなく、大深度潜水が可能な有人や無人の潜水艇や探査船を保有する国は数少ないことから、深海のほとんどは未踏の領域です。

軍事以外の潜水艇の深度世界記録は、1960年に深海調査艇「トリエステ2号」が出した深度10,916mですが、これは無論、記録を狙ったものであり、通常の潜水艦の実用深度ではありません。

最近の近代的な軍事用潜水艦の潜航深度は、攻撃型潜水艦の場合で300~600m程度、戦略ミサイル原潜が100~500m程度です。武装した潜水艦の潜航深度記録は、1985年にチタン合金船殻のソ連原潜「K-278」が記録した1,027mで、K-278はこの深度で魚雷発射が可能であったと言われています。

従って、これより深い海については、ほぼほとんどの人間が到達できる場所ではなく、これが深海開発が遅れている理由です。

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いわんや、第二次世界大戦当時の潜水艦の性能というのは、こうした近代的な船よりもはるかに低く、最大深度はせいぜい、250m程度だったようです。ただ、これはMAXであり、通常深度は100m程度でした。しかし、緊急時には200mまで潜ることもあったといい、これはドイツのUボートや日本のイ号潜水艦のような優秀な船だからこそ潜れた深さです。

この優れた潜水艦建造技術を持った二国は、同盟関係にあり、このため、この深海を行き来して、遠く離れたドイツと日本とを結び、戦略物資及び新兵器やその部品・図面等、さらには大使館付武官・技術士官・民間技術者等日独両国の人材の輸送を行ったミッションがかつて存在しました。

日本側では「遣独潜水艦作戦」と呼ばれていたものであり、この話は、作家の吉村昭さんが「深海の使者」として執筆し、文藝春秋社から1974年に出版されています。

日本とドイツは1936年(昭和11年)に日独防共協定を結び、以後同盟関係にありましたが、1941年6月の独ソ開戦によりシベリア鉄道経由の同盟国日本からドイツへの陸上連絡路が途絶し、さらに同年12月の日米開戦によって海上船舶による連絡も困難となりました。

ドイツ側も生ゴム・錫・モリブデン・ボーキサイト等の軍用車両・航空機生産に必要な原材料を入手するために海上封鎖突破船をインド洋経由で日本の占領する東南アジア方面に送りましたが、アフリカ沿岸を拠点に活動するイギリス海軍や南アフリカ連邦軍の妨害に遭うことが多くなり、作戦に支障をきたすことが多くなっていきます。

このため、ドイツは潜水艦による物資輸送を提案しました。日本側からもレーダー技術・ジェットエンジン・ロケットエンジン・暗号機等の最新の軍事技術情報をドイツから入手したいという思惑があり、両国の利害が一致し、ここに日本とドイツの間を潜水艦で連絡するという計画が実行に移されることとなったのです。

基本的なルートは、日本~マラッカ海峡~インド洋~マダガスカル沖~喜望峰沖~東部大西洋~ドイツ占領下のフランス大西洋岸にあるUボート基地との往復でした。

第二次世界大戦開戦当時の1942年ごろには、まだ東南アジアからインド洋にかけての地域は日本海軍の制海権下にあったものの、東部大西洋からヨーロッパにかけてはすでにイギリス海軍の厳重な対潜哨戒網が敷かれていました。

このため、大西洋上のルートや入港先についてはたびたび変更されており、とくに1943年以降は、大西洋~ヨーロッパの制海権をほとんど連合軍に奪われ、インド洋以東のアジア海域にも連合軍による通商破壊が活発になっていきました。

こうしたことにより、全5回の遣独作戦中、はじめ2回は往復に成功したものの後半の3回においては、両国が派遣した潜水艦は連合国側にすべて途中で撃沈されています。ただし往復に成功した2回のうちでも、第一次遣独艦は帰路に立ち寄った日本占領下のシンガポール入港時に暗号通信の不徹底から味方の機雷に触雷・沈没しています。

この艇の沈没した艦内から積荷は回収されましたが、期待されたレーダー(ウルツブルク・レーダーという)の器材や設計図面などは使用に耐えなかったそうです。従って物資輸送を完全に成功させたのは第二次遣独艦のみということになります。

なお、撃沈された第四次遣独艦は、フランス・ロリアンに入港後の復路でフィリピンのバシー海峡にてアメリカ海軍の潜水艦に撃沈されていますが、この艦には、ドイツのMe163型ロケット戦闘機及びMe262型ジェット戦闘機に関する資料が積まれていました。

ところが撃沈される直前に寄港したシンガポールで、零式輸送機に乗り換えたこの艦の一人の中佐が、その一部の資料を持ち出して帰国したため、かろうじて残ったそれらの資料は、のちに「秋水」「橘花」といった日本初のジェット戦闘機の開発に活かされたといいます。

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一方、ドイツもこの日本側の遣独作戦に呼応して、都合4隻ほどのUボートを派遣したようですが、そのほとんどが成功していません。

1945年(昭和20年)3月にキールから日本に向けて出発した、UボートU234には、途中でイ号潜水艦に手渡すための、上と同じMe163型ロケット戦闘機、部分品に分解された2機のMe262型ジェット戦闘機、そしてウラニウム鉱石560キロ他を積載が搭載されていました。

さらにこの船には、東京に赴任する予定のウルリヒ・ケスラー空軍大将のほか、対空射撃管制装置の専門家ハインツ・シュリッケ海軍少佐・対空射撃の専門家フリッツ・フォン・ザントラート空軍大佐が乗っており、帰国する日本人潜水艦建造技師らも便乗していました。

しかしその途上において、1945年5月8日にドイツが無条件降伏を受諾したことから、同艦は5月15日にアメリカ海軍護衛駆逐艦「サットン」に降伏しています。なお同艦に同乗していた日本海軍の友永・庄司両技術中佐は、降伏直前に連合軍の捕虜となることを潔しとせず自決しています。

このドイツから日本へ運搬される予定だったウラニウム鉱石は、日本初となる原子爆弾の製造のためだったといわれており、もしドイツが降伏せずに、これが日本に運び込まれていたら、もしかしたら、世界初の原子爆弾は日本人によって製造されていたかもしれません。

また、逆に日本の遣独潜水艦が、広島の秘密実験所で濃縮されたウランをドイツに運んでいた、という「噂」もあり、それゆえにその事実を知った米国は、原子爆弾の最初の投下地として広島を選んだ、日本の学者が原爆製造に成功しないよう手を打ったのだ、というまことしやかな話しもあるようです。が無論、推測の域は出ません。

このように、日独間で相互に派遣されていた潜水艦で実際に何を運搬しようとしていたのかについては、これまでに分かっているもの以外にもさまざまな憶測があり、このため、これにまつわる数多くのフィクションも創作されています。

私が子供のころに愛読していた、小澤さとるさんの、「サブマリン707」という漫画では、707の艦長が大戦中に指揮していた架空の潜水艦「イ-51」が大西洋に派遣され、架空のUボート「UC140」とコンビを組んで通商破壊戦を行っていたという話が出てきますが、これもこの遣独作戦をモチーフにしたものです。

最近では、福井晴敏さんの小説「終戦のローレライ」で、やはり特殊音響兵器「PsMB1」を手土産に日本へ亡命してきた架空のUボート「UF4」が登場しており、この話では同艦は後に日本海軍に接収され、伊号第五〇七潜水艦となる、とうことになっています。

この小説は2005年に、映画「ローレライ」として公開されているので、見たことがある人もいるでしょう。

このほか、1965年に封切られた映画「フランケンシュタイン対地底怪獣」では、Uボートと伊号潜水艦を用いて、「フランケンシュタインの心臓」がドイツから日本へと運ばれたという荒唐無稽な話が盛り込まれています。

手塚治虫さんの漫画「アドルフに告ぐ」でも、遣日潜水艦としてUボートが登場し、ここではヒトラーの出生に関する機密文書処分の任を帯びた将校が、北極海回りで日本へと向かう設定になっていました。

これからもこうした「深海の使者」モノは数多く語り継がれていくでしょうが、最近頻繁に話題に登場するダイオウイカもまた、深海の使者として話題になり続けていくに違いありません。

伝承のクラーケンもまた、深海の使者として語り継がれていくでしょうが、このクラーケンはけっして「危険な存在」とされている訳ではなく、温和かつ無害に描かれることも多かったといいます。

伝承のひとつには、クラーケンの排泄物は香気を発して餌となる魚をおびき寄せているともいうのもあり、とかく臭い、というイメージのあるダイオウイカももしかしたら、お魚さんには良い臭いのする素敵な存在なのかもしれません。

イカんせん、そろそろ枚数が多くなってきました。今日のところはこの辺でイーカげんにやめにすることにしましょう。

それにしてもなにやら妙にイカの刺身が食いたくなりました。今晩のおかずはイカにしたもんでしょう……

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岩と松

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ソチオリンピックが終わりました。

実はこれと同時に、先週末から伊豆へやって来ていた、広島在住の姉や姪ら4人も帰っていきました。

名目上は、リハビリ病院に入院中の母の見舞いということなのですが、実際はどうやらこれまで来たことのない伊豆という地を観光してみたかったらしく、また温泉が出るという我が家を覗き見してみたい、という下心があったようです。

一泊二日の短い旅行だったわけなのですが、かくして、普段は夫婦二人とネコ一匹の静かな家が大賑わいとなりました。

ウチに来たのは姉とその二人の娘、そしてその一人の息子君で、彼はまだ小学校三年生です。当然大人の会話に入っていけるような年齢ではないため、タエさんを交え、彼等と交わす会話は当然のごとく女4人の独断場となり、まぁかしましいことかしましいこと……

さんざん静かな伊豆暮らしをかき回したあと、昨日の夕方の新幹線でご機嫌に帰っていきましたが、私はといえば、夕べはドッと疲れてしまい、早めに床に入りました。

今朝改めて朝のニュースを見ると、ソチオリンピックの閉会式の様子が映し出されており、それと同時に過ぎ去った嵐のことを思いつつ、ようやく落ち着いた気分になってこれを書いている、というわけです。

なにやら放心状態の感があって、今日は何を書こうかな、というのが思い浮かばないのですが、この姉一家がやってきた際には、少しは観光をさせてやろうと、麓の修善寺温泉街やら、沼津港やらへ連れて行ってやったので、そのあたりのことを少し書き出そうかなと思います。

この沼津港というのは、狩野川の河口の右岸側にしつらえられている港です。その昔、この地は、「沼の津」と呼ばれ、船溜まりがあるだけのほんの小さな村でしたが、なだらかな海岸線を持ち、波も静かなため、これと狩野川河口近辺の比較的水深のある海一帯は、江戸へ向かう船の停泊地としてよく利用されていました。

東海道にもほど近く、物資の運搬の拠点としては好都合ということで、次第にここは人の集まるところとなり、郡役所も置かれるようになりました。やがては「沼津宿」が形成され、ここを中心として周辺地域との合併を繰り返しながら、現在の沼津のような大きな町になっていきました。

つまり現在の沼津港は、今の沼津市の原点であるわけですが、その港のある狩野川右岸の対岸、つまり狩野川左岸一帯は、我入道(がにゅうどう)と呼ばれる土地です。

狩野川河口左岸で南を駿河湾に面し、その東には、香貫山と呼ばれ地元から親しまれている山とこれに連なる「沼津アルプス」と呼ばれる低山群を控え、北西方向には、富士を望めるという位置関係です。

江戸時代の「我入道村」は駿河国駿東郡に属し、江戸初期には天領となり、後に沼津藩領となりました。江戸時代には細々と畑があるくらいで、村の主たる産業は漁業でした。

明治4年(1872年)に静岡県に属するようになり、1889年(明治22年)の町村制施行に伴い我入道村は下香貫村・上香貫村・善太夫新田と合併して、楊原村(やなぎはらむら)と呼ばれるようになります。

1922年(大正12年)にこの楊原村と、前述の沼津が合併し、市制施行により沼津市の大字となりました。

この我入道と対岸の現在の沼津港の間の狩野川にはその昔には橋がなかったため、「我入道の渡し」と呼ばれる渡し船がありました。明治時代には、人だけでなく自転車やリヤカーを乗せて運ぶようになり、かなり頻繁に船が行き交うほどの交通量があったようです。

1968年(昭和43年)にその上流に港大橋が完成して客が減り、1971年(昭和46年)にこの渡しは廃止されましたが、1997年(平成9年)に観光用として復活。地元の船大工が造った昔ながらの木船を使って、現在では市中心街の至近にあるあゆみ橋からも発着する観光ルートとなっています。

この沼津港の河口には、2004年(平成16年)9月26日に展望施設を備えた大型水門、「びゅうお」が国土交通省によって建設されており、高さ32メートルあるこのガラス張りの遠望タワーは、沼津市の一大観光地でもあります。

そのすぐ真下にある、沼津港市場を中心として、「沼津港商店街」が広がり、ここには大小さまざまな海産物問屋や、一般観光客向けの食堂などが数多くひしめき合い、ここで売られている鮮魚や干物目当ての観光客でいつもごった返しています。

昨日我々がここを訪れたときには、日曜日だったせいもあり、いつにも増して人が多く、この人ごみを避けて歩くだけでも大変でした。

姪たちが昼食に海鮮丼を食べたいというので、中央市場のすぐ二階にある市場経営の食堂へ連れて行ったのですが、お昼時ということもあって行列ができており、30分待ちでようやく昼飯にありつける、というありさまでした。

この食堂からは、狩野川を挟んで、対岸の我入道一帯が一望に見え、河岸には、かつて沼津藩の物見櫓だったものらしきものも復元されていて、なかなか好展望でした。

おそらくここを渡し船が通っていたかと思われる位置関係なのですが、この日は渡船らしきものは見当たらず、その代わりにカモメや鵜がしきりにいったりきたりして、目を楽しませてくれます。

この渡し船ですが、調べてみるとだいたい年間約4000人前後の観光客が利用しているそうで、2012年度は、おおよそ土・日・祝日を運航日としています。が、夏季と冬季の6ヶ月間は運航していないのだとかで、どおりでその姿が見えないはずです。

運賃は大人100円、小人50円だそうで、その航行ルートからすると、天気の良い日には富士山も見えるはずであり、この値段なら格安の観光ルートではないでしょうか。みなさんも一度いかがでしょう。ちなみに、「びゅうお」からも大きな富士山を望むことができます。

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ところで、この我入道の地は、作家・芹沢光治良の生誕地としても知られています。芹沢光治良というのは、明治生まれの小説家で、1896年(明治29年)に生まれ、 1993年(平成5年に96歳で大往生しました。

海外ではフランスを中心としてヨーロッパで評価が高くその代表作である、「巴里に死す」や「人間の運命」「神の微笑」はノーベル文学賞候補に挙げられたことがあります。晩年には、「文学はもの言わぬ神の意思に言葉を与えることだ」との信念に基づき、「神シリーズ」と呼ばれる神を題材にした一連の作品で独特な神秘的世界を描きました。

実は私は読んだことがないのですが、タエさんのお父さんがどうやらお好きだったようで、我が家の書庫には、この神シリーズが全巻揃っていたと思います。

このほか、この我入道には、明治時代に大元帥と称された、大山巌の別荘もありました。

天保13年(1842年)生まれの元薩摩藩士で、陸軍軍人を経て晩年は政治家としても活躍しました。元帥陸軍大将であり、第二代の大警視も勤め、経歴としては一番長い陸軍大臣を初代から4代まで勤め、6・7代にも引き続き就任しています。

第4・6代の陸軍参謀総長(第4・6代)も勤めており、政治家としては文部大臣、内大臣、元老、貴族院議員を歴任しており、西南戦争への対処や日清・日露戦争当時の陸軍大臣でもあり、おそらくは維新後の明治時代で最も輝いた薩摩人ではないでしょうか。

維新の三傑に数えられる西郷隆盛と、その弟でやはり軍人・政治家でもあった西郷従道は彼の従兄弟でもあり、このことも彼の名をビックにしている理由でもあります。

幕末の薩英戦争においては藩命で砲台に配属され、ここで大山は西欧列強の圧倒的な軍事力に衝撃を受けます。このため、その後江戸詰めを命じられた際には、幕臣で、伊豆の韮山出身の江川英龍に教えを乞い、その塾において、黒田清隆らとともに砲術を学んでいます。

この江川英龍については、「江川家のこと」以下6編に長々と書いたことがありますので、お暇な方は読んでみてください。

こうして西洋砲術の専門家となった大山は、戊辰戦争においては、薩摩藩の新式銃隊を率いて、鳥羽・伏見の戦いや会津戦争などの各地を転戦。倒幕運動に邁進しました。12センチ臼砲や四斤山砲の改良も行い、これら大山の設計した砲は「弥助砲」と称されています。

弥助というのは、大山の幼少時からの通称です。

さらに引き続く会津戦争では、薩摩藩二番砲兵隊長として従軍していましたが、鶴ヶ城攻撃初日、場内から発射された弾丸が右股を内側から貫き負傷します。このとき篭城側は主だった兵が殆ど出撃中で城内には老幼兵と負傷兵しかおらず、北出丸で戦っていたのは、昨年のNHKの大河ドラマ、「八重の桜」で有名な山本八重と僅かな兵たちだけでした。

このため、この大山を射ぬいた狙撃者は、実は八重ではなかったかとも言われているようです。

ところで、この時の会津若松城には、のちに大山の後妻となる山川捨松とその家族が籠城していました。この捨松は、会津若松の生まれであり、父は会津藩の国家老・山川尚江重固で、彼女は2男5女の末娘でした。

新政府軍が会津若松城に迫ったとき、捨松はまだ数えで8歳にすぎず、家族と共に籠城し、負傷兵の手当や炊き出しなどを手伝っていました。女たちは城内に着弾した焼玉の不発弾処理を任されていたといい、着弾した玉に濡れた布団をかぶせて炸裂を防ぐ「焼玉押さえ」という危険な作業をしていました。

捨松もまたこの作業を手伝っていて大怪我をしたこともあったといい、その大砲の弾を雨霰のように撃ち込んでいた官軍の砲兵隊長がほかならぬ後に夫となる大山弥助(巌)でした。

結局この会津戦争では、近代装備を取り入れた官軍の圧倒的な戦力の前に、会津藩は抗戦むなしく降伏し、会津23万石は改易となり、藩士たちは遠く離れた陸奥斗南3万石に封じられました。斗南藩は下北半島最北端の不毛の地で、3万石とは名ばかり、実質石高は7,000石足らずしかなく、藩士達の新天地での生活は過酷を極めました。

飢えと寒さで命を落とす者も出る中、山川家では末娘の捨松を津軽海峡を隔てた函館の知り合いの元に里子に出すことにし、さらには捨松はその紹介で、あるフランス人の家庭に引き取られることになりました。

このフランス人夫婦は捨松のことをいたく可愛がり、フランス語の手ほどきもしたようです。捨松もこの新しい両親に馴染み、西洋式の生活習慣にも慣れていきました。

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ところが、明治4年(1871年)、捨松が11歳のとき、その後の彼女の一生を大きく左右する出来事が起こります。

この当時、新政府の要請でアメリカ視察旅行に行っていた北海道開拓使次官の黒田清隆が帰国しましたが、彼はアメリカの先進的な風土に感嘆し、政府に働きかけて何人かの若者をアメリカに留学生として送り、北海道のような未開の地を開拓する方法や技術を学ばせてはどうかと進言しました。

開拓使のこの計画は、やがて政府主導による10年間の官費留学という大がかりなものとなり、この年出発することになっていた岩倉使節団に随行して、三人の女性が選ばれ、その一人に捨松が選ばれたのでした。ほかの二人は、のちに津田塾を創設することになる津田梅子と幕府軍医・永井久太郎の養女、永井繁子でした。

渡米後、捨松はコネチカット州ニューヘイブンの会衆派のリオナード・ベーコン牧師宅に寄宿し、そこで4年近くをベーコン家の娘同様に過ごして英語を習得し、この間ベーコン牧師よりキリスト教の洗礼を受けました。

その後、地元ニューヘイブンのヒルハウス高校を経て、永井繁子とともにニューヨーク州ポキプシーのヴァッサー大学に進んでいますが、このヴァッサーは全寮制の女子大学で、ジーン・ウェブスターやエドナ・ミレイなど、アメリカを代表する女性知識人を輩出した名門校でもありました。

捨松の成績はいたって優秀で、得意科目は生物学だったそうですが、官費留学生としての強い自覚を持っていたようで、日本が置かれた国際情勢や内政上の課題にも明るかったといいます。

学年3番目の通年成績で卒業し、卒業式に際しては卒業生総代の一人に選ばれ、卒業論文「英国の対日外交政策」をもとにした講演を行いましたが、その内容は地元新聞に掲載されるほどの出来だったとそうです。ちなみにアメリカの大学を卒業した初の日本人女性は、この捨松のようです。

捨松が再び日本の地を踏んだのは明治15年(1882年)暮れ、出発から11年目のことであり、彼女はもう22歳になっていました。新知識を身につけて故国に錦を飾り、今後は日本における赤十字社の設立や女子教育の発展に専心しようと、意気揚々でしたが、彼女を待っていたのは失望以外のなにものでもありませんでした。

そんな捨松の受け皿となるような職場は、まだ日本にはなかったためであり、寄る辺と考えていた北海道開拓使もその当初の目的を達したとされたため、ちょうどこのころに解散となっていました。

仕事を斡旋してくれるような者すらいない状態で、孤立無援の捨松を人は物珍しげに見るだけで、「アメリカ娘」と陰口を叩く者もおり、娘は10代で嫁に出すこの時代、彼女は既に婚期を逸した女性とみなされていました。

ちょうどその頃、同じ薩摩藩の先妻を病で亡くし、後妻を捜していたのが大山巌でした。捨松がアメリカ留学をしていたころ、ちょうど時を同じくして大山もスイスのジュネーヴに留学しており、ほぼ同時期に日本に帰ってきていたのでした。

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大山は維新後の明治2年(1869年)、渡欧して普仏戦争などを視察後、明治3年(1870年)から6年(1873年)の間ジュネーヴに滞在して軍制などを学んでいましたが、国内の政局は彼の長期海外留学を許さず、明治6年政変で明治政府の半分近くが下野すると、留学3年目に入ったところで帰国を余儀なくさせられました。

愛してやまない欧州の地を後ろ髪引かれる想いで後にした大山を待っていたのは、帰国後すぐに勃発した西南戦争でした。この戦争で大山は、政府軍の攻城砲隊司令官として、城山に立て籠もった親戚筋の西郷隆盛を相手に戦うことになりました。

結局この戦いは西郷軍の敗退に終わりましたが、幼馴染であり従弟である隆盛を心ならずも討つことになった大山はこのときのことを生涯気にしていたそうで、その後死ぬまで二度と鹿児島に帰る事はなかったそうです。

ただ、西郷家とは生涯にわたって親しく交わり、特に隆盛の弟である西郷従道とは親戚以上の盟友関係を続けました。

西郷が戦死し、その後を追うかのように大久保利通が暗殺されると、大山はやがてこの従弟の西郷従道とともに薩摩閥の屋台骨を背負う立場に置かれることになっていきました。以後要職を歴任し、やがて参議陸軍卿・伯爵となったころ、愛妻の沢子が三女の出産後の肥立ちが悪く死去してしまいました。

この沢子は、大山と同じ薩摩の吉井友実という人物の長女でした。吉井は戊辰戦争の緒戦である鳥羽・伏見の戦いでは、自ら兵を率いて旧幕府軍を撃退するなど多大な功績をあげ、維新後は、参与や元老院議官、工部大輔、日本鉄道社長などの要職を歴任したほか、明治4年(1871年)には宮中で明治天皇に仕えるようになり、宮内次官まで昇った人物です。

大山の将来に期待をかけていた吉井は、我子同然にこの婿を可愛がっていたそうで、沢子が亡くなると、大山のために後添いとなる女性を懸命に探し求めはじめ、そこで白羽の矢が立ったのが捨松でした。

当時の日本陸軍はフランス式兵制からドイツ式兵制への過渡期という難しい時期にあり、フランス語やドイツ語を流暢に話す大山は、列強の外交官や武官たちとの膝詰め談判に自らあたることのできる、陸軍卿としては当時最適の人材でした。

この時代の外交の大きな部分を占めていたのは夫人同伴の夜会や舞踏会でした。アメリカの名門大学を成績優秀で卒業し、やはりフランス語やドイツ語に堪能だった捨松を吉井が見過ごすはずはなく、大山の夫人としては最適の候補と考えたのは不思議ではありません。

吉井のお膳立てで大山が捨松に初めて会ったのは、捨松と同じく米国留学した永井繁子と海軍大将瓜生外吉の結婚披露宴でのことでした。このとき捨松を見た大山はその美しさに目を奪われたといい、捨松の長身でスラッとした容姿だけでなく洗練された話術にもすっかり心を奪われてしまいます。

捨松に一目ぼれした大山は、さっそく吉井を通じて縁談を山川家に申し入れましたが、山川家は大反対でした。捨松が生まれたときに父は既に亡く、このころは長兄の大蔵(おおくら、後の陸軍少将・貴族院議員の山川浩)が父親がわりとなっていましたが、山川浩は、この縁談を即座に断ってしまいます。

それも当然、縁談の相手は、会津戦争で砲弾を会津若松城に雨霰のように打ち込んでいた砲兵隊長その人であるわけであり、この縁談は薩摩にさんざん辛酸を舐めさせられた会津人としては頑としても受けることはできませんでした。

しかし、大山も粘ります。吉井から山川家に断られたことを知らされると、今度はこのころ農商務卿になっていた従弟の西郷従道を山川家に遣わして説得にあたらせました。

従道は盟友である大山の頼みを聞くと、連日のようにしかも時には夜通しで山川家の面々の説得にあたったといい、そうこうするうちに、大山の誠意が山川家にも伝わり、何がなんでも反対という態度は軟化していきました。

そしてついに長兄の浩から「本人次第」と回答を得るに至ります。ところが、この話を聞いた捨松の応対は、いかにもアメリカナイズされたものであり、その答えは「閣下のお人柄を知らないうちはお返事もできません」だったそうです。

これは拒絶ではなく、暗にデートを提案したものであり、同じく西洋文化に慣れ親しんでいた大山は、苦笑いしながらもこれに応じたといいいます。しかし、大山は日本語をしゃべるときには、薩摩弁丸出しであり、捨松には彼が何を言っているのかさっぱり理解できなかったといいます。

しかたなく英語で話し始めると、大山もまた英語で返してきました。とたんに会話がはずみ始めたと言い、こうして次第に二人の仲は深まっていきました。このとき大山は41歳、捨松は23歳であり、親子ほどの歳の開きがありましたが、デートを重ねるうちに捨松は次第に彼の心の広さと茶目っ気のある人柄に惹かれていきます。

この頃アメリカ人の友人に書いた手紙には「たとえどんなに家族から反対されても、私は彼と結婚するつもりです」と記していたといい、こうして交際を初めてわずか3ヵ月で、捨松は大山との結婚することになりました。

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明治16年(1883年)11月、参議陸軍卿大山巌と山川捨松との婚儀が厳かに行われましたが、その1ヵ月後には、完成したばかりの鹿鳴館で大山夫妻の盛大な結婚披露宴も催されました。

この披露宴では、千人を超える人が招待されたといい、招待者でごった返す披露宴の最中、普通の新婦なら気が動転して満足に会話もできないであろうに、捨松の誰彼にも気さくに声をかける姿がひときわ目立っていたといいます。

二人の結婚後、この鹿鳴館では連日のように夜会や舞踏会が開かれ、諸外国の外交官はもとより、明治政府の高官たちもそうした外交官たちとのパイプを構築するため、夜な夜な宴に加わりましたが、捨松もまた大山に随伴してこうしたパーティによく出席しました。

英・仏・独語を駆使して、時には冗談を織り交ぜながら諸外国の外交官たちと談笑するとともに、12歳の時から身につけていた社交ダンスのステップを堂々と披露しました。

当時の日本人女性には珍しい長身と、センスのいいドレスの着こなしも光っていました。そんな伯爵夫人のことを、人はやがて「鹿鳴館の花」と呼んで感嘆するようになったといいます。

また捨松は結婚後、「鹿鳴館慈善会」という日本初のチャリティーバザーを開きました。品揃えから告知、そして販売にいたるまで、率先して並みいる政府高官の妻たちの陣頭指揮をとったいい、この結果鹿鳴館がもう一つ建つぐらいの莫大な収益をあげ、その全額を共立病院へ寄付しています。

当時の金額で8000円、現在価値に換算すると1億6千万円ほどであり、この資金をもとに、2年後には日本初の看護婦学校・有志共立病院看護婦教育所が設立されました。

捨松は大山の妻として、日清・日露の戦役の銃後で寄付金集めや婦人会活動に時間を割くかたわら、看護婦の資格をも取得して日本赤十字社で戦傷者の看護もこなしました。

また積極的にアメリカの新聞に投稿を行い、これらの戦争における日本の置かれた立場や苦しい財政事情などを訴えたといい、日本軍の総司令官の妻がニューヘイヴン出身・ヴァッサー大卒というもの珍しさも手伝って、アメリカ人は捨松のこうした投稿を好意的に受け止め、多くの義援金を寄付してくれました。

彼女のこの活動はアメリカ世論を親日的に導くことにも役立ち、アメリカ・ポーツマスにおけるロシアとの講和条約の開催にも大きく貢献しました。アメリカで集められた義援金は捨松のもとに送金され、日本国内におけるさまざまな慈善活動に活用されたそうです。

明治33年(1900年)には、共にアメリカ留学した津田梅子が女子英学塾(後の津田塾大学)を設立することになると、捨松は、このころ結婚して苗字が瓜生となっていた永井繁子ともにこれを全面的に支援しています。

津田は、自分の教育方針に対して第三者に一切口を差し挟ませないという立場をとっており、また誰からの金銭的援助もかたくなに拒んでいたこともあり、捨松も繁子もボランティアとして奉仕したそうです。

捨松はこの英学塾の顧問となり、後には理事や同窓会長を務めるなど、積極的に塾の運営にも関与していますが、生涯独身で、パトロンもいなかった津田が、民間の女子英学塾でこれだけの成功を収めることが出来たのも、捨松らの多大な支援があったがことが大きな理由のひとつといわれています。

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夫の巌は日清戦争後に元帥・侯爵、日露戦争後には元老・公爵となり、軍人・政治家としての地位をも極めました。それでいて政治のトップである総理大臣の職にはまったく興味を示さず、何度総理候補に擬せられても断ったといい、このためか敵らしい敵もなく、誰からも慕われました。

晩年は第一線を退いて内大臣として宮中活動に励むようになり、時間のあるときは東京の喧噪を離れて愛する那須や、沼津の地で家族団欒を楽しみました。おそらくは山は那須、海は沼津、と振り分けていたのでしょう。

捨松は大山との間に2男1女を設け、これに大山の3人の連れ子を合せた大山家は大家族でした。

夫婦の長男である高(たかし)は、陸軍に入隊すると親の七光りと言われる、とこれを嫌ってあえて海軍を選びました。が、明治41年(1908年)、 海軍兵学校卒業直後の遠洋航海で乗り組んだ巡洋艦・松島が、寄港していた台湾の馬公軍港で原因不明の火薬庫爆発を起こし沈没。このとき高は艦と運命を共にしています。

また、次男の柏(かしわ)は近衛文麿の妹・武子を娶り、大正5年(1916年)には大山の嫡孫にあたる娘が誕生しましたが、この直後ころから大山は体調を崩し療養生活に入るようになりました。

長年にわたる糖尿の既往症に胃病が追い討ちをかけていたようで、内大臣在任のまま同年12月10日に満75歳で死去しました。

巌の国葬後、捨松は公の場にはほとんど姿を見せず、亡夫の冥福を祈りつつ静かな余生を過ごしていましたが、大正8年(1919年)に津田梅子が病に倒れて女子英学塾が混乱すると、捨松は自らが先頭に立ってその運営を取り仕切りました。

結局、津田は病気療養のために退任することになったことから、捨松が津田の後任を指名しました。ところが津田の後任の新塾長の就任を見届けた翌日、今度は捨松自身が倒れてしまいました。

この当時世界各国で流行していたスペイン風邪に罹患したためであり、捨松はそのまま回復することなくほどなく死去。満58歳でした。愛する夫の死から3年後のことでした。

後年大山巌は、同郷の東郷平八郎と並んで「陸の大山、海の東郷」と言われるようになりました。大山は青年期まで俊異として際立ちましたが、壮年以降は自身に茫洋たる風格を身に付けるよう心掛けていたといい、これは薩摩に伝統的な総大将のスタイルであったと考えられます。

日露戦争の沙河会戦で、苦戦を経験し総司令部の雰囲気が殺気立ったとき、昼寝から起きて来た大山の「児玉さん、今日もどこかで戦(ゆっさ)がごわすか」の惚けた一言で、部屋の空気がたちまち明るくなり、皆が冷静さを取り戻したという逸話が残っています。

明治38年(1905年)に日露戦争が終結して、ようやく東京・穏田の私邸に凱旋帰国した大山に対し、息子の柏が「戦争中、総司令官として一番苦しかったことは何か」と問うたのに対し、「若い者を心配させまいとして、知っていることも知らん顔をしなければならなかった」と答えた、という話も残っています。

こうした茫洋とした人柄は多くの友人から愛され、その臨終の枕元には山縣有朋、川村景明、寺内正毅、黒木為楨など、この当時を代表する政治家一堂が顔を揃え、まるで元帥府が大山家に越してきたようだったといいます。

大山の亡くなった日は、夏目漱石の死の翌日のことだったといい、新聞の多くは文豪の死を悼んで多くの紙面を彼に割いたため、明くる日の大山の訃報は他の元老の訃報とは比較にならないほど地味なものでした。

しかし、その葬儀は国葬として営まれました。このとき参列した駐日ロシア大使とは別にロシア大使館付武官のヤホントフ少将が大山家を直接訪れ、「全ロシア陸軍を代表して」と弔詞を述べ、ひときわ目立つ花輪を自ら霊前に供えたそうです。

かつての敵国の武将からのこのような丁重な弔意を受けたのは、この大山と後の東郷平八郎の二人だけだったといいます。

病床についてから死ぬ間際まで永井建子作曲の「雪の進軍」を聞いていたと伝えられていて、本人は大変この曲を気に入っていたといいます。

この歌は八甲田雪中行軍遭難事件を題材とした新田次郎の小説をもとに製作された映画、「八甲田山」の劇中歌としても使用されました。高倉健と北大路欣也の二大スターが共演したこの映画を見たことのある人は、この歌を覚えているかもしれません。

雪の進軍 氷を踏んで どれが河やら 道さえ知れず
馬は斃(たお)れる 捨ててもおけず ここは何処(いずく)ぞ 皆敵の国……

というヤツで、非常にリズミカルで覚えやすいメロディーです。

八甲田雪中行軍遭難事件というのは、1902年(明治35年)に青森の連隊が雪中行軍の演習中に遭難し、210名中199名が死亡した事件です。

日本陸軍は1894年(明治27年)の日清戦争で冬季寒冷地での戦いに苦戦したため、来たる対ロシアとの戦争においては、さらなる厳寒地での戦いとなる対ロシア戦を想定し、冬季訓練を緊急の課題としていました。対ロシア戦は2年後の1904年(明治37年)に日露戦争として現実のものとなりました。

その準備のさなかに起こったこの悲劇をきっかけとして、オーストリアからはるばるレルヒ少佐が日本に招へいされ、近代的なスキー術が日本に導入されるようになったことは、先日書いた通りです。

そしてその近代スキー術がさらに淘汰され、世界に名立たるスキー王国?になった日本のソチオリンピックでの戦いも先日ようやく終わりました。

次のピョンチャンまであと4年。日本はどのように変わっていくだろう……そんなことを考えながら、沼津港の丼飯屋で目の前の海を飛び交うカモメを眺めつつ、マグロ丼にパクついていたのでした。

さて、今日はお天気もよさそうなので、午後からタエさんと梅でも見にいこうかな、と考え始めています。

みなさんは梅見はもう終えられたでしょうか。我々のすぐ近くにある修善寺梅林では今まさに真っ盛りのようで、連日観光バスがひっきりなしにやってきます。ぜひ一度訪問してみてください。

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にゃんぱらりん

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ソチ冬季オリンピックも、そろそろ終盤を迎えようとしています。

今回の日本人選手団のメダル獲得目標は、過去最多だった1998年の長野大会の時と同じ10個だったようですが、これまでのところ、金1個を含む8つにとどまっており、どうやらもう後がないかんじです(長野は、金5個、銀1個、銅4個)。

残念ではあるのですが、自国開催でないアウェイでのこのメダル獲得数は、あっぱれと見る向きもあり、日本人の大多数はおおむね満足しているのではないでしょうか。

今週末にオリンピックが終わると、次は2年後のリオデジャネイロオリンピックというわけで、ついついそちらに目が行きがちですが、いやいやまだソチでもこれから試合がたくさんあります。

「パラリンピック」がそれであり、3月7日から16日までの9日間開催される予定で、冬季パラリンピック大会としては、もう第11回大会になるようです。

競技種目はというと、アルペンスキー、バイアスロン、クロスカントリースキー、アイススレッジホッケー、車いすカーリングの5種目だけだそうで、エッ、そんなに少ないの!?というかんじです。

が、これは大項目にすぎず、例えばアルペンスキーには、滑降、大回転、回転、スーパー複合、スノーボードなどが含まれていて、他の種目も同様に細分化された種目があります。

このうちのスノーボードだけは、ソチ大会より正式に採用された新種目だそうで、これは人工的に作られた様々な地形のあるコースをジャンプしたり回転したりして滑ります。1人ずつ3本滑って、良い2本の合計タイムで順位を決めるそうです。

このスノーボード競技は、ソチ大会では、下肢に障害のある選手だけで競われますが、このほかのパラリンピックの各競技種目は、同一レベルの選手同士で競い合えるようにするため、障害の種類、部位、程度によってクラス分けされ、それぞれで競技が行われます。

このように、パラリンピックは一見、種目数は少ないように見えるものの、クラス数だけを合計するとその競技数は相当な数になるようです。クラス分けは競技種目によって異なるようですが、視覚障害、肢体不自由、知的障害などに大別され、肢体不自由でも原因が脳性麻痺であるか手足の切断であるかなどで区分されます。

さらに障害の軽重により種目ごとに及ぼす影響で階級化されるといいます。ここまで分化されると健常者の我々には何がなんだかよくわからなくなってきますが、身障者のために競技に公正を来たすという意味においては、クラスや階級の細分化はやむを得ないのでしょう。

パラリンピックには、このほかアイススレッジスピードレースという競技がかつてあり、これは、氷上においてスケートブレードのついたそりに乗り、ストックを使用して滑るというものでした。座位で行うスピードスケートのようなもので、1980年のヤイロパラリンピックで採用されましたが、1998年の長野パラリンピックを最後に廃止されています。

今回、日本チームが出場するのは、上記5種目のうちのアルペンと、バイアスロン、クロスカントリーなどのスキー競技のみだそうですが、下馬評によると、日本は結構メダル量産の可能性が高いそうです。

各スキー競技は、主として視覚障害、立って滑ることができる立位、チェアスキーと呼ばれるマシンに乗って滑る座位の3つのカテゴリーに分類されますが、アルペンスキーにおける日本選手では、とくに座位カテゴリーの活躍に注目だそうです。

2011/12シーズンのワールドカップ年間総合優勝した、森井大輝選手や、このとき2位だった鈴木猛史選手がとくに注目されており、この二人は2012/13シーズンでは、鈴木が優勝し、森井が2位と順位が入れ替わっていますが、つまり2年連続で男子座位カテゴリーの世界トップの1、2を日本が独占していることになります。

また、健常者のオリンピックでは、あまり日本人選手は振るいませんでしたが、大会前半に行われるバイアスロンでもメダル獲得の期待がかかる選手がいるそうです。その期待を背負って走るのが、女子立位の太田渉子選手や、出来島桃子選手、男子座位の久保恒造選手、男子立位の佐藤圭一選手などです。

とくに前回大会で、惜しくもメダルを逃した久保恒造選手は、その雪辱を果たすために、走力の強化に努めてきたそうです。

2012年、シーズン直前に自分の使用するシットスキー(座位スキー)の高さを29cmから35cmに変更し、合わせてストックの長さも6cm長いものに変えたことにより、クロスカントリー走行の際のストロークの距離が長くなり、彼が得意とする速いピッチでの走力がグーンと伸びたといいます。

このバイアスロン競技は、正規オリンピック競技のほうではほとんど放映されず、元射撃をやっていた私としては大いに不満だったのですが、今度のパラリンピックではこうした注目選手もいるので、放映のほうも期待できそうです。競技のほうもがんばってほしいものです。

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このパラリンピックですが、気がついてみると、いつのまにやら通常のオリンピックと同時期開催というのが定番になっているようですが、いつからそういうことになったのかな、と疑問に思ったのでその歴史などを調べてみました。

すると、こうした障害者スポーツの大会は1900年初頭から、各国で散発的には行われていたようです。が、現在のような世界大会の形で定例化はされていなかったようです。

このパラリンピックの起源とされているものも、もともとは世界大会ではなく、1948年7月に開催されたロンドンオリンピック開会式と同日に、イギリスのストーク・マンデビル病院で行われた「ストーク・マンデビル競技大会」です。

この競技大会での基本理念は、「手術よりスポーツを」というものだったそうで、そもそもは第二次大戦で負傷した兵士たちのリハビリを促進することが目的で始められました。

この、ストーク・マンデビル病院には、第二次世界大戦で脊髄を損傷した軍人のリハビリのための科が専門にあり、ドイツから亡命したユダヤ系医師のルートヴィヒ・グットマンという人の提唱により、車椅子の入院患者男子14人、女子2人によるアーチェリー競技会が行われました。

人数からしてわかるように、大会といえるような規模のものではなく、純然たる入院患者のみの競技大会でした。ところが、周囲に好評だったことから、その後も毎年開催され続けるようになり、4年後の1952年にはついに国際大会にまで発展しました。

これが、「第1回国際ストーク・マンデビル競技大会」と呼ばれるもので、国際大会とはいいながらも当初参加した国はイギリスとオランダの2カ国だけという寂しさでした。

その後毎年行われるようになり、1960年の第9回ストーク・マンデビル競技会で初めてローマオリンピックと同時開催され、これがのちにこれが第1回パラリンピックとされ、「パラリンピックローマ大会」と呼ばれるようになります。が、この時点ではまだ、パラリンピックの呼称はありませんでした。

この年、国際ストーク・マンデビル大会委員会も組織され、第2回の世界大会を4年後の1964年に行うことも決定。

1964年に夏季オリンピックが開催された東京においては、正規オリンピックとは別に、この国際ストーク・マンデビル競技大会も行われました。このときの大会は、2部構成で行われており、その1部が国際ストーク・マンデビル競技大会として、第2部は全ての身体障害を対象にした日本人選手だけの国内大会として行われたそうです。

現在では、この二つの大会は合わせて「パラリンピック東京大会」と呼ばれており、上述の「ローマパラリンピック大会」に続くものとなりました。

しかし、このような障害者のスポーツ大会をオリンピック開催都市と同一都市で行う方式は、東京大会後は定着せず、いったん中断することとなりました。理由はよくわかりませんが、やはり国際大会のような大きな大会とする上では運営資金の面での問題があったのでしょう。

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ところが、8年後の1972年に、ドイツのハイデルベルク大会で、再びこの大会は復活します。が、このときもまだ、大会の名称はストーク・マンデビル競技大会でした。

ちなみに、この大会では、1964年東京オリンピックの男子マラソンで金メダルを取り、オリンピック史上初のマラソン2連覇を飾った、かの有名なエチオピアのアベベ選手が、車椅子アーチェリーで出場しました。が、メダルは取っていません。

アベベ選手は、自身3回目の出場となる1968年のメキシコ五輪では、直前のトレーニング中に左膝を痛め、本番では途中棄権してしまいました。

このオリンピックから約半年後の1969年3月の夜、アベベはアディスアベバから北に約70km離れたシャノという町の北方で、自動車運転中に事故を起こし、生命に別状は無かったものの、第七頸椎が完全に脱臼する重傷を負ったことにより、下半身不随となってしまったのでした。

その後も1972年9月のミュンヘンオリンピックでは、組織委員会から過去の著名な金メダリストの一人として招待を受け、車いすの姿で開会式にゲスト出演し、その後も会場で競技を元気に観覧していましたが、自らが動けないことで「競技を見るのが辛かった」とのちに妻に語っています。

晩年のアベベはこのように体が不自由な状態ながらも、生涯スポーツに関わり続けようとしていたようですが、このミュンヘン五輪からわずか1年後の1973年10月に、脳出血によりエチオピアの首都アディスアベバの陸軍病院にて病死。まだ41歳の若さでした。

因果関係は明確ではないものの、自動車事故の後遺症が脳出血の遠因であるとみられるそうです。

さて話が飛びましたが、1972年のハイデルベルク大会からさらに4年後の1976年には、国際ストーク・マンデビル競技連盟と国際身体障害者スポーツ機構との初の共催で、カナダのトロントで夏季大会が開催されました。また、同年の冬季には、パラリンピック史上初の、第1回冬季大会が、スウェーデンのエーンシェルドスピークで開催されています。

これは現在、「第1回冬季パラリンピック・エーンシェルドスピーク大会」と呼ばれています。

その後、1980年には開催がありませんでしたが、1984年ではニューヨークのアイレスベリーで大会が催され、さらに引き続いて、1988年には、ソウル大会が開かれました。

このとき、初めてこの大会の正式名称が「パラリンピック」となりました。また、IOCが当大会に直接関わる初めての大会ともなり、この大会から、1964年のパラリンピック東京大会以来となる、夏季オリンピックと夏季パラリンピックの同一開催が実現しました。

ただし、冬季大会が冬季オリンピックと同一都市で開催されるようになるのは、さらに後年の1992年のアルベールビル冬季大会からになります。

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このパラリンピックの語源ですが、実は日本人の発案だったということは意外に知られていません。

「パラ」+「リンピック」=「パラリンピック」という語呂合わせは、日本人のある大会関係者発案のようで、1964年の東京オリンピックと共同開催された第13回国際ストーク・マンデビル大会の競技のひとつである、「車いす競技大会」において、この大会の「愛称」として初めて使用したものだそうです。

もう50年も前のかなり古い話なので、その名付けの親が誰であったのかは不詳なのだそうですが、これは、パラプレジア(Paraplegia、脊髄損傷等による下半身麻痺者)とオリンピック(Olympic)を合わせた造語であったといいます。

1988年のソウル大会で国際障害者オリンピックを開催することが決定された1985年、IOCは、このパラリンピックという呼称を用いることを正式決定します。

ただ、これは日本人の発案の造語をそのままあてはめてということではなく、パラプレジア(半身不随者)以外の参加も認めたことから、これらの各障害者がパラレル(Parallel、平行)に競技するオリンピックという意味と、正規オリンピックとは別の「もう一つのオリンピック」の二つの意味を込める、ということで決定されたものでした。

が、もともとは日本人の発案だった呼称を再解釈したにすぎず、この呼称を日本人が発案したということは間違いなく、そのこと自体は誇っていいでしょう。

その後、1989年には、IOCから独立した国際パラリンピック委員会(IPC)が設立され、IPC本部が、ドイツのボンに置かれました。これ以後、冬季夏季相互に2年に一度大会を開催するという、安定した大会運営が行われるようになっていきました。

2000年のシドニーオリンピック時には、それまで分裂していたIOCとIPCとの間で正式に協定も結ばれ、オリンピックに続いてパラリンピックを行うことと、IPCからのIOC委員を選出することなどの取り決めも定められました。

これにより、以後、オリンピック開催都市でのパラリンピック開催は正式に義務化されるようになりました。

2001年にはIPCとIOCは、スイスのローザンヌで合意文書に調印し、パラリンピックとオリンピックの連携をさらに強化して進めることに合意。2008年夏季大会、2010年冬季大会からIOCは、パラリンピックについて運営・経済の両面においてIPCを支援することを決め、パラリンピックの構成や保護に篤い援助をするようになります。

そして2010年冬季大会からは、パラリンピック競技大会の組織委員会はオリンピックの組織委員会に統合されることになり、現在に至っています。ただし、組織を一にして協調するのは、オリンピックがある年だけであり、通常は国際パラリンピック委員会、IPCと、IOCは別組織として存続しています。

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このパラリンピックへの参加選手数は、最初の夏季ローマ大会では、わずか400人にすぎませんでしたが、1988年のソウル大会では、その10倍の4220人が参加しました。

ところが、これ以降は減り続け、1996年アトランタ大会では3259人にまで減りました。2012年のロンドン大会では4310人にまで回復しましたが、今後もこの程度の参加数で横ばい状態が続くのではないかといわれています。

一方の冬季大会のほうはというと、1976年のエーンシェルドスピークで行われた第一回大会で、参加21ヵ国400人だったものが、1998年の長野では32カ国、1,146人にまで増えたものの、その後は減少傾向にあり、2010年のカナダ・バンクーバー大会では502人にまで減少しています。ただ、参加国は44カ国と過去最高でした。

今回のソチオリンピックでも、参加国数は同じ44なのですが、参加者は692人とやや増えただけで、国際大会としては今一つ伸び悩んでいるのが気になります。

このようにパラリンピックへの参加数が伸び悩んでいる理由については、諸説あるようです。

そのひとつとしては、もともとパラリンピックは障害者の社会復帰を進める目的で発生したため、福祉的側面から捉えられることが多かったのですが、近年はより「競技性」が高まった点と関係があるのではないかということが言われているようです。

日本においても陸上競技や車いすテニス等でプロ選手が誕生しており、こうした障害者競技が、正式な競技スポーツとしての側面がクローズアップされてきています。

競技性が高まるに従い、福祉ではなく「スポーツ文化」としての理解と支援を求める声が強まっているのは良いことです。が、より競技性が高まったことにより、難易度が高まり、参加者にとっては、そのハードルがより高くなります。競技人口が減っているというのは、このことと無関係ではないでしょう。

このほかにも、パラリンピックの発展においては、いろいろな問題が浮き彫りになってきています。

オリンピックと同一の開催地になってからパラリンピックへの注目が増し、障害者スポーツの認知度が向上したことにより、メダルをいくつも取るスター選手が現れるようになったこともそのひとつです。

一般紙やスポーツ新聞、バラエティ番組などで報道される機会も増え、彼等の障害者スポーツへの発展や貢献は誰もが認めるところでしょう。

しかし、こうして着目されることが多くなったため、メダルを取ることを一義と考える選手が増えており、メダルの獲得自体はその選手や所属する国の名誉となり、本人にとっても、スポンサーが増えたり報奨金が貰えたりするなどメリットは大きいといえるのですが、逆にメダルを取らんがための、違反が目立つようになってきたのです。

健常者と同様にドーピングをする選手などが増えているといい、このほか、パラリンピックには車椅子や義足などの機具を使う競技が多いことから、この器具に高額な投資をする選手が現れ、高価な補助具を使って自分の身体能力を高くしようとする選手なども現れてきています。

最先端の機具は、スポーツ医学や人間工学、機械工学、材料工学などを駆使してオーダーメードで作られるため、軽く、扱いやすく、体にフィットするようになっています。ただ、当然そのためにこれらの機具は高額になってしまいます。

そんな機具を買えるのは経済的に豊かな選手のみであり、結果的に途上国よりも先進国の選手が有利になってしまいがちという側面があり、上記のように競技人口が減っているというのは、このことも一因と考えられます。

日本においても、一般障害者用の生活用義足は医療保険適用ですが、スポーツ用の義足はこの保険適用外であり、100万円超もする高額品です。これは当然、すべて選手の自己負担となります。こうした義足が金銭的な理由で買えない選手が増えているといい、その中にパラリンピック出場を諦める選手も出てくるのは当然といえば当然です。

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このほか、知的障害があるという理由でパラリンピックに出場した選手が問題になったこともあります。2000年のシドニー大会では、スペインの男子バスケットボールの知的障害クラスで金メダルを獲得したチームの中に、障害者を装った健常者がいたことが発覚する、という事件もありました。

このため、2002年のソルトレイク大会からは知的障害者クラスを実施しないという事態となりましたが、2012年開催のロンドン大会では、知的障害者クラスの競技においてはIPCが課した厳しい障害認定の条件を満たした競技・種目についてはその開催が認められました。

このときIPCは、ロンドン大会では、医師の証明書や実技試験を課す国際基準を作成したそうですが、その実効性には依然疑問の声があがっているそうです。

このほか、パラリンピックでは、障害の度合いに応じて非常に細かい階級を分けるために、例えば100メートル競走の金メダルは男女合わせて10個以上にもなるそうです。

このため、メダルの価値が1個のみと比べて低くなってしまうという意見があり、最近ではこうした意見を踏まえ、メダルを少なくするために、近い障害部位の間で階級を統廃合するという動きもあるようです。

ただ、階級を統廃合すると、今度は障害部位で有利不利が出来てしまいます。例えば水泳競技においては、両足麻痺者と両足切断者が一緒に競ったら、両足切断者は両足が無い分だけ水の抵抗が軽減されたり体重が軽くなって、逆に有利になってしまいます。

「競技の公平」と「メダルの価値」という両天秤において、パラリンピックは難しい選択を突き付けられているのです。

2006年のトリノ大会では、メダルの数を減らすため、障害の度合いによってポイントが加算された選手が競い、総合得点で競うルールが採用されたといい、この問題については、今後も試行錯誤が続いていくことでしょう。

ところで、このパラリンピックにおいては、日本の凋落ぶりが最近顕著です。

1996年のアトランタパラリンピックでは、日本は81人の選手団でしかありませんでしたが、日本のメダル獲得順位は世界10位だった(金14銀10銅 13計37)のに対し、先ごろ行われたロンドンオリンピックでは、134人の選手団を送り込みながら、メダル獲得数は24位にまで落ちました(金5銀5銅6計16)。

また、冬季大会においても、1998年の長野大会では、金12銀16銅13の合計41のメダルを取ったのに対し、前回のバンクーバー大会でもやはり、金3銀3銅5の合計11のメダル獲得にとどまっています。

ロンドン大会では、多額の国家予算を障害者エリート選手にかけた中国の活躍が目立ち、メダル獲得数も際立っており、中国は断トツの1位(メダル獲得数231)で、2位のロシアの102を大きく引き離しました。日本はこのとき8位で、下から3番目の成績でした。

日本のこうしたパラリンピックにおける不振の原因としては、現在の障害者スポーツの管轄が、JOC(日本オリンピック協会)の監督官庁である文部科学省ではなく、厚生労働省となっており、これがそもそも問題ではないかとの指摘があがっています。

ご存知のとおり、厚生労働省は、社会福祉や社会保障、公衆衛生や労働環境などを取り扱う省庁であり、文部科学省のように、スポーツ関連の専門下部組織を持ちません。そんな省庁にそもそもパラリンピックを管轄させていること自体が間違っている、というわけです。

現在のようにパラリンピックそのものの「競技性」が高まっている中、いつまでもここにまかせっきりにしておくのはよくありません。

パラリンピックもオリンピックも国際的にはほぼ同じ組織が運営しているのに対し、日本ではオリンピックを文部科学省が、パラリンピックを厚生労働省が別々に管轄しています。

これは当初パラリンピックは、福祉競技である、という認識から厚生労働省が担当になっただけで、そうではなく、これをスポーツ大会と捉えていたら、本来は文部科学省が扱うべき分野でした。

スポーツ文化においても縦割り行政が幅を利かせているというわけであり、2020年の東京オリンピックを前にして、この矛盾を一日も早く解消してもらいたいという声が高くなっています。

これを一元化すべく「スポーツ庁」を設けようという動きもあるようですが、「スポーツ基本法」の検討課題として附則に規定されるにとどまっており、未だに実現していません。

しかし2020年の東京オリンピック・パラリンピック開催決定を受け、2014年度中には厚生労働省の障害者スポーツ部局を移管し、2015年度までには文部科学省の外局としてスポーツ庁に含ませるといった措置が実現する見通しだといいます。

今回のソチパラリンピックではもう間に合いませんが、来たるパラリンピックをロシアの厳寒の地で戦う692人の勇士がひとつでも多くのメダルを獲得できるよう、祈りたいと思います。

さて、そのソチオリンピックもそろそろ閉会が近づいています。夜更かしが続いて不規則になった生活をそろそろもとに戻していかなくてはなりません。

それにしてももう2月も下旬。そろそろ梅も見にでかけねばなりません。忙しい限りです……

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レルヒさんと……

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連日のソチオリンピックの競技日程も、中盤を越え、そろそろクライマックスに入ろうとしています。

そんな中、先日の葛西選手の個人ジャンプの銀メダルに引き続き、男子団体ジャンプ競技でも銅メダルを獲得し、日本中が沸いています。

4人のうちの二人が、病気または怪我による故障の中、勝ち取ったこの「銅」メダルは、その字をもじって「金と同じ」だという発言には誰もが納得。とくに難病だったことを明かした竹内選手には泣かされました。

この競技の一番手だった清水礼留飛選手も、ソチ直前のW杯で成績が振るわず、メンバーからははずされかけましたが、国内大会で好成績を収めてなんとか日本代表に選出されたという経緯もあり、今回の大活躍後のインタビューでも葛西選手がその努力を称えていました。

この清水選手の「礼留飛」という名前は、日本にスキーを伝えたとされるオーストリアのテオドール・エードラー・フォン・レルヒ少佐に由来するということは、多くの人がテレビの解説で知っているところでしょう。

ノルディック複合の元スキージャンプ選だった、父親の清水久之さんが、日本にスキーを伝えたとされるこのレルヒ少佐に敬意を表して命名しました。その久之さんが、まだスキーの国体選手であったころ、小学校1年生だった礼留飛君にスキーを勧めたことがきっかけで、彼もまた父と同じスキー人生を歩み始めました。

清水礼留飛選手は、1993年生まれで、現在21歳です。新潟県妙高市出身で、県立新井高等学校卒業後、雪印メグミルクに就職し、スキー部に所属しつつ徐々にその才能を開花させてきました。

現在はジャンプ競技が専門ですが、元々はノルディック複合の選手であり、全国中学校スキー大会、全日本ジュニアスキー選手権大会でも複合競技で優勝するなどしていました。が、その頃からもうジャンプを得意としており、複合選手ながら時々純ジャンプ競技の大会でも優勝していたといいます。

高校時代にも純ジャンプ競技での成績の方がよかったそうですが、コンチネンタルカップや世界ジュニア選手権のジャンプ競技では複合選手として転戦していました。しかし、好結果を残すことが出来なかったことから、高校3年時の2011年春に複合の強化指定を辞退し、本格的に純ジャンプへと転向するようになりました。

2012年8月、サマーグランプリ初戦のフランス・クーシュベル大会でジャンプ選手として初優勝を達成。さらに続くドイツ・ヒンターツァルテン大会でも2位に入る活躍を見せるなど、徐々に頭角を現してきました。

そして、2013年2月にはノルディックスキー世界選手権の日本代表に初選出され、団体戦に出場するまでになりましたが、前述のとおりソチ直前には調子を崩して振るわずメンバーからは外されかけましたが、これまでの実績を認められてオリンピックの代表に選出されたのです。

一昨日は、大ジャンプを見せて、銅メダル獲得に貢献しましたが、まだまだ21歳と若く、次のピョンチャンオリンピックでの活躍が期待されます。将来の葛西選手のような存在になるのではないでしょうか。レルヒ少佐の名前にふさわしい活躍を期待したいところです。

このレルヒ少佐もまた、立派な人物だったようです。1869年に、このころまだハンガリー帝国と呼ばれていたオーストリアのプレスブルクという場所で、軍人の家庭に生まれました。

19歳で、ウィーナー・ノイシュタットのテレジア士官学校に入学し、若干22歳で少尉に任官していますから、お父さんも軍人だったための親の七光りという面もあったでしょうが、優秀な青年だったのでしょう。

軍隊に入ってからの配属先は、奇遇にもこの父が勤務していたプラハの歩兵第102連隊でした。配属当初から知的才能、責任感、知識、指導力に秀でていたといい、上官や部下への人当たりもよく、勤務評定で高い評価を得ていました。

25歳で、士官学校の幕僚育成コース試験に合格。教育課程修了後、数々の歩兵旅団附参謀を務め、31歳でインスブルックの第14軍司令部附参謀となりました。山岳地帯であった同地で、ビルゲリー大尉が行っていたスキー訓練に興味を持つようになります。

そして、これに答えるように2年後の33歳のとき、アルペンスキーの創始者マティアス・ツダルスキーと運命的な出会いを果たし、彼に師事するようになります。

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このツダルスキーが開発したアルペンスキーというのは、スキーの原型ともいわれるノルディックスキーから分化したものです。

ノルディックスキーというのは、もともとはノルウェーやフィンランドといった北欧で生まれたスキー技術であり、あまり高低差のない地形において長距離移動することを目的として開発されたものです。クロスカントリーはその原型を最もとどめたものであり、これに狩猟のための射撃を加えたものがバイアスロンです。

これに対して、アルペンスキーというのはオーストリアやスイスといった、山岳地帯で発達したものです。北欧と異なり、急斜面な場所が多く、このため、安全に滑降するための工夫が必要でした。

この当時、世界のスキーはノルウェー式が主流でした。ノルウェー式は平らなところを歩くには最適でしたが、足をスキー板に固定する締が具は簡単なものだったため、このスキーで山などの急な斜面を滑ることはできませんでした。

このため、ツダルスキーは急な斜面でも安全に滑ることができる「リリエンフェルト式」と呼ばれるスキーを考案しました。これは、「ビンディング」と呼ばれるスキー靴とスキーを固定する部分の踵を固定したもので、これにより滑降に特化して発達したスタイルが生まれました。

これに対して、ノルディックのクロスカントリーに使われるスキーでのビンディングは、先端部のみが固定され、踵は解放されています。長距離を移動するためには、このほうが足首を自由に動かしにくく、疲れにくいためです。

このノルディックスキーを改良してアルペンスキーを開発したというマティアス・ツダルスキーという人物が、実際どんな人だったのか調べてみたのですが、よくわかりません。

が、アルペンスキーに関するかなり専門的な図書を後年出版しており、レルヒとも親しかったことなども考え合わせると、軍に所属する何等かの技術者、あるいは顧問のような存在だったのでしょう。

こうして、ツダルスキーにスキー技術を学んだレルヒは、34歳で南チロルでの国境警備に派遣されましたが、この環境はレルヒにスキーの研究に絶好の地でした。また、ハンガリー帝国の戦争省の建物が道を挟んで、レルヒの所属するアルペンスキークラブ事務所と隣り合っていたことも、彼がスキーにさらなる情熱を燃やす要因となりました。

ツダルスキーは市民のみならず軍隊にもスキーの重要性を解いており、1890年代から一部の部隊に指導を行っていました。しかし、当時の軍内部における意見の多数はスキーを娯楽と考えており、導入に懐疑的でした。

こうした中、レルヒがチロルに赴任して3年たったころ、オーストリア南東部のシュタイヤーマルクの山岳地帯で演習を行っていた騎兵部隊が雪崩に遭遇します。

この事故の知らせを聞いたレルヒはスキーを使ってその遭難者の救出にあたっており、帰還するや否やこのときとばかりに軍上層部にスキーの重要性を訴えました。軍高官と接点の多い参謀本部附という自身の立場を利用し、直接的に、あるいは友人知人を介してスキーの重要性を精力的に軍高官らに説いて回ったといいます。

この結果、当時のハンガリー帝国参謀総長フランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフ中将は、彼の熱意に応えてスキーの導入を正式に決定。二年後の1908年2月、チロル地方のベックシュタイン山麓で、ハンガリー帝国最初の軍隊によるスキー講習会が開催されました。このときレルヒは講師として献身的にこの指導に加わりました。

ちなみに、このころレルヒが忠誠を誓っていたハンガリー帝国というのは、ハプスブルク家の君主が統治した連邦国家でした。1867年に、それまであったオーストリア帝国がハンガリーを除く部分とハンガリーとの同君連合として改組されることで成立した国で、1918年に解体するまで存続しました。

1918年(大正7年)、第一次世界大戦の敗戦と革命によりこのオーストリア=ハンガリー帝国は解体され、共和制となりますが、この時点で多民族国家だった旧帝国のうち、かつての支配民族のドイツ人が多数を占める地域が、現在のオーストラリアになりました。

その後は1938年にナチス・ドイツに併合され、1945年から1955年には連合国軍による分割占領の時代を経て、1955年の独立回復により現在につづく体制となりました。1995年には欧州連合にも加盟し、以来、オーストリアは永世中立を宣言しており、首都ウィーンを中心として、音楽で名を馳せる文化大国としてそ世界中に知られています。

ただ、このレルヒ少佐が活躍していたころの19世紀後半から20世紀前半にかけてのオーストリア=ハンガリー帝国の世界的な評価は、「諸民族の牢獄」「遅れた封建体制国家」などとあまり良くありません。

その後も「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれた中欧・東欧の混乱を招く火種のような存在であり続け、レルヒ少佐が活躍していた時代には国力もかなり落ちていました。

そんな中、日本とロシアとの間で勃発した日露戦争において、ロシア帝国に勝利した日本陸軍の研究材料とし、軍の増強を図ろうとしていたハンガリー帝国はレルヒ少佐を交換将校として派遣することを決めます。

こうして、レルヒは、1910年(明治43年)11月30日に来日。しかし、あくまで、日本の軍事技術を研究するために派遣されたのであり、スキー教師として来日したわけではありませんでした。

が、ちょうどこのころ日本陸軍は八甲田山の雪中行軍で事故をおこしたばかりでした。このためもあり、日本陸軍はアルペンスキーの創始者としてのマティアス・ツダルスキーからの直接の指導を願っていたといい、その弟子であるレルヒが来日すると聞いて、大いに喜んだようです。

彼の来日後も、そのスキー技術の伝授を積極的に申し出、そのためにわざわざ新潟県中頸城郡高田(現上越市)にある第13師団歩兵第58連隊の営庭を貸しています。さらには付近の金谷山などの山中で、この連隊の兵士にスキー指導をさせています。

このときとくに彼を推挙したのがこの第13師団長の「長岡外史」であり、彼は後に日本の航空機開発における祖ともいわれる人物ですが、そのことについては後述します。

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こうして、レルヒ少佐による本格的なスキー指導が始まり、1911年(明治44年)1月12日に歩兵第58連隊の営庭を利用し、鶴見宜信大尉ら14名のスキー専修員に技術を伝授したことが、日本に於ける本格的なスキー普及の第一歩とされています。また、これにちなみ毎年1月12日が「スキーの日」とされているようです。

その一年後の1912年には、レルヒ少佐は北海道の旭川第7師団へのスキー指導のため旭川市も訪問しており、また北海道でのスキー訓練の総仕上げとして羊蹄山登山を行い、山頂からの滑走訓練も行ったといいます。

こうしたスキー指導の傍ら、レルヒは日本各地の旅行にも出ており、下関から箱根、名古屋、伊勢、奈良、京都、広島を回っており、これらの日本滞在記を帰国後に出版しています。

さらに門司港から朝鮮半島までも訪問したと記録されており、その後日本から中華民国に渡り満州、北京、上海へ、さらにイギリス領香港を経て12月英領インドの演習を観戦しています。

その後、日本には戻らず、年明けの1913年(大正2年)1月に本国に帰国。日本における滞在期間は、わずか二年ほどでした。

帰国後は混成山岳連隊の大隊長などを務めましたが、程なく勃発した第一次世界大戦では新設された第17軍参謀長に任ぜられました。1916年、47歳になった彼は、ロシア軍、イタリア軍と交戦。ヨーロッパ各地を転戦しますが、ドイツ帝国陸軍の所属として西部戦線に向かったところ、戦線での負傷により退役を余儀なくされます。

晩年はチロル山脈での勤務や日本への旅行を題材に、講演活動などを中心とした生活を送ったといいますが、敗戦国であるため軍事恩給もなく、その暮らしは財政面でかなり苦しかったといいます。1945年12月24日、糖尿病のため死去。享年76。ウィーンの共同墓地に葬られたそうです。

なお、日本に滞在中、レルヒが伝えたアルペンスキーは、ツダルスキー直伝の杖を1本だけ使うスキー術だったそうです。これは重い雪質の急な斜面である高田の地形から判断した結果だといいます。

しかし、レルヒは1本杖、2本杖両方会得していたといい、ほぼ同時期にスキーが普及した札幌では、このころ既に2本杖のノルウェー式が主流となっていたそうです。その後、1923年に開催された第一回全日本スキー選手権大会では、2本杖のノルウェー式が圧倒。レルヒが伝えた1本杖の技術は急速に衰退していきました。

レルヒは、生粋のスポーツマンだったといい、スキーのみならず、水泳、サイクリング、スケート、登山と何でもこなしました。また、芸術にも秀で、絵画を数多く残しています。英語、チェコ語、マジャル語、イタリア語、フランス語、ロシア語の6ヶ国語が話せたといい、日本語滞在の2年間に多少日本語も話せるようになっていたそうです。

後年の、1930年(昭和5年)、このころ既にオーストリア国民となっていたレルヒを高田の人々が招待しようとしたことがあったといいます。「スキー発祥記念碑」が建立されたためであり、レルヒはその除幕式に招待されたのですが、身体の具合が思わしくなく、また財政的に厳しいという理由で来日を断りました。

そんな彼の窮状を知った高田の人々は協力して見舞金を集め、同年、当時の金額で1600円をレルヒに寄付したといい、これは現在の貨幣価値に換算すると、300万円前後になります。

そのお礼にと、レルヒからは礼状とともに自筆の油絵と水彩画が贈られたといい、現在でも上越市となった高田には、レルヒの描いたオーストリアの山々や町並みなどの水彩画約50点が所蔵されているそうです。

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ところで、このレルヒ少佐をスキー教官として登用した長岡外史ですが、この人は私と同じ長州人です。安政5年日(1858年)周防国都濃郡末武村(現山口県下松市)に大庄屋の息子として生まれ、その後徳山藩士・長岡南陽の養子となりました。

安政5年といえば、幕末動乱の時期ですが、動乱に巻き込まれるほどは年長ではなく、長州の名門校、萩の明倫館を卒業したころには、戊辰戦争はほぼ終了していました。

明治11年(1878年)、20歳で陸軍士官学校を卒業後、27歳で陸軍大学校を一期生として卒業。日清戦争では旅団参謀、軍務局軍事課長を勤め、ドイツ派遣も経験。明治35年(1902年)には44歳で陸軍少将となり、歩兵第9旅団長を務め、明治37年(1904年)からの日露戦争では大本営陸軍部参謀次長として行動しています。

明治38年(1905年)、5月末の日本海海戦における圧倒的な勝利ののち、ロシア帝国との講和条件を少しでも日本側に有利なものとするため、講和会議に先立って樺太を占領すべきであると考え、長岡は樺太占領作戦を軍首脳に上申しました。

が、海軍は不賛成であり、陸軍参謀総長の山縣有朋もこれに同意しませんでした。このため長岡は、満州軍の児玉源太郎に手紙を書いて伺いを立て、その返信を論拠に説得作業を展開、これにより7月以降の樺太作戦が決まります。結果的に、この作戦は後日成立したポーツマス条約における講和条件のひとつである南樺太割譲に大きな影響を与えました。

明治41年(1908年)には軍務局長となりましたが、軍務局長というのは大臣・次官に次いで政治折衝の中心的な地位にあり、事実上大臣に次ぐナンバー2とうことになります。

翌年には陸軍中将に昇進しますが、第13、16師団長を務めた後、大正5年(1916年)には予備役となり、軍を引退。その後余生を郷里の山口で静かに過ごしていたかにみえましたが、大正13年(1924年)、66歳のとき突如として第15回衆議院議員総選挙に出馬して当選し議員となりました。

が、政治家としてはあまり目立った活躍はなく、昭和8年(1933年)1月、膀胱腫瘍のため慶應義塾大学病院に入院、治療を受けていましたが、同年、4月に容態が急変して、手当の甲斐なく、10日ほどのちに死去。享年76でした。

墓所は青山墓地ですが、彼の郷里の下松市笠戸島の「国民宿舎大城(おおじょう)」には、外史を顕彰する外史公園があり、外史の銅像が建てられています。

ちなみに、この国民宿舎大城のレストランの「ヒラメ定食」は絶品です。今も同じメニューがあるかどうか知りませんが、笠戸島周辺は、ヒラメの名産地として有名です。タコもうまい!

この外史ですが、レルヒ少佐の採用の例でもそうだったように、先入観や慣例にとらわれず新しいものを受け入れる柔軟な思考能力を有していたといわれています。

ただ、頑固一徹の一面もあったようで、外史が混成第9旅団の参謀を務めていた時、部下の二宮忠八から「飛行器」の研究に対して軍から予算をもらいたい旨の上申書を受けたときにもこれを一蹴しています。

人が乗って空を飛ぶ機械の構想という、この当時としてはかなり奇想天外な研究に対して難色を示したのはわかるのですが、そのときの口上は、「今は戦時である」「外国で成功していないことが日本で出来るはずがない」「成功したとしても戦争には使えない」だったそうで、けんもほろろだったと伝えられています。

ところが、外史は戦争には使えないと言った飛行機を実際には二宮は偵察にも使えると強く上申していたそうで、この二宮の主張を却下したことは、日本人による世界初の飛行機の開発という絶好のチャンスを失う一因となりました。

しかし、後にライト兄弟により飛行機が発明され、この二宮忠八の飛行機研究開発の事実が世間に知られることになったとき、外史はこの当時の自らの先見のなさを嘆き、二宮に面会して謝罪したといいます。

その後、明治41年(1908年)に軍務局長となって以降は、逆に飛行機開発を積極的に推進するようになり、飛行機の普及を計るため、大正4年(1915年)には、国民飛行協会を設立、大正7年(1918年)には、これを改組して、帝国飛行協会を創設し、人材の顕彰や育成にあたりました。

また、軍務局長となった明治42年(1909年)には、初代の臨時軍用気球研究会の会長を兼務し、日本軍の航空分野の草創期に貢献しました。その後、日本は第一次大戦、二次大戦と大きな戦争に向かっていくことになりますが、この中で開発された数多くの航空機は、日本の航空機産業の創成期に長岡によって育成された人材によって開発されたものであったことは言うまでもありません。

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長岡は、「プロペラ髭」と呼ばれる長大な髭を蓄えており、この自慢の髭は最長で70cm弱にも達したといいますが、これを本気で自慢していたそうです。しかし、発想が奇抜で、思いつきに過ぎない現実性のない構想を実行しようとして周囲を混乱させたこともしばしばであったといいます。

が、そんな変人が現在の日本の航空機産業の礎を創ったといってもよく、現在でも日本人はなんのかんのと飛行機が大好きです。飛行機が大好きな宮崎駿監督の作品がヒットするのもわかるような気がします。

今回のオリンピック競技でのジャンプ競技においても、かつての札幌オリンピック団体選手たちを「日の丸飛行隊」と、飛行機乗りに例えたこともその表れでしょう。

このスキージャンプもまた、上述のノルディックスキー競技のひとつであり、その発祥は北欧です。板とブーツの接続構造が、ビンディングでつま先だけが繋がれるものであり、アルペンスキーと比較してかかとが固定されない点でも同じノルディックスキー競技であるクロスカントリーと同じです。

ノルディックスキーには、このほかもうひとつテレマークスキーというのがあり、本来はこれを合わせた3つがノルディックと称されるべきものです。が、テレマークのほうは、冬季五輪正式種目には採用されていません。

アルペンスキーのように雪山やゲレンデを滑るスキーであり、アルペンスキーの原型とみなす向きもあるようですが、その滑り方は独特です。スキージャンプで、競技者が着地するとき「テレマーク姿勢」という独特の姿勢を取りますが、同様の姿勢によって、「テレマークターン」を行い斜面を滑降する競技です。

ノルディックスキーがノルウェーの「テレマーク地方」を中心に発達してきたため、ジャンプ競技において最も美しいとされ高得点に結びつく着地時の姿勢もまた「テレマーク姿勢」とよぶようになりました。

テレマーク競技は、オリンピックでは採用されていませんが、独自に世界選手権やワールドカップがあります。

この競技を愛する人は、このテレマーク競技こそが、正式なノルディック競技だと主張しています。その一方で、クロスカントリーとジャンプをまとめて、「ノルディックスキー競技」と呼ぶ向きもあり、「テレマーク」やら「ノルディック」やらが入り乱れてややこしいかぎりです。

が、しつこいようですが、本来は、ジャンプ、クロスカントリー、テレマークの3つの総称が「ノルディック」であるわけです。

このうちのジャンプ競技は、1840年ごろのノルウェーのテレマーク地方が発祥の地とされています。子供たちがスキーで遊んでいるうちに自然発生的に競技となったという説がある一方で、その起源は、ノルウェーの処刑法にあるなどとされ、テレビ等でも紹介されたため広く信じられてきましたが、俗説です。

これは、ジャンプが、他のどのスポーツ競技と比較してもあまりにも恐怖感を伴うものであるため、重刑囚がこのジャンプをクリアできれば、その刑を軽減されるというものですが、いまだこの説を真実だと思っている人がたくさんいるようです。

1860年代、初期の著名なジャンプ競技者は、テレマーク競技出身のノルトハイムという選手だったそうです。1877年には、最初のジャンプ競技会がノルウェーで行われ、1879年には、同じくテレマーク地方にいた靴屋の少年ジョルジャ・ヘンメスウッドがクリスチャニアのヒューズビーの丘で23m飛んだという記録が残っています。

日本においては、1923年(大正12年)、第1回の全日本スキー選手権大会がスタートしたときに、このジャンプ競技も行われました。この大会はまた、日本スキー競技史のはじまりでもあります。

この全日本スキー選手権大会は、当初ノルディックのみから始まりました。すなわち上記3つの競技だけで、このときはまだアルペンはありません。開催地は、北海道の小樽市であり、ジャンプ競技では、小樽高商の讃岐梅二選手の16.1mが優勝記録でした。

また翌年の1924年(大正13年)第2回大会は、会場をレルヒ少佐ゆかりの新潟県高田市(現在の上越市)に移し、ジャンプ競技では北大の伴素彦選手の21.7mが最高記録でした。

この大会の開催はやがてオリンピックへの初出場とつながり、また全日本学生スキー選手権大会の開催、アルペン競技の登場、世界選手権大会、全国高等学校選手権、全国中学校へとつながっていきました。

第2回の全日本スキー選手権大会が開催されたこの年、第1回の冬季オリンピック大会がフランスのシャモニで開催されましたが、日本は同大会がテスト開催だったこともあり不参加でした。このときの参加国16で参加者はわずか258名だったそうです。

次いで1928年(昭和3年)に開催された、第2回冬季オリンピックでは、日本は初めて選手を派遣しました。開催地はスイスのサンモリッツで、2月11日~19日の9日間の参加国・地域数は25、参加人数464人にまで増え、競技種目数も5競技14種目となりました。

この日本人が初めて出場した冬季オリンピックで、日本選手団は役員1人、ノルディックスキー種目には永田実、高橋昴、竹節作太、矢沢武雄、伴素彦、麻生武治の6人が出場し、クロスカントリースキーでは男子50kmの永田実の24位が日本人最高位でした。

ジャンプ競技では第2回全日本スキー選手権大会でも活躍した、伴素彦の、39mが最高で、このときの順位は36位だったといいます。ちなみに、この時の金メダルはノルウェーのアルフ・アンデシェン選手が獲得し、飛距離は2回目の64.0mが最高でした。

現在のラージヒルジャンプの飛距離は、最高ともなると140mに迫るものもあることを考えると、この当時の飛距離はかわいいものです。

そのジャンプ競技の飛距離と、ジャンプする飛行姿勢については、切っても切り離せない関係があり、その変遷の歴史には結構物語があります。が、長くなるのでここでは割愛します。

最近でのこの飛行姿勢は、V字が主流であり、このV字飛行は、20世紀終盤に、スウェーデンのヤン・ボークレブ選手が始めたものが起源だといわれているようです。

V字飛行は、それまでの板を揃えて飛ぶ飛型よりも前面に風を多く捉えて飛距離を稼ぐことができましたが、当初は飛型点で大幅な減点対象になり、上位に入るには他を大きく引き離す飛距離が必要でした。

が、他の選手も次第に取り入れるようになり、その後規定が変更され減点対象から除かれるようになりました。クラシックスタイルからV字への転向には、日本やオーストリアは早く対応できたようですが、フィンランドなどの強豪国は転向に乗り遅れ、一時低迷することとなりました。

この飛形を最初に取り入れたヤン・ボークレブ選手は、元々足がガニ股だったそうで、当初から空中でスキーの先端が大きく開くフォームとなってしまっていたといいます。板を揃えて飛ぶのが当たり前だった当時としては非常に特徴的でしたが、これが功を奏して飛距離を伸ばすようになったといいます。これは結構有名な話のようです。

このオリンピックの正式採用種目になっているジャンプ競技では、競技規則により、ラージヒルでも、着地終点区間とテークオフ先端の垂直距離が一定距離を超える競技場は使えないそうで、このため、最大飛行距離も実質上145mが最大だそうです。

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ところが、オリンピック種目ではない「スキーフライイング」という競技が別にあり、これは、スキージャンプの一種でK点170m、ヒルサイズ185m以上のジャンプ台を使用して行われ、最大飛距離を争う競技です。

この規模のジャンプ台を「フライングヒル」と呼称し、またこの台で行われる種目も「フライングヒル」と呼称されますが、これが行えるほど大きな競技場は、世界に5つしかありません。

その歴史は1934年、ユーゴスラビアのプラニツァというところに100mの飛行を可能にするジャンプ台が建設され、翌年の1936年3月にオーストリアのヨーゼフ・ブラドルという選手が、史上初めて大台を超える101mのジャンプを成功させたことに始まります。

1950年代に入ると西ドイツのオーベルストドルフやオーストリアのタウプリッツにも150mの飛行が可能なジャンプ台が建設されるようになり、1972年に国際スキー連盟も公認のスキーフライング世界選手権が開始され、1979~1980年シーズンにスキージャンプ・ワールドカップが始まるとその中の1種目とされました。

1994年3月には、フィンランドのトニ・ニエミネンが史上初めて200mを超えるジャンプを成功させ、その後も飛距離の記録は伸び続け、2000年にノルウェーのトーマス・ヘールが220mを越え224.5m、2003年にフィンランドのマッティ・ハウタマキが230mを越える231m、2005年3月にはビヨーン・アイナール・ローモーレンが239mを記録しました。

同じ日にヤンネ・アホネンは240m地点に到達しましたが、このときには、そのまま行けば競技場を超えてしまいそうな場所まで飛びそうになったことから、無理矢理降下して転倒してしまったため、この記録は正式記録とは認められなかったそうです。

2011年には、ノルウェーのヴィケルスンのフライングヒル競技場がK=195、HS=225mに改築され、地元ノルウェーのヨハン・レメン・エベンセンが、ここで行われた世界大会の予選ラウンドで246.5mを飛びました。

ただ、予選であったため、この記録も公認されておらず、本選でオーストリアのグレゴア・シュリーレンツァウアーが飛んだ243.5mが最高記録となっているようです。が、非公認ながら、現在の最長記録はエベンセンが記録したこの246.5mということになります。

それにしても、現在我々がテレビで目にするラージヒルジャンプ競技の最高距離が、140m程度であることを考えると、この200数10メートルという距離は驚異的です。

この距離を飛ぶ選手は100km/h前後の高速で空中に飛び出し、8秒から10秒間飛行するそうで、この大ジャンプは当然選手にとっては、多大な心理的圧力になります。

オーストリアのインスブルック大学の研究では、飛行中のジャンパーは神経系を酷使して「視覚刺激の洪水」を処理していることが分かっているそうで、これは、スキージャンプ選手の脳内ではアドレナリンが多量に分泌されていることを意味しているといいます。

当然、脳にとっては異常事態であり、そうした重圧をそれ以上増やさない状態を作り出そうとすることから、この競技に臨む選手は常に慢性的なストレスにさらされ、不安か逃れたいがゆえに、排尿の増加(利尿不安)や協調制約などをももたらすといいます。

協調制約というのは、一種の自律神経失調症のようなものらしく、これを回避するには、精神的・肉体的に極限状態となるスキーフライングを集中してトレーニングすることしかないそうです。これにより最終的に自動的に極限状態を処理するシナプスが形成されるといいます。

ただ問題は、こうしたトレーニングを多くの選手に積ませるほどたくさんの競技場がないことです。新たにスキーフライングの競技場を整備するにはコストがかかります。このため、選手人口を増やして新たな記録を得るのはなかなか難しいというわけです。

また、選手にすれば、わずかのトレーニング機会で風の状況やジャンプ台の癖を見抜かなければならないわけで、小さなミスが重大な事故を起こす危険性があり、長期的にトラウマを引き起こす可能性もあります。

実際、1983年に当時19歳の東ドイツの選手が突風に煽られて大転倒し怪我を負い、翌シーズンからは大きなジャンプ台ではパニック症状を起こすようになり、苦しんだそうです。

スキーフライイングのある一流選手は、「スキーフライングの感覚は、愛情における感覚と自動車事故を免れた時の感覚を混ぜ合わせたようなものだ」と語ったそうですが、これは好きで好きで病みつきなんだけれども、やっぱ怖い、ということなのでしょう。

1972年から始まったスキーフライング世界選手権は、現在も2年に一度行われていますが、上述のとおり専用のジャンプ台は現在世界で五箇所にしかなく、したがってこの五箇所で持ち回り開催されています。

この世界選手権では通常のスキージャンプと異なり、2日間4回の飛躍の合計で順位を決定するそうです。 1回目の飛躍に参加できるのは予選を通過した40人で、1回目上位30人のみが2回目以降に参加でき、 2004年の選手権からは団体戦も導入されているそうです。

実は、1992年にチェコのハラコフで行われた、この世界選手権では、葛西紀明が金メダルをとっています。また、1998年にドイツのオーベルストドルフで行われた大会でも船木和喜選手が金メダルをとっているほか、現在は解説者になっている原田雅彦もメダルこそは獲得していませんが、何回もこの選手権に出場しています。

日本人の中でも飛行曲線の高いことで定評のあった原田雅彦選手ですが、さすがにこの競技は怖かったらしく、踏切時には成功ジャンプだと思っても、途中でジャンプを止めて手前で降りることも多かったといいます。

また、強風の中で行われた1998年のヴィケルスンでの大会では1本目3位ながら2本目を棄権しています。この時他にディーター・トーマやアンドレアス・ゴルトベルガーなど、飛行曲線の高いジャンパーがこぞって2本目を棄権したにも関わらず、このとき船木和喜選手はまったくこのジャンプを苦にしていなかったそうです。

船木選手は、最後のほうで、着地斜面をなめるように滑空するジャンプが持ち味であり、こうした選手にスキーフライイング競技は向いているといいます。このほか、岡部孝信選手もまた、これが得意だったといいます。

その後、長らくこのスキーフライング世界選手権では日本人のメダルはないようですが、2012年には、今回の団体ジャンプでも活躍した伊東大貴選手が、日本人最長となる240mを記録したこともあるようです。

いつか、日本人が世界記録を破るような最長飛行をする日もくるかもしれません。その日が楽しみですが、それをやるのは、もしかしたら、レルヒ少佐の名を受け継いだ若い清水選手なのかもしれません。