深海の使者

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昨夜ニュースをみていたら、兵庫県沖でまた体長4メートルあまりのダイオウイカが水揚げされたことを報道していました。

生きたまま捕獲されたのは今回が初めてで、サザエの素潜り漁をしていた漁師さんが、ふと上を見上げたら、頭上を悠々と泳いでいたダイオウイカを発見。咄嗟に持っていたロープをイカの胴体に絡めて、漁船まで引っ張っていったのだそうです。

これまでも、このダイオウイカに関してはさんざん報道されていて、捕獲してもアンモニア臭くて喰えたものではない、というのは漁師さんのほうも知っていたようですが、一生に一度出会えるかどうかわからない「主」ということで、興味のほうが先だったようです。

そのまま泳がせて逃がしてやればよかったのに、かわいそうに、とついつい思ってしまうのですが、こうした生物を研究している専門家にとっては新たな試料が増えたわけであり、小躍りして喜んでいるのかもしれません。

それにしても、最近はこのダイオウイカの目撃談が増えていて、日本海側では頻繁にあそこで見た、ここで見たという報告が増えているそうで、捕獲されたものとしてはこの兵庫県沖以外にも、先月の1月4日富山県氷見漁港で体長3.5メートルのダイオウイカが水揚げされました。

もっとも、こちらは陸まで上げたときには死んでいたようで、シーズンの寒ブリの網にかかって水揚げされたものでした。

かつては幻と言われていた魚が、これほど頻繁に我々の目の前に現れる理由としては、今年は寒かったために海流の変化が起こったためとか、地球温暖化のせいだとかいろいろ説があるようですが、地震の予兆ではないかと言う人まで出てきて、そういう話を聞くと少々不気味です。

3年前の東日本大震災は3月11日に起こっていますから、直近にまた地震が起きるのではと思ってしまいます。これは魚座の誕生月に発生した地震であり、この星座の生まれの心優しい私としては、必要もないのに罪悪感を感じてしまったりするのでした。

このダイオウイカですが、これまでもさんざん報道されているので、いまさらではあるのですが、通常のイカよりも数十倍もドデカイだけに興味深い対象物ではあります。

これまでは発見数が少なく、しかも台風によって浜辺に打ち上げられたりして、死骸になった状態で漂着するなどの発見例が大半でした。

生きている個体の目撃例はほとんどなく、その生きている映像は、日本の研究家が2006年(平成18年)12月に小笠原沖650M付近に仕掛けた深海たて縄で捕獲したダイオウイカを船上から撮影したものが世界初とされています。

この際の映像での体色は赤褐色でしたが、2013年にも行われた同じ小笠原沖の深海調査で発見された生きたダイオウイカの映像をみると、活発に活動しながら他のイカと同様に体色もカラフルに変化させ、光を反射する黄金色の体色でした。

標本や死んで打ち上げられた多くの個体は、表皮が剥がれ落ち、白く変色するため、その色素がどう変化するについては依然謎のままであり、また今回のように捕獲されたものもすぐに死んでしまったため、生きている時にどのように活動しているのかについてもよくわかっていないようです。

ニュージーランド近海の調査では、ダイオウイカが捕食する獲物は、オレンジラフィー(タイの一種)やホキといった魚や、アカイカ、深海に棲むもっと小さいイカなどであることが、胃の内容物などから明らかにされていそうですが、まだまだ生態、個体差ともに不明な点が多く、詳細は今後の研究が待たれる状態です。

そもそもその大きさのために、「大王」の名が付けられたようですが、日本での発見例は外套長1.8m、触腕を含めて6.5mほどが最大です。

英語では giant squid(ジャイアント・スクィッド)といいますが、ヨーロッパで発見された個体ともなると、大きなものは体長18mを超えており、この倍以上です。この個体は、直径30センチメートルにもなる巨大な目を持っていたそうで、これだけでなく、一般にダイオウイカは目玉がでかいのが特徴だといいます。

これによりごく僅かの光をも捉え、深海の暗闇においても視力を発揮するためといわれており、小笠原沖で撮影されたダイオウイカの目玉もビデオで見る限りはギョロリとデカく、見つめられると思わずすくんでしまいそうでした。

世界各地に存在する伝説に登場する巨大な海の怪物「クラーケン」はダイオウイカをモデルにしているといわれていますが、イカだけでなく、タコとして描かれることも多いようです。

クラーケンは、とくに北欧で数多くの伝承が残っていて、中世から近世にかけて、ノルウェー近海やアイスランド沖に数多く出現したとされています。

クラーケンの姿や大きさについては伝説によって異なり、巨大なタコやイカといった頭足類の姿で描かれることが多いものの、このほかにも、シーサーペント(大海蛇)やドラゴンの一種、エビ、ザリガニなどの甲殻類、クラゲやヒトデ等々、様々です。

姿がどのようであれ一貫して語られるのはその驚異的な大きさであり、「島と間違えて上陸した者がそのまま海に引きずり込まれるように消えてしまう」といった類の種類の伝承が数多く残っています。

日本にも赤鱏(あかえい)という巨大魚の伝説があり、江戸時代後期の奇談集『絵本百物語』(天保12年(1841年)刊)にも登場します。

この伝承では、安房国(現在の千葉県南端)の野島崎から出航した舟が、大風で遭難して海を漂っていたところ、島が近くに見えてきました。これで助かったと安堵した船乗りたちは舟を寄せ、上陸したところ、どこを探しても人がおらず、それどころか見渡せば、岩の上には見慣れない草木が茂り、その梢には藻がかかっています。

あちこちの岩の隙間には魚が棲んでおり、2、3里(およそ10キロメートル前後)歩きましたが人も家も一向に見つけることができず、せめて水たまりで渇きを癒そうとしたものの、どの水たまりも海水で飲めません。

結局、助けを求めるのは諦めて船へ戻り、島を離れたところ、実はそれまで島だと思ったものが、ドンブリコドンブリコと沈んでイクではありませんか。今までそこにあった島だと思ったものは、実は海面へ浮上した赤えいであった、というお話です。

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15世紀アイルランドの聖ブレンダン伝承に登場するクラーケンの場合は、島と間違えて上陸したブレンダンが祝福のミサを終えるまで動かずにいたと伝えられており、その体長は2.5kmに及んだといいます。

日本の赤エイも、このクラーケンもどちらとも非常にのんびりとしたもので、怖いというかんじはしませんが、このことから、これらのクラーケンには、クジラがその実体ではなかったかとの憶測があるようです。実際にクジラには漁業神や海神と見なされる側面があり、このような逸話が世界中に数多く存在します。

また、ダイオウイカの天敵はマッコウクジラであると考えられており、マッコウクジラの胃の内容物から本種の痕跡が多く発見されるそうです。

鯨の頭部の皮膚に吸盤の跡やその爪により引き裂かれた傷が残っていることもあるようで、ダイオウイカの吸盤には鋸状の硬い歯が円形をなして備えられており、獲物を捕獲する際、あるいはバトルを繰り広げる際には、これを相手の体に食い込ませることで強く絡みつくと考えられています。

よく昔の挿絵や映画で、大きなタコと鯨が戦っている映像を見ることがありますが、ダイオウイカの宿敵であるクジラもまた、同じクラーケンとしてしばしば歴史物語で登場してきます。

ただ、それらの中でも最も古いもののひとつと言われる、18世紀デンマークのベルゲン司教、エリック・ポントピダンという人が記した本には、クラーケンの正体ははっきりとは書かれていないものの、ヤツが吐いた墨で辺りの海が真っ黒になったとだけ書いてあります。

この記述からはマッコウクジラやシャチといった天敵に遭遇したとき、離脱用として煙幕のように墨を吐いたことが想像されます。従って、このころからクラーケンは、一般的にはタコやイカなどの頭足類の一種として認識されることが多かったことがわかります。

なお、言語学的にはこの書物が刊行された1755年をもって固有名詞 “Kraken” の初出とされているそうで、それ以前から似て非なる名前あるいは全く異なる名前で語られる怪物の存在は数々ありましたが、以後、こうした怪物をクラーケンの名で呼ぶようになったようです。

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ま、クラーケンの正体がクジラであるにせよ、イカタコにせよ、古代から中世・近世を通じて海に生きる船乗りや漁師にとって海そのものは大きな脅威であり、その象徴ともいえるクラーケンは、彼らから怖れられる存在であったことは確かです。

「凪(なぎ)で船が進まず、やがて海面が泡立つなら、それはクラーケンの出現を覚悟すべき前触れである。姿を現したが最後、この怪物から逃れる事は叶わない。たとえマストによじ登ろうともデッキの底に隠れようとも、クラーケンは船を壊し転覆させ、海に落ちた人間を1人残らず喰らってしまうのであ~る。」

といったふうな伝承が世界各国で語り継がれてきており、船出したまま戻らなかった船の多くは、クラーケンの餌食になったものと信じられてきました。

さすがに、最近では海難をクラーケンのせいにする人はいないでしょうが、19世紀末までは海での遭難は本気でクラーケンのせいにすることも多かったようです。

1872年(明治4年)に、メアリー・セレスト号が見つかったとき(1872年)、この船が無人となった理由として様々な検証・憶測がなされましたが、その中には「乗員が全てクラーケンの餌食になった」という説を唱える人が多かったといいます。

メアリー・セレスト号といのは、この年にポルトガル沖で、無人のまま漂流していたのを発見されたアメリカ船籍の船です。ニューヨークの工場から出荷された工業用アルコールを積み、ニューヨークからイタリア王国のジェノヴァへ向けて出航していました。

船には船員7人のほか、船長とその妻サラ、娘ソフィア・マチルダの計10人が乗っていましたが、発見当時、なぜか乗員が一人も乗っていませんでした。これにてついては、「バミューダより愛をこめて」というタイトルで以前書いたことがあるので、詳しくはそちらを読んでみてください。

なぜ乗員が乗っていなかったかは今もって分かっておらず、航海史上最大の謎とされますが、最も有力で信憑性のある説として、その積荷がアルコールの樽であったため、船長らがこれを危険と考え、それから離れようとした、というのがあります。

この説では、船には大量のアルコール樽が積まれていましたが、このアルコールが樽から激しく吹き出したため船長は船が爆発すると考え、全員に救命ボートに移るよう命令したのではないかとしています。

このとき海上が荒れ、風雨が激しくなったため、船は救命ボートから離れてしまい、命綱が切れて海上を漂流し、最後は全員が死んだのではないか、というのです。

しかし、もっともらしい説ではあるものの、これを裏付ける物証に乏しく、また関係者全員が発見されていないため、140年前という時代を考えると、これもやはりクラーケンのせいだとする声が高くなったのも無理はないかもしれません。

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実は、似たような例は日本でも起きています。戦後の1950年(昭和25年)12月30日、4隻の2000トン級の貨物船が、北海道での石炭積み込みのため津軽海峡東方を北上していた際、当日夜からの冬型気圧配置のため、強風が吹き始め、4隻の船は操船の自由を失って東方洋上に漂流し始めました。

年が明けて1951年1月、4隻のうち2隻は上旬から中旬にかけて自力で辛うじて港に入りましたが、あとの2隻は操船叶わず、船長と船員らの意思疎通がうまく行かなかったなどの理由もあって、船体の放棄を決め、救援に来た船に船長以下乗組員全員が無事に乗り移りました。

このとき、無人船となった2隻のうち、1隻は5日後に巡視船によって発見されましたが、残る1隻は実に1ヵ月半近くたってから、日付変更線付近の中部太平洋上を漂流しているのがアメリカ船により発見されました。

この例では、4隻の船はいずれも無線によって自船の状況や救援依頼を他船や関係機関等に逐次連絡したので大事には至らず、そのうちの一隻が無人のまま漂流した事も公になりました。

しかし、もし無線が無い船が同様の操船不能に陥り、救援を得られないまま乗員が救命ボートで脱出して行方不明になるような事態に至れば、メアリー・セレスト号と似た結果となる可能性はあります。

このように、大海原に取り残されたたった一隻の船で海難事故が起こった場合は、その当事者以外には誰もその事故原因を把握しておらず、乗組み員全員が亡くなった場合には、その原因が解明されずに永久にお蔵入り、ということはかなり多いようです。

このためクラーケンのような伝説が生まれたわけですが、それを「深海に棲む魔物」のせいに見立てたのは、やはり深い海の底がいまだに神秘の世界とされているためでもあります。

よく、宇宙、深海、人体の三つは人類に残された最後の未開拓地であると言われますが、宇宙開発と医学はどんどん進んでいるのに、深海開発だけは遅々として進みません。

実は私の専門は海洋工学であり、海洋開発を夢見てその関連の大学に進んだのですが、その当時から言われていた海洋資源開発は、30年以上も経った現在でもたいして進んでいません。

メタンハイグレードや、熱水鉱床、マンガン団塊といった海洋資源のことが最近になってよくテレビで取り上げられますが、そんな話は私が学生時代のころから耳にタコができるほど聞かされています。

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にもかかわらず、いまだにそれらの採掘が進まないのは、この深海という世界が宇宙以上に過酷な世界であるためです。

地球の海の平均水深は 3,729 mであり、深海は海面面積の約 80 % を占めます。また、水深 4,000~6,000 m には地球の表面積のほぼ半分を占める広大な深海底が存在し、ここまでを「深海帯」と呼んでいます。

これより深い超深海帯は海溝の深部のみが該当し、海全体に占める割合は 2 %程度にすぎませんが、ここまで潜るための潜水艇は世界でも数えるほどしかありません。

水深が深くなればなるほど大きな水圧がかかることになるためであり、有人潜水艇などの内部気圧を地上と同じに保つためには、10mごとに1気圧ずつ増える周囲の圧力に抗するだけの強度が求められます。

つまり、1000mであれば、100気圧の圧力がかかることとなり、これがどのくらいスゴイかというと、カップヌードルの容器の大きさが半分ほどになるほどです。

これよりもさらに深い深海だと、例えば日本が誇る深海探査船「しんかい6500」の潜航深度水深が、その最大の6500mに達したときに、試験的に外で吊り下げられていたカップヌードルの容器は、なんと1/8の大きさにまで圧縮されました。

なお、ダイオウイカの生息水深は、よくわかっていないようですが、水深600m以深ではないかといわれているようです。このような深海でも、そこに棲む生物はすでに体内の圧力が周囲の水圧と同じになっており、深海中では押しつぶされることはありません。

21 世紀の現在でもこうした大水圧に阻まれて深海探査は容易でなく、大深度潜水が可能な有人や無人の潜水艇や探査船を保有する国は数少ないことから、深海のほとんどは未踏の領域です。

軍事以外の潜水艇の深度世界記録は、1960年に深海調査艇「トリエステ2号」が出した深度10,916mですが、これは無論、記録を狙ったものであり、通常の潜水艦の実用深度ではありません。

最近の近代的な軍事用潜水艦の潜航深度は、攻撃型潜水艦の場合で300~600m程度、戦略ミサイル原潜が100~500m程度です。武装した潜水艦の潜航深度記録は、1985年にチタン合金船殻のソ連原潜「K-278」が記録した1,027mで、K-278はこの深度で魚雷発射が可能であったと言われています。

従って、これより深い海については、ほぼほとんどの人間が到達できる場所ではなく、これが深海開発が遅れている理由です。

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いわんや、第二次世界大戦当時の潜水艦の性能というのは、こうした近代的な船よりもはるかに低く、最大深度はせいぜい、250m程度だったようです。ただ、これはMAXであり、通常深度は100m程度でした。しかし、緊急時には200mまで潜ることもあったといい、これはドイツのUボートや日本のイ号潜水艦のような優秀な船だからこそ潜れた深さです。

この優れた潜水艦建造技術を持った二国は、同盟関係にあり、このため、この深海を行き来して、遠く離れたドイツと日本とを結び、戦略物資及び新兵器やその部品・図面等、さらには大使館付武官・技術士官・民間技術者等日独両国の人材の輸送を行ったミッションがかつて存在しました。

日本側では「遣独潜水艦作戦」と呼ばれていたものであり、この話は、作家の吉村昭さんが「深海の使者」として執筆し、文藝春秋社から1974年に出版されています。

日本とドイツは1936年(昭和11年)に日独防共協定を結び、以後同盟関係にありましたが、1941年6月の独ソ開戦によりシベリア鉄道経由の同盟国日本からドイツへの陸上連絡路が途絶し、さらに同年12月の日米開戦によって海上船舶による連絡も困難となりました。

ドイツ側も生ゴム・錫・モリブデン・ボーキサイト等の軍用車両・航空機生産に必要な原材料を入手するために海上封鎖突破船をインド洋経由で日本の占領する東南アジア方面に送りましたが、アフリカ沿岸を拠点に活動するイギリス海軍や南アフリカ連邦軍の妨害に遭うことが多くなり、作戦に支障をきたすことが多くなっていきます。

このため、ドイツは潜水艦による物資輸送を提案しました。日本側からもレーダー技術・ジェットエンジン・ロケットエンジン・暗号機等の最新の軍事技術情報をドイツから入手したいという思惑があり、両国の利害が一致し、ここに日本とドイツの間を潜水艦で連絡するという計画が実行に移されることとなったのです。

基本的なルートは、日本~マラッカ海峡~インド洋~マダガスカル沖~喜望峰沖~東部大西洋~ドイツ占領下のフランス大西洋岸にあるUボート基地との往復でした。

第二次世界大戦開戦当時の1942年ごろには、まだ東南アジアからインド洋にかけての地域は日本海軍の制海権下にあったものの、東部大西洋からヨーロッパにかけてはすでにイギリス海軍の厳重な対潜哨戒網が敷かれていました。

このため、大西洋上のルートや入港先についてはたびたび変更されており、とくに1943年以降は、大西洋~ヨーロッパの制海権をほとんど連合軍に奪われ、インド洋以東のアジア海域にも連合軍による通商破壊が活発になっていきました。

こうしたことにより、全5回の遣独作戦中、はじめ2回は往復に成功したものの後半の3回においては、両国が派遣した潜水艦は連合国側にすべて途中で撃沈されています。ただし往復に成功した2回のうちでも、第一次遣独艦は帰路に立ち寄った日本占領下のシンガポール入港時に暗号通信の不徹底から味方の機雷に触雷・沈没しています。

この艇の沈没した艦内から積荷は回収されましたが、期待されたレーダー(ウルツブルク・レーダーという)の器材や設計図面などは使用に耐えなかったそうです。従って物資輸送を完全に成功させたのは第二次遣独艦のみということになります。

なお、撃沈された第四次遣独艦は、フランス・ロリアンに入港後の復路でフィリピンのバシー海峡にてアメリカ海軍の潜水艦に撃沈されていますが、この艦には、ドイツのMe163型ロケット戦闘機及びMe262型ジェット戦闘機に関する資料が積まれていました。

ところが撃沈される直前に寄港したシンガポールで、零式輸送機に乗り換えたこの艦の一人の中佐が、その一部の資料を持ち出して帰国したため、かろうじて残ったそれらの資料は、のちに「秋水」「橘花」といった日本初のジェット戦闘機の開発に活かされたといいます。

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一方、ドイツもこの日本側の遣独作戦に呼応して、都合4隻ほどのUボートを派遣したようですが、そのほとんどが成功していません。

1945年(昭和20年)3月にキールから日本に向けて出発した、UボートU234には、途中でイ号潜水艦に手渡すための、上と同じMe163型ロケット戦闘機、部分品に分解された2機のMe262型ジェット戦闘機、そしてウラニウム鉱石560キロ他を積載が搭載されていました。

さらにこの船には、東京に赴任する予定のウルリヒ・ケスラー空軍大将のほか、対空射撃管制装置の専門家ハインツ・シュリッケ海軍少佐・対空射撃の専門家フリッツ・フォン・ザントラート空軍大佐が乗っており、帰国する日本人潜水艦建造技師らも便乗していました。

しかしその途上において、1945年5月8日にドイツが無条件降伏を受諾したことから、同艦は5月15日にアメリカ海軍護衛駆逐艦「サットン」に降伏しています。なお同艦に同乗していた日本海軍の友永・庄司両技術中佐は、降伏直前に連合軍の捕虜となることを潔しとせず自決しています。

このドイツから日本へ運搬される予定だったウラニウム鉱石は、日本初となる原子爆弾の製造のためだったといわれており、もしドイツが降伏せずに、これが日本に運び込まれていたら、もしかしたら、世界初の原子爆弾は日本人によって製造されていたかもしれません。

また、逆に日本の遣独潜水艦が、広島の秘密実験所で濃縮されたウランをドイツに運んでいた、という「噂」もあり、それゆえにその事実を知った米国は、原子爆弾の最初の投下地として広島を選んだ、日本の学者が原爆製造に成功しないよう手を打ったのだ、というまことしやかな話しもあるようです。が無論、推測の域は出ません。

このように、日独間で相互に派遣されていた潜水艦で実際に何を運搬しようとしていたのかについては、これまでに分かっているもの以外にもさまざまな憶測があり、このため、これにまつわる数多くのフィクションも創作されています。

私が子供のころに愛読していた、小澤さとるさんの、「サブマリン707」という漫画では、707の艦長が大戦中に指揮していた架空の潜水艦「イ-51」が大西洋に派遣され、架空のUボート「UC140」とコンビを組んで通商破壊戦を行っていたという話が出てきますが、これもこの遣独作戦をモチーフにしたものです。

最近では、福井晴敏さんの小説「終戦のローレライ」で、やはり特殊音響兵器「PsMB1」を手土産に日本へ亡命してきた架空のUボート「UF4」が登場しており、この話では同艦は後に日本海軍に接収され、伊号第五〇七潜水艦となる、とうことになっています。

この小説は2005年に、映画「ローレライ」として公開されているので、見たことがある人もいるでしょう。

このほか、1965年に封切られた映画「フランケンシュタイン対地底怪獣」では、Uボートと伊号潜水艦を用いて、「フランケンシュタインの心臓」がドイツから日本へと運ばれたという荒唐無稽な話が盛り込まれています。

手塚治虫さんの漫画「アドルフに告ぐ」でも、遣日潜水艦としてUボートが登場し、ここではヒトラーの出生に関する機密文書処分の任を帯びた将校が、北極海回りで日本へと向かう設定になっていました。

これからもこうした「深海の使者」モノは数多く語り継がれていくでしょうが、最近頻繁に話題に登場するダイオウイカもまた、深海の使者として話題になり続けていくに違いありません。

伝承のクラーケンもまた、深海の使者として語り継がれていくでしょうが、このクラーケンはけっして「危険な存在」とされている訳ではなく、温和かつ無害に描かれることも多かったといいます。

伝承のひとつには、クラーケンの排泄物は香気を発して餌となる魚をおびき寄せているともいうのもあり、とかく臭い、というイメージのあるダイオウイカももしかしたら、お魚さんには良い臭いのする素敵な存在なのかもしれません。

イカんせん、そろそろ枚数が多くなってきました。今日のところはこの辺でイーカげんにやめにすることにしましょう。

それにしてもなにやら妙にイカの刺身が食いたくなりました。今晩のおかずはイカにしたもんでしょう……

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