昨今、テレビのニュースやワイドショーなどのいろんな番組をみていても、韓国と北朝鮮の話題が途切れることはまずありません。ほぼ毎日のように何等かのニュースがあちらから飛び込んできますが、これはやはり隣国であるという位置関係と、歴史的にみても腐れ縁の深い両国であるがゆえでしょう。
ところで、この二国が分裂する要因となった、朝鮮戦争というものが、いったいどんな戦争であったのか、については詳しい知識もないくせに、ことあるごとに拉致だの、竹島だと報道されるニュースにそりゃーないだろう、と憤慨だけしているのは、かねてから少々気恥ずかしい思いを持っていました。
なので、今日はひとつ、お勉強のつもりで、現在のような形の日本の存在とも関係のあるこの朝鮮戦争というものをまとめておきたいと思います。個人的、政治的な見解は抜きにして、ありのままを整理してみましょう。
朝鮮戦争は、成立したばかりの大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で、朝鮮半島の主権を巡り北朝鮮が、国境を越えて侵攻したことによって勃発した国際紛争であり、1950年6月25日に起こり、1953年7月27日にいったん、休戦の形をとって現在に至っています。
呼称に関しては、日本では朝鮮戦争もしくは朝鮮動乱と呼んでいますが、韓国では韓国戦争や韓国動乱、あるいは開戦日にちなみ6・25(ユギオ)と呼んでいます。
一方の北朝鮮では祖国解放戦争と呼んでいるようで、韓国を支援し国連軍として戦ったアメリカやイギリスでは英語でKorean War (朝鮮戦争)、北朝鮮を支援した中華人民共和国では抗美援朝戦争と呼ばれていて、この「美」は中国語表記でアメリカの略です。
また、一般的には戦線が朝鮮半島の北端から南端まで広く移動したことから「アコーディオン戦争」とも呼ばれているようです。
この戦争では、当事国ばかりでなく諸外国が交戦勢力として参戦し、朝鮮半島全土が戦場となって荒廃しました。前述のとおり1953年に休戦に至りましたが、北緯38度線付近の休戦時の前線が軍事境界線として認識され南北二国に分断されたままです。
現在も両国間に平和条約は結ばれておらず、緊張状態は解消されていません。北朝鮮側による領空・領海侵犯を原因とした武力衝突がたびたび発生していることはみなさんもご承知のとおりでしょう。
1945年8月15日、第二次世界大戦において日本は連合国に降伏しましたが、その時点で日本が併合していた朝鮮半島北部に連合国の1国のソ連軍(赤軍)が侵攻中であり、日本の降伏後も進軍を続けていました。
同じく連合国の1国で反共主義を掲げていたアメリカは、ソ連の急速な進軍で朝鮮半島全体が掌握されることを恐れ、ソ連に対し朝鮮半島の南北分割占領を提案。ソ連はこの提案を受け入れ、朝鮮半島は北緯38度線を境に北部をソ連軍が、南部をアメリカ軍が分割占領することになりました。
その後、米ソの対立を背景に南部は大韓民国(韓国)、北部は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)としてそれぞれが建国を行い、独立。
南北の軍事バランスは、ソ連および1949年に建国されたばかりの隣国中華人民共和国の支援を受けた北側が優勢で、武力による朝鮮半島の統一支配を目指す北朝鮮は1950年6月、韓国軍主力が半島南部に移動していた機を見て、防御が手薄となっていた国境の38度線を越え軍事侵攻に踏み切りました。
侵攻を受けた韓国側には進駐していたアメリカ軍を中心に、イギリスやフィリピン、オーストラリア、ベルギーやタイ王国などの国連加盟国で構成された国連軍(正式には「国連派遣軍」)が参戦しました。
一方の北朝鮮側には中国人民義勇軍(または「抗美援朝軍」「志願軍」)が、参戦しましたが、その実態は中国人民解放軍であり、これに加えてソ連は直接参戦はしないものの、武器調達や訓練などの形で支援し、これによってこの戦争はアメリカとソ連(中国)による代理戦争の様相を呈していきました。
戦争の経過としては、まず北朝鮮の奇襲攻撃にはじまりました。1950年6月25日午前4時(韓国時間)に、北緯38度線にて北朝鮮軍の砲撃が開始されましたが、このときとくに宣戦布告は行われなかったそうです。
そのわずか30分後には朝鮮人民軍が暗号命令「暴風」(ポップン)を受け、その約10万の兵力をもって38度線を越え、また、東海岸道においては、ゲリラ部隊が工作船団に分乗して後方に上陸し、韓国軍を分断し始めました。
このことを予測していなかった、韓国初の大統領、李承晩(イ・スンマン)とアメリカを初めとする西側諸国は大きな衝撃を受けます。
李承晩は、親米派の独立運動家で、ジョージ・ワシントン大学、ハーバード大学を経てプリンストン大学で博士号を取得した俊英であり、この頃起きた政界再編によって生まれた民主国民党(民国党)のリーダーとなって国民からも高い支持を得ていました。
前線の韓国軍では、一部の部隊が独断で警戒態勢をとっていたのみであり、農繁期だったこともあって、大部分の部隊は警戒態勢を解除していました。また、首都ソウルでは、前日に陸軍庁舎落成式の宴会があり、軍幹部の登庁が遅れて指揮系統が混乱していました。このため李承晩への報告は、奇襲後6時間経ってからだったといいます。
さらに、韓国軍には対戦車装備がなく、一方の北朝鮮軍にはソ連から貸与された当時の最新戦車であるT-34戦車を中核にした部隊があり、韓国軍はこの攻撃には全く歯が立たないまま、各所で敗退していきます。
ただしその一方では、開戦の翌々日には、春川市を攻撃していた北朝鮮軍がその半数の兵力しかない韓国軍の反撃によって潰滅状態になるなど、韓国軍の応戦体制も徐々に整いつつありました。
ちょうどこのころ、連合国軍総司令官マッカーサーは日本にいて日本の占領統治に集中していました。このため、朝鮮半島の緊迫した情勢を把握していなかったらしく、このためトルーマン大統領がミズーリ州においこの開戦の報告を受けたのは、砲撃から10時間も過ぎた現地時間24日午後10時でした。
トルーマンは、ただちに国連安全保障理事会の開会措置をとるように命じてワシントンD.C.に帰還しましたが、彼の関心もまた、この当時の冷戦の最前線とみなされていたヨーロッパへ向いていました。
このため、まずはアメリカ人の韓国からの退去、および韓国軍への武器弾薬の補給、海軍第7艦隊の中華民国への出動を命じただけで、すぐには軍事介入を命じませんでした。
一方、6月27日に開催された国連の安保理は、北朝鮮を侵略者と認定、「その行動を非難し、軍事行動の停止と軍の撤退を求める」という主旨の「国際連合安全保障理事会決議」を全会一致で採択します。
南北の軍事バランスに差がある中で、北朝鮮軍の奇襲攻撃を受けた韓国軍は絶望的な戦いを続けていましたが、せめて国内にとどまる北朝鮮不正分子を排除しておこうと、6月27日に李承晩は、保導連盟員や南朝鮮労働党関係者の処刑命令を出します。
この保導連盟とは、韓国国軍や韓国警察が共産主義からの転向者やその家族を再教育するための統制組織であり、南朝鮮労働党とは、朝鮮の共産主義政党でした。この命令によって、これら組織の加盟者や収監中の政治犯や民間人など、少なくとも20万人あまりが大量虐殺されたといいます(保導連盟事件)。
同日、韓国政府はソウルを放棄し、南部に20kmほど離れた水原(スウォン)に遷都。他方、ソウルは6月28日、北朝鮮軍の攻撃により市民に多くの犠牲者を出した末についに陥落。この時、命令系統が混乱した韓国軍はソウル市内北部の漢江(ハンガン)にかかる橋を避難民ごと爆破しました(漢江人道橋爆破事件)。
これにより漢江以北には多数の軍部隊や住民が取り残され、自力で脱出することを迫られるところとなり、また、この失敗により韓国軍の士気も下がり、全滅が現実のものと感じられる状況になっていきました。
北朝鮮軍は中国共産党軍やソ連軍に属していた朝鮮族部隊をそのまま北朝鮮軍師団に改編した部隊など練度が高かったのに対し、韓国軍は将校の多くは太平洋戦争中には日本軍の軍人であり、建国後に新たに編成された師団の指揮官となった生粋の韓国軍人とは反りが合わず、各部隊毎の指揮系統に問題があると同時に訓練も十分ではありませんでした。
また、来るべき戦争に備えて訓練、準備を行っていた北朝鮮軍は、装備や戦術がソ連流に統一されていたのに対して、韓国軍は戦術が日本流のものとアメリカ流のものが混在し、装備はアメリカ軍から供給された比較的新しい物が中心であったためその扱いに不慣れでした。
しかも米韓軍事協定の制約により、重火器はわずかしか支給されず戦車は1輌も存在しませんでした。
また、航空機も、第二次世界大戦時に使用されていた旧式のアメリカ製戦闘機が少数あるのみであり、この結果、陸軍はまたたく間に朝鮮軍に蹂躙されて潰滅して敗走を続け、貧弱な空軍も、緒戦における北朝鮮軍のイリューシン Il-10攻撃機などによる空襲で撃破されていきました。
マッカーサーは6月29日に東京の羽田空港より専用機のダグラスC-54「バターン号」で水原に入り、自動車で前線を視察しました。敗走する韓国軍兵士と負傷者でひしめいている中、この時すでに彼は70歳を超えていましたが、自ら活発に戦場を歩き回ったといいます。
この日彼は派兵を韓国軍と約束し、その日の午後5時に本拠としていた東京へ戻りましたが、その後もたびたび東京を拠点に専用機で戦線へ出向き、日帰りでとんぼ返りするという指揮方式を取り続けました。
やがて、マッカーサーは本国の陸軍参謀総長に対して、在日アメリカ軍4個師団の内、2個師団を投入するように進言しますが、この進言にあたっては大統領の承認は得ていませんでした。
さらにマッカーサーは、本国からの回答が届く前に、ボーイングB-29やB-50大型爆撃機を日本の基地から発進させ、北朝鮮が占領した金浦空港を空襲させるなど、このころから既に独断でこの戦争を推し進めようとする風潮がありました。こうした空気を読み取ったトルーマンもまた、マッカーサーに、1個師団のみしか派兵を許可しませんでした。
ちなみに、この時、日米合わせたアメリカ陸軍の総兵力は59万2000人でしたが、これは第二次世界大戦参戦時の1941年12月の半分に過ぎず、第二次世界大戦に参戦した兵士はほとんど帰国、退役し、新たに徴兵された多くの兵士は実戦を経験していませんでした。
一方の韓国軍は、7月3日に蔡秉徳(チェ・ピョンドク・元日本陸軍少佐)が参謀総長を解任され、丁一権((チョン・イルグォン・元日本陸士)が新たに参謀総長となり、混乱した軍の建て直しに当たり始めました。しかし、派遣されたアメリカ軍先遣隊は7月4日に北朝鮮軍と交戦を開始しますが、7月5日には敗北してしまいます(烏山(オサン)の戦い)。
これに先立つ一週間ほど前の、6月27日には、国連安保理は北朝鮮弾劾・武力制裁決議に基づき、韓国を防衛するため必要な援助を韓国に与えるよう加盟国に勧告していました。
これを受け、7月7日になって、アメリカ軍25万人を中心として、日本占領のために西日本に駐留していたイギリスやオーストラリア、ニュージーランドなどのイギリス連邦占領軍を含むイギリス連邦諸国、さらにタイ王国やコロンビア、ベルギーなども加わった国連軍が結成されます。
しかし、準備不足で人員、装備に劣る国連軍は各地で北朝鮮軍に敗北を続け、アメリカ軍が大田(テジョン)の戦いで大敗を喫すると、国連軍は最後の砦、洛東江戦線にまで追い詰められていきます。
しかし、この頃北朝鮮軍の勢力にも陰りが見え始めていました。不足し始めた兵力を現地から徴集した兵で補い人民義勇軍を組織化し、再三に渡り大攻勢を繰り広げましたが、各地からバラバラに兵士を募ったため、これは後の離散家族発生の一因ともなりました。
金日成(キム・イルソン)は「解放記念日」の8月15日までに国連軍を朝鮮半島から放逐し統一するつもりでしたが、国連軍は「韓国にダンケルクはない」と釜山橋頭堡の戦いで撤退を拒否し、徹底抗戦をして、釜山の周辺においてようやく北朝鮮軍の進撃を止めました。
ダンケルクというのは、第二次世界大戦の西部戦線において侵攻するドイツに対して連合国側が輸送船の他に小型艇、駆逐艦、民間船などすべてを動員した史上最大の撤退作戦です。
マッカーサーは新たに第10軍を編成し、数度に渡る牽制の後の9月15日、アメリカ第1海兵師団および第7歩兵師団、さらに韓国軍の一部からなる約7万人をソウル近郊の仁川(インチョン)に上陸させて仁川上陸作戦(クロマイト作戦)に成功します。
また、仁川上陸作戦に連動したスレッジハンマー作戦で、アメリカ軍とイギリス軍、韓国軍を中心とした国連軍の大規模な反攻が開始されると、戦局は一変しました。
補給部隊が貧弱であった北朝鮮軍は、38度線から300km以上離れた釜山周辺での戦闘で大きく消耗し、さらに補給線が分断していたこともあり敗走を続け、9月28日に国連軍がソウルを奪還し、9月29日には李承晩ら大韓民国の首脳もまたソウルへの帰還を果たしました。
10月1日、韓国軍は「祖国統一の好機」と踏んだ李承晩大統領の命を受け、第8軍の承認を受けて単独で38度線を突破。これを危機的な状況と考えた北朝鮮は、その翌日の2日、朴憲永(パク・ホニョン)が中華人民共和国首脳に参戦を要請します。
この朴憲永という人は、南朝鮮労働党系(南労党派)であり、満州派である金日成とは対立していましたが、朝鮮戦争当時は共通の敵のために結託していました。が、戦後に朴憲永以下南労党派はクーデター容疑および「アメリカ帝国主義のスパイ」「反党分裂分子」などの容疑で一斉に逮捕され、粛清されています。
彼の要請を受けた、中華人民共和国の国務院総理(首相)の周恩来は「韓国軍だけでなく、国連軍が38度線を越境すれば参戦する」と警告。一方、国連安保理では、国連軍による38度線突破の提案が出され、これは最初、ソ連の拒否権により葬られましたが、10月7日、アメリカの提案により国連総会で議決しました。
これにより10月9日にアメリカ軍を中心とした国連軍も38度線を越えて進撃し、10月20日に国連軍は北朝鮮の臨時首都の平壌を制圧しました。ちなみに北朝鮮は1948年から1972年までソウルを首都に定めていました。
アメリカ軍を中心とした国連軍はさらに反撃を続け、トルーマン大統領やアメリカ統合参謀本部の警告を無視して北上し、敗走する北朝鮮軍を追いなおも進撃を続けていき、ついには、北朝鮮中部の東側にある軍港、元山市にまで迫ります。
国連軍よりさらに先行していた韓国軍に至っては朝鮮北部にまで到達し、一時は中朝国境の鴨緑江に達し、ついには、すわ南北両国の「統一間近」とまで騒がれました。ところが、彼等はちょうどこのころ中国軍が北朝鮮軍に合流すべくその派遣の準備を進めているとは考えていませんでした。
一方のソ連はアメリカを刺激することを恐れ、表立った軍事的支援は行わず、同盟関係の中華人民共和国に肩代わりを求めるだけにとどまっていました。
その、これまで参戦には消極的だった中華人民共和国が、北朝鮮への韓国軍・国連軍の攻勢を目の当たりにし、北朝鮮との約束に従って中国人民解放軍を「義勇兵」として派遣することを遂に決定します。
派兵された「中国人民志願軍」は、彭徳懐(ポン・ドーファイ)を司令官とし、ソ連から支給された最新鋭の武器のみならず、第二次世界大戦時にソ連やアメリカなどから支給された武器と、戦後に日本軍の武装解除により接収した武器を使用し、最前線だけで20万人規模、後方待機も含めると100万人規模の大軍に膨れ上がりました。
中朝国境付近に集結した中国人民解放軍は10月19日から隠密裏に北朝鮮への侵入を開始し、10月25日、迫撃砲を中心とした攻撃を韓国軍に仕掛けます。韓国側はこれを北朝鮮軍による攻撃ではないと気付き、捕虜を尋問した結果、中国人民解放軍の大部隊が鴨緑江を越えて進撃を始めたことを確認して、驚愕します。
が、とき既に遅しでした。11月に入ってからは、中国人民解放軍はさらに国連軍に対して攻勢をかけ、その猛烈な反撃に、アメリカ軍やイギリス軍はこれに抗しきれず徐々に南下し始めました。
国連軍・韓国軍としては、中国人民解放軍の早期参戦はまったく予想していなかった上、中国国境付近まで進撃したため補給線が延び切って、武器弾薬・防寒具が不足しており、これに即応することができなくなっていました。
また、中国人民解放軍は街道ではなく山間部を煙幕を張って進軍したため、国連軍の空からの偵察の目を欺くことにも成功していました。
国連軍も、11月24日には鴨緑江付近にまで戻って中国人民解放軍に対する反撃を開始し始めましたが、中国人民解放軍は山間部を移動し、神出鬼没な攻撃と人海戦術により国連軍を圧倒、その山間部を進撃していた韓国第二軍が壊滅すると、黄海側、日本海側を進む国連軍も包囲されてしまいます。
ついにはこらえきれなくなり、ついに平壌を放棄した国連軍と韓国軍は、一気に38度線近くまで潰走しました。
この戦いでは、また、ソ連の援助により最新鋭機であるジェット戦闘機のミコヤンMiG-15が投入され、国連軍に編入されたアメリカ空軍の主力ジェット戦闘機のリパブリックF-84やロッキードF-80、F9F、イギリス空軍のグロスター ミーティアとの間で史上初のジェット戦闘機同士の空中戦が繰り広げられました。
初期のMiG-15は機体設計に欠陥を抱えていたこともあり、F-86に圧倒されたものの、改良型のMiG-15bisが投入されると再び互角の戦いを見せ始め、これに対しアメリカ軍も改良型のF-86EやF-86Fを次々に投入しましたが、なかなか戦況の回復は見込めませんでした。
MiG-15の導入による一時的な制空権奪還で勢いづいた中朝共同軍は12月5日に平壌を奪回、年を越して、1951年1月4日にはソウルを再度奪回します。
ちょうどその二日後の1月6日には、韓国軍・民兵が北朝鮮に協力したなどとして江華島住民を虐殺するという悲惨な事件を起こしています(江華良民虐殺事件)。この島は南北両国の境界付近の西岸にあり、全員非武装の民間人、約1,300人が犠牲者となりました。
そんな事件を起こすほど、指揮系統は混乱していたのでしょう。韓国軍・国連軍の戦線はもはや潰滅し、2月までには現在の韓国の中央部に位置する忠清道(チュンチョンプクト)まで退却しました。
また、激しく南北に動く戦線に追われる中、横領によって食糧が不足して9万名の韓国兵が命を落としました。2月9日には韓国陸軍第11師団によって、385人の民間人が虐殺されるという事件も引き起こされました(居昌良民虐殺事件)。
このように、中国軍が参戦してからは、日中戦争や国共内戦における中華民国軍との戦いで積んだ彼等の経験と人命を度外視した人海戦術が効を奏し、北朝鮮軍の優勢は続きました。また彼等はソ連から支給された最新兵器や日本軍の残して行った残存兵器を豊富に持っていました。
ところが、この頃には度重なる戦闘で高い経験を持つ古参兵の多くが戦死したことや、今度は逆に彼らが南部に深入りしすぎたことで補給線が延び切り、この攻勢にも徐々に陰りが出始めました。
これに対し、アメリカやイギリス製の最新兵器の調達が進んだ国連軍は、ようやく態勢を立て直して反撃を開始し3月14日にはソウルを再々奪回します。
こうして、戦況は38度線付近で膠着状態となり、1951年3月24日にトルーマンは、「停戦を模索する用意がある」との声明を発表する準備を始めました。ところが、これを事前に察知したマッカーサーは、「中華人民共和国を叩きのめす」との声明を政府の許可を得ずに発表し、38度線以北進撃を命令します。
これを受けて、国連軍は3月25日に東海岸地域から38度線を突破し、空戦においても、ここへきてようやく改良型のF-86EやF-86Fの投入が効を奏しはじめ、戦況は、アメリカ軍の優位へと変わっていきました。
こうした戦況の変化を見たマッカーサーは、太平洋戦争中に日本が多額の投資により一大工業地帯としていた満州国の工業設備やインフラストラクチャー施設を、ボーイングB-29で爆撃することをほのめかし始めました。
またB-29を改良した最新型のB-50からなる戦略空軍の派遣や中国軍の物資補給を絶つために放射性物質の散布まで行うと、言いはじめました。さらにマッカーサーは、他の中国国内各地への攻撃や、同国と激しく対立していた中華民国の中国国民党軍の朝鮮半島への投入、さらに原子爆弾の使用にまで言及するなど、次第に過激になっていきます。
戦闘状態の解決を模索していた国連やアメリカ政府中枢の意向を無視し、あからさまにシビリアンコントロールを無視した発言を繰り返るようになるマッカーサーを見ていたトルーマン大統領は、彼が暴走を続けた末に、戦闘が中華人民共和国の国内にまで拡大することを懸念しました。
中国への侵攻によってソ連を刺激し、ひいてはヨーロッパまで緊張状態にし、その結果として第三次世界大戦に発展することを恐れたトルーマン大統領は、こうして4月11日にマッカーサーをすべての軍の地位から解任しました。
国連軍総司令官および連合国軍最高司令官の後任には同じくアメリカ軍の第8軍及び第10軍司令官のマシュー・リッジウェイ大将が着任しました。
解任されたマッカーサーは、4月16日に専用機「バターン号」で家族とともに東京国際空港からアメリカに帰国し、帰国パレードを行った後にアメリカ連邦議会上下両院での退任演説をして退役し、こうして彼の華やかな軍歴は幕を閉じました。
この後、1951年6月23日にソ連のヤコフ・マリク国連大使が休戦協定の締結を提案したことによって停戦が模索され、1951年7月10日からは、開城(ケソン)において休戦会談が断続的に繰り返されました。しかし、双方が少しでも有利な条件での停戦を要求しようとするため交渉は難航します。
こうした状況下のなかで、さらに新しい年が明けます。1952年1月18日には、実質的な休戦状態となったことで軍事的に余裕をもった韓国は、李承晩ラインを宣言し竹島、対馬の領有を宣言。このころはまだ連合国占領下にあり、自国軍を持たないかつての宗主国である日本へ強硬姿勢を取るようになっていきました。
1953年に入ると、アメリカでは1月にトルーマンに代わってアイゼンハワー大統領が就任。ソ連では3月にスターリンが死去し、両陣営の指導者が交代して状況が変化しました。これを受けて、1953年7月27日には、38度線近辺の板門店で北朝鮮、中国軍両軍と国連軍の間でようやく休戦協定が結ばれる運びとなりました。
こうして、3年間続いた戦争は一時の終結をみます。が、現在も停戦中であることには変わりはありません。
しかし、停戦協定は結ばれたものの、38度線以南の大都市である開城を奪回できなかったのは、国連軍の大失敗であったとされています。
ここで、なぜ開城は、38度線より南にあるのに北朝鮮領土なのだろうと疑問に思う人も多いでしょう。
38度線と言えば、この北緯38度のラインで東西にまっすぐなイメージを持つ人も多いと思いますが、実は、この「停戦ライン」としての38度線はあくまでも「付近」であり、実際には西南西から東北東へと向かうかなりいびつな線です。
第二次世界大戦後から朝鮮戦争勃発までは南側であった黄海道の海岸部や京畿道の開城は朝鮮戦争停戦後には北側となり、逆に江原道の一部(束草市など)は北側から南側となる、という具合に、この38度線は比較的大きな街の周囲を縫うように通っています。
北側になってからの開城もまた、戦争前は南側の韓国の統治圏内でしたが、戦争後は北朝鮮の統治圏内になりました。開城の人々は戦争の際、南に逃れた人もいれば、開城に留まった人もおり、この結果、南北間の離散家族は開城出身者が最も多くなっています。
このための配慮もあり、開城とその周辺地域は、現在、「朝鮮民主主義人民共和国」となった北朝鮮においても、どの道にも属さない「開城直轄市」として1950年代半ばから行政がなされてきました。軍事境界線に最も近い主要都市であることから、監視の目は厳しいながらも、韓国人にとって陸路での観光が可能な北朝鮮唯一の都市となっています。
2003年、開城市の一部と板門郡が特区「開城工業地区」として再編されるとともに、ここにおいてのみ、韓国と共同で各種工業を興こすことが試されるようになりました。
この「開城工業地区」の中にはソウルとまったく同じバスが走っておりコンビニエンスストアもあるそうです。が、韓国人に貧しい状況を見せないよう、観光開始に伴い北朝鮮政府が住民に自転車を配ったものの、街に人通りは少なく動いている車はほとんどない状態で、街に電気の通っている形跡さえほとんど見られないといいます。
南北経済協力事業として、開城工業団地に進出している韓国企業は120社以上にのぼるそうですが、韓国メディアによると現在10社以上が撤収を検討しており、撤収の動きが広まっているようです。
朝鮮戦争後、両国間には中立を宣言したスイス、スウェーデン、チェコスロバキア、ポーランドの4カ国によって中立国停戦監視委員会が置かれました。中国人民志願軍は停戦後も北朝鮮内に駐留していましたが、1958年10月26日に完全撤収しています。
近年、北朝鮮は、この協定を無視する動きを見せ始め、再び両国がきな臭くなり始めています。2013年3月には、「米韓が合同演習を開始したこと」を理由として、北朝鮮は朝鮮労働党機関紙で朝鮮戦争休戦協定を白紙に戻すと言明しており、今後ともその動きからは目が離せません。
ところで、この朝鮮戦争においては、いったいどのくらいの犠牲者が出たのでしょうか。
ソウルの支配者が二転三転する激しい戦闘の結果、韓国軍は約20万人、アメリカ軍は約14万人、国連軍全体では36万人が死傷したといわれ、この戦争では毛沢東の息子の一人毛岸英(もうがんえい)も戦死しています。
アメリカ国防総省の発表では、死亡者にだけ着目すると、アメリカ軍戦死者は3万3686人、戦闘以外での死者は2830人、戦闘中行方不明は8176人にのぼります。
また、西側の推定によれば中国人民志願軍は10万から150万人(多くの推計では約40万人)、人民解放軍は21万4000から52万人(多くの推計では50万人)の死者をそれぞれ出しているようです。
ただし、中華人民共和国側の公式情報によれば、中国人民志願軍は戦死者11万4000人、戦闘以外での死者は3万4000人、行方不明者7600人と西側の発表より少なくなっていますが、これは当然情報操作の結果でしょう。
また一般市民の犠牲者も多く、韓国では約24万5000から41万5000人にのぼる一般市民の犠牲が明らかにされ、戦争中の市民の犠牲は150万から300万(多くの推計では約200万)と見積もられています。
実は、朝鮮戦争における惨劇の最悪の実行者は、軍関係者ではなく、韓国警察であったとも言われています。開戦から間もないころまでは、欧米メディアによって韓国警察と韓国軍による子供を含む虐殺、強盗、たかりなどが報じられていたものの、アメリカ軍による報道検閲の実施により隠ぺいされたものも多数あるようです。
一方の北朝鮮ですが、中華人民共和国側によれば、北朝鮮は29万人の犠牲を出し、9万人がとらえられ、「非常に多く」の市民の犠牲を出したとされています。
が、実際にはこれ以上だったはずであり、戦線が絶えず移動を続けたことにより、地上戦が数度に渡り行われた都市も多く、最終的な民間人の犠牲者の数は100万人とも200万人とも言われ、全体で400万人~500万人の犠牲者が出たという説もあるようです。
が、この数字は少々誇張が過ぎるようで、客観的にみれば、南北別の合計の死亡者数の内訳は、北朝鮮側の死者が250万人、韓国側は133万人といったところのようです。無論この数字の中には戦闘で亡くなった人以外の多数の一般市民が含まれています。
これに対して、中国人民志願軍と人民解放軍の死者の合計が推計約90万人、アメリカ軍はおよそ5万人です。従って、これらすべて合計すると、500万人もの人命がこの戦争で失われたことになります。ただし、あくまで推計でこれ以上になる可能性も高いようです。
北朝鮮軍に人的被害が特に多いのは、旧式の兵器と人的損害を顧みない人海戦術をとった為に、近代兵器を使用した国連軍の大規模な火力、空軍力、艦砲射撃により大きな損害を被った事が一因とされます。いずれにせよ、これだけ多くの国民が亡くなっているわけですから、アメリカなどの連合諸国への恨みは相当根深い、というのも分かる気がします。
中国軍も少なからぬ犠牲者を出していますが、これは中国人民志願軍側は最前線に政治犯を投入し、正規軍の弾よけかわりに政治犯を使用したとされたことも大きかったといわれています。大規模兵力を人海戦術で保った中国人民志願軍は補給に問題があり、それが分かった国連軍は、のちに強力な砲兵による集中火力と空からの攻撃で戦果を挙げました。
また、アメリカ空軍は80万回以上、海軍航空隊は25万回以上の爆撃を行いました。その85パーセントは民間施設を目標としたことが、民間への被害を拡大しました。56万4436トンの爆弾と3万2357トンのナパーム弾が投下され、爆弾の総重量は60万トン以上にのぼり、これは第二次世界大戦で日本に投下された16万トンの3.7倍です。
また、この戦争の結果、「夫が兵士として戦っている間に郷里が占領された」、というような離散家族が多数生まれました。マッカーサーは平壌に核爆弾を投下する構えを見せ、そのため大量の人が南側に脱出し、これも離散家族大量発生の原因となっています。
両軍の最前線の38度線が事実上の国境線となり、南北間の往来が絶望的となった上、その後双方の政権(李承晩、金日成)が独裁政権として安定することとなったことも、この一家離散の助長につながりました。
現在、日本は韓国と同じように北朝鮮を国家として正式には承認していません。外務省の各国・地域情勢ウェブページでも「北朝鮮」と地域扱いしているだけです。
これは南北朝鮮両国も同じです。両国とも互いに国家として承認せず、北朝鮮の地図では韓国が、韓国の地図では北朝鮮地区が自国内として記載されており、行政区分や町名、施設のマークなどは記載されていません。さらに国際法上では現在も戦闘が終結しておらず、依然「休戦中」のままです。
このあたりが、第二次大戦後に東西に分裂したドイツとは違うところです。ドイツでは、東西が分断されながらも互いが戦火を交えたことはなく、相互に主権を確認しあってきた結果、その後の国交樹立、国際連合加盟、そして統一まで至ったのです。
ところで、この朝鮮戦争には、実は日本人も参戦していたということをご存知でしょうか。
日本からは、日本を占領下においていた連合国軍の要請(事実上の命令)を受けて、海上保安官や民間船員など8000名以上を国連軍の作戦に参加しており、開戦からの半年に限っただけでも56名が命を落としています。
このうちの22名は、日本がこの朝鮮戦争に派遣していた海上保安省の職員で、彼等が乗船していた韓国の大型曳船が、1950年11月に元山沖で触雷して沈没した際に死亡したものです。
この海上保安庁職員の派遣についてもう少し詳しく書くと、朝鮮戦争では、第二次世界大戦の終戦以降日本を占領下に置いていた連合国軍、特に国連軍として朝鮮戦争に参戦していたアメリカ軍やイギリス軍がその指示を出し、日本の海上保安庁の掃海部隊からなる「特別掃海隊」という部隊が結成されました。
開戦直後から、北朝鮮軍は機雷戦活動を開始しており、これを確認したアメリカ海軍第7艦隊司令官は旗下の部隊に機雷対処を命じました。が、国連軍編成後も国連軍掃海部隊(事実上のアメリカ軍部隊)の機雷処理体制は不十分でした。
このため、北朝鮮東部の元山(ウォンサン)に上陸作戦などを予定していた国連軍は、日本の海上保安庁の掃海部隊の派遣を求めることを決定し、アメリカ極東海軍司令官から山崎猛運輸大臣に対し、日本の掃海艇使用について、文書をもって「指令」を出しました。
米軍占領下にあった日本は、「指令」ですから、この命令には抗えず、こうして吉田茂首相の承認の下、連合国軍の指示に従い、10月には海上保安庁に掃海部隊の編成を要請しました。
掃海とはいえ、戦場での活動は、実質的に戦争行為とみなされても仕方のない作戦行動であり、事実上この掃海活動は、第二次世界大戦後の日本にとっては、海外における初めての軍事行動ということになります。
しかし、この派遣は、国会承認もなしに行われ、のちに掃海艇を派遣していた事実が明るみに出たとき、憲法9条との兼ね合いから当時の国会において与野党の激しい論戦の火だねとなったことは言うまでもありません。
また、極秘であった筈のこの作戦の内容はソ連や中華人民共和国から、これらと関係の深い日本社会党と日本共産党にリークされ、第10回国会以降に吉田茂首相への攻撃材料ともなりました。
こうして元山沖に到着した日本掃海隊は10月10日から掃海作業に着手し、12月4日までの掃海作業において、能勢隊が処分した3個を含め計8個の機雷を処分する成果を挙げました。
が、10月17日には一隻の掃海艇が触雷により沈没し、行方不明者1名及び重軽傷者18名を出しているほか、上述のように韓国側が用意した曳船に乗船していた22名が命を落としています。
このほかにも、この掃海隊は鎮南浦(ナムポ)や群山(クンサン)でも掃海作業を行っており、12月15日に、国連軍のアメリカ極東海軍司令官は文書を以て掃海作業の終了を指示するまで、日本特別掃海隊の活動は続きました。
特別掃海隊が活動した全期間は、1950年10月10日から12月15日にかけての約二か月にすぎませんでしたが、この間に全部で46隻の掃海艇等により、機雷27個を処分する成果を挙げています。
この作戦は一見地味ですが、海運と近海漁業の安全確保を得たと同時に、国連軍が制海権を確保する為に役立ち、後の朝鮮戦争の戦局を大きく左右する要因となりました。
この戦争においてはまた、日本人ではありませんが、多くの在日韓国人が戦場に狩り出されました。「在日本大韓民国民団」は在日韓国人の10人に1人にあたる6万人の志願者を予定し、志願兵の募集を行いましたが、結局集まったのは在日韓国人647名、日本人150名だけでした。
このとき、志願に応じた日本人は除外され、在日韓国人の中から641名だけが選抜されて前線に送りこまれましたが、このうちの在日学徒義勇軍の135名が戦死、行方不明となり、242名がそのまま韓国に残留する、という結果になりました。
このほかにも多数の在日韓国人が、この戦争に参加したようですが、正確な数はわかっていないようです。また、日本人も上記のような掃海隊の隊員のような正規の形ではなく、作業員として参加した民間人も多く、例えば、アメリカ軍によって集められた日本人港湾労働者数千人が韓国の港で荷役作業を行っています。
このように、朝鮮戦争は、被害は少なかったものの日本にとっても、「小さな戦争」でした。ただ、この戦争のおかげで日本は、いわゆる「朝鮮特需」を受けることができ、これは物資や人不足に悩む戦後日本の復興の大きな追い風となりました。
この朝鮮特需とは、朝鮮戦争に伴い、主に在朝鮮アメリカ軍、在日アメリカ軍から日本に発注された物資やサービスを指すものです。また在日国連軍、外国関係機関による間接特需という分類も存在しました。
朝鮮戦争勃発直後の 8月25日には横浜に在日兵站司令部が置かれ、主に直接調達方式により大量の物資が買い付けられています。
その額は1950年から1952年までの3年間に特需として10億ドル、1955年までの間接特需として36億ドルと言われます。なお、朝鮮特需によって引き起こされた好景気は特需景気、糸ヘン景気、金ヘン景気、朝鮮戦争ブーム、 朝鮮動乱ブームなどと呼ばれました。
この当時、占領軍は日本の物品税、揮発油税を免除されていたため、彼等との取引自体からの間接税収入は得られませんでしたが、特需の恩恵を受けた各種産業の業績が好転したことで、最終的に国内向け産品の税収が伸びました。
1951年の法人税上位10位はすべて繊維業種です。発注を受けた企業や関連企業は、敗戦によって中断されていた最新技術を入手できたほか、アメリカ式の大量生産技術を学ぶ機会を得ることが出来ました。
戦前の非効率的な生産方式から脱却し、再び産業立国になる上で重要な技術とノウハウを手に入れただけでなく、多くの雇用と外貨を確保することも出来ました。
それまでの日本の工場生産においては、品質管理的手法が取り入れられておらず、とにかく数を生産すれば良いという風潮があったため不良品がそのまま出荷されるということは珍しいことではなかったようです。
実際に太平洋戦争末期には工程管理という思想は一部では取り入れられつつありましたが、それも不十分なものであり、工員個人の技術力により製品の品質が左右される状態は戦後もそのままでした。
しかし不良品を受け取る米軍としてはたまったものではないため、直接的に日本の各工場へアメリカの技術者が出向いて品質管理や工程管理の指導を行ったことにより効率的な量産が行われるようになりました。そういう意味では日本の産業界の工場生産においては大転換期であり、戦後の高度経済成長の礎となったことは間違いありません。
また、表だっての動きではありませんが、日本の軍事産業もまた、この朝鮮戦争で復活したきらいがあります。
とくにこの特需によって日本の造船業は早期に海運業とともに回復するとともに成長路線に戻り、戦後日本の経済成長を支えました。
また、三菱重工や小松製作所などの国内主要軍事産業は、朝鮮特需と1950年に発足した警察予備隊に供与された車輌(M4A3E8中戦車、M24軽戦車など)の保守整備や修理を請け負う中で、米国の製造技術等を吸収し、戦後空白期の技術の遅れを取り戻しつつ、後に、ST(61式戦車)などを製造できるまでの技術力を得ました。
さらに、朝鮮戦争の際、アメリカ軍が戦闘機の修理や部品供給を日本に発注したことから、航空産業もまた復活を迎え、占領中に他業種で生き残りを図った三菱、富士、川崎といった大企業が復活し、こうして再取得した技術と戦前の技術を合わせ、のちにはT-1やYS-11といった名作が生まれました。
あまり上品な言い方とはいえませんが、この特需によって多大な利益を得た日本人にとっては、朝鮮戦争様様といったところがあったことは否めません。
がしかし、北朝鮮による拉致被害者問題や、韓国との竹島領有問題などなど、朝鮮戦争に端を発したこの北の2国との冷たい争乱はまだまだ続いていきそうです。いつの日か、二国間の休戦が終わった時、あるいはその刃は今度は日本に向けられるかもしれません。
戦争様様などと喜んでいてはいけません。最後にひとつだけ、私見を述べさせていただくとすれば、日本人は憲法9条を守り通し、その不戦の誓いを世界に発してつづけていってほしいと思う次第です。