岩と松

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ソチオリンピックが終わりました。

実はこれと同時に、先週末から伊豆へやって来ていた、広島在住の姉や姪ら4人も帰っていきました。

名目上は、リハビリ病院に入院中の母の見舞いということなのですが、実際はどうやらこれまで来たことのない伊豆という地を観光してみたかったらしく、また温泉が出るという我が家を覗き見してみたい、という下心があったようです。

一泊二日の短い旅行だったわけなのですが、かくして、普段は夫婦二人とネコ一匹の静かな家が大賑わいとなりました。

ウチに来たのは姉とその二人の娘、そしてその一人の息子君で、彼はまだ小学校三年生です。当然大人の会話に入っていけるような年齢ではないため、タエさんを交え、彼等と交わす会話は当然のごとく女4人の独断場となり、まぁかしましいことかしましいこと……

さんざん静かな伊豆暮らしをかき回したあと、昨日の夕方の新幹線でご機嫌に帰っていきましたが、私はといえば、夕べはドッと疲れてしまい、早めに床に入りました。

今朝改めて朝のニュースを見ると、ソチオリンピックの閉会式の様子が映し出されており、それと同時に過ぎ去った嵐のことを思いつつ、ようやく落ち着いた気分になってこれを書いている、というわけです。

なにやら放心状態の感があって、今日は何を書こうかな、というのが思い浮かばないのですが、この姉一家がやってきた際には、少しは観光をさせてやろうと、麓の修善寺温泉街やら、沼津港やらへ連れて行ってやったので、そのあたりのことを少し書き出そうかなと思います。

この沼津港というのは、狩野川の河口の右岸側にしつらえられている港です。その昔、この地は、「沼の津」と呼ばれ、船溜まりがあるだけのほんの小さな村でしたが、なだらかな海岸線を持ち、波も静かなため、これと狩野川河口近辺の比較的水深のある海一帯は、江戸へ向かう船の停泊地としてよく利用されていました。

東海道にもほど近く、物資の運搬の拠点としては好都合ということで、次第にここは人の集まるところとなり、郡役所も置かれるようになりました。やがては「沼津宿」が形成され、ここを中心として周辺地域との合併を繰り返しながら、現在の沼津のような大きな町になっていきました。

つまり現在の沼津港は、今の沼津市の原点であるわけですが、その港のある狩野川右岸の対岸、つまり狩野川左岸一帯は、我入道(がにゅうどう)と呼ばれる土地です。

狩野川河口左岸で南を駿河湾に面し、その東には、香貫山と呼ばれ地元から親しまれている山とこれに連なる「沼津アルプス」と呼ばれる低山群を控え、北西方向には、富士を望めるという位置関係です。

江戸時代の「我入道村」は駿河国駿東郡に属し、江戸初期には天領となり、後に沼津藩領となりました。江戸時代には細々と畑があるくらいで、村の主たる産業は漁業でした。

明治4年(1872年)に静岡県に属するようになり、1889年(明治22年)の町村制施行に伴い我入道村は下香貫村・上香貫村・善太夫新田と合併して、楊原村(やなぎはらむら)と呼ばれるようになります。

1922年(大正12年)にこの楊原村と、前述の沼津が合併し、市制施行により沼津市の大字となりました。

この我入道と対岸の現在の沼津港の間の狩野川にはその昔には橋がなかったため、「我入道の渡し」と呼ばれる渡し船がありました。明治時代には、人だけでなく自転車やリヤカーを乗せて運ぶようになり、かなり頻繁に船が行き交うほどの交通量があったようです。

1968年(昭和43年)にその上流に港大橋が完成して客が減り、1971年(昭和46年)にこの渡しは廃止されましたが、1997年(平成9年)に観光用として復活。地元の船大工が造った昔ながらの木船を使って、現在では市中心街の至近にあるあゆみ橋からも発着する観光ルートとなっています。

この沼津港の河口には、2004年(平成16年)9月26日に展望施設を備えた大型水門、「びゅうお」が国土交通省によって建設されており、高さ32メートルあるこのガラス張りの遠望タワーは、沼津市の一大観光地でもあります。

そのすぐ真下にある、沼津港市場を中心として、「沼津港商店街」が広がり、ここには大小さまざまな海産物問屋や、一般観光客向けの食堂などが数多くひしめき合い、ここで売られている鮮魚や干物目当ての観光客でいつもごった返しています。

昨日我々がここを訪れたときには、日曜日だったせいもあり、いつにも増して人が多く、この人ごみを避けて歩くだけでも大変でした。

姪たちが昼食に海鮮丼を食べたいというので、中央市場のすぐ二階にある市場経営の食堂へ連れて行ったのですが、お昼時ということもあって行列ができており、30分待ちでようやく昼飯にありつける、というありさまでした。

この食堂からは、狩野川を挟んで、対岸の我入道一帯が一望に見え、河岸には、かつて沼津藩の物見櫓だったものらしきものも復元されていて、なかなか好展望でした。

おそらくここを渡し船が通っていたかと思われる位置関係なのですが、この日は渡船らしきものは見当たらず、その代わりにカモメや鵜がしきりにいったりきたりして、目を楽しませてくれます。

この渡し船ですが、調べてみるとだいたい年間約4000人前後の観光客が利用しているそうで、2012年度は、おおよそ土・日・祝日を運航日としています。が、夏季と冬季の6ヶ月間は運航していないのだとかで、どおりでその姿が見えないはずです。

運賃は大人100円、小人50円だそうで、その航行ルートからすると、天気の良い日には富士山も見えるはずであり、この値段なら格安の観光ルートではないでしょうか。みなさんも一度いかがでしょう。ちなみに、「びゅうお」からも大きな富士山を望むことができます。

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ところで、この我入道の地は、作家・芹沢光治良の生誕地としても知られています。芹沢光治良というのは、明治生まれの小説家で、1896年(明治29年)に生まれ、 1993年(平成5年に96歳で大往生しました。

海外ではフランスを中心としてヨーロッパで評価が高くその代表作である、「巴里に死す」や「人間の運命」「神の微笑」はノーベル文学賞候補に挙げられたことがあります。晩年には、「文学はもの言わぬ神の意思に言葉を与えることだ」との信念に基づき、「神シリーズ」と呼ばれる神を題材にした一連の作品で独特な神秘的世界を描きました。

実は私は読んだことがないのですが、タエさんのお父さんがどうやらお好きだったようで、我が家の書庫には、この神シリーズが全巻揃っていたと思います。

このほか、この我入道には、明治時代に大元帥と称された、大山巌の別荘もありました。

天保13年(1842年)生まれの元薩摩藩士で、陸軍軍人を経て晩年は政治家としても活躍しました。元帥陸軍大将であり、第二代の大警視も勤め、経歴としては一番長い陸軍大臣を初代から4代まで勤め、6・7代にも引き続き就任しています。

第4・6代の陸軍参謀総長(第4・6代)も勤めており、政治家としては文部大臣、内大臣、元老、貴族院議員を歴任しており、西南戦争への対処や日清・日露戦争当時の陸軍大臣でもあり、おそらくは維新後の明治時代で最も輝いた薩摩人ではないでしょうか。

維新の三傑に数えられる西郷隆盛と、その弟でやはり軍人・政治家でもあった西郷従道は彼の従兄弟でもあり、このことも彼の名をビックにしている理由でもあります。

幕末の薩英戦争においては藩命で砲台に配属され、ここで大山は西欧列強の圧倒的な軍事力に衝撃を受けます。このため、その後江戸詰めを命じられた際には、幕臣で、伊豆の韮山出身の江川英龍に教えを乞い、その塾において、黒田清隆らとともに砲術を学んでいます。

この江川英龍については、「江川家のこと」以下6編に長々と書いたことがありますので、お暇な方は読んでみてください。

こうして西洋砲術の専門家となった大山は、戊辰戦争においては、薩摩藩の新式銃隊を率いて、鳥羽・伏見の戦いや会津戦争などの各地を転戦。倒幕運動に邁進しました。12センチ臼砲や四斤山砲の改良も行い、これら大山の設計した砲は「弥助砲」と称されています。

弥助というのは、大山の幼少時からの通称です。

さらに引き続く会津戦争では、薩摩藩二番砲兵隊長として従軍していましたが、鶴ヶ城攻撃初日、場内から発射された弾丸が右股を内側から貫き負傷します。このとき篭城側は主だった兵が殆ど出撃中で城内には老幼兵と負傷兵しかおらず、北出丸で戦っていたのは、昨年のNHKの大河ドラマ、「八重の桜」で有名な山本八重と僅かな兵たちだけでした。

このため、この大山を射ぬいた狙撃者は、実は八重ではなかったかとも言われているようです。

ところで、この時の会津若松城には、のちに大山の後妻となる山川捨松とその家族が籠城していました。この捨松は、会津若松の生まれであり、父は会津藩の国家老・山川尚江重固で、彼女は2男5女の末娘でした。

新政府軍が会津若松城に迫ったとき、捨松はまだ数えで8歳にすぎず、家族と共に籠城し、負傷兵の手当や炊き出しなどを手伝っていました。女たちは城内に着弾した焼玉の不発弾処理を任されていたといい、着弾した玉に濡れた布団をかぶせて炸裂を防ぐ「焼玉押さえ」という危険な作業をしていました。

捨松もまたこの作業を手伝っていて大怪我をしたこともあったといい、その大砲の弾を雨霰のように撃ち込んでいた官軍の砲兵隊長がほかならぬ後に夫となる大山弥助(巌)でした。

結局この会津戦争では、近代装備を取り入れた官軍の圧倒的な戦力の前に、会津藩は抗戦むなしく降伏し、会津23万石は改易となり、藩士たちは遠く離れた陸奥斗南3万石に封じられました。斗南藩は下北半島最北端の不毛の地で、3万石とは名ばかり、実質石高は7,000石足らずしかなく、藩士達の新天地での生活は過酷を極めました。

飢えと寒さで命を落とす者も出る中、山川家では末娘の捨松を津軽海峡を隔てた函館の知り合いの元に里子に出すことにし、さらには捨松はその紹介で、あるフランス人の家庭に引き取られることになりました。

このフランス人夫婦は捨松のことをいたく可愛がり、フランス語の手ほどきもしたようです。捨松もこの新しい両親に馴染み、西洋式の生活習慣にも慣れていきました。

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ところが、明治4年(1871年)、捨松が11歳のとき、その後の彼女の一生を大きく左右する出来事が起こります。

この当時、新政府の要請でアメリカ視察旅行に行っていた北海道開拓使次官の黒田清隆が帰国しましたが、彼はアメリカの先進的な風土に感嘆し、政府に働きかけて何人かの若者をアメリカに留学生として送り、北海道のような未開の地を開拓する方法や技術を学ばせてはどうかと進言しました。

開拓使のこの計画は、やがて政府主導による10年間の官費留学という大がかりなものとなり、この年出発することになっていた岩倉使節団に随行して、三人の女性が選ばれ、その一人に捨松が選ばれたのでした。ほかの二人は、のちに津田塾を創設することになる津田梅子と幕府軍医・永井久太郎の養女、永井繁子でした。

渡米後、捨松はコネチカット州ニューヘイブンの会衆派のリオナード・ベーコン牧師宅に寄宿し、そこで4年近くをベーコン家の娘同様に過ごして英語を習得し、この間ベーコン牧師よりキリスト教の洗礼を受けました。

その後、地元ニューヘイブンのヒルハウス高校を経て、永井繁子とともにニューヨーク州ポキプシーのヴァッサー大学に進んでいますが、このヴァッサーは全寮制の女子大学で、ジーン・ウェブスターやエドナ・ミレイなど、アメリカを代表する女性知識人を輩出した名門校でもありました。

捨松の成績はいたって優秀で、得意科目は生物学だったそうですが、官費留学生としての強い自覚を持っていたようで、日本が置かれた国際情勢や内政上の課題にも明るかったといいます。

学年3番目の通年成績で卒業し、卒業式に際しては卒業生総代の一人に選ばれ、卒業論文「英国の対日外交政策」をもとにした講演を行いましたが、その内容は地元新聞に掲載されるほどの出来だったとそうです。ちなみにアメリカの大学を卒業した初の日本人女性は、この捨松のようです。

捨松が再び日本の地を踏んだのは明治15年(1882年)暮れ、出発から11年目のことであり、彼女はもう22歳になっていました。新知識を身につけて故国に錦を飾り、今後は日本における赤十字社の設立や女子教育の発展に専心しようと、意気揚々でしたが、彼女を待っていたのは失望以外のなにものでもありませんでした。

そんな捨松の受け皿となるような職場は、まだ日本にはなかったためであり、寄る辺と考えていた北海道開拓使もその当初の目的を達したとされたため、ちょうどこのころに解散となっていました。

仕事を斡旋してくれるような者すらいない状態で、孤立無援の捨松を人は物珍しげに見るだけで、「アメリカ娘」と陰口を叩く者もおり、娘は10代で嫁に出すこの時代、彼女は既に婚期を逸した女性とみなされていました。

ちょうどその頃、同じ薩摩藩の先妻を病で亡くし、後妻を捜していたのが大山巌でした。捨松がアメリカ留学をしていたころ、ちょうど時を同じくして大山もスイスのジュネーヴに留学しており、ほぼ同時期に日本に帰ってきていたのでした。

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大山は維新後の明治2年(1869年)、渡欧して普仏戦争などを視察後、明治3年(1870年)から6年(1873年)の間ジュネーヴに滞在して軍制などを学んでいましたが、国内の政局は彼の長期海外留学を許さず、明治6年政変で明治政府の半分近くが下野すると、留学3年目に入ったところで帰国を余儀なくさせられました。

愛してやまない欧州の地を後ろ髪引かれる想いで後にした大山を待っていたのは、帰国後すぐに勃発した西南戦争でした。この戦争で大山は、政府軍の攻城砲隊司令官として、城山に立て籠もった親戚筋の西郷隆盛を相手に戦うことになりました。

結局この戦いは西郷軍の敗退に終わりましたが、幼馴染であり従弟である隆盛を心ならずも討つことになった大山はこのときのことを生涯気にしていたそうで、その後死ぬまで二度と鹿児島に帰る事はなかったそうです。

ただ、西郷家とは生涯にわたって親しく交わり、特に隆盛の弟である西郷従道とは親戚以上の盟友関係を続けました。

西郷が戦死し、その後を追うかのように大久保利通が暗殺されると、大山はやがてこの従弟の西郷従道とともに薩摩閥の屋台骨を背負う立場に置かれることになっていきました。以後要職を歴任し、やがて参議陸軍卿・伯爵となったころ、愛妻の沢子が三女の出産後の肥立ちが悪く死去してしまいました。

この沢子は、大山と同じ薩摩の吉井友実という人物の長女でした。吉井は戊辰戦争の緒戦である鳥羽・伏見の戦いでは、自ら兵を率いて旧幕府軍を撃退するなど多大な功績をあげ、維新後は、参与や元老院議官、工部大輔、日本鉄道社長などの要職を歴任したほか、明治4年(1871年)には宮中で明治天皇に仕えるようになり、宮内次官まで昇った人物です。

大山の将来に期待をかけていた吉井は、我子同然にこの婿を可愛がっていたそうで、沢子が亡くなると、大山のために後添いとなる女性を懸命に探し求めはじめ、そこで白羽の矢が立ったのが捨松でした。

当時の日本陸軍はフランス式兵制からドイツ式兵制への過渡期という難しい時期にあり、フランス語やドイツ語を流暢に話す大山は、列強の外交官や武官たちとの膝詰め談判に自らあたることのできる、陸軍卿としては当時最適の人材でした。

この時代の外交の大きな部分を占めていたのは夫人同伴の夜会や舞踏会でした。アメリカの名門大学を成績優秀で卒業し、やはりフランス語やドイツ語に堪能だった捨松を吉井が見過ごすはずはなく、大山の夫人としては最適の候補と考えたのは不思議ではありません。

吉井のお膳立てで大山が捨松に初めて会ったのは、捨松と同じく米国留学した永井繁子と海軍大将瓜生外吉の結婚披露宴でのことでした。このとき捨松を見た大山はその美しさに目を奪われたといい、捨松の長身でスラッとした容姿だけでなく洗練された話術にもすっかり心を奪われてしまいます。

捨松に一目ぼれした大山は、さっそく吉井を通じて縁談を山川家に申し入れましたが、山川家は大反対でした。捨松が生まれたときに父は既に亡く、このころは長兄の大蔵(おおくら、後の陸軍少将・貴族院議員の山川浩)が父親がわりとなっていましたが、山川浩は、この縁談を即座に断ってしまいます。

それも当然、縁談の相手は、会津戦争で砲弾を会津若松城に雨霰のように打ち込んでいた砲兵隊長その人であるわけであり、この縁談は薩摩にさんざん辛酸を舐めさせられた会津人としては頑としても受けることはできませんでした。

しかし、大山も粘ります。吉井から山川家に断られたことを知らされると、今度はこのころ農商務卿になっていた従弟の西郷従道を山川家に遣わして説得にあたらせました。

従道は盟友である大山の頼みを聞くと、連日のようにしかも時には夜通しで山川家の面々の説得にあたったといい、そうこうするうちに、大山の誠意が山川家にも伝わり、何がなんでも反対という態度は軟化していきました。

そしてついに長兄の浩から「本人次第」と回答を得るに至ります。ところが、この話を聞いた捨松の応対は、いかにもアメリカナイズされたものであり、その答えは「閣下のお人柄を知らないうちはお返事もできません」だったそうです。

これは拒絶ではなく、暗にデートを提案したものであり、同じく西洋文化に慣れ親しんでいた大山は、苦笑いしながらもこれに応じたといいいます。しかし、大山は日本語をしゃべるときには、薩摩弁丸出しであり、捨松には彼が何を言っているのかさっぱり理解できなかったといいます。

しかたなく英語で話し始めると、大山もまた英語で返してきました。とたんに会話がはずみ始めたと言い、こうして次第に二人の仲は深まっていきました。このとき大山は41歳、捨松は23歳であり、親子ほどの歳の開きがありましたが、デートを重ねるうちに捨松は次第に彼の心の広さと茶目っ気のある人柄に惹かれていきます。

この頃アメリカ人の友人に書いた手紙には「たとえどんなに家族から反対されても、私は彼と結婚するつもりです」と記していたといい、こうして交際を初めてわずか3ヵ月で、捨松は大山との結婚することになりました。

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明治16年(1883年)11月、参議陸軍卿大山巌と山川捨松との婚儀が厳かに行われましたが、その1ヵ月後には、完成したばかりの鹿鳴館で大山夫妻の盛大な結婚披露宴も催されました。

この披露宴では、千人を超える人が招待されたといい、招待者でごった返す披露宴の最中、普通の新婦なら気が動転して満足に会話もできないであろうに、捨松の誰彼にも気さくに声をかける姿がひときわ目立っていたといいます。

二人の結婚後、この鹿鳴館では連日のように夜会や舞踏会が開かれ、諸外国の外交官はもとより、明治政府の高官たちもそうした外交官たちとのパイプを構築するため、夜な夜な宴に加わりましたが、捨松もまた大山に随伴してこうしたパーティによく出席しました。

英・仏・独語を駆使して、時には冗談を織り交ぜながら諸外国の外交官たちと談笑するとともに、12歳の時から身につけていた社交ダンスのステップを堂々と披露しました。

当時の日本人女性には珍しい長身と、センスのいいドレスの着こなしも光っていました。そんな伯爵夫人のことを、人はやがて「鹿鳴館の花」と呼んで感嘆するようになったといいます。

また捨松は結婚後、「鹿鳴館慈善会」という日本初のチャリティーバザーを開きました。品揃えから告知、そして販売にいたるまで、率先して並みいる政府高官の妻たちの陣頭指揮をとったいい、この結果鹿鳴館がもう一つ建つぐらいの莫大な収益をあげ、その全額を共立病院へ寄付しています。

当時の金額で8000円、現在価値に換算すると1億6千万円ほどであり、この資金をもとに、2年後には日本初の看護婦学校・有志共立病院看護婦教育所が設立されました。

捨松は大山の妻として、日清・日露の戦役の銃後で寄付金集めや婦人会活動に時間を割くかたわら、看護婦の資格をも取得して日本赤十字社で戦傷者の看護もこなしました。

また積極的にアメリカの新聞に投稿を行い、これらの戦争における日本の置かれた立場や苦しい財政事情などを訴えたといい、日本軍の総司令官の妻がニューヘイヴン出身・ヴァッサー大卒というもの珍しさも手伝って、アメリカ人は捨松のこうした投稿を好意的に受け止め、多くの義援金を寄付してくれました。

彼女のこの活動はアメリカ世論を親日的に導くことにも役立ち、アメリカ・ポーツマスにおけるロシアとの講和条約の開催にも大きく貢献しました。アメリカで集められた義援金は捨松のもとに送金され、日本国内におけるさまざまな慈善活動に活用されたそうです。

明治33年(1900年)には、共にアメリカ留学した津田梅子が女子英学塾(後の津田塾大学)を設立することになると、捨松は、このころ結婚して苗字が瓜生となっていた永井繁子ともにこれを全面的に支援しています。

津田は、自分の教育方針に対して第三者に一切口を差し挟ませないという立場をとっており、また誰からの金銭的援助もかたくなに拒んでいたこともあり、捨松も繁子もボランティアとして奉仕したそうです。

捨松はこの英学塾の顧問となり、後には理事や同窓会長を務めるなど、積極的に塾の運営にも関与していますが、生涯独身で、パトロンもいなかった津田が、民間の女子英学塾でこれだけの成功を収めることが出来たのも、捨松らの多大な支援があったがことが大きな理由のひとつといわれています。

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夫の巌は日清戦争後に元帥・侯爵、日露戦争後には元老・公爵となり、軍人・政治家としての地位をも極めました。それでいて政治のトップである総理大臣の職にはまったく興味を示さず、何度総理候補に擬せられても断ったといい、このためか敵らしい敵もなく、誰からも慕われました。

晩年は第一線を退いて内大臣として宮中活動に励むようになり、時間のあるときは東京の喧噪を離れて愛する那須や、沼津の地で家族団欒を楽しみました。おそらくは山は那須、海は沼津、と振り分けていたのでしょう。

捨松は大山との間に2男1女を設け、これに大山の3人の連れ子を合せた大山家は大家族でした。

夫婦の長男である高(たかし)は、陸軍に入隊すると親の七光りと言われる、とこれを嫌ってあえて海軍を選びました。が、明治41年(1908年)、 海軍兵学校卒業直後の遠洋航海で乗り組んだ巡洋艦・松島が、寄港していた台湾の馬公軍港で原因不明の火薬庫爆発を起こし沈没。このとき高は艦と運命を共にしています。

また、次男の柏(かしわ)は近衛文麿の妹・武子を娶り、大正5年(1916年)には大山の嫡孫にあたる娘が誕生しましたが、この直後ころから大山は体調を崩し療養生活に入るようになりました。

長年にわたる糖尿の既往症に胃病が追い討ちをかけていたようで、内大臣在任のまま同年12月10日に満75歳で死去しました。

巌の国葬後、捨松は公の場にはほとんど姿を見せず、亡夫の冥福を祈りつつ静かな余生を過ごしていましたが、大正8年(1919年)に津田梅子が病に倒れて女子英学塾が混乱すると、捨松は自らが先頭に立ってその運営を取り仕切りました。

結局、津田は病気療養のために退任することになったことから、捨松が津田の後任を指名しました。ところが津田の後任の新塾長の就任を見届けた翌日、今度は捨松自身が倒れてしまいました。

この当時世界各国で流行していたスペイン風邪に罹患したためであり、捨松はそのまま回復することなくほどなく死去。満58歳でした。愛する夫の死から3年後のことでした。

後年大山巌は、同郷の東郷平八郎と並んで「陸の大山、海の東郷」と言われるようになりました。大山は青年期まで俊異として際立ちましたが、壮年以降は自身に茫洋たる風格を身に付けるよう心掛けていたといい、これは薩摩に伝統的な総大将のスタイルであったと考えられます。

日露戦争の沙河会戦で、苦戦を経験し総司令部の雰囲気が殺気立ったとき、昼寝から起きて来た大山の「児玉さん、今日もどこかで戦(ゆっさ)がごわすか」の惚けた一言で、部屋の空気がたちまち明るくなり、皆が冷静さを取り戻したという逸話が残っています。

明治38年(1905年)に日露戦争が終結して、ようやく東京・穏田の私邸に凱旋帰国した大山に対し、息子の柏が「戦争中、総司令官として一番苦しかったことは何か」と問うたのに対し、「若い者を心配させまいとして、知っていることも知らん顔をしなければならなかった」と答えた、という話も残っています。

こうした茫洋とした人柄は多くの友人から愛され、その臨終の枕元には山縣有朋、川村景明、寺内正毅、黒木為楨など、この当時を代表する政治家一堂が顔を揃え、まるで元帥府が大山家に越してきたようだったといいます。

大山の亡くなった日は、夏目漱石の死の翌日のことだったといい、新聞の多くは文豪の死を悼んで多くの紙面を彼に割いたため、明くる日の大山の訃報は他の元老の訃報とは比較にならないほど地味なものでした。

しかし、その葬儀は国葬として営まれました。このとき参列した駐日ロシア大使とは別にロシア大使館付武官のヤホントフ少将が大山家を直接訪れ、「全ロシア陸軍を代表して」と弔詞を述べ、ひときわ目立つ花輪を自ら霊前に供えたそうです。

かつての敵国の武将からのこのような丁重な弔意を受けたのは、この大山と後の東郷平八郎の二人だけだったといいます。

病床についてから死ぬ間際まで永井建子作曲の「雪の進軍」を聞いていたと伝えられていて、本人は大変この曲を気に入っていたといいます。

この歌は八甲田雪中行軍遭難事件を題材とした新田次郎の小説をもとに製作された映画、「八甲田山」の劇中歌としても使用されました。高倉健と北大路欣也の二大スターが共演したこの映画を見たことのある人は、この歌を覚えているかもしれません。

雪の進軍 氷を踏んで どれが河やら 道さえ知れず
馬は斃(たお)れる 捨ててもおけず ここは何処(いずく)ぞ 皆敵の国……

というヤツで、非常にリズミカルで覚えやすいメロディーです。

八甲田雪中行軍遭難事件というのは、1902年(明治35年)に青森の連隊が雪中行軍の演習中に遭難し、210名中199名が死亡した事件です。

日本陸軍は1894年(明治27年)の日清戦争で冬季寒冷地での戦いに苦戦したため、来たる対ロシアとの戦争においては、さらなる厳寒地での戦いとなる対ロシア戦を想定し、冬季訓練を緊急の課題としていました。対ロシア戦は2年後の1904年(明治37年)に日露戦争として現実のものとなりました。

その準備のさなかに起こったこの悲劇をきっかけとして、オーストリアからはるばるレルヒ少佐が日本に招へいされ、近代的なスキー術が日本に導入されるようになったことは、先日書いた通りです。

そしてその近代スキー術がさらに淘汰され、世界に名立たるスキー王国?になった日本のソチオリンピックでの戦いも先日ようやく終わりました。

次のピョンチャンまであと4年。日本はどのように変わっていくだろう……そんなことを考えながら、沼津港の丼飯屋で目の前の海を飛び交うカモメを眺めつつ、マグロ丼にパクついていたのでした。

さて、今日はお天気もよさそうなので、午後からタエさんと梅でも見にいこうかな、と考え始めています。

みなさんは梅見はもう終えられたでしょうか。我々のすぐ近くにある修善寺梅林では今まさに真っ盛りのようで、連日観光バスがひっきりなしにやってきます。ぜひ一度訪問してみてください。

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