ソチ冬季オリンピックも、そろそろ終盤を迎えようとしています。
今回の日本人選手団のメダル獲得目標は、過去最多だった1998年の長野大会の時と同じ10個だったようですが、これまでのところ、金1個を含む8つにとどまっており、どうやらもう後がないかんじです(長野は、金5個、銀1個、銅4個)。
残念ではあるのですが、自国開催でないアウェイでのこのメダル獲得数は、あっぱれと見る向きもあり、日本人の大多数はおおむね満足しているのではないでしょうか。
今週末にオリンピックが終わると、次は2年後のリオデジャネイロオリンピックというわけで、ついついそちらに目が行きがちですが、いやいやまだソチでもこれから試合がたくさんあります。
「パラリンピック」がそれであり、3月7日から16日までの9日間開催される予定で、冬季パラリンピック大会としては、もう第11回大会になるようです。
競技種目はというと、アルペンスキー、バイアスロン、クロスカントリースキー、アイススレッジホッケー、車いすカーリングの5種目だけだそうで、エッ、そんなに少ないの!?というかんじです。
が、これは大項目にすぎず、例えばアルペンスキーには、滑降、大回転、回転、スーパー複合、スノーボードなどが含まれていて、他の種目も同様に細分化された種目があります。
このうちのスノーボードだけは、ソチ大会より正式に採用された新種目だそうで、これは人工的に作られた様々な地形のあるコースをジャンプしたり回転したりして滑ります。1人ずつ3本滑って、良い2本の合計タイムで順位を決めるそうです。
このスノーボード競技は、ソチ大会では、下肢に障害のある選手だけで競われますが、このほかのパラリンピックの各競技種目は、同一レベルの選手同士で競い合えるようにするため、障害の種類、部位、程度によってクラス分けされ、それぞれで競技が行われます。
このように、パラリンピックは一見、種目数は少ないように見えるものの、クラス数だけを合計するとその競技数は相当な数になるようです。クラス分けは競技種目によって異なるようですが、視覚障害、肢体不自由、知的障害などに大別され、肢体不自由でも原因が脳性麻痺であるか手足の切断であるかなどで区分されます。
さらに障害の軽重により種目ごとに及ぼす影響で階級化されるといいます。ここまで分化されると健常者の我々には何がなんだかよくわからなくなってきますが、身障者のために競技に公正を来たすという意味においては、クラスや階級の細分化はやむを得ないのでしょう。
パラリンピックには、このほかアイススレッジスピードレースという競技がかつてあり、これは、氷上においてスケートブレードのついたそりに乗り、ストックを使用して滑るというものでした。座位で行うスピードスケートのようなもので、1980年のヤイロパラリンピックで採用されましたが、1998年の長野パラリンピックを最後に廃止されています。
今回、日本チームが出場するのは、上記5種目のうちのアルペンと、バイアスロン、クロスカントリーなどのスキー競技のみだそうですが、下馬評によると、日本は結構メダル量産の可能性が高いそうです。
各スキー競技は、主として視覚障害、立って滑ることができる立位、チェアスキーと呼ばれるマシンに乗って滑る座位の3つのカテゴリーに分類されますが、アルペンスキーにおける日本選手では、とくに座位カテゴリーの活躍に注目だそうです。
2011/12シーズンのワールドカップ年間総合優勝した、森井大輝選手や、このとき2位だった鈴木猛史選手がとくに注目されており、この二人は2012/13シーズンでは、鈴木が優勝し、森井が2位と順位が入れ替わっていますが、つまり2年連続で男子座位カテゴリーの世界トップの1、2を日本が独占していることになります。
また、健常者のオリンピックでは、あまり日本人選手は振るいませんでしたが、大会前半に行われるバイアスロンでもメダル獲得の期待がかかる選手がいるそうです。その期待を背負って走るのが、女子立位の太田渉子選手や、出来島桃子選手、男子座位の久保恒造選手、男子立位の佐藤圭一選手などです。
とくに前回大会で、惜しくもメダルを逃した久保恒造選手は、その雪辱を果たすために、走力の強化に努めてきたそうです。
2012年、シーズン直前に自分の使用するシットスキー(座位スキー)の高さを29cmから35cmに変更し、合わせてストックの長さも6cm長いものに変えたことにより、クロスカントリー走行の際のストロークの距離が長くなり、彼が得意とする速いピッチでの走力がグーンと伸びたといいます。
このバイアスロン競技は、正規オリンピック競技のほうではほとんど放映されず、元射撃をやっていた私としては大いに不満だったのですが、今度のパラリンピックではこうした注目選手もいるので、放映のほうも期待できそうです。競技のほうもがんばってほしいものです。
このパラリンピックですが、気がついてみると、いつのまにやら通常のオリンピックと同時期開催というのが定番になっているようですが、いつからそういうことになったのかな、と疑問に思ったのでその歴史などを調べてみました。
すると、こうした障害者スポーツの大会は1900年初頭から、各国で散発的には行われていたようです。が、現在のような世界大会の形で定例化はされていなかったようです。
このパラリンピックの起源とされているものも、もともとは世界大会ではなく、1948年7月に開催されたロンドンオリンピック開会式と同日に、イギリスのストーク・マンデビル病院で行われた「ストーク・マンデビル競技大会」です。
この競技大会での基本理念は、「手術よりスポーツを」というものだったそうで、そもそもは第二次大戦で負傷した兵士たちのリハビリを促進することが目的で始められました。
この、ストーク・マンデビル病院には、第二次世界大戦で脊髄を損傷した軍人のリハビリのための科が専門にあり、ドイツから亡命したユダヤ系医師のルートヴィヒ・グットマンという人の提唱により、車椅子の入院患者男子14人、女子2人によるアーチェリー競技会が行われました。
人数からしてわかるように、大会といえるような規模のものではなく、純然たる入院患者のみの競技大会でした。ところが、周囲に好評だったことから、その後も毎年開催され続けるようになり、4年後の1952年にはついに国際大会にまで発展しました。
これが、「第1回国際ストーク・マンデビル競技大会」と呼ばれるもので、国際大会とはいいながらも当初参加した国はイギリスとオランダの2カ国だけという寂しさでした。
その後毎年行われるようになり、1960年の第9回ストーク・マンデビル競技会で初めてローマオリンピックと同時開催され、これがのちにこれが第1回パラリンピックとされ、「パラリンピックローマ大会」と呼ばれるようになります。が、この時点ではまだ、パラリンピックの呼称はありませんでした。
この年、国際ストーク・マンデビル大会委員会も組織され、第2回の世界大会を4年後の1964年に行うことも決定。
1964年に夏季オリンピックが開催された東京においては、正規オリンピックとは別に、この国際ストーク・マンデビル競技大会も行われました。このときの大会は、2部構成で行われており、その1部が国際ストーク・マンデビル競技大会として、第2部は全ての身体障害を対象にした日本人選手だけの国内大会として行われたそうです。
現在では、この二つの大会は合わせて「パラリンピック東京大会」と呼ばれており、上述の「ローマパラリンピック大会」に続くものとなりました。
しかし、このような障害者のスポーツ大会をオリンピック開催都市と同一都市で行う方式は、東京大会後は定着せず、いったん中断することとなりました。理由はよくわかりませんが、やはり国際大会のような大きな大会とする上では運営資金の面での問題があったのでしょう。
ところが、8年後の1972年に、ドイツのハイデルベルク大会で、再びこの大会は復活します。が、このときもまだ、大会の名称はストーク・マンデビル競技大会でした。
ちなみに、この大会では、1964年東京オリンピックの男子マラソンで金メダルを取り、オリンピック史上初のマラソン2連覇を飾った、かの有名なエチオピアのアベベ選手が、車椅子アーチェリーで出場しました。が、メダルは取っていません。
アベベ選手は、自身3回目の出場となる1968年のメキシコ五輪では、直前のトレーニング中に左膝を痛め、本番では途中棄権してしまいました。
このオリンピックから約半年後の1969年3月の夜、アベベはアディスアベバから北に約70km離れたシャノという町の北方で、自動車運転中に事故を起こし、生命に別状は無かったものの、第七頸椎が完全に脱臼する重傷を負ったことにより、下半身不随となってしまったのでした。
その後も1972年9月のミュンヘンオリンピックでは、組織委員会から過去の著名な金メダリストの一人として招待を受け、車いすの姿で開会式にゲスト出演し、その後も会場で競技を元気に観覧していましたが、自らが動けないことで「競技を見るのが辛かった」とのちに妻に語っています。
晩年のアベベはこのように体が不自由な状態ながらも、生涯スポーツに関わり続けようとしていたようですが、このミュンヘン五輪からわずか1年後の1973年10月に、脳出血によりエチオピアの首都アディスアベバの陸軍病院にて病死。まだ41歳の若さでした。
因果関係は明確ではないものの、自動車事故の後遺症が脳出血の遠因であるとみられるそうです。
さて話が飛びましたが、1972年のハイデルベルク大会からさらに4年後の1976年には、国際ストーク・マンデビル競技連盟と国際身体障害者スポーツ機構との初の共催で、カナダのトロントで夏季大会が開催されました。また、同年の冬季には、パラリンピック史上初の、第1回冬季大会が、スウェーデンのエーンシェルドスピークで開催されています。
これは現在、「第1回冬季パラリンピック・エーンシェルドスピーク大会」と呼ばれています。
その後、1980年には開催がありませんでしたが、1984年ではニューヨークのアイレスベリーで大会が催され、さらに引き続いて、1988年には、ソウル大会が開かれました。
このとき、初めてこの大会の正式名称が「パラリンピック」となりました。また、IOCが当大会に直接関わる初めての大会ともなり、この大会から、1964年のパラリンピック東京大会以来となる、夏季オリンピックと夏季パラリンピックの同一開催が実現しました。
ただし、冬季大会が冬季オリンピックと同一都市で開催されるようになるのは、さらに後年の1992年のアルベールビル冬季大会からになります。
このパラリンピックの語源ですが、実は日本人の発案だったということは意外に知られていません。
「パラ」+「リンピック」=「パラリンピック」という語呂合わせは、日本人のある大会関係者発案のようで、1964年の東京オリンピックと共同開催された第13回国際ストーク・マンデビル大会の競技のひとつである、「車いす競技大会」において、この大会の「愛称」として初めて使用したものだそうです。
もう50年も前のかなり古い話なので、その名付けの親が誰であったのかは不詳なのだそうですが、これは、パラプレジア(Paraplegia、脊髄損傷等による下半身麻痺者)とオリンピック(Olympic)を合わせた造語であったといいます。
1988年のソウル大会で国際障害者オリンピックを開催することが決定された1985年、IOCは、このパラリンピックという呼称を用いることを正式決定します。
ただ、これは日本人の発案の造語をそのままあてはめてということではなく、パラプレジア(半身不随者)以外の参加も認めたことから、これらの各障害者がパラレル(Parallel、平行)に競技するオリンピックという意味と、正規オリンピックとは別の「もう一つのオリンピック」の二つの意味を込める、ということで決定されたものでした。
が、もともとは日本人の発案だった呼称を再解釈したにすぎず、この呼称を日本人が発案したということは間違いなく、そのこと自体は誇っていいでしょう。
その後、1989年には、IOCから独立した国際パラリンピック委員会(IPC)が設立され、IPC本部が、ドイツのボンに置かれました。これ以後、冬季夏季相互に2年に一度大会を開催するという、安定した大会運営が行われるようになっていきました。
2000年のシドニーオリンピック時には、それまで分裂していたIOCとIPCとの間で正式に協定も結ばれ、オリンピックに続いてパラリンピックを行うことと、IPCからのIOC委員を選出することなどの取り決めも定められました。
これにより、以後、オリンピック開催都市でのパラリンピック開催は正式に義務化されるようになりました。
2001年にはIPCとIOCは、スイスのローザンヌで合意文書に調印し、パラリンピックとオリンピックの連携をさらに強化して進めることに合意。2008年夏季大会、2010年冬季大会からIOCは、パラリンピックについて運営・経済の両面においてIPCを支援することを決め、パラリンピックの構成や保護に篤い援助をするようになります。
そして2010年冬季大会からは、パラリンピック競技大会の組織委員会はオリンピックの組織委員会に統合されることになり、現在に至っています。ただし、組織を一にして協調するのは、オリンピックがある年だけであり、通常は国際パラリンピック委員会、IPCと、IOCは別組織として存続しています。
このパラリンピックへの参加選手数は、最初の夏季ローマ大会では、わずか400人にすぎませんでしたが、1988年のソウル大会では、その10倍の4220人が参加しました。
ところが、これ以降は減り続け、1996年アトランタ大会では3259人にまで減りました。2012年のロンドン大会では4310人にまで回復しましたが、今後もこの程度の参加数で横ばい状態が続くのではないかといわれています。
一方の冬季大会のほうはというと、1976年のエーンシェルドスピークで行われた第一回大会で、参加21ヵ国400人だったものが、1998年の長野では32カ国、1,146人にまで増えたものの、その後は減少傾向にあり、2010年のカナダ・バンクーバー大会では502人にまで減少しています。ただ、参加国は44カ国と過去最高でした。
今回のソチオリンピックでも、参加国数は同じ44なのですが、参加者は692人とやや増えただけで、国際大会としては今一つ伸び悩んでいるのが気になります。
このようにパラリンピックへの参加数が伸び悩んでいる理由については、諸説あるようです。
そのひとつとしては、もともとパラリンピックは障害者の社会復帰を進める目的で発生したため、福祉的側面から捉えられることが多かったのですが、近年はより「競技性」が高まった点と関係があるのではないかということが言われているようです。
日本においても陸上競技や車いすテニス等でプロ選手が誕生しており、こうした障害者競技が、正式な競技スポーツとしての側面がクローズアップされてきています。
競技性が高まるに従い、福祉ではなく「スポーツ文化」としての理解と支援を求める声が強まっているのは良いことです。が、より競技性が高まったことにより、難易度が高まり、参加者にとっては、そのハードルがより高くなります。競技人口が減っているというのは、このことと無関係ではないでしょう。
このほかにも、パラリンピックの発展においては、いろいろな問題が浮き彫りになってきています。
オリンピックと同一の開催地になってからパラリンピックへの注目が増し、障害者スポーツの認知度が向上したことにより、メダルをいくつも取るスター選手が現れるようになったこともそのひとつです。
一般紙やスポーツ新聞、バラエティ番組などで報道される機会も増え、彼等の障害者スポーツへの発展や貢献は誰もが認めるところでしょう。
しかし、こうして着目されることが多くなったため、メダルを取ることを一義と考える選手が増えており、メダルの獲得自体はその選手や所属する国の名誉となり、本人にとっても、スポンサーが増えたり報奨金が貰えたりするなどメリットは大きいといえるのですが、逆にメダルを取らんがための、違反が目立つようになってきたのです。
健常者と同様にドーピングをする選手などが増えているといい、このほか、パラリンピックには車椅子や義足などの機具を使う競技が多いことから、この器具に高額な投資をする選手が現れ、高価な補助具を使って自分の身体能力を高くしようとする選手なども現れてきています。
最先端の機具は、スポーツ医学や人間工学、機械工学、材料工学などを駆使してオーダーメードで作られるため、軽く、扱いやすく、体にフィットするようになっています。ただ、当然そのためにこれらの機具は高額になってしまいます。
そんな機具を買えるのは経済的に豊かな選手のみであり、結果的に途上国よりも先進国の選手が有利になってしまいがちという側面があり、上記のように競技人口が減っているというのは、このことも一因と考えられます。
日本においても、一般障害者用の生活用義足は医療保険適用ですが、スポーツ用の義足はこの保険適用外であり、100万円超もする高額品です。これは当然、すべて選手の自己負担となります。こうした義足が金銭的な理由で買えない選手が増えているといい、その中にパラリンピック出場を諦める選手も出てくるのは当然といえば当然です。
このほか、知的障害があるという理由でパラリンピックに出場した選手が問題になったこともあります。2000年のシドニー大会では、スペインの男子バスケットボールの知的障害クラスで金メダルを獲得したチームの中に、障害者を装った健常者がいたことが発覚する、という事件もありました。
このため、2002年のソルトレイク大会からは知的障害者クラスを実施しないという事態となりましたが、2012年開催のロンドン大会では、知的障害者クラスの競技においてはIPCが課した厳しい障害認定の条件を満たした競技・種目についてはその開催が認められました。
このときIPCは、ロンドン大会では、医師の証明書や実技試験を課す国際基準を作成したそうですが、その実効性には依然疑問の声があがっているそうです。
このほか、パラリンピックでは、障害の度合いに応じて非常に細かい階級を分けるために、例えば100メートル競走の金メダルは男女合わせて10個以上にもなるそうです。
このため、メダルの価値が1個のみと比べて低くなってしまうという意見があり、最近ではこうした意見を踏まえ、メダルを少なくするために、近い障害部位の間で階級を統廃合するという動きもあるようです。
ただ、階級を統廃合すると、今度は障害部位で有利不利が出来てしまいます。例えば水泳競技においては、両足麻痺者と両足切断者が一緒に競ったら、両足切断者は両足が無い分だけ水の抵抗が軽減されたり体重が軽くなって、逆に有利になってしまいます。
「競技の公平」と「メダルの価値」という両天秤において、パラリンピックは難しい選択を突き付けられているのです。
2006年のトリノ大会では、メダルの数を減らすため、障害の度合いによってポイントが加算された選手が競い、総合得点で競うルールが採用されたといい、この問題については、今後も試行錯誤が続いていくことでしょう。
ところで、このパラリンピックにおいては、日本の凋落ぶりが最近顕著です。
1996年のアトランタパラリンピックでは、日本は81人の選手団でしかありませんでしたが、日本のメダル獲得順位は世界10位だった(金14銀10銅 13計37)のに対し、先ごろ行われたロンドンオリンピックでは、134人の選手団を送り込みながら、メダル獲得数は24位にまで落ちました(金5銀5銅6計16)。
また、冬季大会においても、1998年の長野大会では、金12銀16銅13の合計41のメダルを取ったのに対し、前回のバンクーバー大会でもやはり、金3銀3銅5の合計11のメダル獲得にとどまっています。
ロンドン大会では、多額の国家予算を障害者エリート選手にかけた中国の活躍が目立ち、メダル獲得数も際立っており、中国は断トツの1位(メダル獲得数231)で、2位のロシアの102を大きく引き離しました。日本はこのとき8位で、下から3番目の成績でした。
日本のこうしたパラリンピックにおける不振の原因としては、現在の障害者スポーツの管轄が、JOC(日本オリンピック協会)の監督官庁である文部科学省ではなく、厚生労働省となっており、これがそもそも問題ではないかとの指摘があがっています。
ご存知のとおり、厚生労働省は、社会福祉や社会保障、公衆衛生や労働環境などを取り扱う省庁であり、文部科学省のように、スポーツ関連の専門下部組織を持ちません。そんな省庁にそもそもパラリンピックを管轄させていること自体が間違っている、というわけです。
現在のようにパラリンピックそのものの「競技性」が高まっている中、いつまでもここにまかせっきりにしておくのはよくありません。
パラリンピックもオリンピックも国際的にはほぼ同じ組織が運営しているのに対し、日本ではオリンピックを文部科学省が、パラリンピックを厚生労働省が別々に管轄しています。
これは当初パラリンピックは、福祉競技である、という認識から厚生労働省が担当になっただけで、そうではなく、これをスポーツ大会と捉えていたら、本来は文部科学省が扱うべき分野でした。
スポーツ文化においても縦割り行政が幅を利かせているというわけであり、2020年の東京オリンピックを前にして、この矛盾を一日も早く解消してもらいたいという声が高くなっています。
これを一元化すべく「スポーツ庁」を設けようという動きもあるようですが、「スポーツ基本法」の検討課題として附則に規定されるにとどまっており、未だに実現していません。
しかし2020年の東京オリンピック・パラリンピック開催決定を受け、2014年度中には厚生労働省の障害者スポーツ部局を移管し、2015年度までには文部科学省の外局としてスポーツ庁に含ませるといった措置が実現する見通しだといいます。
今回のソチパラリンピックではもう間に合いませんが、来たるパラリンピックをロシアの厳寒の地で戦う692人の勇士がひとつでも多くのメダルを獲得できるよう、祈りたいと思います。
さて、そのソチオリンピックもそろそろ閉会が近づいています。夜更かしが続いて不規則になった生活をそろそろもとに戻していかなくてはなりません。
それにしてももう2月も下旬。そろそろ梅も見にでかけねばなりません。忙しい限りです……