連日のソチオリンピックの競技日程も、中盤を越え、そろそろクライマックスに入ろうとしています。
そんな中、先日の葛西選手の個人ジャンプの銀メダルに引き続き、男子団体ジャンプ競技でも銅メダルを獲得し、日本中が沸いています。
4人のうちの二人が、病気または怪我による故障の中、勝ち取ったこの「銅」メダルは、その字をもじって「金と同じ」だという発言には誰もが納得。とくに難病だったことを明かした竹内選手には泣かされました。
この競技の一番手だった清水礼留飛選手も、ソチ直前のW杯で成績が振るわず、メンバーからははずされかけましたが、国内大会で好成績を収めてなんとか日本代表に選出されたという経緯もあり、今回の大活躍後のインタビューでも葛西選手がその努力を称えていました。
この清水選手の「礼留飛」という名前は、日本にスキーを伝えたとされるオーストリアのテオドール・エードラー・フォン・レルヒ少佐に由来するということは、多くの人がテレビの解説で知っているところでしょう。
ノルディック複合の元スキージャンプ選だった、父親の清水久之さんが、日本にスキーを伝えたとされるこのレルヒ少佐に敬意を表して命名しました。その久之さんが、まだスキーの国体選手であったころ、小学校1年生だった礼留飛君にスキーを勧めたことがきっかけで、彼もまた父と同じスキー人生を歩み始めました。
清水礼留飛選手は、1993年生まれで、現在21歳です。新潟県妙高市出身で、県立新井高等学校卒業後、雪印メグミルクに就職し、スキー部に所属しつつ徐々にその才能を開花させてきました。
現在はジャンプ競技が専門ですが、元々はノルディック複合の選手であり、全国中学校スキー大会、全日本ジュニアスキー選手権大会でも複合競技で優勝するなどしていました。が、その頃からもうジャンプを得意としており、複合選手ながら時々純ジャンプ競技の大会でも優勝していたといいます。
高校時代にも純ジャンプ競技での成績の方がよかったそうですが、コンチネンタルカップや世界ジュニア選手権のジャンプ競技では複合選手として転戦していました。しかし、好結果を残すことが出来なかったことから、高校3年時の2011年春に複合の強化指定を辞退し、本格的に純ジャンプへと転向するようになりました。
2012年8月、サマーグランプリ初戦のフランス・クーシュベル大会でジャンプ選手として初優勝を達成。さらに続くドイツ・ヒンターツァルテン大会でも2位に入る活躍を見せるなど、徐々に頭角を現してきました。
そして、2013年2月にはノルディックスキー世界選手権の日本代表に初選出され、団体戦に出場するまでになりましたが、前述のとおりソチ直前には調子を崩して振るわずメンバーからは外されかけましたが、これまでの実績を認められてオリンピックの代表に選出されたのです。
一昨日は、大ジャンプを見せて、銅メダル獲得に貢献しましたが、まだまだ21歳と若く、次のピョンチャンオリンピックでの活躍が期待されます。将来の葛西選手のような存在になるのではないでしょうか。レルヒ少佐の名前にふさわしい活躍を期待したいところです。
このレルヒ少佐もまた、立派な人物だったようです。1869年に、このころまだハンガリー帝国と呼ばれていたオーストリアのプレスブルクという場所で、軍人の家庭に生まれました。
19歳で、ウィーナー・ノイシュタットのテレジア士官学校に入学し、若干22歳で少尉に任官していますから、お父さんも軍人だったための親の七光りという面もあったでしょうが、優秀な青年だったのでしょう。
軍隊に入ってからの配属先は、奇遇にもこの父が勤務していたプラハの歩兵第102連隊でした。配属当初から知的才能、責任感、知識、指導力に秀でていたといい、上官や部下への人当たりもよく、勤務評定で高い評価を得ていました。
25歳で、士官学校の幕僚育成コース試験に合格。教育課程修了後、数々の歩兵旅団附参謀を務め、31歳でインスブルックの第14軍司令部附参謀となりました。山岳地帯であった同地で、ビルゲリー大尉が行っていたスキー訓練に興味を持つようになります。
そして、これに答えるように2年後の33歳のとき、アルペンスキーの創始者マティアス・ツダルスキーと運命的な出会いを果たし、彼に師事するようになります。
このツダルスキーが開発したアルペンスキーというのは、スキーの原型ともいわれるノルディックスキーから分化したものです。
ノルディックスキーというのは、もともとはノルウェーやフィンランドといった北欧で生まれたスキー技術であり、あまり高低差のない地形において長距離移動することを目的として開発されたものです。クロスカントリーはその原型を最もとどめたものであり、これに狩猟のための射撃を加えたものがバイアスロンです。
これに対して、アルペンスキーというのはオーストリアやスイスといった、山岳地帯で発達したものです。北欧と異なり、急斜面な場所が多く、このため、安全に滑降するための工夫が必要でした。
この当時、世界のスキーはノルウェー式が主流でした。ノルウェー式は平らなところを歩くには最適でしたが、足をスキー板に固定する締が具は簡単なものだったため、このスキーで山などの急な斜面を滑ることはできませんでした。
このため、ツダルスキーは急な斜面でも安全に滑ることができる「リリエンフェルト式」と呼ばれるスキーを考案しました。これは、「ビンディング」と呼ばれるスキー靴とスキーを固定する部分の踵を固定したもので、これにより滑降に特化して発達したスタイルが生まれました。
これに対して、ノルディックのクロスカントリーに使われるスキーでのビンディングは、先端部のみが固定され、踵は解放されています。長距離を移動するためには、このほうが足首を自由に動かしにくく、疲れにくいためです。
このノルディックスキーを改良してアルペンスキーを開発したというマティアス・ツダルスキーという人物が、実際どんな人だったのか調べてみたのですが、よくわかりません。
が、アルペンスキーに関するかなり専門的な図書を後年出版しており、レルヒとも親しかったことなども考え合わせると、軍に所属する何等かの技術者、あるいは顧問のような存在だったのでしょう。
こうして、ツダルスキーにスキー技術を学んだレルヒは、34歳で南チロルでの国境警備に派遣されましたが、この環境はレルヒにスキーの研究に絶好の地でした。また、ハンガリー帝国の戦争省の建物が道を挟んで、レルヒの所属するアルペンスキークラブ事務所と隣り合っていたことも、彼がスキーにさらなる情熱を燃やす要因となりました。
ツダルスキーは市民のみならず軍隊にもスキーの重要性を解いており、1890年代から一部の部隊に指導を行っていました。しかし、当時の軍内部における意見の多数はスキーを娯楽と考えており、導入に懐疑的でした。
こうした中、レルヒがチロルに赴任して3年たったころ、オーストリア南東部のシュタイヤーマルクの山岳地帯で演習を行っていた騎兵部隊が雪崩に遭遇します。
この事故の知らせを聞いたレルヒはスキーを使ってその遭難者の救出にあたっており、帰還するや否やこのときとばかりに軍上層部にスキーの重要性を訴えました。軍高官と接点の多い参謀本部附という自身の立場を利用し、直接的に、あるいは友人知人を介してスキーの重要性を精力的に軍高官らに説いて回ったといいます。
この結果、当時のハンガリー帝国参謀総長フランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフ中将は、彼の熱意に応えてスキーの導入を正式に決定。二年後の1908年2月、チロル地方のベックシュタイン山麓で、ハンガリー帝国最初の軍隊によるスキー講習会が開催されました。このときレルヒは講師として献身的にこの指導に加わりました。
ちなみに、このころレルヒが忠誠を誓っていたハンガリー帝国というのは、ハプスブルク家の君主が統治した連邦国家でした。1867年に、それまであったオーストリア帝国がハンガリーを除く部分とハンガリーとの同君連合として改組されることで成立した国で、1918年に解体するまで存続しました。
1918年(大正7年)、第一次世界大戦の敗戦と革命によりこのオーストリア=ハンガリー帝国は解体され、共和制となりますが、この時点で多民族国家だった旧帝国のうち、かつての支配民族のドイツ人が多数を占める地域が、現在のオーストラリアになりました。
その後は1938年にナチス・ドイツに併合され、1945年から1955年には連合国軍による分割占領の時代を経て、1955年の独立回復により現在につづく体制となりました。1995年には欧州連合にも加盟し、以来、オーストリアは永世中立を宣言しており、首都ウィーンを中心として、音楽で名を馳せる文化大国としてそ世界中に知られています。
ただ、このレルヒ少佐が活躍していたころの19世紀後半から20世紀前半にかけてのオーストリア=ハンガリー帝国の世界的な評価は、「諸民族の牢獄」「遅れた封建体制国家」などとあまり良くありません。
その後も「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれた中欧・東欧の混乱を招く火種のような存在であり続け、レルヒ少佐が活躍していた時代には国力もかなり落ちていました。
そんな中、日本とロシアとの間で勃発した日露戦争において、ロシア帝国に勝利した日本陸軍の研究材料とし、軍の増強を図ろうとしていたハンガリー帝国はレルヒ少佐を交換将校として派遣することを決めます。
こうして、レルヒは、1910年(明治43年)11月30日に来日。しかし、あくまで、日本の軍事技術を研究するために派遣されたのであり、スキー教師として来日したわけではありませんでした。
が、ちょうどこのころ日本陸軍は八甲田山の雪中行軍で事故をおこしたばかりでした。このためもあり、日本陸軍はアルペンスキーの創始者としてのマティアス・ツダルスキーからの直接の指導を願っていたといい、その弟子であるレルヒが来日すると聞いて、大いに喜んだようです。
彼の来日後も、そのスキー技術の伝授を積極的に申し出、そのためにわざわざ新潟県中頸城郡高田(現上越市)にある第13師団歩兵第58連隊の営庭を貸しています。さらには付近の金谷山などの山中で、この連隊の兵士にスキー指導をさせています。
このときとくに彼を推挙したのがこの第13師団長の「長岡外史」であり、彼は後に日本の航空機開発における祖ともいわれる人物ですが、そのことについては後述します。
こうして、レルヒ少佐による本格的なスキー指導が始まり、1911年(明治44年)1月12日に歩兵第58連隊の営庭を利用し、鶴見宜信大尉ら14名のスキー専修員に技術を伝授したことが、日本に於ける本格的なスキー普及の第一歩とされています。また、これにちなみ毎年1月12日が「スキーの日」とされているようです。
その一年後の1912年には、レルヒ少佐は北海道の旭川第7師団へのスキー指導のため旭川市も訪問しており、また北海道でのスキー訓練の総仕上げとして羊蹄山登山を行い、山頂からの滑走訓練も行ったといいます。
こうしたスキー指導の傍ら、レルヒは日本各地の旅行にも出ており、下関から箱根、名古屋、伊勢、奈良、京都、広島を回っており、これらの日本滞在記を帰国後に出版しています。
さらに門司港から朝鮮半島までも訪問したと記録されており、その後日本から中華民国に渡り満州、北京、上海へ、さらにイギリス領香港を経て12月英領インドの演習を観戦しています。
その後、日本には戻らず、年明けの1913年(大正2年)1月に本国に帰国。日本における滞在期間は、わずか二年ほどでした。
帰国後は混成山岳連隊の大隊長などを務めましたが、程なく勃発した第一次世界大戦では新設された第17軍参謀長に任ぜられました。1916年、47歳になった彼は、ロシア軍、イタリア軍と交戦。ヨーロッパ各地を転戦しますが、ドイツ帝国陸軍の所属として西部戦線に向かったところ、戦線での負傷により退役を余儀なくされます。
晩年はチロル山脈での勤務や日本への旅行を題材に、講演活動などを中心とした生活を送ったといいますが、敗戦国であるため軍事恩給もなく、その暮らしは財政面でかなり苦しかったといいます。1945年12月24日、糖尿病のため死去。享年76。ウィーンの共同墓地に葬られたそうです。
なお、日本に滞在中、レルヒが伝えたアルペンスキーは、ツダルスキー直伝の杖を1本だけ使うスキー術だったそうです。これは重い雪質の急な斜面である高田の地形から判断した結果だといいます。
しかし、レルヒは1本杖、2本杖両方会得していたといい、ほぼ同時期にスキーが普及した札幌では、このころ既に2本杖のノルウェー式が主流となっていたそうです。その後、1923年に開催された第一回全日本スキー選手権大会では、2本杖のノルウェー式が圧倒。レルヒが伝えた1本杖の技術は急速に衰退していきました。
レルヒは、生粋のスポーツマンだったといい、スキーのみならず、水泳、サイクリング、スケート、登山と何でもこなしました。また、芸術にも秀で、絵画を数多く残しています。英語、チェコ語、マジャル語、イタリア語、フランス語、ロシア語の6ヶ国語が話せたといい、日本語滞在の2年間に多少日本語も話せるようになっていたそうです。
後年の、1930年(昭和5年)、このころ既にオーストリア国民となっていたレルヒを高田の人々が招待しようとしたことがあったといいます。「スキー発祥記念碑」が建立されたためであり、レルヒはその除幕式に招待されたのですが、身体の具合が思わしくなく、また財政的に厳しいという理由で来日を断りました。
そんな彼の窮状を知った高田の人々は協力して見舞金を集め、同年、当時の金額で1600円をレルヒに寄付したといい、これは現在の貨幣価値に換算すると、300万円前後になります。
そのお礼にと、レルヒからは礼状とともに自筆の油絵と水彩画が贈られたといい、現在でも上越市となった高田には、レルヒの描いたオーストリアの山々や町並みなどの水彩画約50点が所蔵されているそうです。
ところで、このレルヒ少佐をスキー教官として登用した長岡外史ですが、この人は私と同じ長州人です。安政5年日(1858年)周防国都濃郡末武村(現山口県下松市)に大庄屋の息子として生まれ、その後徳山藩士・長岡南陽の養子となりました。
安政5年といえば、幕末動乱の時期ですが、動乱に巻き込まれるほどは年長ではなく、長州の名門校、萩の明倫館を卒業したころには、戊辰戦争はほぼ終了していました。
明治11年(1878年)、20歳で陸軍士官学校を卒業後、27歳で陸軍大学校を一期生として卒業。日清戦争では旅団参謀、軍務局軍事課長を勤め、ドイツ派遣も経験。明治35年(1902年)には44歳で陸軍少将となり、歩兵第9旅団長を務め、明治37年(1904年)からの日露戦争では大本営陸軍部参謀次長として行動しています。
明治38年(1905年)、5月末の日本海海戦における圧倒的な勝利ののち、ロシア帝国との講和条件を少しでも日本側に有利なものとするため、講和会議に先立って樺太を占領すべきであると考え、長岡は樺太占領作戦を軍首脳に上申しました。
が、海軍は不賛成であり、陸軍参謀総長の山縣有朋もこれに同意しませんでした。このため長岡は、満州軍の児玉源太郎に手紙を書いて伺いを立て、その返信を論拠に説得作業を展開、これにより7月以降の樺太作戦が決まります。結果的に、この作戦は後日成立したポーツマス条約における講和条件のひとつである南樺太割譲に大きな影響を与えました。
明治41年(1908年)には軍務局長となりましたが、軍務局長というのは大臣・次官に次いで政治折衝の中心的な地位にあり、事実上大臣に次ぐナンバー2とうことになります。
翌年には陸軍中将に昇進しますが、第13、16師団長を務めた後、大正5年(1916年)には予備役となり、軍を引退。その後余生を郷里の山口で静かに過ごしていたかにみえましたが、大正13年(1924年)、66歳のとき突如として第15回衆議院議員総選挙に出馬して当選し議員となりました。
が、政治家としてはあまり目立った活躍はなく、昭和8年(1933年)1月、膀胱腫瘍のため慶應義塾大学病院に入院、治療を受けていましたが、同年、4月に容態が急変して、手当の甲斐なく、10日ほどのちに死去。享年76でした。
墓所は青山墓地ですが、彼の郷里の下松市笠戸島の「国民宿舎大城(おおじょう)」には、外史を顕彰する外史公園があり、外史の銅像が建てられています。
ちなみに、この国民宿舎大城のレストランの「ヒラメ定食」は絶品です。今も同じメニューがあるかどうか知りませんが、笠戸島周辺は、ヒラメの名産地として有名です。タコもうまい!
この外史ですが、レルヒ少佐の採用の例でもそうだったように、先入観や慣例にとらわれず新しいものを受け入れる柔軟な思考能力を有していたといわれています。
ただ、頑固一徹の一面もあったようで、外史が混成第9旅団の参謀を務めていた時、部下の二宮忠八から「飛行器」の研究に対して軍から予算をもらいたい旨の上申書を受けたときにもこれを一蹴しています。
人が乗って空を飛ぶ機械の構想という、この当時としてはかなり奇想天外な研究に対して難色を示したのはわかるのですが、そのときの口上は、「今は戦時である」「外国で成功していないことが日本で出来るはずがない」「成功したとしても戦争には使えない」だったそうで、けんもほろろだったと伝えられています。
ところが、外史は戦争には使えないと言った飛行機を実際には二宮は偵察にも使えると強く上申していたそうで、この二宮の主張を却下したことは、日本人による世界初の飛行機の開発という絶好のチャンスを失う一因となりました。
しかし、後にライト兄弟により飛行機が発明され、この二宮忠八の飛行機研究開発の事実が世間に知られることになったとき、外史はこの当時の自らの先見のなさを嘆き、二宮に面会して謝罪したといいます。
その後、明治41年(1908年)に軍務局長となって以降は、逆に飛行機開発を積極的に推進するようになり、飛行機の普及を計るため、大正4年(1915年)には、国民飛行協会を設立、大正7年(1918年)には、これを改組して、帝国飛行協会を創設し、人材の顕彰や育成にあたりました。
また、軍務局長となった明治42年(1909年)には、初代の臨時軍用気球研究会の会長を兼務し、日本軍の航空分野の草創期に貢献しました。その後、日本は第一次大戦、二次大戦と大きな戦争に向かっていくことになりますが、この中で開発された数多くの航空機は、日本の航空機産業の創成期に長岡によって育成された人材によって開発されたものであったことは言うまでもありません。
長岡は、「プロペラ髭」と呼ばれる長大な髭を蓄えており、この自慢の髭は最長で70cm弱にも達したといいますが、これを本気で自慢していたそうです。しかし、発想が奇抜で、思いつきに過ぎない現実性のない構想を実行しようとして周囲を混乱させたこともしばしばであったといいます。
が、そんな変人が現在の日本の航空機産業の礎を創ったといってもよく、現在でも日本人はなんのかんのと飛行機が大好きです。飛行機が大好きな宮崎駿監督の作品がヒットするのもわかるような気がします。
今回のオリンピック競技でのジャンプ競技においても、かつての札幌オリンピック団体選手たちを「日の丸飛行隊」と、飛行機乗りに例えたこともその表れでしょう。
このスキージャンプもまた、上述のノルディックスキー競技のひとつであり、その発祥は北欧です。板とブーツの接続構造が、ビンディングでつま先だけが繋がれるものであり、アルペンスキーと比較してかかとが固定されない点でも同じノルディックスキー競技であるクロスカントリーと同じです。
ノルディックスキーには、このほかもうひとつテレマークスキーというのがあり、本来はこれを合わせた3つがノルディックと称されるべきものです。が、テレマークのほうは、冬季五輪正式種目には採用されていません。
アルペンスキーのように雪山やゲレンデを滑るスキーであり、アルペンスキーの原型とみなす向きもあるようですが、その滑り方は独特です。スキージャンプで、競技者が着地するとき「テレマーク姿勢」という独特の姿勢を取りますが、同様の姿勢によって、「テレマークターン」を行い斜面を滑降する競技です。
ノルディックスキーがノルウェーの「テレマーク地方」を中心に発達してきたため、ジャンプ競技において最も美しいとされ高得点に結びつく着地時の姿勢もまた「テレマーク姿勢」とよぶようになりました。
テレマーク競技は、オリンピックでは採用されていませんが、独自に世界選手権やワールドカップがあります。
この競技を愛する人は、このテレマーク競技こそが、正式なノルディック競技だと主張しています。その一方で、クロスカントリーとジャンプをまとめて、「ノルディックスキー競技」と呼ぶ向きもあり、「テレマーク」やら「ノルディック」やらが入り乱れてややこしいかぎりです。
が、しつこいようですが、本来は、ジャンプ、クロスカントリー、テレマークの3つの総称が「ノルディック」であるわけです。
このうちのジャンプ競技は、1840年ごろのノルウェーのテレマーク地方が発祥の地とされています。子供たちがスキーで遊んでいるうちに自然発生的に競技となったという説がある一方で、その起源は、ノルウェーの処刑法にあるなどとされ、テレビ等でも紹介されたため広く信じられてきましたが、俗説です。
これは、ジャンプが、他のどのスポーツ競技と比較してもあまりにも恐怖感を伴うものであるため、重刑囚がこのジャンプをクリアできれば、その刑を軽減されるというものですが、いまだこの説を真実だと思っている人がたくさんいるようです。
1860年代、初期の著名なジャンプ競技者は、テレマーク競技出身のノルトハイムという選手だったそうです。1877年には、最初のジャンプ競技会がノルウェーで行われ、1879年には、同じくテレマーク地方にいた靴屋の少年ジョルジャ・ヘンメスウッドがクリスチャニアのヒューズビーの丘で23m飛んだという記録が残っています。
日本においては、1923年(大正12年)、第1回の全日本スキー選手権大会がスタートしたときに、このジャンプ競技も行われました。この大会はまた、日本スキー競技史のはじまりでもあります。
この全日本スキー選手権大会は、当初ノルディックのみから始まりました。すなわち上記3つの競技だけで、このときはまだアルペンはありません。開催地は、北海道の小樽市であり、ジャンプ競技では、小樽高商の讃岐梅二選手の16.1mが優勝記録でした。
また翌年の1924年(大正13年)第2回大会は、会場をレルヒ少佐ゆかりの新潟県高田市(現在の上越市)に移し、ジャンプ競技では北大の伴素彦選手の21.7mが最高記録でした。
この大会の開催はやがてオリンピックへの初出場とつながり、また全日本学生スキー選手権大会の開催、アルペン競技の登場、世界選手権大会、全国高等学校選手権、全国中学校へとつながっていきました。
第2回の全日本スキー選手権大会が開催されたこの年、第1回の冬季オリンピック大会がフランスのシャモニで開催されましたが、日本は同大会がテスト開催だったこともあり不参加でした。このときの参加国16で参加者はわずか258名だったそうです。
次いで1928年(昭和3年)に開催された、第2回冬季オリンピックでは、日本は初めて選手を派遣しました。開催地はスイスのサンモリッツで、2月11日~19日の9日間の参加国・地域数は25、参加人数464人にまで増え、競技種目数も5競技14種目となりました。
この日本人が初めて出場した冬季オリンピックで、日本選手団は役員1人、ノルディックスキー種目には永田実、高橋昴、竹節作太、矢沢武雄、伴素彦、麻生武治の6人が出場し、クロスカントリースキーでは男子50kmの永田実の24位が日本人最高位でした。
ジャンプ競技では第2回全日本スキー選手権大会でも活躍した、伴素彦の、39mが最高で、このときの順位は36位だったといいます。ちなみに、この時の金メダルはノルウェーのアルフ・アンデシェン選手が獲得し、飛距離は2回目の64.0mが最高でした。
現在のラージヒルジャンプの飛距離は、最高ともなると140mに迫るものもあることを考えると、この当時の飛距離はかわいいものです。
そのジャンプ競技の飛距離と、ジャンプする飛行姿勢については、切っても切り離せない関係があり、その変遷の歴史には結構物語があります。が、長くなるのでここでは割愛します。
最近でのこの飛行姿勢は、V字が主流であり、このV字飛行は、20世紀終盤に、スウェーデンのヤン・ボークレブ選手が始めたものが起源だといわれているようです。
V字飛行は、それまでの板を揃えて飛ぶ飛型よりも前面に風を多く捉えて飛距離を稼ぐことができましたが、当初は飛型点で大幅な減点対象になり、上位に入るには他を大きく引き離す飛距離が必要でした。
が、他の選手も次第に取り入れるようになり、その後規定が変更され減点対象から除かれるようになりました。クラシックスタイルからV字への転向には、日本やオーストリアは早く対応できたようですが、フィンランドなどの強豪国は転向に乗り遅れ、一時低迷することとなりました。
この飛形を最初に取り入れたヤン・ボークレブ選手は、元々足がガニ股だったそうで、当初から空中でスキーの先端が大きく開くフォームとなってしまっていたといいます。板を揃えて飛ぶのが当たり前だった当時としては非常に特徴的でしたが、これが功を奏して飛距離を伸ばすようになったといいます。これは結構有名な話のようです。
このオリンピックの正式採用種目になっているジャンプ競技では、競技規則により、ラージヒルでも、着地終点区間とテークオフ先端の垂直距離が一定距離を超える競技場は使えないそうで、このため、最大飛行距離も実質上145mが最大だそうです。
ところが、オリンピック種目ではない「スキーフライイング」という競技が別にあり、これは、スキージャンプの一種でK点170m、ヒルサイズ185m以上のジャンプ台を使用して行われ、最大飛距離を争う競技です。
この規模のジャンプ台を「フライングヒル」と呼称し、またこの台で行われる種目も「フライングヒル」と呼称されますが、これが行えるほど大きな競技場は、世界に5つしかありません。
その歴史は1934年、ユーゴスラビアのプラニツァというところに100mの飛行を可能にするジャンプ台が建設され、翌年の1936年3月にオーストリアのヨーゼフ・ブラドルという選手が、史上初めて大台を超える101mのジャンプを成功させたことに始まります。
1950年代に入ると西ドイツのオーベルストドルフやオーストリアのタウプリッツにも150mの飛行が可能なジャンプ台が建設されるようになり、1972年に国際スキー連盟も公認のスキーフライング世界選手権が開始され、1979~1980年シーズンにスキージャンプ・ワールドカップが始まるとその中の1種目とされました。
1994年3月には、フィンランドのトニ・ニエミネンが史上初めて200mを超えるジャンプを成功させ、その後も飛距離の記録は伸び続け、2000年にノルウェーのトーマス・ヘールが220mを越え224.5m、2003年にフィンランドのマッティ・ハウタマキが230mを越える231m、2005年3月にはビヨーン・アイナール・ローモーレンが239mを記録しました。
同じ日にヤンネ・アホネンは240m地点に到達しましたが、このときには、そのまま行けば競技場を超えてしまいそうな場所まで飛びそうになったことから、無理矢理降下して転倒してしまったため、この記録は正式記録とは認められなかったそうです。
2011年には、ノルウェーのヴィケルスンのフライングヒル競技場がK=195、HS=225mに改築され、地元ノルウェーのヨハン・レメン・エベンセンが、ここで行われた世界大会の予選ラウンドで246.5mを飛びました。
ただ、予選であったため、この記録も公認されておらず、本選でオーストリアのグレゴア・シュリーレンツァウアーが飛んだ243.5mが最高記録となっているようです。が、非公認ながら、現在の最長記録はエベンセンが記録したこの246.5mということになります。
それにしても、現在我々がテレビで目にするラージヒルジャンプ競技の最高距離が、140m程度であることを考えると、この200数10メートルという距離は驚異的です。
この距離を飛ぶ選手は100km/h前後の高速で空中に飛び出し、8秒から10秒間飛行するそうで、この大ジャンプは当然選手にとっては、多大な心理的圧力になります。
オーストリアのインスブルック大学の研究では、飛行中のジャンパーは神経系を酷使して「視覚刺激の洪水」を処理していることが分かっているそうで、これは、スキージャンプ選手の脳内ではアドレナリンが多量に分泌されていることを意味しているといいます。
当然、脳にとっては異常事態であり、そうした重圧をそれ以上増やさない状態を作り出そうとすることから、この競技に臨む選手は常に慢性的なストレスにさらされ、不安か逃れたいがゆえに、排尿の増加(利尿不安)や協調制約などをももたらすといいます。
協調制約というのは、一種の自律神経失調症のようなものらしく、これを回避するには、精神的・肉体的に極限状態となるスキーフライングを集中してトレーニングすることしかないそうです。これにより最終的に自動的に極限状態を処理するシナプスが形成されるといいます。
ただ問題は、こうしたトレーニングを多くの選手に積ませるほどたくさんの競技場がないことです。新たにスキーフライングの競技場を整備するにはコストがかかります。このため、選手人口を増やして新たな記録を得るのはなかなか難しいというわけです。
また、選手にすれば、わずかのトレーニング機会で風の状況やジャンプ台の癖を見抜かなければならないわけで、小さなミスが重大な事故を起こす危険性があり、長期的にトラウマを引き起こす可能性もあります。
実際、1983年に当時19歳の東ドイツの選手が突風に煽られて大転倒し怪我を負い、翌シーズンからは大きなジャンプ台ではパニック症状を起こすようになり、苦しんだそうです。
スキーフライイングのある一流選手は、「スキーフライングの感覚は、愛情における感覚と自動車事故を免れた時の感覚を混ぜ合わせたようなものだ」と語ったそうですが、これは好きで好きで病みつきなんだけれども、やっぱ怖い、ということなのでしょう。
1972年から始まったスキーフライング世界選手権は、現在も2年に一度行われていますが、上述のとおり専用のジャンプ台は現在世界で五箇所にしかなく、したがってこの五箇所で持ち回り開催されています。
この世界選手権では通常のスキージャンプと異なり、2日間4回の飛躍の合計で順位を決定するそうです。 1回目の飛躍に参加できるのは予選を通過した40人で、1回目上位30人のみが2回目以降に参加でき、 2004年の選手権からは団体戦も導入されているそうです。
実は、1992年にチェコのハラコフで行われた、この世界選手権では、葛西紀明が金メダルをとっています。また、1998年にドイツのオーベルストドルフで行われた大会でも船木和喜選手が金メダルをとっているほか、現在は解説者になっている原田雅彦もメダルこそは獲得していませんが、何回もこの選手権に出場しています。
日本人の中でも飛行曲線の高いことで定評のあった原田雅彦選手ですが、さすがにこの競技は怖かったらしく、踏切時には成功ジャンプだと思っても、途中でジャンプを止めて手前で降りることも多かったといいます。
また、強風の中で行われた1998年のヴィケルスンでの大会では1本目3位ながら2本目を棄権しています。この時他にディーター・トーマやアンドレアス・ゴルトベルガーなど、飛行曲線の高いジャンパーがこぞって2本目を棄権したにも関わらず、このとき船木和喜選手はまったくこのジャンプを苦にしていなかったそうです。
船木選手は、最後のほうで、着地斜面をなめるように滑空するジャンプが持ち味であり、こうした選手にスキーフライイング競技は向いているといいます。このほか、岡部孝信選手もまた、これが得意だったといいます。
その後、長らくこのスキーフライング世界選手権では日本人のメダルはないようですが、2012年には、今回の団体ジャンプでも活躍した伊東大貴選手が、日本人最長となる240mを記録したこともあるようです。
いつか、日本人が世界記録を破るような最長飛行をする日もくるかもしれません。その日が楽しみですが、それをやるのは、もしかしたら、レルヒ少佐の名を受け継いだ若い清水選手なのかもしれません。