サクラの国

池代川の桜06
あの嵐はなんだったのよ、というぐらい今日は上天気です。

昨日5分咲きだった目の前の公園にあるソメイヨシノは、今朝はもう7~8分咲きになっており、早くも見ごろです。狩野川沿いの修善寺駅裏にある桜並木も、昨日通りがかったときには6分くらいだったので、今日明日にもほぼ満開に近い状態になるでしょう。

あちこちのサクラが咲き始める今、急がないと「写期」を逸してしまうのでは…と少々焦り気味の今日このごろです。

このサクラですが、日本では平安時代の国風文化の影響以降、花の代名詞のようになり、春の花の中でも特別な位置を占めるようになりました。

国風文化というのは、10世紀の初め頃から11世紀の摂関政治期を中心とする我が国の文化で、中国の影響が強かった奈良時代の文化(唐風)に対して、これを国風文化と呼んでいます。

「和風(倭風)」という言葉もここから来ており、現在まで続く日本の文化の中にも、この流れを汲むものが多く、浄土教に代表される仏教や、かな文字の使用、古今和歌集などに代表される詩歌の流行などもこの時代に生み出されたものです。

竹取物語や伊勢物語、源氏物語や土佐日記、枕草子といった超有名な作品もすべてこの時代に作られていて、この国風文化の時代こそが、日本の原点といっても過言ではないでしょう。

これらの文学作品の中にも桜は頻繁に登場し、これ以降日本では、桜は花の代名詞のようになり、春の花の中でも特別な位置を占めるようになりました。

桜の花の下の宴会の花見は風物詩であり、各地に桜の名所が作られ、日本の年度は4月始まりであることや、学校に多くの場合サクラが植えられていることから、人生の転機を彩る花にもなっています。

池代川の桜07

ところが、サクラは公式には国花ではありません。100円玉にもその意匠があしらわれるなど、国花の一つであるかのように扱われていますが、実は日本の国花は菊です。菊は皇室の象徴としての意味が強く、幕末の王政復古以降、一貫して皇室の花=国の花とされてきました。

これに関連して、国歌である「君が代」についても、この「君」は一般的には天皇をさすのだと解釈する人も多く、日本では国花、国歌ともに王室礼賛をするためにこれを定めているとの見方は否定できません。

それが何がいけないんだと開き直る人もいれば、いやいやそういう風潮への蔓延が戦前の軍国主義への回帰につながるのだとする人もいて、公式の場での君が代の斉唱をも拒否する、といった事件もしょっちゅう起きています。

私自身は、別に国歌も国花もこれまで通りでいいじゃないか、とは思うのですが、君が代の歌詞にある、「君」である天皇の長寿を祝し、その御世に寄せる賛歌としての位置づけには若干の抵抗がなくはありません。

いっそのことこの古臭い歌をやめて、新しい歌を一般公募で決めてそれを新国歌とすればいいのに……とかも思ったりもするのですが、その反面、子供のころから国歌として慣れ親しんできたこの歌に愛着があるのも確かです。

結局のところ、国歌や国花を差し替えればそれで国が生まれ変わるというわけでもなく、長く伝統として保ってきたものは今後も保ち続けるでいいではないか、と思う次第です。

ところで、この国花ですが、ほかの国はどんな花を定めているのだろう、と気になったので調べてみると、まず日本と最も親しい国であるアメリカの国歌は、バラだそうです。

へー意外、というかんじなのですが、これが定められたのはごく最近であり、1985年に上院でこれを国花とする決議を可決したばかりであり、その翌年の1986年にこの当時のロナルド・レーガン大統領がホワイトハウスのローズガーデンでその法律に署名し、正式に公布されています。

アメリカ合衆国の第31代大統領でハーバート・フーバーという人がいますが、この人にちなんで「プレジデント・ハーバート・フーバー」という品種のバラがあり、これがこの国の国花としてよく引き合いにだされるようです。ちょっとオレンジがかった黄色いバラで、なるほど明るいイメージの好きなアメリカ人が好きそうな花ではあります。

もっともアメリカの場合は、それぞれの州で「州花」が定められていて、こちらのほうが重視されることも多いことから、バラが国花であることすらも知らない人も多いのではないでしょうか。

イラン、イラク、オマーン、キルギス、サウジアラビア、アルジェリア、モロッコ、ブルガリア、ポルトガル、ルクセンブルグ、セントルシア、ホンジュラス、エクアドルなども、それぞれ品種こそ違え、バラを国花にしており、バラは世界中で人気の花といえるでしょう。

池代川の桜09

実はイギリスも連合王国としての国花は、バラであり、こちらも、「クィーン・エリザベスII」に代表されるバラ品種などがあります。

お隣の中国はといえば、現在国花選定中だそうで、候補としては牡丹と梅のほか、日本と同じ菊や蓮、蘭が挙げられているそうです。

まさか現在のようにもめている最中に日本と同じ菊を選ぶとは思えませんが、過去に何度か国民投票を実施した際にはボタンとウメが常に1位、2位を占めていたといいますから、このどちらかになるのではないでしょうか。ちなみに台湾の国花は梅です。

また、韓国の国花はムクゲだそうで、韓国の国章はこの花を基にデザインされているほか、国歌にもこの花の名が登場するようです。なるほど韓国らしいかんじがする花ですが、その北側の北朝鮮の国花もスモモだそうで、こちらもこの国に合うかんじがします。

このようにやはりその国に合った花が国花になる傾向があるようで、イタリアはデージー、オランダはチューリップ、スペイン・カーネーション、スイス・オーストリアはともにエーデルワイスが国花です。

このほか、宗教にちなんで国家が決められたのではないかと思われるのが、インドであり、国花は蓮だそうですが、とくに仏教とは関係のなさそうなエジプトもまたロータスが国花です。

エジプト以外のアフリカ各国の国花となると、我々の知らないような花ばかりであり、例えば、シエラレオネのギネアアブラヤシ、ジンバブエのグロリオサ・ロスチャイルディアナ、ナイジェリア・コスタス・スペクタビリス、などは名前を聞いただけではどんな花なのかさっぱり想像もできません。

ナミビアに至っては、ウェルウィッチアという舌をかみそうな名前の花が国花であり、これは邦訳すると、「奇想天外」という意味になるそうです。種子から発芽した個体が再び種子をつけるまでに、25年ほどかかると考えられていて、寿命は1,000年以上と言われているそうです。

世界的にも珍しい希少植物であることから、ナミビアでは厳重に管理されているそうですが、ちなみに、和名としては、サバクオモト(砂漠万年青)という名前が与えられています。

京都府立植物園など、国内の何ヶ所でも栽培されているそうですが、この京都府立植物園のものは、2004年8月に温室にあった鉢2株が盗まれたといいます。

池代川の桜14

ちなみに、日本と同じように桜を国花としている国はあるのかな、と調べてみたところ、今クリミア半島の帰属問題でロシアともめているウクライナの国花が日本のサクラとは品種は違いますが、「スミミザクラ」というサクラの一種です。

写真を見るかぎりでは日本のソメイヨシノよりも白っぽくまた小ぶりな花のようです。その果実は、日本のサクランボのように甘くなく、あまりにも酸っぱいため生食には不向きだそうですが、スープや豚肉料理などによく使われるそうです。

また、砂糖とともに調理することで、酸味を抑え香りや風味を引き出すことができるといい、このため、スミミザクラの果実のシロップもしくはスミミザクラの果実そのものを使ったジュースやリキュール、デザート、保存食もあるといいます。

以前、このブログで1917年にロシア革命が勃発したとき、ロシアに対抗するために極東に「緑ウクライナ」というウクライナ人による国が建国されかけて失敗した、と書きました。

このとき日本国内にもロシアと対抗するためこの緑ウクライナに同調する動きがありましたが、建国に失敗したため、この運動の中心だったたくさんの白系ロシア人が日本に亡命してきましたが、その中に大相撲の大鵬関のお父さんがいた、といったことも書きました。

そうした過去に思いを馳せつつ、そのウクライナ人たちの末裔たちが造った国の国花が我々の愛するのと同じサクラであると聞くと妙にこの国に親近感を感じてしまうのは、私だけでしょうか。

さて、今日は長らく骨折で入院していた母がリハビリ病院から退院することになっており、午後から彼女を迎えにいきます。

その途中にもあちこちでサクラが咲いているはずであり、長らく病室にいて四季の移ろいをみることができなかった母にそれを見せてやれるのがとても楽しみです。

おそらくは今週はあちこちでサクラが満開になることでしょう。退院した母を連れ、それをぜひ堪能したいと思います。

みなさんの街にもサクラがあふれていることでしょう。桜の季節はほんのわずかです。仕事や勉強ばかりしていないで、遊びにでかけましょう。

虹の里の桜D

雨の日に……

2014-1140530今日の伊豆は、朝から雨です。

しかも我が家は山の上にあるので、別荘地全体が雲に覆われ、外は霧のなかのようです。その霧に浮かびあがる5分咲きのサクラは墨絵のようで、これはこれでまた美しい。

私は今は絵はやらないのですが、中学生のころには美術部に入っていたこともあり、絵には昔から興味があり、たまに美術館などに行くとハマってしまい、出て来れなくなることもしばしばです。

が、いわゆる水墨画というのは、地味~なかんじがあって、とくに好き、というほどでもありません。

とはいえ、日本人はこうした単純な墨一色で表現され、ぼかしで濃淡・明暗を表す表現が大好きなようで、「なんでも鑑定団」などを見ていても有名な画家さんの絵になるとすごい金額で取引されるようです。

もともとは、中国で唐代後半に山水画の技法として成立し、宋代には、文人官僚の余技として水墨画の製作が行われていたようです。また、禅宗の普及に伴い、禅宗的な故事や人物画が水墨で制作されるようになり、明代には花卉、果物、野菜、魚などを描く水墨画が普及しました。

日本には鎌倉時代にこの中国で普及した禅とともに伝わり、その多くは禅の思想を表すものでした。

瓢鮎図(ひょうねんず)という、国宝になっている水墨画がありますが、これは日本の初期水墨画を代表する画僧・「如拙」の作品で、題名の「鮎」は魚のアユではなく、ナマズの意です。

室町幕府将軍足利義持の命により、ひょうたんでナマズを押さえるという禅の公案を描いたもので、1415年(応永22年)以前の作で、京都市の退蔵院に所蔵されています。

美術の教科書などにはたいてい出てくるので、絵をみると、あーあれかと分かる人も多いと思いますが、どんな絵かというと、川の中を泳ぐナマズとヒョウタンを持ってそれを捕らえようとする一人の男を表している絵です。男はヒョウタンをしっかり抱え持っているようには見えず、危なっかしい手つきであり、とてもナマズはつかまりそうもありません。

で、この絵がなぜ禅宗的かというと、普通に考えれば、まるくてとっかかりのないヒョウタンなどでナマズを捕まえることはできません。が、これをどう考えるか、です。

もしかしたら、ヒョウタンに水を入れて叩きつければナマズが気絶するかもしれないし、ヒョウタンから出した水が呼び水になって寄って来たナマズを手でつかめるかもしれません。

あるいはその逆で、ナマズを捕まえるどころか、足を滑らせてヒョウタンを落っことし、仰向けに川へひっくり返って周囲の人に笑われるかもしれず、男はそれでヒョウタンでナマズを獲ることなど所詮は無理だと悟る、というのがオチなのかもしれません。

このように、寓意のある表現によって相手にその意味を深く考えさせるというのが、この絵の目的です。

こうしたものを禅宗では「公案」といい、これは禅の修行者が悟りを開くために、師匠から課題として与えられる問題のことです。

そのほとんどがこの絵と同様に無理難題なもので、普通の解釈では解けるわけはないので、「無理会話(むりえわ)」とも呼ばれています。一般にはアニメの一休さんで有名になった「禅問答」として知られているものです。

一見むちゃくちゃな問答のように思えますが、禅宗においては極めて真面目なもので、江戸時代以降の近世では一定の数の公案を解かないと住職になれないなど、僧侶の経験を表す基準として扱われました。

有名な公案としては、江戸中期の禅僧の白隠が創案した隻手音声(せきしゅおんじょう)というのがあり、これは白隠が修行者たちを前にしてこう言ったというものです。

「隻手声あり、その声を聞け」

これは、両手を打ち合わせると音がする。では片手ではどんな音がしたのか、それを報告しろ、というほどのもので、これに対してどう答えるかはなるほど難しそうです。

ほかにも、狗子仏性(くしぶっしょう)というのがあり、これは、一人の僧が趙州(じょうしゅう)という唐の時代の禅の高僧に問いかけたもので、これは、「犬にも仏性があるでしょうか?(狗子に還って仏性有りや無しや)」というものでした。

これに対して、趙州和尚はただ単に、「無」と答えたそうで、これだけだとなーんだ、全然面白くない、ということになります。が、これには別のバージョンがあって、それは「欲しい、惜しい、憎いなどの煩悩がある」と和尚が答えるというものでした。

これを聞いたこの僧が再び趙州和尚に対して、「仏性があるならなぜ犬は畜生の姿のままなのでしょうか?」と聞いたところ、趙州和尚は、「自他ともに仏性があることを知りながら、悪行を為すからだ(他の知って故らに犯すが為なり)」と答えたといいます。

意訳すると、実は仏の心ということをわかっているくせに、欲深いからイヌの姿をしているのだ、といったところでしょうか。

つまり、この「犬に仏性があるかないか」という問には、「無い」という答えと「有る」という二つの答えがあり、これをこの公案を与えられた修行者がどう解釈するか、というところがミソであり、そこをどう捉えるかを試しているわけです。

この公案は、禅問答の典型、東洋思想を代表的するものとして、世界の思想界に知られているそうです。確かにどちらの答えが正しいのかは、自分次第で変わってくる、といわれればなるほどそんな気もしてきます。

このように、禅では必ずしも答えがひとつではなく、いくつかあって、それが何であるかを自分で考えよ、というところがそもそもの思想の根本のようで、言われて見れば確かに物事にはいろんな見方があり、実際に試してみないとわからないことはたくさんあります。

なので、常に見方を変えて考える、というのは確かに大事なことのように思えます。

今見えている墨絵のような桜も、もっと近寄って観察してみるとまた違った美しさが出てくるのかもしれないと思い、ちょっと外へ出て、違うアングルから眺めてみました。

そして撮れたのが下の写真。どうでしょう。角度を違えるとまるで違ったものに見えますよね。

雨の日でしたが、ひょんなことこからまた一つ学んだ今日でした。

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Go for broke!

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先日のこと、テレ東の「なんでも鑑定団」の録画をみていたら、その日の出張鑑定は、山口県の周防大島であり、鑑定が始まる前にこの島の遊び場や名産なども披露していました。

仕事やプライベートでも何度か行ったことがある場所で、あー懐かしい、とついつい見入っておりましたが、考えてみると役場のある島の中心などには行ったことがあるものの、東西に長く伸びたこの島のはじっこまでは一度も行ったことがありません。

ひょろ長いこの島の東端はどこになるんだろうな~と思って調べていたところ、この島には色々と面白い場所があることに気がつきました。

そのひとつは、島の南部にある橘ウインドパークで、これは「スポーツ合宿」を目的として整備された場所で、年間を通じて県内外の学校のスポーツクラブの学生たちが合宿目的でよく訪れる場所のようです。

「ウインドパーク」の名の由来は、施設背後にある嵩山からのハンググライダー、パラグライダーのランディング場としても使用できるためであり、こちらのほうを趣味とする人達もまたここをよく訪れ、いつも賑わっているようです。

また、島の東端には「陸奥記念館」なるものがあって、これは旧日本海軍の戦艦陸奥が1943年(昭和18年)6月8日に、この島の沖合3kmで爆沈したときに引き上げられた遺物を展示する博物館です。

戦艦陸奥は建造時、世界最強の戦艦として41cm主砲を装備し、連合艦隊の旗艦としても活躍しましたが、戦局に寄与することなく、謎の爆発を起こして沈没しましたが、船体の損傷が著しかったために浮上させての修理は行われませんでした。

戦後の1970年から1978年にかけて船体の約75%が引き上げられ、多くの遺物・遺品、遺骨も引き上げられた際、主だったものがこの記念館に寄付されて展示されているようで、周防大島が所属する東和町が事業主体として、この博物館を1994年(平成6年)に完成させました。

この沈没では、乗員1,474人のうち助かったのは353人で、死者のほとんどは溺死でなく爆死だったといいますから、相当大きな爆発が起こったようですが、現在もこの爆沈の原因は謎とされています。

爆発事故直後に査問委員会が編成され、事故原因の調査が行われたそうですが、その検討の結果、自然発火とは考えにくく、直前に「陸奥」で窃盗事件が頻発しており、その容疑者に対する査問が行われる寸前であったことから、人為的な爆発である可能性が高いとされているようです。

1970年(昭和45年)9月13日発行の朝日新聞は四番砲塔内より犯人と推定される遺骨が発見されたと報じており、この説は一般にも知られるようになりました。しかし、真相は未だに明確になっておらず、この謎めいた「陸奥」の最期は、数々のフィクションの題材にもなりました。

これらのフィクション作品が明かした爆発の原因は、スパイの破壊工作や装備していた砲弾の自然発火による暴発などがあり、また上記時人為的爆発の背景としては、乗員のいじめによる自殺や一下士官による放火などが挙げられているようです。

この周防大島の西部にはまた、「日本ハワイ移民資料館」というものがあります。

江戸時代中期以降人口増加が著しかった周防大島では、島の限られた土地では生活ができず、伝統的に大工・石工・船乗りなどになって、島の外へ出稼ぎに出ることが行われていました。

ちょうどこのころ、遠く離れた太平洋のど真ん中にあるハワイでは、ハワイ王国のカアフマヌという女性摂政によって、キリスト教を中心とした欧米文化を取り入れようとする動きが活発化し、彼女に取り入った白人たちが発言力を増すようになりました。

このため、それまではネイティブハワイアンの食料としてのみ栽培されていたサトウキビを白人のための輸出用資源として大規模生産を行おうとする動きが強くなり、1850年に外国人による土地私有が認められるようになると、白人の投資家たちの手によってハワイ各地にサトウキビ農場が設立され、一大産業へと急成長しました。

増加する農場に対し、ハワイ王国内のハワイ人のみでは労働力を確保することが困難となり、国外の労働力を輸入する方策が模索されはじめ、中国より多くの契約労働者がハワイへ来島しました。が、彼等の定着率は悪く、独自に別の商売を始めたりするなどしたことにより彼らに対する風当たりが強くなりました。

この結果、ハワイ政府は中国人移民の数を制限し、他の国から労働力を輸入するようになり、このとき、日本もその対象の一国として交渉が持たれました。

このころの日本は明治維新へと向かう混迷期にありましたが、ハワイ王国の国王、カメハメハ5世は、在日ハワイ領事として横浜に滞在していたユージン・ヴァン・リードに日本人労働者の招致について、日本政府と交渉するよう指示しました。

しかしその後日本側政府が明治政府へと入れ替わり、明治政府はハワイ王国が条約未済国であることを理由に、徳川幕府との交渉内容を全て無効化しました。

ところが、この時すでに移民たちの渡航準備を終えていたヴァン・リードは、1868年(明治元年)、サイオト号で153名の日本人を無許可でホノルルへ送り出し、こうして送られた初の日本人労働者は「元年者」と呼ばれました。

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その後、1885年(明治18年)1月、日布移民条約が正式に結ばれ、ハワイへの移民が公式に許可されるようになり、政府の斡旋した移民は「官約移民」と呼ばれました。

第1回の移民募集には、予定人数の600人をはるかに超えた28,000人以上の応募があり、この中から選ばれた944人を乗せた「シティー・オブ・トーキョー号」は、1885年(明治18年)2月8日、2週間にわたる船旅を終えホノルルに到着しました。

数日間検疫などのため移民局の収容所で過ごした移民たちは、3年間の契約労働に従事するため、ハワイ島16ヶ所、マウイ島6ヶ所、カウアイ島6ヶ所、オアフ島1ヶ所、ラナイ島1ヶ所、計30ヶ所のサトウキビ耕地に分かれていきました。

この第1回のハワイへの移民募集の話は、周防大島でも持ち上がりました。ちょうどこのころは全国的な不況に自然災害が加わり、周防大島でも人々は餓死寸前まで追い込まれていました。

こうした事情を知る山口県は、大島郡からの募集に特に力を入れ、郡役所、村役場も大いに努力を傾け、住民にとっても、ハワイへの移住は耳よりな話でした。その結果第1回の官約移民では大島出身者が全体の約3分の1を占め、官約移民時代を通して約3,900人が周防大島からハワイに渡ることになりました。

のちの官約移民年度別統計によれば、1885年(明治18年)~1894年(明治27年)の10年間で26回に亘り移民を送り出しており、全国で29,084人の移民のうち、うち山口県10,424人で大島郡からは、3,914人もの方がハワイへ渡っています。

都道府県別では、広島県(11,122人)、山口県(10,424人)、熊本県(4,247人)、福岡県(2,180人)、新潟県(514人)の順であり、広島と山口県民が群を抜いています。

私がハワイにいたころにも、こうした日系移民の子孫の多くの方々と知り合いになりましたが、確かに広島や山口の人が多く、広島弁で話ができてしまったのを覚えています。

こうして、かつては、「芋喰い島」と呼ばれていたほど貧しかった大島は、「移民の島」として知られるようになり、現在でも、周防大島の住民は、ハワイに親戚を持つ者が数多くいます。

しかし、官約移民としてハワイに渡った人々の暮らしはけっして楽にはなりませんでした。当初は「3年間で400円稼げる(現レートで800万円)」といったことを謳い文句に盛大に募集が行われましたが、その実態は人身売買に近く、半ば奴隷と同じでした。

労働は過酷で、現場監督(ルナ)の鞭で殴る等の酷使や虐待が行われ、1日10時間の労働で、休みは週1日、給与は月額10ドルから諸経費を差し引かれた金額でした。これは労働者が契約を満了することを義務付けられたハワイの法律、通称、「主人と召使法」に起因するところが大きかったようです。

仕事を中途で辞めることが法的に認められていなかっただけでなく、安い賃金でこき使われた移民たちの生活は塗炭の苦しみを舐めるようなものでした。

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こうした移民たちの苦しみは、1900年のアメリカ合衆国によるハワイ併合まで続きました。この併合により、すべてのハワイ共和国の国民はアメリカ合衆国の国民となり、先住ハワイ人には市民権があたえられました。

しかしまだ東洋人の権利は制限されており、とくに中国人に対しては、アメリカ本土で安い賃金で働いて増え続ける中国人労働者を敵視する風潮が強くなり、「中国人排斥法」が成立したため、この法律はハワイにも適用され、このときから中国人の移住が事実上不可能となりました。

一方、日本移民との既存の労働契約は併合により無効化され、契約移民としてハワイに多数定住していた日本人労働者は、それまでの過酷な契約から解放されました。その結果、多数の日系人はアメリカ本土に渡航し、1908年までに3万を超える人びとが本土へ移住したといわれています。

しかし、これは結果的にアメリカ本土では中国人に次ぐ日本人に対する排斥運動を招く契機となり、1906年にはサンフランシスコで日本人学童隔離問題などが生じるまでになりました。この隔離命令はセオドア・ルーズベルト大統領によって翌1907年に撤回されましたたが、その条件としてハワイ経由での日本人の米本土移民は禁止されるに至りました。

とはいえ、それまでの過程で数多くの日本人がハワイとアメリカ本土に移住し、これがのちのアメリカにおける日系社会を作っていくことになります。ハワイにおいても、その後定住した日本人移民の子孫が増加したことから、全人口における日本人移民と日系人の割合は年々増加を続けました。

その後勃発した第二次世界大戦下では、アメリカ本土の日本人移民と日系アメリカ人がアメリカ政府により強制収容されました。しかし、ハワイにおいては日系人人口があまりにも多く、その全てを収容することが事実上不可能である上、もし日系人を強制収用するとハワイの経済が立ち行かなくなると推測されました。

このことから、アメリカへの帰属心が弱く、しかも影響力が強いと目された一部の日系人しか強制収容の対象となりませんでした。

しかし、アメリカ本土の日系人については、黄色人種に対する人種差別的感情も背景に彼等が反乱を起こすのではないかと不安視され、1942年2月以降に、アメリカ西海岸に居住していた日系人と日本人移民約12万人は、ほとんどの財産を没収された上で全米に散らばる強制収容所に強制収容されました。

これに対し、海を隔てた日本では、政府がこのアメリカでの日系人の強制収容を「白人の横暴の実例」として喧伝し、市民のアメリカへの反抗心を煽る材料としました。これに呼応して「アジアの白人支配からの打倒」を謳う声は日本国内だけでなく、このころ日本が支配していたアジア諸国にも広がる気配でした。

これを知ったアメリカも、この声を無視できなくなり、これに反駁する必要に迫られたとき思いついたのが、日系人による戦闘部隊の編制でした。日本人の血を引いた彼等を正規のアメリカ兵として採用することは、アメリカ国内の各地で収容されてくすぶっている日系人たちを慰撫することにもつながると考えられました。

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こうした中で、「アメリカ人」として高い士気を持った日系人から編成された「第100歩兵大隊」が生まれました。1942年6月に、在ハワイの日系二世の陸軍将兵約1,400名が「ハワイ緊急大隊」に編成され、ウィスコンシン州に送られました。

同地のキャンプ・マッコイで部隊は再編され、軍事訓練においてひときわ優秀な成績をあげ、やがてこの部隊は「第100歩兵大隊(100th infantry battalion)」と命名されるに至ります。

大隊長以下3人の幹部は白人でしたが、その他の士官と兵員は日系人で占められていました。部隊は更に訓練を重ね、1943年1月にはミシシッピ州のキャンプ・シェルビーに移駐しますが、ここではこれ以前から既に3,500人の日系人がアメリカ軍でさまざまな任務に当たっていたといいます。

1943年1月28日、日系人によるさらに大きな部隊の編制が発表され、これは連隊規模のものとなることが決定されました。強制収容所内などにおいて志願兵の募集が始められ、部隊名も「第442連隊」と決まりました。

この連隊は、基本的には歩兵連隊でしたが、歩兵を中核に砲兵大隊、工兵中隊を加えた独立戦闘可能な連隊戦闘団として編成されることとなりました。この連隊には、ハワイからは以前から大学勝利奉仕団で活躍していた者を含む2,600人、アメリカ本土の強制収容所からは800人の日系志願兵が入隊します。

本土の強制収容所からの入隊者が少なかったのは、各強制収容所内における親日派・親米派の対立や境遇が影響していためでしたが、強制収容が行われなかったハワイでは事情が異なり、募集定員1,500人の6倍以上が志願したといい、このため定員がさらに1,000人増やされました。

編成当初、背景事情の違いから本土出身者とハワイ出身者の対立は深刻で、ハワイ出身者は本土出身者を「コトンク(空っぽ頭)」、自分たちを「ブッダヘッド(釈迦の頭、刈上げ髪を揶揄した言葉)」と呼んで互いに反目し合い、これに本土で編成された第100歩兵大隊の兵士も加わってよく暴力沙汰も発生したといいます。

このためアメリカ軍上層部は、双方の対立を解消すべくハワイ出身者に本土の強制収容所を見学させることにしました。そしてアメリカ本土の日系人強制収容所を訪れることになったハワイの日系人たちは、有刺鉄線が張り巡らされ、常に監視員が銃を構えているという、刑務所同然の収容所の現状を目の当たりにして、愕然とします。

いかに本土出身者が辛い状況に置かれているかを知りようになり、これは本土からの同胞の立場に対して深い理解を得ることにつながり、やがて両者の対立は解消されていきました。

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こうして結束を固めた日系人部隊のモットーは“Go for broke!”でした。

これは「当たって砕けろ!」の意味であり、また、「撃ちてし止まん」、「死力を尽くせ」といった意味もありましたが、ハワイアンの訛った英語(ピジン英語という)ではこれは元々ギャンブル用語でした。有り金すべてをつぎ込むことを意味しており、ハワイの移民プランテーションでは賭博が盛んに行われていたことに由来します。

が、日系人としての彼等の心はやはり日本的であり、当たって砕けろ!の精神の上で訓練を重ねていき、やがて戦場へ送ることのできるレベルに達しました。しかし、日系人である彼等をさすがに直接日本人と闘わせるのは酷、ということで、ヨーロッパ戦線への投入が検討されます。

敵国系の市民から編成された部隊ではありますが、図らずもこうして手塩にかけて育てた精鋭部隊をむやみやたらに戦線に投入しては、他の白人部隊の「弾除け」にされるのでは、という危惧をアメリカ軍の上層部も持っていたようです。

このため、彼等はヨーロッパには送られたもののなかなか戦闘には投入されず、1943年8月に北アフリカのオランに到着した第100歩兵大隊も、その配備先は未定のままでした。

しかし、士気の高い彼等は自らの希望によって、9月22日に第34師団第133連隊に編入され、イタリアのサレルノに上陸し、その一週間後にはドイツ国防軍と遭遇し、初の戦死者を出しました。

そして、1944年1月から2月にかけては、ドイツ軍の防衛線「グスタフ・ライン」の攻防において激戦を繰り広げ、5月には、ローマ南方の防衛線「カエサル・ライン」を突破するなど活躍を重ねていきます。

ローマへの進撃の途上で激戦地モンテ・カッシーノでの戦闘にも従事し、このときには多大な犠牲を払いましたが、部隊はベネヴェントで減少した兵力の補充を受け、さらにローマを目指しました。

ところが、軍上層部の意向によりローマを目前にして突然停止命令が出されます。その直後に後続の白人部隊が1944年7月4日に入城し、ここに「ローマ解放」が宣言され、アメリカ軍部隊としてローマを解放するというその栄誉は彼等に奪われてしまいました。

しかも結局、日系人の彼等の部隊はローマに入ることすら許されず、ローマを迂回して北方への進撃を命じられるという仕打ちまで受けました。

ちょうどこのころ、第100歩兵大隊とは別にイタリアに到着していた第442連隊は第1大隊が解体されたため1個大隊欠けていた編成となっていました。このため、6月に第100歩兵大隊を第442連隊に編入し、こうして二つの部隊はベルベデーレ、ピサなどイタリア北部で合同して戦うことになりました。

1944年9月に部隊はフランスへ移動し、第36師団に編入されます。10月にはフランス東部アルザス地方の山岳地帯での戦闘に従事し、ブリュイエールの街を攻略するため、周囲の高地に陣取るドイツ軍と激戦を繰り広げた結果、町の攻略に成功します。

ブリュイエールでは、このときの日系人部隊の活躍を記念し、のちの戦後にこの町の通りのひとつに「第442連隊通り」という名称がつけられたほか、1994年にはかつての442連隊の退役兵たちが招かれて解放50周年記念式典が執り行われています。

その直後の10月24日、アメリカ第34師団141連隊第1大隊、通称「テキサス大隊」がボージュという場所でドイツ軍に包囲されるという事件が起こります。彼らは救出困難とされ、「失われた大隊」と呼ばれ始めていました。

このとき、その救出をルーズベルト大統領から直々に命じられたのが第442連隊戦闘団でした。部隊はブリュイエールの戦いが終わったばかりで疲労していましたが、休養が十分でないまま即日出動します。が、ボージュの森で待ち受けていたドイツ軍と激しい戦闘を繰り広げることとなります。

激戦の結果、部隊はついにテキサス大隊を救出することに成功しましたが、このときこのテキサス大隊の211名を救出するために、戦闘団の216人が戦死し、600人以上が手足を失う等の痛手を負いました。

その救出の直後にこんな逸話が残っています。テキサス大隊を救出した442部隊の面々は彼等を見るやいなや抱き合って喜びましたが、大隊の指揮官であったバーンズ少佐はこのとき、軽い気持ちで「おまえたちはジャップ部隊だったのか」と言ってしまいます。

これを聞いた第442部隊のひとりの少尉が「俺たちはアメリカ陸軍442部隊だ。言い直せ!」と激怒して掴みかかったといい、このときこの少佐は自分の非を認め、相手に謝罪して敬礼し直したと伝えられています。

このほかにも、テキサス大隊救出作戦後、一カ月以上を経た第一次世界大戦休戦記念日(11月11日)に、ある白人少将が第442部隊の戦闘団のひとつの中隊を閲兵した際、この中隊の基本編成人員18名に対して8名しかいないのを見とがめ、「部隊全員を整列させろといったはずだ」と不機嫌に言い放ちました。

これに対して、連隊長代理の白人中佐が「目の前に並ぶ兵が全員です。残りは戦死か入院です。」と答えたといい、さらに連隊の詳しい状況報告を聞いたこの少将はショックの余り、その後連隊の面前で行うスピーチを満足に出来なかったといいます。

このときの報告内容は、第36師団編入時には約2,800名いた第442部隊兵員が1,400名ほどに減少していたことなどだったといい、さしもの少将も半数もの死傷者を失った部隊に対しての自分の横暴な態度を悔いたのでしょう。

湘南海岸B

この戦闘は、後にアメリカ陸軍の十大戦闘に数えられるようになったといい、欧州戦線での戦いを終えた後、第442連隊戦闘団はその活動期間と規模に比してアメリカ陸軍史上でもっとも多くの勲章を受けた部隊となり、歴史に名前を残すことになりました。

この戦闘を終えた後、再編成を行った第442連隊戦闘団はイタリアに移動し、そこで終戦を迎えています。しかし、その隷下のうちの第522野戦砲兵大隊は、フランス戦後はドイツ国内へ侵攻し、ドイツ軍との戦闘のすえにミュンヘン近郊のダッハウ強制収容所の解放を行いました。

しかし日系人部隊が強制収容所を解放した事実は、つい最近の1992年まで公にされることはなかったといい、高い評価を得たとはいえ、戦後までその活躍をあまり広めたくなかったアメリカ軍上層部の意向がここに読み取れます。

しかし第442連隊は、特にその戦後の高い評価から、「パープルハート大隊」とまで呼ばれました。パープルハート章 (Purple Heart) は、アメリカ合衆国の戦傷章で、日本語では名誉負傷章、名誉戦傷章、名誉戦死傷章等とも表記されるものです。

戦闘団は総計で18,000近くの勲章や賞を受けており、中にはアメリカ合衆国で民間人に与えられる最高位の勲章である議会名誉黄金勲章も含まれています。が、これは、戦後すぐに与えられたものではなく、2010年10月5日、オバマ大統領により第100歩兵大隊と第442連隊戦闘団の功績に対し、授与されたものです。

戦後すぐに授与されたもので最高位は、アメリカ軍における最高の栄誉である名誉勲章(議会栄誉章)で、その数は21にものぼり、この中には数々の殊勲をあげ、1945年4月5日に友軍をまもるために、投げ込まれた手榴弾の上に自らの体を投げ出して戦死したサダオ・ムネモリ上等兵のものなどが含まれています。

第2次世界大戦におけるアメリカ軍全体での名誉勲章の授与数は464であり、そのうちの21の名誉勲章が442連隊に与えられているというのはすごいことです。

数字にすればわずか4.5%にすぎませんが、1500万人以上のアメリカ人が兵力として投入された第二次世界大戦において、わずか3000名ほどの部隊がこれだけの戦果をあげたというのは驚くべきことだといえるでしょう。

442連隊が強制収容所の被収容者を含む日系アメリカ人のみによって構成され、ヨーロッパ戦線で大戦時のアメリカ陸軍部隊として最高の殊勲を上げたことに対して、1946年にトルーマン大統領は、「諸君は敵のみならず偏見とも戦い勝利した。」と讃えています。

しかし勇戦もむなしく、戦後も日系人への人種差別に基づく偏見はなかなか変わらなかったようで、部隊の解散後、アメリカの故郷へ復員した兵士たちも、白人住民から「ジャップを許すな」「ジャップおことわり」といった敵視・蔑視に晒され、仕事につくこともできず財産や家も失われたままの状態に置かれることも多かったようです。

しかしやがて1960年代になると、アメリカ国内における人権意識、公民権運動の高まりの中で、日系人はにわかに「模範的マイノリティー」として賞賛されるようになります。

442連隊は1946年にいったん解体されましたが、1947年には予備役部隊として第442連隊が再編制され、ベトナム戦争が起こると、1968年には不足した州兵を補うために州兵団に編入さました。

その後、1969年に解体されましたが、連隊隷下部隊のうち第100歩兵大隊が予備役部隊として現存しており、この。部隊は本部をハワイのフォートシャフターに置き、基地をハワイ、アメリカ領サモア、サイパン、グアムなどに置いています。部隊は統合や再編制を繰り返していますが、現在も主力は日系人だといいます。

現在のアメリカ陸軍では、今でも442連隊戦闘団の歴史を学ぶ授業は必修課程となっているそうで、その名は永遠に語られていくでしょう。

さて、今日の話題のはじまりだった周防大島は実は、戦国期から江戸初期にかけて活躍した村上水軍とも関わりの深い島なのですが、今日はもうすでに長くなっているので、この話しについてはまた別の機会にすることにしましょう。

今日は雨も上がって、上天気になりました。そろそろ桜の満開の場所も増えてきているに違いありません。ネットで調べてちょっと散歩してくることにしましょう。

湘南海岸H

目に青葉……

春の山々
目の前の公園にあるソメイヨシノが咲き始めました。気温もぐんぐんと上がって、昨日は用事があって訪れた麓の街などでは20度を超えていました。

もうすでに、新緑の季節は始まっているようで、庭の木々の多くは新芽をつけ、桜以外の草木もたくさんの蕾を蓄えて、より暖かくなる日を待っています。

改めてこの「新緑」という言葉の意味を辞書で引いてみると、「初夏の頃の木々の若葉のつややかなみどり」と書いてありました。無論、木の種類や場所、地域によって異なりますが、日本では一般的には毎年3月から6月からおきる現象です。

新緑は落葉樹だけではなく、常緑樹にも起こります。ただ、落葉樹のそれより約1ヶ月遅く迎えるようで、従って常緑樹と落葉樹の新緑が出そろう、4月下旬ぐらいがもっとも新緑の旬といえるでしょう。

お茶の葉も常緑樹で、5月あたりに出る新芽が原料であることは誰もが知っています。また、お茶といえば、静岡がその名産地としてもっともよく引き合いに出される栽培地です。が、静岡以西の地方でも、各地でお茶が生産されています。

ところが、このお茶は実は日本が原産ではない、という説もあるようです。日本の自生茶とも言われて来た「ヤマチャ」については、歴史的にも植物学的にも、日本特有の自生茶樹は認められないそうで、日本自生の在来種であるとする説には否定的な研究者が多いといいます。

じゃあどこが原産なのよ、ということなのですが、これは、中国の四川・雲南説(長江及びメコン川上流)、中国東部から東南部にかけてとの説の二つがあるようです。が、いずれにせよ中国が原産地とみなされているようです。

しかし、このお茶の樹からお茶を作って飲む、「喫茶」の風習が始まったのはいつかということになると、その歴史はかなり古いことは明らかですが、はっきりとした時期まで遡ることはできないようです。ただ、原産地の一つといわれる四川地方で最も早く普及し、長江沿いに、茶樹栽培に適した江南地方に広がったと考えられています。

しかし、「茶」という字が成立し全国的に通用するようになったのは唐代になってからであり、それまでは「荼(と)」、「茗(めい)」、「荈(せん)」、「檟(か)」といった文字が当てられていました。

茶がいつ中国から日本に伝わったのかについても明らかではないようです。が、最近の研究によればすでに奈良時代に伝来していた可能性が強いといわれており、古代に伝わった茶は纏茶(てんちゃ)であったと考えられるそうです。纏茶とは、半発酵したお茶のことであり、つまり今のウーロン茶と呼ばれるタイプのお茶です。

平安時代初期に、空海や最澄も持ち帰り栽培したという記録があり、「日本後紀」には、弘仁6年(815年)、嵯峨天皇が近江を行幸されたとき、梵釈寺(滋賀県大津市)の永忠という僧が茶を煎じて献上したと記されているそうです。永忠は唐に35年間もの間留学したあと、805年に帰国しており、この時茶樹の種子あるいは苗を持ち帰ったと見られます。

しかし、遣唐使が廃止されてからは、唐風のしきたりが衰えた結果、茶もすたれていき、およそ200年ほどの間はお茶を飲むという習慣は日本人の間ではありませんでした。

茶の再興は、鎌倉時代初期の僧で、臨済宗の開祖である栄西が1191年に新たに宋(南宋)から種子や苗木を持ち帰ってからです。栄西は、1187年から5年間の2回目の渡宋中、素朴を尊ぶ禅寺での抹茶の飲み方を会得して帰ったと考えられています。

この二番目のブームでは、お茶は当初は薬としての用法が主であったようです。戦場などでは、武士たちが現在の何倍も濃い濃度の抹茶を飲んで眠気を覚ましていたようですが、その後一般的にも栽培が普及すると、庶民にも嗜好品として飲まれるようになっていきました。

が、この当時はまだお茶の作法などという風流なものはなく、後の煎茶などの製法もまだ発達していませんでした。

この時期には、中国に習い、貴族社会の平安時代の遊びとしてお茶の味をききくらべる「闘茶」などが行われることもありました。が、次第に「飲茶勝負」と呼ばれるような賭博性のあるものに変わっていき、これを批判する風潮も出てきたことから次第にこの風習もすたれていきました。

菜の花とアロエ

その後、日本茶道の祖ともいわれる、臨済宗の僧・南浦紹明が中国より茶道具などと共に茶会などの作法を伝え、これが次第に、日本特有の場の華やかさよりも主人と客の精神的交流を重視した独自の「茶の湯」へと発展していきます。

当初は武士など支配階級で行われた茶の湯ですが、江戸時代に入ると庶民にも広がりをみせるようになっていきます。煎茶が広く飲まれるようになったのもこの時期であり、茶の湯は明治時代に茶道と改称され、ついには女性の礼儀作法の嗜みとなるまでに一般化していきました。

茶は江戸時代前期では贅沢品であったため、一般庶民が飲むことは戒められていたようですが、いわゆる「金になる」作物であるため、生産者が増え、次第に普及していきました。しかし、この当時は「金肥」といわれた干鰯や油粕のような高窒素肥料がないと良いお茶ができないため、これを購入するためには大きな負担が強いられました。

しかし、そのために生産地としての農村へは貨幣が流通しやすくなり、これが江戸時代の貨幣経済浸透を促しました。

明治時代になって西洋文明が入ってくるとともに、紅茶が持ち込まれ、従来の緑茶とともに普及していくこととなり、お茶のバリエーションは更に増えていきました。70年代には、このころが人気絶頂期だったのピンク・レディーが減量のためにウーロン茶を飲んでいるとされたことから、半発酵茶の烏龍茶が注目を集めるようになります。

こうして紅茶に加えて烏龍茶という新たなカテゴリーを加え、日本のお茶文化はさらに広がりを見せていきます。やがて缶入り烏龍茶の好評を受けて飲料メーカーは缶・ペットボトル入りの紅茶・日本茶を開発し、ひとつの市場を形成するに至りました。

またその後も定常的に新しい茶製品が開発されています。茶葉を使用しない嗜好性飲料も総じて「茶」と呼ばれるようになり、こういったチャノキ以外の植物の葉や茎、果実、花びらなどを乾燥させたものを煎じて使用するお茶は、中国語では「茶外茶」と呼び、本来の茶を「茶葉茶」と呼んで区別しています。

麦茶、ハトムギ茶、そば茶、杜仲茶、ドクダミ茶などがそれであり、ほかにも熊笹茶、竹茶、ハブ茶、甜茶、コーヒー生豆茶、紫蘇茶、マタタビ茶などなど、数え上げるとキリがないほど多くの茶外茶があります。

一方、古来からあった茶道のほうは、その苦しい礼儀作法が敬遠される傾向が強まり、一般的な嗜みから、趣味人の芸道としての存在に回帰しつつあります。その一方で、茶道を気軽に日常に取り入れる動きが根強く存在し、文化誌、婦人誌では、日本を含めた様々な茶の紹介、正式・略式・個人式の茶会の記事も繰り返し紹介されはじめています。

ここ静岡は、そうした茶文化を支えるお茶の名産地であり、お茶といえば静岡茶といわれるほどのブランド力を持ちます。静岡でもとくに牧之原台地とその周辺地域がその最大の生産地ですが、無論、そのほかの地域でも作られており、これらを合わせた県全体の生産量は国内第一位です。

東海道新幹線や東名高速道路などを利用して東京から名古屋、大阪などに移動する場合、静岡県内のあちこちの茶産地を通過することになり、周囲を茶畑に囲まれた光景に出会うことになりますが、眼前に広がる茶の新緑の色は本当に目に安らぎを与えてくれます。

静寂

ところで、この「緑色」という色はどういうふうに定義されているかをご存知でしょうか。寒色の一つで、黄色と青の中間色、光の三原色の一つであるということぐらいは誰でも知っていますが、その定義となると誰もすぐには答えられないでしょう。

この緑の定義は、1931年に「国際照明委員会」という国際組織が決めたものがあり、この組織が546.1nmの波長の光を緑と規定したのが始まりです。しかし、一般的には500-570nmの波長の色相の色はおおよそ緑であると人の目は認識するようです。

ただ、「緑」と一口にいっても、これに相当する色はかなり広範に及び、「柳色」や「モスグリーン」などと固有の色名が付いている緑色もあり、またより黄色に近い色は黄緑と称され、より青に近い色は青緑として総称されることも多いものです。

さらに、この緑の感じ方には国際的な違いもあるようで、英語のグリーン(green)をはじめ欧米人が緑と称する色は、日本人にとっての緑よりも明るく鮮やかな色である傾向があるそうです。

日本国内では、緑は漢字で碧や翠とも表記されますが、この場合のみどりは、どちらかといえば青みの強い色を表すことが多く、比較的藍緑色に近い色合いです。この翠は本来、カワセミの羽根の色をさす名前です。

また、詩的な、あるいは文語的な表現として、海の深く青い色を緑ということもあり、ときに艶やかな黒髪の色を表すのに、「緑」を使うこともあります。

この「みどり」という語の歴史をみてみると、このことばが登場するのは平安時代になってからだそうです。これは本来「瑞々しさ」を表す意味であったらしく、それが転じて新芽の色を示すようになったといわれています。

英語のグリーンも「草」(grass)や「育つ」(grow)と語源を同じくするといわれ、この点は日本と同じで、世界的にも緑は人が新鮮さのイメージを喚起する色というわけです。
ところで、日本のJIS規格では、グリーンと緑は別々の色ということになっています。「マンセル値」という色を指定する工業規格があり、緑のそれは「2.5G 6.5/10」であるのに対して、グリーンのマンセル値は「2.5G 5.5/10」です。

実際に目でみてみるとその違いがわかるのですが、緑のほうがグリーンよりもやや明るく、これは上で述べたように、欧米人が英語のグリーン(green)とする色が日本人が緑とする色よりも明るく鮮やかな色であるのとは逆になっています。

マンセル値というのは、アメリカの画家、美術教育者であったアルバート・マンセル という人が、色の名前の付け方が曖昧で誤解を招きやすいことから、合理的に表現したいと考え、造り出した指標です。

マンセルは、1898年に研究を始め、1905年にその成果として「色彩の表記“Color Notation”」という本を著し、これを1943年にアメリカ光学会 (OSA) が視感評価実験によって修正したものが、現在のマンセル表色系の基礎となっています。

しかし、その指標に基づいて、上記のグリーンと緑のマンセル値を決めたのは、日本の工業学会であり、その指導をしたのは日本のお役人です。つまりその役人の好みによって、緑のほうをグリーンよりも明るい色にした、ということになるようです。

日本庭園B

ま、どっちでもいいような話ではあるのですが、古代日本語の固有の色名は、アカ・クロ・シロ・アヲの四語のみだったのを考えると、このように単に緑といっても、いろんなものが混在する現在というのは、それだけ文明が発達したという証しでもあります。

しかし、現在のように緑が色名として明確に扱われてこなかった昔は、実際には緑であるものも「青」によって表現されることも多く、例えば、「青々とした葉っぱ」「青野菜」なども実は緑色だったりしました。

信号機の「青信号」も「青」と表現されますが、もともとは緑色です。これはこの制度が最初に導入されたとき、その当時の新聞が「青は進め」と間違って発表してしまったからだそうです。古い信号機では本当に緑色でしたが、最近は「青緑色」に近い色だそうで、これは色弱などの色覚異常がある人を考慮したためです。

このほか、「青二才」ももともとは、果実の熟し具合からの転用で「幼い」「若い」「未熟である」ことを英語では “green”、ポルトガル語でも “verde” と緑色をさす語で表しています。これらの言語が日本に入ってきたとき、これを翻訳する際、「青い」と表現してしまったことに由来します。

このように、緑色と青色を明確に切り分けなかったために、非常にややこしいことになっている国は日本だけではないようで、とくに東アジアの漢字文化圏や、東南アジア、インド、アフリカ、マヤ語など中南米の言語にも同様の傾向があるそうです。

緑色(green)と青色(blue)を合体してグルー(grue)という語を使用する国さえあるそうで、この言語は「グルー言語」ともよばれるそうです。この言語では黒色とも区別されず、いわば「暗い色」として表されることがあり、これは特に赤道直下の言語に多いといいます。

しかし、よくよく考えてみれば、日本でもそうですが、ほかの国においても、昔はこうした色の分け方に物理学的な根拠があったわけではなく、最終的にはそれぞれの文化によって色の命名が決められてきたわけです。

しかし、グルー言語の研究者のなかには、これらの言葉が熱帯をはじめ比較的温暖な地域に多いのは、野外活動により浴びる紫外線が多く、このため網膜を保護するために水晶体が黄変するようになり、加齢とともにその傾向が更に増すことが原因だとする説を唱える人もいるようです。

目のレンズが黄ばむため、青色のような短波長の感度が低下するときには、緑と青の違いがわからなくなるため、というわけです。従って欧米と日本では色の感じ方が違うというのも、こうした気候の違いによるものだと、考えることもできるようです。

欧米では日照量が少ないため、体内で生成されるメラニン色素が少なく、このため青い目や緑の目の人が多くなりますが、この目の光彩の色の加減も緑色の見え方と関係があるようです。

もみじばな

もっともこうした住んでいる地域による違いだけでなく、一般に高齢者などは、白内障などによる視界の黄変化により白と黄色、青と黒、緑と青などの区別が困難となるといいます。従って、私もまた、もう少し歳を重ねると、緑を緑青と感じるようになっていくのかもしれません。

これからの季節、緑色が黄身がかってみえるようになる、というのは哀しい気がしますが、それを今年もまた元気に見て感じることができることは幸せです。これからも毎年みずみずしい新緑のシャワーを浴びることができることに感謝しつつ、齢を重ねていくことにしましょう。

ちなみに、この緑色は目に優しい、良いものだと、認識されていますが、実はこれには医学的な根拠はなく俗説だそうです。

人は無機質な室内よりも、圧倒的に自然の多い窓の外を見たほうがリラックスできます。このため知らず知らずのうちに、そちらのほうを見ることも多くなりますが、単に緊張をほぐすということだけでなく、遠くの景色を見ることは、目にも良いわけです。

その外の自然の中には、当然多くの緑が含まれることから、緑色をみると目に良いといわれるようになったわけですが、実際には別に緑でなければならない理由はなく、目のレンズを鍛えるために遠くを見るならば、その景色は茶色でも青でもいいわけです。

が、それにしても緑色というのは本当にいい色だと思います。私は緑の中でも透明感のある鮮やかな緑色のエメラルドグリーンが大好きです。

そのエメラルドグリーン色をした、山口の長門の海岸へ今年は久々に行ってみたい気がするのですが、実現するでしょうか。

ここ伊豆でも、南伊豆ではエメラルドグリーンの海があちこちにあるようなので、もし山口に帰れなければ、ここへ行ってみたいと思います。

さて、みなさんのお好きな緑は何緑でしょうか?

春の森

三田尻のこと

2014-1140274目の前にある公園の河津桜はほぼ満開で、その隣にあるソメイヨシノの蕾もだいぶ膨らんできたようです。

東京都心の開花予想はこの週中くらいのようですから、だとすると、この高台の開花も来週ぐらいでしょうか。

去年、御殿場にある高原リゾート、 時之栖に行ったときに、通りすがりの方に園内のスタッフが説明していましたが、昨年はウソという鳥が大量に発生して、ここの蕾を食べてしまったとかで、そのせいで例年よりも少し桜がしょぼかったようです。

我が家の目の前にあるこのソメイヨシノもまた昨年はあまり花をつけませんでしたが、もしかしたら伊豆全体で去年はこれと同じような状態が起こっていたのかもしれません。

調べてみると、このウソという鳥は、漢字では「鷽」と書くようです。その和名の由来は口笛を意味する古語「うそ」から来ており、「フィー、フィー」または「ヒーホー」と口笛のような鳴き声を発することから名付けられたそうです。

細く、悲しげな調子を帯びた鳴き声は古くから愛され、江戸時代には「弾琴鳥」や「うそひめ」と呼ばれることもあったようで、この「弾琴」は、囀る時に、左右の脚を交互に持ち上げることからきているそうです。

ヨーロッパからアジアの北部、つまり中国などに広く分布しており、冬になると北方に生息していた個体が「冬鳥」として日本などに飛来し、秋から春にかけて滞在します。従って、大陸からやってきたという点ではPM2.5と同であり、やっかいもの、という印象です。

春にやってきては、木の実や芽を食べますが、このころちょうど蕾がいっぱいつく、サクラ、ウメ、モモなどの蕾だけでなく、花までむしゃむしゃと食べてしまします。

全長は15~16 cmほどで、体はスズメよりやや大きく、頭の上と尾、翼の大部分は黒色、背中は灰青色。くちばしは太く短く黒い。雄の頬、喉は淡桃色をしています。雌にはこの淡桃色の部分はないため、雄は照鷽(てりうそ)、雌は雨鷽(あめうそ)と呼ばれるそうです。

このようにその姿はみやびなのですが、上述のとおり春先に公園のソメイヨシノや果樹園のウメやモモの蕾を摘み取ってしまうため、公園管理者や果樹農家から害鳥扱いされることも多いようです。

しかし、繁殖期に昆虫のガの幼虫やクモなどを食べ、材木に付く虫を食べる益鳥でもあり、「鷽」という字が学の旧字「學」に似ていることから、太宰府天満宮や亀戸天神社では「天神様の使い」とされ、鷽を模した木彫りの人形「木鷽」が土産の定番となっています。

この木鷽を使った「鷽替え神事」も菅原道真を祀った大きな神社の定番です。鷽(ウソ)が嘘(うそ)に通じることから、前年にあった災厄・凶事などを嘘とし、本年は吉となることを祈念して行われる神事で、太宰府天満宮、亀戸天神社、大阪天満宮、道明寺天満宮などが有名です。

木彫りの鷽の木像である木うそを「替えましょ、替えましょ」の掛け声とともに交換しあうそうで、亀戸天神社では前年神社から受けた削り掛けの木うそを新しいものと交換します。多くの神社では正月に行われ、太宰府天満宮では1月7日の酉の刻、亀戸天神社では1月24日、25日に行われます。

この天満宮は、言うまでもなく、菅原道真を祀った神社です。政治的不遇を被った道真の怒りを静めるために神格化し祀られるようになった御霊信仰の代表的事例であり、道真を「天神」として祀る信仰を天神信仰といいます。

道真が亡くなった後、平安京で雷などの天変が相次ぎ、清涼殿への落雷で大納言の藤原清貫が亡くなったことから、道真は雷の神である天神(火雷天神)と同一視されるようになりました。

「天満」の名は、道真が死後に送られた神号の「天満(そらみつ)大自在天神」から来たといわれ、「道真の怨霊が雷神となり、それが天に満ちた」ことがその由来です。道真が優れた学者であったことから天神は「学問の神様」ともされ、多くの受験生が合格祈願に詣でます。

道真が梅を愛し、庭の梅の木に「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」と和歌を詠み、その梅が大宰府に移動したという飛梅伝説ができたことから、梅を象徴として神紋に梅鉢紋などが多く使用されています。

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各地の天満宮のうち、特に道真と関係が深かった福岡の太宰府と京都の北野の二つがその二大双璧です。北野天満宮は道真が好んだという右近の馬場に朝廷が道真の怨霊を鎮めるために造営され、太宰府天満宮は道真の墓所・廟に造営されたものであり、この両社が信仰の中心的役割を果たしています。

この二つに加え、大阪府の北区にある大阪天満宮、もしくは山口県防府の防府天満宮などを加えて日本三大天神と呼ばれます。

この防府天満宮には、私が子供だったころによく遊びに行きました。道真が亡くなった翌年である延喜2年(904年)に創建され、神社では「日本最初に創建された天神様」であることを誇っているようです。

なぜ、防府なのか、ですが、これは道真が宮中での権力争いで失墜し、九州の大宰府に流されていく道筋での宿泊地の一つが防府とされているためです。

防府市は、この天満宮を中心に栄えてきた都市であり、市外からの来訪者も多く、正月の3が日には約30万人の人出を記録したこともあります。有名な祭りとしては2月の牛替神事と11月の御神幸祭が挙げられます。

この御神幸祭は別名裸坊祭(はだかぼうまつり)ともいい、御網代(おあじろ)という巨大な荷車を白装束の氏子たちが引っ張って、行きは表参道の大階段を下り、帰りは表参道の階段を上っていくという勇壮なものです。

が、御網代の重さは1トンほどもあり、この神社の階段はかなり急なので危険なことこの上なく、毎年怪我人が絶えません。また牛替神事で使われる牛車もかなり大きなもので、天神様の乗られるこのきらびやかな牛車を引く牛を取り替える、という神事です。

その他、8月3日から5日までは、道真の生誕を祝う御誕辰祭が行われ、夜には1000本あまりの蝋燭に火を灯した万灯祭献灯で表参道が飾られるほか、最終日には防府天満宮夏祭り大花火大会も行われます。

この防府天満宮は、春には太宰府天満宮などと同様、梅の花が咲き誇り、境内中が本当に良い香りにつつまれます。私は、子供のころにここによくいき、境内脇の茶店でお団子をほおばりながら、梅見をするのが大好きでした。

境内の西側には、春風楼と名付けられた楼閣式の参籠所があります。当初は、長州藩第10代藩主の毛利斉熙が、文政5年(1822年)から五重塔の建立に着手しましたが、天保2年(1831年)に不慮の支障によって工事は中断、幕末の動乱などが妨げとなって五重塔は完成しませんでした。

しかし、明治になって、当時着工されていた組物を使って建築が続けられ、明治6年(1873年)に塔ではなく楼閣として完成しました。この春風楼からは防府市街地が一望でき、風向きによっては潮風がここまで上がってきて、この防府という町が海沿い近くに造られた町であることを感じさせてくれます。

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その歴史は古く、飛鳥時代に、聖徳太子の弟の来目皇子が亡くなり、「周防娑婆で殯(もがり)を行った」。との記事が「日本書紀」に見られます。奈良時代には、周防国の国府や国分寺が設置され、以来、周防の国の中心都市として発展することになります。

その昔は、「三田尻」と呼ばれていました。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの後、毛利氏は、その所領の内、本拠であった安芸国を取り上げられ、新たな居城を築く必要に迫られました。この時に毛利氏当主・毛利輝元は、周防国山口・周防国三田尻・長門国萩の三都市に城を築くべく、徳川家康に許可を求めした。

しかし、徳川家康は毛利氏封じ込めの意図もあり、大内氏以来の周防国の中心であった山口、瀬戸内海に面した天然の良港であった三田尻への築城を認めず、萩城の築城だけを許可し、結果、毛利氏は山陰に押し込められることになりました。

しかし、三田尻は天然の良港であったため、戦国時代に瀬戸内海で活躍した毛利水軍、村上水軍が「御船手組」に組織改編されて、元の本拠地であった下松よりこの三田尻に移り住むようになりました。

御船手組の根拠地となったことで、船を格納し海城の性格を持つ「御船倉」の建造や町割りなど、三田尻の整備が進められましたが、この当時の御船手組が居住した「警固町」や、水夫や船大工が居住した「新丁方」といった当時の地名は現在も残っています。

江戸時代初期には、海路で参勤交代へ向かう出発地となり、1654年(承応3年)に毛利綱広が日本海側の萩と瀬戸内海を結ぶ道路である「萩往還」を造った際にも、「三田尻御茶屋」が建設されるなど、大いに栄えました。茶屋と呼んでいましたが、これは幕府をたぶかるためであり、天守などはないものの、事実上はお城に近い建築物でした。

その後、参勤交代は幕府の命によって海路から陸路に変更されてしまったため、三田尻の役割は限定的なものとなってしまいましたが、それでも長州藩7代藩主毛利重就は、隠居後にこの三田尻御茶屋に住むなど、引き続きこの町は毛利版の要衝として重視されました。

江戸時代末期にもその重要性は変わらず、坂本龍馬が土佐藩を脱藩して、下関に向かう際には盟友の沢村惣之丞と三田尻に立ち寄っています。また、幕府に対抗すべく、御船倉も海軍局と名前を変え、欧米より伝わった近代航海術の教練や造船技術の教育も行われるようになりました。

薩摩藩・会津藩などの公武合体派が画策したクーデターによって、長州が支援していた三条実美ら七人の公家たちが京都から追放された、いわゆる「七卿落ち」の際には、三田尻御茶屋はその滞在所として使用されました。

このとき三条らは三田尻御茶屋の大観楼棟に約2ヶ月滞在して、その時に敬親や高杉晋作らと面会しています。さらに、敷地の北側に招賢閣が建てられ、三条らの会議場所となりまし。招賢閣には幕末の志士達が足繁く立ち寄りましたが、翌1864年(元治元年)の禁門の変の後には廃止され、さらに明治維新後に解体されました。

一方で、三田尻御茶屋そのものは明治時代以降も毛利家の別邸として使用され続け、1916年(大正5年)に、公爵毛利家の新たな本邸が防府市多々良に完成しこれを多々良邸と呼ぶのに対して、三田尻茶屋は三田尻邸とも呼ばれるようになりました。

1939年(昭和14年)に、毛利家から防府市に寄付され、その改築で防府の産業振興に尽力した7代藩主毛利重就の法名から「英雲荘」と名付けられるようになります。

太平洋戦争終結後は、進駐軍将兵らの集会所となり、大観楼棟1階をダンスホールとするため、畳を取り外して絨毯敷きにするなどの大改築が行われました。その後、市の公民館などとして使われてきましたが、1989年(平成元年)9月3日には、萩往還関連遺跡三田尻御茶屋旧構内として、国の史跡に指定されました。

そして、1996年(平成8年)に修復保存作業が始まり、各棟を往年の姿に復元し、2011年(平成23年)9月より一般に公開されています。

防府天満宮といい、この英雲閣といい、町の名前があまり知られていないのにも関わらず、意外と見どころの多いこの防府ですが、三田尻が防府と改名されたのは、1902年の佐波村と三田尻村との対等合併のときからです。その後、中関町・華城村・牟礼村などの周辺の町村を合併し、現在の防府市となったのは1936年(昭和11年)のこと。

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その後は、水資源の豊富な近隣の塩田跡に工場群が進出するのにあわせ、工場生産品を輸出する港湾として設備の拡充が続けられ、特に、自動車メーカーのマツダが主力工場の一つを防府市に設置したことから町は大きく発展していきました。

旧三田尻港は、三田尻中関港と改名されて重要港湾に指定され、防府はマツダの城下町として、また自動車の輸出港の街として発展を続けています。

このマツダは、その昔は非常に業績不振で、一時はアメリカのフォードの参加に入りましたが、2007年の世界金融危機により業績が悪化したフォードは、2008年11月に保有していたマツダ株式の大半を資金調達のために売却しました。

さらに2010年には追加売却が行われたことでマツダは会計上フォードの関連会社ではなくなり、実質的にフォードグループから独立しました。その後は、2011年のSKYACTIV TECHNOLOGY導入以降、世界的に「売り方革新」と呼ばれる販売改革を進めており、これがなかなか好調のようです。

このSKYACTIVというのをマツダが最近テレビコマーシャルで盛んに宣伝していますが、これは特定の一つの技術ではなく、一連の複数の技術により車の燃費をアップさせる技術のようです。

従来の自動車開発ではエンジン、トランスミッション、プラットフォームといった主要なコンポーネントの設計時期が異なるため、個々の理想的な構造・設計を純粋に追求することが困難でした。が、この技術の導入によって、自動車を構成する要素技術を包括的かつ同時に刷新することで車両全体の最適化が図れるようになりました。

マツダは、スカイアクティブ・テクノロジーを採用した商品は製作誤差による性能の個体差を極小化することで、カタログ通りのスペックを全数保証するポリシーを貫いており、こうした取り組みは、ユーザーにも高く評価されており、これが最近のマツダが好調な理由のようです。

私は広島育ちで、当然のことのように広島カープのファンなのですが、このカープのメインスポンサーであるマツダの車には実は一度も乗ったことがありません(レンタカーは別ですが)。

その理由はとくにないのですが、一昔前のマツダ車というと、妙にペラペラな印象があり、内装もいまひとつパッとしないもので、その上に業績悪化でフォード傘下に入ってしまってからは、「優秀な国産車」を製造するメーカーとしての認識が薄れていったことなどがあげられるでしょうか。

が、最近のマツダ車をみていると、デザインもよく、技術力も安定していきているようなので、次にクルマを買い変えるときにはひとつ、検討してみようかと思ったりもしています。

さて、今日はのらりくらりと、思いつくまま書いてきましたが、外を見ると今日も富士山がくっきりと見える上天気で、このままブログを書いているのはもったいない気がしてきたので、ここいらでやめにしたいと思います。

この天気もしばらくは続きそうです。そろそろ桜をどこに見にいくかも決めなければなりません。みなさんはいかがでしょう。もう今年の花見はどこにするか、お決めになったでしょうか?

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