しばらく仕事が忙しく、めずらしくブログの間が空いてしまいました。
この間、桜の開花がかなり進んだようで、山の上の我が家の周辺でも河津桜がほぼ満開です。もうそんな季節になったかと改めて思う次第ですが、では、今年になって何があったかなと思い返してみると、ほとんど何も思い出しません。
それでも、今年は2月にオリンピックがあり、その観戦で明け暮れたことは思い出したのですが、では1月に何があったかな~と思い返してみると何も出てこず、あわててかつてのブログを読み返してみると、あー、そうだったと思いだしたのが、月末に行ったプチ旅行でした。
姪の結婚式があり、二泊三日の短い日程で広島へ出かけたのですが、そのことを皮切りに、その旅行の準備で忙しかったことや、直前に母の入院先が手術をした病院から別のリハビリ専門の病院へ移ったことなど、芋づる式に思い出しました。
この広島では、広島駅近くの京橋川のほとりにあるビジネスホテルに宿泊したのですが、ここから市内の中心部である八丁堀までは歩いても十数分と近く、また、20分ほども歩けば、世界遺産の原爆ドームのある平和記念公園までも行けてしまいます。
高校時代までこの地で過ごした私にとっては、この平和記念公園は思い出がいっぱい詰まった場所なのですが、この旅行でもそうした昔のことが懐かしくなり、姪の結婚式がある日曜日の朝、早起きして、ここまで散歩に行ってきました。
お天気も良く、ちょうど原爆ドームに到着したころには、朝日もかなり高く昇り、オレンジ色の光を浴びたドームは妙に神々しく思え、原爆投下という悲惨な出来事を象徴する建物であることを忘れてしまうほどで、思わず見入ってしまいました。
場所としては、原子爆弾投下の目標となった相生橋の東詰にあたり、南には元安川を挟んで広島平和記念公園が広がっています。北は相生通りを挟んで広島商工会議所ビル、旧広島市民球場跡地と向き合う、といった位置関係で、東側約200メートルの位置には、爆心地とされ、現在も開業している島外科病院があります。
元は広島県物産陳列館として開館し、原爆投下当時は広島県産業奨励館と呼ばれていました。
その建築の経緯ですが、これは広島が明治時代には、「軍都」と呼ばれるほど大規模な軍隊を置いていたことと関係があります。
日清戦争時代には一時的ではありますが、大本営がおかれたこともあり、これを契機として、町としても急速に発展していきました。このため、その経済規模の拡大とともに、広島県産の製品の販路開拓とうことが声高に叫ばれるようになり、その拠点として計画されたのが「広島県物産陳列館」でした。
1910年(明治43年)に広島県会で建設が決定され、5年後の1915年(大正4年)に竣工しました。ドームの一番高いところまでの高さは約25mもあり、ネオ・バロック的な骨格にドイツ・オーストリア様式の細部装飾を持つ建物であり、建築の段階から大勢の市民が見物に来るほど耳目を集める建築物でした。
完成後は数々の物産展が開かれ、1921年に広島県立商品陳列所と改称した後も、第4回全国菓子飴大品評会の会場になるなど、中国地方における経済の中心都市である広島のシンボル的な存在となっていきました。
1933年には更に、「広島県産業奨励館」という名称に改称され、この頃には盛んに美術展が開催され、広島の文化拠点としても大きく貢献するようになりました。しかし、戦争が長引く中、1944年3月にはその業務を停止し、内務省の土木事務所や県地方木材会社の事務所として使われるなど、行政機関・統制組合の事務所として使用されるようになります。
1945年8月6日午前8時15分17秒、アメリカ軍のB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」が、建物の西隣に位置する相生橋を投下目標として原子爆弾を投下しました。投下43秒後、爆弾は建物の東150メートル・上空約600メートルの地点(現島外科内科付近)で炸裂します。
原爆炸裂後、建物は0.2秒で通常の日光による照射エネルギーの数千倍という熱線に包まれ、地表温度は3,000℃に達しました。0.8秒後には前面に衝撃波を伴う秒速440メートル以上の爆風が襲い、産業奨励館は350万パスカルという爆風圧(1平方メートルあたりの加重35トン)にさらされました。
このため建物は原爆炸裂後1秒以内に3階建ての本体部分がほぼ全壊しましたが、中央のドーム部分だけは全壊を免れ、なんとか残存できました。しかし、しばらくはまだ窓枠などが炎上せずに残っていたものの、やがて可燃物に火がつき建物は全焼して、ついに煉瓦や鉄骨などを残すだけとなりました。
ドーム部分が全壊しなかった理由としては、衝撃波を受けた方向がほぼ直上からであったこと、窓が多かったことにより、爆風が窓から吹き抜け、ドーム内部の空気圧が外気より高くならない条件が整ったことなどが理由としてあげられています。
また、ドーム部分だけは建物本体部分と異なり、屋根の構成材が銅板であったことや、銅は鉄に比べて融点が低いため、爆風到達前の熱線により屋根が融解し、爆風が通過しやすくなったことも、その生き残りに寄与したようです。
このとき、広島市内は文字通りの焼け野原となりましたが、とくに爆心地付近での残存建築は少なく、この焼け残ったドーム部分は、爆心地付近では最も背の高い被爆建造物となりました。
原爆投下時には、この建物内で約30名の内務省職員がいましたが、爆発に伴う大量放射線被曝や熱線・爆風により全員即死したと推定されています。ただ、前夜宿直に当たっていた県地方木材会社の4名のうち1名だけが、原爆投下直前の8時前後に自転車で帰宅していて生存し、原爆投下当日の勤務者の中での唯一の生存者となりました。
その後、このドームを原爆の記憶としてとどめようという市民運動がおき、戦後の復興が進む中で、全半壊した被爆建造物の修復あるいは除去が進められました。
1955年(昭和30年)には「広島平和記念公園」が完成しましたが、この公園は、原爆ドームを起点とし、原爆死没者慰霊碑・広島平和記念資料館とを結ぶ軸を南北軸として設計され、原爆ドームをシンボルとして浮き立たせるものでした(原爆ドームは公園の北端にあたる)。
1995年3月、文部省(当時)は文化財保護法に基づく史跡名勝天然記念物指定基準を改正し、同年6月に原爆ドームを国の史跡に指定し、これをうけて、日本政府は同年9月に原爆ドームを世界遺産に推薦。1996年12月にメキシコのメリダ市で開催された世界遺産委員会会合で、正式に世界遺産としての登録が決まりました。
この原爆ドームを巡っては、その前身である「広島県物産陳列館」の時代に、二人のヨーロッパ人が深くこれに関わっていたことは、有名です。
その一人は、ヤン・レッツェルという、チェコ人であり、この広島県物産陳列館の設計者です。1880年(明治13年)にオーストリア・ハンガリー帝国(現チェコ共和国)に生まれ、高等専門学校で建築を学び、1899年にパルドゥビツェの学校の土木課の助手の職を得ました。
1901年には奨学金を得、プラハの美術専門学校に入学し、チェコの近代建築の重鎮の一人であるヤン・コチェラ教授に師事。1904年に卒業し、プラハに今も現存する数々の建築物の設計を手掛けるようになり、25歳になったとき、エジプト・カイロの設計事務所に勤めはじめました。
その傍ら、ローマ、ミラノ、ヴェネツィアなどの名建築が数多いイタリアの各都市を訪れており、その一年後の1907年(明治40年)に来日。日本では横浜のゲオルグ・デ・ラランデというドイツ人の設計事務所で働くこととなりました。
その翌年に、事務所を主宰していたラランデが本国のドイツへ帰国したのに伴い、これまで勤務していた設計事務所から、ゲオルグの父親で、建築家のオイゲン・デ・ラランデが横浜に設立した新会社に移籍しました。
レッツェルは、東京支店マネージャーとして、当時の四谷区東信濃町にあったこの会社のある洋館に通うようになりますが。この洋館は、現在、府中市にある江戸東京たてもの園に、「デ・ラランデ邸」として、移築復元工事中だそうです。
しかし、ここでの勤めは長続きせず、1910年には友人ととともに独立し、自分の会社を設立。事務所を横浜と東京に置き、日本の政府筋や学校関係から15件以上の建物の設計を受注するようになり、広島県物産陳列館の設計もこのときに行ったようです。
その後も日本での事業は順調に推移していたようですが、1915年には第一次世界大戦およびその後の不景気のため、事務所を閉鎖しチェコスロバキアへ帰国。これでいったん日本との絆は絶たれたかのように見えましたが、1919年に、今度はチェコスロバキアの在日大使館の商務官に任命され、その翌年に再来日しました。
レッツェルは母国で、同じチェコの女性と結婚していましたが、この再度の来日の時には彼女も同伴していました。ところが、二人の間には子供ができなかったため、このとき日本人の5歳の女児を養子に迎えました。
本国の外交官として再来日したレッツェルの暮らしは順調かに見えましたが、1923年9月1日に関東大震災が勃発し、一家も被災してレッツェルは全財産を失います。かつて自らが設計した多くの建物も被災し、その多くが失われたことを目にして彼は失意のどん底に沈み、体調を崩したため、同年11月に療養のために一人帰国します。
しかし、本国でも体調は持ち直すことなく、そのまま入院生活に入り、2年後の1923年にプラハで死去。45歳でした。帰国後は、母国を捨てて日本へ行ったということで家族友人から見放されていたといい、遺体は公共墓地へ埋葬されるなど、寂しい末路だったようです。
レッツェルの建築家としての活動の大半は日本におけるものであり、チェコ本国では、彼の本国での経歴の短さから、ほとんど知られていないようです。
ところが、近年、世界遺産となった原爆ドームとの関連からようやく評価されるようになり、かつて彼が本国で設計した当時の作品が探されるようになったといい、2009年にもモラビア地方の町ブルノの墓地で神社の鳥居を模した墓石が見つかり、彼の初期のデザインであると判明したそうです。
レッツェルが設計を手がけた日本国内の建造物は、関東大震災のためにほとんど残っておらず、廃墟として姿を止めている広島県物産陳列館(原爆ドーム)がその中でも一番大きいもののようです。このほかには、こちらも関東大震災で倒壊した聖心女子学院校舎(1909年竣工)の正門のみが現存しています。
さて、原子爆弾の投下によって廃墟と化し、原爆ドームとなった産業奨励館と深い関わりがあったもう一人の外国人とは、カール・ヨーゼフ・ヴィルヘルム・ユーハイムと言うドイツ人でした。
戦前の日本で活躍したドイツ出身の菓子職人、実業家であり、第一次世界大戦中に捕虜として連行された日本に留まり、現在も神戸市にある「株式会社ユーハイム」の前身である喫茶店「JUCHHEIM’S」を開店したことで知られ、日本で初めてバウムクーヘンを作り、マロングラッセを販売した人物としても知られています
その生涯をすべて語ると長くなりそうなので、少々割愛しながら話を進めるとしましょう。
1886年12月25日、ドイツで10人兄妹の末っ子として生まれ、国民学校卒業後に菓子店で修行をしつつ、夜間職業学校に通って菓子の製造技術学んだ彼はめきめきと菓子職人としての腕をあげました。
22歳のとき、菓子店協会の会長に勧められてドイツの租借地である中国の青島市で同じドイツ人が経営する喫茶店に就職します。まもなく、その店主が帰国しなくてはならない理由ができたことから、彼はその喫茶店を譲り受け、これを自分の名前「ユーハイム」の名で営業するようになりました。
この当時から、ユーハイムの作るバウムクーヘンは本場ドイツの味そのものだと外国人を中心に評判だったといい、店は大繁盛。しかし、28歳と年頃であった彼は、数年後結婚相手を探すためにいったん帰郷し、1914年春にエリーゼ・アーレンドルフと婚約。同年7月に青島市に戻ってきて彼女と式を挙げました。
ところが、挙式直後にドイツはフランスとロシアに宣戦布告し、第一次世界大戦に参戦することとなり、青島市はドイツに宣戦布告した日本軍の攻撃を受け、陥落。ユーハイムは非戦闘員であったにもかかわらず、日本軍の捕虜となり、大阪の西区にあった大阪俘虜収容所に収監されてしまいます。
このとき妻のエリーゼは青島市に残され、ユーハイムが連行されてすぐに長男カールフランツを出産していましたが、彼はこの第一子が生まれたことも知らず、妻の安否を心配しつつ悶々とした日々をここで送りました。
一年半ほどをここで過ごしたのち、ユーハイムは1917年2月、「インフルエンザの予防」という理由で、今度は他の捕虜とともに、広島県安芸郡仁保島村、すなわち現在の広島市の南側に浮かぶ、「似島(にのしま)」にある「似島検疫所」に移送されます。
この似島検疫所というのは、日清戦争から帰還した兵士に対して伝染病の検疫・消毒を行うため、国内3ヵ所の検疫所の一つとして、1895年(明治28年)に設置されたもので、開設時の名称は「臨時陸軍似島検疫所」でした。
似島に検疫所が置かれたのは、当時、東京起点の鉄道網の西端が広島であり、出征兵士・輸送物資の玄関口となっていた宇品港(現・広島港)のすぐ沖合に似島が位置していたからです。
開所直後には北里柴三郎博士が新しい機器(蒸気式消毒罐)の実験のために訪れており、その後は膨大な捕虜の検疫を成功させ、この当時の児玉源太郎陸軍次官から高く評価されました。
日露戦争時の1905年(明治38年)には検疫所内にロシア人捕虜を収容する「露西亜俘虜収容所」が置かれたことがありましたが、この跡地に大阪からユーハイムを含むドイツ人捕虜545名が大阪から移送されてきたのです。
この似島検疫所内でユーハイムは、日本で初めてとなるバウムクーヘンを焼き上げており、これがバームクーヘンの日本における発祥地は広島であるといわれるゆえんです。
また、同じく捕虜として収容されたソーセージ職人のヘルマン・ウォルシュケもここで日本初といわれるソーセージを製造しており、解放後も日本に残ってソーセージ文化を広めました。彼は、1934年(昭和9年)阪神甲子園球場で行われた日米野球で日本で初めてホットドッグを販売しており、これも日本初のホットドックであるといわれています。
1919年(大正8年)には、このドイツ人捕虜チームと広島高等師範学校チームや広島県師範学校チームとでサッカーの試合が行われ、いずれも大差でドイツ人捕虜チームが勝利しており、これらドイツ人捕虜チームとの試合は、日本初のサッカー国際試合とも言われています。
このドイツ人選手達の技量はかなり高かったようで、その選手の一人は、ドイツ帰国後にサッカークラブを創設しており、このクラブからは、後にサッカーの元ドイツ代表、ギド・ブッフバルトなど数多くのプロ選手を排出しています。
また、このとき広島高師の主将を務めた田中敬孝は捕虜のサッカー技術の高さに驚き、試合後、軍の許可を得て捕虜からサッカーを教わっており、田中は翌年から広島一中の監督として指導しています。このため、似島はその後ある時期には「サッカーの島」と呼ばれるほどサッカーがさかんになり、ここからは多くのサッカー選手を輩出しています。
ちなみに、この広島一中というのは私の母校である、現在の広島県立国泰寺高校の前身であり、この当時もそうですが、現在も県下では屈指のサッカー強豪校として知られています。ここで二年間を共にした私のクラスメートの中の一人も、この似島出身で当時サッカー部に所属しており、50を過ぎた今でもなお、趣味としてサッカーを続けています。
1945年(昭和20年)8月6日、広島市への原子爆弾投下の際には、この似島検疫所が被爆者救護のために重要な役割を果たしました。爆心地からは海を隔てて約9キロメートルのところに位置し、直接の被害は爆風により窓ガラスが割れた程度であった一方、広島市内の救護施設はまひ状態に陥ったため、船で続々と負傷者が搬入され応急処置を受けました。
短時間に多数の患者が殺到し、また重篤な罹災者も多いわりに薬品類や医療器具・人的資源が絶対的に不足していたために、検疫所で息を引き取る者も多く、運び込まれた時点で既に死亡しているケースも数多かったといいます。
検疫所での処置数は被爆後20日間で10,000人といわれ。遺体は最初は焼かれましたが、処理が間に合わないためにその後は単純埋葬とされました。身元不明の遺体も多く、一人ずつ墓を建てられないということで、後に千人塚が建立されています。
そんな似島検疫所に収監されていたユーハイムですが、彼が創ったバームクーヘンは、検疫所を運営する日本軍人の中でも有名となり、1919年3月4日には、似島検疫所のドイツ人捕虜が作った作品を広島県が主催して展示即売会を開催することになりました。
ユーハイムはバウムクーヘンだけでなく、ほかの菓子も作ることになりましたが、良い菓子を作るためには、これを焼き上げるための堅い樫の薪などを必要とし、その入手は難航したといいます。
しかし、苦労の末、ついに母国の味に近いバウムクーヘンを焼くことに成功。広島県物産陳列館(現在の原爆ドーム)で開催された「似島独逸俘虜技術工芸品展覧会」で製造販売を行うに至りました。その後、このバウムクーヘンが、日本で初めて作られたバウムクーヘンとして世に知られるようになります。
ただ、この時ユーハイムが作ったバームクーヘンは、まったくのオリジナルのドイツの味ではなかったそうで、その味は日本人向けにアレンジされていました。
ユーハイムは青島市が日本軍に占領された際の経験から、バターを多く使用した菓子が日本人に受け入れられないことを知っており、このバターを控えることにしたそうで、これが功を奏してユーハイムの作った菓子は好調な売れ行きをみせたといいます。
1918年、ドイツは連合国との間に休戦協定を結び、第一次世界大戦は事実上終戦を迎え、これにより、日本にいたドイツ人捕虜は解放されることになり、解放された者の大半はドイツへの帰国を希望しました。
ユーハイムもまた、無論妻子が待つ青島市に帰るつもりでしたが、当地でコレラが流行しているという報に接して泣く泣くこれを断念し、日本残留を決めます。しかし、その後妻子は無事であることがわかり、のちに青島市から日本に呼び寄せています。
日本に残ることを決めたユーハイムはその後、明治屋の社長、磯野長蔵が銀座に開店した喫茶店「カフェー・ユーロップ」に採用され、製菓部主任の肩書が与えられます。やがて青島から妻子を呼び寄せ、この喫茶店の3階で暮らすことになったユーハイムの作る菓子は高い評価を得るようになっていきました。
最も評価が高かったのはやはりバウムクーヘンで、その他にプラム・ケーキが品評会で外務大臣賞を獲得したこともあったそうです。「カフェー・ユーロップ」の常連客の中には、小説家の里見弴、二代目市川猿之助、有名女優の栗島すみ子などの著名人がいたといいます。
しかし、「カフェー・ユーロップ」は貸店舗であったため、1922年にはその契約期間が終わることとなります。ユーハイム夫妻が今後の身の振り方を考えていた最中、横浜市中区で経営しているレストランを売りたいと申し出たロシア人がおり、これを購入して店の名前を「E・ユーハイム」として再出発を図ります。
Eはエリーゼ(Elise)のEだったそうで、その名を冠した妻のエリーゼは結構なやり手で、近辺に手頃な価格で昼食を提供する店がないことに着目し、ドイツ風の軽食も出すことをユーハイムに提案。このアイディアが当たり、店は大いに繁盛しました。
しかし、こうして苦労して開店した店もまた1923年9月1日、関東大震災によって焼失してしまいます。ユーハイムは家族とともに神戸市垂水区の知人の家に身を寄せ、ここ神戸で再起を図ることにし、当初ホテルに勤務しようと考えていました。
ところがこのとき、ある人が当時の生田区(現在の中央区)三宮町にあった3階建ての洋館に店を構えるよう勧めてくれました。その洋館を視察したユーハイムはこれをとても気に入り、政府の救済基金から借りた3000円を元手にこの洋館の1階に喫茶店「JUCHHEIM’S」を開店しました。
当時神戸には外国人が経営する喫茶店がなく、この店はすぐに多くの外国人客でにぎわうようになり、開店から1年ほど経つと「JUCHHEIM’S」の菓子を仕入れて販売する店も出てくるようになるなど店の経営は順調に推移していきました。
近隣の洋菓子店がユーハイムのバウムクーヘンを模倣した商品を売り出すようになってからも人気が衰えることはなく、ユーハイムはバウムクーヘンのほか、日本で初めてのマロングラッセも販売しました。ここでの常連客にもまた、多くの有名人がおおり、多くの芸能・文化人や政治家、財界人が常に入り浸っていました。
谷崎潤一郎も「JUCHHEIM’S」をひいきにしていたといい、こうした多くの有名人を虜にした理由は、彼の徹底した味へのこだわりだったようです。このころ40歳目前で、働き盛りであったユーハイムは、厳格な職人気質だったそうで、売れ残りのケーキを窯で焼いて捨てるという習慣を持っていたといい、弟子に対してもかなり厳しかったそうです。
衛生面に気を配るよう厳しく指導し、自らも風呂には毎日入り、爪は3日に1度は切り、汚れのついた作業着は着ない、といった具合でした。これ以前に店主をしていた「カフェー・ユーロップ」に勤務していた時期でも、初任給が15円であったところ、風呂代と洗濯代を月に3円ずつを従業員に支給していたという逸話も残っています。
原料についてもこだわり、常に一流店が扱う品を仕入れたといい、国内で品質の良いものが手に入らないと見るやラム酒をジャマイカから、バターをオーストラリアから取り寄せるほど徹底していたそうです。こうして、次々と新たな工場を建てて事業を拡大し、JUCHHEIM’Sはさらに発展していきました。
ところが、1937年夏、51歳になったユーハイムに、妻のエリーゼはその振る舞いに尋常でないものを感じます。そしてユーハイムを精神病院に入院させますがが、ユーハイム自身は自分が病気であるという認識がなく、病院からの脱走を繰り返すなど問題行動を繰り返したため、エリーゼは彼をドイツに帰国させて治療を受けさせることにしました。
数年後ユーハイムは病から回復し日本へ戻ったものの、明るかった性格は一変し、以前のように働くこともできなくなっていました。さらに店のほうも1941年に開戦した太平洋戦争の戦況が悪化するにつれ、物資の不足により菓子を作ろうにも作ることができなくなってきていました。
1944年には店舗の賃貸契約を打ち切り、工場だけを稼働させることにしましたが、1945年6月、空襲により工場は機能しなくなり、ユーハイムは家族とともに六甲山にある六甲山ホテルで静養することになりました。
しかし、終戦前日の8月14日午後6時、ユーハイムはホテルの部屋で椅子に座り、静かに亡くなりました。死の直前まで妻と語り合っていたといい、医師が書いた死亡診断書には、中風による病死と書かれていたそうです。
ユーハイムの死後、その親族(エリーゼと戦死した息子の妻子)はGHQの命令でドイツに強制送還されました。第二次世界大戦中にエリーゼがドイツ婦人会の副会長を務め、かつドイツへ帰国した経験があること、息子のカールフランツがドイツ軍に在籍(のちに戦闘で死亡)したことが問題視されたためです。
ところが終戦から3年経った1948年、かつて「JUCHHEIM’S」に勤務していた日本人の部下3人が同店の復興を目指して任意組合「ユーハイム商店」を設立。1950年には株式会社に改組し、1953年は、ドイツへ去ったエリーゼを呼び戻します。帰国直後から彼女は会長に就任し、1961年には社長に就任。
その後エリーゼは「死ぬまで日本にいる」と宣言し、ユーハイムを切り盛りして大きくしましたが、1971年5月、80歳のとき兵庫県神戸市で大往生を遂げました。兵庫県芦屋市の芦屋市霊園には愛する夫の墓があり、ここに彼女自身も入れられ、二人は今静かにここで眠っています。
ところで、この菓子職人である、ユーハイムと、原爆ドームを設計したレッツェルは、一見何のつながりもなさそうですが、歴史とはまことに皮肉なエピソードを潜ませるもので、実は、この二人は奇妙な縁で結ばれていました。
その縁のひとつは、無論原爆ドームであるのですが、彼等二人は互いに面識はないものの、ユーハイムの妻のエリーゼと、レッツェルの師匠のラランデの妻はそれぞれの夫が亡くなったあと、知り合いになっていた、という事実があるようです。
レッツェルが初来日したときに、横浜で建築事務所を主宰していたゲオルグ・デ・ラランデという人物の建築事務所に勤めていたことは前述しました。
このオルグ・デ・ラランデは、その後朝鮮総督府の仕事のため京城(ソウル)へ出張中に肺炎で倒れ、日本に帰ってから亡くなりました。このラランデの妻は、エディといいましたが、彼が亡くなったことから、彼女もまたその後、子どもを連れて母国のドイツに帰国しました。
ところがその後彼の地で後の外務大臣となる外交官、東郷茂徳と知り合い、かつて日本に居住していたという縁から親しくなり、この東郷と再婚を果たしました。
東郷というと、元帥海軍大将の東郷平八郎を思い浮かべますが、血縁関係はなく、その先祖は朝鮮から渡ってきた陶工だそうです。外務省に入ってからは、欧亜局長や駐ドイツ大使及び駐ソ連大使を歴任し、東條内閣で外務大臣兼拓務大臣として入閣して日米交渉にあたりましたが、日米開戦を回避できませんでした。
鈴木貫太郎内閣で外務大臣兼大東亜大臣として入閣、終戦工作に尽力しましたが、にもかかわらず戦後、開戦時の外相だったがために戦争責任を問われ、A級戦犯として極東国際軍事裁判で禁錮20年の判決を受け、巣鴨拘置所に服役中に病没しています。
この東郷茂徳の妻エディは、その後日本に帰化して「東郷エヂ」と名乗っていたようですが、その彼女が、ユーハイム再興に深くかかわっていたらしい、という事実がその後明らかになっています。
エディが死後に遺した日記には東郷茂徳とユーハイムとの関わりが記されていたそうで、その記述からは、どうやらユーハイムの再興においては、この東郷茂徳とその妻エディが深くかかわっていたらしいことが読み取れるそうです。
また、これを裏付けるように、ユーハイムの妻のエリーゼが1971年に六甲山の麓で他界したときに発見された遺品の中には、東郷茂徳の妻である東郷エヂが遺した日記もあったそうで、合わせて彼女の元夫のゲオルグ・デ・ラランデの記録ノートが発見されたそうです。
このことから、エディとエリーゼは親交があったことがうかがわれ、ラランデの弟子であったレッツェルとユーハイムはここでつながることになるのです。原爆ドームという遺物を介してだけでなく、この二人が間接的とはいえ交わっていたというのは、興味深い話です。
さて、原爆の投下後、広島の復興は、一面の焼け野原にバラックの小屋が軒を連ねる光景から始まりました。その中でドーム状の鉄枠が残る産業奨励館廃墟はよく目立ち、サンフランシスコ講和条約により連合軍の占領が終わる1951年頃にはすでに、市民から「原爆ドーム」と呼ばれるようになっていました。
復興が進む中で、全半壊した被爆建造物の修復あるいは除去が進められましたが、原爆ドームの除去はひとまず留保され、1955年(昭和30年)には丹下健三の設計による「広島平和記念公園」が完成しました。
こうして、原爆ドームはこの公園の中心的存在となり、原子爆弾の惨禍を示すシンボルとして知られるようになりましたが、1960年代に入ると、年月を経て風化が進み、安全上危険であるという意見が起こります。
一部の市民からは「見るたびに原爆投下時の惨事を思い出すので、取り壊してほしい」という根強い意見があり、存廃の議論が活発になりました。
広島市当局は当初、「保存には経済的に負担が掛かる」「貴重な財源は、さしあたっての復興支援や都市基盤整備に重点的にあてるべきである」などの理由で原爆ドーム保存には消極的で、一時は取り壊される可能性が高まっていました。
ところが、この流れを変えたのは地元の女子高校生、「楮山ヒロ子」の日記でした。彼女は1歳のときにこの当時平塚町と呼ばれていた場所(現在は広島市中区)の自宅で被爆し、被爆による放射線障害が原因とみられる急性白血病のため15年後の1960年に16歳で亡くなりました。
「あの痛々しい産業奨励館だけが、いつまでも、おそるべき原爆のことを後世に訴えかけてくれるだろうか」等と書き遺し、この日記を読み感銘を受けた平和運動家の河本一郎や「広島折鶴の会」が中心となって保存を求める運動が始まり、1966年に広島市議会は永久保存することを決議するに至ります。
翌年保存工事が完成し、その後風化を防ぐため定期的に補修工事をうけながら、現在まで保存活動が継続されています。当初は、広島市単体での保存・管理が続けられていましたが、被爆50年にあたる1995年に国の史跡に指定され、翌1996年12月5日には、ユネスコの世界遺産(文化遺産)への登録が決定されました。
原爆ドームの登録審議は、メキシコのメリダ市で開催された世界遺産委員会会合において行われましたが、このとき、アメリカ合衆国は原爆ドームの登録に強く反対し、調査報告書から、「世界で初めて使用された核兵器」との文言を削除させました。
アメリカ国民の中では「原爆使用は日本にポツダム宣言を受け入れさせた事で百万人のアメリカ軍将兵をダウンフォール作戦での戦没から救った」とする原爆投下を肯定的に捉える傾向が強かったためです。また、中国は、「日本の戦争加害を否定する人々に利用されるおそれがある」としてこのとき審議を棄権しています。
原爆ドームは単なる戦争遺跡というだけでなく、核兵器による破壊の悲惨さの象徴・人類全体への警鐘といったメッセージ性のある遺産、犠牲者の墓標という性格を持つため、保存に際しては「可能な限り、破壊された当時の状態を保つ」という特殊な必要性をはらんでいます。このため、世界遺産でありながら、負の遺産とも呼ばれています。
その保存作業は鉄骨による補強と樹脂注入による形状維持・保全が主であり、崩落や落下の危険性のある箇所はその度に取り除かれています。しかし、定期的な補修作業・点検や風化対策にもかかわらず経年による風化も確認されており、他の世界遺産で施されるような一般的な意味での修復や改修・保全とは別種の困難が伴います。
1967年にはかなり大規模な保存工事を実施しましたが、その後、市民の募金と広島市の公費によりと1989年に2度目の大規模な補修工事を実施し、この大補修以降も、3年に1度の割合で健全度調査が行われています。
広島はそれほど地震の多いところではないのですが、先週の14日にも四国や中国、九州にかけて強い地震があり、愛媛県西予市で震度5強、広島でも5弱を記録しており、2001年3月24日の芸予地震でも、広島市中区は震度5弱の揺れに遭遇しました。が、いずれの地震時にも目立った被害はありませんでした。
このように、広島もまたけっして地震とは無縁ではありません。このため、保存工事ではこうした大型地震に対しての耐震性も考慮されているといいます。しかし、耐震強度計算および工事計画はあくまでも理論上の数値に基づいているため、地震の規模や加重のかかり方が想定外の場合、崩落する危険性を常に抱えているといわれます。
2004年以降、この原爆ドームの保存にあたっては、その方針を検討する「平和記念施設のあり方懇談会」が開催されています。
この会では、保存に当たり、1.自然劣化に任せ保存の手を加えない、2.必要な劣化対策(雨水対策や地震対策)を行い現状のまま保存、3.鞘堂・覆屋の設置、4.博物館に移設、などの四つの案が提案されましたが、2006年にこの2番目の「必要な劣化対策を行い現状のまま保存」とする方針が確認されました。
とはいえ、完全な保存のままの維持には限界もあるであろうし、いつの日にか、この原爆ドームの姿が完全に失われることもあるでしょう。私の目の黒いうちにはないかもしれませんが、やがてその姿が崩れ去って無くなるころまでには、世界中の核兵器が根絶されていることを願ってやみません。
さて、今日も長くなりました。この項を書いている途中から無性にバームクーヘンが食べたくなりました。みなさんも、おいしいバームクーヘン、おひとついかがでしょうか。