ああ貞山堀

2014-1090643一昨日の3月11日は、東日本大震災の起こった日でしたが、この震災の日から奇しくも一年後の同じ日、我々二人はこの伊豆に引っ越してきました。

なので、伊豆暮らしも丸々二年ということになるわけで、もうそんなになるか……と、感慨深いものがあります。

引っ越してきた日が震災が起こった日だったので、とくに引越し祝いという気分にもなれず、荷物の片づけやらなにやらで疲れていたこともあって、その日は段ボール箱の山の片隅に布団を引いて眠りについたような記憶があります。

今も被災地で不自由な生活を送っておられる東北の方々も、まだそんな落ち着かない環境の中で暮らしておられるのかな、と思うと胸が痛みます。

伊豆での生活もそろそろ落ち着いてきた最近、遅ればせながら、そうした震災被災者の方々のために、何ができるだろう、何かしてあげたい、と考え始めている今日このごろです。

実は、この震災が起こる9~10年ほど前は、そのころ勤めていた会社の仕事で、仙台の名取川河口付近をたびたび訪れていたことがあります。

この川の河口左岸に、井戸浦という湿地帯があり、ここは、仙台地方でも屈指といわれるほど自然豊かな場所であり、絶滅危惧の植物や魚類が多数生育・生息し、その背後にあった松林にはオオタカが営巣するなど、ラムサール条約登録地にしてもいいのではないかと思われるくらいの良い場所でした。

残念ながら規模がそれほど大きくなかったので、そうした世界遺産的なモノへの登録の運動は起きませんでしたが、このように自然豊かな場所であることから、その環境を知る地元の人達からは、維持保存を求める声も高かったようです。

ところが、そのすぐ隣の名取川の河口に溜まる砂をうまく海へ流してやるための「導流堤」という施設を新築する計画が持ち上がったことから、この建設による井戸浦への環境影響評価が必要、ということになりました。

その当時、環境調査を専門にしていた私はその調査の責任者に指名され、かくして、その調査のために、この井戸浦に足しげく通うにようになりました。

この調査は、いわゆる「環境アセスメント」と呼ばれるもので、自然環境の保全ために、動物や植物の調査だけでなく、地形や地質、景観およびこの地で行われている野外レクリエーションなどの人為活動への影響まで含めた調査を網羅的に行いますが、調査内容が多岐にわたるため調査そのものだけでも単年度では終わらず、2年ほどかかったかと思います。

その準備やまとめの期間もあり、結局この地とのお付き合いはかなり長くなり、あしかけ4年ほどに及びました。

そのおかげで、仙台市内の事情はもとより、名取川の河口付近の地理地形には、かなり詳しくなり、今回の震災で被害の大きかった河口右岸の閖上地区などにも、調査の傍らよく足を延ばしました。

なので、名取川河口付近のこれらの地区が、後年のあの巨大な津波に飲み込まれる様をテレビで見たいたときには、あぁァあのときお弁当を食べていたあそこが、写真を撮っていたあそこが、オオタカの巣をみつけたあそこが……と、知っている場所が次々と海水に飲み込まれている様子をみて、茫然としたものでした。

今でも震災前のこの地区の美しい自然が脳裏に残っているのですが、震災津波以後のこの地の様子がテレビで映し出されるのを時々みかける限りでは、その当時の面影はほとんど残っていないようです。

実は、この井戸浦のすぐ裏手(陸側)には、貞山堀、という運河があります。江戸時代から明治時代にかけて数次の工事によって作られた複数の堀(運河)が連結して一続きになったもので、最初の堀が仙台藩伊達政宗の命により開削されたため、没後に貞山公と尊称された政宗公にちなんで、のちに貞山堀と呼ばれるようになりました。

この貞山堀もあの津波で埋もれてしまったのだろうか、と心配になり、合わせて井戸浦の様子も知りたくなったので、グーグルマップの衛星写真から、現在の様子を調べてみることにしました。

2014-1030373

すると……井戸浦も貞山堀も、上空からの写真を見る限りでは、健在ではありませんか!

ただ、井戸浦のすぐ裏手に青々と続いていた松林はきれいに姿を消し、貞山堀と仙台市内との間にあった集落の多くは、廃墟のようになっていました。また、航空写真ではよくわからないのですが、緑豊かだったはずのこの一帯は土砂で埋もれているようです。

グーグルマップでは、ストリートビューという機能があり、現場の写真なども見ることができるので、これを閲覧してみたところ、やはり付近一帯はかなりの土砂で埋もれているようでした。

貞山堀も一見健全のようには見えるのですが、堀の左右にあった石垣の護岸などが一部壊れているようであり、ここだけでなく貞山堀のほかの場所もきっと大きなダメージを受けているに違いありません。

この貞山堀は、旧北上川河口から松島湾を経由して阿武隈川河口まで、おおむね海岸線に並行して続いており、仙台湾の海岸線約130kmの内、約半分の約60kmに及ぶ日本最長の運河です。湾沿いに点在している湿地は、全体で日本の重要湿地500の1つに選定されており、井戸浦もそのひとつです。

この堀は仙台藩保有の、喫水が浅く乾舷の低い川船が、河口からそのまま海に乗り出す危険を避け、あるいはそのために荷を積み替える手間を省いて川船による物資輸送を円滑に行うために建設されました。

「貞山運河」と一括して呼ばれてはいますが、実際は、次のように3つの運河系から構成されています。

北上運河(一番北に位置する):13.9km。石井閘門(旧北上川との接点)から石巻湾の最南部に位置する鳴瀬川河口まで。明治時代開削。
東名運河:3.6km。鳴瀬川河口から松島湾まで。明治時代に開削。
貞山運河(一番南):31.5km。松島湾南西部に位置する塩釜港から、ずっと南下して阿武隈川河口まで。一番古く、江戸時代に開削。

この貞山堀が位置する、いわゆる「仙台湾」というのは、波の静かな石巻湾に端を発し、その西南部の松島湾と、さらにその南側の仙台港から井戸浦のある名取川河口を経由してさらに南下し、阿武隈川河口に至るまでの区間(これは一般的には「狭義の仙台湾」とされる)に分かれています。

江戸時代に最初に掘削されたのは、この波の荒い「狭義の仙台湾」の部分の海岸線の背後部分であり、井戸浦裏にある貞山堀は、上の三区分の三番目にあたり、一番古いもの、ということになります。

2014-1090652

その後、明治時代になってから、仙台北の石巻湾に注ぐ鳴瀬川河口に、新たな東北地方の拠点港として、「野蒜築港」が建設されることになり、これに伴って石巻港から松島湾までの部分も開削されて現在の姿になりました。

掘削されてからの貞山運河は、仙台の城下町からの物資運搬だけでなく、岩手県北上盆地・宮城県仙台平野・福島県中通りなどなどの広大な河川交通・物流に供するようになりましたが、とくに仙南平野においては、江戸時代初期の新田開発における灌漑用水路の排水路としても機能しました。

現在の貞山堀は物流に用いられていませんが、震災前までは、農業用水路、漁港の一部、シジミ漁・シラス漁などの漁場、釣りなどのレジャーにも用いられていました。運河沿いの一部には自転車専用道路が設置されており、サイクリングを楽しむことができるようになっていて、私も仕事の合間をみてよくここを散歩したものです。

名取川河口南の、閖上地区のさらに南側には仙台空港もあり、この当時将来発生が予測されていた宮城県沖地震(結果として東日本大震災となりましたが)が起こった場合に、空港から貞山運河を経由して仙台市内へ援助物資を運ぶことが出来るかどうかという期待がもたれ、このための調査・研究が行われたこともあります。

しかし東日本大震災では、この仙台空港そのものが水没するとともに、貞山運河の多くの部分が大津波によって分断・破壊されたようです。このため、現在、宮城県では地域の復興とも併せ、この運河の再生・復興ビジョンをも策定しているといいます。

現在の塩釜港の背後の地域には、古代には、陸奥国府である「多賀城」があり、この城下の外港として、まず塩竈津(現在の塩釜港)が発展しました。塩竈津は、松島湾内の南部に位置する現在の塩竈市にあり、歌枕となるのみならず、陸奥国一の宮・鹽竈神社などが置かれ、この地域の重要な港でした。

ところが、11世紀以後、この多賀城が、現在の多賀城市の西側に移され、鎌倉時代には定期市も開かれるようになって、かなり大きな街になっていきました。南北朝時代以降には上町、下町と呼ばれるような行政区分もでき、戦国時代になると多賀国府町(たがのこうまち)と呼ばれるようになり、塩釜港も町の発展に合わせて整備が進められていきました。

安土桃山時代になると、伊達政宗が現在の宮城県・大崎地方(仙台より50kmよりも北方)の岩出山城にその本拠を移しました。

このとき、政宗は、塩釜港と内水系とのネットワーク化を考え、仙台よりはるか南の阿武隈川河口から仙台北方に位置する松島湾の塩釜港に到るまでの仙台湾に沿った運河の開削に着手しました。これが一番最初に掘削された貞山堀となります。

この運河は、前述のとおりの「狭義の仙台湾」の部分に造られており、南部の阿武隈地方から川船のまま塩釜港に物資を運ぶことがを目的として、開削に開削を重ね、その工事期間は、1597年から1661年までのなんと61年間にもおよびました。この間に政宗は仙台城を建築し始め、1600年には岩出山城から出で、現在の仙台の街を開きました。

運河は、仙台城下を流れる広瀬川(下流は名取川)や七北田川などの河口近くでも交差しており、しかもその先は塩釜港に至るという位置関係で、このため仙台城下から名取川や七北田川を下って貞山堀に至る水路は城下町仙台の主要な交通ルートとなり、こことつながった塩釜港は仙台の表玄関として発展していくことになります。

帆船が用いられていた江戸時代の仙台藩内では、この塩釜港の他に、その北方に位置する北上川河口の石巻港、そして、南方に位置する阿武隈川河口の荒浜港を保有しており、この3つにおける交易は、伊達家に莫大な利益をもたらしました。

teizanbori

1626年、伊達家家臣の川村孫兵衛重吉によって北上川の改修が完了すると、仙台藩のみならず、岩手地方の南部藩領内の北上盆地各地からも北上川に米が川下げされ、川船によって北上川河口まで運ばれ、石巻港に集積されるようになりました。

このため、東北太平洋岸海運の拠点は、それまでの塩釜に代わって石巻となり、石巻港が仙台藩内の中心港となりました。

ところが、戊辰戦争の敗戦によって仙台藩が仙台周辺のみに減封されると、この石巻は明治政府によって横取りされ、「石巻県」として直轄地となりました。明治政府はさらにここに、「東山道鎮台」を設置し、石巻を東北地方全域を管轄する拠点とするようになります。

しかし、その後の廃藩置県によって、仙台藩が「仙台県」となって権限を与えられるようになり、石巻と同格の直轄地となると、この石巻の鎮台は仙台に移封され、以後、東北地方を広域管轄する国家の出先機関などはすべて仙台に集中するようになっていきました。

ただ、短い期間ではあったのですが、このように仙台が中心地となる前には、この地方の中心地は石巻だったということになるわけです。

とはいえ、幕末以降、汽船が運行されるようになってからは、沈降海岸で水深が深い松島湾内にあって、外洋に面している塩釜港の重要性のほうが再認識されるようになり、水深の浅い河口港である石巻は、軽視される傾向にありました。

従って、鎮台の移転だけでなく、石巻はいずれは衰微していくことになる運命にあったともいえます。

1876年(明治9年)の天皇巡幸の折、この石巻港から西側10kmほど離れた、松島湾の北に位置する鳴瀬川河口の右岸にある野蒜(のびる)地区に、東北地方の拠点としての新しい港の建設が持ち上がりました。

これが野蒜築港であり、現時の内務卿・大久保利通が当地を視察して建設が決定し、1878年(明治11年)、オランダ人技師ファン・ドールンの設計で、西洋式近代貿易港として着工されました。

計画は、鳴瀬川河口に内港を設け、奥松島の宮戸島の北東の潜ヶ浦(かつぎがうら)を外港とするもので、鳴瀬川河口に東西2本の防波堤が建設され、新鳴瀬川の新設、および、大規模な新市街地の造成がおこなわれました。

同時に、鳴瀬川から松島湾にいたる3.6kmの「東名運河」が開削され、鳴瀬川から北上川河口の石巻に到る13.9kmにおよぶ「北上運河」の開削も行われました。これによって、すでに江戸時代につくられた狭義の仙台湾の貞山運河と合わせ、北上川河口~松島湾~阿武隈川河口までの全長約60kmに及ぶ、日本で最長となる運河が完成することになりました。

この運河系により、野蒜築港を中心として、岩手県の北上川水系、宮城県の仙台平野の全ての水系、および、福島県の阿武隈川水系との川船ネットワークが完成し、仙台湾の多くの海港同士の物流も繋がる運びとなりました。

これらの水運ネットワークには、日本海側の山形県や秋田県に到る道路網計画とあわせて、日本の表玄関の役割を担うことが大いに期待されました。

ところが、この野蒜築港は、完成して間もない1884年(明治17年)、台風による波浪と増水により一夜にして突堤が破壊されてしまいます。これによって、船舶の入港が不可能になったことにより、完成からわずか2年で廃港の憂き目をみることになりました。

なぜこの手間暇かけて作った近代的な港を修復しなかったかはよくわかりませんが、そのすぐ近くにある塩釜港のほうを新たに整備する方が金がかからない、ということだったのだと思われます。

こうして、その後の宮城県の港湾整備は、明治から戦後にいたるまで塩釜港を中心に進んでいくことになります。やがて塩釜埠頭駅がつくられ、鉄道が港に乗り入れるようになると、塩釜港は物流の中心として栄えていきました。

現在においても、東北地方を代表する商社や流通業者は、隣の仙台港よりも塩竈を出自とするものが多いのはそのためです。

2014-1090674

しかし、塩釜港は、数多くの島が浮かぶ松島湾内にあるため、ここを通る航路が大型船の航行に不適当であること、また、港は松島丘陵と呼ばれる山に囲まれており、広い背後地が得られない、などの不利な点があり、重厚長大の臨海工業が盛んになっていく戦後においては、その将来性が危ぶまれていました。

こうして1960年(昭和35年)、塩釜港よりも20kmほども離れた東に位置する石巻港の西の浜辺に、掘り込み式人造港である「石巻工業港」が着工されました。苫小牧港や鹿島港と同様に、当時の池田勇人内閣が「所得倍増計画」を打ち出したことを背景に建設されることになった新港です。

さらには、ここから松島湾を挟んで、その南側の狭義の仙台湾一帯の北側の地区が1964年(昭和39年)に「新産業都市」の指定を受けました。これを受けて、この地にも新たな工業港として掘り込み式人造港が計画され、これが現在の「仙台新港(=仙台港)」になりました。

この仙台新港には、背後に仙台市という大都市を抱えていることに対する期待が寄せられ、商業港としての機能も付加することになり、こうして西の仙台新港と東の石巻工業港という二つの新しい港が誕生することとなりました。

1967年(昭和42年)には石巻新港が、1971年には仙台新港(以後、仙台港と呼ぶ)も開港し、この2港はやがて宮城県の臨海工業の集積地となっていきました。

ところが、仙台港が開港した年には、ニクソン・ショックと呼ばれるアメリカの大幅な経済政策の転換があり、これはドルショックとも呼ばれ、アメリカがドル紙幣と金の兌換を一時停止したことによって、世界経済は大混乱に陥りました。

また、1973年にはオイルショックも発生し、日本にも中東からの油が入ってこなくなったことから、それまでこの二つの新港周辺に次々と建設されていた石油化学コンビナートや関連工場は、その発展の方向性を見失ってしまい、工業港としての発展は頓挫することになりました。

このうちの仙台港は、北海道の苫小牧港や名古屋港とのフェリー航路、国内フィーダーなどによる商業港としての色合いが強くなりました。

「フィーダー」というのは、大型の船が寄港する主要港から小型船に積み替えて別便で運ぶことです。

例えば香港~横浜間を行き来している大型コンテナー船の貨物を、横浜で小型船に積み替えて仙台港に持っていくようなことを、「内航フィーダー船を使って貨物を横浜から仙台に運ぶ」という風に使いまわします。あまり聞き慣れないかもしれませんが、海運の世界ではよく使うので、覚えておかれると良いでしょう。

こうして仙台港はなんとか生き残るところとなり、すぐ隣にある塩釜港が持っていた物流機能もこの仙台港のほうに集中するようになっていき、1994年にはついに、塩釜港の鉄道貨物取扱いが終了に追い込まれました。

さらに仙台港への一極集中は加速し、1998年からは、横浜港本牧~仙台港間で仙台臨海鉄道・東北本線などを経由する20両編成の「よこはま号」と呼ばれる貨物列車(JR貨物)や、東京港と直結する貨物列車が運行されるようになり、仙台港は東京湾の補完機能を持つようになっていきます。

やがて仙台港は、国際貨物も集約される重要港湾となっていき、その過程で近代的なコンテナ流通にも対応するようになり、こうした機能を持たない塩釜港は物流機能を完全に失っていきました。現在の塩釜港は、ほぼ「漁港化」するまで衰退し、仙台港がこの地域一帯の物流拠点としてその中心的な役割を一手に担うようになりました。

2014-1090600

一方、仙台港とほぼ同時期に誕生した石巻工業港は、オイルショック後に製紙工場が立地するようになり、その後原料となる木材やパルプの輸入の増加があったことから息を吹き返し、港湾拡張が行われるようにまで回復しました。

また、仙台港と石巻工業港の両港は、三陸自動車道や国道45号で結ばれるようになり、その近代港としての機能が補完されるようになりました。

こうして現在にまで至るわけですが、両港は今も貞山運河によっても結ばれています。しかし、現在は物流のためには使われておらず、しかも先の震災において著しいダメージを受けていて、おそらくは船の行き来などはできないような状態ではないでしょうか。

この二つの港だけでなく、県内の港は地震・地盤沈下・津波・火災などにより、埠頭施設や背後の臨海工業商業地区は大きな被害を受けました。また、港湾従事者の犠牲や離散により港湾機能が著しく低下しているようです。

このため、とくに仙台港と塩釜港、石巻港、松島港という4つの港区を、「仙台塩釜港」という1つの港に統合されることが決まり、震災からの効率的な復旧・復興と将来的な発展を目指して現在、必死の改修作業が進められているということです。

この4つの港区は、すべて貞山堀で結ばれていて(総延長46.4km)、本来ならば小型船舶なら外洋に出ることなく相互の往来が可能であるはずです。が、運河の幅が狭いうえに、震災のがれきやら津波に運ばれてきた土砂の堆積よって船の航行に適した状態にはなさそうです。

もっとも、震災前にもこの運河を一気通貫で通るような流通ルート、もしくは観光ルートは確立されていません。が、これを有効利用して、観光資源にしようとか、いろいろな取り組みがあったと聞いています。

遠い将来かもしれませんが、これらの運河が復活して、流通だけでなく、レジャーなどにも使われるようになり、町の活力になっていくことを願ってやみません。

2014-1090678

以上が、貞山堀と仙台湾沿岸各所に設置された港の歴史です。

話しは少々変わりますが、冒頭で話をした、井戸浦付近の狭義の仙台湾では、仙台港付近の湊浜に加え、荒浜、ゆりあげビーチといった3ヶ所ほどのサーフスポットがあり、とくに仙台港付近の湊浜では、仙台港の防波堤が最も長く太平洋に突き出ているため、波が増幅されやすく大きな波ができるようです。

これらのスポットは、仙台空港からもほど近いためか、関東方面からも多くのサーファーが訪れていたようで、以前、私がこの地域に調査に通っていたころにも、たくさんのサーファーが波乗りを楽しんでいるのを目にしました。

このうちのひとつ、ゆりあげビーチは、名取川河口の南に近年開設された海水浴場であり、河口の南側に防波堤があり、北寄りからの波が押し寄せることの多いこの海岸を穏やかにしてくれています。

以前は、どこの浜辺にも車で進入可能であったため、ここを拠点にしてこの海岸の近くでもサーフィンを楽しむ若者がたくさん見られたのですが、現在ではおそらくその姿もみることができないでしょう。

一方の仙台港の湊浜ではかつてプトライアスロンの国際大会が毎年開かれており、またプロのサーフィン大会が毎年開催されていました。

このゆりあげビーチでもアマチュアのサーフィン大会がよく開催されていたようです。が、それもおそらくは震災以後長らく開催されていないのではないでしょうか。

この一帯では季節によっては潮干狩りを楽しめる場所があったような記憶があり、夏には普通の海水浴客や釣り客も数多く訪れていました。井戸浦でも糸を垂れている地域住民をよく見ました。が、確か地元の漁協が漁業権を設定しており、勝手に釣りはできないはずでしたが……

仙台湾の外海のほうは、カレイ、マアナゴ、アカガイ、ホッキガイ、ウニ、カキなど豊富な魚介類が採れることで有名な豊饒の海でしたが、今はどうなっていることでしょう。少なくとも養殖のほうは回復傾向にあるようで、松島湾のマガキの養殖や、仙台湾のノリの養殖は、最近になってようやく復活したと、先日のニュースで報じていました。

たくさんの鯨類がこの海を訪れることでも有名で、春から夏にかけてザトウクジラやシャチなど数多くの種類が現れており、湾内ではミンククジラなら普通にみることができたようですが、そのクジラたちは戻ってきているのでしょうか。こちらも気になります。

長らくこうした海を見に戻っていませんが、伊豆での生活が落ち着いた今、時間が許せばまたあそこへ行ってみたいと思います。

とはいえ、変わり果てた井戸浦や貞山堀を見るのは忍びない気持ちもあります。が、もしその復興計画などが持ち上がるようであれば、そうしたことに関わることが、私にできるこの地への恩返しのような気がしています……

人にも海にも港にも、一刻も早い復興が訪れることを願ってやみません。

2014-1090627