三田尻のこと

2014-1140274目の前にある公園の河津桜はほぼ満開で、その隣にあるソメイヨシノの蕾もだいぶ膨らんできたようです。

東京都心の開花予想はこの週中くらいのようですから、だとすると、この高台の開花も来週ぐらいでしょうか。

去年、御殿場にある高原リゾート、 時之栖に行ったときに、通りすがりの方に園内のスタッフが説明していましたが、昨年はウソという鳥が大量に発生して、ここの蕾を食べてしまったとかで、そのせいで例年よりも少し桜がしょぼかったようです。

我が家の目の前にあるこのソメイヨシノもまた昨年はあまり花をつけませんでしたが、もしかしたら伊豆全体で去年はこれと同じような状態が起こっていたのかもしれません。

調べてみると、このウソという鳥は、漢字では「鷽」と書くようです。その和名の由来は口笛を意味する古語「うそ」から来ており、「フィー、フィー」または「ヒーホー」と口笛のような鳴き声を発することから名付けられたそうです。

細く、悲しげな調子を帯びた鳴き声は古くから愛され、江戸時代には「弾琴鳥」や「うそひめ」と呼ばれることもあったようで、この「弾琴」は、囀る時に、左右の脚を交互に持ち上げることからきているそうです。

ヨーロッパからアジアの北部、つまり中国などに広く分布しており、冬になると北方に生息していた個体が「冬鳥」として日本などに飛来し、秋から春にかけて滞在します。従って、大陸からやってきたという点ではPM2.5と同であり、やっかいもの、という印象です。

春にやってきては、木の実や芽を食べますが、このころちょうど蕾がいっぱいつく、サクラ、ウメ、モモなどの蕾だけでなく、花までむしゃむしゃと食べてしまします。

全長は15~16 cmほどで、体はスズメよりやや大きく、頭の上と尾、翼の大部分は黒色、背中は灰青色。くちばしは太く短く黒い。雄の頬、喉は淡桃色をしています。雌にはこの淡桃色の部分はないため、雄は照鷽(てりうそ)、雌は雨鷽(あめうそ)と呼ばれるそうです。

このようにその姿はみやびなのですが、上述のとおり春先に公園のソメイヨシノや果樹園のウメやモモの蕾を摘み取ってしまうため、公園管理者や果樹農家から害鳥扱いされることも多いようです。

しかし、繁殖期に昆虫のガの幼虫やクモなどを食べ、材木に付く虫を食べる益鳥でもあり、「鷽」という字が学の旧字「學」に似ていることから、太宰府天満宮や亀戸天神社では「天神様の使い」とされ、鷽を模した木彫りの人形「木鷽」が土産の定番となっています。

この木鷽を使った「鷽替え神事」も菅原道真を祀った大きな神社の定番です。鷽(ウソ)が嘘(うそ)に通じることから、前年にあった災厄・凶事などを嘘とし、本年は吉となることを祈念して行われる神事で、太宰府天満宮、亀戸天神社、大阪天満宮、道明寺天満宮などが有名です。

木彫りの鷽の木像である木うそを「替えましょ、替えましょ」の掛け声とともに交換しあうそうで、亀戸天神社では前年神社から受けた削り掛けの木うそを新しいものと交換します。多くの神社では正月に行われ、太宰府天満宮では1月7日の酉の刻、亀戸天神社では1月24日、25日に行われます。

この天満宮は、言うまでもなく、菅原道真を祀った神社です。政治的不遇を被った道真の怒りを静めるために神格化し祀られるようになった御霊信仰の代表的事例であり、道真を「天神」として祀る信仰を天神信仰といいます。

道真が亡くなった後、平安京で雷などの天変が相次ぎ、清涼殿への落雷で大納言の藤原清貫が亡くなったことから、道真は雷の神である天神(火雷天神)と同一視されるようになりました。

「天満」の名は、道真が死後に送られた神号の「天満(そらみつ)大自在天神」から来たといわれ、「道真の怨霊が雷神となり、それが天に満ちた」ことがその由来です。道真が優れた学者であったことから天神は「学問の神様」ともされ、多くの受験生が合格祈願に詣でます。

道真が梅を愛し、庭の梅の木に「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」と和歌を詠み、その梅が大宰府に移動したという飛梅伝説ができたことから、梅を象徴として神紋に梅鉢紋などが多く使用されています。

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各地の天満宮のうち、特に道真と関係が深かった福岡の太宰府と京都の北野の二つがその二大双璧です。北野天満宮は道真が好んだという右近の馬場に朝廷が道真の怨霊を鎮めるために造営され、太宰府天満宮は道真の墓所・廟に造営されたものであり、この両社が信仰の中心的役割を果たしています。

この二つに加え、大阪府の北区にある大阪天満宮、もしくは山口県防府の防府天満宮などを加えて日本三大天神と呼ばれます。

この防府天満宮には、私が子供だったころによく遊びに行きました。道真が亡くなった翌年である延喜2年(904年)に創建され、神社では「日本最初に創建された天神様」であることを誇っているようです。

なぜ、防府なのか、ですが、これは道真が宮中での権力争いで失墜し、九州の大宰府に流されていく道筋での宿泊地の一つが防府とされているためです。

防府市は、この天満宮を中心に栄えてきた都市であり、市外からの来訪者も多く、正月の3が日には約30万人の人出を記録したこともあります。有名な祭りとしては2月の牛替神事と11月の御神幸祭が挙げられます。

この御神幸祭は別名裸坊祭(はだかぼうまつり)ともいい、御網代(おあじろ)という巨大な荷車を白装束の氏子たちが引っ張って、行きは表参道の大階段を下り、帰りは表参道の階段を上っていくという勇壮なものです。

が、御網代の重さは1トンほどもあり、この神社の階段はかなり急なので危険なことこの上なく、毎年怪我人が絶えません。また牛替神事で使われる牛車もかなり大きなもので、天神様の乗られるこのきらびやかな牛車を引く牛を取り替える、という神事です。

その他、8月3日から5日までは、道真の生誕を祝う御誕辰祭が行われ、夜には1000本あまりの蝋燭に火を灯した万灯祭献灯で表参道が飾られるほか、最終日には防府天満宮夏祭り大花火大会も行われます。

この防府天満宮は、春には太宰府天満宮などと同様、梅の花が咲き誇り、境内中が本当に良い香りにつつまれます。私は、子供のころにここによくいき、境内脇の茶店でお団子をほおばりながら、梅見をするのが大好きでした。

境内の西側には、春風楼と名付けられた楼閣式の参籠所があります。当初は、長州藩第10代藩主の毛利斉熙が、文政5年(1822年)から五重塔の建立に着手しましたが、天保2年(1831年)に不慮の支障によって工事は中断、幕末の動乱などが妨げとなって五重塔は完成しませんでした。

しかし、明治になって、当時着工されていた組物を使って建築が続けられ、明治6年(1873年)に塔ではなく楼閣として完成しました。この春風楼からは防府市街地が一望でき、風向きによっては潮風がここまで上がってきて、この防府という町が海沿い近くに造られた町であることを感じさせてくれます。

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その歴史は古く、飛鳥時代に、聖徳太子の弟の来目皇子が亡くなり、「周防娑婆で殯(もがり)を行った」。との記事が「日本書紀」に見られます。奈良時代には、周防国の国府や国分寺が設置され、以来、周防の国の中心都市として発展することになります。

その昔は、「三田尻」と呼ばれていました。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの後、毛利氏は、その所領の内、本拠であった安芸国を取り上げられ、新たな居城を築く必要に迫られました。この時に毛利氏当主・毛利輝元は、周防国山口・周防国三田尻・長門国萩の三都市に城を築くべく、徳川家康に許可を求めした。

しかし、徳川家康は毛利氏封じ込めの意図もあり、大内氏以来の周防国の中心であった山口、瀬戸内海に面した天然の良港であった三田尻への築城を認めず、萩城の築城だけを許可し、結果、毛利氏は山陰に押し込められることになりました。

しかし、三田尻は天然の良港であったため、戦国時代に瀬戸内海で活躍した毛利水軍、村上水軍が「御船手組」に組織改編されて、元の本拠地であった下松よりこの三田尻に移り住むようになりました。

御船手組の根拠地となったことで、船を格納し海城の性格を持つ「御船倉」の建造や町割りなど、三田尻の整備が進められましたが、この当時の御船手組が居住した「警固町」や、水夫や船大工が居住した「新丁方」といった当時の地名は現在も残っています。

江戸時代初期には、海路で参勤交代へ向かう出発地となり、1654年(承応3年)に毛利綱広が日本海側の萩と瀬戸内海を結ぶ道路である「萩往還」を造った際にも、「三田尻御茶屋」が建設されるなど、大いに栄えました。茶屋と呼んでいましたが、これは幕府をたぶかるためであり、天守などはないものの、事実上はお城に近い建築物でした。

その後、参勤交代は幕府の命によって海路から陸路に変更されてしまったため、三田尻の役割は限定的なものとなってしまいましたが、それでも長州藩7代藩主毛利重就は、隠居後にこの三田尻御茶屋に住むなど、引き続きこの町は毛利版の要衝として重視されました。

江戸時代末期にもその重要性は変わらず、坂本龍馬が土佐藩を脱藩して、下関に向かう際には盟友の沢村惣之丞と三田尻に立ち寄っています。また、幕府に対抗すべく、御船倉も海軍局と名前を変え、欧米より伝わった近代航海術の教練や造船技術の教育も行われるようになりました。

薩摩藩・会津藩などの公武合体派が画策したクーデターによって、長州が支援していた三条実美ら七人の公家たちが京都から追放された、いわゆる「七卿落ち」の際には、三田尻御茶屋はその滞在所として使用されました。

このとき三条らは三田尻御茶屋の大観楼棟に約2ヶ月滞在して、その時に敬親や高杉晋作らと面会しています。さらに、敷地の北側に招賢閣が建てられ、三条らの会議場所となりまし。招賢閣には幕末の志士達が足繁く立ち寄りましたが、翌1864年(元治元年)の禁門の変の後には廃止され、さらに明治維新後に解体されました。

一方で、三田尻御茶屋そのものは明治時代以降も毛利家の別邸として使用され続け、1916年(大正5年)に、公爵毛利家の新たな本邸が防府市多々良に完成しこれを多々良邸と呼ぶのに対して、三田尻茶屋は三田尻邸とも呼ばれるようになりました。

1939年(昭和14年)に、毛利家から防府市に寄付され、その改築で防府の産業振興に尽力した7代藩主毛利重就の法名から「英雲荘」と名付けられるようになります。

太平洋戦争終結後は、進駐軍将兵らの集会所となり、大観楼棟1階をダンスホールとするため、畳を取り外して絨毯敷きにするなどの大改築が行われました。その後、市の公民館などとして使われてきましたが、1989年(平成元年)9月3日には、萩往還関連遺跡三田尻御茶屋旧構内として、国の史跡に指定されました。

そして、1996年(平成8年)に修復保存作業が始まり、各棟を往年の姿に復元し、2011年(平成23年)9月より一般に公開されています。

防府天満宮といい、この英雲閣といい、町の名前があまり知られていないのにも関わらず、意外と見どころの多いこの防府ですが、三田尻が防府と改名されたのは、1902年の佐波村と三田尻村との対等合併のときからです。その後、中関町・華城村・牟礼村などの周辺の町村を合併し、現在の防府市となったのは1936年(昭和11年)のこと。

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その後は、水資源の豊富な近隣の塩田跡に工場群が進出するのにあわせ、工場生産品を輸出する港湾として設備の拡充が続けられ、特に、自動車メーカーのマツダが主力工場の一つを防府市に設置したことから町は大きく発展していきました。

旧三田尻港は、三田尻中関港と改名されて重要港湾に指定され、防府はマツダの城下町として、また自動車の輸出港の街として発展を続けています。

このマツダは、その昔は非常に業績不振で、一時はアメリカのフォードの参加に入りましたが、2007年の世界金融危機により業績が悪化したフォードは、2008年11月に保有していたマツダ株式の大半を資金調達のために売却しました。

さらに2010年には追加売却が行われたことでマツダは会計上フォードの関連会社ではなくなり、実質的にフォードグループから独立しました。その後は、2011年のSKYACTIV TECHNOLOGY導入以降、世界的に「売り方革新」と呼ばれる販売改革を進めており、これがなかなか好調のようです。

このSKYACTIVというのをマツダが最近テレビコマーシャルで盛んに宣伝していますが、これは特定の一つの技術ではなく、一連の複数の技術により車の燃費をアップさせる技術のようです。

従来の自動車開発ではエンジン、トランスミッション、プラットフォームといった主要なコンポーネントの設計時期が異なるため、個々の理想的な構造・設計を純粋に追求することが困難でした。が、この技術の導入によって、自動車を構成する要素技術を包括的かつ同時に刷新することで車両全体の最適化が図れるようになりました。

マツダは、スカイアクティブ・テクノロジーを採用した商品は製作誤差による性能の個体差を極小化することで、カタログ通りのスペックを全数保証するポリシーを貫いており、こうした取り組みは、ユーザーにも高く評価されており、これが最近のマツダが好調な理由のようです。

私は広島育ちで、当然のことのように広島カープのファンなのですが、このカープのメインスポンサーであるマツダの車には実は一度も乗ったことがありません(レンタカーは別ですが)。

その理由はとくにないのですが、一昔前のマツダ車というと、妙にペラペラな印象があり、内装もいまひとつパッとしないもので、その上に業績悪化でフォード傘下に入ってしまってからは、「優秀な国産車」を製造するメーカーとしての認識が薄れていったことなどがあげられるでしょうか。

が、最近のマツダ車をみていると、デザインもよく、技術力も安定していきているようなので、次にクルマを買い変えるときにはひとつ、検討してみようかと思ったりもしています。

さて、今日はのらりくらりと、思いつくまま書いてきましたが、外を見ると今日も富士山がくっきりと見える上天気で、このままブログを書いているのはもったいない気がしてきたので、ここいらでやめにしたいと思います。

この天気もしばらくは続きそうです。そろそろ桜をどこに見にいくかも決めなければなりません。みなさんはいかがでしょう。もう今年の花見はどこにするか、お決めになったでしょうか?

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