スイセン

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気がつくと、一月もはや下旬に差しかかろうとしています。

1月は行く、2月は逃げる、3月は去るといいますが、いつものことではありますが、なぜか年のはじまりは気ぜわしく過ぎていきます。

1月も終わりとなると、そろそろ下田の爪木崎で咲き誇っているはずのスイセンもそろそろ終わりに近づいているはずです。水仙の群生地であり、12月下旬から1月の終わりまでは、早い春を感じたい観光客で賑わいます。

爪木崎には昨年、一昨年と連続して見にいったのですが(爪木崎にて)、3年目となる今年は、昨年暮れに骨折で入院した母のことなどもあって何かと多忙であり、ちょっと今年は見送りかな、といった展望です。

このスイセンの原産地はスペイン、ポルトガルなどの地中海沿岸地域だそうで、日本には中国を経由して渡来したようです。本州以南の比較的暖かい海岸近くで野生化し、各地で群生が見られます。ここ下田のものは、海流に乗って漂着して形成された小群落を、下田の観光名所に、ということで地元の方たちがさらに手植えで増やしたもののようです。

スイセンは、チューリップやヒヤシンスなどと同様に典型的な球根植物で、日本の気候とも相性が良いらしく、植え放しでも勝手に増えます。このため、温暖な伊豆半島の各地には、わざわざ下田まで見に行かなくても、各家庭で植えられたスイセンをここそこで見ることができます。

スイセンの学名は、Narcissus といいますが、これは、ギリシャ神話に登場する美少年「ナルキッソス」に由来します。神話によれば、ナルキッソスは、その美しさゆえにいろんな相手から言い寄られたといいます。

森のニンフである、エーコーもその一人で、このエーコーというのは、元々「木霊(こだま)」という意味です。日本語では、エコーとも呼ばれ、こだま、もしくはやまびこ(山彦)のことでもあります。

山に向かって、「ヤッホー」と呼びかけると、「アッホー」と返してくるあれです。

このエーコーは、かつてゼウスの浮気相手であった友達の山のニンフたちを助けようと、ゼウスの妻のヘーラーに長話をもちかけ、ゼウスの気をそらそうとしたそうです。このためヘーラーの怒りを買ってしまい、彼女の呪いによって自分からは話かけることができなくなってしまいました。

誰かが話しかけてくれても、言葉を繰り返すことしかできないようにされてしまったエーコーですが、彼もまたナルキッソスに恋をしてしまいます。が、いかんせん話しかけることができないために相手にしてもらえません。

可愛そうなエーコーはナルキッソスに振り向いてもらえない屈辱とその恋の悲しみから次第に痩せ衰えていき、ついには肉体をなくして声だけの存在になり、やがて山のこだまと化していきました。

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一方のナルキッソスは、エーコーに対してもそうであったように、その美貌を鼻にかけ、言い寄る相手をことごとく高慢にはねつけたため、多くのニンフたちから恨みを買うようになりました。

このため、ニンフの中にはついには、彼に悪意を持つものが現れ、彼らに同調した復讐の女神ネメシスによっておそろしい呪いにかけられます。

その呪いとは、自分自身の姿を水に移した水鏡の映像に恋をしてしまうというものでした。

こうしてナルキッソスは、来る日も来る日も水面の中に写る自分の像をながめては、うっとりするようになりますが、その相手は、けっして彼の想いに応えることはなく、やがて彼は憔悴し、そのまま死んでしまいます。

このとき、ナルキッソスは水辺で水面に向かってうつむきながら死んだといい、その姿はのちにスイセンに変わりました。これが、このスイセンにまつわるギリシャ神話です。

スイセンの写真を撮ろうとしたことのある人はお気づきだと思いますが、スイセンというのはみんな下を向いてうつむきがちに咲きます。なので、しっかりとしたスイセンの写真を撮ろうとすれば、思いっきりローアングルで撮らないと、良い写真になりません。

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ところが、この水辺のスイセンの姿は、中国では仙人に見えたようで、それゆえに、スイセンは「水仙」と書きます。「仙人」の「仙」の字は、仙境にて暮らし、仙術をあやつり、不老不死を得た人を示しています。また、この仙人になるために修行をする人は「道士」と呼びます。

この仙境とは、天にも地にも水辺にもあるとされ、従って、天境にあって道を極めた道士を「天仙」、地で修業をした人を「地仙」といいます。加えて、「水仙」というのは水辺で不老不死の域に達した道士、ということになります。

一般に仙人といえば白髯を生やした老人というイメージがありますが、中国では若々しい容貌で語られる仙人もおり、また女性の仙人もいるそうです。

上述のとおり、厳しい修業を積んだ末、高い山の上や仙島、天上といった仙境に住めるようになりますが、一般にこの仙境とは俗界を離れた静かで清浄な所であり、こうした神仙が住むような理想的な地のことを、「桃源郷」と呼びます。

そこへ行きさえすれば、仙人同様になれる、という伝説もあり、中国の東のほうの海には、「蓬莱」、「方丈」、「瀛洲」の三つの仙人の島(三島)があるともいわれています。

とはいえ、行さえすれば仙人になれるという安直な考え方はタブーであり、やはり仙人になるためには、さまざまな修行を積まなくてはなりません。その修行法には、呼吸法や歩行法、食事の選び方、住居の定め方、房中術までさまざまな方法がありますが、不老不死などの霊効をもつ霊薬「仙丹(金丹)」を練ることも修業のひとつです。

仙丹を練るので、「煉丹術」ともいい、これは「錬金術」とも言われます。昔の中国では、錬金術で金を生み出すためには、水銀(丹)を原料としており、このため仙道の求道者である道士の中には、水銀中毒になる人も多かったそうです。唐の皇帝も仙人修業をしたといわれており、水銀中毒であったといわれています。

いずれにせよ、仙人になるためには、心身の清浄を常に保ち、気としての「精」を漏らすことは禁物です。この「精」を練り続けることで、やがてこれは「気」に変化し、やがてこれが「仙丹(仙薬)」に発展します。こうした仙丹を練り続け仙人になるための修行法は「仙道」と呼ばれます。

この、仙人が造り出した仙丹を秦の始皇帝は欲しがり、道士のひとりであった「徐福」という人に命じたため、彼は東海にあるという仙人の島(三島)を探しもとめて出航しました。このとき、徐福は日本に逢着したとも伝えられており、このため日本各地に徐福伝説が残っています。

青森県から鹿児島県に至るまで、日本各地に徐福に関する伝承が残されていて、これらの徐福ゆかりの地としては、佐賀県佐賀市、三重県熊野市波田須町、和歌山県新宮市、鹿児島県いちき串木野市、山梨県富士吉田市、東京都八丈島、宮崎県延岡市などが有名です。

中国の軍師として知られる呂尚や諸葛亮なども仙術修業をしていたと伝えられており、実際に修業を終え、仙術を会得していたといわれています。

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そういえば、軍師といえば、この1月から、NHKの今年の大河ドラマとして、「軍師官兵衛」が始まりました。

調略に優れ、豊臣秀吉の側近として他大名との交渉などに活躍した人物ですが、本名は黒田孝高(くろだよしたか)といい、晩年に出家したあとに称した号によって「黒田如水」の名でも知られています。

生涯50数度の戦さで一度も負けたことがないとも言われ、しかもそのほとんどは、槍や刀で相手を殺すのではなく、智力で相手を倒したといわれています。キリシタン大名でもあり、その子には、こちらも有名な黒田長政がいます。

ドラマのほうの主演は、V6のメンバーでもある岡田准一さんで、その甘いマスクによってお茶の間の話題を独占……かと思われたのですが、初回放送ではまだこの岡田さんが登場していないせいもあってか、視聴率はかなり低かったようです。

が、私はそれほど悪くなかったと思うのですが、視聴率が低かったのは、有名な人物でありながら、秀吉の陰に隠れてわりと地味な人物であるためかもしれません。とはいえ、2回目からは岡田さんが登場するとのことなので、また視聴率もあがってくるのではないでしょうか。

実は、私はこの2回目以降をビデオに撮り貯めたままで、まだ見ていません。なので、ここでそのコメントはまだできませんが、おいおい、その感想なども書いていきたいと思います。

官兵衛の隠居後の号である「如水」の由来については、この時代にポルトガルからやってきたカトリック司祭で、宣教師のルイス・フロイスは、多年にわたる戦争で得た功績が彼にはその晩年、水泡が消え去るようなものだと感じていたからではないか、と書き残しているそうです。

このほか、如水とは、「水のごとし」という意味ですが、晩年の彼の心境が水の如く、清らかさで柔軟なものであったからではないか、という説もあるようです。

キリスト教の始祖、モーゼの後継者であり、カナンの地を攻め取った旧約聖書の「ヨシュア」のポルトガル語読みは、ジョズエ(Josué)であり、如水というのもここから取ったのではないかという説もあります。

そのキリスト教を日本にもたらしたのもポルトガル人宣教師たちであり、今日の冒頭のテーマであったスイセンもまた、ポルトガルが原産地だというのも、何か因縁めいたものを感じます。

無論、黒田官兵衛がスイセンが好きだったとかいった話はないようですが、彼が晩年徳川家康から賜った福岡の能古島(のこのしま)という博多湾に浮かぶ島は、博多湾を背景に10万本の水仙が咲く、花の名所だそうです。案外とここのスイセンもまたポルトガルからもたらされたものなのかもしれません。

官兵衛は、その最晩年には再建に努めた太宰府天満宮内に草庵を構えて暮らしており、その後、慶長9年に、京都伏見の黒田藩邸で59歳で死去しています。

死の間際、自分の「神の子羊」の祈祷文およびロザリオを持ってくるよう命じ、それを胸の上に置き、遺言としてポルトガルからの宣教師たちに教会を建てるための寄付金を与えるように命じたそうです。

その後、その遺骸は博多に運ばれ、この地で宣教師たちによって博多郊外のキリシタン墓地に隣接する松林のやや高い所に埋葬されました。主だった家臣が棺を担い、棺の側には長政がつきそっていたそうで、ポルトガル人宣教師たちもまた祭服を着て参列したそうです。

墓穴は人が200も入るほどの大きなものだったといい、その中に宣教師たちが降りて儀式を行い、如水を埋葬しましたが、おそらくその棺の周りにはきっと、遅咲きのスイセンが添えられていたに違いありません……

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