テレパシー?

夢想中
昨日のお昼、テレビを見ていたら、先日山口の周南市で殺人事件を引き起こした男性が警察に拘束された際、これとほぼ同時刻にこの男が飼っていたレトリーバーが死亡した、という報道がされており、ちょっとびっくりしました。

犬のほうは、男が行方不明になってから保護され、動物愛護団体がケアをしていたそうですが、その死因は心臓発作ということで、怪我をしていたとかエサが足りなかったとかの理由ではないそうです。

飼い主がいなくなったことで、ストレスが溜まっていたためではないか、とまことしやかに動物学者さんがコメントを加えておられましたが、死亡時刻が男の拘束時間と一致したという点についてはとくに言及はなく、この報道もその理由についてはうやむやに終わってしまいました。

飼い主と遠く離れていてもその無念の気持ちが伝わってのではないか、とこの報道番組のゲストさんがコメントされていましたが、だとすると、これはいわゆる「テレパシー」にほかなりません。

テレパシーとは、一般には人間同士で、ある人の心の内容が、言語・表情・身振りなどによらずに、直接に他の人の心に伝達されることを指すようですが、人間と犬などの動物の間でもこうした超常的な情報交換システムのようなものがあるのかどうか、調べてみました。が、科学的に証明されたというような情報は得られませんでした。

しかし、人間は物質文明の発達によって本来持っていた霊的感覚が鈍り、次第に五感に限られた世界のみで生きるようになりましたが、人間以外の動物たちには依然そうした超常能力は残っているのではないか、と考える人達もいるようです。

また、動物の中でもいわゆる「ペット」として、人間の愛情によって縁が生じた動物たちには、人間と似たような精神的資質が発達し、人間との間にコミュニケーションを図るために独特のテレパシーの進化が促進されているのではないか、と考える人もいるようです。

その真偽はよくわかりませんし、何も実証されているわけではありませんが、動物のテレパシーの能力は人間よりもはるかに発達しているのではないかという人もいて、これを裏付けるような事例についてもたくさん報告されているようです、

例えば、こういう逸話があります。

イギリスの動物保護協会に勤めている女性の愛犬で、ウェールズ産のテリアだそうですが、この犬にはそうした能力があるのではないか、といわれているそうです。

この犬は、この女性も飼い始めた時からかなり賢い犬だと思っていたそうです。日々の散歩はメイドに任せ、彼女が一緒に連れ出していましたが、これとは別に、毎朝彼女が勤めに出かける前に近くの丘へひとりで遊びに行かせるなど、放し飼いにしていたといいます。

しかし、ひとりで遊びに出かけるときも、その帰りの時間は実に正確で、必ず30分ほどで帰ってきて、出かける準備をする彼女の部屋のドアを足で叩いていたそうです。

ところが、いつもよりその帰りが遅い日がありました。女性はもうすぐ出かけなければいけないというのに、車にでもひかれたのかと心配になりましたが、何を思ったのか、とっさに心でこの犬に呼びかけてみることにしました。

姿勢を正して静かにし、この飼い犬のイメージを心に描きながら、「すぐに帰っておいで」というメッセージを繰り返してみたところ、すると、驚いたことに2~3分後にこの飼い犬はいつものようにドアを叩く音とともに帰ってきたそうです。

これ一回だけだったら偶然ということも考えられます。しかし、その後も同じことが何度もあり、その都度、犬はまるで彼女の心の声が聞こえたかのように帰ってくることが繰り返されたことから、彼女もどうやらこれは偶然ではない、と思いはじめるようになりました。

そう思えるもう一つの理由は、彼女が心の呼びかけをせず、この犬が普通に散歩して帰ってくるときには、音もなく静かに家の中に入ってきたそうですが、彼女が呼びかけたときには、ハアハアと息が切らしており、あきらかに猛スピードで帰ってきているらしいことでした。

このほかにも、この犬には彼女のテレパシーが伝わっているのではないかと思わせる出来事がありました。

彼女が仕事から帰ってくる時間はいつもだいたい決まっているのですが、この犬はそのことをわかっているようで、習慣的にいつも彼女が帰ってくる30分ほど前までには玄関にしゃがんみ込んで、彼女の帰りを待っているのが常でした。

ところがある日、女史がいつもより早目に帰宅したことがありました。帰宅した彼女はこの飼い犬の姿が家の中に見えないので、どこへ行ったかを家の者に聞いたところ、その家人の答えはメイドが散歩に連れて出たというものでした。

それから10分ほど経ったあとのことです。この時刻が彼女がいつも帰宅する時間でしたが、このとき道路の向こうのほうから、この犬が猛然とダッシュしながら自分に近づいてくる姿が見え、その後にはこれを必死で追いかけようとするメイドの姿が見えたのです。

メイドによれば、犬と一緒に家からはかなり離れた池のそばを散歩していたところ、彼は急に立ち止まり、くるりと向きを変えて猛スピードで家の方へ走り出したということで、あわてて呼び止めようとしましたが、振り向きもしなかったというのです。

いつもなら、もう帰ろうと言っても帰りがたがらないのに、このときはどうしたことかと思ったとメイドは不思議がっていました。

これをどう解釈するかについては人によってさまざまでしょうが、女性が帰る時間になったので、この犬も「体内時計」でそのことをふと思い出し、帰ってきたのではないか、と考えることもできるでしょう。

しかし、見方を変えれば、いつも女性が帰宅した時に門前にいる犬が出迎えてくれないことを不審に思い、その念が、テレパシーとなって飛んでいき、これをこの犬がキャッチしたのではないかと考えることもできます。

ひなたぼっこ

この例は、賢い犬の中には、飼い主のテレパシーが通じるものもいるということを思わせる一例にすぎませんが、次の例は、単にテレパシーの域を出ず、犬にこれ以上の能力があるかもしれないと思わせるものです。

同じイギリスに、A・E・ディーンという女性がいますが、この女性は心霊写真を撮る能力がある「霊媒」としてイギリス国内でも有名な人です。コナン・ドイルの死後、この心霊写真を撮ったことで有名で、ある実験会で、ドイルと霊界通信をし、彼の指示によって撮影した写真を現像してみると、確かにドイルの顔が写っていました。

この写真は英国中で評判となり、念のためにドイルの奥さんにこれを確認してみてもらったところ、メッセージを送ってきたドイル本人であることが確認されたそうです。

このディーン女史は、一匹のセントバーナード犬を飼っていましたが、この犬にもかねてから霊視能力があるのではないかといわれていたそうです。この犬は、客人が来ると、必ず女史と一緒に出てきて、うしろ脚で立ち、前脚を客人の肩に置くのが習慣だったそうです。

これがこの犬の挨拶であり信愛の情を示すしぐさなのですが、大きな犬ですから、大人でもこの挨拶によって後ろに倒れそうになってしまうほどでした。

ある日のこと、このディーン女史の友人がその旦那さんと共にといっしょに訪ねてきたそうです。

ところが、この夫婦はどうやら“見えざる客”と一緒に女史を訪れたらしく、この犬はこの我々には見えない客を同じ生身の人間と間違えたようです。

そしていつものようにうしろ脚で立ち、前脚を持ち上げる仕草をするのですが、その脚が空を切って、どすんと床に落ちるたびに、おかしいなといった表情をしながら、それを何度も繰り返したといいます。

このことから、この犬にはそこに誰かが立っている姿が見えたのではないか、と女史は考えたというのですが、いかんせん、普通の人間には見えない存在ですから、なかなか信じがたいことではあります。

しかし、同じように犬や猫といったペットには人間には見えないものが見える、という話はよく聞きます。

かくいう我が家のテンちゃんも、この家に来てからはほとんどありませんが、以前東京で借りていたマンションでは、何もないはずの部屋の中空を見つめている、というのを何度か目撃しました。

何が見えるの?と聞いても身じろぎもせずにそちらを向いているのですが、無論、私たちには見ることができません。多少霊感のある私にもこのときは何も感じなかったので、「ヘン」なものではなかったのでしょう。

多分に敵対的な霊であったりする場合、猫などではときにこれに感応して毛を逆立たせたり、尻尾を大きく膨らませて一目散に逃げたり、といったことも聞いたことがありますし、そうしたものなら私も鳥肌立てていたことでしょう。

おそらく、ペットを飼ったことがある人は、似たように、時々誰もいない壁や空間をじっと見つめていたり、見えないものをしきりに目で追っていたりする彼等の姿を見かけたことが一度や二度はあるのではないでしょうか。

ま、こうしたことを信じる信じないはお任せしますが、こうしてみると、山口の動物愛護団体で亡くなったというこのワンちゃんも、おそらく見えない主人の姿を闇夜で霊視し、彼の心の叫びをテレパシーで聞いていたのかもしれません。

その死との因果関係もよくわかりませんが、打ちのめされた人間の弱い心がその死を縮めたのかもしれません。あるいは、その死によって、容疑者の男のこころを慰めてやろうとしたのかも。

Zzz...

このように可愛がっていたペットが、その死後も飼い主の側を離れない、という話もよく聞きます。

イギリスのある海軍将校は、スキッパーキ種というスピッツタイプの犬を飼っていました。とても偏屈な犬だったそうで、どの犬とも仲良くならず、散歩途中で違う犬とすれ違う時には、うなり声をあげてその犬を追っ払うのが常だったそうです。

しかし、飼い主の将校にはとてもなついていました。14歳ほどの年齢で他界しましたが、その後何かの機会にある霊能者がこの将校を霊視したところ、その死後もこの飼い主の側にいつもついている姿が見えたそうです。

その後、この将校はしばらく犬を飼うことはしていなかったそうですが、もともと犬好きなので散歩などで出歩くたびに見かける近所の犬をみて亡くした愛犬を思い出していたようです。

そうした近所の犬の中に一匹にメスのテリアがいて、この犬も将校には良くなついていたそうです。将校がスキッパーキを伴って散歩していないときなどには、通りで見かけるとすぐそばに寄りそってくるほどだったそうです。

ところが、愛犬を亡くした後のある日、一人で町を散歩に出かけた際、このテリアを見かけたので、いつものように近づいていって頭を撫でてやろうとしたところ、なぜかその日だけは彼を恐がるように避け、通路のわきへ寄ろうとしたそうです。

遠巻きに将校を見つめるだけで、なぜかいつものように近くに寄ってこないため、初めのうちはなぜだろうと不審に思っていましたが、そのうち、かつて霊能者に見てもらったときのことを思い出しました。

将校が亡くなった犬の霊と一緒に歩いているのをみて、これを見たテリア恐がったというわけです。ウーという声こそは聞こえませんでしたが、おそらくは歯をむいてテリアを睨みつけ、彼女を威嚇していたのに違いありません。

このほかにも、飼っていた犬や猫が、飼い主の守護霊になることもあるという話をときどき聞きます。

ただ、死んでから守護霊になるだけではなく、生きているうちから、飼い主のことを守ってくれていることも少なくないそうです。

だとすれば、この山口のワンちゃんもその守るべき飼い主の存在が近くにいなくなったことに気付き、それならばということで、死して守護霊になる道を選んだのかもしれません……

もっともこうした動物と人間の間に存在する超常能力といったものは、相手が物言えぬ動物であるだけに科学的には立証できにくいのもではあります。霊が見えたの?と聞いて答えてくれたとしても、ニャンとかワンではイエスなのかノーなのかさっぱりわからないわけですから。

しかし、人間と人間の間のテレパシーならば立証できるかもしれないということで、過去にそうした実験が実際に行われています。

例えば、神経科学の専門家の間にはよく知られているという専門誌「Neuroscience Letters」に、2003年、こうした実験の報告論文のひとつが掲載されました。

この科学誌は、かなりまじめな医学専門誌だそうで、この論文によれば、この実験を行ったドイツの科学者たちは、脳波測定とfMRI(機能的磁気共鳴画像法)を駆使して実験を行い、その結果として、「二人の隔離された人間の間で脳活動が同期発生する」という可能性を示したというのです。

「脳活動が同期発生する」というといかにも専門的でわかりにくいのですが、ようするに「テレパシー現象を確認できた」ということのようです。

この実験では、23歳から57歳までの一般市民男女38人が被験者として採用され、その内訳はこのうちの、10組、20人は、夫婦・友人・親類など、互いに感情的に「関係がある(つながりがある)」と感じる人たちでした。

一方残る人達の中からは7組14人を「関係がない」と感じる他人同士としてペアを組ませ、これとさらに残る4人をランダム選択しました。

そして、この「互いに関係がある」と感じる10組の中うちの7組と、「関係がない」という7組のそれぞれを「対象群」として比較実験を行い、また「関係がある」と感じる残り3組と、4人の個人被験者を対照群とした比較実験が進められました。ただし、「関係がある」と感じる10組の中にも双生児は含まれていなかったそうです。

このように被験者をグループ分けしたのは、意味付けが異なるそれぞれのグループでの実験結果を比較することによって、実験結果が人為的に造られたものではないことを立証することが目的でした。

実験の内容としては、対象群それぞれのペアの2人に1人ずつ、隣り合う部屋に入ってもらい、この部屋は外部から音も光も遮断され、電磁気的にも隔離された密室となっていました。

そして、片方の被験者に部屋のビデオスクリーンを通じて、一定の視覚刺激パターンを見せました。このパターン提示は1秒間で、これは3.5秒から4.5秒間隔で、72回提示するといいうものでした。

またこれと同時に、隣室にいるもうひとりの被験者は、静かに待機しているだけで視覚刺激は与えられません。

両方の被験者の頭部には6箇所に設置した電極から、脳波を記録が記録されます。どちらの場合でも、被験者たちは、お互いが隣室で何をしているのかは、まったく知らないとう状況下で実験は進められました。

つくろい中

こうして科学者たちは、この実験で得られた被験者の脳波の測定記録を小さな時間単位(137ミリ秒)ごとに分割し、それぞれの単位内で、視覚刺激を受けなかった方の被験者の脳波に起こる「揺らぎ」の発生頻度を分析してみました。

すると、驚くべきことに、視覚刺激を受けた被験者の視覚性の脳波の電位が最大となったのと同じ時間に、視覚刺激を受けなかったもう一人の被験者の脳波にも、通常時の電位変化とは明らかに違う変化が頻繁に起こっていることがわかりました。

複数以上のペアにおいて、視覚刺激を与えられた被験者と、「受信者」にあたる刺激を与えられなかった被験者のそれぞれの脳の中で、ほぼ同時に大きな電位変化が生じるのが確認されたのです。

さらに面白いことに、この脳波の「揺らぎ」現象は、被験者ペアの「親密さ」とは、関係なく発生していたということです。つまり、いわゆる「赤の他人」同士でも、脳波の伝達が起こったということが確認されたのです。

ドイツ人科学者たちはこの実験の結論として、「この現象は方法上の欠陥で生じたとは考えにくいものであり、しかもその性質を理解するのが困難な現象である。(中略)この現象を説明できる生物物理学的メカニズムは現在のところ知られていない」とだけ述べ、この現象がテレパシーと呼べるかどうかまでには言及しませんでした。

同様の実験は、この翌年にもアメリカ人科学者たちによって行われました。米国カリフォルニアの「ノエティックサイエンス研究所」というところで行われたもので、結果は2004年に論文発表されています。

この実験では、11組の成人カップルと、2組の母娘のカップルが被験者として採用されました。

実験の内容としては、各カップルに「互いにつながりを持っているという感覚(feeling of connectedness)」を持ち続けるように要請し、これに集中できるように、指輪や時計などの個人的な品をカップル内で交換させ、実験中ずっと握っているように指示するというものでした。

そして、カップルには相談して、どちらが「思い」を送る側で、どちらが「思い」を受ける側になるか決めてもらい、その後、お互いから電磁気的に隔離された個室に一人ずつ入りました。

次に、送り手が受け手に「思い」を送るスタート合図として、送り手に対して、別室で待機している受け手のビデオ画像がライブ放映されました。ライブ画像は1回あたり15秒でこの画像は実験時間中、17~25回、ランダムな間隔で提示されました。

しかし、送り手は、受け手の画像がモニタに映ったら、受け手の個人的な品を手に握り、その人のことを思いますが、受け手の側は、いつ自分のライブ画像が別室で放映されているのかは全く知らないという条件下におかれました。

受け手はその状態で、個室において送り手のことを思い続けている、というだけの状態に置いたのです。

こうしてて各カップルの頭部に電極が設置され、脳波が同時に測定されました。

その結果としては、前年のドイツ人科学者たちの実験結果と似たような結果となりました。

ビデオ画像の放映が開始されると、それを見た人物(送り手)の脳波には、これを見たことによる「誘発電位」の揺れが生じましたが、この時受け手側の脳波にも、やや遅れてではありますが、明らかに脳が活動したことを示す揺れが生じたのです。

また、ビデオを見た送り手の視覚性誘発電位が強く出ている場合には、受け手の脳波にあらわれる揺れも、やはり強い傾向があったといい、これらのことからこの実験を行ったアメリカ人科学者たちは、「何らかの、未知の情報的あるいはエネルギー的交換が、隔離された人々の間で存在する」という事実を肯定せざるを得ませんでした。

これらの科学的に立証された「脳波の伝達」を果たしてテレパシーと呼んでいいのかどうかは、いまだに結論は出ていないようです。

が、このようにかつては超常現象と呼ばれていたものに科学的なメスを入れるという行為は2000年以降頻繁になっているようであり、それらは宇宙における「暗黒物質」の解明努力がなされるようになったことと無関係ではないでしょう。

「幽霊粒子」と呼ばれている「ヒッグス粒子」が確認されたという報道は耳に新しいところであり、現代の科学技術をもってすれば、もしかしたらこれまで「幽霊」と呼ばれていたものの正体も明らかになっていくのかもしれません。

「テレパシー」もしかりです。もしかして、その存在が本当に確認され、人間同士だけではなく、動物と人間の間のテレパシーも解明されたら、遠い将来にはもしかしたら本当に犬猫の言葉を翻訳する機械も実現するかもしれません。

ただ、それをウチのテンちゃんにも装着しようものなら、毎日のように「遊べ~」、「遊べー」の声が聞こえてくるかも。あるいは「腹減った」、「今はその気分じゃないのよ」なんてのもありかもしれません……

……うっとうしくて仕方がありません。なので、声には聞こえない、今のテレパシーのままだけのほうが、お互いにとっては幸せ、なのかもしれません。

皆さんはどうお思いでしょうか。

まるくなってB

光ファイバー元年

7-29-1080360

西日本では激しい雨が降っているところが多いようで、私の郷里の山口もお隣の島根県との県境付近では、豪雨によるひどい被害が出ているようです。

私も帰郷すると、よく訪問することの多い津和野の様子がテレビで写し出されていましたが、エッあそこがこんなになるの、というほど町は溢水に覆われていました。貴重な歴史的な資源も多いところだけに、人的被害だけでなく、そうしたものへ被害が出なければ良いのですが……

そうしたテレビで目にする被害の様子を尻目に、こちら伊豆はどうかといえば、昨日はピーカンのお天気となりました。時々陽射しには恵まれるものの、どちらかといえば曇り空の多いすっきりとしない天気が続いていただけに、これはちょうどいい、ということで朝からぼうぼうになっていた庭の草取りに励みました。

なぜちょうどいいかといえば、曇りの日というのは、やたらに藪蚊が多く、ちょっと外へ出ようものなら、ものの数分で何ヶ所も刺されてしまい、長時間の草取りはほとんど命がけだからです。

この別荘地、標高が高いくせにやたらに藪蚊が多いのが玉にキズで、これがどうしたことが原因なのかはよくわかりませんが、ともかく夏の間中は蚊に悩まされるのは必須。

ところが、晴れた日にはこの蚊が激減し、ほとんど刺されません。何故なのかはよくわかりませんが、以前テレビでやっていたある動物特集ではこんなことを言っていました。

つまり、蚊は暗い色が大好きなので、藪や草の下などの暗いところに潜んでいます。が、日の当たるところは暗い部分が少なくなるので、そうしたところへ出てこない、というのです。

うーむ、本当かなーとは思ったのですが、そういえばお天気の日にはあまり蚊に刺されることがなかったような気もするので、ともかく、ここぞとばかりにほぼ半日かかって庭中の草抜きをしました。

すると……、この間、一度も蚊に刺されませんでした。劇的なことです。やはりテレビネタは本当だったか~とこのときばかりは感謝したものです。おかげで抜いた草は山のようになり、今朝がたそれをゴミ袋に入れてゴミ出ししてきましたが、この袋もビックサイズ3袋に及びました。

さて、このように、蚊の被害はここに住んでいて大きな問題なのですが、修善寺に住み始めて一年と4カ月余り、これ以外の大きな不満としてはもうひとつ、インターネット環境があまりよくないことがありました。

以前にもこのことについて書いたのですが、この地は山の上ということもあって光ファイバーが来ておらず、また電話回線を使うADSLを導入しようにも、NTTの基地局までの距離が遠いために、信号の減衰が激しく、回線速度としてはせいぜい3~5Mbps程度しか出ません。

しかし幸い、NTTドコモの携帯用のアンテナがすぐ近くにあり、このため、我が家の電波強度はほかの場所に比べればかなり強く、このためなんとか10Mbps程度の速度を出すことができ、これまでもインターネットは無線LAN接続でなんとかやってきました。

ところがなんと!画期的なことに、ついにこの伊豆の山奥にも光ファイバーが敷かれることになったのです。

それはつい一カ月前のこと。いつものように昼食を採って昼寝をしていたところ、ピンポーンの音のあとに、玄関先に何やら人声がします。どうも何かのセールスマンのようなのでどうせ関係ねーやということで、引き続き眠りの世界に戻ろうとしたところ、ドドドッという足音とともにタエさん登場。

曰く、NTT西日本の人が光ファイバーがどうたら言ってるよ~、というので、仕方ないな、どうせここへ光なんか来るわけないよ、何かの調査に違いない、と思って降りていったのです。

ところが、このセールスマンらしい人は私と顔を見合わせるやいなや、(お待たせしました)トークを始めたではありませんか。寝起きでぼんやりしていたのですが、よくよく話を聞くと、正真正銘光ファイバーがこの山奥まで来たということのようなのです。

何かの間違いだろう、もしかして詐欺?とも疑ったのですが、出された資料や名刺を見る限りはNTTのセールスさんに間違いないようです。半信半疑のまま話を聞いていたのですが、どうやら本当の話だということが次第にわかり、気が付くと即日、ネットプロバイダ契約と工事了承のサインをしていました。

それがおよそ一カ月前のこと。実は、この地域に光ファイバーを新規に入れるのは久々のこととのことで、このため申込みをする人が多く、これに対応できる業者さんの確保に時間がかかるため、実際の工事までにこれほど待たされることになったのでした。

こうして、ようやく我が家にも「光ファイバー元年」が訪れたのが一昨日のこと。工事業者さんがファイバーの新規敷設工事を終え、ルーターのセッティングをしてくれたあと、その日一日かけて自分で家の中の有線LANの配線を終えました。

昨日さっそくネット接続を試みようと思ったところが、この上天気だったため、やむなく予定を中止し、前述のとおり、草むしりをすることに。

ホントはすぐにでもネット接続を試したかったのですが、断腸の思いでこれを取りやめ、今朝になってようやくその接続作業を終えたのでした。

7-29-1080335

実は、伊豆に来る前に東京にいたころはマンションタイプのBフレッツに加入し、光回線を楽しんでいたのですが、それが伊豆に引っ越すことになり、無線LANでの接続にならざるを得ないとわかった時には、非常に落胆したものです。

それが、一年数か月のちにこうしてようやく光回線を手に入れることができるようになったわけであり、私としては非常に感慨深いものがあります。

東京都内や都市部にお住まいの方は、なーんだ、そんなことか、しょーもない、と思われるかもしれませんが、ここ伊豆では、おそらく私たちが住んでいるところが、FTTH(Fiber to the home)を実現している最南端でしょう。

ほかに伊東市街の一部にも光が来ていると聞いていますが、これが下田市まで行くのにはあと何年かかることか。おそらく私と同じような悩みを抱いていらっしゃる方は、伊豆にはさらにゴマンといると思います。

……ということで、今日のブログは我が家の回線が光ファイバー化して初めての配信ということになります。以前はイライラしていた写真のアップも従来よりは格段に早くなったことから、今後はブログの更新もより頻繁にできるように……なるかも!?

ま、あまり期待しないでいただくとして、それにしても、この光ファイバーを初めとする、近年の情報伝達技術の発達には目覚ましいものがあります。

いつのころからこんなことになったのかな、と改めて調べてみると、これは1980年代に世界的に通信自由化の流れが起こったころのことが始まりのようです。

日本では、1985年に電電公社がNTTに民営化したことで、通信開放によりパソコン通信サービスが始まるようになり、以前は規制されていたインターネットの電子メールの交換が行えるようになり、これがこの後のネット時代の幕開けのはしりであったようです。

ただし、このころはまだネットによるパソコン通信は、原則として特定のサーバとその参加者(会員)の間だけの閉じたネットワークであり、日本国内だけでなく外国の情報などを自由に得るなどということは夢のようなお話でした。

その後1989年にはWWW(World Wide Web)が登場。ご存知の方も多いでしょうが、WWWとは、ウェブページを記載するためのHTMLやXHTMLといった記述言語のことです。

この言語技術を用いることで、インターネット上に散在するドキュメント同士を相互に参照可能にするシステムの構築が可能となり、こうした技術の開発と導入はこの当時としては画期的なことでした。

何が画期的かといえば、例えばマウスによるクリックなどによって遠くにあるパソコンのページ間を移動することや、そのパソコンにある別のファイルに保管してある画像を何の制限もなく自分のパソコンの中のドキュメント内に自由に表示させることが可能になったことです。

現在では当たり前に行われていることなのですが、この当時のメールだけのパソコン通信ではこうした高等技術は使えず、このころにできることといえば、文章のやりとりだけだったのです。それを思えば、この技術がいかにすごいことかおわかりでしょう。

World Wide Webとは、こうした技術の導入により、ネット利用者のつながり方が「蜘蛛の巣」のように広がっていくことから名づけられた言葉であり、意味としては「世界に広がる蜘蛛の巣」ということになります。

このWWWの普及により、1990年代前半頃からのはインターネットの世界的な普及がはじまりました。

情報伝達のハード技術としては、1990年代前半には、まだ通信速度が 9600bps~14400bps程度の電話モデムだったものが、2000年代前半になるとADSL方式によるブロードバンドインターネットの家庭への普及がはじまりました。

その後のインターネット技術の発展は、各国ともさまざまです。いまだにアメリカのようにADSLやケーブル方式が主流の国もあれば、日本のようにFTTHの契約数が2000万を超える(2013年6月時点で22,385.8万)ような国もあります。

日本における光ファイバーによるネットサービスは、2000年にNTTが「光・IP通信網サービス」として一部の東京都1区部及び大阪市で試験サービスを開始したのがはじまりのようです。

その後数ヶ月間の期間を経てから2001年(平成13年)8月に「Bフレッツ」として光ファイバーを用いた通信サービスが本格的に開始され、現在に至っています(現在はNTT西日本が「フレッツ・光プレミアム」に、NTT東日本が2「フレッツ・光ネクスト」に移行)。

そして、前述までのように、ある程度の普及は進んではいるものの、現時点においては日本の隅々にまで光ファイバーが行き渡るのにはまだもう少し先といった状況です。

総務省はFTTHの世帯普及率を2015年頃をめどに100%まで上げることを目指していると言っているようですが、NTTは経済的合理性からこのスケジュールでの提供は不可能であるとしており、どうやら下田にまで光ファイバーが行くのはかなり先のことになりそうです。

とはいえ、FTTHによるサービスはブロードバンド・ゼロ地域の解消や携帯電話が使えない、いわゆる「不感地帯」の解消の実現のためにも期待されています。

光ファイバーはADSLとは異なり距離に関係なく一定の通信品質を提供できることから、地理的条件に左右されず希望者にサービスが提供できるためでもあります。

しかしその敷設にはかなりの投資が必要となり、NTTを初めとする電気通信事業者が採算性を理由にサービスの提供を拒否している地域が多数存在しています。

近年のサービス提供エリア拡大によりある程度格差が解消されつつある傾向はあるものの、ADSL回線では通信できなかったり低速な通信しかできなかったりする、本来本当にFTTHが必要とされる過疎地域や市街地の周辺地域については不満が拡大しつつあるといいます。

7-29-1080324

そんな中にあって、よくぞこんな山の上にまで光を引いてくれたものだと感謝至極なのですが、よくよく考えてみればここは、修善寺温泉街という一大観光地のすぐ側にあり、敷地内には「かんぽの宿」や大手による老人介護施設などもあり、私としては前々から何故ここに光が来ないのか、不思議でしかたがなかったのです。

ただ、別荘地とはいえ、かなりの家屋は空き家であり、また週末利用の別荘も多いことから、NTTとしても二の足を踏んでいたのだと思います。

それがここへ来て急に光を導入する気になった理由を考えてみたのですが、よくわかりません。

が、昨年までの段階で、麓の修禅寺温泉や大仁市街までには光が来ており、おそらくはその延長上でどこかにケーブルを延長していくとすれば、このあたりのほうが、他地域よりもまだ民家が密集している、ということだったのではないでしょうか。

事実、これ以外の中伊豆地域に目を向けてみると、修善寺以南でまとまった集落があるのは、湯ヶ島ぐらいであり、その先となると天城峠を越えた河津になってしまいます。

修善寺から湯ヶ島まで十数キロ。しかもここには鉄道も行っておらず、大規模な店舗や銀行といった施設も少ないことから、果たしてここまで光が行き届くまでにあと何年かかることやら。

自分のところだけ、光が来たからエラそうに言えることではあるのですが、政府の目指す「2015年頃をめどに100%のFTTHの普及」までは、まだまだ遠い道のりのように思えます。

さて、今日は何のかんのと、昨日の草取りの影響で腰が痛く、いつもはこれから長い延長戦に入るところなのですが、この辺で終わりにしたいと思います。

……と書きながら、実は光ファイバーの導入で可能になった「光テレビ」が気になっている、というのが本音でもあります。これまでテレビでインターネットを体験するということをしてこなかったので非常に楽しみです。

ま、あまりのめり込まぬよう、そのせいでブログ更新を怠ることのないよう、努力いたしますゆえ、今日のところはご容赦願いましょう。

人身御供と人柱

青空に映える
暑い日が続きます。もう少し雨が欲しいなと思うのですが、先日書いたとおり、やはり空梅雨のようで、少量降ったとしても長続きせず、庭への木々への水道水からの水遣りは欠かせません。

少々雨乞いしたくらいでは雨も降りそうもありませんが、かといって大昔の日本や中国のように人身御供を天に捧げるわけにもいきません。

大昔の中国では、さかんに生贄が捧げられたそうで、ただ、これは必ずしも雨乞いだけのためではなく、地震や洪水などの大規模な災害が起こることに備えての災害発生予防のためでもあったようです。

もっとも自分のテリトリーの身近な人間を人身御供に捧げるのはやはりためらわれたようで、この際には、捕らえた異民族のほうを優先していたようです。

しかし、やはり古代中国の人間にも憐憫の心はあったとみえ、こうした捕虜たちの処遇をどうするかについては占いで決めていたようで、その占い結果を表したと見られる甲骨文字がいくつか出土しています。

これらの出土品から、紀元前の1000年から1700年の殷代にはさかんに人身御供が実施されていたことが実証されています。ある墓からは45人分の殉葬者の人骨が出土した例もあり、また、殷墟の宮殿の基壇の跡からは850人分の武装した軍隊の人骨が戦車(馬車)ごと出土したといいます。

ただ、捕虜ばかりではなく、殷の国民自身も時には人身御供の対象にされていたと推測されているそうで、これらの中に身分の高い人が含まれていたことがその証拠だとか。

が、いずれにせよ、気紛れな自然に対する畏怖のための風習とはいえ、古代社会では自国、他国を問わず人命といえどもかなり軽く扱われていたという印象はぬぐえません。

もっとも、このころには現代のような発達した科学技術があるわけではなく、災害対策といっても人間が具体的にできることは限られていました。災害や飢饉によって人の命は簡単に失われる物であり、それならばいっそのこと、自然が飢えて生贄を求め猛威を振る前に、人身を捧げる事で災害の発生防止を祈願しようとしたのでしょう。

しかし、さらに時代が進んで、紀元前200~400年の戦国時代になると、中国各地に割拠していた国々の中の、例えば「魏」では、人身御供の儀式をやめさせ国を発展させようという機運が出てきました。

この魏には、西門豹(せいもんひょう)という優れた政治家がいました。孔子の弟子に、子夏(しか、別名「卜商」)という高弟がおり、孔門十哲の一人とされていましたが、この子夏の門下生でした。

そして同じく弟子であった李克という人の紹介で彼が使えていた魏の王様、文侯に仕えるようになり、現在の河北省の鄴(ぎょう)という土地の知事に起用されました。

実は、この鄴という土地は、非常に荒れ果てた土地であり、彼の地の人々達は、毎年のように水不足に苦しみ、ときには飢饉にも見舞われていて人心も非常に荒廃していました。そこで文侯は、初めて採用した西門豹をここに使わし、その実力のほどを試そうとしたのです。

そんなことは全く知らされていない西門豹は、鄴に赴任してきてまず、地元の農民達を集め、どんな苦難があるか聞きました。

当時鄴ではこの地に伝わる迷信のため、毎年に河に住む神(河伯)に若い女性を人身御供のために河に沈め、また巫女や三老と言われる長老や儀式を管理していた役人にも多大な財産を差し出すということがしきたりとなっており、農民たちは口々にその惨状を訴えはじめました。

それによれば、巫女や役人に供せられる金銭は膨大なもので、民衆の生活が困窮するほどでしたが、実際には儀式に使われるのはそのほんの一部で、残りは巫女や三老、役人達が山分けしていたのでした。

また、人身御供に年頃の娘を差し出すことを強要されていたため、娘がいる家では鄴を捨てて国外へ逃亡し、こうした農家が管理していた田畑は荒れ放題となっていました。

これを聞いた西門豹は「横取りされているのが解っているならば、止めればよいではないかと」農民たちに言いましたが、彼らは「そんなことをしたら河の神のお怒りを買ってしまいます」と答えました。

実は、自分ことを西門豹に話したことが分かれば役人たちからまたどんなひどい目に合うかがわからないため住民たちはそう答えたのですが、これを聞いた西門豹は「なるほど、わかった」とだけ答え、農民達を帰しました。

青空をのぞむ

しかし、西門豹はこの迷信による長年の風習により、巫女・三老・役人らがこれに付け込んで村人の富を搾取して肥え太り、農民達が困窮したので土地が枯れたとことをちゃんと見ぬいていました。

更には、この土地を豊かにするためには、灌漑などの工事も必要だと考えましたが、この迷信を人々が信じている限り、なかなか河にも手を付けられないと判断しました。

そこで、まずは、人身御供の儀式が行われる日、西門豹これを見学したいと言って、護衛の兵士を伴って河岸へ行きました。河辺には既に巫女や役人、三老達とともに多数の見物人が居ましたが、そのそばには生贄にされる予定の女性も引き連れられて来ていました。

これを見た西門豹は、「これでは器量が悪すぎる。もっと良い娘を連れてくるのでしばらく待ってくださいと、河の神に伝えることにしよう」と周囲の者たちに言いました。

そして、「ただし、待ってもらう間にお怒りを買わぬためにも、このことを伝えるためには最も河の神と親しい者を遣わす必要がある」と、すぐそばにいた老巫女のほうを向き直り、彼女を指さしました。

役人たちはお互い顔を見合わせましたが、西門豹がうなずくと、その視線の先にある老婆を羽交い絞めにし、抗う彼女を河に投げ込みました。

西門豹は、巫女が沈んだ川面をしばらく見つめていましたが、やがて「神のもとに巫女を遣わしたが帰ってこない。様子を見てこられよ」と言い、この巫女の弟子の女官たちをも河に沈めるよう、兵士たちに命じました。こうして女官たちもすべて河に投げ込まれました。

しかしそれでも女官たちが帰ってこなかったことから、「巫女の弟子達も帰ってこないようだ。おそらく女ばかりを遣わしたので、河の神への願いが難航しているに違いない。続けてこれまでも河の神に貢献している三老に手助けをお願いしよう」と言い、そばにいた三老達も河に沈めるように兵士たちに命じました。

ここまでのことを見ていた農民たちは、あまりのことに誰もが唖然としていましたが、一人毅然と川岸に立つ西門豹は何か神々しく、まるで河の神がそこにいるかのようでした。

西門豹は更にしばらく川面をみつめていましたが、やがて「おかしいぞ。三老も帰ってこない。だとすると、次に遣わすべきは、これまで河の神のために多額の金銭を集めてきた役人であろうか」と役人達のほうを向いて静かに言いました。

役人達はたちまち真っ青になり、「どうかその任だけは何卒お許しください」と平伏して詫びました。役人たちの顔色はどれも血の気が引いて土のような色になっていたといい、わなわなとふるえながら頭を地面に押し付けすぎたため、額からは血がにじむほどであったそうです。

西門豹は静かに彼らの様子を見ていましたが、やがて川面のほうに視線を戻し、まるでひとりごとのように、「どうやら今日の河の神は客人をもてなしただけで、帰さないようだ。いつ帰ってくるかもわからぬから、今日はもう皆も帰るがよい。ただ、もし誰かがまたこの儀式をやりたいならば、私のところにそう言いに来るがよい」と言いました。

役人も民衆もこのことばに恐れおののき、以後、こうした生贄の儀式は二度と行われなくなったといいます。この結果、この後は農民たちは貢物を搾り取られなくなるとともに、娘を差し出す必要もなくなり、以後村からの脱出者はいなくなっていきました。

迷信と権力者達は一掃され、役人も民衆も西門豹の言うことに従うようになっていったのです。



こうして悪しき風習を見事に配した西門豹は、次に鄴付近の村の長老を呼び集め、大規模な灌漑事業を起こすことを伝えました。遠くは黄河や漳河などの近隣の川から鄴の田畑へ水を引き、この地を豊にしようというのです。

ところが、この大事業に対して長老や鄴の人々たちは「今のままでも暮らしてはいける。何故これほどのことをやらねばならぬのか」と不平不満を漏らしました。これに対して、西門豹は「いつの世も民とは結果だけは共に喜べるが、その始まりを共に考えることは出来ない」と嘆息したといいます。

そして、周囲にいた部下たちに向かって「父兄が不満を言っているのは分かっている。しかし、最初は彼らすべてが理解する必要はない。結果が彼らの子や孫のためになればよいのだ。100年後かも知れないが、必ず評価されるだろう」と述べ、工事の遂行を強行させたといいます。

この結果、大規模な灌漑事業により、その後の鄴の農業は大きく発展し、魏は強国となっていきました。このころの魏は晋の属国であり、文侯もまた晋の陪臣でしたが、こうして国が強固になっていく過程でその発言力も強まり、やがてそれまでの地位を脱して周の諸侯に列するようになり、やがては戦国七雄に数えられるまでになりました。

このころまでに鄴の人々は、自分達が食べる分には困らなくなり、そればかりか他国へ分け与えられるほどの十分な穀物を得ることができるようになっていたといいます。

倒木

こうして西門豹はよく鄴を治め、その富を増やすことで魏の立国にも大きく貢献しましたが、そうした成功にも奢ることはなく、僅かでも私利を貪ることはなかったといいます。

ところが、文侯の取り巻きには厳しく、彼らが賄賂を要求しても拒んだため、中央での評価は良くありませんでした。やがて取り巻き達は文侯に対して、西門豹の中傷を吹き込むようになり、やがて文侯もこれに動かされ、西門豹が業績の報告に来た際に、鄴の知事を解任する、と告げました。

すると西門豹はすぐに文侯の下に平伏し「私は間違っておりました。心を入れ替えますので、今一度機会を下さい」と懇願したといいます。文侯は哀れに思い、再度鄴の知事に任じました。

そして、鄴へ帰った西門豹はこともあろうか民衆に重税をかけるようになり、絞りとったものを文侯の取り巻きにせっせと贈るようになったといいます。

そして、その報告のために再度文侯のもとを訪れたとき、文侯は彼を労うために、自ら宮殿の入り口まで出迎えました。

そして、城へ入る前の門前で西門豹は文侯にこう言いました。

「私は全力で民と文侯様のためになるように鄴を治めてまいりましたが、文侯様は一度私を解任しようとされました。そして今度は文侯様の取り巻きのために治めましたところ、文侯様は私を労われました。かつて私は文侯様から鄴の国の民のために働くように言われ、長年勤めてきましたが、今回のことで誰のために鄴を治めてきたのか判らなくなりました。」

文侯は黙って西門豹を見つめていましたが、やがて目を伏せて悲しそうな様子を見せました。そんな文侯に向かって西門豹は、ひとこと「役目は返上させて頂きます」と言い残して去っていきました。

城へ戻った文侯は、しばし黙考していましたが、やがて自らの不明に気づき、慌てて西門豹を追いかけさせましが、その後、彼の行方をつかむことはできなかったといいます……

……何分にも紀元前のお話ですから、このはなしのどこまでを信じていいのかはわかりません。

が、鄴の人々はのちのちまでこの西門豹の業績を称えたといいます。その後、紀元前に魏に代わってこの地を征服した漢王朝が、この西門豹が作った水路を改修し、自分たちの都合の良いように流路を変える命令を出した際、西門豹が統治していたころのことを知る土地の古老達はこれに強行に反対し、命令を却下させたという言い伝えが残っています。

地元の人に、後世にまで大いにその業績が評価されていたということの表れでしょう。このためか、彼の祠だとされる「西門豹祠」が、漳河河畔の鄴の故地である安陽市付近には多数残っているといいます。

また、のちの三国時代の曹操がその死に瀕したとき、「西門豹祠近くの西に私の墓を作れ」と遺言しており、相当な敬意を持っていたことがわかります。現在の中国でも西門豹のことは教科書などに載っていて、日本ではあまり知られていませんが、有名な人のようです。

こうした西門豹の活躍もあり、その後中国各地では人身御供の習慣は廃れていったようです。秦の始皇帝陵の副葬品である陶製の兵馬俑は、かつての人身御供がそれまでとは形を変えたものと推定されており、これ以後の時代の発掘墓からは大量の人骨が出るといったことは少ないそうです。

逆光の中で

ところが一方の日本では、舎人親王らが養老4年(720年)ころに完成させた、「日本書紀」』に登場する大阪府の「茨田堤」の建設に関する記事の中に人柱に関する記載があるそうで、このほか、同時代の長野県の諏訪大社や奈良県の倭文神社などでも人身御供にまつわる話が残っているといいます。

日本では、人身御供のために犠牲となった人間のことをよく「人柱」といい、「白羽の矢が立つ」ということばは、この人柱を差し出す家に白い羽がついた矢が刺さったことに由来しています。

無論この矢は人為的に立てられたものではあるわけであり、匿名の誰かによる指名行為であった訳なのですが、この匿名者とはいうまでもなく時の権力者たちだったことでしょう。

しかし何も知らないこの当時の人々はこれが「神意」によるものだと信じ、この矢が家屋に刺さった家では、所定の年齢にある家族を人身御供に差し出さなければならないという風習になっていきました。

なぜ白い羽なのかはよくわかりませんが、「白」は古来から神聖な色であり、白羽の矢は何等かの霊的な存在が目印として矢を送ったのだ、と考えられたわけです。

近江国伊香郡(現滋賀県長浜付近)には、水神に対して美しい娘の生贄を奉るという風習がかつてあり、当地では生贄となる娘は必ず片目が選ばれたそうです。柳田國男の「日本の伝説」によれば、神が二つ目を待った者より一つ目を好んだからだそうで、一つ目の方が神と一段親しくなれたのだそうです。




生贄としては、人ではなく、動物が捧げられることもあったようですが、例えば神の贄として魚が選ばれたときには、これをわざと片目にするということなども行われていました。

実は静岡には、人身御供や人柱の伝説が多いのだそうです。その例としては、富士吉原市の三股淵、浮島沼の人身御供や磐田市の見附天神の人身御供などがあって、これらの生贄伝説は学者たちの間でも結構有名なのだとか。

1967年に発行された富士吉原市の広報誌には、この三股淵の人身御供について触れられており、それによると、この三股淵の付近では毎年6月28日に祭りを行いますが、かつては12年に一度、通常の祭りとは別に人身御供を伴うお祭りをやっていたそうで。これは大蛇の怒りを鎮め大難を防ぐための祭りだったといいます。

この三股淵の例もそうですが、人身御供となる者の条件、人身御供の儀式についてその詳細が書かれていることはそれほど多くないようです。が、各地に残っている伝承などを総合すると、生贄となる者の条件は、だいたい15~16の少女で処女、ときには「美女」でなければならないという条件が付加されている場合もあったようです。

人身御供の方法としては、生贄に選ばれた少女が生きたまま淵に投げ込まれることもあったようですが、これではあまりにも無残なので、生贄自らが入水(じゅすい)の形を取ることが多かったといいます。

人身御供を捧げる相手は、大蛇や竜神などの特定の神である場合も多いようですが、生贄を捧げる相手はただ単に「神」であるとされる場合も多く、無論、日本における神々の多くは自然に存在する万物の「例え」であり、これらの怒りを鎮め、災害や厄災いが人々に降りかからないようにするための儀式にほかなりません。

このため、一般の女性だけではなく、神にその意思を伝える能力のある人物ということで、巫女が人身御供となったことも多かったと伝えられています。

こうした人身御供は、公共の面前で堂々と行われるというよりも、「秘事」としてこっそりと実施されることも多かったようです。

このため、ある日を境に村のある娘がいなくなるなどということはよくあり、これが人柱のためであるとうことを薄々知っている人もいたでしょうが、たいがいはこれを神隠しであるとか、神がかりであるとか言って済ませていました。

ところが、長い間には、どうやらこうした人身御供が「神事」として密かに行われているらしいことを土地の者が知るようになり、こうした神事は、祭日に行われることも多いことから、これを免がれんがために、祭日には娘を外出させないようにする、ということも行われたようです。

しかも、自分の土地の人間を生贄にはしたくないので、旅人を捕えて人柱にするということもやっていたようで、こうした噂が広まると、他国人の往来がなくなってしまう可能性もあることから、尾張藩などでは藩命をもってこうしたしきたりをやめさせようとした、という記録なども残っているようです。

ヤドリギ

ただ、ここまで書いてきたような人身御供、もしくは人柱は、あくまで「伝説」の域を出ないものも多いのは確かです。まがりなりにも人の命を軽々しく神に供するというのは、昔の人にとっても「禁忌」であり、実際に行われていたとしても、公の記録に残っているものは少ないわけです。

ただ、建築の時に人柱が埋められたという伝説が伝わる城郭はかなりあるようで、一方では「人柱のような迷信を禁じ、別の手段で代行して建築を成功させた」という名君の伝説が残っている場合などもあります。

これらの伝説の最近の実証研究の結果では、そうした専門家の一人は「城郭建築時の人柱伝説が立証されたケースは全くない。人柱に変えてなんらかの物を埋めたものが発見されることは存在する」と述べています。

ところが、城郭以外では、物証のあるものがいくつか発見されており、以下のような事例があります。ここに示した広島の吉田郡山城のように、人柱の代わりに石を埋めたという事例もありますが、これは逆にそれまでは人柱が立てられていたことを証明するものであると言われています。

○猿供養寺村の人柱(現・新潟県上越市板倉区猿供養寺)
鎌倉時代にここを訪れた遊行僧が、地すべり被害の絶えなかった土地の人々のため、自ら人柱となって災禍を止めたそうで、長らく伝説とされていたものの、1937年(昭和12年)にこの村の「正浄寺」というお寺の裏から大甕に入った推定年齢40歳前後の男性人骨が発見。

脚が太く腕は細いことから肉体労働者ではなかったと考えられ、座禅の姿勢で発見されたことから、史実であることが確認された。

○吉田郡山城の人柱代用の百万一心碑(広島県広島市、山口県山口市)
毛利元就が築城した時、石垣が度々崩れる為、巡礼の娘を人柱にする話が持ち上がった。しかし、元就が人命を尊重して人柱を止めさせ、「百万一心」の文字を石に書いて埋め、築城を成功させた。この石碑は幕末に発見され、明治時代に拓本が写しとられ、山口市内の豊栄神社に奉納されている。

○江戸城伏見櫓の人柱(東京都千代田区)
江戸城伏見櫓(現在の皇居伏見櫓)は、徳川家康が伏見城の櫓を解体して移築したものと伝えられているが、1923年(大正12年)に発生した関東大震災で倒壊し、その改修工事の最中、頭の上に古銭が一枚ずつ載せられた16体の人骨が発見された。

1603年~1614年の慶長期築城の時、伏見城の櫓を移築した後で人柱を埋めたものではないかといわれたが、人柱とするには余りにも粗末に扱われていることから江戸城研究家たちの間では、人柱説に対して否定的な意見がある。

○常紋トンネルの人柱(北海道北見市と遠軽町を結ぶ常紋峠直下)
難工事の末、1914年(大正3年)に開通した常紋トンネルは、1968年(昭和43年)の十勝沖地震で壁面が損傷したが、1970年(昭和45年)に改修工事が行われた際、立ったままの姿勢の人骨が壁から発見され、出入口付近からも大量の人骨が発見された。

それまでもタコ部屋労働者(略称:タコ)が生き埋めにされたことについて、当時のタコやその他関係者たちの証言もあったが噂にすぎないとされていたが、この遺骨群の発見によって、かねてより流布されてきた噂のうち人柱の件は事実であったことが証明された。

上記のうち、常紋トンネルの例はもっとも信憑性の高いものと言えます。この常紋トンネルの建設というのは、この当時かなりの難工事だったそうで、標高約300m、全長507mのトンネルを掘るのに3年を要したといいます。

この当時はまだ、日本政府による開拓・道路整備等が十分でなかったためであり、このため工事にあたっては凄惨過酷な「タコ部屋労働」が行われ、多くの工夫たちの犠牲をもって建設されたことでも有名です。

施工当時は、重労働と栄養不足による脚気から労働者は次々と倒れ、倒れた労働者は治療されることもなく現場近くに生き埋めにされたといいます。

このため、この当時から「常紋トンネルには人柱が埋まっており、彼らの亡霊がトンネルや信号場に出る」とい噂が鉄道員たちの間で絶えなかったといわれており、地震のおかげでこれが事実であることが確認されました。

このため、1980年(昭和55年)には、当時の留辺蘂町(現在は広域合併により北見市に編入)によって近くの金華駅西方の高台の小学校跡地に「常紋トンネル工事殉難者追悼碑」が建てられたそうです。

大正3年、1914年といえば、およそ100年前のことになり、かなり古い話とはいえ、日本が西洋文明を取り入れ、近代化の道を歩むようになって以降の話であり、結構ショッキングな出来事ではあります……

ひとり

さて、今日は、雨乞いの話に始まってとんでもない方向にまで来てしまいましたが、そろそろ終わりにしたいと思います。

今日の伊豆は曇りの予報でしたが、さきほどからまぶしい日差しが照りつけ始めており、セミの合唱も増えてきました。

みなさんの町はいかがでしょうか。暑さの中、脱水症、熱中症には気を付けましょう。かくいう私もこれから庭の雑草の処理にあたりたいと思いますが、ぶっ倒れないように気を付けたいと思います。

夏の伊豆に来られる方、ぜひとも雨乞いをお願いいたします……




続 河童の死

さて、昨日の続きです。

芥川龍之介が「歯車」や「河童」といった破滅的な内容の作品を書いた晩年は、病に苦しんだ日々ではありましたが、そんな中、龍之介は文との間に三人の子供を設けています。

長男の比呂志を筆頭に、多加志、也寸志の三人がそれであり、ご存知のとおり、この兄弟のうちの比呂志は後年著名な演出家になり、三男の也寸志もまた有名な作曲家になりました。

次男の多加志は、三人のうち最も文学志向が強く、このため龍之介にもよく似ていると言われていたようで、長じてから京外国語学校(現東京外大)仏語部文科に進みましたが、残念ながら二次大戦の戦役にとられ、ビルマで戦死しました。

長男の比呂志は、俳優としても活躍した人で、舞台の他、ラジオドラマ・ナレーション・映画・テレビなどにも数多く出演。1963年、仲谷昇、小池朝雄、岸田今日子、神山繁らと共に文学座を脱退し、「現代演劇協会」を設立。協会附属の「劇団雲」でリーダーとして活動しました。

1966年にはNHK大河ドラマ「源義経」で源頼朝役も演じており、俳優業の傍ら、演出家としての才能も発揮し、1974年には「スカパンの悪だくみ」の演出で芸術選奨・文部大臣賞、泉鏡花の戯曲「海神別荘」の演出で文化庁芸術祭・優秀賞を受賞しています。

しかし、晩年には若い頃からの持病である肺結核が悪化していて入退院を繰り返し、1981年、療養中だった目黒区内の自宅にて死去。享年61歳という若さでした。

一方、三男の也寸志は、1947年に東京音楽学校本科を首席で卒業すると、すでに在学中に作曲していた「交響三章」などが着目され、すぐに作曲家として引っ張りだこになっていきました。快活で力強い作風と言われ、「交響三章」は特に人気のある代表作であり、このほかにも「交響管絃楽のための音楽」「絃楽のための三楽章」などの名作があります。

また映画音楽・放送音楽の分野でも「八甲田山」「八つ墓村」「赤穂浪士のテーマ」などの作曲をした人としてよく知られているとともに、童謡の分野でも「小鳥の歌」「こおろぎ」などの抒情あふれる曲をつくりました。そのほか、多くの学校の校歌や日産自動車の「世界の恋人」など、団体(企業等)のCMソングや社歌も手がけています。

也寸志はその生涯で3回結婚していますが、2度目の妻は女優の草笛光子です。最初の妻との間に生まれた長女・芥川麻実子はタレントとして活躍した後にメディアコーディネイターになりました。また、3度目の妻はエレクトーン演奏の名手といわれた江川真澄でしたが、彼女との間に生まれた息子・芥川貴之志は現在もグラフィックデザイナーとして活躍しています。

このように、龍之介の死後もそのDNAはその息子たちに受け継がれ、現在に至るまで脈々と生き続けています。

ちなみに、也寸志は、その生前、父・龍之介に対しては強い尊敬の念を抱いていたといいますが、しかし同時に有名人の息子であるがゆえに、ことあるごとにそのことを知人に引き合いに出され、苦しんだそうです。

「学校を卒業して社会に出た時には、ことある毎に「文豪の三男」などと紹介され、いい年をして、親父に手を引っぱられて歩いているような気恥ずかしさに、やり切れなかった」と語っています。

また、「父が死んだ年齢である三十六歳を越えていく時は、もっとやり切れなかった。毎日のように、畜生! 畜生! と心の中で叫んでいた。無論、自分が確立されていないおのれ自身への怒りであった」とも告白しており、父の死はその生涯に大きな影を落としていたようです。

その後も長く名作曲家として活躍しましたが、1989年、東京都中央区の国立がんセンターに入院中、肺癌のため逝去。享年63才。最後の言葉は「ブラームスの一番を聴かせてくれないか…あの曲の最後の音はどうなったかなあ」だったといいます。

これより2歳若くして逝った長男の比呂志よりもわずかばかり長く生きましたが、父の龍之介といいその息子といい、どうもあまり長生きはできない性質(たち)の人々のようです。

彼らの父の龍之介は、その後その名を文学界の「芥川賞」に残しましたが、その息子の也寸志もの音楽界での功績を記念して、1990年にはサントリー音楽財団により「芥川作曲賞」が創設されており、親子でこうした賞によりその名を歴史に刻んでいくことになりました。

また、也寸志の死の半年後、埼玉県松伏町には、彼が作曲した「エローラ交響曲」から名を取った「田園ホール・エローラ」も完成しています。

さて、龍之介のその後の話に戻りましょう。この三兄弟の末っ子の也寸志が生まれた1925年(大正14年)、龍之介は専修学校の文化学院文学部講師に就任していますが、その翌年には、胃潰瘍・神経衰弱・不眠症が高じ再び湯河原で療養しています。

一方、妻の文は自身の弟・塚本八洲が病を得たことから、その療養のために実家が鵠沼に持っていた別荘に移ることになり、彼を看病するためにここへ息子たちを連れ、弟とともに移住しました。

このため、一時は龍之介と別居状態となりましたが、その後龍之介も鵠沼にある旅館「東屋」という宿に滞在するようになり、その後、この東屋の北方にあり、同じ東屋の経営だった貸別荘を借りてここへ妻子を呼び寄せ、一緒に住まうようになります。

そしてこの鵠沼で開業医、富士山(ふじたかし)という医者の治療を受けつつ療養を続け、この間、晩年の作品群の多くを執筆しています。

ちなみに、この東屋という旅館は、数々の文士が逗留した宿として有名であり、明治期には、志賀直哉と武者小路実篤がここに滞在して「白樺」の発刊を相談し、これがやがて白樺派を生みだすことにつながっていきました。

龍之介が滞在したのちの1936年(昭和11年)にも、川端康成が滞在して少女小説「花のワルツ」を執筆していますが、その後日本が戦争に突入していく中で、旅館業も振るわず、1939年(昭和14年)に廃業。その建物も戦後まで残っていましたが、1957年以降解体され、今は記念碑しか残っていません。

この龍之介が滞在していた時代はまだ文士の溜り場といった雰囲気だったようで、堀辰雄、宇野浩二、小沢碧童、斎藤茂吉、土屋文明、恒藤恭、川端康成、菊池寛といった当時の蒼々たる文壇の名士たちがここを訪問しています。彼らとの交流のためにこの鵠沼で借りていた東屋の別荘もさながら龍之介サロンのようだったといいます。

しかし、ここには結局一年弱いただけで、元号が昭和に替わってからは、妻子をまず田端に返し、そのあと龍之介はしばらくここにとどまっていたようです。が、結局はその翌年の1927年(昭和2年)の正月には自身も田端に帰っています。

ただ、この鵠沼の家は4月ころまで借りていたといい、その後も時折訪れていたといいますから、龍之介はこの東屋という旅館をよほど気に入っていたのでしょう。

そんな折、1927年(昭和2年)の正月の余韻も冷めやらぬ頃、義兄の西川豊(次姉の夫)が突然、放火と保険金詐欺の嫌疑をかけられ、西川はこれを苦にして鉄道自殺します。

また、ちょうどこのころ、実家の田端では芥川家の当主であった異母弟も亡くなっており、このため龍之介は、西川の遺した借金やその家族、また養父母の面倒も見なければならなくなり、自身の持病に加えてまた心労を得ることとなります。

このころ知人に宛てた手紙には「又荷が一つ殖えたわけだ。神経衰弱治るの時なし。毎日いろいろな俗事に忙殺されている」とこぼしています。

さらに龍之介を悩ませたのは、このお膝元の田端で同居する芥川家の老人たちだったといいます。

龍之介の伝記には、死の直前、彼が自家の老人達のヒステリーに悩んでいたことが記されており、主治医の下島勲が龍之介の健康を心配していろいろ助言しているのに対し、彼は「こちらのことは御心配なく。それよりもどうか老人たちのヒステリーをお鎮め下さい」と手紙で頼んでいるそうです。

彼はまた別のところで、「老人のヒステリーに対抗するには、こちらもヒステリーになるがいいと教えられたので、今それを実践中です」というような内容の手紙も書いているといい、この老人たちの言動がかなり晩年の龍之介を苦しめていたことがわかります。

芥川は結婚後、養父母と伯母という三人の老人と同居していました。最初はそのことを取り立てて苦にはしていなかったようで、彼は一日中、二階に腰を据えて原稿を書くか、訪ねてくる編集者や友人と会うかしており、同じ家にいても老人達と言葉を交わすことがほとんどなかったようです。

ところが、義兄や異母弟が亡くなって、龍之介が芥川家一族の中心になると、彼は老人達と腹を割って話さなければならなくなり、このことは彼の持病をさらに悪化させる原因となっていきました。

このころから二階の書斎にこもりきりになり、あまり人とも合わなくなっていったといい、その理由は扶養する老人達の前に姿を現わせば、彼らとの接触は避けられないためだったようです。

さらにこの頃、龍之介はその秘書を勤めていた平松麻素子という女性と帝国ホテルで心中未遂事件を起こした、といわれています。

これは私としても初耳だったので、詳しく調べてみたのですが、どうも真相は明らかになっていないようです。ただ、推理作家の松本清張が「昭和史発掘」という著書の中で、この龍之介の自殺未遂について触れており、ここにはかなり核心に近い「らしい」ことが書いてあります。

実はこの「昭和史発掘」は私も大学時代に通読しており、国鉄総裁が轢死した下山事件の真相などのいろんな昭和の事件に触れており、なかなか面白い読みものでした。

その内容はほとんど忘れていましたが、この龍之介の項を書き始めたときにネットで色々調べていたら、この清張さんの著述に触れている方がいたので、それで私も松本さんがこのことを書いていたことをおぼろげに思い出しました。

このころ、妻の文は、持病に苦しむ夫が、老人たちとの軋轢からしばしば過激な言動も繰り返すようになっているのをたびたび耳にしています。そしてそれらの言動や、もめごとがあるたびの嘆息から、夫がもしかしたら自殺を計画しているのではないかと疑うようになっていたようです。

このため不安に襲われ、ときおり二階に駆け上がって夫の無事を確かめるようにもなっていたといいます。そして彼女は彼女なりに善後策を考え、もしかしたら、龍之介に文学のことが分かる女友達をあてがえば、彼の孤独感が解消するのではないかと考え、幼友達の「平松麻素子」に救いを求めました。

平松麻素子は文より2~3才年上で独身でした。父親は弁護士で裕福な暮らしをしていましたが、生まれつき病弱だったため、結婚もせずに弟妹の面倒を見ていたようであり、こういうか細い印象により、後年、実際に龍之介と心中を図ったと、書かれるようになったのかもしれません。

彼女は短歌を作るなどの文才もあり、芥川の作品もほとんど読んでいたといい、文から事情を聞いて、龍之介の話し相手になることを承知しました。文は、彼女が訪ねてくると二階の芥川の書斎に案内するようになり、その後麻素子は龍之介の書斎で彼と文学談義までするほど親しくなっていったといいます。

こうなるとはやり、男女の中のことでもあり、やがて龍之介と平松麻素子は、文に隠れて二人だけで外で会うようになります。恋愛関係にあったのではないかとも言われていますが、おそらく事実でしょう。

こうして龍之介は麻素子との逢う瀬を重ねてはいましたが、その関係はプラトニックのままだったとする説が強いようです。その理由は言うまでもなく、龍之介と彼女との交際を勧めたのはほかならぬ妻の文であり、その監視の目がいつもあったから、ということでしょう。

が無論、実際に龍之介が外出したあとの二人がどういう行動をしていたのかについては、想像でしか語ることはできません。

ところが、この二人の関係はこれだけでは終わらず、このころ既に精神を相当病んでいた龍之介は、あろうことか彼女を踏み台にして自殺を決行しようと考えるようになっていきました。つまり心中です。そしてある日彼女を連れだって散歩しているとき、一緒に死んでくれないかと切り出します。

もっとも、プライドの高い龍之介はその後に書いた、「或阿呆の一生」の中で、話を持ちかけたのは女の方からだと書いています。

しかし、麻素子が龍之介と心中する約束を交わした、というところまではどうやら事実のようです。そして、その場所を帝国ホテルとし、実行する日時も二人で決めました。

そして昭和2年の春、二人で決めた日に龍之介は家を出ました。文が、「お父さん、どこに行くんですか」と尋ねても何も答えないで出ていったそうで、胸騒ぎを感じた文は、近所に住む龍之介の有人で画家の小穴隆一の下宿に駆けつけ、このことを相談しました。

ところが、そうやって文が小穴と二人で話し合っているところに、なぜか意外にも平松麻素子がそこを訪れます。実は、彼女は龍之介との約束を破って帝国ホテルに行かなかったのですが、彼のことを見捨てることもできず、かといって龍之介との間が深くなっていたために文にも告げられず、龍之介の親友である小穴に相談にやってきたのでした。

夫の行方を知らないかと文に問い詰められた麻素子は、その面前では本当のことを言えません。文は「とにかく、芥川の行方を捜さなければならない」と言って二人を置いて出て行ってしまいますが、二人きりになると、麻素子はそれまで隠していた秘密を小穴に打ち明けます。

こうして、心中事件は発覚するところとなり、小穴は自宅に帰っていた文にこのことを告げ、さすがに麻素子は同伴しませんでしたが、小穴と文の二人は連れ立って龍之介の泊まっていた帝国ホテルにかけつけ、彼が借りていた一室を訪れました。

泊っている部屋のドアを叩くと、「お入り」と、大きな声で芥川が怒鳴り、中へ入ると龍之介はベッドの上にひとりで不貞腐れたような顔をして坐っていたそうです。

そして、「麻素子さんは死ぬのが怖くなったのだ。約束を破ったのは死ぬのが恐しくなったのだ」と、龍之介ベッドに仰向けになって、怒鳴るような、訴えるような調子で叫んだといいます。

平松麻素子が結局龍之介との心中に踏み切らなかったのは何故か、という疑問に対する答えとして、松本清張は龍之介が平松麻素子に逃げられたのは芥川の側に過信があったからだ、と書いています。

「芥川が平松麻素子と体の関係を持っていなかったことは、事実だと思われるが、肉体的交渉もない女が、自分と一緒に死んでくれると思いこんだところに芥川の甘さがあり、その甘さは自己の名声に対する過信から来ている」とも書いています。

つまり、大作家である自分が頼めば、女一人ぐらいは道連れにできるだろう、と龍之介が高をくくっていたということであり、確かに現代でも人気のあるミュージシャンに甘い声をかけられようものなら、心中までしてしまいそうな若い女性はゴロゴロいそうです。

が、結局のところ、平松麻素子はそれほど軽い女ではなかったということなのでしょう。むしろ心中してくれるだろうと信じ切っていた龍之介のほうがミーハーだったといえます。

この事件があってからは、当然のこと平松麻素子は芥川家に寄りつかないようになりました。一方の龍之介はこの一件を境にさらに自殺に対して一歩踏み込んだ姿勢を示すようになり、単独で自死を決行する決意を固めはじめたようです。

そして7月24日未明、「続西方の人」を書き上げた後、龍之介は斎藤茂吉からもらっていた致死量の睡眠薬を飲んで自殺した、とされています。が、松本清張によれば、これは睡眠薬ではなく青酸カリであり、これは誰あろう、心中事件を引き起こしたときにその相手であった平松麻素子が彼に与えたものだった、というのです……

この青酸カリ説を支持する人は多いようで、例えば後年の作家、山崎光夫は、芥川の主治医だった下島勲の日記などからもこの青酸カリによる服毒自殺説の可能性が高いと主張しています。

睡眠薬説のほうは、死の数日前に龍之介を訪ねた、同じ漱石門下で親友の内田百閒の証言によるもののようです。それによれば、龍之介はこの日にも大量の睡眠薬でべろべろになっていたそうで、起きたと思ったらまた眠っているという状態だったといいます。

既に自殺を決意し、体を睡眠薬に徐々に慣らしていたのだろう、というのが睡眠薬説を推する人達の言い分です。

また、龍之介は自殺の直前に身辺の者に自殺を仄めかす言動を多く残していたといい、実際には早期に発見されることを望んだ狂言自殺で、たまたま発見が遅れたために死亡したとする説もあります。青酸カリならば、死ぬのは確実ですが、睡眠薬であれば本当に死んでしまう前に人に発見してもらいやすくなるわけです。

また、死後に見つかり、旧友の久米正雄に宛てたとされる遺書「或旧友へ送る手記」の中では自殺の手段や場所について多少具体的に書かれています。

それには「僕はこの二年ばかりの間は死ぬことばかり考へつづけた。(中略)…僕は内心自殺することに定め、あらゆる機会を利用してこの薬品(カルモチン・睡眠薬の一種)を手に入れようとした」と書いてあります。

この記述を信頼すれば、やはり睡眠薬によって計画的に自殺を企てていたとも考えられるわけですが、睡眠薬を使おうと思ったけれども直前に気が変わったかもしれません。実在の平松麻素子という人物との関係も確かであり、このため、彼女が手渡したという青酸カリによる死亡説はいまだに消し去れない有力な説となっています。

平松麻素子がその後どういう人生を送ったかについては、ネットで調べた限りではよくわかりませんでした。が、青酸カリを手渡したなどと公表すれば、お縄になるのはみえていますから、その後そうしたことを自らが口にするはずはありません。

警察も青酸カリだったとすれば、当然その入手先を調べたでしょうが、仮にそうだったとしてもそうした調査情報を新聞などのメディアに公表するメリットは何もありません。

こうして睡眠薬説か青酸カリ説のどちらが本当かはいまだに不明のままであり、前述の息子二人もその後何も語っていません。おそらくは母の文からもその生前には何も知らされなかったのでしょう。

その後文は、1968年9月11日、調布市入間町の三男・也寸志邸にて心筋梗塞のため68歳で死去。

死後の1975年、筑摩書房から「追想芥川龍之介」が刊行されていますが、これは本人が書いたものではなく、中野妙子(ジャーナリスト?)という人が文にインタビューを行い、この時文の口から出たことばを取りまとめたもののようで、こうした見ず知らずの人に夫の死の真相を話すわけはなく、当然、その死についても何ら触れられていません。

龍之介はこうして36歳の若さで亡くなり、その人生の終焉がどんな形であったのかは今も闇の中です。が、その遺書としては、妻・文に宛てた手紙、菊池寛、小穴隆一に宛てた手紙があり、その中で龍之介が自殺の動機として記した「僕の将来に対する唯“ぼんやりした不安”」という言葉は、今も非常に有名です。

自殺直前の龍之介ののこうした厭世的な心境は「河童」を初めとする晩年の作品群のあちこちに表現されているようですが、この「ぼんやりした不安」というものが、果たして彼を死に追い込むほどの激しい不安であったのかどうかは、これらの作品を読み込むことでしか理解できないのかもしれません。

死の前日、芥川は近所に住む室生犀星を訪ねたそうですが、犀星は雑誌の取材のため上野に出かけており、留守でした。犀星は後年まで「もし私が外出しなかったら、芥川君の話を聞き、自殺を思いとどまらせたかった」と、悔やんでいたといいます。

龍之介は死の直前に

「橋の上ゆ胡瓜なくれは水ひびきすなはち見ゆる禿の頭」

と河童に関する作を残しています。これが、彼の命日を「河童忌」とするゆえんです。

死の8年後、親友で文藝春秋社主の菊池寛が、芥川の名を冠した新人文学賞「芥川龍之介賞」を設け、龍之介はこの世からいなくはなりましたが、その名を冠した芥川賞は現在に至るまでも最も有名な文学賞として受け継がれ続けています。

龍之介が亡くなったのは7月24日の未明だったそうですが、この日の朝、文夫人が亡くなった夫に対して「お父さん、良かったですね」と語りかけたという話が先述の「追想芥川龍之介」の中に書かれています。

この「良かったですね」は意味深なことばですが、素直に受け取れば、龍之介の生前の苦しみが、その死によってようやく払拭されたことに対する祝意でしょう。しかし、と同時に夫とともに苦しみ抜いた、自分自身へのねぎらいの言葉であったようにも思えます。

また、このとき文夫人は、夫の龍之介の「安らぎさえある顔」をみて、こういったといい、だとすれば、龍之介の死因は苦しみの伴う青酸カリではなく、やはり睡眠薬だったのかもしれません。

実際にはどんな表情だったのかは、ご本人が亡くなられていることでもあり、もうわかりませんが、この言葉が表すように、彼の苦しみを一番よく知り、また最も愛していたのは、親友までも愛人としてその夫に差し出した彼女であったことは間違いありません。

戒名は懿文院龍之介日崇居士。墓所は、東京都豊島区巣鴨の慈眼寺だそうです。河童忌の昨日はおそらくは多くのファンがこの墓前を訪れたことでしょう。

煙草が大好きで、1日に180本も吸っていたといいますから、きっと空の上から好きなタバコをくゆらせながら、彼らの姿を見ていたに違いありません……

河童の死


そろそろ夏休みという学校も多いようです。我が家のお隣からも、賑やかな子供たちの声が聞こえるのは、休みに入った親戚の子たちが泊りがけで遊びに来ているからでしょう。

子供たちにとってはこれからが夏本番なのでしょうが、今年は早々と梅雨が明け、先週までの猛暑もあったことから、もうそろそろ夏も終わりでもいいじゃん、という気になってしまっているのは私だけでしょうか。

そういえば、おとといぐらいからヒグラシが鳴き始めており、そのもの悲しげな声を聴いていると早、秋が来たかと勘違いしてしまいます。秋の季語にもなっているそうなので、本当にそうだとすればグッドタイミングなのですが、天気予報を見る限りではまだまだ暑い夏はこれからも続きそうです。覚悟しておきましょう。

ところで、夏休みといえば、海や川での遊び、夏の川といえば、なんとなく河童を思い浮かべてしまいます。そして、今日は「河童忌」ということで、故芥川龍之介の命日のようです。

つい先日発表になった芥川賞の創立のゆえんにもなった大作家であり、小学校や中学の教本にも必ずといっていいほどその作品が出てくるだけに、知らない人はいないでしょう。

無論、私もその名は良く知っており、若いころにその短編をよく読んでいました。中でも杜子春や地獄篇、羅生門といったおどろおどろしい作品群は、先鋭小説というよりも「怪奇物」に間違いなく、こうした不思議の世界を鮮やかにみせてくれる芥川龍之介は、文学作家と呼ばれる作家のなかではどの作家よりも好きでした。

しかし、若くして自殺した、という事実以外には、意外にこの人がどんな人物だったのかを良く知りませんでした。なので改めて調べてみたのですが、すると、あぁこんな人だったんだということや、その死にまつわる話にもこれまで知らなかったことが多くわかり、少々驚いています。

例えば、その自殺は睡眠薬によるものだったとまことしやかに語られていますが、実は青酸カリではなかったかという話もあるようであり、また、その死の直前には一度自殺未遂をしていることなどもわかりました。

また、作家としてデビューする前には、英語の教師だったということも知りませんでしたし、しかもその英語を教えていたのは海軍の学校だったこと、さらにはその作家としての研鑽を積む過程においては、同じく文豪といわれる夏目漱石に師事していたことなども知りませんでした。

なので、この芥川龍之介がどういう人だったのか、なぜ若くして自ら命を絶つという過程に至ったのかということを、改めてここでも整理してみたいと思います。

まず、芥川龍之介という名前ですが、私はこれはペンネームだとばかり思っていましたが、これは本名です。龍之介の「龍」は、彼が辰年・辰月・辰日・辰の刻に生まれたことに由来してつけられたそうです。

ただし、「芥川」という姓は実母の「フク」の結婚前の名前であり、父親は、新原敏三といい、周防の国の生まれで、幕長戦争においては長州藩兵士として戦闘に加わり重症を負うなど、幕末・維新の動乱を生きた人でした。

従って龍之介も本来はこの新原姓を名乗るはずでした。しかし、龍之介が生後7ヵ月のとき、この母のフクは精神に異常をきたしたそうで、このため龍之介は東京市本所区小泉町(現在の墨田区両国)にある母の実家の芥川家に預けられ、伯母のフキに養育されることになります。

このとき、実父の敏三は、存命でしたが、家業の牛乳販売は好調だったものの、これと並行して営もうとした牧場経営がうまくかず、大正7年ごろには牧場を手放すなど事業縮小を余儀なくされていました。

しかし、妻の発狂により、手元に龍之介を置いてもおけず、泣く泣く妻の実家へ預けましたが、のちに龍之介が芥川家の養子になるまで、息子を取り戻そうと苦心していたようです。

しかし結局敏三が折れる形で事態は決着し、敏三もその後再婚して、その後は父親として龍之介の前に現れることもほとんどなかったようです。が、後年、龍之介は「点鬼簿」で、この実父の敏三を作品化しています。

その後、11歳の時に母が亡くなり、翌年にフクの実兄で、叔父の芥川道章の養子となり芥川姓を名乗ることになりました。この芥川家というのは、江戸時代には士族の家柄であり、代々徳川家に仕えていましたが、雑用・茶の湯などを扱う「お数寄屋」であり、いわゆる「茶坊主」を代々拝領していた家でした。

そういういわば芸術関係には造詣の深い家柄であり、代々の主人もまた芸術・演芸を愛好していたため、芥川家の家中には江戸の文人的趣味の文物が数多く残っており、龍之介もこうした古い事物に触れながら成長したようです。

龍之介が生まれたのは、1892年(明治25年)の3月1日のこと。雛祭り生まれの私とは誕生日が二日違いの魚座であり、妙に親近感を感じてしまいます。

生まれたのは、東京市京橋区入船町8丁目で、これは現在中央区明石町にあたり、すぐ側を隅田川が流れ、近くには築地本願寺があって、現在ではこのほかのランドマークとしてはかの渋沢栄一が設立した聖路加国際病院があります。

父の新原敏三は前述のとおり牛乳屋を営んでおり、この店は、京橋区入船町にあって「耕牧舎
」という名前でした。経営拡大に手腕を揮い、各所に支店を設け、のちに新宿(!)に牧場を営もうとしましたが、失敗。龍之介がフクとの間に長男として生まれたのは、そんなころのことだったようです。

龍之介の上には姉が2人いました。しかし、長姉は、龍之介が生まれる1年前に6歳で病死しており、フクが発狂したのはあるいはこの娘の死と関係しているかもしれません。

精神疾患は遺伝しないという医者も多い一方で、こうした遺伝要因と環境要因の相互作用によって発症する可能性もあると指摘する医者もいて、とくに思春期のストレスなどがこの環境要因になることなどが取沙汰されており、もしかしたら龍之介もこの母親の遺伝によりその晩年(といっても36歳ですが)に精神的に不安定になっていたのかもしれません。

龍之介は養家芥川家から府立三中に通わせてもらい、その後一高、東京大学に進んでいますが、前述のように、戸籍上の正しい名前は「龍之介」であるにもかかわらずこうした学校関係の名簿類での記名は「龍之助」になっているそうです。

養父母が自分の子供として育てるときに、前の新原家の因縁を断ち切りたかったのかもしれず、新たにこの名前を名乗らせようとしたのかもしれません。しかし龍之介自身はこの「龍之助」という名前を嫌っていたそうで、大学卒業後の後年は本名の龍之介で通しています。

学生時代の龍之介は秀才だったようです。江東尋常小学校を出た後に入った府立第三中学校の卒業の際には、「多年成績優等者」の賞状を受けており、その後に入学した第一高等学校第一部乙類への入学においては、中学での成績優秀者は無試験入学が許可される制度の適用を受けています。

この高校時代の同期入学生には、後年劇作家として有名になる「久米正雄」、日本共産党の幹部となり、戦前の共産党を牽引した「松岡讓」、文学者で俳句のアララギ派の指導的存在となる「土屋文明」、渋沢栄一の4男で自らも実業家となり田園調布などの開発で活躍した「渋沢秀雄」など、昭和前期の日本を牽引した蒼々たる文化人たちがいました。

さらには、のちに龍之介と同じく文豪として知られるようになり、文藝春秋社を創設した実業家でもある「菊池寛」も龍之介の同級生であり、そして、のちの法学者で京都帝国大学の教授となる恒藤恭(つねとうきょう)もおり、この二人はその後の龍之介の生涯において無二の親友となりました。

とくに恒藤恭とは仲がよかったようで、第一高等学校が全寮主義であったため、その寄宿寮に入った二年次に龍之介と同室になっており、これがきっかけで親交を深めるようになったようです。その後互いが結婚後も家族ぐるみで交流を続けるなど、生涯にわたって親密な関係を保った人物です。

島根県の松江市の出身で、文学者を志望して上京し、東京都新聞社の文芸部で記者見習をしながら苦学して第一高等学校に合格しており、その後は京都帝大にも入学しています。

しかし、京都帝大では、文科から法科へ進路変更しており、この理由について恒藤は後年、芥川との交流の中で自身の能力の限界を知った、と述べています。

京都帝大卒業後は、母校で教鞭をとるようになり、「刑法講義」「刑法読本」といった法律関係の著書を出版していますが、その内容が赤化思想だとして、このころから右傾化の一方を走る政府当局の目に留まるところとなり、著しい弾圧を受けるようになります。

1933年(昭和8年)には、ついに斎藤内閣の鳩山一郎文相が、この当時の小西重直京大総長に滝川の罷免を要求するに至りますが、京大法学部教授会および小西総長はこの要求を拒絶。しかし、文部省は滝川の休職処分を強行したため、この休職処分と同時に、京大法学部では教授31名から副手に至る全教官が辞表を提出して抗議の意思を示しました。

これがいわゆる「滝川事件」と呼ばれる思想弾圧事件です。これを契機として、京都帝大の学生の中にも激しい反ファシズム運動が生まれ、これは東京の東京帝大にも飛び火し、全国的な運動になる兆しをみせますが、政府当局の弾圧は厳しく、結局はこれらの抵抗もむなしく終わり、太平洋戦争への突入を阻止することはできませんでした。

恒藤恭は京都帝国大学辞任後、菊池寛から文藝春秋社に誘われますがこれを断り、大阪商科大学(後の大阪市立大学)の講師となり、その後は学長まで上り詰めています。

マルクス、エンゲルスの唯物史観をも批判的に摂取した「恒藤法哲学」とも称される独自の法哲学を構築したとのことで、哲学の世界では有名な人だそうです。1957年(昭和32年)に市立大学長を辞任。その9年後の1966年には文化功労者として表彰されましがた。翌1967年(昭和42年)に79歳で亡くなりました。

さて、こうした昭和の前半において活躍した多くの文化人と知り合い、その高校時代を楽しく過ごした龍之介ですが、1913年(大正2年)には、東京帝国大学文科大学英文学科へ進学しました。

この東京帝大の英文学科というのは、この当時一学年で数人のみしか合格者を出さないといわれるほどの難関であったそうで、このことからも龍之介の俊才ぶりがうかがわれます。しかし、東洋文学ではなく、英文学を選んだというのは私も意外でした。のちの彼の作風には西洋の空気はみじんも感じられないからです。

あるいは、そういう「西洋もの」も書いているのかもしれませんが、私の中には芥川龍之介といえば、中国の古典を翻案することで有名な作家というイメージがあります。

しかし、専攻は英文学といいながらも、東京帝大に入学後に入るとすぐに活発な文芸活動を始めます。帝大在学中の1914年(大正3年)2月には、一高で同期だった菊池寛や久米正雄らと共に同人誌「新思潮」を刊行。

そして得意の英語力を生かし、「柳川隆之助」の筆名でアナトール・フランスの「バルタザアル」、イエーツの「春の心臓」のなどの和訳をこの中に寄稿しています。この「新思潮」はわずかこの8ヶ月後に廃刊になっていますが、この間、自らの処女小説となる「老年」もここで発表しており、これが作家活動のスタートとなりました。

1915年(大正4年)10月、代表作の「羅生門」を初めて「芥川龍之介」名で「帝国文学」という雑誌に発表。このとき、級友で後に児童文学者になる「鈴木三重吉」の紹介で夏目漱石の門下に入りました。

ちなみに、この鈴木三重吉は、1896年(明治29年)に広島県広島尋常中学校に入学しており、これは私の母校である現在の「広島県立広島国泰寺高等学校」の前身であり、先輩ということになります。

東京帝大卒業後には広島に帰り、教師となる傍ら活発な創作活動を送り、1917年(大正6年)からは、有名な児童文学誌「赤い鳥」に力を入れ始め、この中で、龍之介の遺作であり代表作でもある「蜘蛛の糸」などを紹介しています。

昭和10年に亡くなっていますが、その三重吉の13回忌にあたる1948年(昭和23年)から、「鈴木三重吉賞」が創設され、これは芥川賞ほど有名ではありませんが、現在も全国の優秀な子供の作文や詩に賞が贈られています。

この鈴木三重吉が紹介した漱石と龍之介が親密な関係にあったということは、あまり知られていないようです。それもそのはず、そもそも二人の出合いは、漱石が亡くなるわずか一年ほど前の1915年(大正4年)のことで、そのきっかけは、このころ龍之介が発表した「鼻」を漱石が激賞したことだったようです。

このとき既に文豪として知られていた漱石に褒められたことによって、若き芥川龍之介は作家として歩んでい行こうと決意したともいわれており、その後も漱石に何度も手紙を出して色々と創作上のアドバイスを受けるとともに、身の上相談までしていたようです。

1915年といえば、漱石はこの3月、京都へ旅行し、そこで胃潰瘍のために5度目の入院をしています。ちょうど「道草」の連載を開始したころで、このころから糖尿病にも悩まされ始めており、1910年(明治43年)に初めて胃潰瘍で入院し、その療養のため訪れた修善寺で死にかけて以降、続く不調によって悩まされていた晩年の時期です。

にもかかわらず、漱石は親身になって龍之介の相談に乗ってやっていたようで、後年芥川は後々までこの漱石の優しさを忘れることができないと人に話しています。

漱石はやがて胃潰瘍が悪化し、翌年の1916年(大正5年)の12月にこの世を去っていますが、この師・夏目漱石の葬儀の際、龍之介は同じく漱石の門下で、のちに小説家となる江口渙と共に受付を務めています。

この江口渙の父の江口襄は陸軍の軍医で、東大医学部で森鴎外と同期だったそうで、このときの漱石の弔問には森鴎外も来訪しており、鴎外の名刺を龍之介自らが受け取っているそうです。何の接点もなさそうな、龍之介と森鴎外がこんなところで顔を合わせていたとは驚きです。

1916年(大正5年)、龍之介は、東京帝国大学文科大学英文学科を20人中2番の成績で卒業します。卒論は「ウィリアム・モリス研究」だそうで、これは19世紀イギリスの詩人で、デザイナーもやっていた人のようです。

マルクス主義者でもあり、政治にも関わっていたようで、このように多方面で精力的に活動し、それぞれの分野で大きな業績を挙げたといいます。「モダンデザインの父」と呼ばれ、「ファンタジー」の創始者ともされているといいますから、龍之介の作品の中にもこの「ファンタジー」という新しい分野への反映がみられるのかもしれません。

龍之介はこのあと、海軍の「機関学校」における英語教官に就任しています。前任の英語教官で、この職を長く勤めていた「浅野和三郎」が辞職したため、知人の英文学者たちがその後釜に推薦してくれたからと言われていますが、同じく英文学者でもあった夏目漱石の口添えがあったともいわれています。

海軍機関学校とは、日本海軍の機関科に属する士官を養成するために、戦前に設立された軍学校です。1878年(明治11年)に海軍兵学校附属機関学校として横須賀に発足しましたが、その三年後に海軍機関学校となりました。

1887年(明治20年)には、再び海軍兵学校に吸収されたため廃止になりましたが、1893年(明治26年)に再興され、このとき鎌倉に学校校舎が建てられており、このためここの教員に採用された龍之介もその勤務のために鎌倉に移り住んだようです。

旧帝国海軍は、その範を英国海軍に置いており、その軍事面での指導のために多くのイギリス人教師を招聘しています。その関係から英語教育にも大変熱心であったようであり、この機関学校でも英語教師を必要としていたのでしょう。

ちなみに(また脱線しそうなので早めにやめますが)、龍之介の前任の英語教官であった浅野和三郎なる人物は、心霊研究に傾倒し、こののちその一人者といわれるようになった人です。

この前年の1915年(大正4年)に、和三郎の三男が原因不明の熱病になり、多数の医者に見せても回復せず半年をすぎていましたが、三峰山という女行者にみてもらったところ、いずれ快癒するだろうとの予言を受け、実際、その通りに息子が回復したといいます。

驚いた和三郎は、もっとも実践的に心霊研究を始めようと考えるようになったといい、これが海軍機関学校の教師の職を辞する契機になったといわれています。

その後1923年(大正12年)3月、「心霊科学研究会」を創設し、この会は現在に至るまでも継続し、活動を続けています。この人物の話にはこのほかにもいろいろ面白い逸話がありそうなのですが、また長くなりそうなので、今日はやめにしておきましょう。

こうして、龍之介は海軍機関学校の嘱託教官となり、英語教員としての教鞭を執るようになりますが、そのかたわら創作に励み、翌年には初の短編集「羅生門」を刊行しています。その後もこの教員時代に短編作品を次々に発表し、この年の暮れには第二短編集「煙草と悪魔」を発刊。

1916年(大正7年)の秋には、慶應義塾大学文学部での講師にどうかという話があり、履歴書まで出したようですが、結局これは実現しませんでした。

こうした他の学校への転出を模索していことからみても、この海軍機関学校の教官というのはあまり面白いとは思っていなかったようで、その証拠に、入校からわずか一年後の1917年(大正8年)には、客外社員ながら大阪毎日新聞社に入社しています。

社員といっても、単に新聞への寄稿が目的だったようで、日々の仕事のために出社するという義務はなかったようです。このため機関学校も辞職したわけではありません。

あいかわらず教師としての職はつまらなかったものの、新聞に掲載されるからということで文学の創作には本格的に腰を入れるようになっていきました。

生活にもゆとりが出て、作家としても自立できると踏んだためか、この二年後の1919年(大正8年)に龍之介は結婚をしています。そのお相手は、友人の姪でした。龍之介と同じ府立第三中学校の同窓生で、同じく東京帝大にも進み、ここでは農学部に在籍していた「山本喜誉司」の姉の娘、「塚本文(ふみ)」がその人です。

ちなみに、この山本喜誉司は帝大卒業後には、三菱合資会社に入社し、社長の岩崎久彌から海外での農場経営の任務を与えられ、中国北京で綿花事業に携わった後、コーヒー栽培事業のため、ブラジルに派遣され、ここの日系ブラジル人社会で活躍した農業家です。

戦後混乱期のブラジル日系人社会をまとめた人物で、現地では「天皇」とまで云われた実力者となり、今日でもブラジル日系人社会で知らない人はいないほどの人なのだそうです。

実は、この山本家と芥川家は近所同士だったようで、家族ぐるみで交流があったために子供のころから龍之介は山本家によく遊びに出かけていたようです。このころの山本家には、海軍将校に嫁いだ喜誉司の姉が、夫に戦死されたため娘を連れて実家に戻ってきており、この海軍軍人の遺児が、塚本文でした。

文は、龍之介より8才年下ですから、龍之介が山本家に遊びに出かけ始めたころには、まだ小学校の生徒だったことになります。どうやらこのころからこの美少女に惹かれていたようで、しかし、大人になるまではそのことをおくびにも出しませんでした。

しかしそんな龍之介が、具体的な行動に出るのは大学を卒業する24才のころのことで、このとき彼は友人の山本喜誉司に彼女への好意をほのめかすような手紙を出しています。その後、文にも求婚の手紙を出したところ、彼女も龍之介に好意を持っていたらしく、これにOKの返事を出します。龍之介27歳のときのことでした。

こうして龍之介は東京帝大を卒業後、約2年4か月務めた機関学校を退職し、この年(1919年(大正8年))の3月に文子と結婚。機関学校のあった鎌倉から、実家のある東京府北豊島郡滝野川町、現在の北区田端に帰りました。

1921年(大正10年)には毎日新聞の海外視察員として中国を訪れ、北京を訪れた折には、のちの中華民国の学者で思想家の「胡適」と会い、中国における自署の検閲の問題などについて語り合っており、この海外旅行のことを綴った「上海遊記」などの紀行文を書いています。

ところが、この旅行後から龍之介は、次第に心身衰えさせ始め、神経衰弱、腸カタルなどの病気を次々と得るようになっていきます。1923年(大正12年)には湯河原町へ湯治に赴いて療養しなけらばならないほど悪化し、作品数も徐々に減っていきます。

この頃から彼の作風には「私小説」的な傾向が出てきており、この流れはその後の死を予想させる「歯車」「河童」などの作品へと繋がっていきます。

この「歯車」とういう作品は、「僕」と語る主人公が義兄の幽霊に悩まされる話で、「僕」が心理的な迷路の中でさまよい、もがき苦しむ様子が書かれており、このころの龍之介の疲弊した病的な神経そのものを描写したものではないかといわれています。

「河童忌」のゆえんともなった、「河童」のほうも、ある精神病患者が語る物語という形式で書かれており、ある日河童に出会った主人公が河童の国に迷い込み、この河童の国の「社会問題」に向き合うハメになるという話です。

その社会問題というのは、実はこの国では人間社会とは逆に合法であり、売春はもとより中絶も普通に行われており、しかもガスで安楽死させられた河童の肉を食用にすることもOKという異常な世界であり、あげくの果ては、自殺まで肯定されているという世界でした。

その後、人間の世界に戻った主人公は、この河童の国にいた時代を振り返り、彼らの存在が人間よりもっと「清潔な存在」と振り返り懐かしむというオチになっています。

この作品は龍之介が当時の日本社会、あるいは人間社会を痛烈に風刺、批判したという評価がある一方で、この年に自殺した晩年の龍之介自身の心象風景を表したものではないかとも言われています。

その死に至るまでのことをこの後書いて行こうと思いましたが、既に文面はかなりの量を越しているため、その後のことはまた明日書いていこうと思います。しばしの中断、ご容赦ください。