忍者の国から

2014-1438前回、ひさびさにタエさんがこのブログに参戦しました。最近、少し心境の変化があったようで、今後はときどき、私の代わりを務めてくれるつもりのようです。今後とも期待してやってください。

さて、7月中は、天気は良い日が多かったのですが、大気が不安定なのか、富士山が見える日が少なかったように思います。

それが、8月に入ってからは良く見える日が続いており、真夜中に双眼鏡でのぞくと、黒々としたその姿が視野に入ってきます。ただ、真っ黒というわけではなく、そこには、一筋、二筋と、光の列が見えます。夜間登山をする人達が手に持つライトが、麓から頂上まで延々と続いているわけです。

ここへ住むようになって最初のころは、何だろう、と不思議に思っていたものですが、訳を知ってからは驚かなくなり、最近は夏の夜の窓を飾る風物詩になりました。

そんな夏の日のこと、実は先日、山口に住む母方の叔父が亡くなりました。たしか、80を過ぎていたはずですが、長らく認知症を患い、最近はほとんど寝た切り状態で、それでも頑張っていましたが、この夏の暑さのせいか、ついに力尽きたようです。

元自衛官でしたが、それだけに頑強な肉体を持った人で、たしか剣道は七段か八段だったと思います。生粋の長州人で、それだけに幕末の志士たちが大好きだったようです。家業は農業でしたが、自らも武士の末梢だったらしいことをほのめかしていたことがあり、たしか、自宅にあった古い蔵には古い甲冑やら太刀やらがしまってあったかと思います。

この叔父が住まう土地は、「伊賀地」といい、これで「いかじ」と読みます。平成の大合併で今は山口市に編入されましたが、かつては「佐波郡徳地町」に属しており、この徳地町は現在の山口市全域の40%近くをも占めるという、広大なエリアを持っています。

しかし、山川と田畑がほとんどであり、住居地域はほとんどない、はっきり言ってド田舎です。

ところが、ここは太古には朝廷の直轄地だったそうで、徳地県(あがた)が置かれ、伝説では、出雲種族が移民し開発した一帯です。日本に天皇制が定着したころの初期の天皇で、日本武尊(やまとたけるのみこと)の父である、景行天皇が熊襲(くまそ)を征伐した際には、その征討をここの人達が手助けをしたといいます。

熊襲というのは、日本神話に登場してくる、九州南部に本拠地を構えヤマト王権に抵抗したとされる人々です。現在の熊本県の球磨川上流域から大隅半島にかけて住んでいたとされる部族で、5世紀ごろまでには大和朝廷によって平定されて臣従するようになり、これがいわゆる「薩摩隼人」といわれる武士集団の先祖という説もあるようです。

この熊襲の首領は、渠師者(イサオ)といい、その下に梟師(タケル)という複数の頭を持つ小集団がたくさんあって武士団を形成していましたが、このころの大和王権にはまだ力がなく、武力では押さえられないので策略で熊襲を成敗しようとしました。

このためまず、イサオの娘に多くの贈り物をしててなづけ、この娘に父に酒を飲ませて酔わせました。そしてイサオが酔いつぶれて眠っている隙に、景行天皇の手のものが弓の弦を切り、無力化たして上で、イサオを殺害したそうです。

このイサオの暗殺に組みしたのが、この徳地に住む人々だったとされるわけですが、このころの朝廷は奈良県の桜井市あたりにあったらしく、ここはその後、忍者の発祥の地とされる「伊賀」の地からは直線距離で50キロほどのほど近くになります。

従って、景行天皇が熊襲の平定の際に派遣した兵の中には、その後「伊賀国」と呼ばれるようになるこの土地の人々も含まれており、その人々が事が成ったあとも徳地に住みつき、やがてその荘を「伊賀地」と呼ぶようになったのではないか、と私は推定しています。

無論、なんの歴史的な証拠もないわけですが、私の叔父のように武術が優れた人達が、江戸時代まではずっと「忍者」としてその武技を伝統として蓄えつつも、現業としては農業に就き、現在に至ったのではないか、という想像は、いかにもロマンを感じさせます。

もっとも、この叔父は私の母の妹が嫁いだ先の主であるため、私に忍者の血は流れていません。が、この家には私よりも二つ年下の従弟がおり、仲がよかったため、夏休みになると、しょっちゅうここに泊まりがけで遊びに行っていたものです。

近くに佐波川という川があり、この川でカニや魚を取ったりしたり泳いだりと、楽しかった思い出がよみがえります。

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実は、この川の上流にこの当時建設中だった「佐波川ダム」には、私の実父が旧建設省の役人として赴任しており、父はここでの勤務がご縁で、この叔父の嫁の姉、つまり私の母と結婚をしました。

母と叔母はこの伊賀地からそう遠く離れていない、仁保という村に住んでおり、ある時にこのダム建設現場の役人とのお見い話を持ってきた村人がおり、それからとんとん拍子にその結婚話が進んだ、ということのようです。

従って、この佐波川が流れる徳地という場所は、私にとっても少なからぬご縁のある土地柄です。古くから良質の木材の産地として知られ、鎌倉時代には、1180年に焼失した華厳宗大本山である東大寺(奈良県奈良市)の復興に使う木材をここから切り出したと言われているそうです。

森林地帯であることから当時この一帯には生業がなく、東大寺の木材調達のために訪れた「重源」という僧侶が村人の貧困を憐れみ、紙や茶の製造を教えたと伝えられています。以降、紙製造はこの地域の産業となり、毛利藩政時代には藩の事業として大いに発展しました。

その後、この徳地紙は名産品として全国に知れ渡ったといい、紙の買い付けに北前船の商人たちが訪れ、街が大いに賑わった時代もあったようです。が、この紙製造業は、明治に入り藩の後ろ盾がなくなるとともに衰退していったようです。

この重源和尚もまた、現在の奈良県の生駒出身の人です。従ってこの伊賀地のある徳地を訪れたのも、近くに住み、熊襲の平定に尽力した伊賀国の人々の紹介であったかもしれません。木材を調達する場所は、熊野を始め、紀州方面にはいくらでもあるのに、わざわざ山口くんだりまで来る必要はなく、この推定はもしかしたらあたっているかもしれません。

このころ東大寺は、治承4年(1180年)の平氏政権による南都焼き討ちによって灰燼に帰しており、後白河法皇は直ちに復興の意思を表し、その責任者として重源を大勧進職に任命しました。

当時、61歳だった重源は勧進聖や勧進僧、土木建築や美術装飾に関わる技術者・職人を集めて組織して、勧進活動によって再興に必要な資金を集め、それを元手に技術者・職人が実際の再建事業に従事しました。

また、重源自身も、京都の後白河法皇や九条兼実、鎌倉の源頼朝などに浄財寄付を依頼しており、途中、多くの課題もありましたが、重源と彼が組織した人々の働きによって東大寺は再建されました。

このときの木材のやりとりの中で、伊賀国の人々と徳地の伊賀地の人々の交流があったことは想像に難くなく、もしかしたら、伊賀地の名前はこのころに定着するようになったものかもしれません。

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いわゆる、「伊賀流」の忍者たちは、ちょうどこの鎌倉時代から室町時代にかけての時代に勃興しています。このころの伊賀国は小領主が群雄割拠し争っているような土地柄であり、このため、民は自らを守るためゲリラ戦の技を磨いていきました。これが伊賀の忍者の起こりとされています。

伊賀は古琵琶湖層に由来する粘土質の土壌のため、農耕に苦労する土地柄でした。特に、渇水になると深いひびが入り、水田は壊滅的打撃を受けます。そのため、伊賀の者は傭兵として各地に出稼ぎをするようになったのです。

戦国時代、伊賀には伊賀守護・仁木氏の傘下に属しながらも、「伊賀惣国一揆」と呼ばれる合議制の強い自治共同体が形成されていました。しかし、実力者である上忍三家(服部・百地・藤林)の発言力が強く、合議を開いても彼らの意見に従うことが多かったようです。

ただ、その後伊賀と並んでその後忍者の巣窟とされるようになる「甲賀」には、「惣」と呼ばれる自治共同体を形成しており、各々が対等な立場にありました。これは多数決の原理を重んじる「伊賀惣国一揆」の運営ぶりとは対照的です。

甲賀と伊賀は、現在の新東名高速を隔てて、北に甲賀、南に伊賀、という位置関係にあり、一般的には伊賀と甲賀は互いに相容れない宿敵同士というイメージがあります。しかし、実はこれは誤解であり、両者はいわば一つ山を挟んだ言わば隣人同士です。

争いあっても何の得も無く、むしろ、伊賀の人々と甲賀の人々は常に協力関係にあり、どちらかの土地に敵が攻め込んだ場合は力を合わせて敵を退けるよう約束していたようです。

そんな中、天正7年(1579年)、伊賀忍者の一人・下山甲斐は仲間を裏切り、織田信長の次男・信雄(のぶかつ)に伊賀の団結力が衰えだしたことを報告し、侵略を進言しました。下山の言葉に乗った信雄は、ただちに国境にあった丸山城を修築し、侵略の拠点とすることにします。

ところが、信雄の企みはいち早く伊賀の人々の耳に届き、放たれた忍者達の奇襲によって信雄は大敗を喫してしまいます。これが「第一次伊賀の乱」です。この結果に激怒した信長は、勝手に軍を動かした信雄を絶縁すると脅して戒しめる一方、2年後の天正9年(1581年)には自ら、およそ4万の兵を率いて伊賀に攻め込みました。

これを「第二次伊賀の乱」といい、驚いた伊賀の人々は、すぐさま総力を挙げて信長と戦うことを決意します。しかし、かねて協力体勢にあったはずの甲賀忍者の一人・多羅尾光俊の手引きにより、伊賀忍者からさらに2人の離反者が発生し、織田方の蒲生氏郷の道案内をおこないました。

これにより、伊賀の人々が立て籠もった城は次々と落ち、最後の砦・柏原城が落ちた時点をもって天正時代の第二次伊賀の乱は終わりを告げました。

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その最後の段には織田方の大倉五郎次という人物が柏原城に入って、和睦の仲介に入り、一方、伊賀方は惣名代として滝野吉政という武将が城を出て信雄に会い、城兵の人命保護を条件に和睦を行い、城を開けました。

こうして伊賀勢の命は保証され、伊賀の地にもようやく平和が訪れたかにみえましたが、やがて本能寺の変がおこります。この政変で信長が死んだことを知った伊賀忍者たちは、ふたたび一斉蜂起し、各地で信長の跡を継いだ秀吉の軍勢と争いを繰り広げるようになります。

この本能寺の変の直後、堺にいた徳川家康は、伊賀の服部正成らに助けられ、護衛されながら三河国へ逃げ戻った話は有名です。この出来事をその後徳川家では「神君伊賀越え」と呼ぶようになりますが、その後徳川の時代になって以後も伊賀忍者たちが徳川に保護されるようになるのは、このときの出来事に起因しています。

一方、甲賀忍者のほうはというと、この地が信長を経て豊臣秀吉の支配下に入ると、家康の監視活動を主な任務に命じられるようになりました。その結果、敵対する徳川方では伊賀忍者を甲賀忍者追討の任に当てがうようになりました。

こうしたことが、のちに江戸時代になって、「伊賀忍軍対甲賀忍軍」という形で講談や読本の題材になるという結果を生みました。が、前述のとおり、もともとはこの両者はよしみの深い、同盟関係にありました。

しかし、はからずも両者は徳川と豊臣との代理戦争の手先となって争うようになり、その結果徳川が勝って、伊賀は上述の「伊賀越え」の功績を認められ、徳川幕府におおいにひきたてられるようになりました。

一方、秀吉側についた甲賀衆は秀吉の家臣中村一氏の支配となりましたが、関ヶ原で豊臣が負け、徳川の世になると、これら甲賀の元侍衆たちは浪人となり没落していくこととなりました。

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徳川家に重用されるようになった服部正成は、一般に「服部半蔵」として知られており、この名はこれ以降、世襲されていきます。また、その配下の忍者集団を率い、これは「伊賀組同心」としてその後幕府に召し抱えられるようになります。

初代服部半蔵である正成自身も忍者であったかのように言われることも多いようですが、正成自身はむしろ普通の戦働きでならした侍であったようです。正成は、伊賀国の土豪で、北部を領する千賀地氏の一門の長であった服部保長の四男として三河国に生まれました。

なぜ、伊賀ではなく、徳川の本拠地であった三河だったのかはよくわかりませんが、もしかしたら人質に出されていたかもしれません。いずれにせよ伊賀と徳川は古くから縁が深かったことがわかり、その後正成は長じてからは父の跡目として服部家の家督を継ぎ、徳川家康に仕えて遠江国掛川城攻略、姉川の戦い、三方ヶ原の戦いなどで戦功を重ねました。

16歳のときに、徳川の宿敵今川方の三河宇土城(上ノ郷城)を夜襲し戦功を立て、この際、家康から持槍を拝領したといいます。このときから、徳川には忠誠を誓ってやまない、譜代の臣下となっていったのでしょう。

天正7年(1579年)に家康の嫡男信康が織田信長に疑われて遠江国二俣城で自刃に追いやられたとき、正成が検使につかわされ介錯を命ぜられました。

このとき正成は「三代相恩の主に刃は向けられない」と言って落涙して介錯をすることが出来ず、この顛末を聞いた家康は「鬼と言われた半蔵でも主君を手にかけることはできなかった」と正成をより一層評価したといいます。

天正18年(1590年)の小田原征伐で家康に従軍し、その功により遠江に8000石の知行を得るところとなり、家康の関東入国後は、与力30騎および伊賀同心200人を付属され同心給とあわせて8,000石を拝領するようになりました。

このように、正成自身は忍者ではなく、武将としての経歴が際立ちます。しかし、父親が伊賀出身であったこともあり、江戸幕府の成立とともに徳川家に召し抱えられることになった故郷の伊賀忍者たちの集団をも統率する立場になっていきました。

伊賀を藤堂家が統治して以後は、伊賀忍者たちは「無足」という士族階級を保障され、扶持米を支給され、支配階級に組み込まれていきました。このため、その後江戸期を通じて勃発した各種の内乱、例えば天草の乱のような乱の討伐戦をはじめ、全国の多くの一揆鎮圧に伊賀衆が派遣され、活躍するようになります。

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その後も伊賀衆は、徳川幕府の親衛隊のような立場を貫いて行き、それは幕末まで続きました。幕末のペリー来航の際、伊賀者の沢村甚三郎という人物が偵察のため黒船に潜入したという話も残っており、正成の子孫で、12代目の「服部半蔵」を称した服部正義は、桑名藩家老となり、慶応4年、鳥羽・伏見の戦いに桑名軍を率いて参戦しています。

が、明治元年には転戦した柏崎の鯨波戦争では破れて降伏。官軍に身柄を拘束され謹慎処分となります。その後、桑名藩の戦後処理の終了と共に謹慎が解かれ自由の身となり、桑名藩の要職を務めたあと明治19年(1886年)に没しています。詳しいことはわかりませんが、おそらくはこの服部家は現在まで続いているのではないでしょうか。

一方では、伊賀国の忍者たちは、その後江戸時代にはその多くが帰農し、農民になっていきました。享和3年(1803年)正月の中瀬村(現伊賀市)の記録によると、村の農民側から無足身分である忍者に対して、農民と同様の「棒役」を務めるよう要請がありましたが、忍者側が士族の身分であることを盾にそれを拒否したところ、村八分にされました。

棒役というのは、祭りの際に出る、山車の前後に一対づつある梶棒を担当して、山車の楫を切る役のことです。それまで子供としてお囃子を担当していた者が15~18歳位で「若者」に仲間入りを果たして、この時初めてもらう役割であり、この棒役になった時点から、懸かり物(=組費)を納める義務が発生します。

つまり、棒役を務めるということは、農民と同様の立場になるということであり、身分上は武士であった伊賀衆はこの棒役になることを不服として村役人に訴え出ました。が、村役人側は、士分としての身分を放棄して帰農するか、あるいは士分のまま棒役を務めるならば仲介には立とうと申し渡したといいます。

このことからわかるように、江戸時代には武士として忍者をやめて帰農しても「抜け忍」のレッテルを押されることはなく、穏便に地域との融合を図りつつ、農民として振る舞えるようになるよう役人たちも尽力していたことがわかります。

つまり伊賀忍者たちは、武士をやめても処罰されることはなく、やがて長い年月の間に武士の立場を維持しつつも帰農していったのです。私の叔父が住まう伊賀地にも、古くからの付き合いによってこの伊賀国から多くの忍者たちが移り住み、その多くは江戸時代の太平の世において、次第に無足の立場を捨てて農民になっていったのでしょう。

そう考えると、叔父の家の倉に甲冑やら刀やらが治めてあった理由もわかります。そうした先祖からの遺物を子供のころから眺めて育った叔父が、お父さんやお爺さんからそうした言い伝えを聞き、やがて武道に励むようになっていったのも自然のことのように思えます。

その叔父も亡くなり、山深いこの家を守るのは叔母一人になってしまいました。二人息子がおり、その一人が私と親しかった従弟ですが、彼は東京に家を持ち、ここを継ぐ気はさらさらないようです。

もう一人の次男も農業を続けるつもりはなさそうで、そうすると、伊賀忍者の住処であったかもしれないこの土地と家も早晩、廃墟になっていくのかもしれません。

今回、この叔父の葬式には仕事の関係もあり出席することはできませんでしたが、いずれ郷里に帰った際には、線香を手向けにこの地を再び訪れたいと思っています。そこには昔と変わらない美しい伊賀の里があるはずであり、今もその美しい風景が目に浮かんできます。

ちなみに、この伊賀地のある徳地には、「重源の郷」という体験型交流公園があります。緑豊かな里山に茅葺き屋根や水車など、昔懐かしい山村風景を再現した、一種の田舎のテーマパークであり、たしか開業してから15年近くが経っているはずですが、いまだに営業を続けていられるというのは、それなりの人気があるからでしょう。

その名の通り、上述の重源和尚にちなんで作られた施設で、昭和初期の山村風景を再現したこの郷では、徳地の豊かな自然や特色ある歴史、文化にふれられると同時に、紙漉きや木工、竹細工、紙細工など、さまざまな体験をすることができます。

もし、山口に行かれることがあれば、こうしたひなびた施設で、時間を忘れてのんびりとした1日を過ごすのもいいかもしれません。

以下にリンクを貼っておきますので、ご興味のある方は一度そのHPも訪れてみてください。

重源の郷」山口県山口市徳地深谷1137

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数字のメッセージ

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こんにちは。突然ですが、タエです。

先日、ムシャと買い物に出かけた道すがら、私たちの車の前に一台のタクシーが入ってきました。そんなことはよくあることで、いつもなら気にもとめないのですが、いつもとは違っていたことがありました。それは、タクシーのリアウィンドウに貼ってあった車体番号です。

車体番号“515”。その数字は、9年前に亡くなった私の母の命日…5月15日と同じ数列だったのです。

その番号を見てもう一つ思い出したのは、私が半年前にそのタクシーに乗ったことがあるということでした。約半年前の1月下旬、私は義母の入院先である病院から美容院へ向かうため、タクシーを利用しました。

伊豆へ越して来て2年目にして初めて乗る地元のタクシーです。年末に山口から遊びに来た義母が、我が家に着いたその晩に股関節を骨折・入院して以来、「非日常」な日常が続いていたこともあって、車内の私はいつも以上にテンション高め。

30代後半くらいの運転手さんと、結構プラベートナことまでおしゃべりしていました(タクシーに乗ると、情報収集も兼ねて話しかけるのが私の常です)。

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その内容はほとんど覚えてないのですが、降りる段になってしゃべりすぎたことを少し反省していたとき、目に入ったのが車体番号の“515”。

「この番号って、母の命日と同じなんですよ。しゃべりすぎたのも、そのご縁ということで、許してやってくださいね」とかなんとか言い訳したことだけは鮮明に覚えています。

「いやぁ、私も楽しかったです」と笑顔で答えてくれたあの時の運転手さん。その見覚えのある眼元が、前を走るタクシーのバックミラーに映っています。そうこうするうちにタクシーは右折し、私たちの視界から消えてしまいました。

「このタイミングで“515”って、お母さんからの何かのメッセージかな?」
「さぁ・・・」問いかけられたムシャも首をかしげるばかりです。

でも、それだけではありませんでした。

そのあと買い物をした1件目のスーパーで支払いをしたところ、レジで受け取ったお釣りが「622円」。次に立ち寄ったお店で支払った金額が「6224円」。両方に共通する数字“622”は、母の誕生日6月22日を表わす数列なのです。

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そんなのただの偶然じゃないか。きっと多くの方がそう思われるでしょう。けれど、我が家には、この誕生日や命日にまつわる不思議な偶然がたくさんあります。

その代表的な例として私がよく話のネタにしているのが、私の家族の誕生日です。

先ほどふれた母の誕生日の6月22日。この数列を逆にした2月26日が父の誕生日なので、二人は生前よくこの偶然を、夫婦仲のよいカップルの印のように自慢していました。もしそれが運命で定められたパートナーを探す目印になるのであれば、こんなにわかりやすい目印もありません。それなら私も自分の誕生日の数列を逆から並べ替えた誕生日の彼を探せばよいわけです。

しかし、残念ながら私の誕生日は12月21日。逆から読んでも12月21日なので、「な~んだ、私はひとりで完結しちゃってるのね。それか、同じ誕生日のパートナーを探せってこと?」なぞと、自嘲気味に思っていたものです。

それが、長い長いパートナー探しの旅に疲れ果てた末たどりついた(?)元同級生のムシャは、12月21日の数字をそれぞれ足した3(1+2)月3(2+1)日生まれ。彼の息子は、12月21日をバラして並べ替えた11月22日生まれ。

それを知った時は「はぁー、そう来たかー」と、ひとりで感心したのでした。

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長かった独身時代にも、父と同じ誕生日の男性や女友達と親しくなったり、好きになった相手と友達が同じ誕生日だったり(そういうケースは2件ほどありましたが、どちらの場合もあえなく玉砕)・・・あまりにそういうことが重なるので、あるとき霊的な能力のある方に聞いてみたことがあります。

すると、その方曰く、そういったことはすべての人に当てはまる法則ではなく、私にとってのサインとして現れる現象なのだとか。つまり、私に何かメッセージ的なものを感じ取らせるためのサインとして、誕生日(や命日etc.)の法則があるみたいなのです。

結婚してからもこの種の偶然は続きました。私の父は、2000年の12月25日(ミレニアムクリスマス)に亡くなったのですが、この12月25日というのは、ムシャの姉の誕生日。今年知り合った地元の町内会の役員の男性も、同じ誕生日だということがわかりました。

また、現在千葉でキャンパスライフを満喫している11月22日生まれの息子くん。彼が去年の秋からつきあいだした1年後輩の彼女の誕生日が、同じ11月22日だというのです。

こうなってくると、これらの数字のメッセージに意味を感じないわけにはいきません。

この世で起きてくることに偶然はなく、すべては必然。ユーミンの歌にもあるように「目に映るすべてのものはメッセージ」だとしたら、それを見落とさないようセンサーの感度をつねに磨いておきたいものですね。

ところで、最初にふれた亡き母からの数字のメッセージ・・・それは、その2日前の出来事を母が喜んでくれたサインなのだろう、と私の中では結論付けたのですが・・・
その出来事についてはまた、次の機会に譲らせてもらいましょう。

2014-3-5302

今年も花火の季節になりました

2014-3-10807318月になりました。

今年ももうあと5か月かぁ~と嘆くのはあまりにも早すぎますが、まだまだ半年ある、と思っていた先月に比べ、確実に今年という年の時間が減っていっているのは確かであり、出来れば年内中には成し遂げたいと思っていることも、そろそろ拍車をかけねば、という気分になってきます。

そのことと関係があるのかどうかよくわかりませんが、この8月の始まりである、8月1日というのは、やたらに記念日やら行事が多いようです。ここを押さえておけば、あとはなんとかなる、というわけなのかもしれませんが、水の日、観光の日、花火の日、バイキングの日、麻雀の日、肺の日、パインの日など続々です。

バイキングの日というのは、1958年のこの日、帝国ホテルに、北欧風の食べ放題料理「スモーガスボード」を提供するレストラン「インペリアルバイキング」がオープンし、このことこから、日本では食べ放題のことを「バイキング」と呼ぶようになったのを記念した日で、帝国ホテルが2008年に制定したものだそうです。

麻雀は麻雀牌のパイ=81の語呂合わせであり、パインや肺も同じくごろ合わせ。これはその筋の業界が定めたのだろうとすぐに想像できますが、そのほかは必ずしもごろ合わせではなく、水の日や観光の日などのように何やらあいまいな理由で無理やり役人が定めた記念日もあります。

8月1日が花火の日になったのは、第二次世界大戦後、GHQによって花火が解禁されたのが1948年のこの日であったことや、東京の花火問屋で大規模な爆発事故があったのが1955年8月1日だったこと、さらに、世界一とも言われる花火大会、大阪の「教祖祭PL花火芸術」が毎年この日に行われるからだそうです。

PLとは、ご存知の人も多いでしょうが、「パーフェクト リバティー教団」の略で、この花火大会はこの教団の「宗教行事」と位置付けられていて、毎年雨天でも決行されます。花火大会としてその打ち上げ数では日本最大かつ世界最大級のもので、約30万人の人出があるとされ、花火が見える範囲の周辺市町は毎年見学者であふれかえります。

教祖を讃仰し、PL教団の礎を築いた初代・二代教祖の遺徳を讃える祭(教祖祭)の中の一行事で、当初はその打ち上げ数は10~12万発程度とされていましたが、2008年からは数え方を改め、小さなものは数え入れないようにし、純粋に丸玉の総数に変更したため、現在では2万発が公称値となりました。

従って当初より規模が小さくなっているわけではなく、予算もほとんど変わっていないといいます。が、それにしても2万発はかなりの規模です。

主会場である、富田林市内には打ち上げ場所近くに教団関係者でなくとも利用できる有料観覧場所が設けられますが、無論一般の人も同市及び、各周辺都市で見ることができ、遠くは大阪市内や、東大阪市・北摂・北河内・泉州地方ばかりでなく、神戸市などでも鑑賞できるようです。

とくにラストに打ち上げられる花火はおよそ8000発の花火は、「超大型スターマイン」と表現され、その際は南河内一面に花火の音が地響きの様に轟き、一瞬昼のように明るくなり、「壮絶」と表現できる規模だそうです。

淡路島や奈良県北部の天理市あたりからも気象条件等によっては見ることができるそうで、いかに大規模な花火大会かは想像に難くありません。「裸の大将」として有名な山下清画伯もこの花火を書いた絵を残しています。

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かつては7月末ないし8月初旬に開催されていたそうですが、近年では8月1日に固定されており、どんなに雨が降ってもやるということなので、かつては昭和57年台風第10号の豪雨の中でも開催されています。もっとも、8月1日は晴れの特異日でもあるようなので、もともとは雨の降りにくいころでもあります。

PL教団の初代教祖である御木徳一は晩年、「自分が死んでもこの教えが世に広まるのであれば、死ぬことは世界平和のためになる。だから、私が死んだら嘆いたりせずに花火を打ち上げて祝ってくれ」と常々話していたそうで、これが毎年花火大会が行われるようになったゆえんです。

この初代が亡くなったあと、息子であり二代教祖でもある御木徳近氏はその遺志を継ぎ、1953年、お父さんと自身の故郷でもある愛媛県松山市での教祖祭で、初めて花火を打ち上げました。しかし、以後の教祖祭は大阪府富田林市の大本庁において行われるようになり、1963年には名称を「PL花火芸術」と改めています。

これを契機に花火はより華やかになり、関西地方では夏の風物詩として定着しました。他の花火大会などに比べてもこの花火は特大に大規模であるため、花火が行われる付近では各種の規制が行われるなどの大きな影響があります。

とくに開催日が8月1日と固定されているため、この日が平日に当たった年などは、帰宅ラッシュと重なるため周辺への影響はより大きくなります。このため、周辺各都市を走る電車やバスの各路線は、増便などの臨時ダイヤでの運行を余儀なくされる一方で、路線によっては、花火大会時間中の運行を休止するところも多いようです。

一般道路も、開催地近くでは当日13時から翌日7時まで付近の歩道橋が通行禁止となり、交通規制が施かれます。近くの小中・高等学校・大学などの学校では、多くの生徒が鉄道やバスなどの公共交通機関を使って通学するため、これが運休すると帰れなくなるため、午前中で完全下校となり、場合によっては一日中閉鎖される学校もあるそうです。

さらには、衣料品店・家電量販店・ガソリンスタンド・自動車ディーラーなども、この日は商売にならないそうで、当日は早々から閉店時間を早めるか、臨時休業するそうで、富田林市内では従業員の帰宅などを考慮して、閉店時間を早める店が多くあるといいます。

私は元々人ごみが嫌いなので、こういう花火大会にはあまり近寄らないようにしていますが、昨年、一昨年と、馴染の大工さんが、狩野川沿いの一等地に用意した桟敷席に呼んでくださったので、ここで行われた「大仁花火大会」では、かぶりつきの花火を見ることができました。

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それにしても、すごい人ごみであり、私は、いつもこうした大きなイベントに行くたびに人気(ひとけ)に当たって、少々げんなりして帰ってくるのですが、こうした人ごみが多いところではやはり盗難やら喧嘩なども多く、さらには事故が起こることも多いものです。

記憶に新しいところでは、2001年7月21日の明石花火大会における歩道橋事故があり、このときは、花火大会の観客が歩道橋で群集雪崩を起こし、死者11人・負傷者247人の大惨事になりました。

この大会では、警備にあたっていた警察や自治体の対応の不備が浮き彫りになりましたが、多くの人でごった返す場所でこうした人の流れの管理するのは、少ない人数ではやはり大変であり、全責任を負えというのは少し酷な気がします。

過去の事故の例としては、本番ではなく準備中に起きた事故も多く、前述のとおり、8月1日が花火の日とされた理由のひとつは、東京の花火問屋で大規模な爆発事故があったことです。1955年8月1日のこの事故は、「玩具問屋爆発事故」とされ、東京都墨田区厩橋で、おもちゃ花火問屋で準備されていた花火が爆発して、死者18人を出しました。

これ以前からも花火の事故は多くあったようですが、統計が残っているのは1950年代ごろからのようで、とくに1950年代から1960年代にかけては花火工場の爆発事故が多く、毎年10人以上の死者が出ていた時代もあったそうです。

多くは花火工場が爆発し従業員が死亡するというものでしたが、近隣の建造物や一般人の生命に危害を及ぼしたものもあり、これらの事故により花火製造に関する規制は徐々に厳しくなってきており、新しい花火製造ラインを申請して認可されるのはかなり難しくなっているようです。

花火の事故としては、このように花火工場における製造過程での事故などの準備段階での事故と、花火大会当日の実演時の事故とに大きく分けられます。

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一方、実演時の事故として最近のもので大きいのは、1989年8月2日の横浜花火大会爆発事故があり、この事故では山下公園前海上の台船で打ち揚げていた花火の火が、他の打ち上げ前の花火に引火し花火玉325個が爆発。花火師2人が焼死し、7人が負傷しました。

また、2002年8月の、北海道の勝毎花火大会では、二尺玉花火の破片3.4kgが観客席に落下し、小学3年生が直撃を受けて死亡しました。

海外の事故で大きいのは、2000年5月13日におきたオランダでの事故で、これはオランダのエンスヘーデにあった花火保管倉庫に保管されていた100tの中国製花火が爆発し、20人以上が死亡、900人以上負傷、1,000人が住居を失ったというものです。

この事故は街にオランダ史上第二次世界大戦以来と言われる壊滅的被害を与え、その被害総額は8,900万ドルに上りました。

5月に花火?と思うかもしれませんが、日本とは異なり、諸外国では冬をピークに花火大会が行われるそうで、日本のように夏に集中するのではなく、年間を通じて花火が消費されているようです。

ただ、日本でも最近は、自治体の緊縮財政などで消費が伸び悩んでいる中で、打ち上げ花火大会を見送る自治体も増えており、これに対応するため、花火業者たちは年間を通した小口での販売へとシフトする傾向が出てきているといいます。

とはいえ、まだまだ日本では、花火の消費は夏に集中しており、そのほかの季節は需要は少ないようで、これは、そもそも花火大会が、夏の到来を記念する「川開き」の際に催されてきたことに起因しているようです。

こうした花火を支える花火業界の実情をみると、敗戦後はおもちゃ花火を含め、日本の花火は海外に多く輸出されましたが、以後は逆に外国からの輸入が増え、とくに現在は中国からの輸入が増えています。

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その理由としては、国内の多くの花火業者は地元に根付いた零細・中小企業が多く、技術を親の手から子の手へと伝える世襲制をとっているため、生産量を増やせない、といった理由があるためです。

中国製は2000年頃から徐々に増え始め、いまでは、全国で行われるほとんどの花火大会で、打ち上げられている花火の6~7割が中国製であるといわれており、全部の花火が中国製、という花火大会もあるようです。その内容は何をかいわんやですが、最近は日本からの技術輸出も増えていて、中国産とはいえ侮れないレベルの花火に仕上がっています。

一方、国産花火の打ち上げ花火の製造には半年以上かかり、ほとんどの工程が手工業で量産が不可能であり、また、危険な業種でもあることから、その美しさには定評のあるものの、なかなかこれを使った花火ばかりで大会を開くのは難しいのが現状です。

それにしても、これほど花火大会が増えたのは最近のことで、1980年代には、名のある花火大会といえば、せいぜい10~20くらいでした。

しかしその後、安価な中国産花火が大量に輸入されるようになったことに加え、1985年に鍵屋十四代天野修が電気点火システムを開発すると、少人数で比較的安全に打ち上げができるようになったことから、花火大会の数は激増しました。

日本煙火協会によれば、2004年に行われる花火大会は200近くにのぼるといい、協会が把握していない小規模なものもあるため、実数ではその倍近くもあるのではないかと言われています。

ちなみに、鍵屋というのは、花火の打ち上げ時の掛け声、「玉屋~、鍵屋~」のあれで、これは現存する日本で最も古い花火業者です。1659年(万治2年)に初代弥兵衛がおもちゃ花火を売り出したのが始まりであり、弥兵衛はその後研究を続け、両国横山町に店を構え、「鍵屋」を屋号とするまでになり、これが代々世襲するようになったものです。

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一方の玉屋のほうはというと、1843年(天保14年)に、その製造元である玉屋の店舗で火事が起き、この火が燃え広がって江戸の半町(約1500坪)ほどの町並みを焼くという騒動を引き起こしました。玉屋はこの失火を幕府からとがめられ、財産没収の上、お江戸追放となり、僅か一代で家名断絶となってしまいました。

鍵屋のほうはその後も生き残り、多くの花火業者がここから暖簾分けで増えていきましたが、それらの多くが現在の国産花火の製造元の起源となっています。中国製花火が増えているとはいえ、こうした江戸時代から伝わる花火製造技術を伝承する「花火師」は、花火大会が増えていることもあり、これを志す若者が増えているといいます

単に「カッコ良さ」だけでなく、伝統技術を受け継ぐとともに、花火を通して、「多くの人を楽しませ、感動と夢を提供する」といったことに共感を持つ若者も多いといい、昨今のような就職難の時代において、こういう大志を抱く若者が増えているというのはとても喜ばしいことです。

ただ、「花火師」と一口ではいうものの、これは花火を製作する「花火職人」だけではなく、その打ち上げをコーディネートする人達や、国産や外国産花火の輸出入に携わる貿易関連の人達も含まれます。

この業界では製造・打ち上げをしている業者を「花火師」、打ち上げ・企画のみの場合は「花火屋」あるいは「打ち上げ屋」と称しているようで、このほかにも後片づけを専門にやっている業者もあるようです。

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いわゆる花火師の業務形態は大別すると、以下のようになるようです。

・煙火企画・製造・仕入れ・販売・委託
構想から火薬の調達、配合、星作り、組立、仕上げ、貯蔵までの一環作業を行う。製造を行っていない業者もおり、これは製造業者への発注、完成玉の仕入れをする。

・企画、消費許認可代行
花火大会やこれに関連する運動会、学園祭、結婚式などのイベント、各種祭りを企画し、実施にあたっての資材運搬・搬入、設営、打ち上げ、撤収、事後点検などを行う

・輸出入等貿易業務
中国産花火など外国製の花火の輸入のほか、国産花火の他国イベントへの売り込み営業、外国での国産花火による打ち上げのコーディネートなど。

ただ、これは大分類であって、それぞれをひとつの業者がこなしているわけではなく、例えば工場を持たず、企画と打ち上げ業務のみ、製造販売のみを行うなど、各業者によりその守備範囲は異なります。

これら花火師さんたちの仕事は、当然ながらその業務の最盛期は夏場になります。このため年間を通じて、それだけで食っていくというのは大変ですから、とくに花火の製造・販売業者さん達のなかには、花火以外のイベントの企画や貿易業を兼業で行って年間を通じて安定した収入を得られるよう頑張っているところもあるようです。

それにしても、花火の製造は火薬を取り扱うこともあり、危険極まりない仕事であり、また真夏の炎天下での打ち上げ準備や本番での打ち上げは、肉体的にもかなり厳しい仕事といえます。

一般の人がイメージする「花火師」も、「花火を作る人」もしくは「花火大会で花火を打ち上げている人」でしょうが、その重労働を厭わず、伝統芸であると捉えて真剣な取り組みを続けるためには、やはり花火が好きでないとやっていられないでしょう。

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しかし、最近のように花火大会が増えてくると、こうした職人さんたちの存在も確かに重要ではあるものの、これ以外に花火打ち上げの総合的な企画・演出を高いレベルで創造できるプロデューサー的なポストも重要視されてきています。

最近の日本の花火界は、欧米の影響を受け、花火大会そのものだけでなく、これを他の催し物と合わせて実施するよりエンターテイメント性の高いものに方向が変わってきつつあるといいます。

伝統的な日本の花火といかに融合させ、活かし、そしてより観客を楽しませるかが、最近の花火大会のプロデューサーに求められており、そのためにはこうした人達は当然ながら花火づくりにも精通し、芸術面、営業面でも手腕を発揮できる人でなくてはなりません。

最近の花火製造業では、各種規制によって新規に大規模な工場を造ることが難しくなっており、このため、花火製造ラインを持っている工場は減る一方であり、こうした業者さんの中には、それまでの経験を生かし、こうしたプロデューサーに転向する向きも多いそうです。

そもそもは企画・演出の仕事ですから、性別は関係なく花火に関われるということで、女性の中にもこうした花火コーディネーターを目指す人が増えているといいます。

国産の花火は、その一発一発が「芸術作品」とも言われ、花火職人達が創意工夫を重ねて完成度を高めてきたものですが、今後はではその花火を用いて、「いかに観客を楽しませるか」をテーマに花火大会全体の打ち上げを統括し、一幕のショーとして成功させるための演出が不可欠となっていく時代になっているといえます。

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一方、このエンターテイメント性、という点に着目すると、現在、日本が欧米などと比べてやや立ち後れている分野が「特殊効果花火」だそうです。

とくにアメリカでは、映画や演劇、イベント、ショーなどでこうした特殊効果花火が使用されることが多く、ハリウッドでの映画産業を中心にこうした技術は飛躍的に進歩してきました。

現在、多くの映画がSFX と呼ばれるコンピューターによる特殊映像で製作されていますが、それでも爆発、炎上などのシーンはCGで創るのは難しく、実際に火薬が使用される場合がほとんどです。

ちょっと前の映画で「インデペンデンス・デイ」というのがありましたが、この映画ではホワイトハウスの爆破シーンなどでかなり高度な技術が効果的に使われたそうです。

こうした映画ではミニチュアのセットをいかに「効果的に爆破するか」が大きなテーマであり、この映画の爆破担当の特殊効果の専門家は専用の爆破装置を考案したりと、かなり知恵を絞ったそうです。以後、他の映画でもこうした技術が伝承され、そのレベルは世界でもトップレベルだといいます。

日本とアメリカでは、消防法の規定が異なり、映画産業の規模なども違うため、アメリカと同様にというわけにはいきませんが、こうした花火による特殊効果分野のエキスパートは、今後の日本の花火業界においても需要が高く、発展性の高い専門職であると考えられます。

ただ、現在の日本ではどうあっても、アマチュアが趣味で火薬を使って花火を造り、打ち上げることはできませんから、こうした技術を学ぼうにもなかなかそういった教育機関はありません。さらに技術的な問題もあり、そもそも火薬の入手が困難ですし、仮に購入できたとしてもこれは非常に高価な部類に入る薬品です。

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その昔、花火といえば米相場と同様に資産を食いつぶす「道楽」でもあり、金持ちのお大尽の遊興の対象でもありました。現在でも、花火は非常に高価なものであることから、企業などのスポンサーがつかないと打ち上げがきまりません。

花火の種類、複雑さ、花火師により価格が大きく異なりますが、一般的な打ち上げ花火の一発あたりの相場は、10号玉までの小さいものなら、だいたい6万円どまりですが、これが20号玉ともなると、一発が55万円ほどもし、正三尺玉ともなると、150万円、最も大きい正四尺玉に至っては、一発約260万円もするそうです。

ところが、最近は実際に打ち上げなくても、コンピュータを使って花火づくりと打ち上げの両方を疑似体験できる「花火シミュレーションゲームソフト」があるそうで、その代表的なものとしては「花火職人になろう」なるソフトです。

自分で考えて作った花火で競技会を勝ち抜き、賞金で工場を拡張、師匠を凌ぐのが最終目標というゲーム性の高いもののようで、薬品の込め方で実際の打ち上げが変化する、といった細かいシミュレーションもできるといい、花火シミュレーションとしては出色の出来です

ただ、シミュレーションとはいえ、優れた玉を生み出すには相当時間の試行錯誤と根気が必要だそうで、この点も実際の花火づくりと似ています。

現実に火薬を扱って好みの花火を上げてみることはできませんが、これなら自宅にあって花火師の修業ができるため、花火大会のプロデューサーのようなエンターテイメントを目指す人が花火の作り方を学ぶにはうってつけのソフトかもしれません。

最近は、スマホ用のものもあるそうで、発売元ではこのソフトを使用して作ったオリジナル花火のコンテストも開催されていると聞きます。

今年の夏は、花火大会に行かず、自分のパソコン上で花火を上げてみるというのもいいかもしれません。みなさんもいかがでしょうか。

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