エレベータのはなし

2014-10700931979年9月29日午後8時、日本の宇宙船 JX-1が、富士山麓から打ち上げられました。乗員は39名で、建造には当時の価格で11兆6000億円がつぎ込まれました。単段式のロケットであり、内部に1人乗りの観測用小型ロケットを格納し、胴体側面から射出することができ、これにより土星を観測するのが目的でした………

といってもこれは映画の話であり、架空の物語です。1962年3月21日に公開された「妖星ゴラス」という東宝の特撮カラー映画で、謎の燃える怪星ゴラスと地球との衝突を回避するため、地球の公転軌道を変えようと奮闘する人々を描いたものです。

撮影監督はかの有名な円谷英二。東宝特撮映画50本目の集大成を目指して、構想3年、製作費3億8千万円、製作延日数300日をかけた超大作として製作されたものです。

おおまかなあらすじとしては、パロマー天文台が質量が地球の6,000倍あるという黒色矮星「ゴラス」を発見したと発表。これを受け、もともとは土星探査の任務を負った日本の宇宙船 JX-1 隼号が、急遽ゴラス探査に向かいます。しかし、質量が膨大なゴラスの引力圏内に捉えられ、遭難してしまいます。

そして隼号が遭難直前に送ったデータから研究者たちが導き出された結論は「ゴラスが今の進路を保つと地球に衝突する」という恐るべきものでした。この事態を危惧する学者たちは、南極に建設した巨大ロケット推進装置によって、100日間で地球を40万キロ移動させ、その軌道を変える」という「地球移動計画」を提案。

アメリカやソ連も加わって計画は一気に進み、かくして世界中の技術が南極に結集し、巨大ロケット基地が建造されていきます。こうして南極で完成したロケット基地のジェット噴射は、地球を計算通りの速度で動かし始め、世界は歓喜します。がしかし、その後も観測により、ゴラスの質量はさらに地球の6200倍へと増加。

そして1982年2月、ついにゴラスと地球が最接近する日を迎えました。地球上ではゴラスの引力により、各地で天変地異が発生し、富士山麓の宇宙港の宇宙船も次々と地中に飲み込まれていきます。ロケット基地も水没する中、運命の時が刻々と迫ってきました。果たして地球は行きのびることができるのでしょうか。嗚呼…

と、荒唐無稽な話のようですが、この映画の撮影にあたって総監督の本多猪四郎は東京大学理学部天文学科へ通い、「地球移動」という荒唐無稽な設定が本当に可能かどうかという科学的考証を依頼しています。そして研究者が、必要な力・運動量・エネルギーを算出した結果、必要に見合った十分な力があれば、軌道は変わるという結論を得たといいます。

ただ、エンターテインメントとは言いつつも、科学考証が前面に出すぎたストーリーが災いしてか、当時の興行成績はあまり芳しくなかった様です。結局A級スケールのSFシリーズはこの作品が最後となり、東宝特撮はこの後、怪獣対決に作品の主体をシフトせざるを得なくなって行きました。

この映画では、登場したJX-1 隼号・JX-2 鳳号という宇宙船においても、科学考証が行なわれ、11兆6000億円という建造費や、単段式のロケットである、といった点にもかなりのリアリティが持たされました。

この単段式ロケットというのは、実際にも研究されています。正式には単段式宇宙輸送機といい、燃料や推進剤のみを消費し、エンジンや燃料タンクなどの機材を切り離さずに衛星軌道に到達できる宇宙機のことです。英語では“single-stage-to-orbit”であり、SSTOと略し、地球と宇宙を往復して帰ってくることから「単段式宇宙往還機」とも呼ばれます。

これまで研究されてきたものは、必ずしも再使用できるものばかりとは限りませんが、再利用しないで捨ててしまうのは、そもそもの目的にそぐわずメリットは薄いわけで、なので、通常は「再使用型宇宙往還機」として開発が進められます。

出発から目的地到着、出発地への帰還まで主要部品を切り離さず、点検整備と推進剤充填だけで再度飛行できる機体であれば、宇宙探査においても航空機のように簡便で経済的な輸送手段になるとの考えがから生まれたのがこのSSTOであるというわけです。

これに対し、これまで打ちあげられてきた地球上から地球周回軌道へ向かうロケットのすべては多段式であり、軌道へ到達するのは機体の一部だけです。最終的に出発地へ戻るのは有人部分だけであり、燃料を搭載した部分の機体の多くは使い捨てであるため、その飛行を複雑で高価なものとしています。

従来の宇宙ロケットが多段式であるのは、ロケットの父とも呼ばれ、宇宙ロケットの原理を考案したツィオルコフスキーという学者が導き出した公式から導き出された結論によります。この結論というのは、単段で宇宙に到達するためには、どうしても従来より軽い機体と、従来より高性能なエンジンの組み合わせが必要となる、というものでした。

この当時、こうしたことを実現できる技術はなく、このため、多段式ロケットは機体を使い捨てにすることで構造を簡素化することによってのみ、このツィオルコフスキー理論を実践することができたわけです。

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ただ、最近は技術開発が進み、新素材の開発や現状を上回る性能のエンジンの開発などが行われた結果、SSTOを飛ばすことは可能だといわれています。しかし、SSTOの製造費用は同等の能力を持つ使い捨てロケットよりはるかに高額になることは容易に想像できます。

とはいえ、SSTOは初期投資は大きいものの、繰り返しの飛行により減価償却することによって運行費用は安くすることが目的の宇宙船です。飛行中の故障があっても、安全に帰還できることを前提にしており、その開発に伴う初期投資は多くなったとしても、機体を喪失するような重大事故を起こす可能性は低い、というふうに考えることもできます。

加えて簡便で経済的な整備により短期間で次の飛行が可能であること、主要部分の寿命が充分に長く償却までの飛行回数を確保できることなどもメリットです。なによりも多段式ロケットのような切り離し機構などが不要となり構造を簡素化でき、また1段目の再使用のみを考慮すればよいわけです。

これらのことから、再使用型宇宙往還機は理想の宇宙船と言われています。しかし、機体の大幅な軽量化が必要であること、さらにその飛行を可能とするジェットエンジン等の開発が難航していることなどから、実験機は開発されているもののいずれも宇宙空間の軌道には到達しておらず、地球上から発進するSSTOは現状では実現していません。

ただ、月面上においてだけはSSTOは成功しています。アポロ計画のアポロ月着陸船の上昇がそれで、月のように低重力の天体ならば、SSTOは難しいことではありません。ただしアポロ月着陸船の場合は、着陸する際に使用した下降段(総重量の6割)は切り離して月面に捨ててきており、この軽量化によって離陸に成功したものです。

今後SSTOの実現させるためには、とくに高性能なエンジンと充分に軽量な機体が必要です。さらには、大気圏再突入能力、着陸能力を兼ねそろえ、簡便で経済的な整備により、繰り返し飛行可能であることも求められ、故障を早期に検知し、拡大を防止して正常な機能で飛行を継続できることも求められます。

主要部分の寿命が充分に長く、減価償却により建造費用を回収できることも必要ですが、繰り返し利用を目的として運用されてきたスペースシャトルは結局、ロケットよりも高価なことがわかったように、本格的なSSTOの開発の前途もあまり明るくありません。

一方では、まっさらな頭で考えれば、宇宙にモノを飛ばすより、高い塔を建設するとか、空に梯子をかけるといった発想の方が自然でしょう。以前のブログで「宇宙エレベータのお話」というのを書きましたが、実はこの宇宙エレベーターが最近にわかに着目されつつあるといいます。

実は前述のツィオルコフスキーはロケットよりも前に宇宙エレベーターのアイデアを考えていたといいます。宇宙空間への進出手段として構想していましたが、この当時はそれを実現する技術のかけらもなくまったくの夢物語と考えていたようです。

しかしカーボンナノチューブの発明後、現状の技術レベルでも手の届きそうな範囲にあるということが最近とくにいわれるようになり、実現に向けた研究プロジェクトが日本やアメリカで始まっており、最近さらに研究が加速しているといいます。

日本のゼネコン、大林組は、大真面目に2050年までにこれを実現するとしてその開発に取り組んでおり、一昨年にその構想を発表しました。それによれば、宇宙エレベーターの建設計画のポイントは3つあります。

ひとつは、やはりケーブルです。同社の研究によれば、ケーブルの長さは9万6,000kmにもなり、風などの影響で地球側の末端は10km単位で揺れ動きます。しかも、絶妙なバランスで宇宙空間に「立って」いるケーブルのバランスが崩れると、地球側に落下もしくは宇宙の果てまで飛び去ってしまいます。

また、ふたつめのポイントは、ベース基地となる「アース・ポート」です。これは宇宙との間を往復するための発着場です。主要部は海上に浮かべることなどが想定されており、宇宙まで届くケーブルを地上に固定し、エレベーターを安全に制御するためにケーブルの張力を調整する役割などを担います。

3つ目は、「静止軌道ステーション」です。これは、宇宙空間において、最初にエレベーターを建設する起点になるとともに、宇宙におけるエレベーターの基地になります。現在のところ、複数のユニットを打ち上げて組み合わせて作ることが検討されていますが、宇宙に運べるユニットの大きさの限界、宇宙での人間の作業限界など、問題点が山積みです。

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しかし、大林組はこれらの問題点をひとつひとつクリアーして宇宙エレベーターを実現しようとしています。では、その構想について、より具体的にみていきましょう。

言うまでもないことですが、宇宙エレベーターというのはロケットのように無軌道を昇っていく飛行体ではなく、むしろ上下移動する鉄道のようなものです。上昇するにつれてクライマーは次第に地球の重力圏から離れていくわけですが、大林組の構想では、ちょうど火星の重力に等しくなる高度3900キロのところにまず、中継基地を設けます。

ここは、ほぼ火星における重力と同じなので、同社ではこれを「火星重力センター」と呼んでいます。さらに登ると月の重力に等しくなる高度8900キロに達し、ここに建設する中継基地は「月重力センター」になります。

さらに高度2万3750キロメートルのポイントには、低軌道衛星投入ゲートを設置します。「ゲート」の意味は、ここから下の軌道に人工衛星を「落とす」感覚で投入できるようにするためです。低軌道とは、地球を周回する人工衛星の軌道の中でも高度が低いもので、だいたい300キロメートルから千数百キロメートルくらいの高さのものを指します。

さらに高度3万6000キロメートルまで上がったところに、「静止軌道ステーション」をつくります。この高度では、地球の自転の角速度と、人工衛星の角速度がちょうど同じになるため、地上から見ると1点に留まっているように見えます。これが「静止軌道」といわれるゆえんです。従来からも天気予報などに活用される静止衛星がここに置かれています。

さらに昇って、高度5万7000キロメートルには「火星連絡ゲート」という火星などの惑星探査のための前線基地を作ります。そして高度9万6000キロメートルが終端点であり、ここに火星や木星などのその他の惑星、小惑星への出発基地が置かれます。

この出発基地では地球からの高度を十分稼いだ分、地球の自転による遠心力が増し、より遠くへ探査機を飛ばすことができるようになります。少ない推力で宇宙船を飛ばすことができるわけで、エレベーターにより大量の機材を持ちあげて宇宙船を飛ばせば、数年以上の長期に及ぶ火星や木星への飛行のためには有利になります。

また、経済的でもあります。地球からロケットを飛ばす場合、例えば1キログラムの物を運ぶのに100万円ほどかかり、これは1トンで10億円です。宇宙エレベーターを使えば、これが100分の1ぐらいになり、1トンで1000万円ぐらいで済みます。また、ロケットよりも大きなものを宇宙に持っていくことができ、何10トンのものも持ち上げられます。

無論、惑星探査といった科学目的だけでなく、観光で宇宙に行きたい人も地上3万6000キロメートルの静止軌道までならば気軽に行けるようになると想定されており、その費用も数百万円程度と試算され、これは豪華客船で世界1周するくらいの感覚です。

今の時点でも、上述のSSTOに近い飛行物体を使って「宇宙飛行」のサービスを提供しようとしている民間企業が複数あることはご存知かと思います。が、これは100キロくらいの高さまで飛ぶサブオービタル飛行(地球を周回しないで降りてくる)であり、せいぜい数分間しか楽しめません。

宇宙エレベーターであれば、その気になれば、何時間でも、場合によっては宿泊も可能になります。なかなか夢のある話ではないでしょうか。

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それにしてもなぜ、大林組のような建設会社が宇宙エレベーターを開発しようとしているのでしょうか。

実は、これは大林組が、地上高さ634mという世界一の電波塔である東京スカイツリーの施工実績を持っているからです。大林組としては、この施工により自信をつけ、宇宙エレベーターにおける現実的な設計や施工の仕方についても、ある程度の見込みがついた、と考えているようです。

まるで夢物語ではなく、実現可能なものとしてとらえており、ことの発端は、東京スカイツリーが完成して、世界一高い自立電波塔ができたなら、それを超えるタワーを建設会社なりに考えてみようというのがきっかけだったようです。それなら、いっそ宇宙エレベーターはどうか、塔の延長と考えるなら実現の可能性もあるであろうとも考えました。

ただ、宇宙エレベーターは、今すぐできるというわけではありません。現在のスピードで技術開発が進めばその延長線上で可能だろうとしているわけで、既存の知識や材料、技術の発展系をシミュレーションした結果、2050年ころなら実現できそうだと考えました。

このための「プロジェクトチーム」も作り、色々な分野の研究者を集めています。ここには同社が得意とする建築・土木におけるエキスパートはもとより、宇宙工学で学位を取り、NASAのエイムズ研究センターに所属していたこともある博士や気象学者などもおり、こうした人達が開発計画の中心になっているようです、

東京スカイツリーにおいても、地上から600メートルの高さというのは地表とは気象が違って、これまで経験したことがなかったものでしたが、そこでの対応を考えた専門家は同社内の気象学者であっといいます。シミュレーションが得意であり、その技術は、地表と宇宙を結ぶケーブルの挙動の計算にも応用できます。

宇宙エレベーターは、エレベーターとはいうものの、バベルの塔のような巨大建築物ではなく、長さ10万キロメートル近い1本の細く薄く軽いケーブルが本体です。このケーブルの挙動を検討し、充分に建設可能と分からなければ、GOサインは出すことができません。計算上大丈夫、となった時点ではじめて具体的な資産や建設方法が考えだされるわけです。

つまり、計算上で可能とされれば、あとは施工技術の工夫によってなんとか実現ができるだろうというわけであり、そこまでいけばあとは同社の最も得意とする部分であり、海のもの山のものなんでも建設する建設会社にとってはお手のものといえます。

さらにはシミュレーションにおいても施工の専門家もプロジェクトに入れ、一番問題となるケーブルの施工過程をも加味して検討を加えており、風などによってケーブルにかかる張力なども施工の工程状況を考えて計算され、より現実的なものになっています。

プロジェクトチームは、は宇宙エレベーターのケーブルを地球上に固定するアース・ポートの研究も実践的に開始しています。これもまさに建設会社の領分であり、海洋土木の専門家が集められ、これまでの海洋油田の掘削リグなどの浮体構造物をつくる技術を応用したアース・ポートの設計が行われています。

ただ、静止軌道ステーションについては、建設会社である大林組には無論未知の領域です。これに関しては、社内から設計と意匠の専門家が集められるとともに、石川島播磨重工など実際にロケットを飛ばしているメーカーの技術者も呼び、さらには気象・土木・意匠・設計・施工、といった専門家が集まり、プロジェクトが煮詰められているといいます。

技術者たちがそれぞれ所属部署での「本業」を生かして協議したそのプロセスは、実に自由度のあるものだったそうで、ある意味「部活動」のような仕事で楽しかった、とその技術者のひとりが述懐しています。

しかしだからといって現時点で宇宙エレベーター構想のすべてが実現可能とされているわけではなく、現時点で可能とされているものはその一部にすぎません。

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基本的にほぼ確定している部分だけを説明すると、まずは、エレベーターの本体となるケーブルは、カーボンナノチューブを使うことがほぼ確定しています。炭素の結晶が管の形につながったもので、一番強い鋼鉄の100倍ぐらいの強度が期待でき、これなら理論上は、数万キロの長さのケーブルが自重で切れてしまわずにすむといいます。

通常の建築物では重みに押し潰される力に耐える必要がありますが、宇宙エレベーターの場合は逆で、遠心力による「引っ張り」に耐えなければなりません。最終的な目標としては、ペイロード(荷物)70トンを積んだ総重量100トンのクライマーが必要だといい、つまり100トンの乗り物が昇っていけるケーブルをつくる必要があります。

これを計算すると、長さが10万キロで、重さが7000トンのカーボンナノチューブのケーブルとなるそうで、途方もない重さのように思えますが、長さ10万キロともなると、その厚さはわずか1.38ミリメートル、幅も最大の部分で4.8センチメートルしかありません。つまり、非常に薄いリボンのようなものになります。

しかし、それにしてもいったいどうやってそんなものを地球から立ち上げるかですが、これはやはり、地球からスルスルと伸ばすのは無理で、静止軌道から降ろしてくるのが一番有利とされているようです。基本的には高度3万6000キロメートルの静止軌道までロケットでドラムを運び、これを紐解いてケーブルを降ろしてくる方法が考えられています。

一方では、ケーブルを降ろしながら静止軌道のその反対側の宇宙の方向にもケーブルを伸ばしていきます。つまり、静止軌道にある基地を重心にしてバランスをとりながら、宇宙側と地球側の両方にケーブルを伸ばし続けるということになります。宇宙側に伸ばしたものには火星ゲートなどの中継基地や終点基地などを建設します。

一方、地球側に降りてきたものは、その端をキャッチし、それを海の上のアースポートに固定します。これで基本形が完成します。そんなにうまくいくものかと誰しもが思うでしょうが、しかし実はこれは夢物語ではなく、宇宙エレベーターの第一人者に数値的な裏付けを依頼し、詳細に検討した結果、実現可能であることが実証されたといいます。

ただし、計算上は可能であっても、静止軌道は、ご存じの通り、地球上からみて、人工衛星などが静止して見える軌道です。つまり、地球の自転の角速度と静止軌道上にある物体は角速度が同じになるので、高さ3万6000キロメートルともなると、ものすごいスピードとなり、これは時速約11000kmにもなります。

つまり、静止軌道といいながら、まったく静止していないどころか猛烈なスピードで動いているわけであり、重いケーブルを降ろすのもかなり大変ということになります。しかもそこに7000トンものケーブルを打ち上げるのは簡単ではなく、400キロの低軌道で何10回もスペースシャトルを往復させて作った国際宇宙ステーションですら390トン程度です。

このため、まず最初に今のロケットで打ち上げられるのは、最大の重さ大体20トンくらいの細いケーブルとし、これを建設用の宇宙船とともに静止軌道に運ぶことが考えられています。20トンで10万キロメートルもあるケーブルであり、非常に薄く軽く済みます。つまり、まずはこれをガイドロープとして使おうとうわけです。

このケーブルは、幅は最大部で4.8センチあるものの、なんと4ミクロンという驚異の薄さであり、これをガイドケールブル的に地球に下ろします。地上から見れば、垂れてくるのはまさに「蜘蛛の糸」です。これをキャッチするというのは、想像だに難しそうです。地上に降りてくる際には大気圏の風で「暴れる」ことが考えられます。

このため、先端には「姿勢制御装置」のようなものを取り付けます。これには小さなジェットエンジンが取り付けられていて、またここからはビーコンを発することもできるようにしておきます。そして今の想定ではこの先端の「自律飛行」によってこれを海上のアース・ポートにまで、徐々に近づけていく、ということが考えられているそうです。

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そして、20トンのケーブルが固定できたら、そこから上がっていける軽いクライマーを次々に地上から出発させて、もとのケーブルを補強して太くしていくというのが第2段階になります。当然、補強が進むにつれてクライマーもだんだん大きくできます。計算によれば、だいたい500回ほど繰り返してなんとか7000トンにすることができるといいます。

クライマーが薄いケーブルを昇りながら、最初は4ミクロンしかなかったケーブルをどんどん厚くしていくわけですが、このためには接着剤は不要で、ケーブル同士を分子間力でくっつかせることが考えられているようです。

なお、静止軌道上への飛行物体の投入は赤道直下が一番有利といわれています。これはロケットを打ち上げてこの軌道に物体を乗せるためには赤道上からのほうが最も投入までの経路のロスが少なくすむためです。しかし最近の研究では、必ずしも赤道直下にこだわる必要はないそうで、緯度で言うと、南北35度くらいまでは問題ないそうです。

大阪がちょうど北緯35度くらいですから、大阪はぎりぎりOKで、東京はちょっと北すぎるくらいです。もっとも、ケーブルの固定や制御のしやすさから、アースポートは海上が有利とされており、紀伊半島、四国、九州、沖縄近辺の海は建設地の候補になりえます。現在既にロケットの宇宙センターがある種子島というのもありうるかもしれません。

このアース・ポートは直訳すれば、「地球港」といえるでしょうか。大林組の想定では、陸地から10キロほど離れた海上に設置される予定であり、本土との間は、海中トンネルで結ばれます。陸側には宇宙旅行に行く前に滞在するホテルやリゾートの類が当然のように建設されるであろうし、宇宙へ行かない通常の飛行機用の空港も併設されるはずです。

しかし前述のとおり、アース・ポート自体は、そんなに大きなチャレンジではありません。今すでにある巨大な浮体構造物、メガフロートの技術を利用してつくればよいわけです。とはいえ排水トンでいうと約400万トンくらいにもなり、これは最大のタンカーが50~60万トンぐらいですから、その10倍くらいにもなる代物です。

ただ、石油採掘リグなどでその技術は実証されており、それを大型化するだけですむようで、アース・ポートの実際の構想上の断面図も出来上がっています。これによれば地球港全体は係留アンカーで海底に固定されており、宇宙エレベーターの「本体」であるケーブルは、円筒形の構造物で守られて、海面下まで導かれ、固定されています。

その円筒形の構造物に、宇宙への列車であるクライマーが取り付けられ、クライマーの収納庫もあります。さらにその周囲には、整備場があったり、出発ロビーがあったり、検疫エリアがあったりと、このあたりのことは通常の空港と変わることはありません。

ただ、最近は不埒なテロリストも多くなっており、テロ対策はより厳重に行う必要があります。カーボンナノチューブのケーブルは、引っ張り力には強いものの、ハサミひとつで切れてしまいます。完成した時でも厚さ1ミリちょっと、地球上での幅は1.8センチメートルにすぎず、ビデオテープと大して変わらないといい、ひじょうに繊細なものです。

ガイドケーブルはさらにわずか厚さ4ミクロンにすぎず、これへのテロ対策も必要です。とまれ、このガイドテーブルの敷設が終われば、そルの一端をアースポートに固定し、徐々にケーブルを太くしていき、その要所要所にセンターやゲートといった中継基地をつくっていけばよいわけです。

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それらのケーブルの途中にある諸施設の中で最大かつ最重要なのは、やはり静止軌道ステーションです。ケーブル敷設の起点であると同時に、宇宙側へ伸ばすケーブルのための前線基地にもなりうるものです。

中継基地には、バランスが崩れるためあまり大きな施設は作らないといいます。しかしこの静止軌道上は、重力も遠心力と地球の引力がつりあってゼロとなります。ちょうど無重力状態になるため、宇宙エレベーターでは唯一大きな施設を作ることができ、ここから、上に行ったり下に行ったりする中心基地にすることができます。

無重力であるがゆえに建設上の制約が少なく済み、このため様々なパターンを考えられ、クライマーで運ぶもののバリエーションもかなり多岐にわたって考えることができます。

現在考えられているのは、輸送時には三角柱の形に小さくまとめられ、軌道上では余圧することで六角柱になるユニットを66個組み合わせてできるものだそうで、この中に居住区や実験のための区画をつくり、全体としてみると3重螺旋という不思議な構造になる予定だといいます。

ただ、この静止軌道ステーションに関してだけを考えると、多額の金を投じてそれを作るよりも、今のロケットを改良して使い続けた方がよいのではないか、という考え方もあるのは確かです。宇宙エレベーターができれば便利なのは分かっていますが、数々の技術的困難を乗り越え、多額の投資をしてまで作るべきなのかという疑問は当然出てきます。

これについては、宇宙エレベーター関係者はだいたい共通した見解を持っているそうです。まず、建設費については、大ざっぱな試算で10兆円ほどであり、巨額には違いありませんが、アポロ計画にかかった費用は、現在の通貨価値になおすとそれくらいになるといいます。同じ金額で大量の物資や人を運べるなら、宇宙エレベーターのほうが安上がりです、

また、宇宙エレベーターを作るモチベーションのひとつとして、エネルギー対策になるということがあります。エレベーターで大量のソーラーパネルを宇宙に上げ、ここで展開して地球に送電すれば、大規模な宇宙太陽光発電システムが完成します。将来枯渇するかもしれない天然資源に代わって宇宙からエネルギーを得ることは大きな意義となるはずです。

ただ、エレベーターはカーボンでできていて、電気は通電できません。しかも仮に何等かの方法で通電が可能となったとしてもクライマーがしょっちゅう行き交いしているとすれば、怖くてその運行もできなくなります。これについては、静止軌道上に太陽光発電パネルを展開して、そこでできた電力をマイクロ波などで地上に送る構想があります。

これなら宇宙から昼夜も天気も関係なく24時間発電できます。姿勢制御などのためにメンテナンスが必要ですが、宇宙エレベーターで頻繁に技術者がその発信装置まで行くことができます。大林組としては、送電ロスなどをさっぴいて、だいたい5ギガワットの宇宙太陽光発電を想定しているそうで、これは原子力発電所数個分に相当します。

無論、そのためには、5万トンくらいの太陽光発電資材を静止軌道に上げなければなりませんが、これを数基宇宙エレベーターで運んで作ったとして、30年運用すればペイできるという試算だといいます。

こうした大林組のプロジェクトチームが発表した宇宙エレベーターの構想は、非常によく考えられており、内外の研究者の間でもなかなかの評判だといいます。とくに日本の研究者の中には、これまでの宇宙開発構想の中でも、一番リアリティがあるという評価をしてくれる人もいるとか。

国際的にみても、この話題はセンセーショナルに広がっていて、世界的な第一人者からも、「協力する」とのメールが来ているそうです。昨年9月に北京で行われた国際宇宙会議では、17頁ほどの英文論文として発表された結果、評価は上々だったようであり、同社としては、今後も海外の学会などに出ていく計画があるといいます。

今後は国内外問わず産官学の体制作り、研究資金の探索、スピンオフ(民生転用)を含めたビジネスチャンスの模索が必要になってくると思われますが、最近では、日本航空宇宙学会が、軌道エレベーター検討委員会を作って活動を開始するなど、さらなる盛り上がりを見せ始めています。

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ただ、総体的にみると、宇宙エレベーターを実現させるのに100の技術力が必要だとしたら、まだ1にも技術力がいってないというのが現状だといい、現在は事業化をする前の本格的な研究を始めるかどうかを決断する段階だといいます。つまり、ようやく現実的な検討を始めたばかりといった状況、というのが本当のところのようです。

最大の難関はやはりカーボンナノチューブです。理論的には充分に宇宙エレベーターの素材とすることは可能ですが、まだ10万キロメートルにわたって1本のケーブルを作る技術はありません。それどころか、必要な強度を持ったものも出来ておらず、そもそも現時点で作ることが出来るものの強度は、せいぜい数ギガパスカルです。

パスカルは単位面積あたりにかかる力の単位です。宇宙エレベーターに最低必要と考える150ギガパスカルには遠く及ばず、ましてや安全性を考えるともっと強度が必要になるといいます。が、現時点ではそうした特殊なものを作ろうという機運がまずありません。

エボラ出血熱は、欧米人などで患者が出るようになって初めて製薬会社がそのワクチン開発に乗り出したといいますが、カーボンナノチューブの場合もまた、現時点ではまだそういうニーズがないため、メーカー側でも研究が進まないのです。

カーボンナノチューブ自体は非常にその応用範囲が広く、構造材料として以外にも、半導体としての活用や、燃料電池、光学機器への応用も考えられています。しかし、宇宙エレベーター用の「長く強く」というのは、原理的には「余裕で可能」であるとはいいながら、実際に建設が決まっているわけでもなく、そうした注文には応えられずにいるのです。

どこかのメーカーが本気で取り組めば実現するのかもしれないといいますが、モチベーションの部分でのブレイクスルーにおいて「糸口」が見えていないのが現状のようです。

ただ、そうしたジレンマを尻目に、ケーブルを昇る「クライマー」についてだけは、民間の間でその開発に熱が入りはじめています。2008年には「一般社団法人宇宙エレベーター協会」というものができ、ここでクライマーの競技会を毎年やるようになりました。

これは気球から垂らしたケーブル──無論、カーボンナノチューブではない──を1000メートルほど昇って降りてくる、というものです。学生団体などが手弁当で17チームほど集まってやっているようで、毎年熱い熱戦が行われています。

こうした大会で出てきた技術が将来のクライマーに活かされる可能性はあるわけであり、おもちゃのようなクライマーが気球とつながったケーブルに沿って昇ったり降りたりというだけでなにか感動があります。しかし、風によってたなびくケーブルを自力で上り下りするクライマーを作ることだけでも簡単なことではないと容易に想像できます。

ましてやこれが、将来的には厚さが1ミリそこそこしかないカーボンナノチューブのケーブルを昇降するとなると、クライマー作りにも今とは全く違う発想が必要とされてくるでしょう。

また、こうした盛んに行われるようになってきた競技会は、技術的な開発の場だけにということだけにとどまらず、宇宙エレベーター実現へ向けての社会的なプレゼンテーションの場にもなっているわけであり、その気運を盛り上げていくためにも必要なものです。

日本では宇宙エレベーターが、ほかの国よりも、認知されているといいます。宇宙エレベーターに関係する国際会議でも日本の研究者が熱心に出ている割合が多いといい、これは、日本はアニメ大国であり、SFなどでも繰り返し宇宙エレベーターのような未来的な乗り物が取り上げられてきたことと関係があるかもしれません。

いずれはこうした「オタク」の中からも「一生を宇宙エレベーターに捧げる」といった人も出てくるかもしれませんが、ぜひそうした人達によって日本でいち早くこの技術の
成熟度をあげ、実現への一歩を踏み出してほしいし、そういう日がやってくると信じたいと思います。

それにしても、2050年、私は果たして生きているでしょうか。

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ミフネ

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台風一過、今日は良いお天気になりそうです。

しかし、この9月26日という日は、台風襲来の特異日と言われており、とくに1950年代に3つもの大きな台風がやってきて大きな被害を出しました。

最初のものは、1954年の洞爺丸台風(台風15号)であり、これは北海道に来襲し、この台風によって青函連絡船「洞爺丸」が転覆して死者行方不明1,155人を出すという大惨劇がおきました。また、この台風による強風は北海道岩内町で大火を引き起こし、この火事では死者が33名も出ています。

次いで起こったのが、1958年の狩野川台風(台風22号)でした。静岡県伊豆半島に最接近し、狩野川が氾濫したことにより、死者・行方不明1,269名、住家の全・半壊・流出16,743戸、床上・床下浸水521,715戸という大きな被害を出しました。

またこの翌年の1959年9月26日には引き続き伊勢湾台風(台風15号)が潮岬に上陸し、東海地方などを襲い、死者・行方不明者5,000人以上という史上最大の被害を及ぼした台風として長く記憶されることとなりました。

このうちの狩野川台風の被害については、私が現在住んでいる町で起こった災害であり、まるで他人事とは思えません。この台風は、東京湾のすぐ西側を通っており、このため風については、比較的軽微でしたが、日本付近の上空に寒気が張り出していたため典型的な雨台風となって伊豆半島と関東地方南部に大規模な水害を引き起こしました。

伊豆半島での雨は25日から既に降り始めていましたが、26日には豪雨となり、台風の中心が伊豆半島に最も接近した26日20時から23時頃が最も激しく、湯ヶ島では21時からの1時間雨量が120ミリメートルにも達し、総雨量は753ミリメートルに及びました。

この大雨のために、半島の中央部を流れる狩野川では上流部の山地一帯で鉄砲水や土石流が集中的に発生し、天城山系一帯では約1,200箇所の山腹、渓岸崩壊が発生。旧中伊豆町の筏場地区においては激しい水流によって山が2つに割れたほどでした。同時に、所によっては深さ12メートルにもなる洪水が起こり、これが狩野川を流れ下りました。

この猛烈な洪水により、川の屈曲部の堤防は破壊されて広範囲の浸水が生じ、またところどころに架けられていた橋梁には大量の流木が堆積し、巨大な湖を作った後に「ダム崩壊現象」を起こしてさらに大規模な洪水流となって下流を襲いました。

旧修善寺町では町の中央にある修善寺橋が同様の状態になり、22時頃に崩壊し鉄砲水となって多くの避難者が収容されていた修善寺中学校が避難者もろとも流失し、とくに大きな被害を出しました。さらに下流の大仁橋の護岸を削り、同町熊坂地区を濁流に飲み込みさらに多数の死者を出しました。

旧修善寺町の死者行方不明は460人以上。その他、旧大仁町・旧中伊豆町など狩野川流域で多くの犠牲者が出ましたが、狩野川流域全体では、破堤15箇所、欠壊7箇所、氾濫面積3,000ha、死者・行方不明者853名に達し、静岡県全体の死者行方不明者は1046人のうちのそのほとんどが伊豆半島の水害によるものでした。

一方、この狩野川台風の水害は、東京都を中心とする関東地方南部でも大きく、東京では死者行方不明は46人にとどまったものの、浸水家屋は33万戸近くで、静岡県全体の20倍にも達しました。これも記録的な豪雨が原因で、東京の26日の日雨量は392.5ミリメートルと言う、気象庁開設以来の値でした。

浸水被害はゼロメートル地帯の広がる江東区・墨田区・葛飾区などのいわゆる「下町」だけでなく、台地上にあって水害は起こりにくいと思われた世田谷区・杉並区・中野区などの山の手でも大きく、このためこれは「山の手水害」と呼ばれました。

中小河川や水田など、以前は降雨の排水口や湛水池の役割を果たしていた土地が埋められて住宅地に変わり、行き場のなくなった雨水があふれたためで、この「山の手水害」はその後1960年代になっても東京の深刻な問題として続きました。

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この狩野川台風による大雨被害の大きかった世田谷区内では、入間川の洪水で逃げ遅れた住民18人が、なぜか「モーターボート」で救出されるという珍事がありました。

救出したのは誰あろう、この当時38歳と油の乗った人気俳優、「三船敏郎」でした。この洪水ではまた、三船の自宅のあった成城近隣も仙川の氾濫によって水没していましたが、三船はちょうど自宅に所持していたモーターボートを出し、これで成城警察署の署員と共に住民たちを救出したのでした。

後日、消防庁が感謝状の授与式を大々的に行おうとしましたが、三船は謙虚にこれを断りマスコミへの公表も差し止めたといい、このことはいまも美談として語り継がれています。

三船は、車を趣味としており、1952年型MG-TDを45年間愛用していました。その他、米映画出演の際買い求めた1962年型ロールスロイス・シルバークラウドなど多数のクラシックカーなどを所有していましたが、また、船好きでもあり、複数のモーターボートを所有していました。ジャパン・モーターボートクラブの会長に就任していたこともあります。

海外旅行へ行った場合などでもボート遊びが好きで、あるときフランスでボートを操船していたときに近くを客船が通り、ボートに乗っているのが三船だと分かると、客船の乗客が全員デッキに集まって来て「ミフネ!ミフネ!」のシュプレヒコールが起き、乗客が手を振るのに対し、三船も手を力いっぱい振って答えたというエピソードが残っています。

また、アメリカでも三船がボートで海に出ていたところ隣に豪華客船が通り、そしてこの客船の乗客の1人が三船敏郎を見つけ、船中大騒ぎで 「ミフネー! ミフネー!」と乗客たちが手を振ってきたといいます。

このように世界的にも有名な大俳優であり、国内でも右に出る者のないほどの大役者でしたが、私生活は至極質素だったといい、自社の事務所の掃除も自ら進んですることも多く、訪問者が三船本人と気付かなかったという話も残っているほどです。

ある時、ロケ隊において皆に混じって荷物の整理を手伝う三船に、淀川長治が「あんたはそういう事しちゃ駄目よ、スターなんだから」と言われると、三船は「だって俺、手空いてるもん」と言っただけで、せっせと作業を続けたというエピソードも残っています。

また、料理が好きで、一ヶ月にも及ぶ宿泊がざらだった御殿場でのロケでは、三船が肉や野菜を買ってきて自ら包丁を振るい、大鍋で豚汁を作ってロケ仲間に振舞うのが恒例で、弁当は握り飯しか出なかったこの当時の現場では大好評だったそうです。

この三船の料理好きは、軍隊で炊事をやっていたことに由来しており、このほかこれも軍隊で身に着けた技なのか、毛布からズボンを作るなど繕い物が上手かったといい、さらには字を書いても実に達筆であるなど非常に器用な人だったようです。

三船敏郎といえば、「七人の侍」や「用心棒」といったサムライ映画が真っ先に思い浮かびますが、役者になる前は「軍人」であったことは広く知られており、内外の多くの戦争映画にも出演し、とくに「山本五十六」を数多く演じたことでも知られています。

邦画・ハリウッド映画を含め、山本五十六を演じた回数では現在でも三船がトップだといい、これはその面構えがいかにも「日本武士」であることにほかならず、その「顔」が形成されるにあたっては、役者になる前の軍隊生活が大きな影響を与えたことは想像に難くありません。

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その三船敏郎は、1920年(大正9年)、三船徳造と三船センの長男として、当時日本の占領下にあった中華民国・青島市に生まれました。

父・徳造は、秋田県鳥海町の16代続く名家・三船家の次男であり、貿易商であり、写真業も営んでいました。徳造は、元は日本で医者を目指していたようですが、写真に夢中になり、あちらこちら旅行し、最後に中国にたどりついて、そこでカメラ店を開いたといいます。このため、幼い三船にも子供のころからその写真術の手ほどきを受けていたようです。

1925年(大正14年)、一家は大連に移り住み、父・徳造は「スター写真館」を開業。1934年(昭和9年)、大連中学校に入学。三船は若い頃からワルだったと言いますが、1938年(昭和13年)、大連中学を卒業。1940年(昭和15年)、徴兵・甲種合格で兵役に就きましたが、これが父母との永遠の別れになりました。

徴兵に際し死を覚悟したといいます。が、写真の経験・知識があるということから満洲国・公主嶺の陸軍第七航空隊に配属され、そこで写真業の手伝いをしていた腕を見込まれて、航空写真を扱う司令部偵察機の偵察員となりました。この偵察部隊では常にカメラを手放さなかったこともあり、その後後年まで、カメラに対するこだわりが深かったといいます。

ところが、入隊当初のしごきは凄まじく、一発二発のビンタでは倒れないのでよけいに殴られ、声が大きいだけでも殴られ、顔が変形するほどだったと、三船はのちにテレビのインタビューで語っています。

しかし篤実な性格だったため、その後は重用されるようになり、あるとき一人の上官から家族の写真を撮ってほしいと呼びだされ、その出来が良かったので教育隊に残るように言われます。同じ時期に入隊した仲間はみな南方の戦地に赴いた一方、この後方部隊にいたことが幸いし、三船は中国戦線を生き延びました。

その後、1941年(昭和16年)内地に移動となり、滋賀県八日市の八日市飛行場「中部九八部隊・第八航空教育隊」に写真工手として配属され、後には第七中隊の特別業務上等兵として炊事の責任者をするようになりました。このころ同じ部隊に部下としており、のちに映画プロデューサーとなる鷺巣富雄とは、その後生涯にわたる交友関係を結びました。

鷺巣は、このとき三船から写真技術の指導を受けていますが、戦後も三船の写真技術を高く評価しており、円谷英二、大石郁雄と並んでの映画界の師と仰いでいたといい、三船の映像に関しての技術はかなりのものであったことが伺われます。

内務班で古参上等兵だった三船は兵隊仲間の面倒見がよく、鷺巣ら初年兵をよくかばってくれたといい、こわもての多い炊事班にも顔が利き、ビールや缶詰をよく調達してきてくれたそうで、酔うと必ずバートン・クレーンの「酒が飲みたい」を唄うのが通例で、初年兵全員にこれを合唱させていたそうです。

また、シュークリームを作ったこともあったといい、この当時9コースの中国料理を身につけたとも言われており、後年、三船はその見事な腕前を身近な人々に披露しています。

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ちなみに、バートン・クレーンというのは、昭和初期に活躍したアメリカ出身の歌手で、プリンストン大学を卒業後、経済関係のジャーナリストを志して新聞界に入り、1925年(大正15年)秋、ジャパン・アドバタイザー紙の記者兼ニューヨーク・タイムズ、ウォールストリート・ジャーナルの東京特派員として来日していた人物です。

このとき、宴席の余興で故国の歌をカタコトの日本語で唄っていたことをコロムビアレコードのL・A・ホワイト社長が知りました。コロムビア社は、1927年(昭和2年)、蓄音器輸入販売会社の日本蓄音器商会を買収したアメリカの外資系会社で、ライバルのビクターともども、国産レコードの販売を進めていました。

レコードを売るため、アメリカのジャズ音楽を日本に普及させるなどの販売促進活動を行っていましたが、そんな状況の中、販売体制の強化を目指して来日していたホワイト社長の目にクレーンがとまり、歌手としての才能を見出しスカウトしたのでした。

こうして1931年(昭和6年)に発売されたのが「酒が飲みたい」で、この曲は大ヒットし、詩人のサトウ・ハチローが「この歌は歌そのものが泥酔している」「俺もこんな酔払った歌がつくりたい」と激賞するほどでした。

一躍人気歌手となったクレーンは、その後も「家にかえりたい」「おいおいのぶ子さん」「雪ちゃんは魔物だ」「ニッポン娘さん」などの30曲近くのコミックソングを中心とするレコードを出し人気を博しましたが、そのほとんどがアメリカの俗謡に訳詞を付けたものでした。

その後東京特派員としての任期を終えたクレーンは、帰国してニューヨーク・タイムズ紙記者として招かれ経済欄を担当、その記事は全米でもトップクラスの評価を得ていました。その一方で、1937年(昭和12年)ベニー・グッドマン楽団のコンサートの日本向けの国際放送において解説をするなど、日本とのつながりも続けていました。

日米開戦後は日本通ということで重用され、1945年(昭和20年)戦略局極東班に所属し、中国の昆明に渡り諜報関係の任務についています。終戦後は特派員として再来日。日本の友人たちと旧交を温める一方では「コレスポンデンツ・クラブ」(現日本外国特派員協会)を立ち上げ初代会長に就任、在日の海外特派員のまとめ役にもなりました。

1951年(昭和26年)に朝鮮戦争が勃発すると、取材のため独断で数名の仲間と陥落寸前のソウルに行くが戦闘に巻き込まれ頭を負傷しますが、この独行がもとで支局長と衝突し、台湾に転勤、直後帰国。その後はコラムニストとして大学の教壇に立ったり著述活動に専念したりしていましたが、晩年は病魔に倒れ1963年に62歳で亡くなりました。

2006年秋、レコードコレクターの尽力でCD「バートン・クレーン作品集」が出版されたこともあり、近年再評価の動きが出ているようです。

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さて、三船敏郎のことです。第七中隊に入った三船ですが、この前年の1940年(昭和15年)のあるとき、先輩兵である大山年治から、「俺はこの3月に満期除隊となるが、来年はお前の番だ、満期になったら砧の撮影所へ来い。撮影助手に使ってやる」と誘われました。

実は、この大山年治は東宝撮影所撮影部所属のカメラマンであり、三船の写真技術の高さを見込んで、彼に目を付けたのでした。しかし、戦況が逼迫し、満期除隊は無くなってしまったため、結局、以後敗戦まで彼は6年間もの間兵役に就くことになりました。

このころにはかなりの古参兵になっていたようですが、少年期からの「ワル」の癖は抜けきらず、このため上官に対して反抗的な態度を取っていたので、「古参上等兵」のままこの6年間を過ごしました。

しかし、単なるワルではなく、「心意気のある」ワルだったようで、他の兵隊がいじめられているのを見た三船は、階級章を外して、「同じ日本人なのに何でいじめるんだ。俺は俺の階級を忘れる。お前もお前の階級を忘れて俺と勝負しろ。人間対人間で行こう!」と言ってタンカを切り、そうすると、たいてい相手は意気消沈してしまったといいます。

その後、1945年(昭和20年)の戦争末期には熊本の隈之庄の特攻隊基地に配属され、出撃前の隊員の遺影を撮る仕事に従事しました。

この写真班では、航空写真をもとに要地の地図をつくるとともに、少年兵の教育係も任され、自分が育てた後輩たちが、次々と南の海で死んでいくのを見送ることとなりました。敗戦後にこの戦争体験を「悪夢のような6年間」と述懐しており、明日出陣する少年兵にスキヤキを作って食べさせるたびに涙を流していたといいます。

また少年兵に向かって、最後のときは恥ずかしくないから「お母ちゃん」と叫べと言っていたといい、「あの戦争は無益な殺戮だった」と、後に海外のマスコミの取材に対して語っています。

1945年(昭和20年)、特攻隊基地で終戦を迎えた三船は、父の生家である秋田県由利郡鳥海町小川の三船家に世話になりますが、すぐに毛布1枚と米をもらって上京しました。この東京で三船は約束を頼りに復員服のまま大山年治を訪ね、撮影助手採用を願い出ました。

ところが、何かの手違いで三船の志願書が俳優志願の申込書の中に混じり、三船はその面接を受ける羽目になります。このころ東宝では本土復員に伴って復帰社員が増加したことから縁故採用が難しくなっていましたが、大山は三船に「とりあえず受けてみろ、貴様の面なら合格するはずだ、入ってしまいさえすれば撮影助手に呼べるからな」と助言します。

こうして、不本意ながら俳優志望として面接を受けることになった三船ですが、いざ面接が始まり、審査員に「笑ってみてください」と言われた際にも生真面目な彼はその意味がわからず、困っている自分をからかって馬鹿にしているのだと思ったといいます。

三船はこの指示に対して、人を食ったような態度で「面白くもないのに笑えません」と答えたといい、その場にいた1人の映画監督が逆にこれを喜び、「こんなに率直に感情を表す人間ならば、映画の役も一生懸命演ずるだろう」と言いました。

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しかし、他の委員の多くは「野蛮な奴だ」と一蹴したといい、結局、性格に穏便さを欠くという理由により多数決で不合格、という結論が出ました。ところが、この会場には女優の高峰秀子がたまたま居合わせていました。

このとき彼女は三船のその存在感のある様子に胸騒ぎを感じたといい、彼女はちょうど撮影中で審査に参加できなかった黒澤明に、彼のことを知らせました。高峰の呼びかけで駆けつけた黒澤もまた三船を見て、ただならぬ気配を感じたといい、このとき審査委員長だった山本嘉次郎監督も同じだったといいます。

この当時の審査委員会は監督など映画製作の専門家と労働組合代表の半数ずつで構成されていましたが、黒澤は「俳優の素質を見極めるのに専門家と門外漢が同じ一票ではおかしい」と抗議。結局山本が「彼を採用して駄目だったら俺が責任をとる」と発言し、なんとか及第となりました。

粗野に見える中の大器の可能性を買われ、補欠ではありましたが、こうして1947年(昭和22年)、正式に三船は東宝社員として採用となりました。

ところが、東宝に入った三船は、さらさら役者になどなるつもりはありませんでした。しかし、「撮影部の空きを待っている」と渋る三船を映画監督の谷口千吉が口説き落とし、結局、映画「銀嶺の果て」というアクション映画で役者としてデビューすることになりました。ちなみに、この映画での監督は谷口でしたが、脚本編集は黒澤明でした。

この映画は、軍隊帰りの三船を含む3人が銀行強盗を働いて北アルプスに逃げ込み、これを捜索隊が追いかける中、一行は雪山で遭難してしまい、運良く助かった三船ともう一人が逃亡活劇を続ける、というストーリーです。この生き残ったもう一人は志村喬であり、一方の三船は、飛行服を着て登場し、その荒々しい所作がたちまち話題となりました。

この映画の制作にあたって監督の谷口は野生的な男を探していたそうですが、たまたま同じ電車の乗り合わせた三船をみて、これだ!とひらめいたそうで、早速誘うことを決めたところ、あとで東宝の社員だったことを知り、驚いたといいます。

しかし、三船は、この申し出に対し、あくまで「俳優にはならない、男のくせに面で飯を食うのは好きではない」と断ってしまいます。この後に及んでもあくまで撮影部を希望していたわけですが、渋る三船に対し、谷口は、このころ三船がまだ戦時中の航空隊の制服を着ていることに気付きます。

既にボロボロになっており、これに目を付けた谷口は、出演の交換条件に背広を作ってプレゼントすることなど提示したといいます。こうして映画デビューを果たすことになった三船ですが、この映画において脚本を担当していた黒澤は、かつての審査会で自分が感じていた彼のたぐいまれな才能を確信します。

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こうして彼のデビュー3作目となる、1948年(昭和23年)の「醉いどれ天使」において黒澤映画としては初出演することになりました。この映画で三船は主役の一人として破滅的な生き方をするヤクザを演じ、この作品は大好評を得て一躍スターとなります。

この映画で三船を初めて起用した黒澤明はのちに、「彼は表現がスピーディなんですよ。一を言うと十わかる。珍しいほど監督の意図に反応する。日本の俳優はおおむねスローだね。こいつを生かしていこうと思ったね、あの時は」と当時を振り返り語っています。

こうして三船は、黒澤明とともに、敗戦で打ちひしがれていた日本人に勇気を与える映画の数々に登場していきました。いずれもがヒットし、国際的にもヴェネツィア国際映画祭 男優賞を2度受賞し、やがては「世界のミフネ」と呼ばれるようになっていきます。

海外映画としては、メキシコ映画「価値ある男」、米映画「グラン・プリ」、「太平洋の地獄」、米ドラマ「将軍 SHOGUN」、フランス映画「レッド・サン」などが有名であり、これらの映画を通じ日本が誇る国際スターのみならず、「国際的映画人」として世界中の映画関係者に影響を与え、尊敬されるようになっていきました。

英語圏では、TheWolfやTheShogunなどと呼ばれ、国内における出演料収入も歴代の日本のスターの中で別格であり、2000年に発表された「キネマ旬報」の「20世紀の映画スター・日本編」で男優部門の1位に選ばれたこともあります。

数々の栄典及び称号を受けており、それらは、芸術選奨・勲三等瑞宝章・紫綬褒章・川喜多賞・芸術文化勲章などであり、海外においてもロサンゼルス市名誉市民・カリフォルニア大学ロサンゼルス校名誉学位を受けているほか、ブルーリボン賞に至っては歴代最多となる6度の入賞を果たしています。

1986年(昭和61年)には紫綬褒章、1993年(平成5年)には勲三等瑞宝章も受章。晩年は山田洋次監督「男はつらいよ 知床慕情」(1987年)の頑固者の老獣医師や、市川崑監督の「竹取物語」(1987年)の竹の造翁、熊井啓監督の「千利休 本覺坊遺文」(1989年)の千利休、「深い河」(1995年)の塚田など、渋い演技を見せました。

しかし、このころより体調がすぐれないことが多くなり、晩年は軽度の認知症を発症していたといわれ、週刊誌やワイドショー等の話題となっていました。1997年(平成9年)、12月24日に全機能不全のため77歳にて死去。遺作は「深い河」でした。

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三船の死の当時、黒澤は足腰を痛めており、本来なら葬儀委員長を引き受けるべきところをこれを固辞しており、弔電だけを贈っています。しかし、マスコミからのインタビューに答え「こんなつらい思いをしたことはない」と述べ、過去の自分の作品は「どれも彼がいなかったらできなかった」とも述べています。

またこの弔電には、「本当に素晴らしい役者だった、本当に君以上の俳優はいないと言いたかった。」と書かれており、「色々な思い出がいっぱいで気持ちがまだまとまらない。三船君、ありがとう、お疲れ様という気持ちです。」とも書かれていました。

埋葬は、神奈川県川崎市の春秋苑にある先祖代々の墓に行われ、三船は今もここに眠っています。

ちなみに、黒澤明は、その後「雨あがる」の脚本執筆中に、京都の旅館で転倒骨折。療養生活に入りましたが、三船が亡くなった翌年の、1998年(平成10年)9月6日、脳卒中により死去。88歳でした。

この黒澤もまた世界的に有名であり、その死も世界の映画ファンを悲しませましたが、三船が逝去した際の国内外の反響もかなり大きいものでした。とくに海外においては、フランス共和国とイタリア共和国の国営放送のテレビニュース番組が「トシロー・ミフネの死去」をトップニュースで報じました。

外国報道機関がトップニュースで日本の俳優の死去を報じたのは過去に例がない出来事であり、また、アメリカのタイム誌でも三船の死は大きくとりあげられました。

三船は、これもまた昭和の名優と称される、「志村喬」と数多くの映画やドラマで共演しています(51本の映画と2本のドラマ)。三船は戦争の際に徴兵されてそのまま両親と生き別れになったことから、志村夫妻を実の両親のように慕っていたといい、「七人の侍」の頃から志村は三船の親代わりだったといいます。

この親子のような関係は、黒澤が「醉いどれ天使」の頃になんとなく、志村に三船の親代わりを頼んだことに起因しているといいます。が、志村喬と三船は15歳しか違わず、親子というよりは兄弟のような関係だったのかもしれません。

三船が世帯を持ってからも、志村家とは家族ぐるみの親交は続いていましたが、三船が最期の1週間ほどの間目も口も閉ざし、反応はほぼなくなっていた中で、志村喬夫人の政子が三船を見舞った際、「三船ちゃん、しっかりしなさいよ!」と耳元で励まし頬を叩くと、三船の目から一筋の涙が流れたといいます。

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ちなみに、志村喬は、三船の死から遅れて5年後の1982年(昭和57年)、慢性肺気腫による肺性心で死去しており、享年76歳でした。

こんな話もあります。三船が息を引き取った頃、ちょうどこのとき俳優仲間で仲の良かった宝田明も11時間に及ぶ心臓のバイパス手術を受けていました。ところが、麻酔から醒めた宝田の第一声は「三船敏郎が亡くなった。東宝のみんなに連絡しろ」であったといい、このことは、その後役者仲間で語り草になったといいます。

臨死体験のパターンには個人差がいろいろあるようですが、物理的肉体を離れる、体外離脱をする、といったもののほかに、死んだ親族やその他の人物に出会う、ということがあり、宝田もまた死した三船と霊界の入口で出会ったに違いありません。

三船敏郎は、元来は俳優業を「男は顔で売るべきではない」と嫌っていたそうです。が、後には「俳優は人間の屑ではない。人間の宝石が俳優になるのだ。なぜなら神なくして人間を創造するには、人間の屑では出来ないはずだ」と俳優業を誇るようになったといいます。

撮影現場に遅刻したことが一度もなく、撮影に入る前に台詞・演技を全て体に覚えさせ、撮影に台本を持参しないことも多い、という高いプロ意識を持っていたことでも知られており、三船のノートにはいつも細かく丁寧な字で演技プランがびっしり書き込まれていたそうで、このことからも仕事への真摯な態度が伺えます。

「用心棒」の三船は本当に人を斬る気迫で殺陣をしており、殺陣の最中、三船は呼吸を止めていたといいます。何度も映画で共演したことのある司葉子はその当時を振り返り、撮影中にカットの声がかかるたびに三船が肩で息をするのをみて、三船は命がけで演技をしているんだなとわかったと語っています。

黒澤映画の撮影では、長時間たくさんのライトにさらされることがあり、ライトの熱で着物が焦げ、煙が出ることもありましたが、三船はそれでも微動だにせず待機していたといい、どの現場でも待つことを嫌がらず、苦情もまったく言わなかったそうです。

スタッフにもプレッシャーがかからないようにしていたといい、常に周囲への心遣いを忘れない繊細さも多分に持ち合わせており、“世界のミフネ”となり世界中を行き来するようになっても、特別扱いを嫌って、付き人もつけずに飛行機に乗っていたそうです。

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また、三船は時代劇に出演するにあたって三船家の家紋の入った着物を着用するなど、両親と先祖に対する思い入れは相当なものだったといい、三船プロダクションのロゴマークも三船家の家紋です。

さらには、日本人であることに強い誇りを抱いており、「私は日本と日本人のためにこれからも正しい日本人が描かれるよう断固戦っていく」と語っています。「残酷な軍人やエコノミックアニマル。日本人は、そんなやつらだけじゃあないと、世界中に知らしめたいんだ」と海外作品のロケ中に、親しい人に吐露したこともあったといいます。

こんなエピソードもあります。三船がアメリカに行った際に、空港で空港税関係員に“Do you have any spirits ? ” と質問されました。実は、spiritsというのは、「蒸留酒」の意味だったのですが、これに対して三船は堂々と、”Yes! I have Yamato-Damashii ! ”と答えました。つまり、「その通り、俺は大和魂を持っている」というわけです。

単純に意味を聞き間違えただけのような気もしますが、もしかしたら英語にも堪能だった彼流のウィットを利かせた返答だったかもしれません。単に優越民族であると誇示するだけでは反感を買うことはわかっているため、これにユーモアを含ませることによってより日本人という存在を理解させようとしたのかも、とか思ったりもします。

三船の死からは、既に17年が経っていますが、成城の自宅にある彼の部屋は、現在でも生前のままの状態だといい、ここには戦争時の飛行機用のゴーグル、毛布から自分の手で縫った兵隊用のコートなどのほか、古いいろんな物が残っているそうです。

また、東京港区の六本木には「三船敏郎」の世界観を表現し、三船プロダクションが監修した「料理屋 三船」という居酒屋があるそうで、この店内は三船の写真、三船家の家紋、三船の直筆の書を複製した額縁などが飾られており、メニューには「男は黙ってサッポロビール」など三船にまつわる名が付けられています。

台風一過の今夜。私もこの昭和の大俳優にあやかり、私も寡黙に「キリンビール」を飲み干したいと思うのですが、果たして山の神は許してくださるでしょうか。

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それぞれのエピローグ

2014-2-6478台風が近づきつつあり、今日明日はお日様は望めそうもありません。しかも、仮に晴れていたとしても、今日は新月なので、夜空も真っ暗です。

これで生活にも張りがなければ、四方八方塞がりといった感じで、暗くなってしまいそうなのですが、私的にはここのところの生活はそれほど悪くはありません。毎日それほどストレスを感じることもなく元気で過ごせているというのは、ありがたい極みです。

それにしても、東京を離れてどのくらい経ったか、などと最近ではあまり気にもならなくなってさえきましたが、改めて数えてみると、2年と6ヶ月ちょっとです。2年半といえば、10年のちょうど4分の1、パーセンテージにすると25%。伊豆での生活がこれからも長く続いていくとすれば、まだそのほんの序章にすぎません。

この「序章」とは、物語の前置きのことで、文学作品などではよく「プロローグ」という言葉が使われます。物語の冒頭で、本文の内容の概略や背景について述べ、読者が内容になじみやすくするために書かれた部分のことです。

音楽においては、一つの曲の前奏部にあたります。プレリュードともいいますが、一般的な書き物では、「導入部」「序文」「序説」ともいいます。

逆に、全体をしめくくる言葉や終わりの部分や「終章」として付け加えられるのは、「エピローグ」です。本編後の後日談的なものを書く部分であり、本編では書けなかった、書かなかった部分を補足したりするのに使います。あぁそんな見方もあったのか、そういうことだったのか、といった物語のオチに使われる場合も多いようです。

エピローグには他に似たような用語はありません。強いていえば「エンディング」でしょうか。が、プロローグにはほかに、アバンタイトルというのがあり、これは、映画やドラマ、アニメや特撮などでオープニングに入る前に流れるプロローグシーンのことで、プレタイトルとも呼ばれ、一般的にこのような映像手法をコールドオープンといいます。

一方、文学や演劇で使われる序章の部分には、プロローグをもっと簡単にしたものもあり、これを「エピグラフ」といいます。

……エビグラタンではありません。エビピラフも違います。エピローグとも混同しそうですが、これは、文書の巻頭に置かれるよりより短い文章で、詩である場合や他の本からの引用した短い慣用句などである場合もあります。

その本の内容を端的に表すことが多いようですが、一方ではより広く知られている別の文学作品と関連づけたり、比較をもたらしたりするためにも使われます。必ずしも、その本の冒頭だけでなく、各セクションの初めにエピグラフを配する場合もあります。

たとえばスタンダールの「赤と黒」には1章ごとに凝ったエピグラフが付されていて、これは、「小説、それは街路にそうて持ちあるく一つの鏡である」、といった具合です。日本ではあまり見かけませんが、翻訳モノを読んだことがある人は、こうしたエピグラフに遭遇したことがあるでしょう。

日本の小説では、たとえば堀辰雄の「風立ちぬ」の冒頭にある、「風立ちぬ、いざ生きめやも」が有名です。また、太宰治は「二十世紀旗手」で「――(生れて、すみません。)」という名エピグラフを残しました(ちなみにこれは、原文のママ)。

ところが、この「生まれてすいません」は実は盗作だった、ということが言われているようです。

最初にこの文章を書いたのは、寺内寿太郎という、は昭和初期の無名の詩人だといわれています。生没年も不詳の人物ですが、川柳の才能があったといわれ、当時流行の探偵小説にも凝ったことがあるようですが、太宰治ほど有名ではなく、小説化の端くれ、といったところだったでしょう。

昭和初期に評論家として活躍した「山岸外史」という人のいとこです。この山岸という人は、若いころに、太宰治や檀一雄たちと共に同人誌を創ったこともある人物で、太宰治の親友の一人でした。

現在、「リーガル」のブランド名で有名な「リーガルコーポレーション」、かつては「日本製靴」といったこの会社の社長などを歴任した山岸覺太郎の息子でもあります。

1934年(昭和9年)に太宰と知り合い、「青い花」という同人誌などの仲間として交友を深めました。クリスチャンだったようで、その著作により太宰に影響を与えましたが、戦後絶交状を送るなどして次第に疎遠となりました。

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しかし太宰入水に際して遺体捜索には加わり、美知子夫人から「ヤマギシさんが東京にいたら、太宰は死ななかったものを」と泣かれたことなど、その複雑な交友の実態を自らの回想録「人間太宰治」、「太宰治おぼえがき」などのなかで明らかにしています。

文学者でもあり、1939年(昭和14年)、「人間キリスト記 或いは神に欺かれた男」で第3回の北村透谷文学賞を受賞しており、この本はとくに太宰に大きな影響を与えたといわれています。ちなみに、北村透谷は文学者でもありましたが、評論家としても有名な人であり、この文学賞の受賞者には評論家としても評価の高い人が多いようです。

この山岸外史という人は、戦前の1944年(昭和19年)、左翼色の強い「ロダン論」を刊行直後に軍部からの言論弾圧を受けています。またこのころから空襲も激しくなってきたことからこれを避けて山形県米沢市に疎開し、ここで1950年(昭和25年)まで山形で農民生活を経験し、「労働者」として目覚めます。

もとより、共産思想にシンパシーを感じていたこともあり、山形での経験もきっかけとなって、戦後の1948年には日本共産党に入党。また、その傍ら、「新日本文学会」という旧プロレタリア文学運動の流れを汲む組織の事務局長を務めました。

このころ、軍の弾圧によって休刊になっていた、同人誌「青い花」を太宰治、や檀一雄らと復刊しますが、このころから文学編集者としての道を歩むことを決め、1962年(昭和37年)、日本共産党から離脱。しかし、その後も日本民主主義文学同盟に所属するなど、政治色の強い活動を続けました。

日本民主主義文学同盟というのは、戦争の激化と弾圧によって壊滅させられたプロレタリア文学に代わって、左翼文学の中心とすべく、彼らみずからがその新潮流を「民主主義文学」と名づけたのに由来する組織であり、現在も存続して活動を続けています。

透谷文学賞も受けた著書「人間キリスト記」は太宰に多大な影響を与えましたが、山岸はこのほかにも「人間芭蕉記」「夏目漱石」「芥川龍之介」「眠られぬ夜の詩論」「煉獄の表情」などがあり、こうした評論によってこの時代の作家を広くこの世に広めたという功績があります。しかし、1977年(昭和52年)、73歳で亡くなりました。

さて、その山岸の従弟とされる、寺内寿太郎という男のことです。この人は、幼時に父を日露戦争で亡くし、親戚の間を転々として育っていますが、伯父の世話で慶應義塾大学の経済学部を卒業して会社勤めをしていたそうです。

が、この会社では不遇だったようで、私生活もうまくいかずに家出すること数回。伊豆の天城山の奥深く分け入り、自殺を企てたこともありますが、10日間消息を絶った後、親戚に発見されて連れ戻される、といったこともありました。

その後も、たびたび職業を変え、都落ちをしてからは岩手県宮古で4年間、町会や漁業組合で書記として生計を立てる傍ら、作家活動も行いました。極端な寡作家ながら、この宮古時代に「遺書(かきおき)」と題する7〜8作の詩稿を完成して帰京。

くだんの「生れてすみません」は、この詩集の中に一行詩として書かれていました。その「遺書」の詩稿を公表したところ、この無名の作家の作が太宰治の目にとまり、1936年(昭和11年)の短篇「二十世紀旗手」の冒頭において、エピグラフ「生れて、すみません」として剽窃されるに至った、というわけです。

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ちなみに、「剽窃(ひょうせつ)は「盗作」とは違います。「剽窃」は書かれたものの一部の文章をさし、「盗作」は一般に作品全体に対象が及ぶことしばしばです。つまり「盗作」の方が、対象範囲が広いということになります。

剽窃ではない、とする場合には、通常、その本人の作であることを付記する必要があり、これがない場合は、現在では著作権侵害として訴えられてもおかしくはありません。が、盗作は、たとえ原作者の名前が書かれていても、泥棒のそしりを受けることは免れません。

この寺内は早い時期から太宰作品の愛読者だったようです。しかし、その敬愛する作家がまさか自分の作品を剽窃するとは思いもしなかったでしょう。太宰の「二十世紀旗手」が発表された翌年、これを読んでその事実を知った寺内は、すぐに山岸のもとに駆けつけて、この事実を彼に訴えたといいます。

このとき、寺内は顔面蒼白だったといい、「生命を盗られたようなものなんだ」「駄目にされた。駄目にされた。」と叫びながら山岸に訴えたと伝えられています。

太宰とはかねてより懇意にしていた山岸は、すぐさまこのことを太宰に伝えたようですが、これを聞いた太宰は狼狽し、この一文を山岸の作であると錯覚した、とい言い訳をしたそうです。が、他方では「わるいことをしたな」と言ったといいます。実は確信犯だったでしょう。

このことがきっかけになったのかどうかはわかりませんが、その後、寺内は文学に挫折し、憂鬱症に陥り、家出を繰り返し、やがて失踪してしまったといいます。敗戦後まもなく、品川駅で目撃されたのが最後の姿だったといいます。

まさしく、「生れてすみません」を地道に歩んだ人だったようですが、その原因を作ったのがかの有名な大作家である太宰治であったとすると、罪なことをしたものです。

この寺内の作品を剽窃した太宰もまた、「生まれてスイマセン派」でした。自殺マニアであり、「人間失格」「桜桃」などを書きあげたのち、1948年(昭和23年)6月13日に玉川上水で、愛人山崎富栄と入水自殺しました。享年38。

2人の遺体は6日後の6月19日、奇しくも太宰の誕生日に発見され、この日は彼が死の直前に書いた短編「桜桃」にちなみ、太宰と同郷で生前交流のあった今官一により桜桃忌と名付けられました。

1998年(平成10年)に、遺族らが公開した太宰の9枚からなる遺書では、妻の美知子宛に「誰よりも愛してゐました」とし、続けて「小説を書くのがいやになつたから死ぬのです」と自殺の動機を説明しています。この遺書はワラ半紙に毛筆で清書され、署名もあり、これまでの遺書は下書き原稿であったことが判明しました。

「人間失格」の連載最終回の掲載直前の6月13日深夜に太宰が自殺したことから、本作は「遺書」のような小説と考えられています。この作品の後にも「グッド・バイ」という遺作がありますが、これは未完のままであり、完結作としては「人間失格」が最後です。

この作品は、体裁上は私小説形式のフィクションでありつつも、主人公の語る過去には太宰自身の人生を色濃く反映したと思われる部分があり、自伝的な小説と考えられています。しかし、太宰が自らその生を絶ってしまったため、ほんとうに彼の生涯がそうしたものであったのかどうかは不明です。

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太宰は、上述の同人誌、「青い花」の創刊を通じて、詩人の中原中也とも親交がありました。中原もこの雑誌に投稿していたようです。

この中原中也という人は、残っている写真などをみると、長州人にありがちな、色白できゃしゃな感じでなかなかな優男です。が、実は性格はかなり荒い人だったようで、ふだんからの言動もきつく、酒席などでも、同席者に凄絶な搦みをかませることも多かったそうです。

一方の太宰治は、これもその当時の写真からもうかがわれるようにかなりナイーブなタイプだったようで、あるとき、中原とある酒宴で同席したとき、中原から例によってドスを利かせた声で、「お前はいったい何の花が好きなんだい」と訊ねられました。

これに対し、気弱な太宰は、泣き出しそうな声で「モ、モモノハナです」と答えるのがやっとだったといい、中原は「チエッ、だからおめえはダメなんだ!」とこき下ろしたといいます。

このほかにも中原は酒癖の悪さで知られており、大岡昇平を殴ったこともあるほか、文芸評論家の中村光夫をビール瓶で殴った上に「お前を殺すぞ」と暴言を吐いたと言われています。

写真などから太宰は骨太な人物で、逆に中原はやさおとこで気が弱そうに思っていた人も多いと思いますが、逆だったようです。太宰の側ではそうした粗野な中原の人間性を嫌っており、親友山岸外史に対しても「ナメクジみたいにてらてらした奴で、とてもつきあえた代物じゃない」と、いつも中原の悪口を言っていたといいます。

しかし、一方では太宰は中原の才能を高く評価していたようで、後に中原没後、檀一雄に対して「死んで見ると、やっぱり中原だ、ねえ。段違いだ。立原は死んで天才ということになっているが、君どう思う?皆目つまらねえ」と言ったといいます。

立原というのは、24歳で急逝した詩人の立原道造のことで、その彼の死の二年前に亡くなった中原中也を記念した中原中也賞を受賞しています。その中原の才能を買っていた太宰にこき下ろされていたことを立原が知っていたらどう思ったでしょう。

かくして自身もその没後に天才と言われた太宰治もこの世からいなくなりました。文学作品で、登場人物が相手なしに一人で独立した台詞を吐くことを、「モノローグ」といいますが、これはつまりは一人芝居のことです。

その生涯においてこのモノローグを演じ続けた太宰が最後に選んだエピローグは自らの命を絶つという筋書きでしたが、果たして自分で仕上げたこの芝居の出来具合をあの世でどう思っていることでしょう。

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さて、「いざ生きめやも」のエピグラフで有名になった堀辰夫のほうはどうでしょう。彼は、自殺ではありませんでしたが、これもまた、早くして亡くなりました。

40歳過ぎの戦争末期ころからは結核の症状も重くなり、戦後はほとんど作品の発表もできず、軽井沢町の追分で闘病生活を送り、1953年(昭和28年)5月28日)48歳の若さで死去しています。

それまで私小説的となっていた日本の小説の流れの中に、意識的にフィクションによる「作りもの」としての「ロマン小説」という文学形式を確立しようとした作家と評されます。
フランス文学の心理主義を積極的に取り入れ、これを日本の古典や王朝女流文学と融合させることによって独自の文学世界を創造しました。

肺結核を病み、軽井沢などに療養することも度々ありましたが、その悲哀をネタにした作品を多く残したところにも特徴があり、ご存知軽井沢と言えば、今上天皇と美智子妃が恋を育んだ地であり、誰もが憧れるロマンの香りあふれる地でもあります。

その主な活動は、戦前の1933年(昭和8年)、季刊雑誌「四季」を創刊したことに始まります。この雑誌は結局、二冊で終刊の憂き目に遭いましたが、このころに傾倒していた恋人、片山総子との別れや心身疲労を癒すため、6月初めから滞在するようになった「つるや旅館」が、そもそもの軽井沢との出会いのきっかけです。

ここには9月まで滞在し、作品執筆を行いましたが、その村で7月に、同じく肺病を患って療養に来ていた、東京は世田谷・成城在住の一人の油絵を描く少女と出会います。

この少女こそが、「矢野綾子」であり、やがてこの若干19歳の少女と恋仲になった堀辰夫は、彼女を題材として、この時期の軽井沢での体験を書いた中編小説「美しい村」の執筆に入りました。

この「美しい村」の「夏」の章では、矢野綾子との出会いが描かれており、ここではそれまでの様々な人との別れの悲劇を乗り切ってきた彼の人生そのものが描かれ、この作品はそれ以前の自伝的作品、「聖家族」以後の堀彼の人生の要約として読むことができるといいます。

掘はその後も彼女と交際を続け、6年後の1934年(昭和9年)、24歳になった矢野綾子と婚約にこぎつけます。一方の堀は、6つ年上の30歳でした。

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このころの堀は、フランスのカトリック作家フランソワ・モーリアックの作品に触れて、強い影響を受けています。

モーリアックは、古い伝統や因習の殻に閉じこめられた地方的な家庭生活を舞台とし、そこでの個人と家庭、信仰と肉の葛藤、エゴイズムと宗教意識の戦い、といったかなり重い題材を好みました。

また、病的なほどに我執や肉欲にとらわれる人間の内面を執拗に分析しました。敬虔なクリスチャンであり、神なき人間の悲惨を描くことが彼の生涯のテーマでした。

その表現方法は、独自の「内的独白」という手法であり、文体は古典的で端正、精緻で、構成もきわめて巧妙でした。地元フランスでは、深刻な道徳問題を取り扱う「心理小説家」として名を馳せましたが、こうした繊細で重厚な作風は、堀辰夫以外にも遠藤周作や三島由紀夫の作風に大きな影響を与えたといいます。

さて、矢野綾子と1934年(昭和9年)婚約した堀は、この年の10月に、長野県北佐久郡西長倉村大字追分(現:北佐久郡軽井沢町大字追分)に移り住み、ここの「油屋旅館」に滞在するようになりました。堀は終生この地を「信濃追分」と呼んでおり、ここで「物語の女」という短編を書き上げますが、ここで結核が悪化し、スランプに入ってしまいます。

ちょうどこのころ相方の矢野綾子も肺を病むようになったため、翌年1935年(昭和10年)7月に八ヶ岳山麓の富士見高原療養所に二人で入院します。しかし、綾子はこの年12月6日に死去。享年25でした。結婚というゴールに至ることなく、死によってその仲が引き裂かれるというのは、まるで悲恋ドラマの世界そのものです。

堀自身も悲嘆の極みだったでしょうが、もともと力量のある作家であった彼はその悲しみを文章へと転じ、これはのちに彼の代表作として知られる「風立ちぬ」として知られるようになりました。1936年(昭和11年)から執筆を始め、終章「死のかげの谷」を書き終えたのは1937年(昭和12年)のことでした。

実は、この「風立ちぬ」の有名なエピグラフ、「いざ生きめやも」もまた、堀辰夫のオリジナルではありません。ただし、原文は日本語ではなく、フランス語であり、書いた人はフランス人作家のポール・ヴァレリーといいます。

アンブロワズ=ポール=トゥサン=ジュール・ヴァレリーは、フランスの作家ですが、詩人としても有名な人です。その前半生は不遇でしたが、ノーベル文学賞受賞者であり、「狭き門」などで有名なアンドレ・ジッドなどの勧めにより創作していた「若きパルク」という作品で一躍名声を得ました。

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ちなみにこの「狭き門」は、新約聖書の「狭き門より入れ、滅にいたる門は大きく、その路は廣く、之より入る者おほし。」というイエス・キリストの言葉に由来し、これはすなわち困難であっても多数派に迎合せず、救いに至る生き方の喩えです。

この作品では、主人公のジェロームが2歳年上の従姉であるアリサに恋心を抱き、彼女もまた彼を愛します。周囲の人々も両者が結ばれることに好意的でしたが、にもかかわらず、彼女は彼との結婚をためらいます。神の国に憧れを持つ彼女は、最終的に地上での幸福を放棄し、ジェロームとの結婚をあきらめ、ついには命を落とす、というストーリーです。

戦後翻訳されたこの物語は日本ではかなり反響を呼び、話題作となりました。しかし、「若きパルク」などに代表されるヴァレリーの作品はあまり読まれていません。が、フランス国内では、アナトール・フランスの後任としてアカデミー・フランセーズ会員に選出され、数多くの執筆依頼や講演をこなし、フランスの代表的知性と謳われたほどの人です。

1945年に73歳で亡くなったときも、ドゴールの命により戦後フランス第一号の国葬をもって遇せられています。しかし、生前何度もノーベル文学賞候補としてノミネートされましたが、結局受賞は実現していません。

日本では、作家としてよりも詩人として知られているようですが、その詩の内容というよりも、アルベルト・アインシュタインの相対性理論をいちはやく理解した詩人として知られるようになったようです。

堀辰夫は、東京帝国大学文学部国文科卒の英才で、フランス語にも堪能だったようですから、こうしたものもスラスラ読めたでしょう。当時のヨーロッパの先端的な文学に多数触れたことが、堀の作品を深めていくのに役立ちましたが、当然このヴァレリーの詩も読んでいました。

そして、その中に、「海辺の墓地」という作品があり、「いざ生きめやも」は、ここから持ってきたようです。フランス語の本文からの翻訳であるため「引用」です。従って太宰と違って、剽窃というのは言い過ぎでしょう。

原文は、“Le vent se lève, il faut tenter de vivre”」で、これは直訳では(風が起きた、生きてみなければならない)になるようです。これを「風立ちぬ いざ生きめやも」と格調高く訳した堀辰夫の才能はさすがと言わざるを得ません。

が、大作家とされる堀もまた、自分だけで名作と言われるこのエピグラフを生み出すことはできなかったというのは事実ではあるわけです。

しかし、彼が書いた「風立ちぬ」は、不朽の名作とも呼ばれ、けっしてその名を損なうようなものではありません。「序曲」「春」「風立ちぬ」「冬」「死のかげの谷」の5章から成る小説で、美しい自然に囲まれた高原の風景の中で、重い病に冒されている婚約者に付き添う「私」が、やがて訪れる愛する者の死を覚悟し見つめながら共に生きる物語です。

2人の限られた「生」が強く意識されており、一方では「死者の目」を通じて、より一層美しく映える景色が描かれています。死という誰しもが迎える終末に向かいつつ、時間を超越した二人の幸福感が確立してゆく過程を描いた作品で、精緻に男女の内面分析を行うその作風に、傾倒していたモーリアックその人の影響がみられる、という人もいるようです。

この作品が書かれた1936年(昭和11年)のころの堀辰夫は、富士見高原療養所から戻り、東京、本所区向島の小梅町(現:墨田区向島一丁目)の自宅に帰っていたようで、この家は1923年(大正13年)の関東大震災で焼失した自宅跡に新築したものです。

八ヶ岳での療養の結果、このころの堀の体調は、比較的良好だったようで、次から次へと作品を発表しており、これらは雑誌「改造」に掲載された「風立ちぬ」のほか、「文藝春秋」の「冬」、雑誌「新女苑」の「婚約」(のち「春」)などです。

しかし、その翌年の1937年(昭和12年)の春、それまでの「張りつめていた気持ち」が緩み、また、「何かいひしれぬ空虚」に襲われた堀は、突如訪れたこのスランプから脱するために、古典に目を向けるようになります。

そして、少年時代に愛読していた「更級日記」や「伊勢物語」を取り出し、欧米文学でもリルケらが取り組んでいた「王朝文学」へ傾倒していきます。そしてこの年の6月、これらの古典文学の背景にある京都へ初めて旅行。11月には、王朝文学に題材を得た「かげろふの日記」を追分の油屋旅館で書き上げました。

ところが、彼が愛し、長年逗留を続けていたこの油屋旅館は火事で焼けてしまい、このためこの年の年末に堀は、軽井沢にあった川端康成の別荘を借りてここで執筆を続けました。「風立ちぬ」の終章「死のかげの谷」もここで書き上げています。

翌1938年(昭和13年)、雑誌「新潮」にこの終章「死のかげの谷」が掲載されたのち、それまでの各章をまとめた単行本「風立ちぬ」が初めて野田書房より刊行されました。現在でも、新潮、岩波文庫などから重版され続けており、翻訳版もアメリカ(英題:The Wind Has Risen)、フランス(仏題:Le vent se lève)、中国(華題:風吹了)などで出版されています。

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掘が愛した、信濃追分というところは、しなの鉄道の軽井沢駅よりも、ひとつ長野寄りにあります。旧中山道の宿場町だった往時の趣を色濃く残すエリアであり、江戸時代の高札場などが復元されており、周辺には「旧本陣跡」「脇本陣油屋旅館」「枡形の茶屋」といった見どころが点在するところです。

油屋が焼け落ちる前、堀はここで運命的な出会いをしています。巡り合ったのはのちに夫人となる加藤多恵であり、これは油屋が焼け落ちる前の1937年(昭和12年)の初夏、6月のころのことだったようです。

この加藤多恵という人は、静岡県出身です。父は日本郵船の駐在員で、その関係から育ったのは香港、広東でした。日本女子大学校を卒業後、弟の俊彦とともに静養のため軽井沢に来ていたようですが、ここでかねてから父と親交のあった山下汽船の創業者、山下亀三郎の弟から、堀辰雄を紹介されました。

矢野綾子が亡くなってから2年。堀もまだその傷が癒えないころだったでしょうが、すぐに二人は恋に落ちたようです。ところが、時悪く、追分の油屋旅館が焼け落ちたため、堀は東京向島の自宅へ帰ることになり、さらに悪いことにこのころから体調を崩し、翌年の1938年(昭和13年)2月にはこの向島の自宅で喀血しています。

すぐさま鎌倉にある額田病院という病院に入院しましたが、ここでの療養は功を奏し、体調も少し持ち直しました。そして、前年追分で知り合った加藤多恵と、室生犀星夫妻の媒酌により4月にゴールにこぎつけました。

彼女と堀との結婚を勧めたのは、矢野綾子の妹の良子とその父だったといいます。最後まで家族を愛してくれた情の深い辰雄の行く先をこの二人は案じていたのでしょう。辰雄は1904年生まれですから34歳。対する多恵は、11歳も離れており23歳ですから、少し年齢差があります。

しかし、もともと文学的な才能があった多恵は掘の良き理解者であり、その差を埋めるには十分でした。掘は静養も兼ねて軽井沢に別荘を借り、ここを新居として新生活をスタートさせました。が、引越し好きな彼は、軽井沢だけにとどまらず、その後も逗子や鎌倉などを転々としています。

その後、しばらくは幸せな生活は続き、この間、体調もよかったようで、1944年(昭和19年)には「樹下」を発表しています。しかし、戦時下であり、激化する空襲などを避けるため、この年の下旬に追分に疎開先の家を探しに行きました。ところが帰京後に再度喀血し、絶対安静の状態が続きました。

ようやく状態が安定した9月になって、追分に借りた家へ移り、終戦の年の1945年(昭和20年)にはここで療養に専念しつつ、新たな小説の創作意欲を持てるまでに回復しました。そして翌1946年(昭和21年)3月に「雪の上の足跡」を発表。

しかし、それ以降は、病臥生活に入り、1947年(昭和22年)2月に一時重篤状態となります。その後一進一退を繰り返す状態が続きましたが、そんな中、1950年(昭和25年)、自選の「堀辰雄作品集」が第4回毎日出版文化賞を受賞。その生涯に最後の花を添えました。

1951年(昭和26年)には追分に建設していた新居が完成し、7月、再び追分に戻り、ここで療養に入ります。しかし、その二年後の1953年(昭和28年)5月には再び病状が悪化、かねてより建築を命じていた書庫の完成を見ないまま、28日に死去しました。48歳没。多恵夫人と歩んだ闘病生活は14年にも及びました。

葬儀は、港区芝の増上寺で執り行われ、葬儀委員長は川端康成でした。翌々年の1955年(昭和30年)に小金井の多磨霊園に墓が建てられ、現在も堀辰夫はここに眠っています。

その後、多恵夫人は60年近くを生き、2010年(平成22年)日に96歳で没しました。夫のちょうど倍の人生を生きたことになります。この間、「堀多恵子」の名前で、堀辰雄に関する随筆を数多く書いています。

堀辰夫のその生涯はけっして長いものではありませんでした。が、その生涯は今回対比して描いてきた太宰のような「一人芝居」ではなく、病気にも苦しみ、次々と身近な人を亡くしたにもかかわらず慈愛に満ちたものであり、多恵夫人に看取られながらのその最後もまた、幸福なかんじがします。

多恵夫人のその後の一生をみると、その夫の倍以上も生きた時間の中を彼への思い出だけで生きてきたようなところがあり、一人身ではあったものの、彼の幻影との生活は幸せに満ちたものだったのでしょう。

その著書名をみると、「葉鶏頭 辰雄のいる随筆、1970」「片蔭の道、1976」「返事の来ない手紙、1979」「来し方の記・辰雄の思い出、1985」「山麓の四季、1986」「堀辰雄の周辺、1996」「野ばらの匂う散歩みち、2003」「雑木林のなかで 随筆集、2010」といった具合です。

夫への愛情がうかがわれるようなタイトルばかりであり、堀辰夫は没しましたが、その分身であった多恵夫人の残したこれら一連の作品こそが、堀作品のエピローグと考えることもできます。

さて、我が家のタエ夫人はどうでしょう。私が死してのち、私のエピローグを書いてくれるでしょうか。それは、この山の神に対する日々の感謝の念次第、ということになるかもしれません。

2014-2-6594

怒ってる

2014-6242先日のこと、知人の訃報を知らせる一通のメールが届きました。

亡くなったのは、かつて勤めていた会社で同じ部にいた人で、お互い管理職として席を並べて窓際に座って仕事をした同僚であり、メールの送り主はこの当時同じ職場にいた年下の社員でした。

年齢も近く、部下の扱いや仕事の分担などを巡って何かと相談できる間柄でしたが、一緒に仕事をしたことは一度もなく、正直言ってその力量はよくわかりません。また、彼よりも業績を伸ばしたい、といったライバル意識のようなものも私はとくに持っていませんでした。

というのも、私はその会社には中途入社で入り、このため文字通り彼は職場の先輩という立場だったためです。しかし、大学の卒業年次は同じであり、年齢も彼が二つほど上なだけで、いわば「同期」です。

が、私にすれば同僚というよりもやや上の先輩という感じも持っており、その証拠に彼はその後課長の私を飛び越して先に次長に昇進しました。

人間的にはどちらかといえば我が強いタイプであり、スッと人の懐に入り込んでくるような人間が苦手な私にすれば、親しいというよりも、どちらかといえば苦手なタイプでした。

毛嫌いをしていたというほどではありません。が、かといって積極的に友達になりたい、というタイプでもなく、ニュートラルな関係とでもいうのでしょうか、ともかくあまり交わりはありませんでした。先方はどう思っていたかわかりませんが。

そのため普段仕事での必要性があるとき以外と飲み会以外はあまり、会話もすることがありませんでした。が、何かにつけその言動には重みがあり、会議などでは彼が発言すると、ちょっと聞き入ってしまうということも多く、このため、ふだんからもついついその動向が気になる、という相手でもありました。

その彼と、その昔、こんなことがありました。

我々が所属していたそのセクションは、環境調査を扱う部門であり、環境調査にあたっては膨大な調査データを扱うことから、社内の人間だけでなく、派遣会社から何人も技術者を派遣してもらっていました。

あるとき、彼が部下としているそのうちの一人の派遣社員に対し、私が留守の彼に代わって何かの伝達事項を伝える必要がありました。細かい内容についてはよく覚えていないのですが、何か人事についてのことだったようと思います。

私はその内容を淡々と事務的に伝えたのですが、後日、彼から私にメールがあり、その中には、その伝達内容につき、相手の立場に立って伝えていなかった云々といったことが書かれていたかと思います。要はクレームのメールでした。そしてそのメールのタイトルはなんと、「怒ってる」でした。

2014-6388

彼にすれば同僚であるため、あまり遠慮はいらないだろう、それほど言葉を選ぶ必要もない、という判断もあったかと思います。しかし、狭い会社の中のことであり、細かい人間関係もあることから、ふだんはこうした極端な表現は使わないようにする、というのが会社組織というものであり、この激しいワードに私は正直びびりまくりました。

しかし、同僚という意識のほうが強く、先輩社員からの叱責、というふうには受け取りませんでした。やや激しい文面だっただけにあまりいい気持ちはしませんでしたが、あーあしょうがないなー、またしょーもないことでと怒っているよ~といった程度に受け流そうとしたかと思います。

ただ、彼が書いてきたその内容を見る限りは、「怒ってる」という理由もなるほど私の無神経さから出たことのようです。このため、何か釈然としないものがあるまま、そのメールに対してはとりあえず謝罪の文面を返したかと思います。

ところが、あとでその派遣社員へ行った伝達事項のことをよくよく考えてみると、私の立場上とくに問題となるようなことでもなく、むしろ彼の思い込み、あるいは勘違いではなかったと思える部分がありました。それについて、とくに釈明もしなかった私が悪いといえば悪いのですが、謝ってはみたものの、謝り損というかんじがそのときは残りました。

しかし、その後多々ある仕事に忙殺され、そういったこともすっかり忘れ去り、やがて月日が流れました。私はあるときから会社を離れて自立をしたいと考えるようになり、長年勤めたこの職場を後にすることになりました。

その退職の送別会のときのことであったか、あるいはその後また別の機会に彼と会ったときのことだかよく覚えていないのですが、何かのお祝いの席のようでもあり、酒が入っていたと思います。多くの人で賑わうその会において、私の周りで一瞬ですが人気が途切れました。

ちょうどそのとき、退職前にはあまり親しい会話をしたこともなかった彼が私に近づいてきました。そして、ふだんから私とはあまり話をしてこなかったにもかかわらず、私が会社にいたころのことを話したり、その後の私の身の上のことなどをやたらに質問してきました。

彼と話した内容がどんなものだったのかはほとんど覚えていないのですが、少なくともかつてのこのちょっとしたいさかいの話もとくに蒸し返しはなく、たわいない話を延々と彼と続けていたかと思います。

そしてこの日に限ってはいつになく饒舌で私の側で話し続ける彼をみるにつけ、もしかしたら、彼とのくだんのトラブルについては、実は自分に非があったことを彼自身が後日気が付いたのではないか、と思い至りました。本当は謝るつもりだったのかもしれず、私のほうは気にかけてはいなかったものの、彼はずっと気にしていたのかもしれません。

あるいは、私が退職することになったのも、彼とのささいなトラブルが原因ではなかったかと、あとで悔いたのではないかとも思われ、もしそうだとすれば、この飲み会での私の態度はあまりにもそっけなかったかな、と後で逆に悪かったな、と思ったりもしました。

2014-6293

彼は岩手県の出身だったかと思います。どちらかといえば喧嘩っぱやいほうであり、こうした東北人によくありがちな性格で、直情的というほどではないにせよ、思ったことや考えたことをすぐ口にしたがります。が、逆に細やかな神経の持ち主でもあり、部下に対してもかなり繊細な対応ができていた人のように記憶しています。

粘り強い努力家でもありました。しかし、ふだんは無口のくせに頑固なところがあり、不満が高じると酒の席でくだを巻く、といったこともあったように記憶しています。こうした東北人を私もほかに何人も知っています。

私とのトラブルも、ふだんから感じていた何等かの不満がこれを契機に爆発したのではないかとも想像されます。それが何だったのかは鈍感な私にはさっぱりわからないのですが、しかし彼にすれば暴発してはみたものの、あとあと冷静になってみれば、大人げなかったと感じ、自省したのかもしれません。

こうした内省的なところもまた東北の人の美点ではあるのですが、後さき考えずに行動してしまうところが玉に傷です。ちなみに、東北の女性は真面目でしっかり者が多く、若いときから落ち着いている人も多いといい、こうした男女の違いによってうまくバランスがとれているのが東北人、という見方もできるでしょうか。

この彼との出来事は、この会社を退職して十数年がたち、無論すっかり忘れていました。ところが、先々月ごろから、妙にこのことだけがときどき思い出され、その都度、このかつての同僚の顔が出てくるので、いったいなんだろう、と思っていました。

この会社は1000人近い社員を抱える大会社であり、彼以外にも数多くの同僚や上司、部下と様々な仕事を通じていろんな関係を持ってきました。このため、他にあまた社員がいる中で、彼とのこのことだけが、ことさら思いだされたのは不思議でした。

そうした矢先の、彼の死を告げるメールでした。その内容は、この度、長期の療養の末に亡くなった故人と縁のあった方を集め、「偲ぶ会」を開催したいので、参加して欲しい、という内容でした。が、私はこの会社を退職してからかなり経っており、本来ならそういたメールは受ける資格はありません。

しかし、かつてのこの職場は非常にアットホームな雰囲気があり、このため退職したあとも何かにつけ、飲み会などのお誘いがあり、やれ誰かの退職祝いだ、あいつが転勤する、とかいったときには何かと声をかけて頂いています。今回メールをくれたのも、同じく中途入社で会社に入り、親しくしていた同僚でした。

しかし、この「偲ぶ会」のお誘いメールには、彼の死因などについては何も触れられていなかったため、メールをくれたかつての同僚に彼の病気の内容や闘病のことなどについて問い合わせてみることにしました。

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その結果、彼の死因は癌の中でもとくに進行が速いと言われるすい臓がんだったこと、また一昨年の暮れに癌だとわかり、その後入退院を繰り返しながらも仕事を継続していたことなどが分かりました。

すい臓がんは、膵臓から発生した悪性腫瘍であり、早期発見が非常に困難な上に進行が早く、きわめて予後が悪いことから「癌の王様」と言われているようです。日本におけるすい臓がんの死亡者数は毎年約22,000人以上であり、癌死亡順位で男性で5位,女性で6位で年々増加傾向にあります。

原因としては、喫煙、肥満・運動不足、長期に渡る糖尿病、慢性膵炎といったことが考えられるようです。が、彼はたしかタバコはやらなかったはずで、アルコールなどによって慢性の膵炎にかかっていたのかもしれません。あるいは、座業の多いこの職業においてありがちな運動不足や、あるいは仕事上のストレスが祟ったのかも、とも思ったりもします。

すい臓がんの治療方法としては、外科的切除が唯一の根治治療のようですが、発見時には進行していることが多く、手術不能の場合が多いそうです。彼も入退院を繰り返していたようで、外科手術も含め、術後の化学療法や放射線療法もためしつつ、闘病生活を送っていたのでしょう。

しかし、癌を発症したあとも、業務を続け、昨年には、私たちの住む修善寺方面の業務の管理技術者もやっていたといいます。今年も3本の業務の管理技術者を勤めていたそうですが、5月から病状が悪化し、復帰することなく7月に亡くなりました。

これを読んでいる方が信じているかどうかは別として、私は、人は“死”によって肉体は滅び、その段階から、「霊的身体」を持って霊界での生活を始めるようになる、ということを信じています。霊界こそが人間にとっての本来の生活場所であり、ここで人間は永遠に生き続けることになる、というスピリチュアル的な観点です。

従って、地上世界は、どこまでも一時的な生活場所にすぎません。ところが、霊界での存在者たちは、死したあとも地上人に対してさまざまな働きかけをしており、何らかの霊的関係を持っている、ということがいわれています。そうした働きかけの一つが「霊」としての出現ですが、これに「幽」をつけて俗に「幽霊」などとも呼びます。

しかし、今回彼は、死したのち私の前に現れたわけではありません。ただ、私が彼との生前の私とのことを思い出したということは、私に何等かの働きかけをしていたのではないか、ということは考えられます。高級霊や善霊は常に地上人にとってプラスとなるように働きかけるといい、時には「霊的成長」や「魂の癒し」などをもたらすといいます。

私が、彼のことをしばしば私が思い出した理由が、彼自身が癒しを求めていたのか、はたまた今の私に癒しをもたらしてくれようとしたのかどうかはよくわかりません。が、何等かの働きかけだったかもしれない、と思ったりもしているわけです。

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人は死後、最初に訪れる世界で、自分が“素”になるための経験をするといいます。「素」になるという意味は、心が素っ裸になるということであり、素顔の自分の姿が明らかになるということです。

「素」になるということは、死に至るということでもあります。人はその死の直前に、一瞬にして、過去から現在に至る自分の人生を振り返るともいわれます。そしてその振り返りにおいては、産道を経て、産声をあげた瞬間から、成長し、老いて死ぬまでの、良い行いや悪行までのすべての行為が、細大漏らさず見せられるといいます。

当然、記憶から消えていたことまで見せられるわけで、子供の頃にしたイタズラも映し出されるであろうし、子供のころに過ごした田舎の原風景も見せられるかもしれません。ただ、この映像は死にゆく体や脳細胞に記憶された映像ではなく、霊界がその肉体が生きた様を検証するために記録した映像のようなものだともいわれています。

たとえば、死にゆくある一人の人間が、生前誰か別の人を傷つけたとしましょう。その犯人としての彼の記憶にあるのは、相手の顔や、相手が傷ついて悶絶する様子、あるいは自分が持っていた凶器など、いずれにしても自分の目から見た情景でしょう。

ところが、その死の直前に映し出される映像には、その罪を犯した自分の表情、その心の動きまでわかるような映像が映し出されるといい、まるで誰かがそのシーンを撮影していたかのように客観的にその本人が行った行為が映像として現れるということです。

これはすなわち、本人が自分の主観で過去の記憶をたどっていくならば、どうしても自分勝手な正当化が行なわれ、自分の都合のいい映像になってしまうからでしょう。自分が行ってきた一生が正しいものであったかどうかは、自分が判断するのではなく、客観的に「誰か」に判断してもらうのが一番です。

では、その「誰か」とは誰なのか。よく言われるのが、これは「閻魔様」だということ。「魔」という文字が当てられていますが、これはもともとインドのサンスクリット語のYAMAからきており、「死者の神」を意味するものです。日本にこの用語が入ってきたときに、「地獄」という概念と合わせるために、この文字が当て字として使われたに過ぎません。

従って、閻魔様とは、死者の国の神様として、この死の世界へ来る者の罪を裁く者、ということになります。では、いったいこの閻魔様とは何者なのか、ということになるのですが、これはとりあえずここでは棚上げにしておきましょう。

とまれ、人は死の直前、現世で行なったことを正しく評価するため、こうした映像を見せられるといいます。しかし、この映像を見せられる目的は、本人を表彰したり、罰を与えたりすることではありません。「素」になるのは、霊としての自分が霊界のどの階層に行くかを厳密に仕分けするために、欠かせないプロセスです。

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現世においては、人の評価は様々です。どれだけ学問を追究したか、どれだけ富を得たか、どれだけ権力を握ったかなどでなされることが多いものですが、しかし、それは「霊」となったのちは客観的な評価ではありません。

霊界での評価は、数字や記録で表されるようなものによってなされるのではなく、たとえば、どれだけ努力したか、どれだけ人を愛したか、あるいはどれだけウソをついたか、どれだけ争いをしたか、といったことです。

死の直前に、現生におけるそれまでの行為すべての映像をみせられた人は、当然、その映像をみて反省心が起きる人もいるでしょうし、逆に粗暴だった性格がその時点でさらに爆発して、興奮する人もいるでしょう。しかし、つまりその時点でその心は、ますます素っ裸になるというわけです。

そして、その人の「素」の姿を閻魔様はしっかりと見ています。そして、その素の姿のままの世界で、霊界のどの階層へ行くのかが、決定づけられるというわけで、このようなパノラマ化した人生を見終われば、いよいよ大霊界へと旅立つことになるわけです。

この霊界で人はただ単に生き続けるのではなく、「霊的成長」を目的として永遠の人生を送ることになります。人の霊は、それぞれの「霊的成長度」に応じた界層で生活するようになり、霊性のレベルによって厳格に住み分けがなされています。

霊界にいる人霊は、霊性の未熟な者から高度に進化した者まで、さまざまです。すなわち霊界には、低級霊から高級霊に至る無数の「霊性レベル」の人霊が存在しているわけです。

かつてのこの私の同僚もまた、死の直前、そこに至るまでの全記憶を呼び起こさせられたに違いなく、それによって行先の階層が定められたに違いありません。そして蘇った記憶の中には当然私とのこともあり、それが彼にとって良い行為であった悪い行為であったかは別として、ともかくもその時の気持ちや考えもよみがえったに違いありません。

そしてその思いが、彼が住まう町から、遥か離れた伊豆まで飛んできたのだとすれば、そうしたことに敏感な霊媒体質の私がキャッチしたとしても不思議ではありません。

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あるいは、死してのち、霊界に行った彼が、さらに何かを伝えたく、メッセージを送ってきてくれていたのかもしれませんが、少なくともこれまでのところ、明確なメッセージとおぼしきものはまだありません。

地上人の中には、生まれつき「霊媒体質」という特殊性を持った人間がいます。こうした人たちの中には、半物質の霊的エネルギーを霊に提供して心霊現象を現出させたり、霊と接触して情報を入手し、そのメッセージを伝えることができる人もいます。またトランス状態で、自分の肉体を一時的に霊に提供し、霊にメッセージを語らせることもできます。

いわゆる「霊媒」とか「シャーマン」「チャネラー」と呼ばれてきた人がそれです。しかし、私のレベルはこうした人達ほど高くはなく、ただ単に普通の人よりも敏感といった程度です。霊界からのメッセージを人に伝えることができるような能力はありません。

霊界における高級霊からの「霊界通信」を行えるような人は、人類に真の霊的成長をもたらす“霊的宝”であり、まさに人類の遺産と呼ぶに相応しいものです。が、こうした優れた霊媒体質の人はごく稀にしか存在しません。

従って、私が彼からキャッチした「霊界通信」は人類の霊的成長にプラスとなるといった類のものではなく、先に逝くからな、といった挨拶のようなものだったかもしれません。が、いずれにせよ、彼からの何等かのコンタクトがあったのは間違いありません。しかし、私自身それにどういった意味があるのかまだ理解できていません。

もっとも、霊界から地上界への働きかけは、必ずしも地上人にとって好ましいものであるとはかぎらず、時には有害なものもあります。不安や恐れを与えたり、肉体本能を刺激するなど、しばしば地上人にとって好ましくないもの・有害なものをもたらそうとする霊もいるにはいるようです。

ただ、生前の彼の行動を見る限りは、清廉潔白で部下思い、かつエネルギッシュな行動でぐいぐい人を引っ張るような人物であり、けっして霊界に行っても低い部類の階層に行く人ではありません。きっともし私に何かを働きかけようとしてくれているならば、その内容は必ずや良き内容に違いありません。

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そしてその彼を霊界に導いた「閻魔様」とは、おそらく人が、“神”と呼ぶ存在なのでしょう。すべての人間は「神の分霊」を真の自我として内在させているといい、その意味で万人は「神の子供」です。

スピリチュアル的な観点からは、神のもとにあって等しい霊的兄弟姉妹・霊的同胞であり、地上の人間は、この内在している「神の分霊」を核として、「霊的心」「霊体」「肉的心」「肉体」の5つの構成要素から成り立っているといわれます。

肉体に五感をはじめとするさまざまな肉体能力が与えられているように、霊体にも霊的感覚が備わっているといいます。霊視力・霊聴力・霊触覚・霊臭覚などがそれですが、大半の地上人は肉体に遮られてこの霊体能力を発揮できないようになっています。

しかし、霊能体質者はその特殊性によって肉体を持ちながらも霊体能力の一部分を発揮できるようになっており、こうした人間こそが、地上では「霊能者・超能力者」と呼ばれることになるわけです。

ただ、本来的には誰もが「神の分霊」を核とした「霊能力」を持っているというのが正しく、その意味からすれば地上人全員が霊能者としての素質を持っているということになります。

そして、人が地上世界に誕生してくる目的は、霊界での永遠の生活に備えるためです。地上世界という訓練場での“霊的修行”によってだけ、霊界での幸福を得ることが可能となります。

この地上で送っている人生での努力を通じて「霊的成長」を果たした人間、言い換えれば「霊性を高めた人間」のみが、本当の意味での幸福者であり、現生での真の目的を達成した人間ということになります。

正しい霊的努力を通じて「霊的成長」がもたらされた人は、より高い心境を維持できるようになり、ますます価値ある霊的人生を歩むようになっていきます。それにつれて高級霊との絆がいっそう強化されることになるともいいます。

今回若くしてあの世に旅立った彼もまた、闘病生活やその死の直前まで行っていたという仕事や部下への指導などを通じてきっと大きな霊的努力を払っていたことと思います。そして、必ずや今生にやってくる前にいた階層よりもきっとずっと高い階層へと昇っていったのではないか、そんなふうに思います。

この「霊的努力」とは何か、ということについては、推して図るべきかと思います。が、更に奥深いものですから、みなさんも自問してみてください。

今日はもう紙面も押してきているので、もうやめますが、別の機会にそうしたことを書いてみたいと思います。

台風が近づいています。あの世にいる彼はそれが見えているでしょうか。

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トォース!

2014-6177修善寺から下田へ下る途中の湯ヶ島に、「明徳寺」という曹洞宗の古刹があります。

先月の末、ここでお祭りがあり、夜には花火大会なども開かれたようなのですが、残念ながら参加できませんでした。が、前々から気になっていた場所であり、先日、湯ヶ島方面に行く機会があったので、ちょっとよってみることにしました。

実は、このお寺には「便所」の神様が祀られています。便所は、古くは「東司(とうす)」とよばれており、この東司の守護神とされるのが「烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)」です。

寺自体は、南北朝時代末期の明徳年間に、曹洞宗の利山忠益という禅師により創建されたとされています。曹洞宗はいわゆる「禅宗」であり、伊豆では昔から曹洞宗のお寺が多かったようで、修善寺にある、「修禅寺」もまた弘法大師が開祖といわれる曹洞宗のお寺です。もっとも弘法大師は真言宗を開いた人であり、当初は真言宗のお寺でしたが。

明徳年間といえば、1390年から1393年までの期間であり、今から600年以上も前です。時は南北朝時代(室町時代)であり、将軍は足利義満。この時代の天皇は、北朝方が後小松天皇、南朝方が後亀山天皇で、双方がいがみ合って畿内を中心としてあちこちに内乱が起こっていた時代です。

この時代の伊豆は、鎌倉幕府が瓦解後、勢力が突出していた北条氏が落ちぶれ、伊東氏や狩野氏、工藤氏や河津氏といった豪族が群雄割拠していた時代であり、これらを平定する北条早雲が現れるのは、これよりさらに100年ほどのちのことです。

この明徳寺のある湯ヶ島は、14世紀末には既に、“お湯がいたる所に湧いている”場所という記録があることから、この当時から既に湯治場として利用されていた可能性があり、伊豆の有力者も頻繁に出入りする堀越御所のあった長岡からも比較的近いことから、こうした有力者の誰かの援助でこの寺も創建されたのでしょう。

位置的には狩野氏の居城のあった狩野城も近く、狩野氏をパトロンとして創建されたというのが妥当な推理かと思われます。狩野氏はその後北条早雲によって滅ぼされましたが、その子孫たちは地方に散らばり、そのうちの狩野景信という人がその後絵師として名をはせ、以後狩野派は日本画の主流となり、日本画壇に君臨するようになりました。

これら狩野氏の一連の話は、かなり前に書いた「狩野城」というブログに詳しいので、こちらも参照してみてください。

さて、この狩野氏が援助して建てられたと思われる明徳寺に祀られている烏枢沙摩明王は、不浄なものを浄化する徳を持っているとされる「お便所の神様」です。この明王さまには「おさすり」「おまたぎ」と呼ばれる部分があります。その形状はご想像にお任せしますが、これを撫でたり跨いだりすると下半身の病気に御利益があるといわれます。

毎年8月29日に伊豆三大奇祭ともいわれる、東司祭が行われますが、これが冒頭で述べた私が見逃したお祭りです。ほかのふたつは、尻つみ祭り、どんつく祭り、といい、尻つみ祭りは、源頼朝と八重姫が逢瀬を楽しんだと言われる伊東の音無神社で行われます。

神事は真っ暗な社殿の中で行われ、お神酒を回すのに、隣の人のお尻をつまんで合図したことから、「尻つみまつり」と言われたそうで、現在では境内で、お囃子のリズムにのってお尻をぶつけ合うユーモラスな尻相撲大会が行われるそうです。

また、どんつく祭りのほうは、伊豆南東部の稲取で行われる祭りで、男性のシンボルをかたどったご神体を神輿で担ぎ、夫婦和合、子孫繁栄などの願いを込めて、ドンと突く!のだそうで、こちらはなんと弥生時代からあるお祭りだそうです。いずれのお祭りも下ネタが特徴であり、面白そうなのでいずれ機会があったら行ってみたいと思います。

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東司の烏枢沙摩明王はもともと、インド密教における明王さまで、古代インド神話において元の名を「ウッチュシュマ」、或いは「アグニ」と呼ばれた炎の神でした。天界の「火生三昧」と呼ばれる炎の世界に住し、人間界の煩悩が仏の世界へ波及しないよう聖なる炎によって煩悩や欲望を焼き尽くす明王です。

「この世の一切の汚れを焼き尽くす」ほどの功徳を持ち、仏教に包括された後も「烈火で不浄を清浄と化す」神力を持つことから、心の浄化はもとより日々の生活のあらゆる現実的な不浄を清める功徳があるとされてきた火の仏です。日本に入ってきてからは意訳から「不浄潔金剛」や「火頭金剛」とも呼ばれました。

遠い昔のこと、ある時、インドラ(帝釈天)さまは、仏が糞の臭気に弱いと知り、ちょっとしたいたずら心から仏を糞の山で築いた城に閉じ込めてしまったといいます。

そこに烏枢沙摩明王が駆けつけると大量の糞を自ら喰らい尽くし、仏を助け出したという伝説があり、この功績により烏枢沙摩は仏様から「厠」の守護者に任命されるようになったといいます。

厠は、すなわちトイレのことです。この厠の神様ということで、当然その功徳は便所を清めてくれるということですが、また一般的には下半身の病に霊験あらたかであるとされています。

便所は不潔な場所であるゆえ、日本では古くから人々はこれを「怨霊や悪魔の出入口」と考えており、このため、烏枢沙摩明王の炎の功徳によって清浄な場所に変えるという信仰が広まったのでしょう。

烏枢沙摩明王はとくに曹洞宗の寺院で祀られることが多く、伊豆以外にも海雲寺(東京品川)、瑞龍寺(富山高岡市)、万願寺(千葉県)、来振寺(岐阜県)、観音正寺(滋賀県)、大龍寺(京都市)などがあります。静岡でもほかにもうひとつ、袋井市に秋葉総本殿というお寺で烏枢沙摩明王を祀っているようです。

この明王はまた、胎内にいる女児を男児に変化させる力を持っていると言われ、男児を求めることが多かった戦国時代の武将に広く信仰されてきており、「烏枢沙摩明王変化男児法」という祈願法として今も伝わっています。何かと争乱の多かった伊豆でも男子が常に求められており、明徳寺でこの明王が祀られていることもこれとは無関係ではないでしょう。

ちなみに「トイレの神様」で有名になった、シンガー・ソングライターの植村花菜さんは、明徳寺でこの曲のヒット祈願をして絵馬を奉納したそうです。

便所のことをなぜ昔の人は東司といったかですが、これは元々仏教寺院における便所を守る神様のことでした。が、やがて便所の建物をさす言葉となり、曹洞宗のような禅宗寺院では古くは重要な伽藍であり、立派なものも多かったようです。通常、東司と西司の二つがあり、この伽藍を管理する寺の役職名として、「西浄」と「東浄」のふたつがありました。

が、東司や西司とされる遺構で現存しているものは少ないそうです。また二つも同じ役職があるとややこしいためか時代とともに西のほうがなくなり、「東浄」と「東司」だけが残りましたが、やがてトイレの管理者も不要ということで「東浄」という役職は消え去り、そして、トイレのことを東司とよぶ風習だけが残りました。

しかし、現在ではこの東司という言葉も使いません。ちょっと東司に行ってきます、といっても通じることはまずありません。また厠へ行く、という人もそれほど多くなく、便所、という響きもなにやら汚らしく聞こえるためか、たいていの人は「トイレ」と呼びます。

このトイレは、いわずもがなですが、大小便の排泄の用を足すための設備を備えている場所であり、悪臭を放ち周辺の環境を汚損するおそれのある汚物を衛生的に処分するための機能を持っています。

近年の日本では、施設の多くが水洗ですが、日本以外では乾燥させたり、燃焼させたり、乾燥地帯では砂を掛けて糞便を乾燥させて処分する様式も見られます。が、衛生的に処理できればその方法はなんでもいいわけです。気候・風土・生活習慣によって、求められる機能も様々であるため、世界各地には様々な便所が存在します。

不潔、不浄なイメージが強いため、日本も含め、多くの文化圏で婉曲表現が存在します。日本の「厠(かわや)」という呼び方は古く、「古事記」に既にその記載があるそうで、ただし、文字は施設の下に水を流す溝を意味する「川屋」だったようです。

時代が更に下ると、あからさまに口にすることが「はばかられる」ために「はばかり」「手水(ちょうず)などと呼ぶようになり、中国の伝説的な禅師の名から「雪隠(せっちん)」という語も使われるようになりました。

これは唐の時代の人で、正式には雪竇(せっちょう)禅師と呼ばれていたようですが、なぜこれが雪隠になったのかについては諸説あります。

ひとつは、雪竇禅師がいた中国浙江省の雪竇山霊隠寺で便所の掃除をつかさどったという故事から、また、この霊隠寺というお寺にトイレの掃除の大好きな雪という和尚がいたため、和尚の名前の「雪」と寺の名前の「隠」をとって雪隠という言葉が生まれたという説。

さらには、これは中国由来ではなく、日本にあった雪隠寺というお寺の雪宝和尚という人がトイレで悟りをひらいたから、あるいは、上でも述べた「西浄」の読みの「せいじょう」が、「せいじん」となり、さらになまって、「「せっちん」になったという説など色々です。

また、中国ではかつて、青い椿を便所のそばに植えて覆い隠したことから、トイレを青椿(せいちん)と呼んでいたそうで、この「せいちん」がなまって「せっちん」になったという説もあります。

青い椿?ということなのですが、この当時には時に国一つが買える値段で取引され、万病にも効く薬だとされた蒼椿があったという伝説があるようで、本当にあったかどうかはわかりません。が、椿をトイレの側に植える風習があったとみえ、これを隠語で蒼椿と呼んだのでしょう。

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さらに時代が下り、昭和になると「ご不浄」から「お手洗い」「化粧室」としだいに表現がより穏やかなものが使われるようになりました。また、「男性化粧室」と表記する施設もあるようですが、男子は化粧しませんからこの表現は少々ヘンです。戦後では「トイレ」が主流となり、Water Closet の頭文字をとって「W.C.」などが使われるようになりました。

Closetは倉庫、納戸の意味があり、水が出る小屋、というほどの意味でしょう。これももとは暗喩です。また、「トイレ」は元々「トイレット(toilet)」という英語ですが、これは「化粧室」の意味です。が、「便器」の意味もあるようなので、欧米ではあまり使いません。

日常会話では、住居において同室に設置されることが多い風呂と合わせて「Bathroom」と呼ぶことが多く、本来は「休憩室」を意味する「Rest Room」のも多いようです。あるいは「Men’s/Lady’sRroom」と婉曲的な表現が用いられることもあります。

日本語の「便所」は、「便器」とおなじく、かなり直接的な表現です。このため近年では、公衆便所を公衆トイレに変えるべきという議論をわざわざ行った自治体もあるといい、例えば東京荒川区では「便という言葉に不潔なイメージがあり、語呂も悪い」という理由で、公衆トイレに変更する条例案が区側から提出されたことがあります。

荒川区議会でこれを議論した結果、この条例案は賛成多数で可決、本会議で採決されることになったといいます。しかし、もともと「便所」という用語もまた婉曲的な表現だったということをこの議員さんたちは知っていたのでしょうか。

便所の語源は「鬢所(びんしょ)」であり、「鬢」とは頭部の左右側面の髪のことで、室町時代の貴族の家で、この鬢を整え身支度をする場所を鬢所と呼んでいたことに由来します。

また、身支度に適した便利な場所という意味から「便利所・便宜所」が変化したという説もあります。いずれの場合でも、現在使用されている「化粧室」に近い丁寧な表現だったことが理解できます。が、いつのまにやらこれもまた汚らしいイメージを持つようになってしまっており、これは、排泄物のことを「便」と呼ぶようになっためでしょう。

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古くは「糞」といっていたものを、明治時代あたりから便と呼ぶようになったようで、「便の」原義は「順調、スラスラ」ということです。他に簡便、至便などの言葉がありますが、もともとは「好都合」の意味であり、「郵便」とは好都合な伝達・通信手段の意味です。

排泄物ということで、便もまた、「スラスラ出るもの、出ると快適で好都合なもの」の婉曲表現だったものですが、時代を経るにつれて、婉曲表現としての機能を失っていき、排泄物そのものととられることが多くなり、これが便所の「便」と重なったわけです。

従って「便所」という言葉には、元々の語源である「鬢所」の意味と、「便を出す所」という二つの意味があるわけです。このように時代ごとの背景により、ふだん使いしている言葉の意味が変わっていくというのはよくあることです。

「ご丁寧」、とか、「ご立派」というのも本来は美化語ですが、最近は「ご丁寧にも」とか「ご立派なことで」とかマイナスイメージで使われることが多くなっているのと同じです。便所という言葉も時代とともに捉われ方が変わってきており、現在の「トイレ」もいずれは汚いと思われるようなり、違う表現に改められていくのかもしれません。

この便所そのものは古墳時代からもうすでにあったようで、それ以前の弥生時代の遺跡にも下水道のような構造が見られることから、遅くともこの時代には排泄専門の施設として便所が成立していたと考えられます。

「古事記」や「日本書紀」には、皇族が厠に入ったところ誰それに狙われた云々といったことが書かれているそうで、厠で暗殺された人物の記述もあるといい、さらに平安時代の貴族は「樋箱」というおまるを使用していたこともわかっています。

一方、「餓鬼草紙」といった絵巻物には、庶民が野外で糞便する光景が描かれており、このことからこのころの一般の人は便所を使用しなかったことが伺われます。しかし、のちには宮廷で主流であった穴を掘っただけの汲み取り式便所が登場するようになり、これは設置がいたって簡単であることからその後長い間日本のトイレの主流となりました。

ところが、皇族や高い身分の武士はさらに進化していました。とくに貴人の排泄物から健康状態を確認するといったことが行われたため、引き出し式トイレが普及し、これによって側人が主人の健康を管理するといったことが行われるようになりました。

が、これは身分の高い人のみの特権であり、一般にはやはり汲み取り式のトイレが普通であり、鎌倉時代~戦国時代における京都などの都市部では、各家庭に厠が付くようになりました。戦乱の時期でもあったことから、武家の家のトイレでは襲撃に備えて人が座った正面にも面に扉があったといいます。

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時代が下って江戸時代になると、とくに農村部では大小便(し尿)を農作物を栽培する際の肥料としても使うようになり、高価で取引されるようになりました。江戸、京都、大坂など人口集積地では、共同住宅の長屋などに共同便所が作られ、ここに集まるし尿を収集し商売するものが現れました。

農村部でもし尿を効率的に集めるため、母屋とは別に、独立して便所が建てられるようになりましたが、この頃のトイレは母屋の外に設けられるのが普通であり、とくに田舎ではこの形式はその後戦後まで普通でした。

民家が密集する都会では、わざわざ外にトイレを作るよりも母屋に設置したほうが効率的なので、田舎よりも早くトイレが母屋に移動するようになったと思われますが、それでも戦後すぐにはトイレ別棟は普通だったようです。

江戸時代より前の便器は大型の瓶であり、その上に大きな木枠、木の板を乗せ用を足す事が多く、また、小さな川の上に便所を設置することもあり、これが川屋と呼ばれるようになり厠の語源になった、とは上でも書きました。また琉球などにおいては中国と同じように、便所の穴の下でブタを飼い、餌として直接供給する豚便所も存在していたそうです。

大正時代から昭和にかけて、トイレ後の手洗いがそれまでの水盆式手水(ちょうず)から、軒下につるされた陶器、ブリキ、ホーロー製等の手水を使用する形式になりました。「手水」は、トイレに行くを意味する暗喩となり、これが現在も「お手水に行く」や「ご不浄」、「御手洗」等の現代にも使用される言葉として残っています。

その後、農業へのし尿の利用は廃れていきました。日本を占領した連合国軍のアメリカ軍兵士は、サラダなど野菜を生で食べる習慣があり、回虫など寄生虫感染防止という衛生上の理由から、このし尿利用による野菜栽培を禁じました。

また、化学肥料など他の肥料の普及などからし尿の利用価値が低下し、高度経済成長期にはまったく取引は行われなくなり、このため、汲み取ったし尿は周辺の海域に投棄されることが多くなりました。しかし、国際条約によってし尿の海洋投棄が禁止されることになると、下水道の整備や浄化槽の設置が進みました。

この「下水道」に関しても歴史は古く、最古の下水が弥生時代にはや建造されていたというのは上でも述べたとおりです。安土桃山時代には豊臣秀吉によって太閤下水と呼ばれる設備が大阪城付近に造られ、現在でも使用されています。

江戸時代にもその末期には江戸の神田界隈で煉瓦や陶器を使用した下水道設備が造られたようですが、これらは1923年の関東大震災で壊滅的な被害を受けたため、まとまった遺構としては残っていません。その後全国で下水道の整備が進められるようになり、2014年現在では下水道普及率は約76%だそうです。

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下水道の普及とともに、トイレの便器もまた改良され、発展してきました。現在のような衛生陶器は19世紀中期にイギリスで開発され、19世紀後期にかけてアメリカで技術が確立されました。日本では幕末に、以前の木製便器を模した陶製便器の生産が始まっていましたが、無論現在のように洋式ではなく、和式が100%でした。

日本で本格的に陶器製の便器を製造し始めたのは、現在のTOTOです。日本陶器合名会社(現:ノリタケカンパニーリミテド)の製陶研究所が母体となり、1917年に東洋陶器株式会社として設立され、その後この会社を母体とする森村財閥が形成されました。

創業者は森村市左衛門といい、その義弟である大倉孫兵衛、孫兵衛の長男の長男・和親らが出資者となって作られたのが東洋陶器株式会社であり、この会社が設立されたのは現在の北九州市小倉北区にあたり、ここは当時、福岡県企救郡と呼ばれていました。

創業から1960年代までは食器も製造していました。特に瑠璃色の色付け技術を得意としており、現在のロゴマークTOTOの瑠璃色の色はこれが起源です。大倉孫兵衛の孫の大倉和親は、1903年に製陶技術の視察のために渡欧しており、この時に衛生陶器(浴槽、洗面台、便器など)の知識を得て製造に関心を持ったとされます。

その後も洋風建築の増加にともなって衛生陶器の需要が増えたことから、大倉孫兵衛・和親の私財10万円によって日本陶器社内に製陶研究所が設立され、衛生陶器製造の研究が始まりました。

そして硬質陶器質の衛生陶器を生産するため、1913年から1916年にかけて試験的に手洗器・洗面器類が6541個、水洗式の大便器が1432個、同じく小便器が1249個も試作された、という記録が残っています。

さっそくこれを販売したところ、この試験販売の結果は大変好評であり、これを受けて大倉和親は事業化を決定し、1917年に東洋陶器株式会社として正式に発足。福岡県企救郡板櫃村に約17万平方メートルの土地を購入して工場を建設しました。

この地を選んだのは、当時、日本一の石炭生産量を誇った筑豊炭田に近く、陶器製造のために必要な火力を得るための燃料の調達が容易だったためです。また、中国景徳鎮で作られる磁器の材料として有名な、「カオリン」を朝鮮半島から輸入するのにも好立地であり、また九州の天草陶石などの原料の調達にも便利でした。

さらに鹿児島本線と日豊本線の分岐に位置し、1899年に開港した門司港も近く、商品の配送に好都合であり、TOTO本社は現在もこの地に本社を構えています。

会社が発足当時は、衛生陶器の知名度自体が低かったため、大倉らは市場の拡大を目指して高所得者や旅館などのユーザー向けに衛生陶器を解説する冊子も制作しています。また、日本陶器から技術指導や素材供給などの協力を得て磁器製の食器を作りました。

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その後、第一次世界大戦によるヨーロッパの生産能力低下などから海外での需要が大きくなり、コーヒーカップ・ソーサーなどがアメリカやイギリスに輸出されました。さらに海外の販路を開拓するために低廉な硬質陶器製食器を開発し、これは東南アジアなどに出荷され、衛生陶器とともに主力商品として育っていきました。

1923年9月の関東大震災では東京出張所が焼けましたが、住宅の復興にあわせて衛生陶器や食器の需要が発生し、丸ビルへの衛生陶器の納入などによって国内向けの売上が増加し、その後も東京市で下水道の普及が進んだことから衛生陶器の需要は伸びつづけました。この時期には皇居や那須御用邸、官庁、ホテルなど様々な顧客に衛生陶器を販売しています。

食器事業では、1926年の硬質磁器製の和食器製造の成功などにより、これが国内市場の売上を拡大させましたが、1969年、住宅の近代化などにより“本業”の衛生陶器・水栓等で十分に稼げるようになったことで、食器事業から撤退。また、略称の「東陶」が浸透したことなどから、現在のTOTOロゴの使用を開始しはじめました。

現在、日本における便器生産はこのTOTO、INAX(現・LIXIL)の2社による製造が大半を占め、ジャニス工業、アサヒ衛陶、ネポンなどがこれに続いています。そのなかでも最もやはりTOTOのシェアは高く、これは約50%であり、約25%のINAXがこれに続きます。

便器は重く嵩張るため、製造コストが安い中国などの発展途上国からの輸送では引き合わず日本市場はほぼ国内メーカーで占められ、将来的にもこの傾向は変わらないとみられています。同様の理由で日本の便器が輸出されることもなく、需要地での現地生産が主なものとなっています。

日本の便器メーカーは海外でも積極的に販売を行っており、現在最も日本のメーカーの便器が販売されている国は中国で、TOTOだけで毎年100万台以上販売されるといいます。

近年では、温水洗浄便座の普及によりパナソニック電工(現・パナソニック)、東芝、日立アプライアンス等、家電品メーカーの参入が盛んですが、これらのメーカーは焼き物の製造は出来ず「便座」部分への参入に留まっています。しかし最近ではパナソニックが樹脂製や有機ガラス系の便器を開発しシェアを伸ばしていてきています。

逆に便器のトップシェア2社は、エレクトロニクス制御技術や陶器以外の新素材導入では家電品メーカーに水を空けられており、温水洗浄便座では苦戦しています。

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この温水洗浄便座も現在の日本のトイレを語る上においては無視できない存在です。洋風便器に設置して温水によって肛門を洗浄する機能を持った便座であり、「ウォシュレット」や「シャワートイレ」などと誰もが呼びます。が、ウォシュレットはそもそもTOTO、シャワートイレはINAX(LIXIL)の商標です。

日本ではこの温水洗浄便座を装備した便器が増加しており、現在の普及率は80%に迫る勢いです。内閣府の消費動向調査によると日本における温水洗浄便座の世帯普及率は1992年には約14%だったものが2000年には約41%、2008年には約68%、2010年には71.3%に達しています。最新の統計ではおそらくほぼ80%くらいではないでしょうか。

ところが、最近、温水洗浄便座による火災や感電、漏水などの事故がしばしば起きており、これは、長年使用していることによる老朽化が一因とされるものが多いようです。温水洗浄便座は電化製品の一つとして、メーカーおよび業界団体では10年以上使用している製品については点検や取替えを勧める告知をしています。

また、ある研究グループが一般住宅や公共施設の温水洗浄便座の洗浄水を検査したところ、洗浄水から厚生労働省の水道水質基準を超える一般細菌が検出されたといい、ノズルの先端やすき間から細菌が侵入し、タンク内の温水で増殖したのが原因と指摘しました。

これに対して業界団体の温水洗浄便座協議会は、「これまで約4000万台が生産されているが、感染症などの健康被害は一件も報告されていない。タンクに水が逆流することは構造上ありえず、タンク内で菌が繁殖する危険性は低い。研究ではノズルにもともと付着していた汚物から菌が検出されたのではないか」と疑問を呈しました。

が、タンク内の水道水に含まれる塩素が揮発され、菌に適した環境下になりやすいことから、長期間使わないトイレの洗浄便座を使うときには注意するにこしたことはありません。

ところで、温水洗浄便座は日本人が発明したと思っている人も多いでしょうが、実はアメリカで医療・福祉用に開発されたものが最初です。

日本では1964年に前述の東洋陶器がアメリカンビデ社(米)の「ウォシュエアシート」を輸入販売開始したのが始まりとされます。その後、ライバルのINAXも1967年に国産初の温水洗浄便座付洋風便器「サニタリーナ61」を発売、TOTOも1969年に国産化に踏み切りました。

ただ、初期のこれら商品は温水の温度調節が難しかったことから温水の温度が安定せず、火傷を負う利用者もいたほか、価格も高く普及は程遠いものでした。70年代以前はまだ和風便器も多く採用されており、下水道の普及も進んでいなかったのが不振の一因です。

しかし、TOTOはあきらめず、独自に開発を進めてゆき、1980年、「ウォシュレット」の名称で新たな温水洗浄便座を発売しました。このウォシュレットでは温水の温度調節、着座センサーの採用、さらにビデ機能の搭載などが盛り込まれ改良が年々進みました。

やがて日本人の清潔志向の高まりとTOTOの積極的なCM展開が普及へと繋がることになります。1982年には当時話題を集めていた女性タレント、戸川純を起用したCMで流された「おしりだって、洗ってほしい」のキャッチコピーが話題になりました。

ところが初回のこのCMの放映時間がゴールデンタイムであったため、視聴者からは「今は食事の時間だ。飯を食っている時に便器の宣伝とは何だ」などとクレームが入り、おしりという言葉を使用したことなどについても批判されました。

しかし、このCMはこの批判を乗り越えるだけのインパクトがあり、これをきっかけにウォシュレットの販売は順調に伸びていきました。1980年代半ばには伊奈製陶が「サニタリーナ」に代わって「シャワートイレ」の名称を前面に出すようになり、また松下電工(現:パナソニック)を始めに家電メーカーも参入しはじめました。

1990年代には日本の新築住宅で多くが温水洗浄便座を採用することになり、さらにオフィスビルや商業施設、ホテルといったパブリック用途にも採用が広がり、2000年代には住宅/パブリック問わず採用されるのが一般的となってきています。

さらに鉄道駅、鉄道車両のような不特定多数の利用がある場所でも、採用例が出てきたほか、和歌山県は2013年に県内全公衆トイレに温水洗浄便座を設置する計画を発表しました。

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一方、温水洗浄便座における世界のシェアは大部分は日本の企業ですが、海外ではその普及度といえばまだまだけっして高くなく、どこの先進国でも数%にも満たないようです。これはアメリカやヨーロッパなどではコンセントが便所に無いことが原因のようです。

しかし、最近では特に中国の富裕層に人気で、お金持ちの家を訪ねると結構な確率で見かけるようになっています。成田空港や秋葉原で温水洗浄便座の取り付けキットを抱える中国人や他のアジア人の姿も多く見かけられるようになっており、使った事のある外国人の口コミが広がっているようです。

温水洗浄便座の先駆け、TOTOもまたホテルや日本料理店に温水洗浄便座を置いてもらい、「口コミ」を狙っているといい、イギリスではかなりの話題になってきているといいます。

英大衆紙デーリー・エクスプレスは「未来型トイレ」との見出しで、「便座が温かくなり、紙がいらない文明の利器」と絶賛。実際に使用した英紙ガーディアンの記者も「これまでの人生で最高のトイレ経験」と感想を述べたといいます。

温水洗浄便座を設置したロンドンの和食レストラン「幸(さき)」には英メディアや顧客からの問い合わせが相次いでいるそうで、トイレだけをのぞきに来る人も多いといいますが、
英国の一般家庭で利用されているのは、まだわずか200台ほどで、レストランなどの店舗や公共施設では、この幸が初めてだったといいます。

しかし確実に、日本製の温水洗浄便座はシェアを拡げつつあるようで、アメリカでもセレブや芸能に関する情報誌「IN TOUCH WEEKLY」の電子版で、俳優のレオナルド・ディカプリオさんが最近ハリウッドヒルズにある自宅を改築した際、トイレはTOTOの最高級トイレを購入したと報じました。

彼は、「便座が暖かく、ウォシュレット機能付き。トイレは自動で蓋が開閉し、水も自動で流れ便器を清浄。リモコンも付いている。水も節約できる」と絶賛しているそうで、同紙も、「環境に気を使う彼だからこそこのトイレを選んだ」と書いているそうです。

TOTO広報によると、初めて日本に旅行に来た外国人がホテルに泊まった際に、特に感激するのがウォシュレットなのだといい、ディカプリオ以外にもマドンナや、ウィル・スミスなどの著名人も使って驚き、テレビのインタビューなどで絶賛したのは有名な話です。

いいものは必ず売れます。日本が温水便座の輸出大国になる日がいつか来ることでしょう。最近海外へ旅行することがめっきり少なくなった私ですが、次回渡航することがあれば、その国で日本製のウォッシュレットが使えるよう願いつつ今日の項は終えたいと思います。

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