バックヤード

2015-1020981最近、「バックカントリー」あるいは、「バックヤード」とされる場所でスノボやスキーを行っていた人が遭難する、という事件が相次いでいます。

邦訳すれば「裏庭」ということになりますが、「バック」という言葉自体、なにやら謎めいています。誰も知らない秘密の世界、という響きもあるかんじで、何か楽しそうなことがありそう、と受け取る人も多そうで、それがまた若者を惹きつけるのでしょう。

これはつまりはゲレンデなどの正規のスキー場敷地内ではなく、スキー場よりさらに山奥の場所をさす言葉のようです。子供も含めて誰でもが安全に滑れるように整備してあるスキー場や、スノボヤードのような場所からさらに奥まった場所のことであり、雪がなければ山林、原野といわれ、狐狸しか住まないような場所です。

そうした人里離れた場所にアクセスし、そこでスノボやスキーを楽しむ人がいるわけですが、スキー場内のように避難場所があるわけでもなく、そうした場所へ出かけて行って方向を見失い、遭難する人達が増えている、というわけです。

誰も歩いた事が無い、滑ったことのない新雪のある場所に自分の足跡をつける、というのは確かに快感ではあります。こうした手つかずの場所に魅せられ、普通のスキー場で滑るだけでは満足できなくなった人達がこうしたバックヤードに入るようになったのでしょう。

その昔、スノボが流行り始めたころには、一般のスキー客とぶつかっては危険だから、ということで一般のスキー場ではスノボをやるのはご法度というところが多かったようです。

が、最近はスキーをする人よりも逆にスノボをやる人のほうが増え、スキーだけではスキー場の経営が成り立たないので、スノーボードを認めるところが増えているといいます。

しかし、それにしても一般のスキー客とはトラブルが絶えないので、いっそのこと、スキー客のいない、バックグラウンドならば、いざとなればスキー場へ帰れるし、誰にも気兼ねなく滑れる、という人が増えていると考えられます。

「バックカントリー」「バックヤード」という用語は、おそらく、いわゆる「山スキー」のことを「バックカントリースキー」と呼ぶところから来ているのだと思われます。

バックカントリースキーは、山岳スキー、クロスカントリースキーとも呼ばれ、アルペンスキーのような競技スキーとは違って、雪山登山と同じくらいの装備を持って山に入って行うスキーです。

スキー用具以外には、雪山登山と共通するほどの安全装備が必要とされ、一般には雪崩ビーコン、ショベル、ゾンデ棒、無線機などは不可欠です。

また、装備ではありませが、冬山遭難における捜索へ対応した保険へ加入しておくことが推奨されており、こうしたことを考えると、バックヤード・スノボ(こういう言葉があるのかどうかは知りませんが)もまた、同等の装備を持って山に入ることがしかるべきと思われます。

ところが、そうした装備も持たず、スキー場のすぐ裏山だから安全、と勝手に思い込み、遭難する、というケースが増えているわけです。たとえスキー場に近くても冬山は冬山であり、いったん天気が急変すれば、視界がゼロになり、ときには雪崩も起きうる環境です。

万全の装備を持った上で楽しむべきところをそうした配慮のなさが、事故を生みます。いったんこうした奥山で遭難が発生すると、これを救助するほうも命がけになります。自分の滑りに自信があったとしても、それと雪山におけるサバイバルは別物です。

自信過剰は慎み、他人に迷惑をかけないよう、万全な準備をしたうえで楽しんでほしいと思います。全面的に禁止しろ、などというつもりはありません。が、せめてこうしたバックグラウンドに入る人にも装備を徹底させ、入山届を出させる、といった公的な対応も今後は必要な気がします。

スキー場経営者も、自分の責任範囲外、と知らない顔をするのではなく、バックグラウンドに入ろうとしている人に対しては、注意喚起をする、などの自前措置を取ってほしいと思います。事故が起こったあとは、そのスキー場の名前もメディアで大きくとりあげられるでしょうし、看過した責任が問われることもあるわけですから。

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それにしても、最近は中高年の登山ブームが続いていて、夏山ではいわゆる「トレッキング」と称してあまり高くない山を気軽にあるく人が増えているようです。その延長で、冬山においても、いわゆる「スノートレッキング」を行う人が増えているようで、ここでもスノボと同様に事故の発生をよく耳にするようになりました。

ここでも本格的な冬山登山ではない、として安易な装備で出かけることが事故につながるわけですが、バックカントリーにおけるスノボと同じく、冬山は危険であることをわきまえた上で山に入るべきでしょう。

1959年2月2日の夜、当時のソ連領ウラル山脈北部でもはやりこのスノートレッキングをしていた男女9人が事故で亡くなりました。

ところが、彼等の装備は冬山用のきちんとしたものであり、冬山斜面でのキャンプ経験を積むことが目的だったとされています。

一行10人の最終目的地は事件発生現場から10キロメートル北のオトルテン山という山で、そこまでのルートは、事件当時の季節では踏破の難易度は極めて高いと推定されました。が、一行の全員が長距離のスキー旅行や山岳遠征の経験を有しており、この探検計画に表立って反対するものはいなかったといいます。

事件発生から一週間前の、1月25日、彼等は目的地近くの町、イヴデリに列車で到着。トラックをチャーターしてさらに奥地に入り、イヴデリから約80km北方にある最後の有人集落に入り、27日からいよいよオトルテン山へ向け出発しました。しかし翌日この中の一人、ユーリー・ユーディンが急病に侵され途中離脱、一行は9人になりました。

そしてこのユーリーだけがこの事件で助かった唯一の生存者となりました。その後この9人は全員死亡することになりますが、これ以降の一行の行動は、最後のキャンプ地で発見された日記やカメラに撮影された写真などを材料にのちに推定されました。

それによれば、1月31日、未開の原生林を北西方向に進んできた一行はついに山麓まで到達し、本格的な登山準備に入る一方で下山するまでに必要と考えられる食料や物資を取り分け、余剰となった分を帰路に備えて周囲に残置しました。

そして、翌2月1日、一行はオトルテン山へ続く渓谷へと分け入り、適した場所で渓谷を北に越え、そこでキャンプを張ろうとしていたようですが、悪天候と吹雪、視界の減少によって方向を見失い、西に道を逸れ、オトルテン山の南側にあるホラート・シャフイル山へ登り始めてしまいました。

やがて彼らはやがて誤りに気づきましたが、1.5キロメートル下って森林地帯に入って風雪を凌ごうとせず、なぜか何の遮蔽物もない山の斜面にキャンプを設営することにしました。

たった一人の生存者であるユーリーはこのことについて、「ディアトロフは既に登っていた地点から降りることを嫌ったか、当初の目的でもあった山の斜面でのキャンプ経験を積むことに決めたのではないか」と述べています。

このディアトロフとは、一行のリーダーで、「イーゴリ・ディアトロフ」といいました。そしてこの遭難事件があった峠は、その後年彼の名をとって、ディアトロフ峠と呼ばれるようになり、事件そのものも、「ディアトロフ峠事件」と呼ばれるようになりました。

ディアトロフは、一行がヴィジャイに戻り次第、速やかに彼のスポーツクラブ宛に電報を送ることになっていて、クラブの友人たちはおそらく2月12日までには彼から電報が送られてくるだろうと予想していました。

しかし2月12日が過ぎて連絡がなかったにも関わらず誰もこれを不審に思いませんでした。ディアトロフは登山前に一人残してきたユーリーに、場合によっては遠征が長引くかもしれないと話していたこともあり、このことをユーリーから聞いたスポーツクラブの面々の誰もそんなこともあるだろう、と思ったからでした。

こうした冬季の遠征には、天候の悪化などによる数日の遅れはつき物です。しかし、2月20日になってもディアトロフらからの連絡はなく、ようやく、遭難の可能性が取沙汰されるようになり、一行の親族たちの要請で、彼らが所属していた「ウラル科学技術学校」からボランティアの学生や教師からなる最初の救助隊が送られました。

さらにその後、軍と警察が腰を上げ、救助活動はヘリコプターや航空機を投入した大規模なものとなっていきました。

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2月26日、捜索隊がホラート・シャフイル山で酷く損傷して放棄されたテントを発見しました。テントの第一発見者は学生で、彼はこのとき、テントは半分に引き裂かれ、雪に覆われており、中には誰もおらず、荷物はテントに置き去りにされていることを発見しました。

テントは内側から切り裂かれており、8つないし9つの、靴下の足跡、片足だけ靴を履いた足跡、そして裸足の足跡が、谷の反対側、1.5キロメートル北東の森に向かって続いていましたが、500メートル進んだところで、雪に覆われて見えなくなりました。

そして、捜索隊はこの森のはずれの大きなヒマラヤスギの下で、下着姿で靴を履いていない2人の男性の遺体、そして焚き火の跡を発見しました。木の枝が5メートルの高さまで折られていたことから、おそらく一行の誰かが木の上に登って、「何か」を見張るためにキャンプの方向を見ていた可能性があることがわかりました。

そして捜索隊はさらに、このヒマラヤスギとキャンプの間で、3人の遺体を発見します。遺体はそれぞれ木から300メートル、480メートル、630メートル離れた位置から別々に見つかり、その姿勢は彼らがテントに戻ろうとしていた状態で亡くなったことを示唆していました。

残り4人の遺体を探すのには、更に2ヶ月を要しました。その結果、残りの遺体は、ヒマラヤスギの木から更に森に75メートル分け入った先にある渓谷の中で、4メートルの深さの雪の下から発見されました。

4人は他の遺体よりまともな服装をしており、これはどうやら最初に亡くなったメンバーが、自分たちの服を残りの者たちに譲ったらしいことを示していました。そのうちの一人は先に亡くなった同僚の人工毛皮のコートと帽子を被っており、また足には先に亡くなった5人の男たちの衣服の一部の切れ端が巻かれていました。

最初の5人の遺体が発見された直後、死因審問が始められましたが、検死の結果、5人は死に直接結びつく怪我は負っていなかったことがわかり、全員の死因が低体温症であることが判明しました。

ただ、うち一人は頭蓋骨に小さな亀裂を負っていました。これが何を意味するかは判明しませんでしたが、少なくともこれが致命傷になったとは考えられませんでした。

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ところが、さらに5月になって発見された4人の遺体の検死結果は、事情が違い、明らかに異常でした。彼ら3人のうちの一人は、頭部に大きな怪我を負っており、2人は肋骨をひどく骨折していました。

検視官のボリス・ヴォズロジデンヌイ博士は、このような損傷を引き起こす力は非常に強いものであり、交通事故の衝撃に匹敵するとの検視結果をのちに上梓しています。特筆すべきは、遺体は外傷を負っておらず、あたかも非常に高い圧力を加えられたかのようであったことと、驚くべきことにこの肋骨を折った男の一人が舌を失っていたことでした。

肋骨の骨折や頭部の負傷は、雪崩によるものとも考えられますが、雪崩によって舌を失う、ということは通常では考えられません。このため、当初は、この地に古くから住まうとされる「マンシ人」と呼ばれる先住民族が、彼らの土地に侵入した一行を襲撃して殺害したのではないかとする憶測も流れました。

ところが、さらに細かい現場検証の結果からは現場に一行の足跡しか残っておらず、至近距離で争った形跡がないという結論が得られ、この先住民族襲撃説は否定されました。さらには遭難した彼等の多くが薄着だったことが議論の対象となりました。

気温がマイナス25度から30度と極めて低く、嵐が吹き荒れていたにも関わらず、遺体は下着だけでしかも彼らの内の何人かは片方しか靴を履いておらず、その他の者に至っては、両方とも靴を履いていない者もいました。

上述のとおり、あとで亡くなった4人のうちの何人かの足には、先に亡くなった5人の衣服を引き裂いたらしい衣服の切れ端が巻かれていました。先の5人の死因は、明らかに低体温症によるものと考えられましたが、なぜ衣服を脱いでいたかについては、「矛盾脱衣」と関連があるのではと推察されました。

これは、人が低体温症にかかったとき、失見当識状態、すなわち時間や方向感覚が失われ、相違を区別して認識できなくなるような、認識力を失う状態のことで、いわゆる認知症のような症状に陥ることです。

また、低体温症だけでなく、極度の混乱状態に陥った場合にもこうした症状になることがあるといい、戦争などでアドレナリンが高まり、好戦的な状態になる場合にもみられる症状とされています。

低体温症の場合、中程度から重度の場合こうした症状を呈する場合があるといい、これがおそらく彼らが服を脱いだもっともまともな理由と考えられました。服を脱げば脱ぐほど、身体から熱を失う速度は早まり、極寒のウラル地方では死に至る可能性があるのは当然です。

また、この事故の原因に関して考えられるシナリオのひとつは、押し寄せてきた雪が夜のうちにテントを潰し、キャンプ地を破壊したというものでした。一行はテントを切り裂いて逃げ出しましたが、靴や余分な衣服を雪崩で失った、というわけです。

氷点下の中で湿った雪に覆われると、15分以内に極度の疲労や低体温症による意識喪失が起こり、生存に関わる危機を招きます。

しかし、残る4人の一行の一人が舌を失っていたこと、雪崩の力だけでは説明できないような、強い圧迫力によって死亡したと想像されるような兆候が遺体に見られたことから、別の原因があるのではないか、と取沙汰されるようになっていきました。

ただ、やはり雪崩説が最も有力視され、テントを切り裂いて脱出した面々のうちの4人は、自分たちが人里離れた場所に居るのも構わず、助けを求めて移動しようとし、渓谷に滑落したとも考えられました。

彼らのうち3人の遺体がひどい骨折を負っており、かつ彼らが渓谷の中で4メートルの深さのところに横たわっていたのも、彼らが滑落したことの証左とも見なしうるからです。

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雪の降り積もった山の斜面における雪崩は、特段珍しいものではありません。この一帯は雪崩の起こりやすい地域ではなかったとはいいますが、まったく可能性がないわけではなく、とくに表層雪崩は新雪が積り、人が雪塊を崩したところでよく起こります。

事件のあった夜は雪が降っており、キャンプ地は山の斜面にあって、一行がいたために雪塊は不安定になっていたと考えられました。そして、テントは部分的に切り裂かれ、雪に覆われていたことも、小規模な雪崩がテントを押し流したという説を支持する根拠になります。

とはいえ、捜索隊はキャンプ地から続く足跡を発見しており、この足跡は雪崩によってかき消されてはいなかったという事実があり、この説と矛盾していました。キャンプが発見される以前の25日間に降雨がなかったことが確認されており、彼等が現場に到着したころに雨が降ったとすれば、この足跡は表面が雨で凍ったために保存されたのでしょう。

が、その後大量の雪が降り、これが原因で表層雪崩が起き、雪と彼らだけが流された場合、この積雪前に雨で固く締まった足跡だけが保存される可能性はあります。とはいえ、厳冬期に降雨と降雪の両方が起こるという特殊ケースが成立する、とした仮定の上での話であり、通常ではなかなか考えにくいシチュエーションです。

さらには一行の一人が舌を失っていたというのは異常です。低体温症になり、朦朧とした意識の中であやまって噛み切った、あるいは雪崩に遭った衝撃で思わず噛んでしまった、といった憶測もできます。が、しかしこうした場合には通常、歯を食いしばるものであり、古今東西、雪山で舌を噛んで人が死んだという話は聞いたこともありません。

こうしたことから、この事件は、超常現象から軍の秘密兵器実験、はたまた宇宙人襲撃説などを持ち上げようとする人もでてきました。そしてそうした中で、ジャーナリストらは、入手可能な死因審問の資料の一部を入手して真相を明らかにしようとし、その結果分析を公表しました。

それによれば、一行のメンバーのうち、6人は低体温症で死亡し、3人は致命的な怪我を負って死亡していました。ここまでは既存の事実ですが、このほかにも9人以外に、ホラート・シャフイル山に他の者がいた様子も、その周辺地域に誰かがいた様子もなかったこと、テントは内側から切り開かれていたこと、などが明らかになりました。

さらに一行は、最後に食事を取ってから6時間ないし8時間後に死亡しており、キャンプに残された痕跡は、彼らが自ら進んで徒歩でテントから離れたことを示していました。

検視を行った、ボリス・ヴォズロジデニヤ博士は、3人の遺体が負った致命傷は他の人間によるものではないとし、「非常に強い衝撃によるものであり、その証拠に遺体の軟部組織は何ら損傷を受けていなかった」と報告書に書いていました。

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しかし、このほかにも作られた資料には、メンバーの内臓器官の状態に関する情報があったはずですが、これが含まれていませんでした。

ところが、更に驚くべきことに、何人かの犠牲者の衣服には、高い線量の放射能汚染が認められていた、という事実が当局の捜査資料の中に含まれていたことがわかりました。

これまでの多くの宇宙外生命体との接触物語の中には、頻繁に彼等との接触の後に放射能が検出された例が報告されており、またUFOが着陸した跡地とされる場所からは少量の放射能が測定された、といった例が時折あるようです。

さらには、事件のあった夜、事件の発生地点から南に50キロメートル離れた場所にいた別のトレッキング客の一行が、北(おそらく、ホラート・シャフイル山の方角)の夜空に奇妙なオレンジ色の光球を目撃したと報告している事実が当局の報告書から削除されている、ことなども判明しました。

同様の“光球”は、1959年2月から3月にかけて、この近隣地域で、気象・軍関係者を含むそれぞれ無関係の目撃者によって目撃されています。従って、あぁやっぱりエイリアンの仕業だったか、と誰しもが思うでしょう。が、これは少々短絡的であり、これらは後に、R-7大陸間弾道ミサイルを発射した光であったことが、証明されました。

ディアトロフ一行の最後のキャンプ地は、R-7大陸間弾道ミサイルの試験発射が何度か行われたことがあり、バイコヌール宇宙基地という場所から、ソビエト連邦内の主要な核実験場だった場所に直接通じる道の途上に位置していたこともわかっており、このことから、彼等の死には軍が何等かの関与をしていたのでないか、とも言われるようなりました。

また、一部の研究者の報告よれば、「大量の金属くず」が、この地域に置かれていたとのことで、これは軍がこの地域を何らかの目的で密かに利用し、これが事実だとすれば軍はそのことの隠蔽のために取り組んできたのではないかという憶測もできます。

ところが、当局の最終的な調査結果は、全員が“抗いがたい自然の力”によって死亡したというものであり、死因審問は1959年5月に公式に終了し、「犯人はいない」と結論づけられました。

事件の資料はその後、機密文書保管庫に送られ長い間書庫に眠っていましたが、ソビエト連邦が崩壊した1990年代になってようやくコピーが公開されるようになりました。

ところが、この公開にあたっては、さらに幾つかの資料が失われている、という指摘が出てきました。公開に先立ち、1967年には、ジャーナリストのユーリー・ヤロヴォイという人物が集めていた資料などです。彼は、この事件後、これにインスピレーションを受けた小説「最高次の複雑性」を出版していました。

ヤロヴォイはディアトロフ一行の捜索活動や、捜査の初期段階において公式カメラマンとして関与しており、事件に対する見識を有していました。しかし、この小説は事件の詳細が秘匿され、現実の事件と比較すると美化されており、一行のリーダーだけが死亡する結末など、よりハッピーエンドになるよう書かれていました。

ヤロヴォイの知人によればと、彼はこの小説の別バージョンを幾つか書いたようですが、いずれも検閲で出版を拒否され、1980年に彼が亡くなって以降は、なぜか彼の持っていた写真や原稿などの資料は全て失われてしまっていたとのことです。

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このため、1990年代のソビエト当局によるこの事件資料の公表後、この中に含まれていなかった事件はどこへ行ったのかを改めてジャーナリストたちが詮索し始め、具体的な捜索を始めました。そしてその結果、ヤロヴォイが保存していた資料などの詳細の一部が見つかり、これらは地元メディアなどで、公にされるようになりました。

それらの中には、ヤロヴォイが集めていた資料のほか、アナトリー・グシュインという作家が、警察当局が死因審問のオリジナルの資料を調査し、それらを出版物に使うことを認める特別許可を出させて得た資料などもありました。

さらには同じ頃、いくつかの資料のコピーが、他の熱心な研究者の間に出回り始めていました。グシュインは、彼の著書「国家機密の価値は、9人の生命」の中で、そうした彼我の資料をまとめた結果を公表しました。

が、この本の内容は「ソビエト軍の秘密兵器実験」説に入れ込み過ぎているものになっていました。このため、事実と反するとして一部の研究者が批判をし始めたため、公の議論は軍関与説からむしろ超常現象への方へと向かっていきました。

この結果、事件後、30年間口を閉ざしていた人々が、事件に関する新たな事実を公表するようになり、そうした中の一人に、1959年に公式の死因審問を率いていた警察関係者がいました。

彼は、当時の捜査チームは事件を合理的に説明することが出来なかった上、地域の高級官僚から、死因審問を中止して、捜査チームが見た“飛行する球体”に関する資料を機密にするよう、直接指示を受けた、と自著の中で公表しました。そして、UFOであるとは断定しませんでしたが、今も何等かの超常現象であったと信じている、とも述べました。

こうした証言もあり、残された資料の再分析がさらに進められるようになりました。現在ではロシア内でも言論の自由化がかなり進んだことから、その後もこの事件に関して多くのジャーナリストやメディアが興味を持ち、たくさんの報告書が出されるようになりました。

そして2000年には、地元テレビ局が、ドキュメンタリー番組「ディアトロフ峠の謎」を制作しました。制作にあたっては、事件をモデルにドキュメンタリー仕立てのフィクション小説を執筆したアンナ・マトヴェーエワという作家が協力しました。

この小説の大部分は事件の公式の資料や、犠牲者たちの日記、捜索に携わった者からのインタビューや、映画製作者が集めたその他の資料の引用から成っていました。

これらの資料は、現在においてもこの事件に関して公表されてきた情報源の中としては一級品として扱われ続けており、その資料やその他の文書のコピーや写しが、熱心な研究者に向けて、徐々にWebフォーラムで公開されはじめているといいます。

さらに、事件の起きた、ウラル地域の工業・文化・教育の中心地で、交通の要衝でもある「エカテリンブルク」では、ここの最高学府のひとつであるウラル工科大学の助けを借りて、「ディアトロフ財団」なるものまで設立されています。

そして、この財団の理事長である、ユーリー・クンツェヴィチは、事件当時に12歳であり、一行のメンバーたちの葬式に出席しており、彼らの肌の色が「濃い茶褐色」になっていたと回想しているそうで、事件の直接の目撃者の一人とされています。

財団の目的は、ロシア当局に対して事件の再調査を開始するよう求めることと、亡くなった者たちの記憶を保存するディアトロフ記念館を維持していくことだそうです。が、果たしてこうした資料や記憶の中から真相は究明されるのでしょうか。

バックヤードでスノボやスキーを楽しむあなた。遭難や雪崩の心配だけでなく、正体不明の地球外生命体に襲われる危険性も考えておいたほうがよいのかもしれません。

明日は太平洋側でも寒気が入り込み、ここ伊豆でも久しぶりに雪になりそうな気配です。

この別荘地も「バックヤード」になるやもしれません。私自身も宇宙人に狙われる心配をしておきましょう。

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鬼はイケメン? ~下田市

2015-8722明日はもう節分ということで、今年も足早に月日が過ぎていきます。

このころになると冬が終わり春の到来をより強く意識するようになってきますが、「節分」の意味するところは、文字のとおり、「季節を分ける」ことです。

立春と何が違うのよ、ということなのですが、立春とは1年365日を季節毎に区切り、これを「二十四節気」としたもので、時間の流れを「季節感」に当てはめて数えるように体系付けた昔の「暦」のひとつです。そしてこの春の初めのころの期間を立春といい、その初日のこともまた、立春といいます。例年では節分の次の日の2月4日になります。

ところが、元々二十四節気は、中国の気候を元に名づけられたもので、日本の気候とは合わない名称や時期もあります。このため、それを補足するために二十四節気のほかに「雑節」と呼ばれる季節の区分けを取りいれたのが、日本の旧暦です。

そしてこの雑節のひとつが、「節分」というわけで、ほかに土用、八十八夜、入梅、半夏生、二百十日などがあります。

んなの面倒くさい、一緒にすればいいじゃん、と私も思うのですが、そのあたりが日本人の繊細な感覚のたまものというべきなのでしょう。中国の気候や風習とはちょっと違う、独特の空気感を機械的に一年を分けた二十四節気だけでなく、こうした雑節で説明したかったわけです。

春が来る、だから「立春」というには、ちょっとまだ肌寒いし、それなら「節分」といえば冬と春を分ける日、という意味となり、まだまだ寒いけれども、この日を境にこれからだんだんと暖かくなる、とすれば角は立たず、確かに非常に微妙な解釈ができます。

とはいえ、一日しか違わないのに、立春と節分を一緒にしなかったのには意味があります。そもそも節分とは、二十四節気のうちの「大寒」の最後の日です。また、この大寒は二十四ある節のうちの、最後の節にあたります。つまり、旧暦では節分の日は大晦日にあたる、ということになります。

平安時代の初期頃から行われている鬼払いの儀式として、「鬼やらい」というものがありました。これは、「鬼遣らい」、「鬼儺」などとも表記され、これを略して「儺(な)やらい」ともいいます。

「払う」というほどの意味であり、鬼を「追い」「払う」という意味であり、これをやがて呼びやすく音読みで「追儺(ついな)」とするようになりました。

そして平安の時代にはこうした言葉を口にするだけではなく、大晦日の12月30日に、年中行事にとして、鬼を払う役目を負った役人が、宮中にいるとされる架空の鬼を追いかけまわす、という具体的な儀式が一般化しまた。

この鬼を払う役目を負った役人は、方相氏(ほうそうし)と呼ばれ、その脇には侲子(しんし)と呼ばれる補佐役がいて、総勢20人ほどで大内裏の中を大声で鬼を追い払う掛け声をかけつつ回ったといいます。

また、内裏の中でこれを見ている公卿さんたちも、ただこれを見ているだけでなく、方相氏を掩護する、として見えない鬼に向けて弓矢をひき、さらに公卿の中でも身分の高い「殿上人(でんじょうびと)」と呼ばれる人達は「振り鼓」と呼ばれるでんでん太鼓を叩いて共に鬼退治に参加したといいます。

体育館などに集まった人達が大声で叫びながら会場を駆け回り、その背後では観客がやんややんやと笛やラッパを鳴らし、自分たちも鬼を指さしながら囃し立てている、といった風景を想像するとだいたい似たような光景になるのではないかと思われます。

が、相手もいないのに、単に空をみあげて叫びながら駆け回っている人達を、大の大人が大勢で応援している様子を想像すると、ちょっとヘンです。

とはいえ、宮中で行われた、この年末になると皆で鬼を追い回す、というこのお祭り騒ぎが、たしかに節分のルーツです。

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ところが、その後、室町時代ころには、伊弉諸尊(いざなぎのみこと)が桃を投げつけることによって鬼女、黄泉醜女(よもつしこめ)を退散させた、という神話にちなんで、桃がこの鬼に向かって投げつけられるようになりました。

中国においても桃は神仙に力を与える樹木・果実とされ、昔から邪気を祓い不老長寿を与える植物として親しまれてきており、この日本神話はここから来ていると考えられています。

桃である理由は、これは大昔より数少ない果物であり、匂いや味も良いほか、薬用としても使われたためです。咲いた花も美しく、紅い小さな花に続いて豊潤な果実を付けるところが不老不死のイメージにぴったりです。

「桃源郷」とは死のないユートピアのことであり、ここに咲く桃は、人に利益を与え死を遠ざけます。ゆえに、これを鬼に投げつければ、長生きできる、というわけです。

ちなみに、「桃太郎」は桃から生まれた男児が長じて鬼を退治する民話ですが、これも桃が神聖なものである、としていた時代の桃崇拝から生じたお話です。3月3日の桃の節句は、桃、すなわち男児の加護によって女児の健やかな成長を祈る行事であるわけです。

邪悪な鬼を退散させる力を感じさせるイメージもあり、古今東西珍重されてきました。がしかし、桃というのは栽培も難しい上に、できた実は腐りやすく保存がききません。このため昔から高値で取引されることが多く、こうした高価な桃を大量に鬼に投げつけるわけにはいきません。

そこで登場してきたのが豆です。その昔宮中では公卿たちが大声を上げて鬼を追い回していただけでしたが、これに桃投げが加わり、やがては安価に入手できる豆を鬼に投げつけながらそこら中を駆け回る、という風習に変わっていきました。

豆もまた「穀物には生命力と魔除けの呪力が備わっている」とい信じられてきたものであり、桃と同じくこれを持って邪気を払うという考え方もあり、その後は豆が主体になっていきました。

その後、大声で駆け回るという風習もまた変わっていき、現在の「オニは外、福はウチ」に近いものになっていきます。室町時代ころには既に「鬼外福内」を唱えていたという記録があり、その後さらに豆を家の中から外に向かって投げつけることで、鬼が退散する、というふうにさらに変化していったのでしょう。

また、これより以前の平安時代ころにも、鞍馬山の鬼が出て来て都を荒らすのを、祈祷をして防いでいたといいます。「鬼の穴」から出てくる鬼を封じるために、三石三升の炒り豆(大豆)で奴らの目を打ちつぶし、災厄を逃れたという故事伝説があるようです。

やがて、「魔目(豆・まめ)」を鬼の目に投げつけて鬼を滅する「魔滅」という語呂合わせもできるようになり、さらに親しみやすく庶民の間に定着していきましたが、長い間には、鬼に豆をぶつければ、邪気を追い払い、一年の無病息災でいられる、という民間信仰が人々の間に定着しました。

さらには、豆を撒き、撒かれた豆を自分の数え年の数だけ食べれば健康になれると言われるようになり、地域によっては、自分の年の数の1つ多く食べると、体が丈夫になり、風邪をひかないという習わしがあるところもあります。

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かくして現代では、毎年この年になると、どこのスーパーへ行っても、コンビニでもどこでも豆を売るようになったわけですが、「福豆」として売られているこの豆のパッケージには、厚紙に印刷された鬼の面が豆のおまけについているものもあり、一般家庭では誰かがそれをかぶって鬼の役を演じて豆撒きを盛り上げます。

本来は家長たる父親あるいは年男が豆を撒き鬼を追い払うものでしたが、最近は逆にお父さんが率先して鬼役に回る家庭のほうが多いようです。お父さんに働かせ、自分は家にいてグータラしているお母さんのほうが鬼にぴったりだと思うのですが、たいがいの場合、優しい心根のお父さんが鬼になります。

おとぎ話の桃太郎や一寸法師に出てくる鬼も、おおむね男、とされているようで、だいたいどんな話でも鬼は男、そして悪者であり、これを善の象徴である何者かがやっつける勧善懲悪物語です。

昔話の「桃太郎」でも、桃から生まれた元気な、しかし小生意気な小僧が、出征時に両親から黍団子を餞別に貰い、道中、遭遇するイヌ、サル、キジにその黍団子を分け与えて家来にした上、鬼ヶ島での鬼との戦いで勝利をおさめます。

やっつけられる鬼がどんな悪行をしたかというと、方々に出没しては財宝を奪いとり、蓄財していた、という罪が課せられています。桃太郎たちはその罪を懲らしめ、最終的にこの財宝を没収し、郷里のお爺さん・お婆さんの元に帰ってこれを差出し、幸せに暮らしたとして物語は締めくくられます。

この桃太郎話の発生年代は正確には分かっていないようです。が、だいたい室町時代ごろに発生したのではないかとされています。江戸時代以降にはさらに広まりましたが、これは草双紙というこの当時の絵本が流行ったためで、「桃太郎」「桃太郎昔話」といったタイトルの草双紙が多数出版されて人々に読まれました。

しかし、明治時代初期までは、桃太郎を見送ったのはお爺さん、お婆さんではなく、桃を食べて若返った若夫婦の間に男の子が生まれたという話だったそうです。そして、ここでも桃が不老不死の薬として登場します。

いわゆる、「回春型」の話であり、さらには桃そのものが女性であったという説もあります。おばあさんが拾ってきたのは、大きな桃ではなく若い娘で、桃は若い娘のお尻の象徴である、という説です。

子供が出来ず悩んでいたこのおばあさんは、拾ってきた娘におじいさんの子供を孕ませたといい、おばあさんはその娘から、子供を取り上げて、自分たちの子供にした、という説でもあります。しかし、考えてみると年老いた自分の夫に若い女をあてがって子を孕ませ、あげくは生まれたその子を取り上げる、というのはひどい話です。

もし現在ならば裁判沙汰となり、この女性の親権が争われるでしょうし、結婚していながら若い女をあてがわせたこの婆さん、それを喜々として受け入れたこのスケベジジイもまた、倫理的な面からも非難されてしかりです。それにしてもこの爺さんの年齢がいくつだったのかよくわかりませんが、よく子供ができたものです。

このように、桃太郎が現在のような話になる前は、この物語についてはかなり色々な解釈があったようです。さらには批判的な見方もあったようで、例えば「学問のすすめ」で有名なかの福澤諭吉もまた、桃太郎についてこう書いています。

「桃太郎が鬼ヶ島に行ったのは宝を獲りに行くためだ。けしからんことではないか。宝は鬼が大事にして、しまっておいた物で、宝の持ち主は鬼である。持ち主のある宝を理由もなく獲りに行くとは、桃太郎は盗人と言うべき悪者である。」

「また、もしその鬼が悪者であって世の中に害を成すことがあれば、桃太郎の勇気においてこれを懲らしめることはとても良いことだけれども、宝を獲って家に帰り、お爺さんとお婆さんにあげたとなれば、これはただ欲のための行為であり、大変に卑劣である……。」

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現代でも「本当は鬼が島に押しかけた桃太郎らが悪者ではないか」と逆に考える人がいてもおかしくなく、事実、裁判所等で行われる模擬裁判の事例やディベートでは、この桃太郎の話が議題として取り上げられることもあるそうです。

さらに最近では桃太郎は「暴力的な話」だとして、小学校や幼稚園向けの絵本や子供向けの書籍では「鬼退治」ではなく「話し合いで解決した」などと改変されている場合さえあるようです。

桃太郎だけでなく、他の日本の昔話もそのまま子供に教えては害になる、とのたまう人々が増えているそうで、グリム童話同様に、「本当は怖い昔話」などの形で書籍化、出版されています。が、残酷話としてだけではなく、官能話などに意図的に話が曲解されているものもあるようで、少々行き過ぎなかんじもします。

同様な話しは唱歌にもあり、「も~もたろさん、ももたろさん」で始まる、文部省唱歌の1つ「桃太郎」も批判の対象にされることがあるそうです。一般には、最初の1~2フレーズしか歌われておらず、多くの人がその後を知りませんが、改めてみてみると実際には、以下のような歌詞になっています。

桃太郎(1911年(明治44年)作詞者不明、作曲・岡野貞一)

桃太郎さん、桃太郎さん、お腰につけた黍団子、一つわたしに下さいな。
やりましょう、やりましょう、これから鬼の征伐に、ついて行くならやりましょう。
行きましょう、行きましょう、貴方について何処までも、家来になって行きましょう。
そりや進め、そりや進め、一度に攻めて攻めやぶり、つぶしてしまへ、鬼が島。
おもしろい、おもしろい、のこらず鬼を攻めふせて、分捕物をえんやらや。
万万歳、万万歳、お伴の犬や猿雉子は、勇んで車をえんやらや。

とくに、後半のあたりの「つぶしてしまえ、鬼が島」とか、「分捕りものをえんやらや」あたりは結構過激であり、「のこらず鬼を攻めふせるのが面白い」、というのも確かにちょっとな~というかんじはします。

このため、こうした暴力性を感じさせる表現が子供の情操教育にはよくない、というわけで、最近では小学校の音楽の時間で紹介される場合などには、現在では歌詞が改変されたり、後半部を削除したりする場合が多いといいます。

桃太郎が分捕る宝もまた、もともとすべては村人のものである、という主張もあります。このため、宝は分捕りに行くのではなく、「取り返しにいく」と表現されて売られているDVDもあるそうです。さらにこのDVDの結末では、桃太郎が鬼を退治するまでは同じですが、その後奪取した宝はすべて元の持ち主の村人に返しているといいます。

そして、宝を取り返してもらった村人は、その一部をお礼として、桃太郎とお爺さんとお婆さんに渡し、桃太郎達は、お礼の宝をたくさんいただいて幸せに暮らした、という細かさです。天邪鬼な私などはこうした話を聞くと、アホか、良きも悪しきもあるのが世の中じゃ、そこまで変える必要があるんかい、と思ってしまいます。

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このほか、その昔NHK教育テレビの番組「おはなしのくに」の中で紹介された桃太郎話の中では、桃太郎はそもそもが「乱暴者で親の手伝いをしない怠け者」だったことになっています。

ところが、村を襲ってきた鬼に育ての親のお婆さんが襲われたことで目が覚め、鬼ヶ島の鬼たちを懲らしめる立派な男として成長していく……というスポコンドラマのような仕立てになっており、「やればできる」という教訓めいたストーリーになっていたそうです。

このように、鬼をやっつけ、宝を持ち帰る、という話は単純に考えれば楽しいおとぎ話なのに、これを現代的な解釈で折り曲げ、無理やり変えてしまおう、という動きが最近増えているのが少々気になります。

子供に残虐なことや不正を教えてはいけない、ということで正当化される向きもあるようですが、一方では子供の自由で豊かな想像力の発展を阻害する、といった側面もあると思われます。原本のあまりにも行き過ぎた改変は長い間に培われてきた日本文化を愚弄するものでもあり、逆に改悪であると思うのですが、みなさんはどうお考えでしょうか。

さらに、これまでは子供が対象でしたが、最近はこうした民話やおとぎ話を社会問題の提起のために使おうというような動きもあります。例えば「男女差別」を現代用語化した、いわゆる「ジェンダー・バイアス」を排除しようという動きでの応用も見られます。

「ジェンダー」とは、「社会的・文化的な性のありよう」のことを一般にさしますが、この場合の「ジェンダー」という用語それ自体には、良い悪いの価値判断を含むものではなく、単に♂♀の違いを社会的な意味で使うときに使う用語です。

ところが、これに「バイアス」つまり、「偏見」という言葉をつけることで、これは現代社会における男女の役割分担の意識を変えよう、という人々の運動用語として使われるようになります。そして、これをわかりやすく説明しようとして利用されるのが桃太郎などの昔話です。

ご存知のとおり、桃太郎では、男性であるお爺さんが「山へ柴刈りに」、女性であるお婆さんが「川で洗濯」をします。

ところが、現代のように社会への女性の積極的参加が叫ばれている時代には、この役割分担はおかしい、と彼等は考えており、例えば「北名古屋市女性の会男女共同参画委員会」では、「モモタロー・ノー・リターン」という創作劇を作成しています。

この作品の中では男性であるお爺さんが「川で洗濯」に、女性であるお婆さんが「山へ柴刈り」に行くと、両者の役割を逆転させており、これまで当たり前に受け入れてきた男女の役割を入れ替えて、固定していると思いがちな男女の役割について考えてもらう内容になっています。

さらには、主人公も女性の「桃子」になっていて、さらには後段の話における鬼が島には、男の鬼と女の鬼の両方がいます。たしかに、鬼の形態の歴史を辿れば、初期の鬼というのは皆女性の形であり「源氏物語」に登場する鬼とは怨霊の事ですが、これは女性の形で出てきます。

女の本質は鬼であり、また母親が持っている、自分の子供を戦争で傷つけたものに対する憎悪のようなものが鬼に変化したものです。が、桃太郎が話として成立する室町時代ころには、そうした母性の話はどこかへ飛んでしまい、鬼といえば男が大多数ということになってしまいました。

なので、話の筋としては、この鬼が島にも男の鬼ばかりでなく、女の鬼がいてもおかしくはないわけです。ところが、犬や猿、キジを連れて鬼が島に乗り込む最後のほうでは、桃太郎ならぬ、桃子たちは、男の鬼に虐げられている女鬼たちを目撃して、そこに疑問を感じます。

そして、「男も女も、男だから、女だから、ということで区別されず、それぞれが個人として尊重される」のが正しい世のあり方だ、と考え、この鬼が島においても、3カ条からなる「鬼が島改造計画」を鬼たちに提案します。

ここまでくると、もこれはおとぎ話ではなく、原作の桃太郎の話をうまく利用した風刺劇です。最近ではこうした古典をうまく利用して自分たちの主張をアピールするために使いまわそうという動きが多く、誰しもが子供のころから慣れ親しんだ話には、感情移入がしやすい、という点に目をつけているわけです。

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この桃太郎については、さらには別の観点からの解釈もなされています。そのひとつは、桃太郎たちが鬼から奪ってくる「金銀財宝」の獲得の点であり、すなわち経済的に成功しさえすれば何でもやっていいのか、というわけです。

一体何が「正義」なのか、といった価値観についての投げかけなわけですが、そういうふうに考えていくと、なぜ桃太郎が連れて行ったのは猿や雉などの野生動物なのか、別にネコなどのペットでもよかったのではないか、などなど物語の細部に至り、何とでも解釈は膨らんでいきます。

多様化する現代においては、昔ながらの話を勧善懲悪モノとして単純に受け止めるだけでなく、何事も深く考えてみよう、そこから何か見えてくるものがあるかもしれない、というわけなのでしょうが、おいおい待てよ、そんなに捻じ曲げてばかりでは疲れないかい、と私などは思ってしまいます。

鬼はその昔から、「悪い物」「恐ろしい物」の代名詞であり、それを畏怖するところからこうした伝承が生まれてきたのであって、理解不能なモノノケに対する昔の人の純粋な驚きや恐怖をわかりやすく説明してくれたものです。

それ以上それ以下でもない、と思うわけであり、あれやこれやと考えすぎるのが、最近の日本人の悪い癖です。その考えすぎのラビリンスにがんじがらめになった結果が、現在の日本の混迷を招いたのではないかと、思う次第です。

とはいえ、全国的にみれば、鬼といえば「悪」といわれるような単純なものではありません。非常に多様な現れ方をしており、特定のイメージで語ることは困難です。ところによっては「神」のように慕われているところもあって、例えば鳥取県伯耆町(旧日野郡溝口町)では、鬼は村を守ってくれる「強い物」とし崇められています。

また伝説の酒呑童子は赤毛で角があり、髭も髪も眉毛もつながっており、手足は熊の手のようであるとされますが、元々はこのような定まった姿は持っていないとも言われており、これは変身した一つの姿にすぎない、という考え方もあるようです、

鬼の語源の「おぬ(隠)」とは、「姿の見えないこと」でもあり、鬼とはもともと変幻自在の存在です。酒呑童子もまた時には見目麗しい異性の姿で現れることもあったようです。このほかにも鬼が転じて美しい男女となり、人間の若い男や女を誘う、といった話も多々あるようです。

中には、きっと自分を守ってくれるような優しい鬼さんもいるはずであり、その鬼はまた絶世の美女、あるいはものすごいイケメンかもしれません。

なので、今年の節分には、こうした鬼さんを追いやるのではなく、家に招き入れて、一緒に酒を飲むといいかもしれません。まだまだ寒いこの時期、絶世の美女の鬼とともに床に入る、というシチュエーションを想像すると、これはまたなかなかオツなものです。

が、明日の朝目覚めてみたらその鬼は実は愛する嫁だった、な~んてのがオツならぬ「オチ」かもしれません。

さて、あなたのところには明日、どんな鬼がやってくるでしょうか。

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下田市 田牛(とうじ)の竜宮窟にて