離脱はいかが?

2015-8504
最近、テレビをつけるとやたらに耳目に入ってくるのが「妖怪ウォッチ」というヤツです。

これが何者であるかは、おおかたの人が知っていると思いますが、元々はニンテンドーの小型ゲーム機用のソフトのキャラクターとして創作されたものです。コミックやアニメなどによる多角メディア展開を前提として企画されたもので、これが大当たりし、今やこうしたキャラクター商品の元祖、ポケットモンスターを凌ぐ勢いです。

私自身は息子の子育て時代に慣れ親しんだこのポケモンのほうが馴染みがあり、妖怪ウォッチ?と最初はあまり興味もなかったのですが、ここまで人気が出た理由はなんなのだろう、と気になり、とまれどんなキャラクターがあるのか、ざっと調べてみました。

すると……「妖怪」といえば、その昔流行った「ゲゲゲの喜太郎」に出てきた数々のユーモラスなものを想像するのですが、これら新妖怪はかなり「近代化」していて、ある条件を満たすと進化・合成などによって変化することができるそうで、しかもその種類は400以上もあります。

この種類の多さは、ゲームソフトだけでなく、玩具としての商品化を進める上でも必要なものであろうことは容易に想像できます。

対するポケモンのほうは、もはやブームは終わりつつあるようですが、テレビアニメのほうは地方などでまだ再放送なども続いています。世界的にもまだまだ根強い人気があり、これまでの資産を無駄にしてはなるものかとまだまだ消え去ることはなさそうです。

現在までに719種類のポケモンが登場しているそうですが、さらに追加されるキャラクターもあるのではないでしょうか。

ただ、妖怪ウォッチのほうもこれから更に数が増えていくとして、いつの日にかポケモンを抜き去るのではないかと思います。とはいえ、かつてブームを引き起こしたアンパンマンなどは息の長い商品となっており、ポケモン自体も消え去る日はないでしょう。

こうした日本発の「発明品」ともいえるキャラクター商品は、いまや重要な輸出産業のひとつになっています。

ほかにも、我々の世代の時代からある「スーパー戦隊シリーズ」や「プリキュアシリーズ」「仮面ライダーシリーズ」なども現在に至るまで生きつづけてきていて、これらも海外では大人気だそうです。このほか、「合体ロボ」ものは、アメリカで映画化までされており、ハリウッドまでを取り込んだマルチメディア商品に成長しつつあります。

さすれば、この日本初の「妖怪」もまたいずれはハリウッド映画に進出するのか、と思ったりもするのですが、妖怪ウォッチのキャラクターはまだしも、雪女や河童といった伝統的な日本妖怪はあまりにも海外の妖精、怪物といわれるものとは異なりすぎており、そのままでは受け入れられそうな気がしません。

改めてこのあまりにも日本的な産物が何者であるかを調べてみると、これは1世紀初頭の奈良時代の日本では、「怪しい奇妙な現象」を表す言葉であったもののようです。それが、様々な神や伝承や怪談や宗教や価値観と結びつき、派生した結果、詳細の解らない現象を、具体的な形を持ったものの仕業とするようになりました。

そして、「怪異を起こす存在」を妖怪と呼ぶようになったと考えられます。このあたりの事情は中国やヨーロッパでも同じであり、中国の妖怪が日本のものと似たものが多いのは、同じく仏教国であるからと思われます。また西洋におけるFairy(フェアリー)すなわち妖精もまた、神話や伝説に登場する、超自然的な存在です。

神仏との合体物、という点では日本と同じであるわけであり、とはいえ対象とする神の存在そのものがかなり異なるため、想像された妖怪や妖精、あるいは怪物としての形は異なってくるわけです。

日本人が海外の怪物を「魔物」と呼び習わし、日本の風俗としての妖怪とは別にしたがるのは、これらにどこか異宗教の臭いを敏感にかんじ、日本以外の文化が造り出したこうした創造物を受け入れることに自然と抵抗を持つからでしょう。

では、同じく超常的なものの代表とされる「幽霊」はどうかというと、日本では古くは、人がその死後、何かを告知したり要求するために出現するとされていたようです。その後時代が下るにつれ、次第に怨恨にもとづく復讐や執着のために出現しているとされるようになり、あちらの世界に行けずにこの世を彷徨う凄惨なものとされるようになりました。

古来から何度も繰り広げられてきた戦乱においては、非業の死を遂げたり、この世のことがらに思いを残したまま死んだ者も多く、それらが霊の形をとって現われるようになったものとされました。

その後、仏教が入って来たことから、その望みや思いを聞いてやり、執着を解消し安心させてやれば、姿を消す、すなわち、「成仏する」という形が浸透するようになりました。

日本で葬式の際に願戻し、死後の口寄せ、あるいは施餓鬼供養などを行うのは、ある意味で死者たちが成仏しやすくしてやり、幽霊化するのを防ぐことだといえるわけです。

2015-8532

では西洋ではどうかというと、幽霊は英語ではghost ゴーストあるいはphantom ファントム、フランス語ではfantôme ファントーム などといいます。

やはり古くから、死者の魂が現世に未練や遺恨があり、現世に残り、生前の姿で可視化したもの、と考えているものであり、希望を実現しないまま死んだ人、責任を果たしきれないままに死んだ人などが幽霊になって出ると考えられてきました。

婚約したまま死んでしまった女性は幽霊になって花婿のもとを訪れ、出産時に死んでしまった女性の幽霊は乳児のベッドの横に立ち、生前自分が行った行為が良心に咎めて死にきれない者も生者のもとに現れるとされます。

また、殺された人、処刑された人、望みを果たさないまま無念に死んだ人たちの幽霊は、生者が慰め、その願いを代わりに叶えてやることで消え去るものともされており、こうした無念を晴らすために幽霊化する、というあたりの事情は日本も西洋もほとんど変わりません。

ただ、日本のように念仏を唱えて供養してあげれば成仏する、という発想は西洋にはないようです。むしろ降霊術師や霊媒によって呼び出す、降霊術といったものも流行り、幽霊として出てきたものとの会話を通してそのカルマを解消する、とった形がとられることが多いようです。

イギリスなどではむしろこうした幽霊をお友達感覚で扱う、といった感覚もあるようで、幽霊を自分の目で見てみたいと思っている人も多く、幽霊が出るとの評判が高い住宅・物件は、通常の物件よりもむしろ高価で取引されていることもあるようです。

ただ、キリスト教国の多いヨーロッパでは、教会などにおいてこうした死者のために「祈る」という行為が行われ、これによって死者の霊を慰める、といった風習が浸透しています。この点は、日本で念仏を唱えて死者を供養するのと多少似通った感覚かもしれません。

このように、こと幽霊に関しては、日本と西洋では意外と共通点が多く、日本人も西洋人もお互いに彼我の幽霊は似たようなもの、という認識を持っているような気がします。

幽霊には「死霊」と「生霊」のふたつがある、と考える点でも共通しています。死霊とは、いわゆる幽霊のことですが、人にとりついて祟りをする怨霊のこととされることも多く、死の直後に親しい者のもとに挨拶に現れたり、さらに親しい者を殺して一緒にあの世へ連れて行こうとする、といった話が昔からたくさんあります。

柳田國男が東北の不思議話をまとめた「遠野物語」には、娘と2人暮しだった父親が死んだ後、娘の前に父の死霊が現れ、娘を連れ去ろうとした話があります。娘は怖がり、親類や友人に来てもらいますが、それでも父親の死霊は娘を連れ去ろうと現れ、1ヶ月ほど経ってようやく現れなくなったといいます。

西洋でも、殺された人、処刑された人、望みを果たさないまま無念に死んだ人たちは死霊として現れ、この世の人を連れ去ろうするケースが多いようですが、生者が慰め、その願いを代わりに叶えてやることで消え去るものともされています。

一方、生霊(いきりょう)とは、日本ではしょうりょう、せいれい、いきすだま、と呼ばれます。生きている人間の霊魂が体外に出て自由に動き回るといわれているものであり、死者の霊である死霊とは異なるものです。

自由に動き回るだけならかまわないのですが、時には自分をいじめたり殺したものを追い回したり、恋する相手にとりついてさまざまな嫌がらせをしたりもします。

日本では、人間の霊(魂)は自由に体から抜け出すという事象は古来より人々の間で信じられており、多くの生霊の話が文学作品や伝承資料に残されています。広辞苑には、「生きている人の怨霊で祟りをするもの」と書いてあるようですが、実際には怨み以外の理由で他者に憑く話も多く、親しい者に逢いに行ったりするといった話も数多く残っています。

2015-8498

西洋でも、自分とそっくりの姿をした分身が別の場所に現れるというドッペルゲンガー現象というものが、ドイツなどで伝承されており、また、バイロケーション(Bilocation)という現象があることが知られており、これは同一の人間が同時に複数の場所で目撃されるというものです。

以前、「ドッペルゲンガー」というタイトルで書いたブログ中には、ある学校の女性教師が、教壇に立って授業を行っているにもかかわらず、数度にわたって、別のところで目撃されていた、といった話を紹介しましたが、ヨーロッパではこうした現象の記録が日本よりも多い、という印象を受けます。

日本の生霊にせよ、西洋のドッペルゲンガーにせよ、これらはいずれもが、いわゆる「体外離脱」とも考えられており、その定義は、自分の肉体から「魂が抜け出すこと」です。

ただ、実際には抜け出しておらず、自分の物理的な肉体を外から見ている、という印象を持っているだけだという、「体外離脱体験感覚」のことだ、とする科学的な見解もあるようです。

が、実際に離脱するにせよ、感覚にすぎないにせよ、国籍・文化圏にかかわらず、このような現象は、10人に1人程度は生涯に一度は経験はしているのではないか、ということもいわれているようです。

とはいえ、日本では上述の「死霊」と同じく、「生霊」という言葉自体がマイナスなイメージで捉えられることが多く、生霊(いきりょう)が「憑いた」という表現がなされ、悪いものにとりつかれた、きもちわるい、とする感覚のほうが強いようです。

伝承としても「奇談」として伝えられることが多く、例えば、平安末期の「今昔物語集」にはこんな話があります。

ある身分の低い男が、京の四つ辻で女に会い、某大夫の邸までの道案内を頼まれます。女をつれて邸につくと、門は閉ざされており、どうしたものかと思っているうちに、その女は消えてしまい、しばらくすると中で何やら泣き騒ぐ音が聞こえました。

不思議に思った男が翌朝、昨日の騒ぎは何だったのかを知りたくてこの邸宅を尋ねました。そして門をたたき、出てきた家の者に聞くと、ちょうど昨日男が女を連れて行った時刻に、この家の主人が「(離縁後、)自分を病にさせていた近江の妻がとうとう現れた」と突然わめきたて、まもなく死んだというではありませんか。

無論、そんな女がこの家に実際に現れたという事実はなく、近江?と京から遠く離れたこの地から女がやってきて現れたというこの話を不思議に思った男は、さらにその琵琶湖のほとりの家まで行ったといい、そこでその死んだ大夫の前妻と面会を請いました。

そうしたところ、この女房は御簾越しに謁見をゆるし、そして男から仔細を聞くと、「確かにそういうことがあった」と素直に認め、礼の品などでもてなして男を返したといいます。

実は、四つ辻で現れた女は大夫に捨てられたこの女房の生霊だったと判明したというわけであり、この女房自体もしばしばそうした体験があり、自覚していたということになります。

何分、古い話なのでどこまで脚色されているのやら事実かどうかはわかりかねますが、このように憎らしい相手や殺したい相手に生霊がとり憑く、という話は日本では昔からたくさんあります。

2015-8458

恋する相手にとり憑く話も多く、享保14か15年(1729~30年)ころ、京都のある商売人の14、5歳の息子に近所の二人の少女が恋をし、その霊が取りついた、という記録があります。息子はこの二人の生霊の呵責にさいなむ様子だったといい、宙に浮くなど体は激しく動き、相手の姿は見えませんが、彼女らと会話する様子もくりかえされたといいます。

こうした噂はすぐに巷に広まり、好奇の見物人がたかるようになってしまったといい、困り果てた息子の父親はついに高名な僧侶に頼み込んで折伏を試み、その結果息子の病もようやく回復した、とされています。

このように、「生霊」とは何かの恨みをもって人に憑くもの、とされているわけですが、必ずしも「生霊」=「悪霊」というばかりともいえず、どういう理由なのかはわかりませんが、自身の体から離れ、どこかへ行ってしまう、という話も多いようです。

近年では、芥川龍之介がやはり生霊を目撃したことを記述しており、その時の体験を短編「二つの手紙」に書いています。大学教師のある男が、自身と妻の生霊を三度も目撃してしまい、その苦悩を語る警察署長宛ての二通の手紙が紹介される、という形式の短編です。

芥川龍之介自身も幽体離脱を経験していたらしいとされる記録もあり、芥川はある座談会の場で、そうした経験が本当にあるかと問われると、「あります。私の二重人格は一度は帝劇に、一度は銀座に現れました」と答えたといいます。

この体外離脱はよく、「臨死体験」と混同されることがあります。何かしら危険に遭遇して瀕死の状況になったとき、臨死体験のひとつとして、体外離脱を体験する、というものですが、体外離脱は必ずしも死に瀕したときばかりではなく、平常時、ごく普通の睡眠中、や明晰夢の最中にも起こることが多いといいます。

自らの意思で体外離脱体験をコントロールする人もいるとされ、とくに禅やヨーガの行者などは修行中に体外離脱を起こすことがあるそうです。

2015-8480

では、体外離脱をしたその本人はその体験を覚えているか、ということなのですが、これについては、体外離脱後には夢とは比較にならないほど強いリアリティーを伴う世界が現れた、と語る人が多く、多くの場合、その体験内容を認知し、記憶しているようです。

ただ、体外離脱後に訪れる世界については、主観と客観の入り混じるイマジナルな世界であるという報告が多いそうです。例えばアメリカの超心理学者として有名なロバート・モンローは、体外離脱中に遠方の住居にいる友人を訪れたときの体験として、その室内を正確に描写することが出来たそうです。

ところが、その友人は体外離脱したモンローに対して、現実の世界ではふだん絶対言わないようなセリフを言ったといい、それが空想なのか現実なのか見分けがつかない状態であったことなどを証言しています。

このモンロー博士については、また別の機会にじっくり書いてみたいのですが、こうした幽体離脱の研究の第一人者として知られる人です。モンロー研究所という幽体離脱専門の研究所を設立し、その中でHemi-Sync(ヘミシンク)技術という音声によるイメージ誘導を用いた体外離脱(変性意識状態体験)に関する技術を開発した、とされる人物です。

もう亡くなっていますが、その研究は現在も後継者によって継続され、ヴァージニア州郊外にあるモンロー研究所では心理学、精神医学、医療、教育などにおいて、外部研究機関との学際的な共同研究も行っています。

このモンロー教授は、1958年にはじめて体外離脱を体験。その後も、複数回にわたり体外離脱を体験したことから、その後はその過程を記録し、体験時の出来事と、実在の場所や人物、会話や時間軸などの検証を試みました。

また、体外離脱体験時における身体的状態を心電図や脳波計などを用い、心拍数、血圧、脳波の測定など、科学的な評価を加えるべく、客観的かつ統計的な分析もすすめました。

医学博士、心理学者立ち会いのもと行った実験では、この心理学者がこう証言しています。「博士と私は同時に、モンローの上半身が熱波のようにゆがんだ印象を受けた。下半身は普通にはっきり見えていた。そのゆがみはおよそ二分続き、実験は終わった。」

さらに、1965年にも、ヴァージニア医科大学の脳波検査室で8回の実験も行いましたが、7回失敗し、八日目の夜、ようやく2回の短い離脱に成功したとされ、その後も幾度か、第三者協力のもとに同じような検証実験を行っています。

こうした実績を経て、1971年にモンロー研究所を設立。ヘミシンク技術を開発して特許を取得しました。これは左右耳から波長がわずかに異なる音を聞くと、右脳と左脳の脳波が同調することを利用した技術で、原理はバイノーラルビートという音響技術(うなりの技術)に基づいているそうです。

ヘッドフォンから聞こえてくる音と瞑想の誘導を使うことでバイロケーション型の体外離脱が達成されるとされるのですが、実際の体験のためにはある程度のトレーニングが必要とされ、この技術を会得するためにはモンロー研究所で行われる滞在型プログラミング(有償)に参加しないと、できない、とされています。

しかも無論英語のプログラムであり、英語が理解できなければ受けても意味はありません。ところが、最近はモンロー研究所自身からこのヘミシンク技術を伝授するためのCDなどの製品が世に送り出されており、邦訳もされているようで、何もわざわざアメリカまで行かなくてもこれが体験できるようになっているようです。

ただ、モンロー研究所お墨付きの正規の販売代理店以外にも多数の業者が「体外離脱ができる」を謳い文句にまがい物を売り出しているケースもあるようなので、その選択においては見極めが必要です。

また、そもそも何のために体外離脱をする必要があるのか、というところもはっきりと目的意識を持っていなければ、単なる「生霊」になってしまう可能性もあるわけです。

2015-8465

このヘミシンク技術においては、この体外離脱のステージを「フォーカス」と呼び、現在のところ、このフォーカスは49段階まであるようです。

例えば、フォーカス1では、「意識が物質世界にしっかりある状態。覚醒した状態」ですが、学習が進み、フォーカス10になると、「肉体は眠り、意識は目覚めている状態」になります。意識が肉体の束縛から自由になり始める状態です。この状態がヘミシンク・ワークの基本だそうです。

そして、フォーカス12では、「知覚・意識の拡大した状態」となり、意識は肉体的・空間的な束縛から自由になり、五感を超える知覚が起こったり、ガイドやハイヤーセルフと呼ばれる意識存在と交信することが可能になるといい、さらにフォーカス15では、「無時間の状態」となります。

この段階では、意識は時間的な束縛から自由になり、過去や未来へ行くことができるようになるといい、さらにフォーカス21では、「この世(Here)とあの世(There)の架け橋」、物質世界と非物質世界との境界に行きます。

ここよりも上が、いわゆる死後の世界の人々と意思を疎通できる段階とのことで、さらにフォーカス23では、自分が亡くなったことに気がついていないとか、この世への未練や執着が強いなどの理由で、この世に非常に近い領域で囚われ、留まっている人々との霊とのコンタクトができる段階だといいます。

さらにはフォーカス27では、次の生への輪廻転生が体験できるといい、フォーカス35では、人間のみならず、地球生命系内の、時間を超えた自分の意識の広がり・つながりを体験できます。そしてフォーカス42では、地球を飛び出し、太陽系を超えた、太陽系近傍の銀河系内の自分の意識の広がり・つながりが把握されます。

最後のフォーカス49に至っては、銀河系を超えた、銀河系近傍の自分の意識の広がり・つながりが把握されるということで、人によってはさらに上のレベルに行くことも可能です。この宇宙を超えた、さらに大きな自分の意識の広がり、つながりが把握できるといい、まさにこのレベルになると神に近づけるレベルです。

このヘミシンク技術については、「体外離脱体験」、「死後体験」「死後体験Ⅱ」「死後体験Ⅲ」などの連作で有名になった、「坂本政道」さんが日本の第一人者とされており、私もこの本の何冊かおよび関連本を読んだことがあります。

東京大学 理学部 物理学科卒で、カナダトロント大学 電子工学科 修士課程終了後、ソニーで半導体素子の開発に従事していたというエリートでした。

しかし、カリフォルニア州で半導体レーザーの開発に従事していたとき、このヘミシンク技術について知り、以後はこの世界の研究に没頭するようになります。

現在ではモンロー研究所が公式に認定したトレーナーでもあり、「アクアヴィジョン・アカデミー」というヘミシンク技術の伝授・関連グッズの販売などを手掛ける会社の社長さんもやっていらっしゃいます。

国内でヘミシンクを体験するためには、この会社から正規のCDなども入手されると間違いはないと思われますが、アメリカのモンロー研究所へのツアーなども企画されているようなので、英語に自身のある人はチャレンジしてみるのも良いでしょう。

私も体験してみたいところですが、なにせ金と時間が……

ということで、なにやら坂本先生の会社の宣伝のようになってきましたが、体外離脱など嘘くさい、などと言わず、それが実際にありうるかどうかをこうしたCDを入手し、自分で体験してみるのも良いかもしれません。

1980年にグレン・ガバードという研究者によって行われた調査では、339例の体外離脱事例のうち、その体験を心地よいものだと感じた者は85%であったといい、しかもそのうちの半数以上はその体験が「喜びあふれる」ものだったと語っています。

またこの実験では体外離脱者の心理的プロフィールも調査されており、彼らが心理的に正常であり社会的適応能力も極めて高いという結果を得たといいます。

正常のみならず社会的に評価の高いあなたならきっと体外離脱ができるに違いありません。いつの日かレベルを上げ、地球を飛び出して、宇宙を駆け回ってみる、というのはいかがでしょうか。

2015-8431

水素な日々

2015-710360年ほど前の1953年の今日、東京の銀座で、「銀座チョコレートショップ爆発火災」という事件がありました。

午後1時58分頃、東京都中央区銀の洋菓子店「チョコレートショップ」で爆発が発生。同店と2階にキャバレーが入る木造モルタル造地下1階・地上2階建75坪、延265坪と、かなり大きな建物が全焼。隣接するレストランや、中華料理店、事業所などもそのあおりを喰らって半焼しました。

この事故の際、店には当時店員30人余り・客50人余りがおり、この火災で店員1人が死亡。重傷22人のうち5人が一時危篤になりましたが、命はとりとめ、このほか軽傷56人が出ました。

当時銀座では風船を配布することが流行しており、同店では本件で死亡した店員が中心になって店頭で風船に水素を詰める作業を行っていました。その際に漏れた水素にタバコもしくはストーブの火が引火したことがこの大火災の原因とみられています。

この火災を受け、消防庁はそれまでこうしたイベントの際には普通に使われていた水素ボンベの使用を制限することを決め、届出制とする対策を講じました。銀座にはこのほか大手菓子メーカーの不二家もあり、ここでも風船を配っていたものの水素は使っていませんでした。しかし、本件以降は受け取る人が激減したといいます。

この事件以後、巷で水素入りの飛ばし風船を配布をする様子はほとんど見られなくなり、普通の風船の配布も鳴りを潜めていきました。

そして水素に代わって登場したのがヘリウムです。ヘリウムの宇宙における存在量は水素に次いで2番目に多く、地鉱物やミネラルウォーターの中にも溶け込んでいるほか、天然ガスと共に豊富に産出します。

このため、現在では天然ガスから分離する技術も進み、大量に生産ができるようになって安価になり、水素に代わって気球や小型飛行船の浮揚用ガスとして用いられたり、液体ヘリウムを超伝導用の低温素材としたり、大深度へ潜る際の呼吸ガスとして用いられています。

引火による爆発の危険に少ないことから、特別な事情がない限り風船などにもヘリウムガスが使用さます。またこのおかげで、巷でも飛ばし風船を配る、という風習も復活しました。もっとも最近は環境への影響ということで、自粛傾向にはありますが。

しかしその昔は石炭ガスなどから精製できる水素ガスが安価だったこともあり、これを使った風船のほうが主流でした。ヘリウムガスより水素ガスのほうが浮きやすいという事情もあり、この時代よりも少し前に世界の大空を飛んでいた水素ガスを充填した飛行船は時代の花形でした。

20世紀前半には、大西洋横断航路などに就航していたこともありましたが、1937年に発生した「ヒンデンブルク号」の墜落事故を契機に水素利用の飛行船の信頼性は失墜し、航空輸送の担い手としての役割を終えました。

にもかかわらず、世間一般では水素ガスが安価だという理由だけで使われていたわけですが、世界的にもこの「銀座チョコレートショップ爆発火災」のような爆発事故が相次いだことから、水素ガスを浮遊物のために使う、ということは現在ではまったくといっていいほどなくなりました。

このように、かつては飛行船や身近な風船にも多用された「水素」というヤツですが、学校でも習った通り、原子番号が1 の元素であり、元素記号はHです。ただし、単体では存在しにくく、一般的にはこの水素二つが合体したH2、すなわち「水素ガス」のほうが身近な存在です。

ちなみにヘリウムの原子番号は2であり、いずれも非金属元素の一つで、多々ある元素およびガス状分子の中でも軽いのが特徴です。水素はまた宇宙で最も数多く存在する元素であり、地球上でも水や有機化合物の構成要素として多数存在します。

日本語の「水素」は「水の素」という意味の表現ですが、そもそも発見されたヨーロッパでは、最初に命名されたフランスで「水を生むもの」という意味の表現で呼ばれました。

仏語では 「hydrogèneイドロジェーヌ」といい、これは、ギリシア語の 「ὕδωρ イドロ」(ラテン文字表記:hydôr、=「水」)と 「γννενゲネン」(ラテン文字表記:gennen、=「生む」「作り出す」)を合わせた語です。

水素ガスを自ら初めて分離するのに成功したのは、1766年のヘンリー・キャヴェンディッシュであり、アントワーヌ・ラヴォアジエがこれを1783年に hydrogène と命名しました。

これを英語化したものは、「hydrogen ハイドロジェン」ですが、いずれにしても、水素とは日本語のように「水の素」ではなく、「水を生むもの」という意味の合成語となります。

2015-7168

水素は自然界にはほとんど存在せず、工業的には、炭化水素を「水蒸気改質」することで大量に生産されます。

水蒸気改質とは、水蒸気メタン改質とも呼ばれるもので、天然ガスに水蒸気を加えて質を変える、つまり「改質」することによって水素を取り出す方法です。700〜1100℃という高温化において金属触媒が存在すると、水蒸気はメタンと反応し、一酸化炭素と水素が得られます。

これを化学式で書くと、こうなります。CH4 + H2O → CO + 3 H2

これまでのところ、水素ガスはメタンを主成分とする天然ガスと水から、触媒を用いたこの水蒸気改質によって生産する方法が主流であり、世界の水素生産量は年間約5000億Nm3(ノルマル立方メートルは、0℃、1気圧の条件下での立方メートル示す)と推定されています。

日本では年間150~200億Nm3の需要があり、ほぼ半分が石油精製の目的で使用されています。このほかエネルギー用としては、わずかながら宇宙ロケットの打ち上げ用に液体水素が年間300~500万Nm3程度ほども用いられています。

なお、製鉄、石油精製、エチレン製造プロセスなどで年間100億Nm3以上の水素が副生していますが、大部分は化学製品等の原料やエネルギーとして自家消費されています。

そして、水素といえば、先にトヨタから発売された、燃料電池車、MIRAIはこれを用いた史上初の実用車であり、大きな反響を呼びました。

搭載した燃料電池で水素あるいは改質水素と空気中の酸素を反応させて発電して電動機を動かして走る車であり、水素のみを反応させる場合は走行時にCO2やCO,NOx,SOxなどの有害物質を排出しないとされます。

この発売を契機に、日本国内の各メーカーもまた、この燃料電池車の販売に次々と参入するようで、年内中にはトヨタに続いて、ホンダも燃料電池車を発売する予定だといいます。

今後の水素市場の一つとして期待されるこの燃料電池自動車市場については、燃料電池実用化戦略研究会は、2020年における燃料電池自動車の期待する導入目標を現在からの累積で、500万台としています。

500万台の燃料電池自動車が全て水素を搭載して走行すると仮定した場合、年間40~50億Nm3の水素が必要になると見込まれています。

仮に、燃料電池自動車が将来的にさらに普及し、今日のわが国の乗用車保有台数約5300万台の半数が燃料電池自動車となることを想定すると、さらにその5倍程度の水素が必要になる見込みです。定置型燃料電池などの水素需要も考慮すればその量はさらに増えることになります。

水素ガスの製造工場は国内にも多数あり、鉄鋼系、石油系全部で40工場ほどが稼働しています。当面の需要は、現在あるこれらの主要な工場で水素で賄うことが可能であり、供給形態としては消費地とは離れた場所にある大型設備を有する水素製造工場での生産を行う、「オフサイト型」が先行するものと思われます。

その後、家庭用燃料電池や燃料電池自動車等の普及に伴い、地域性、市場性に応じてオフサイト型に加え、例えば現在のガソリンスタンド等に対応する水素ステーションなどで直接改質を行って水素を取り出す「オンサイト型」ステーションへと展開されるものと予想されます。

2015-7203

このように、いずれは水素エネルギーシステムが本格的に普及すると考えられており、そうした場合の水素需要は、既存の供給能力を大きく超えるものと予想されます。このため今後は、水素供給体制の整備が、水素エネルギーシステムを支える上で一つの重要な課題となります。

改質装置の小型化などそのほかにも課題は数多くあるものの、水素ガスを使ったビジネスは将来的にも有望とみなされています。その一つの理由は、無論、燃料電池車などの自動車に搭載される水素ガスは燃焼しても地球温暖化の原因となる二酸化炭素をまったく排出しない、究極のクリーンエネルギーであるためです。

地球温暖化は、単に気温が上昇するだけでなく、海面の上昇を引きおこし、低地の水没や降水分布・植生の変化など、人間社会に様々な影響を及ぼすことが懸念されています。地球温暖化の原因となっているのが、二酸化炭素やメタンといった温室効果気体の濃度の増加であり、燃料電池車ではこれが抑えられるというのが謳い文句です。

ところが、燃料電池車そのものは水しか排出しませんが、このクルマに搭載される水素ガス自体は、上述のとおり、その製造工程で化石燃料を消費するため、この時点で一酸化炭素が発生します。

また、水蒸気改質により発生する一酸化炭素などのうち化成品に利用されない過剰分や燃料として利用される炭化水素は二酸化炭素として環境中に放出されます。さらには、水素の運搬、保存には低温化、高圧化等のために他の化石燃料以上にエネルギーを消費します。

このように、水素の原料が化石燃料である限りにおいては、水素を化石燃料の代替として利用してもそのまま化石燃料の消費量が削減されたり二酸化炭素の発生が完全に抑えられる、ということにはならないわけです。

また、水蒸気改質によって水素ガスを取り出す際に発生する一酸化炭素、CO自体は温室効果気体ではありませんが、対流圏における「オゾン」を作り出す前の組成物質であると考えられています。大気中に含まれているその他の微量成分の寿命を決定し、オゾンと並んで対流圏大気の酸化能を制御しているといわれています。

このことから、COは「間接温室効果気体」と呼ばれ、温室効果気体の濃度を制御する、極めて重要な物質であると言われています。

2015-7211

ただし、水蒸気改質は化石ベースの燃料以外に、バイオエタノールやバイオディーゼルのようなCO2ニュートラルな液体炭化水素燃料を利用できるため、将来的にはよりグリーンな水素を製造することができる可能性があります。

上でも書いたように、小規模な改質装置が開発され、ガソリンスタンドを水素ステーションに転換するようなこともいずれは行われていることが考えられ、これにより工場での製造、運搬による手間の削減により温室効果ガスの削減が期待されます。

現在では工場で生産した水素ガスを燃料電池車に充填し、これを燃やすという方法が採られているわけですが、これが水素ステーションで行われるようになったあかつきには、さらにその先の延長として、将来的には比較的少量の天然ガスなどの化石燃料をクルマに積み、ここから直接水素を取り出す、といったことも実現するでしょう。

とはいえ、こうした技術は小規模な水素ステーションで実現する上においてもかなり難しいとされており、多くの課題があります。さらには移動するクルマの上でこれを実現しようとすると、まずは、改質反応は高温で起こるため、温度が上がるまでに時間がかかり始動が遅くなること、また、高温に耐えうる材料を必要とすることなどが考えられます。

また、水素ガスを取り出す過程で反応装置から生成される一酸化炭素は上述のとおり、間接的な温室効果気体であるため、これを除去するにこしたことはなく、このため、これに対処するための複雑な一酸化炭素除去装置の組み込みが必要になります。

さらに一酸化炭素は燃料電池を汚染します。燃料電池において水素を発生させるために使用される触媒の白金膜は、一酸化炭素にも非常に敏感で、一酸化炭素によって汚染され、性能が低下します。触媒は非常に高価であるため、頻繁に交換するわけにもいかず、このためにも、一酸化炭素は極力少ない方がよく、その削減は最も重要な課題です。

ただ、繰り返しになりますが、水素ガスを自車生産しながら走るということは、工場で生産した水素ガスの運搬やステーションでの保存や低温化、高圧化などが不必要なり、これによって他の化石燃料以上にエネルギーを消費を削減することもできる、というわけで、現在考えられている中では最高にクリーンなクルマになる可能性があるわけです。

天然ガスやガソリン、ディーゼルのような既存の燃料で動くことができる燃料電池車が現時点では最先端なわけですが、さらに長い目で見ると、この燃料にバイオエタノールやバイオディーゼルのような再生可能な液体燃料を使えば、究極のエコカーが完成します。

とはいえ、当面の目標として、水素ガスの供給ステーションを普及させることだけでも温暖化対策には大きな効果があると考えられています。また、あちこちに水素燃料補給基地ができるということは、これはすなわち災害時などにも近隣の一般家庭に非常用電源を提供する機能をも実現できるということになります。

将来的には、ここからさらに一歩踏み込み、こうした機能をさらにクルマ自体が持てば、一家に一台の燃料電池車を持つことで、災害時の備えは万全といえるほどの体制を日本中に作ることができるでしょう。

このようなことが実現すれば、地球環境に優しい水素はより身近な存在になります。燃やしても水以外の粒子状物質や二酸化炭素などの排気ガスを出さないことから、水素は代替エネルギーとして最も期待されているわけです。

2015-7112

ところが、水素の利用はこうした燃料電池への応用だけにとどまりません。現在ではロケットの燃料にも使用されており、将来に渡る宇宙開発においても重要なものです。

初期のころのロケットには、常温保存が可能なヒドラジンやケロシンといった個体燃料と極低温にした液体酸素などの酸化剤などが用いられましたが、最近はより高い比推力が得られる「液体水素」を燃料とし、これと酸化剤の液体酸素の組み合わせが、各国の基幹ロケットの主流となっています。

アメリカのスペースシャトル、ヨーロッパのアリアン5などのほか、日本の主力ロケットであるH-IIAなどもこの方式であり、これを「液体燃料ロケット」といいます。

実際に液体燃料ロケットとして世に出たのは、ナチス・ドイツがアメリカなどの連合国相手に戦った第二次大戦で「報復兵器」と名づけたV2ロケットです。

ヴェルナー・フォン・ブラウンや、先のヘルマン・オーベルトなどの科学者・技術者が集い製作したこのロケットは、アルコールと液体酸素を燃料にし、ジャイロスコープとアナログコンピューターにより誘導されていました。

また、ロケットエンジンの下にある推力偏向板(ジェットベーン)により向きを変えられるという、現在存在する液体燃料ロケットの原型とも言える構造をしていました。

世界大戦終結後、鹵獲(ろかく、他国の兵器を奪って自前で使うこと)されたV2や多くの科学者・技術者はアメリカとソ連に連行され、それぞれの地でV2と同じような液体燃料ロケットを製作し、冷戦の軍拡競争で作られた弾道ミサイルとしてそのノウハウを広めることとなりました。

こうして実用化された液体燃料ロケットは、燃料を送り出すための高圧ポンプや複雑な配管システムが必要とされるなど、構造が複雑になり、その分高価になるという欠点も持ちます。

が、その反面、それまでの固体燃料ロケットとは違い、推力の制御が容易であること、いったん燃焼を停止させたものを再度点火するのが可能であることなどの長所を持ちます。

また、この液体燃料ロケットの場合も、酸素と水素を化合させるだけなので、排気ガスは有毒物質を一切含まない水蒸気です。このため、燃料電池車と同じく、クリーンなロケットといえます。

スペースシャトルや種子島宇宙センターのロケット打ち上げ時に出る大きな雲状のものは燃焼ガスとともに排出される水と、音響と熱による発射設備の損傷防止用の注水の水であり、ガスと「湯気」が霧状になった混合物です。

打ち上げの写真を注意深く見るとわかるのですが、固体燃料燃焼ガスの茶色い雲と真っ白の水の霧の二種類があるのが確認できるはずです。この水霧の一部は液体酸素-液体水素メインエンジンの燃焼による水蒸気由来のものです。

2015-7324

ただし、実際には、液体水素・液体酸素エンジンだけでは離床時の推力が不十分なので、固体燃料の補助ロケットを使用します。この固体燃料補助ロケットの排気にはオゾン層や環境に悪影響を及ぼすハロゲン化合物が含まれるため、将来的にはこうした補助ロケットを使わないで打ち上げる方法が模索されています。

とはいえ、ロケットの発射本数そのものはクルマの生産台数ほどは多くないため、現在までのところそれほど問題視されていません。

日本では、宇宙ロケットの打ち上げ用の燃料としての液体水素の量は、日本全体での水素ガスの需要の1%にも満たない量ですから、たとえ今後ロケットの需要が増えたとしても他の燃料電池車などへの供給量を阻害する、といった心配もありません。

このほか、液体燃料は一般的に燃焼ガスの平均分子量が小さく、固体燃料に比べて比推力に優れているうえ、推力可変機能、燃焼停止や再着火などの燃焼制御機能を持つことができます。また、エンジン以外のタンク部分は単に燃料を貯蔵しているだけなので、大型のロケットでは非常に構造効率の良いロケットが製作できます。

とくに液体酸素を酸化剤、液体水素を燃料とするロケットは、現在実用されている液体燃料の推進剤の組み合わせでは最高の比推力を持ち、そのために、特に衛星打ち上げロケットの2段目や3段目にこれを用いた場合、他の液体燃料よりもペイロード(対費用的に大きなものを打ち上げられる)を増大させることが出来ます。

スペースシャトルのメインエンジンも1機を打ち上げるには150万リットルの液体水素が使われるといいますが、これによる汚染物質の放出も微々たる量であり、このように、水素を使う液体燃料ロケットはクリーンであるのに加え、将来に渡っても有望な宇宙開発ツールといえ、ここでも、水素が今後の人類の発展の鍵を握っています。

ただし、この方式のロケットは、燃焼室や噴射器、ポンプなどの機構は複雑で小型化が困難なので、小型のロケットでは同規模の固体ロケットに比べて構造効率は悪化します。

また、推進剤の種別によっては、腐食性や毒性を持ち貯蔵が困難であったり、極低温なため断熱や蒸発したガスの管理、蒸発した燃料の補充などで取り扱いに難があるものもあり、これらの課題の克服が将来の発展においては必要となります。

こうした課題をクリアーしつつ、クリーンなロケットを次々と打ち上げて人類がどんどんと宇宙に出て行ったあかつきには、さらに人類は「金属水素(Metallic hydrogen)」を発見し、これをさらに技術の発展につなげていけるようになるかもしれません。

金属水素とは、液体水素がさらに圧縮され固体状態になったものであり、最近の研究では水素もまた高い圧力下において金属化すると考えられています。

実際に1996年にアメリカのカリフォルニア州のローレンス・リバモア国立研究所のグループが、140GPa(約140万気圧)、数千℃という状態で、100万分の1秒以下という短寿命ではあるものの、液体の金属水素を観測したと報告しています。

しかしながら、それ以降、他国の研究者が数百GPaのオーダーで圧力を加える実験を続けてはいますが、こうした固体の金属水素の観測はされていません。従って、金属化そのものが実現しているとはまだいえない状況であり、その実在の真偽は未だ不明です。

ただ、理論的にはありうるとされており、なぜこれが重要視されるかといえば、金属化した水素は室温超伝導を達成するのではないかという予想があるからです。

例えば、現在超伝導が確認されているリチウムでは、48 GPa、20 K程度(絶対零度、-253℃程度)で超電導となりますが、金属水素では、30 GPa程度で超電導となり、しかもこれよりもかなり高い温度で超伝導状態となる可能性が十分あるといわれているようです。

2015-7341

木星、土星や新しく発見された太陽系外惑星の内部では、重力による圧縮により、非常に高い圧力になっており、金属水素が大量に存在すると考えられており、液体金属水素が観測された条件と似ています。

最近増加しているこれら木星型惑星の観測においては、これを構成する最も主要な元素が水素とされています。惑星の磁場にも影響を与えているのではないかといったことも指摘されており、最新の観測データでは、以前に考えられていたよりも多くの金属水素が存在することが示唆されています。

とくに木星では他の惑星よりも金属水素を多数含んでいるのではないかといわれており、木星の磁場が非常に強く、地表面近くにあるのは、金属水素の存在が一因だともいわれています。

しかし、仮に人類が木星に到達し、この金属水素と発見したとしても、30 GPaといった高圧な環境ではその採取は困難です。ただ、その観測などにより、金属水素の存在とその生成過程が確認されれば、その観測結果を持ち帰って地球で再現できる可能性があります。

現在の段階でも、この金属水素を模した「準安定金属水素」というものができるのではないか、とわれており、これによって水を排出するクリーンで効率的な燃料を作ることができると期待されています。

この「準安定金属水素」というものは、通常は液体水素の12倍の密度だといい、分子を再結合すると、酸素中で水素を燃焼させた時の20倍のエネルギーを放出します。

燃焼速度はより速くなり、スペースシャトルで用いられていた液体水素/液体酸素の5倍も効率的な推進剤となりうるということです。上記のローレンス・リバモア国立研究所でも実験が進められているそうですが、現在では燃焼時間が短く、これが「準安定状態」といえるものなのかどうかすら確認できなかったようです。

このほか、水素が金属化すると極めて強力な爆薬になるとの理論計算も行われており、「電子励起爆薬」として研究されています。

爆薬の威力はトリニトロトルエン以来100年以上かけて2倍程度にしか向上しておらず、 現時点で限界に達したと言われています。金属水素を使った新型爆弾は、これを打ち破る技術的ブレイクスルーになる次世代爆薬として期待されているまったく新しい概念の爆薬だそうです。

詳しいことは私もよく理解していないのですが、基本的な概念としては、予め原子の周りのエネルギーを高めた物質、つまり「電子励起状態」の原子を組み合わせて化合物を作ることによって、今までより飛躍的に高いエネルギーを持つ化合物が作れるという発想だそうです。

そのエネルギーは理論上は、いわゆるプラスチック爆弾といわれる強力な爆薬HMXの300倍以上と計算されています。これはTNT換算すれば1トンの爆薬がTNT500トン分の威力を持つことになりこれは、戦術核兵器並、いやそれ以上の通常爆弾が開発できることを意味しています。

ちなみに、TNTとは高性能爆薬の名称であり、ニュースなどでも「A国の原爆BはTNT換算で50キロトンの破壊力」などと表す使い方が一般的に見かけられます。広島に落とされた原子爆弾(リトルボーイ)は、TNT換算で約15キロトンです。それ以上の爆発力を持つ「通常爆弾」ということになり、いかにすさまじいものか想像できます。

この金属水素を使った「電子励起爆薬」は、コンピューターによる電子軌道の計算によって励起状態で安定したまま化合物になる可能性が見つかったことから、実際に製造可能だと言われています。将来的にはこのような研究から金属ヘリウム爆薬と呼べる物ができるのではないかと予想されているようです。

しかし、水素を使った爆弾といえば、人類はすでに「水素爆弾」という核爆弾を完成させています。原爆のように使用された例はまだありませんが、新たな技術の発見はさらに新たな兵器を産み、これが世界に新たな混乱をもたらす、という歴史を繰り返してきました。

水素の利用は今後、燃料電池の普及や宇宙開発などの平和利用に限る、という世界的なルールを作るべきだと思う次第です。

2015-7349

ほねほね

2015-6210先日、BS-TBS放送の「THE 歴史列伝〜そして傑作が生まれた〜」という番組を見ていたら、その日のテーマ、登場人物は、アニメでおなじみの「一休さん」でした。

実在の人物で、本当の名前は、一休宗純(そうじゅん)といい、室町時代の臨済宗大徳寺派の僧です。

出生地は京都で、出自は後小松天皇の落胤とする説が有力視されています。母は藤原氏、南朝の高官の血筋であり、この当時の天皇、小松天皇の寵愛を受けました。が、のちに帝の命を狙っていると讒言されて宮中を追われ、民間人として暮らしているうちに、そこで一休を生んだといわれています。

6歳で京都の安国寺の像外集鑑(ぞうがいしゅうかん)という高僧の元に入門しました。この安国寺というのは、南北朝時代に足利尊氏らが北海道、沖縄を除く日本各地に設けた寺院のことで、今も各地に同名のお寺がたくさん残っています。

が、京都府内の山城(現中京区四条大宮)にあったとされる安国寺は既に廃寺になっており、同じ京都府内で残っているのは、丹波(現京都府綾部市)にある安国寺のみです。同じく足利将軍家による将軍家による創建とされており、このどちらに一休が入門したかは不明ですが、おそらくは前者の都の安国寺のほうだったでしょうか。

その晩年に至るまでに多くの書画や詩を残していますが、幼いころから既に詩才に優れていたといい、13歳~15歳の時に作った漢詩は、洛中の評判となり賞賛されたといいます。

この安国寺で受戒して僧侶になった一休は、その後応永17年(1410年)、17歳で安国寺を出て、今度は謙翁宗為(けんおうそうい)という坊さんの弟子となり、このとき戒名を宗純と改めました。一休はこの謙翁をかなり尊敬していたようで、人生の師と仰いでいたそうです。

その入門のきっかけは、このころ争乱や疫病で多くの人が亡くなっていたこの時代、鴨川のほとりで、一人の女をみかけたことでした。病で失った子供を抱えて呆然としているこの母親の前で、いつまでも手を合わせて経を唱えていた人こそがこの宗為和尚であり、これをたまたま目撃した一休はその光景に大きな衝撃を受けたと伝えられています。

しかし、一休の入門からわずか4年後にこの師匠は亡くなり、残された彼は途方に暮れ、これが原因で自殺未遂を起こしています。京都市内の川に身を投げようとし、ここで死ぬなら自分の運命もこれで終わり、しかしもし死ななかったらそれは天が我に何らかの使命を与えたのだろう、と覚悟した上での入水だったそうです。

ところが、この一休のお母さんは彼が成人するまで心配で心配でしかたがなかったようです。というのも、彼はいまは民間人に身をやつしているとはいえ、天皇家の御落胤ですから、万が一のことがあってはならない、というわけです。

元々天皇の妻であったわけで、自分の身の世話をする女性くらいは側にはべらせる程度の財力はあり、この女性にいつも一休のことを監視させていたそうです。

そしていざ一休が川へ飛び込もうとしたとき、この女中が後ろから抱きつき、止めようとしました。ところが勢い余って二人ともざぶんと川へ落ちるところとなり、水に落ちた一休は、何が何だかわからないまま振り返ると自分以外に水中でもがいている女がいることに気が付きます。

そうなるともう自分が身を投げたことも忘れ、この女性を助けねばとの使命感が沸いてきました。必死でこの女中の襟をひっつかんで陸へあげ、こうしてこの女性は助かりましたが、奇しくもこうして一休もまた命を取り留めたのでした。

そしてこのとき悟ります。自分はやはり死ななかった、生かされたのは、何等かの使命があるからだ……と。

2015-6183

そして、このころから、一休は後世にも語り継がれるような、破天荒な生き方をするようになります。

その後洛内を転々としていたそうですが、あるとき琵琶湖南部の大津へ行脚へ出かけた際、京都の大徳寺の高僧、華叟宗曇(かそうそうどん)という人に出会います。前の師匠の謙翁宗為以上の人徳を感じとった一休は、すぐさまこの人の弟子となることを願い出、許されます。

そして、宗曇和尚のもとで修業を積み、ある日出された「洞山三頓の棒」という公案に対して見事な答えを出したことから「一休」の道号を授かります。

これはいわゆる禅問答というヤツで、禅寺では日々座禅を組み、ある悟りを開いたと感じたときに、禅師に乞い、こうした「公案」を与えてもらい、これに答えるといういわば「昇進試験」を受けるわけです。

洞山三頓の棒(どうざんさんとうのぼう)とは、唐の時代に、雲門禅師という高僧のところに何千kmも離れたとこるから、洞山という僧が参禅のため訪ねてきたことの故事に由来する公案です。

そこで、雲門禅師は洞山に、どこから来たのか何をしていたのか、と二度質問を重ねますが、雲門禅師はその答えに満足しなかったため、「お前に三頓(60回)の棒叩きを与える」
といいました。このように、何と答え、と質問されて答えられない場合、坐禅をし、時には何年も考え続けるわけです。

このときと同じ公案を一休も受けたわけですが、その答えは、「有ろじより 無ろじへ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」というものでした。

「有ろじ(有漏路)」とは迷い(煩悩)の世界、「無ろじ(無漏路)」とは悟り(仏)の世界を指します。煩悩の世界から仏の世界に行くにあたっては、歩いていようが休んでいようが、雨が降ればそれでよし、風がふいてもそれでもよし、といった自失の心境を表現したものかと思われます。

凡人の私にはこの意味はよくわかりませんが、このブログを読んでおられる聡明な方々の中にはお分かりになる方もいるに違いありません。とまれ、この公案に満足した宗曇和尚は彼に「一休」という道号を与えました。そしてさらにそれから10年の歳月が過ぎ、この間一休は師匠と二人でつましい生活を送りつつ、修業に励みました。

ところが27歳になったある夜のこと、カラスの鳴き声を聞いてふとんからガバと起きた一休は、俄かに大悟します。さっそく、宗曇和尚を起こし、その悟りについて話をしたところ、師匠は驚き、一休に印可状を与えよう、と申し出ます。

ところが、一休はこの申し出を辞退したばかりでなく、その印可状を破り捨てた上に、こんな書き物にとらわれているとはなんという馬鹿者だ、とこれまで自分を育ててきてくれた師匠を笑い飛ばしたといいます。

以後はこの師匠の元を離れ、都でひとり托鉢をしながら、以後、死ぬまで詩、狂歌、書画と風狂の生活を送るようになったといわれており、自由奔放で、奇行の多い残りの人生を送ったと伝えられています。

例えば、上述の師匠との別れのときもそうですが、以後は印可の類の証明書や由来ある文書は、ことごとく火中に投じたといいます。

また、仏前にある身でありながら、男色はもとより仏教の菩薩戒で禁じられていた飲酒・肉食や女犯を行い、しかも妾までいたといいます。盲目だったといい、名は「森侍者(しんじしゃ)」だったいう記録もあります。さらにはこの妾との間に岐翁紹禎という実子の弟子まで設けていたといいます。

木製の刀身の朱鞘の大太刀を差すなど、風変わりな格好をして街を歩きまわったという話も残っており、これは「鞘に納めていれば豪壮に見えるが、抜いてみれば木刀でしかない」ということで、外面を飾ることにしか興味のない当時の世相を批判したものであったとされます。

さらには、親交のあった本願寺門主蓮如の留守中に居室に上がりこみ、蓮如の持念仏の阿弥陀如来像を枕に昼寝をしたという話も残っています。この時に帰宅した蓮如は「俺の商売道具に何をする」と言ったそうで、これを聞いた一休は吹き出し、蓮如と二人で大笑いしたといいます。

こうした一見奇抜な言動は、一見破天荒に見えます。が、現代ではこうした行動を通して当時の仏教の権威や形骸化を批判・風刺し仏教の伝統化や風化に警鐘を鳴らしていたと解釈されています。より具体的には、一休はこの当時の将軍である足利義政とその妻日野富子の幕政を強く批判していたことも知られています。

この戒律や形式にとらわれない人間臭い生き方は民衆の共感を呼び、多くの人に愛されました。そしてのちの江戸時代には、彼をモデルとして「一休咄」が乱されましたが、これはさらにのちには、「頓知咄(とんちばなし)」として全国に広まりました。

2015-6180

それほどまでに人気があった一方では、かつての天皇の御落胤である、という噂もまた事実として人々にも信じられていたようです。

正長元年(1428年)に、称光天皇が男子を残さず崩御した際、伏見宮家より後花園天皇という人が迎えられて即位しましたが、この即位はこのとき35歳だった一休の推挙があったために実現したのだ、という話も伝わっています。

一休がその晩年、70歳を過ぎたころの室町時代の応仁元年(1467年)には、応仁の乱が発生しました。8代将軍足利義政の継嗣争い等複数の要因によって発生したこの内乱は10年以上にわたって継続し、九州など一部の地方を除く全国に拡大しましたが、乱の影響で幕府や守護大名の衰退が加速化し、戦国時代に突入するきっかけとなりました。

十数年にわたる戦乱によって、主要な戦場となった京都は灰燼と化し、ほぼ全域が壊滅的な被害を受けて荒廃しました。が、そんな最中の文明6年(1474年)、一休は後土御門天皇の勅命により京都の「大徳寺」の住持(住職)に任ぜられました。

ところが、住職に任ぜられたとはいえ、この大徳寺もまた戦乱によって焼失していました。後土御門天皇は、この当時最も人気のあった一休ならば、他の宮家などにも働きかけ、この寺の再建を果たすだろう、と期待したわけです。

しかし、公私ともどもを自分の人生から棄却して生きてきた彼は、勅命とはいえこの新たな煩悩を受けいれるか否かを非常に悩んだようです。とはいえ、この寺の再建こそが、荒廃した京にあって人々の心の拠り所にある、と考え直し、ついにはこれを受け入れました。

問題はその資金であり、これをどう捻出するかです。このとき一休は悩みに悩んだ末、このころ乱によって荒廃していた京から遠く離れた堺の湊へ向かい、ここの商人たちに資金の提供を依頼します。

応仁の乱により、それまで栄えていた兵庫湊に代わり堺は日明貿易の中継地として更なる賑わいをみせ始めていました。琉球貿易・南蛮貿易の拠点として国内外より多くの商人が集まる国際貿易都市としての性格を帯び始めており、ここの商人たちは豊かでした。

イエズス会の宣教師ルイス・フロイスも、その著書「日本史」のなかで堺を「東洋のベニス」と記しているほどです。これはこの時よりもさらに後年の話ですが、それほどのにぎわいを獲得する前の景気をこのころの堺は既に獲得していました。

この堺の商人たちの寄付への同意はセンセーショナルに京の町にも伝えられ、時には眉をひそめるような奇矯な行動をする人物として認識されてはいたものの、人気のあった一休の元には、貧しい人々からの寄付も集まるようになりました。

こうして、大徳寺は再建され、荒廃した京の町のシンボルのような存在になりました。その後も豊臣秀吉や諸大名の帰依を受け、江戸時代以降も寺運は栄え今日に至っています。

ところが、一休はこの寺の住職でありながら、ここには住まず、「真珠庵」という小さ塔頭(たっちゅう)を建てて、その後の一生をここで過ごしました。

この「真珠庵」という名の由来ですが、日本臨済宗の祖の一人となった楊岐方会(ようぎほうえ)が雪の夜に楊岐山の破れ寺で座禅をしていた時に風が舞い、部屋の中へ雪が降り込んできたという故事にちなんでいます。その時、床に積もった雪が月に照らされて真珠のように輝いたといい、これもって真珠庵の名を一休が名付けたものでした。

後に「一休寺」とも呼ばれるようになったこの寺は現存し、京都府京都市北区紫野にあります。小さいといっても、大徳寺よりも小さいという意味であり、同じく堺の豪商の寄進によって建てられたものですから、それなりの規模もあり、その後も増築がされているため、現在ではかなり立派なお寺です。

現在に至るまでも天皇家も親しく接せられてきたといわれており、そのためもあってか特別公開時を除き、通常は非公開になっています。

一休はここで88歳まで生きました。死因はマラリアだったといわれています。その昔は、瘧(おこり)と称される疫病で、原虫感染症です。その墓は、酬恩庵というお寺に作られ、「慈揚塔」と呼ばれています。さすがに天皇家の御落胤であり、この寺は昔から皇室によって保護されてきており、現在も宮内庁が御廟所として管理しています。

「陵墓」とみなされるものであり、このため一般の立ち入りや参拝はできません。彼が生きた時代にあれだけ庶民に愛された人のお墓を現在では見ることもできない、というのは少々寂しい気がします。

冒頭でも書いたように、一休は書画や詩などに達者だったそうで、「狂雲集」「続狂雲集」「自戒集」といった詩集が残されているほか、後世の茶人の間ではその墨蹟が極めて珍重されました。

「骸骨」の絵をあしらった書画が数多く残っており、このモチーフが大好きだったようです。生前、杖の頭にドクロをしつらえたものを突いて歩きながら、「ご用心、ご用心」と叫びながら練り歩いたという逸話も残っています。

2015-6171

この骸骨とは、髑髏(どくろ)ともいい、俗にされこうべ、しゃれこうべ、ともいわれるものですが、言うまでもなく、白骨化したヒトの頭部の頭蓋骨です。「されこうべ」(しゃれこうべ)は「さらされた(晒された)頭(こうべ)」の意味で、ようするに処刑されたのちに見せしめのために晒された首が白骨化したものです。

このため、一般には死の象徴とされ、欧米では「海賊旗」にもよく使われました。海賊が船や港を襲撃する時は常に「海賊旗」を掲げる必要があり、これはすなわち「襲撃するぞ」という意思表示のために用いられていたものです。相手に降伏を求め、「然らずんば、汝の運命かくの如し」、つまり逆らえば殺されてこうした骨に化すのだぞ、という脅しでした。

襲われた船は、抵抗する術がない場合降伏の印に白旗を掲げ拿捕されますが、こういった無抵抗の降伏の場合、海賊は船や乗組員には危害を与えることなく、ただ略奪を行って去っていったといいます。

しかし降伏がなされない時は海賊旗は降ろされ「赤旗」を掲げ容赦ない攻撃を加えました。一方では、政府の軍艦は「海賊旗」を掲げる船に遭遇した場合、その船は「海賊船である」と了解され、警告することなく攻撃、撃沈することが出来ました。

現在でも、日本では、海上保安庁や水上警察のテロ取締訓練において、「テロリスト」役の船にはこの海賊旗を掲げさせるといいます。このほか、ブラジルの特殊警察作戦大隊のように、警察や軍組織が紋章として利用している例もあります。

その昔、ナチス・ドイツの親衛隊、武装親衛隊等の紋章や徽章として使われたものは、交差した骨の上に頭蓋骨を置いたデザインで、一般には、「トーテンコップ」として知られています。骨が頭蓋骨の後ろに置かれて下顎骨がないというのが海賊旗のデザインと異なっている点です。

このように、この髑髏は一般的に死の象徴として知られ、死神を連想されることも多いシンボルであるがゆえに軍隊などで多用されてきたデザインですが、しかし同時に不死、人の未熟さに対する神の永遠性などを指すこともあります。

ヨーロッパでこれを最初にシンボルとしたプロイセン王国では、王であるフリードリヒ2世が、自分の騎兵たちが永遠に生き続けるようにと願い、その徽章として髑髏をあしらったことが、そもそも髑髏が使われるようになった走りといわれています。

同様な意味では、スカル・アンド・ボーンズのような秘密結社においても、髑髏は永遠の象徴であり、社会的な成功を意味するものだ、としてそのシンボルに選ばれたといわれています。

スカル・アンド・ボーンズ(Skull and Bones)というのは、通称、S&Bとして知られる結社で、その本部はアメリカのイェール大学にあります。「The Brotherhood of Death(死の義兄弟)」の異名もあり、組織内容は秘密厳守ですが、会員名簿は公開されています。

ウィリアム・ハンティントン・ラッセルと、従兄弟のサミュエル・ラッセルという二人の人物が1832年に設立したもので、そもそもは商社として発足したものだったようですが、その後構成員同士が協力し合いアメリカで経済的・社会的に成功することを目的とした結社に発展しました。

2004年秋のアメリカ合衆国大統領選挙の2人の候補者である、ジョン・ケリーとジョージ・W・ブッシュが2人ともS&B出身だったことはよく知られており、また、第43代アメリカ合衆国大統領のジョージ・W・ブッシュの父である第41合衆国大統領のジョージ・H・W・ブッシュや、祖父のプレスコット・ブッシュもS&Bのメンバーでした。

プレスコット・ブッシュはユニオン銀行の頭取と社長として知られる人物であり、ヒトラーの資金援助者だったドイツの鉄鋼石炭王フリッツ・ティッセンとも深い関係を築いていたといい、何やらきな臭い臭いがします。

また、きな臭いといえば、歴代のCIA長官はS&Bのメンバーボーンズマンが務めており、その他、金融、石油といった産業界の中枢だけでなく、国防総省、国務省などの政府機関にも数多くのメンバーが存在しています。

そうした結社のシンボルが髑髏というのは、自分たちの組織を永遠に保たせるためこれ選んだのだ、といわれれば理解できないこともありません。が、やはり髑髏というのは死を連想させ、軍隊の精鋭部隊の紋章などに使われるほかにも、現代では一般には危険物ないし毒薬の標識として用いられることが多くなっています。

この髑髏=危険物、という表示は、1829年に、米国ニューヨーク州において有害物質容器のすべてにこの標識を取り付けるように義務付けられるようになったのが初めてといわれています。以来、世界中で用いられるようになり、現在様々なデザインが存在します。

おそらくは放射能汚染の恐れのある場合に使うマークと同じく、世界で一番危険なモノ、という印象を抱かせ、近づかないようにさせる意図があるわけです。それほどこの骸骨というのは昔から忌み嫌われてきたわけで、どうしてもマイナスイメージが伴います。

2015-6200

とはいえ、誰もが死んだら、その肉体は滅び、いわゆる「白骨」と呼ばれるものになるわけであり、死したのちに残されたそれには魂は宿っておらず、ただのカルシウム、という考え方もあります。

より物理的な視点からだけみれば、白骨化とは、硬い骨を持つ脊椎動物の死体が長期間放置され、腐食や風化をした結果、皮膚や筋肉、内臓などの組織の大半が抜け落ち、ほとんど骨格だけが残された状態のことです。

海などの塩分濃度の高い水の中では白骨化が急速に進みます。が、通常の場合、死体が白骨化するまでにかかる時間は、ヒトの場合、腐肉食動物による死体の損壊や周囲の環境にも強く影響されるが、地上に放置されていた場合、夏場では1週間~10日、冬場では数ヶ月以上かかるといいます。

また乾いた土中に埋められていた場合、大人で7 ~8年、水中では夏場で2週間、冬場では1ヶ月で頭蓋骨の一部が露出します。

意図的に骨格標本を作るためには、炭酸ナトリウム1%の水溶液につけて沸騰させないように煮込むと比較的短時間で白骨化させることができるといい、骨を傷めることなく、骨の中にある油や雑菌を取り除くことができるため、保存性が良くなります。そのほかの方法ではどうしても骨が傷むため、骨格標本には向かないことが多いそうです。

「標本」というぐらいですから、骨格のかなりの部分が残っている場合は、骨格の様々な特徴から性別や年齢を判別することもできます。男性の骨は凹凸が多く、女性よりも筋力があるため、女性の骨よりも長く、厚いという特徴があります。性別の判定には、性別判定式という数式から求めた値が限界値を超えた場合は男性と判断できます。

また、骨折が治癒した箇所は独特の隆起が見られるため個人を特定する手がかりとなります。このほか、外科手術で骨髄内釘、骨螺子、骨接合プレートなどの治療器具を骨に取り付けられる場合は、その後の治癒のため、元々のその人の骨格が特に重要になるそうです。

さらに、何等かの事件や事故に巻き込まれた場合でその身元が特定できない場合などには、古くから歯型や虫歯の治療痕などが手がかりにされてきました。歯牙から個人を特定する方法を研究する「法歯学」と呼ぶ学問もあります。

近年ではDNA型鑑定も行われるようになり、骨からでもDNAを採取することもできるといい、ここから身元特定につながるケースもあるようです。

ただし、日本ではDNAのデータベースそのものが少ないため、DNAだけで個人を特定することは極めて困難です。このため主に親族のDNAと照合するという手段がとられますが、遺体の人物の身元にまったく手がかりがない場合、誰のDNAと照合すればいいのかもわからないため、DNA型鑑定が必ずしも身元特定の決定打とはならないといいます。

このように「白骨」にはひとつとして同じものはなく、その微妙な差異そのものが、それまでその人が生きてきた証しともいえるものです。日本では死した後もその骨が大事に祀られ、墓に入れられたのちは、人々はこれに盆暮れお参りし、ときにはその一部を持ち帰って大事にお守りとしたりもします。

こうした風習は日本だけではなく、世界的にも当たり前といった感覚であり、遺骨は貴いもの、とするのが一般的です。

ところが、これをあくまでも標本とみなし、その収集を日常とする趣味の悪い学者がその昔いました。「ジョン・ハンター」といい、イギリスの解剖学者、外科医でした。一方では「実験医学の父」「近代外科学の開祖」と呼ばれ、近代医学の発展に貢献したことでも知られています。

種痘で有名なエドワード・ジェンナーとは師弟関係にあったといい、解剖教室のための死体調達という裏の顔を持ち、ロンドン中心部の有名な繁華街レスター・スクウェアにあるその自宅は「ジキル博士とハイド氏」のモデルになったといいます。

ロバート・ルイス・スティーヴンソンの代表的な小説の1つで、1885年に執筆され、世界的に有名になりました。二重人格を題材にした代表的な小説であり、現在でも二重人格の代名詞として、「ジキルとハイド」という語が使われる事もあります。

そのモデルとなったのは、18世紀半ばのエジンバラの市議会議員で、石工ギルドの組合長をしていたウィリアム・ブロディーという人物です。ブロディーは昼間は実業家でしたが、夜間は盗賊として18年間に数十件の盗みを働いていました。

ところが、その正体を見破られそうになったため、あろうことか捜査を行っていたスコットランド税務局本部の襲撃しようとしてその計画が露見して捕まり、1788年に処刑されました。

そうした人物がモデルとなった小説に登場する家として彼の家が選ばれた、ということはすなわち、書き手のスティーヴンソンもまた、このジョン・ハンターにあまりいい印象を持っていなかったのでしょう。世間的にもこの時代にはかなり変人視されていたことが推測できます。

2015-6212

スコットランドのグラスゴー郊外の農村に生まれ、ロンドンで医師・解剖学者として成功を収めていた10歳年長の次兄ウィリアム・ハンターの元で助手として働くようになりました。兄ウィリアムが開いていた解剖講座に使用する新鮮な死体を集めるため、調達に伴う裏の部分を一手に引き受けます。

やがて解剖講座の助手も務めるようになり、講義の弁は兄より劣っていましたが、持ち前の手先の器用さで標本作成や解剖の実践では兄を凌駕するようになります。

33歳のとき、兄の元を離れ、七年戦争に外科医として従軍。帰国後、歯科医ジェームズ・スペンスと協業し歯の治療と研究に従事し、成果を有名なオランダの画家による挿絵つきの論文「ヒト歯の博物学および歯疾患の報告」として発表しました。これにより医学界で知名度を上げるようになります。

40歳のとき、兄の影響力もあって聖ジョージ病院の常勤外科医となり、4年後には自宅に解剖講座を開きました。医師としてのジョン・ハンターは内科医による瀉血や浣腸、水銀治療といった旧弊な治療を否定し、外科医としても安易に手術を行うことに慎重であり、症例によっては自然治癒に任せたといいます。

教師としては、観察し、比較し、推論することを学生に要求しました。ハンターは当時の医学界では異端とみなされていたようですが、この聖ジョージ病院での臨床による評判と彼の解剖講座に押し寄せた多くの弟子が彼の名を世界に広げる役割を果たしました。

人体のみならず、多数の動物実験や動物標本の作成を行い、解剖学と博物学の分野で評価されており、聖ジョージ病院の職員なる前年の39歳のときには、王立協会の会員にも抜擢されています。

ところが、彼には「骨格標本の収集家」としての側面があり、世界中から一万四千点もの標本を集めたことでも人々の耳目を集めました。中には、非合法な手段を問わず集めた物も多く、珍獣どころか特徴的な人間を見つけると葬儀業者に金をつかませて死体を手に入れたといいます

チャールズ・バーンという身長が249センチにもなる巨人症の人物を標本にするためにいつ死ぬか人を雇って見張らせていたという逸話もあります。

この人は「アイルランドの巨人」という別名でも知られていた人です。彼の正確な身長は推測の域を出ませんが、大多数の記述が8フィート2インチ(2.48m)から8フィート4インチ(2.54m)の身長であったと言及しています。

21歳のとき故郷のアイルランドを離れ、ロンドンでへコックスズ・ミュージアムという見世物小屋に職を見つけました。そしてこの小屋で彼はすぐさま街の人気者となりました。しかし、どんな珍しいものも日々目にしていると誰しもが飽きるものであり、やがてロンドン市民の興味が他に移ると、彼の富と名声はすぐに去っていきました。

やがては過度の飲酒を行うようになり、当時の新聞によると、ポケットに全財産の700ポンドをいれ、飲み歩いていたといいます。悲嘆にくれた彼は酒で悲しみを紛らわそうとしていたようで、1783年6月、22歳の若さでロンドン市内の安アパートで死にました。

ところが、ジョン・ハンターは、このチャールズ・バーンの世にも珍しい「骨格」にその生前から目をつけていました。バーン自身もその生前、ハンターから見張られていることに気づき、万一自分が死んだら彼の標本にされないように棺桶に重りをつけて海に沈めてくれと友人たちに遺言していたほどでした。

しかし、ジョン・ハンターはバーンが死ぬと、葬儀業者が遺体を海に沈めるために彼を運んでいる途中に賄賂を渡して遺体を盗み出すという暴挙に出ました。バーンの希望に反して、彼の亡骸は500ポンドでジョン・ハンターが入手したのでした。

ジョン・ハンターは喜々とし、さっそく盗み出した遺体をチャールズ・バーンのために用意していた特大の鍋で煮込んで骨格標本に加工したといいます。

その彼の遺骨は、7フィート7インチ(2.31m)の骨格標本として、現在もロンドンにある王立外科医師会のハンテリアン博物館に現在も収蔵されています。しかし、実は彼の標本を欲しがっていたのはハンターだけではなかったようです。

彼の死についてある雑誌の伝えるところによれば、「ロンドン中の外科医が貧しい死んだアイルランド人を要求して、さながら漁師が巨大な鯨を狙うようにバーンのアパートの周りを取り囲んだ」とされています。この当時の多くの外科医がバーンの骨格標本を手に入れさえすれば新しい研究テーマが手に入る、と考えていたのでしょう。

とはいえ、このハンターの行為は、当時の法律に照らしても犯罪であり、明らかに異常です。コレクションのためなら手段を選ばない人物だったようで、レスター・スクエアの家には表通りと裏通りに面した入り口があり、表は妻の社交界の友人や患者が出入りし、裏は解剖教室の学生の出入りや死体の搬入出のための玄関にするという念の入れようでした。

そうした奇怪な屋敷の作りもまた、小説ジキル&ハイドのモデルにピッタリであり、また彼自身の名も何やら猟奇的な臭いがします。「ハンター」には「狩人」という意味もあり、これから根っからの骨収集家、「ボーン・ハンター」が連想できるからです。

2015-6223

しかし、ジョン・ハンター自身も1793年10月16日に狭心症で死亡しました。遺言に従って彼の遺体は弟子や学生の前で検死解剖が行われましたが、その後セント・マーティンズ教会の地下納骨堂に安置され、1879年ウェストミンスター寺院に改葬されました。

彼が生前収集したコレクションは現在も、王立外科医師会のハンテリアン博物館として現存しています。が、彼自身の骨格標本は作られることはなく、その遺骨もまた、ここには入っていません。

過去の模型の造形が困難だった時代には、彼が行っていたような行為は犯罪とはいえ、医療行為の一環としては大っぴらに認められていたようです。また、インドや中国から骨が移出されたり、献体を使った標本があたりまえのように製作されていました。

しかし、21世紀の現在においてこれら本物の骨格標本が一般に展示されているケースは稀です。その後人体模型を作る技術も進み、このため現代では販売されている人体の骨格標本は、倫理上や衛生上の問題からも模型であることがほとんどです。

本物の人骨が売買されることは現在ではないわけです。しかし、売買の対象であろうが、信仰の対象であろうが、人が死んで残った骨は所詮はカルシウムです。死んだらそこに魂は宿っていない、と私は考えています。

一休禅師もまた、そうしたことに気付いていたようであり、死すればただの物体に変わる人の一生というものの無常をいつも考えていたようです。

であるからこそ、骸骨は骸骨にすぎない、とその絵を描いて笑い飛ばし、生きているうちが花だとばかりに、杖にドクロの形をあしらえてそれを突いて歩きながら、「ご用心、ご用心」と叫びながら練り歩いたのでしょう。

生前、たくさんの川柳を残していますが、その中には自らが帰依した仏教そのものや、死そのものを笑い飛ばしているものもあります。例えば、

「南無釈迦じゃ 娑婆じゃ地獄じゃ 苦じゃ楽じゃ どうじゃこうじゃと いうが愚かじゃ」

「親死に 子死に 孫死に」

「釈迦といふ いたづらものが世にいでて おほくの人をまよはすかな」

こういうのもあります。

「世の中は起きて稼いで寝て食って後は死ぬを待つばかりなり」

今晩食ったあと明日の朝、私は起きることができるでしょうか。起きていなくてもそれはそれ、残るその肉体は、いずれこの世においては骨というカルシウムになるだけ、です。

2015-6219

将来メールでできること

2015-8550今日は、1月23日ということで、「1(いい)23(ふみ)」の語呂合わせにより、「電子メールの日」ということになっているようです。

言うまでもなく、コンピュータネットワークを使用して、郵便のように情報等を交換する手段であるわけですが、私自身もメルアドを3つも持っていて、色々な情報収集・情報交換だけでなく、友人・知人との連絡に活用しています。

ただ、我々より年配の方の中には、コンピュータの扱いに慣れていない方も多く、未だにメールでの人とのやりとりが苦手、あるいは、まったくやっていない、という人も多いようです。

また、電子メールを使える環境にある人でもあまり活用していない、という人も少なくないようです。最近はスパムメールが急増しており、これを誤って開いてしまって、せっかくなけなしの金で買ったパソコンをウィルス感染させたくない、というのがその理由の一つのようです。

見知らぬ差出人からのメールは開かない、見ないですぐにゴミ箱に捨てる、などの対策を取っていればだいたいは大丈夫なのですが、最近は偽りの相手を装ってのメールもあって、こうしたメールには、すぐにここに書いてあるアドレスに連絡してください、などとまことしやかに知り合いを装った文章が書いてあったりします。

架空請求メール、ワンクリックメールであり、無論、悪質な詐欺の手口なのですが、それをどう見分けるか、というところが、なかなか難しく、私自身、スパムメールに慣れているつもりでも、うっかりと開けてしまう、ということはよくあることです。

また、中にはまことしやかに添付ファイルをつけているスパムメールもあり、通常はメールを開けてしまっても、添付されているファイルをオープンするなどしなければ大丈夫ですが、何だろうと思ってファイルを開いてしまったところ、この添付ファイルにウィルスが潜んでいた、といったケースも多々あります。

それにしても、いったいこうしたスパムメールの送り手は、どこで私のメルアドを知ったのだろう、といつも疑問に思います。最近はインターネットで買い物をすることも多く、こうした場合にはメルアド登録は欠かせないため、おそらくは、このときの登録データが何者かによって売買されるなどして流出し、第三者に知られているのだと思われます。

頻繁にメルアドを変えれば済みそうなものですが、その都度いつも連絡を取っている人達にメルアド変更を伝える必要もあり、また銀行振り込みやネットショップほかのサービスで登録しているメルアドまですべて登録し直す必要があります。

結局は仕方なく、これまでのメルアドを使っているのですが、毎度のことながら、なんとかならんのか、スパム対策……と思う次第です。

このスパムメール対策としては、サーバ上やメルアドソフト上などでのフィルタリングする方法などもありますが、誤検知により通常のメールがスパムであると判断されてしまい、不着となることもあり、こうした問題が根本的に解決される方法は当面はなさそうです。

最近はISP(インターネット・サービス・プロバイダ)、つまりインターネットやメールを使えるように接続サービスを行っている会社などでも、こうしたスパムメールを監視し、利用者からの通報があればこれを流さないようにしているようです。

しかし、スパムメールであるかどうかの判断が難しく、下手をすれば販売活動の阻害だとして訴えられてしまうケースもあるようです。またメールアドレスは一文字変えれば簡単に別のものが創出できるため、それこそゴマンとあるスパムメールアドレスが存在し、これをすべて駆逐することは不可能です。

とはいえ、最近ではアメリカのようなインターネット先進国では、法律的な規制も強めて取締を強化しているようで、日本においても官側が主導してこうした社会的な取り組みが増えるよう仕向けていくことに今後は期待するしかないのかもしれません。

それにしても、このメールで実際にできることって何だろう、と改めて考えてみたところ、それはやはり、日本国内だけでなく、全世界にデータを配信、または受信できる、というところにその最大のメリットがあるわけです。郵便ならば日本なら数日、地球の裏側だと下手をすれば1週間かかるところをメールなら即座に届けることができます。

また、最近はかなり大きなデータの送受信も可能になっていて、近年の光ファイバー網の発達により、ブロードバンド対応として大容量を謳ったものでは100MB~数GB(ギガバイト)ほどのデータも送ることができるプロバイダも増えています。大手プロバイダのBiglobeなどでも普通に100MBもの大容量のデータがメールで送れるようです。

これがどのくらいの容量かというと、例えばこのブログでいつも掲載されている写真が、だいたい大きくても1MB程度ですから、同じ写真をメールに添付すれば、100枚送れることになります。

当ブログではできるだけ高品質の写真をみなさんに見て頂きたく、通常よりはやや大きめのサイズの写真を公開しているわけですが、これが一度に100枚も送れるということは、ちょっとしたアルバムも電子メールで簡単に送信可能、ということになります。

これは考えてみればすごいことです。メール(mail)とは、元々は手紙の意味だったものが、インターネット時代になってからは通常の手紙と区別するためにこう呼ぶようになってものです。が、通常の郵便でこれと同じ枚数のペーパー写真を送ろうと思ったら、間違いなく、手紙ではなく小包になってしまいます。

それが瞬時に送れる、しかも郵便配達人などの仲介者は全く必要なく(厳密にはISPが仲介しているわけですが)、プライベートからプライベートへ送ることができる、ということは、ほんの20年ほど前までは考えられないことでした。

手紙などの通信文だけでなく、こうしたメディア情報を大量に送ることができる、ということはすなわち大量の情報のやり取りが可能になるということであり、しかもそれが全世界レベルで可能になったことで、その気になれば今や地球上の誰とでも自由にこうした情報交換ができるわけです。

加えてインターネットの普及により、地球上のほぼどこの景色もパソコンで見ることができるようになり、このネットとメールの組み合わせにより、おそらく地球のサイズの感覚というのは、20年前の100分の1くらいになっているのではないか、と思えるほどです。

2015-8555

しかし、まてよ、と考えます。こうした情報以外に何が送れるのか、ということになると、ほとんど思いつきません。食品を送れるわけもなし、ましてや人や動物を電子メールで送ることができるわけもなく、そうした意味では地球のサイズは今も昔も変わりません。

電子メールを情報の瞬間移動装置、と捉えるならば、物質の瞬間移動も可能ならばいいのに、と思うわけですが、残念ながらそうはなっていません。

しかし、近年の人類の技術の発展はすさまじく、人工知能の発達などによって開発されたロボットコンピュータのようなものができれば、その力を借りて、もしかしたらそう遠くない将来にそうしたものも可能になるのではないか、という気もします。

情報やデータを信号として一方の装置から他の装置へ移動させることは、工学的には「転送」といい、転送は情報やデータを表す電気信号などその形式を変えずにそのまま移動することができる手法です。電子メールはまさにこの転送装置のひとつです。

ただ、じゃあそれならこうした情報やデータ以外に物質を転送できる装置が実際にあるか、といえば、現時点は実現しておらず、SFの世界の話になってしまいます。

実際にモノや人間を転送するというのは、実現不可能なこと、と現時点では考えられているわけですが、それでもいい、夢物語でいいからどんな方法があるか教えて、というならば、過去に作られたSF作品をみると、その分類としては、主に3つのものがあります。

まずは、「ビーム方式」。これは、物質を分解して「ビーム」に乗せて運び、目的地で再構築するというもので、「転送ビーム」とも呼ばれます。

テレビドラマや映画にもなった「スタートレック」の転送(transport)はまさにこれであり、この作品では、人員輸送用と貨物輸送用の2種類があり、人員用は量子レベルまで、貨物用は分子レベルまで分解して転送できました。

このほか、タイムマシン用として開発された転送装置にハエが混じってしまったことで人間の遺伝子にハエの遺伝子が含まれてしまい、「ハエ男」になってしまう、という恐怖映画、「ザ・フライ」などにおける転送方式もこのビーム方式といえます。

が、人間やその他の物質を分解してビームにする、というのは物理的にも化学的にも実現性が乏しく、無論、理論的にも不可能です。未来においてもそうした技術が実現することは不可能といっていいでしょう。そもそも「ビーム」とはいったい何よ、と言った時に光なのか分子レベルの物質なのか説明できる人は誰もいやしません。

また、SFの世界では、電子メールのように、物質をデータ化し、送る方式を「データ方式」というものがありますが、これもまた、ビームと同様得体の知れないものです。

分解して運ぶのならばビームと同じじゃないか、といわれても仕方のないことですが、そこはSFの世界の話です。ビームではなく、データにするのだ、と言われればふーん、そうかぁ、と納得できないまでも黙ってしまいます。

ただ、生物や物体をデータに変換し、通信によって転送、転送先で元の姿に戻すことができる、といわれますが、これはその形式がビームだろうが、データであろうが、工学的にみれば転送ではなく、「伝送」といえます。

例えば、音声、画像、情報、データなどであれば、これを電気の電圧値形式の信号に変え、無線の電波に乗せることで移動させることができます。無線の場合はこれを「変調」といいます。移動完了後、そこで元の形式に戻しますが、これは「復調」であり、無線電信の装置そのもののことを「伝送装置」といいます。

この電波と同じことを動物や物資に適用できないか、というわけですが、無論これも空想の世界の中でしか実現していません。そうした架空のお話のひとつとしては、アニメやゲームでおなじみの「ポケットモンスター」などに出てくるシステムがあり、これは例えば、「ポケモン預かりシステム」というものです。

ポケモンを何等かの形でデータ状態での保管しておき、必要に応じて「解凍」するわけであり、ポケモン主人公のサトシが手にしたボールの中から次々と飛び出すポケモンは、データを復調して表出させた産物です。

2015-8559

さらには、アニメの「宇宙戦艦ヤマト」で有名になった、「ワープ」による転送方式があります。無論、日本のアニメだけでなく、スターウォーズなどでも有名になったものですが、今やSFにおける宇宙モノといえば、たいていは、何等かの形でワープがでてきます。

ところが、これは前述の二つのように必ずしも空想の産物とばかりもいえません。このアイデアの元になったのは、「ワームホール (wormhole)」というもので、これは、宇宙におけるブラックホールのような時空のある一点から別の離れた一点へと直結する空間領域でトンネルのような抜け道のことです。

ジョン・アーチボルト・ホイーラーという、2008年に亡くなったアメリカ合衆国の物理学者が提唱したもので、その理論式よれば、ブラックホールに突入して抜けたその先には別のブラックホールがあり、この二つはとてつもなく遠く離れているため、物質はその間を瞬間移動できる、というものです。

ホイーラーは、これを研究上の遊びと考えていたようですが、彼が生きていた当時の小説「コンタクト Contact」を執筆中だったSF作家のカール・セーガンが、この新しい小説を書く上において彼にこの瞬間移動に関しての科学的な助言を求めてきました。

このとき、ホイーラーは忙しかったのか、その弟子の、キップ・ソーンという同じくアメリカの理論物理学者にその対応を命じました。このときのセーガンの依頼は、遥か宇宙のかなたにいる地球外生命との接触が可能になるようなシナリオを、読者に対して不自然にならないようなんとか科学的に作れないか、というものだったそうです。

その結果、ソーンは「もし負のエネルギーをもつ物質が存在するならば、通過可能なワームホールはアインシュタイン方程式の解として存在しうる」と結論し、さらに、時空間のワープをも可能にすることを示しました。

負のエネルギー???と私もしっかりとは勉強しておらず、ちんぷんかんぷんなのですが、彼の研究によれば、現在の技術では制御が難しいほどの高密度の負のエネルギーがありさえすれば、ワープは可能という結果になったのだそうです。

しかし、そもそもこの負のエネルギーをどうやって得るのか、またどのようにしてワームホールを通過するのか、あるいは出口がどこなのかは全くの未知の問題として棚上げされた上での研究結果だったといいます。

ところが、後に、このソーンの考えたワームホールを別の科学者が検証したところ、その解は不安定解であることが数値計算から報告されており、ワームホールを正の質量をもつ粒子が通過した場合、その後にワームホールは潰れてしまって通過できなくなるという結論になったそうです。

このため仮に通行可能なワームホールを見つけても、そのワームホールは通ったあとすぐに潰れてしまい、同じ道を通って帰ろうとしても元あったワームホールを通って帰ってくることのできません。つまり、一度きりしか使えない一方通行の道になってしまうというわけです。

しかしもし通行のたびに旅行者がこのワームホールに何等かの人工的な補正を加えて恒久的に維持し続けられるなら、相互通行に使用できるということも数値計算から導かれたといい、まったくの不可能というわけでもない、という結論に至ったそうです。

ただし、その補正には莫大なエネルギーが必要になるとのことで、現時点での技術では不可能です。人類がこれまで手にしなかったような巨大なエネルギー制御の技術を手にすれば将来的には可能「かもしれない」というだけです。

そう聞くと、なーんだやっぱり夢の夢の話か、という人も多いでしょう。が、過去における人類の科学技術の発展の歴史の過程のことを考えると、ほんの100年前には人間が地球外の天体を訪れることなどありえない、と思われていたものが、その後月面探査が実現し、現在は普通に数多くの宇宙飛行士が宇宙で活動をしています。

そう考えれば、物質の瞬間移動の話もけっして夢物語ではなく、時間はかかるかもしれませんが、いつかは実現するに違いないのではないか、と私などは思うわけです。

2015-8567

このほか、これは必ずしも瞬間移動とはいえませんが、「超光速航法」というものがあります。これはワープとは少々違い、宇宙船が光速を超える速さで航行するための技術であり、高速での移動であるがゆえにほぼ瞬間移動に近い、と考えられているものです。

これも物理学では真剣に研究されているテーマのひとつです。アインシュタインの相対性理論によると、物体の相対論的質量は速度が上がるに従って増加し、光速において無限大となります。このため、単純に加速を続けても光速に達することも、光速を越えることもできません。

しかし、計算上の遊びの上においては、物理理論と整合性を保ったまま、光速を越えることが可能であることが証明されているとのことです。

物理学においては、「エキゾチック物質」というものが仮定されており、これは既知の物理法則を破りうる風変わりで奇妙な物性を持つ仮説上の粒子であり、その存在はまだ一般的に確認されていません。

そうした性質を持つ粒子は現在の物理学研究の中での存在が発見されれば、そうした高速移動も可能となる理論が構築される可能性があるということで、こうした物資は、現在「タキオン」といった名前で呼ばれているようです。

超光速で移動する物質と考えられており、宇宙にある星間物質のうち電磁相互作用をせずかつ色電荷を持たない、光学的には観測できないとされる仮説上の物質である「暗黒物質(ダークマター)」と呼ばれる物質のひとつです。

この暗黒物質の存在に関する研究は、最近急速に進んでおり、昨年の4月3日、欧州合同原子核研究機関において、マサチューセッツ工科大学教授らの研究グループが「暗黒物質が実際に存在する可能性を示す痕跡を発見した」と発表しています。

現在その研究結果の解析が世界中の科学者によって進められており、この研究成果が正しいことが証明されれば、同様の手法を用いて他の暗黒物質も発見されるかもしれず、これから新たに見つかる物質の中には、超高速で移動するタキオンのようなものも含まれているかもしれません。

こうした宇宙研究の中からちょっとしたはずみで、大発見が行われ、それをもとに「超光速航法」の研究が進み、それをもとに物質を瞬間移動させるような技術開発も急速に進むかもしれません。

インターネットの普及から早20年以上が経ちましたが、この間の情報転送技術の発展はすさまじかったことを考えると、その実現の速度は今後更に加速度的となり、100年前から現在に至るまでよりも飛躍的にその時間は短くなるかもしれません。

一方、相対性理論との関係では、この超光速航法とタイムトラベルは結びつけて考えられることも多いそうです。超光速航法自体も相対性理論的にはタイムトラベルの一種だとする説もあるようです。

その昔、ターミネーターというSF映画がありましたが、この映画の主人公は、ビーム方式?と思われるような方法で物質を変化させて時空を飛び、現代にやってきました。もしかしたらこのような方法は超高速航法の延長戦上にあるのかもしれません。

このような超光速航法が可能になれば、同時にタイムトラベルも可能になってしまうかもしれないわけであり、瞬間移動できると同時に過去と未来を自由に行き来できる時代がくるやもしれません。

日本では、東京と名古屋を結ぶ「リニア新幹線」の開業が2027年と目されており、これはあと12年先です。これまでにタイムトラベルができる技術が開発されているとは少々考えにくいですが、東京~大阪間の全線開業は2045年の予定であり、ちょうど30年先です。

東京~大阪間は、このとき最速67分で結ぶと試算されているようですが、もしかしたらこのときには星間移動も瞬時にできる技術ができているかもしれず、その結果、リニア鉄道なんて大昔の技術さ、と人々に笑い飛ばされている、といったこともあるえるかもしれません。

ただ、その時私はまだ生きているでしょうか。仮に死んでいたとしても、また別の技術が開発されているやもしれず、それはあの世とこの世を瞬間移動できる技術かもしれません。

このブログを読んでいる若い方は、そうした技術を体験できるかもしれない、と考えるとうらやましい限りです。もっとも、そんな技術が開発されたら、もはや死ぬということの意味がわからなくなってしまいますが……

……と馬鹿な話しを書いているうちに、今週も週末になってしまいました。

週末は長ければ長いほどよく、できれば瞬間移動よりも、同一時間をできるだけ長くできるような技術も開発して欲しいものです。はたしてそうした技術もまた未来で開発されているでしょうか……
2015-8595

ニワトリは兵器にあらず

2015-1120640今日は、大寒だそうで、これは「たいかん」と読むのだと思っていたら、「だいかん」のほうが正しいようです。

もっとも、今日1月21日だけを大寒と呼ぶのではなく、期間としての意味もあり、1月20日~2月3日まで、つまり、立春までを大寒と呼びます。寒さが最も厳しくなるころ、とは例年言われることなので、誰でもが知っていることではあります。

たしかにこの頃になると、とくに太平洋側では陽射しに恵まれることが急に少なくなり、曇りがちだったり、雨が降りやすくなります。太平洋高気圧が弱まり、低気圧が入り込みやすくなるためであり、これは本来は寒さの弱まりを意味します。

が、依然気温が低いところへもっていって湿気が入り込むことともなり、時に降雪にも見舞われたりして、より寒く感じられるわけです。

この大寒という期間は、古代中国で考案された季節を表す方式である「二十四節気」のひとつです。二十四節気は、さらに約5日ずつの3つに分けられ、つまり24×3=72で、これは「七十二候」とよれます。

元々の中国では、各七十二候の名称は、気象の動きや動植物の変化を知らせる短文が作られており、例えば、「野鶏入水為蜃」というのは、「キジが海に入って大ハマグリになる」という意味です。が、そんなことは実際にはあり得ず、キジは海に入ったら死んでしまいます。

このため、古代中国の二十四節気の名文がそのまま残っているのに対し、七十二候の名称は何度か変更されており、日本でも、江戸時代に入って暦学者によって日本の気候風土に合うように改訂され、「本朝七十二候」が作成されました。現在では、俳句の季語などにも使われます。

現在日本で、大寒の期間の七十二候とされているものは、約5日ずつの3つ、以下の通りです。

○初候(1/21~24・25)
款冬華(ふきのはな さく) : 蕗の薹(ふきのとう)が蕾を出す
○次候(1/26~29・30)
水沢腹堅(さわみず こおりつめる) : 沢に氷が厚く張りつめる
○末候(1/31~2・3)
鶏始乳(にわとり はじめて とやにつく) : 鶏が卵を産み始める

上記のうち、末候にニワトリが卵を産み始めることになっていますが、中国では、これが初候のころとなっています。また、次候には、「鷲・鷹などが空高く速く飛び始める」という意味の、「鷙鳥厲疾(しちょう れいしつす)」が当てられ、そして末候は、日本では次候にあてられている「水沢腹堅」となっています。

このように、日本と中国では共通点もあるものの、「鷙鳥厲疾」のようなものはなく、これが「款冬華」になっていて、その他も順番が違うなどして微妙に季節感が違うことがわかります。

このクソ寒い時期に、ワシやタカが飛び始めるという感覚は日本にはなく、むしろ土の表面を霜柱が覆っている間を、フキの若い芽が出てくる、といった感じのほうがむしろ日本人にはぴったりの季節感です。

七十二候という季節の区切りだけは中国から輸入し継承したものの、季節感だけはこちらの気候や環境、フィーリングに合わせ、季語を変えてきたわけです。

ところが、沢に厚く氷が張り、ニワトリが卵を産み始める、というのは日本も中国でも同じです。ニワトリに関しては、日本は末候であり、中国は初候という違いがありますが、大寒のころにニワトリが卵を産み始める、という感覚は中国も同じ、ということのようです。

では、本当に大寒のころからニワトリが卵を産み始めるのかどうか、というところを調べてみたのですが、実際のところはよくわかりません。現在、鶏卵場などで、採卵用に飼育されている鶏は、1.3日に1個卵を産むよう、選択的繁殖が行われた種であり、一年中卵を産みます。

が、自然に放し飼いのニワトリは、そこここの藪の中や草むらの中に卵を産みますから、地面の霜柱がそろそろ溶け出す春先ころからは動きが活発になり、実際に卵を産み始めるのかもしれません。

その昔は日本だけでなく中国でもニワトリはたいていが庭に放し飼いで飼っていたようですから、あ~大寒になった、そろそろニワトリが卵を産み始める頃だな~、という季節感を昔の人がこのろに感じてもなんら不思議はありません。

ただ、中国や日本で七十二候が定着したころというのは、旧暦を使っていましたから、大寒は実際には今よりひと月ほど早く、年末から始まり、ちょうど今頃の1月20日ころまでです。

なおさらに寒い時期のような気もしますし、いずれにせよ、現代的な感覚では、こうした時期にニワトリが果たして卵を産み始めるかと言えば、???というかんじではあります。

この現在の人類の生活と切っても切り離せないほど身近な存在となっている「ニワトリ」というヤツですが、その起源としては、東南アジアの密林や竹林に生息していたものが原種とする説が有力です。そして、のちにこれらから派生した複数の種が交雑してニワトリとなったとされているようです。

現在ではDNA解析によって、「セキショクヤケイ」という中国南部からフィリピン、マレーシア、タイなど東南アジア熱帯地域のジャングルに生息する野鶏が原種であるとほぼ確定しているそうです。

写真を見るとこれは確かに現在のニワトリに似ています。ただ、羽は赤っぽい笹色をしていて、体重は成鳥でも1kg弱程度とかなり小ぶりであり、どちらかといえばキジに似ています。

それもそのはず、セキショクヤケイは、キジ目キジ科に分類されており、ニワトリも同じで、キジの仲間ということになります。ただ、最近のニワトリは、品種改良のため異種同士との交雑がかなり進んでおり、ひと目見てもキジとはとても思えません。

が、現在もニワトリは、正真正銘、キジ目キジ科に分類されており、日本の地鶏などはこのセキショクヤケイと同じように赤色野鶏の特徴を残しているものが多いようです。

このセキショクヤケイを起源とするニワトリは、その後東南アジアから中国南部において家畜化された後、マレー・ポリネシア、ニュージーランドなどの南太平洋一帯に広まり、一部の島々を除いてほぼ全域に広がりました。

しかし、これらの地域では重要な財産として珍重されることの多かったブタと違い、ニワトリは半野生の状態で放し飼いされることが多く、その昔は主要食料とはみなされていなかったといいます。

日本においては4世紀から5世紀ごろに伝来しました。が、7世紀の終わりころの日本を統治していた天武天皇が、動物保護の観点から、肉食禁止令を出したため、ウシ・ウマ・イヌ・ニホンザルともの食べることが禁じられました。と、いうことは逆にそれ以前は日本人も犬やサルを食べていた、ということになります。

その後ニワトリは、時を告げる鳥として神聖視され、主に愛玩動物として扱われました。肉食を禁忌する風習はその後も長く日本では伝統的に続きましたが、武士の誕生とともに鍛練として狩猟が行われ、野鳥の肉だけは食すようになりました。

しかし、ニワトリは生んだ卵も含めて食用とはみなされませんでした。有精卵であることも多く、これを食べては殺生になると考えられたからです。

ところが、江戸時代に入って、無精卵が孵化しない事が広く知られるようになると、鶏卵を食しても殺生にはあたらないとして、ようやく食用とされるようになり、採卵用としてニワトリが飼われるようになりました。

そして、江戸時代中期以降には、都市生活者となった武士が狩猟をする事が少なくなりました。このため、野鳥があまり食べられなくなり、代わって鶏肉が食べられるようになり、京都や大阪、江戸などの主要都市においてはむしろさかんに食されるようになりました。

2015-1130434

明治期以降は日本の人口も増えていったことから、さらに需要が増え、いわゆる「養鶏業」という分野も農業のひとつの分野として確立されるようになりました。これは欧米でも同じであり、とくにアメリカでは、いわゆる「ブロイラー」と呼ばれる肉鶏の一品種が開発されました。

短期間で急速に成長させる狙いで作られた品種であり、徹底した育種改良の研究により、ニワトリの生育を早め、一羽あたり数週間で最大2kg前後の肉が取れることができます。

もともとはアメリカの食鶏規格の用語で、孵化後2か月半以内の若鶏の呼称でした。が、そもそもはブロイル(broil)する、すなわち、オーブンなどで丸焼きする際、焼きやすいよう、売りやすいように適した大きさに切るため、ブロイラーと呼ばれるようになったものです。

日本には第二次世界大戦後この技術がアメリカから導入され、現在日本では毎年6億羽ものブロイラーが出荷されています。また、鶏卵のほうも、全国の鶏卵生産量は毎年およそ250万トンを推移しています。

詳しく調べていませんが、おそらくは食肉の中においては最も高い国内需給率を誇るでしょう。ちなみに、鶏卵の自給率は96%とかなり高い水準にあります。

現在の日本の養鶏では鶏舎内にほとんど隙間無くケージ(鳥かご)を設置し、その中で飼うケージ飼いが主流となっており、1つの養鶏場では小規模であっても数万羽が、大規模なものでは数10万羽が飼われています。

ただ、すべて同一のケージ内で同一の飼料を与える、という極めて画一的で平準化された生産手段を採っており、この手法はどこの養鶏場も同じです。このため、多少の飼料の違いによって差別化を図ったとしても、似たような鶏肉と卵にならざるを得ず、他の農産物に比べて別の生産者との差別化が難しい商品といえます。

このため、特定の品種を除けばブランド化はあまり行われていません。日本の養鶏業者は比較的小規模での経営が多く、それに対する流通・販売側は全国規模のスーパーマーケット・チェーンや大手の食品会社であるため、価格交渉力が極めて弱い、という問題もあるためです。

他業者と差別化を図って高くなってしまったら、スーパーには買ってもらえなくなるため、大きな投資を行ってまで品種改良や肉質改善を行おうとしないわけです。

ただ、逆に小規模で生産して餌にも特別なものを与えて価格も高めに設定することで、希少価値としての鶏肉や鶏卵を販売しようという取組みは最近増えているようです。

古くからあるブランドである、南部地鶏(岩手県)や比内地鶏(秋田県)、伊達地鶏(伊達鶏)、薩摩地鶏(鹿児島県)といったもの以外のものも最近は増えているとのことです。

スーパーでみかけるこうしたブランドモノは確かに高いのは高いのですが、臭みが少ないように思い、かつなんといってもやはり美味です。ブロイラーは料理してすぐならまだ食べれるのですが、造った料理を後日食べたりすると明らかな臭みがあることがわかります。

大規模養鶏場で育てられるブロイラーなどがどんなものを与えられて育てられているのかよくわかりませんが、きちっと出所がわかった餌を食べているブランド鶏ならおいしく、品質もしっかりとしており、食の安全が保てる、といった安心感もあります。

しかし、それにしても気になるのが、最近猛威を振るいつつあるトリインフルエンザであり、日本だけでなく、世界的にも感染が進んでいるようです。ときにこうしたブランド鶏の開発に取り組んでいる小規模の養鶏場も襲い、せっかく出てきた良い芽を摘んでしまいます。

とくに2000年代になって急増しており、日本では昨年暮れごろから、九州や中国地方において、複数の養鶏場で相次いで感染が報告されています。

どこの養鶏場も、一般人の立ち入りを極端に制限したり、野鳥が鶏舎に入らないように窓や換気口にネットを張ったりするなど、防疫を厳重に行っているようですが、まだまだ冬が続く中、今年も新たな感染が報告されるのは時間の問題、といったかんじがします。

一般的には鳥インフルエンザウイルスがヒトに直接感染する能力は低いといわれており、また感染してもヒトからヒトへの伝染は起こりにくいと考えられているようです。しかし大量のウイルスとの接触や、宿主の体質などによってヒトに感染するケースも報告されており、なかなかに気を許せません。

現在ヒトに感染する、インフルエンザAやBといったインフルエンザは、本来はカモなどの水鳥を自然宿主として、その腸内に感染する弱毒性のウイルスであったものが、突然変異によってヒトの呼吸器への感染性を獲得したと考えられています。

A型、B型は毎年冬期に流行を繰り返し、多くの場合のヒトのインフルエンザの原因になります。が、これがなぜ冬に集中するかについては、諸説あるようです。ひとつには空気が乾燥しているので、鳥の糞なども乾燥してバラバラになり、風に乗って広がりやすく、これに含まれているウィルスが蔓延する、という説がひとつ。

また、鳥インフルエンザは、通常、野生の水禽類(アヒルなどのカモ類)を自然宿主として存在しており、冬季になると、これらの鳥は暖かい土地を探して飛び立ち、南下します。中国大陸にいたこれらの鳥が、日本に飛来し、何等かの感染経路を経て、ニワトリなどの家畜にも感染症をもたらす、といったことも考えられているようです。

2015-1130498

さて、今日のこの項はなにも鳥インフルエンザについて書こうと思い立ったわけではありません。インフルエンザについては、これについて詳しく書こうとするとまた膨大な記述が必要なので、気が向いたらまとめて書く機会を別に持ちたいと思います。

なので、話を元に戻すと、そもそもはこの寒い時期からニワトリが卵を産み始める、といったことでした。

ニワトリがまだペットに近い感覚で庭先に飼われていた時代の感覚が季語となり、現在でも大寒のころの季節感として表現されるようになったものです。このように、その昔は品種を問わずニワトリを観賞用・ペットとして飼育する機会も現在よりも多かったようです。

しかし、現在はニワトリをペットとして飼うというのは、犬や猫ほどには流行っていません。その理由といえば、雄鶏は朝になると、「コケコッコー」と大きな声で鳴くので、密集した住宅地などでは近所迷惑になってしまいます。雌鳥は雄鶏のように時を告げることはほぼありませんが、産卵直後には「コッコ、コーコー」と鳴くこともあります。

このほか、ニワトリはどこにでもフンをするため、衛生上の問題があるということもあります。雄鶏も雌鶏もそのフンは、茶色いドロドロの盲腸便を排泄することもあって、これはかなりの悪臭を放し、手足や衣服に盲腸便が付着するとしばらく臭いがことがあります。

こうした理由がペットとしてもてはやされない理由だと思われます。しかし逆にその声が愛好されてきたものも古くから多く、長鳴鶏(ながなきとり)は、通常の鶏より、長く鳴くように品種改良された鶏です。20秒以上鳴くものもあり、土佐が原産の「東天紅」や東北の「声良鶏」、新潟の「唐丸」などが有名です。

このほかその容姿が愛されてきたニワトリもあり、チャボやオナガドリは、天然記念物、特別天然記念物にそれぞれ指定されています。また、烏骨鶏(うこっけい)も姿が美しいニワトリですが、最近では、その卵が希少価値があるとして高く取引されたりします。

その肉も栄養学的に優れた組成を持ちまた美味であるため、現在でも一般的な鶏肉と比較して高価格で取引されています。中国では霊鳥として扱われ、不老不死の食材と呼ばれた歴史があります。一般的なニワトリと比べても特異な外見的特徴から、現在でも愛玩用として家庭で飼育される事も多いようです。

烏骨鶏に関してはまた、コンテストなども開かれているようです。手入れ次第では鶏とは思えないほど非常に綺麗な毛並みとなるといい、日本でもファンは多いといいます。

さて、このように、食べるにせよ、観賞するにせよ、ニワトリは昔から人間のお友達としてごく身近な存在であり続けているわけですが、戦後すぐのころ、このニワトリを「兵器」として使おう、とする試みがあったということをご存知でしょうか。

「ブルーピーコック(Blue Peacock)」作戦といい、ピーコックとは英語でニワトリをこうよぶわけですが、つまりは「青いニワトリ作戦」ということになります。

この作戦は、なんとニワトリで爆弾を起動させようとするもので、開発しようとしていたのは、犬や猫などの動物愛好家の多いイギリスでした。

ドイツのライン川区域に多くの10キロトン地雷を置くことを目的としたもので、“Blue Peacock”は、1950年代の英国のプロジェクトの開発コード名です。

この地雷は、ソ連地上軍の侵攻を阻止するために開発され、大量破壊を引き起こすことにより、相当な期間にわたってソ連軍の占領を妨げることを目的に開発されました。

爆発により生じるクレーターは深さ180メートルにおよぶとされ、ブルーピーコックは有線通信による遠隔制御、あるいは、8日間の時限装置によって起爆されることになっていました。また、起爆が妨害された場合、10秒以内に爆発するように設計されていました。

このプロジェクトは1954年にイギリス南東部の「ケント」にあるホールステッド砦という軍事施設で開発が進められました。開発を行ったのは、イギリス陸軍の「軍備研究開発機構」という機関でした。

ところが、このブルーピーコックに使われる予定だったのは、ただの爆弾ではありませんでした。

高性能爆薬に囲まれたプルトニウムのコアを包む巨大な鋼製の球状ケーシングからなるもので、後世ではいわゆる「核爆弾」と呼ばれるようになったものです。大量破壊を引き起こすだけでなく、広範な地域での放射能汚染を引き起こすことにより、長期間のソ連軍の占領を妨げることを目的に開発されました。

その元となったのは、これ以前からイギリスが開発していた「ブルーダニューブ(Blue Danube)」という核爆弾で、これは、イギリスが開発した最初の核爆弾でした。“Blue Danube”は、「美しく青きドナウ」の意味であり、その美しい名とは裏腹に巨大な破壊力を持つ実用核兵器でした。

ただ、この爆弾ではブルーピーコックのように地雷として開発されたものではなく、そもそもイギリス空軍の「3Vボマー」という爆撃機に搭載され、敵地に落とされるよう計画されたものでした。

この当時、イギリスの軍戦略立案者は、イギリスもまたヒロシマ型原爆と同等の威力の原子爆弾の開発が可能であり、またこれを保有することによっていかなる戦争にも勝利することもできると考えていたようです。

とはいえ、開発当初のころのイギリスの技術水準はアメリカなどよりもかなり遅れており、このブルーダニューブは、非常に重く、まだそれを搭載できる航空機が存在しなかったためイギリス空軍のウィタリング基地というところに備蓄されていただけでした。

しかしその後小型化が進み、1954年には、ビッカース ヴァリアント爆撃機を装備する飛行小隊にこの爆弾が搭載され、実戦配備されました。

1958年までに、ブルーダニューブは全部で58発生産されたといいますが、その後より高性能で小さな核爆弾が開発されたため、1962年には引退し、お蔵入りになったようです。

2015-1130505

この「ブルーダニューブ」を元にして造られた「ブルーピーコック」もまた、開発された当時は巨大であり、重さ7トン以上もあったようです。その起爆にあたっては、ケントの郊外に砂利採掘場で試験が行われることになりました。起爆と言っても実際に核爆弾を爆発させるのではなく、起爆装置が動作するかどうかを確認するだけです。

ところが技術的な問題がひとつあり、それは、この爆弾がソビエトの侵攻を遅らせることを目的としているため、寒い地域への配備が予定されていたことです。このためこの試験が行われる予定だったのも冬季でした。ケントはイギリスの南部にあるといっても冬季の気温はかなり低く、零下になることもあります。

このため、地中に埋められた起爆装置も、数日経つと、温度が低すぎるために電子部品が正常に作動せず、起爆しなくなる可能性がありました。この問題に対処するべく様々な方法が検討され、断熱材で爆弾を包むことなども検討されました。

しかし断熱材だけでは十分な保温が得られない可能性が指摘されたことから、目をつけられたのが、なんとニワトリでした。生きている鳥を保温機構の一部にするというアイデアであり、このプランにおいてニワトリは餌と水を与えられ、地雷内のケーシング中に封入されます。

ニワトリはこの餌と水によって一週間程度は生きていることができるとされ、これは爆弾の予想最大寿命と同じでした。この当時の核爆弾は核分裂の制御において問題があり、早期爆発の危険性などもあり、一週間ぐらいなら大丈夫と考えられていたためです。

さらに研究を進めた結果、ニワトリが発する体温は電子部品などのコンポーネントを作動する温度を維持するのに最適だと考えられるようになり、イギリス陸軍は奇抜にもこの方法で起爆装置を作ることを決定しました。

そして、このころにはまだこの爆弾にはコードネームが与えられていませんでしたが、ニワトリを使う、ということから、これを「ブルーピーコック」と名付けたわけです。

その後、イギリス軍は、1957年7月に、野戦部隊が用いる原子力発電用設備であるという偽の名目で、このブルーピーコックをドイツに配備するために10発発注しました。

が、結局、国防省は1958にこのプロジェクトを中止しました。放射性降下物のリスク、および同盟国に核兵器を隠すという政治的側面におけるリスクが単に高すぎ、正当化できないと判断されたためでした。

この事実はその後も機密とされ、プロジェクトの関連文書は国立公文書館で極秘に保管され続けました。しかし、その後2004年になって、機密解除され、こうしてイギリス軍がかつて核兵器を持って東西冷戦を乗り切ろうとしていたことが公となりました。

ところが、この機密解除の日は、折悪く4月1日でした。

イギリスでは、4月1日のエイプリルフールの日には、大手の新聞紙までもがジョークを打つ、という国民性の国であり、このイギリスが実は核兵器を保有していた、しかもその根本装置にニワトリが使われていたという事実を人々は体の悪いジョークだと受け止めかねませんでした。

このため、その公表にあたっては、わざわざ国立公文書館が、本件はエイプリルフールの冗談ではない、と表明しなければならなくなる、という一場目もあったといいます。

その後、イギリスの核兵器機構(Atomic Weapon Establishment)という機関の元職員でデーヴィッド・ホーキングズという人物が、そのさらに詳しい内容を公表しました。

ホーキングは、2001年に同機関を退職しており、持ち出した政府の公開文書をもとに核兵器機構の科学技術誌「ディスカヴァリー(Discovery)」にブルーピーコックについてのより詳しい内容を示した論文を発表したのでした。

こうしてイギリスはかなり早い時期から核兵器を開発していたという事実が公然となりました。もっとも、イギリスは、1952年に、プルトニウム爆縮型の核爆発装置を、モンテベロ諸島と西オーストラリアの間の珊瑚礁で爆発させるという核実験を行っており、現在でも大量破壊兵器を保有する国として世界に知られています。

ただ、この時点ではまだ実験段階の爆弾を持っているにすぎず、アメリカなどに追いつくにはまだまだ時間がかかると思われていました。その実践配備がこの実験からわずか5年後に実現していたことはさらに世界を驚かせました。

こうしてこのブルーピーコックの存在が明らかになったあとは、その当時の研究資料などの公表も次第になされました。実際の爆弾も公開されるまでに至り、現在では、唯一残存するプロトタイプが、イギリスの核兵器機構の歴史コレクションとして展示されています。

無論、核装置はすべて取り除かれており、装置に「搭載」される予定だった哀れなニワトリ君もそこにその姿はありません。

が、人類の友である愛すべきニワトリすらも戦争兵器に使おうとしたあさはかさを考えると、あらためて呻吟たる思いが沸きあがってきます。

昨日も、日本人の人質をとって自分たちの意に他国を従わせようとするという大きな事件が勃発したばかりですが、いつの時代にもニワトリだろうが人間だろうが、生きているものでもなんでも自分の得手勝手のために利用しようという姿は変わらないのだな、と思う次第。

この人質もヒトでなく、せめてニワトリであったならば、とも思うのですが、なにせそれにしてもニワトリ君がかわいそうです。

さて、今晩も寒くなりそうですが、そうした夜のおかずは何にしようか、と考えたとき、ふっと頭をよぎったのが、やはり鍋です。しかも、悪いことにここまで書いてきて、妙に食べたくなったのは、最愛の友人であるはずの鶏です。

寒い夜には鍋をあたため、鶏肉や野菜とごった煮して、ポン酢でいただくのが一番。大寒の夜に体を温めるのには最良です。みなさんも今晩のメニューはこれでいかがでしょうか。

2015-1130558