ほねほね

2015-6210先日、BS-TBS放送の「THE 歴史列伝〜そして傑作が生まれた〜」という番組を見ていたら、その日のテーマ、登場人物は、アニメでおなじみの「一休さん」でした。

実在の人物で、本当の名前は、一休宗純(そうじゅん)といい、室町時代の臨済宗大徳寺派の僧です。

出生地は京都で、出自は後小松天皇の落胤とする説が有力視されています。母は藤原氏、南朝の高官の血筋であり、この当時の天皇、小松天皇の寵愛を受けました。が、のちに帝の命を狙っていると讒言されて宮中を追われ、民間人として暮らしているうちに、そこで一休を生んだといわれています。

6歳で京都の安国寺の像外集鑑(ぞうがいしゅうかん)という高僧の元に入門しました。この安国寺というのは、南北朝時代に足利尊氏らが北海道、沖縄を除く日本各地に設けた寺院のことで、今も各地に同名のお寺がたくさん残っています。

が、京都府内の山城(現中京区四条大宮)にあったとされる安国寺は既に廃寺になっており、同じ京都府内で残っているのは、丹波(現京都府綾部市)にある安国寺のみです。同じく足利将軍家による将軍家による創建とされており、このどちらに一休が入門したかは不明ですが、おそらくは前者の都の安国寺のほうだったでしょうか。

その晩年に至るまでに多くの書画や詩を残していますが、幼いころから既に詩才に優れていたといい、13歳~15歳の時に作った漢詩は、洛中の評判となり賞賛されたといいます。

この安国寺で受戒して僧侶になった一休は、その後応永17年(1410年)、17歳で安国寺を出て、今度は謙翁宗為(けんおうそうい)という坊さんの弟子となり、このとき戒名を宗純と改めました。一休はこの謙翁をかなり尊敬していたようで、人生の師と仰いでいたそうです。

その入門のきっかけは、このころ争乱や疫病で多くの人が亡くなっていたこの時代、鴨川のほとりで、一人の女をみかけたことでした。病で失った子供を抱えて呆然としているこの母親の前で、いつまでも手を合わせて経を唱えていた人こそがこの宗為和尚であり、これをたまたま目撃した一休はその光景に大きな衝撃を受けたと伝えられています。

しかし、一休の入門からわずか4年後にこの師匠は亡くなり、残された彼は途方に暮れ、これが原因で自殺未遂を起こしています。京都市内の川に身を投げようとし、ここで死ぬなら自分の運命もこれで終わり、しかしもし死ななかったらそれは天が我に何らかの使命を与えたのだろう、と覚悟した上での入水だったそうです。

ところが、この一休のお母さんは彼が成人するまで心配で心配でしかたがなかったようです。というのも、彼はいまは民間人に身をやつしているとはいえ、天皇家の御落胤ですから、万が一のことがあってはならない、というわけです。

元々天皇の妻であったわけで、自分の身の世話をする女性くらいは側にはべらせる程度の財力はあり、この女性にいつも一休のことを監視させていたそうです。

そしていざ一休が川へ飛び込もうとしたとき、この女中が後ろから抱きつき、止めようとしました。ところが勢い余って二人ともざぶんと川へ落ちるところとなり、水に落ちた一休は、何が何だかわからないまま振り返ると自分以外に水中でもがいている女がいることに気が付きます。

そうなるともう自分が身を投げたことも忘れ、この女性を助けねばとの使命感が沸いてきました。必死でこの女中の襟をひっつかんで陸へあげ、こうしてこの女性は助かりましたが、奇しくもこうして一休もまた命を取り留めたのでした。

そしてこのとき悟ります。自分はやはり死ななかった、生かされたのは、何等かの使命があるからだ……と。

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そして、このころから、一休は後世にも語り継がれるような、破天荒な生き方をするようになります。

その後洛内を転々としていたそうですが、あるとき琵琶湖南部の大津へ行脚へ出かけた際、京都の大徳寺の高僧、華叟宗曇(かそうそうどん)という人に出会います。前の師匠の謙翁宗為以上の人徳を感じとった一休は、すぐさまこの人の弟子となることを願い出、許されます。

そして、宗曇和尚のもとで修業を積み、ある日出された「洞山三頓の棒」という公案に対して見事な答えを出したことから「一休」の道号を授かります。

これはいわゆる禅問答というヤツで、禅寺では日々座禅を組み、ある悟りを開いたと感じたときに、禅師に乞い、こうした「公案」を与えてもらい、これに答えるといういわば「昇進試験」を受けるわけです。

洞山三頓の棒(どうざんさんとうのぼう)とは、唐の時代に、雲門禅師という高僧のところに何千kmも離れたとこるから、洞山という僧が参禅のため訪ねてきたことの故事に由来する公案です。

そこで、雲門禅師は洞山に、どこから来たのか何をしていたのか、と二度質問を重ねますが、雲門禅師はその答えに満足しなかったため、「お前に三頓(60回)の棒叩きを与える」
といいました。このように、何と答え、と質問されて答えられない場合、坐禅をし、時には何年も考え続けるわけです。

このときと同じ公案を一休も受けたわけですが、その答えは、「有ろじより 無ろじへ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」というものでした。

「有ろじ(有漏路)」とは迷い(煩悩)の世界、「無ろじ(無漏路)」とは悟り(仏)の世界を指します。煩悩の世界から仏の世界に行くにあたっては、歩いていようが休んでいようが、雨が降ればそれでよし、風がふいてもそれでもよし、といった自失の心境を表現したものかと思われます。

凡人の私にはこの意味はよくわかりませんが、このブログを読んでおられる聡明な方々の中にはお分かりになる方もいるに違いありません。とまれ、この公案に満足した宗曇和尚は彼に「一休」という道号を与えました。そしてさらにそれから10年の歳月が過ぎ、この間一休は師匠と二人でつましい生活を送りつつ、修業に励みました。

ところが27歳になったある夜のこと、カラスの鳴き声を聞いてふとんからガバと起きた一休は、俄かに大悟します。さっそく、宗曇和尚を起こし、その悟りについて話をしたところ、師匠は驚き、一休に印可状を与えよう、と申し出ます。

ところが、一休はこの申し出を辞退したばかりでなく、その印可状を破り捨てた上に、こんな書き物にとらわれているとはなんという馬鹿者だ、とこれまで自分を育ててきてくれた師匠を笑い飛ばしたといいます。

以後はこの師匠の元を離れ、都でひとり托鉢をしながら、以後、死ぬまで詩、狂歌、書画と風狂の生活を送るようになったといわれており、自由奔放で、奇行の多い残りの人生を送ったと伝えられています。

例えば、上述の師匠との別れのときもそうですが、以後は印可の類の証明書や由来ある文書は、ことごとく火中に投じたといいます。

また、仏前にある身でありながら、男色はもとより仏教の菩薩戒で禁じられていた飲酒・肉食や女犯を行い、しかも妾までいたといいます。盲目だったといい、名は「森侍者(しんじしゃ)」だったいう記録もあります。さらにはこの妾との間に岐翁紹禎という実子の弟子まで設けていたといいます。

木製の刀身の朱鞘の大太刀を差すなど、風変わりな格好をして街を歩きまわったという話も残っており、これは「鞘に納めていれば豪壮に見えるが、抜いてみれば木刀でしかない」ということで、外面を飾ることにしか興味のない当時の世相を批判したものであったとされます。

さらには、親交のあった本願寺門主蓮如の留守中に居室に上がりこみ、蓮如の持念仏の阿弥陀如来像を枕に昼寝をしたという話も残っています。この時に帰宅した蓮如は「俺の商売道具に何をする」と言ったそうで、これを聞いた一休は吹き出し、蓮如と二人で大笑いしたといいます。

こうした一見奇抜な言動は、一見破天荒に見えます。が、現代ではこうした行動を通して当時の仏教の権威や形骸化を批判・風刺し仏教の伝統化や風化に警鐘を鳴らしていたと解釈されています。より具体的には、一休はこの当時の将軍である足利義政とその妻日野富子の幕政を強く批判していたことも知られています。

この戒律や形式にとらわれない人間臭い生き方は民衆の共感を呼び、多くの人に愛されました。そしてのちの江戸時代には、彼をモデルとして「一休咄」が乱されましたが、これはさらにのちには、「頓知咄(とんちばなし)」として全国に広まりました。

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それほどまでに人気があった一方では、かつての天皇の御落胤である、という噂もまた事実として人々にも信じられていたようです。

正長元年(1428年)に、称光天皇が男子を残さず崩御した際、伏見宮家より後花園天皇という人が迎えられて即位しましたが、この即位はこのとき35歳だった一休の推挙があったために実現したのだ、という話も伝わっています。

一休がその晩年、70歳を過ぎたころの室町時代の応仁元年(1467年)には、応仁の乱が発生しました。8代将軍足利義政の継嗣争い等複数の要因によって発生したこの内乱は10年以上にわたって継続し、九州など一部の地方を除く全国に拡大しましたが、乱の影響で幕府や守護大名の衰退が加速化し、戦国時代に突入するきっかけとなりました。

十数年にわたる戦乱によって、主要な戦場となった京都は灰燼と化し、ほぼ全域が壊滅的な被害を受けて荒廃しました。が、そんな最中の文明6年(1474年)、一休は後土御門天皇の勅命により京都の「大徳寺」の住持(住職)に任ぜられました。

ところが、住職に任ぜられたとはいえ、この大徳寺もまた戦乱によって焼失していました。後土御門天皇は、この当時最も人気のあった一休ならば、他の宮家などにも働きかけ、この寺の再建を果たすだろう、と期待したわけです。

しかし、公私ともどもを自分の人生から棄却して生きてきた彼は、勅命とはいえこの新たな煩悩を受けいれるか否かを非常に悩んだようです。とはいえ、この寺の再建こそが、荒廃した京にあって人々の心の拠り所にある、と考え直し、ついにはこれを受け入れました。

問題はその資金であり、これをどう捻出するかです。このとき一休は悩みに悩んだ末、このころ乱によって荒廃していた京から遠く離れた堺の湊へ向かい、ここの商人たちに資金の提供を依頼します。

応仁の乱により、それまで栄えていた兵庫湊に代わり堺は日明貿易の中継地として更なる賑わいをみせ始めていました。琉球貿易・南蛮貿易の拠点として国内外より多くの商人が集まる国際貿易都市としての性格を帯び始めており、ここの商人たちは豊かでした。

イエズス会の宣教師ルイス・フロイスも、その著書「日本史」のなかで堺を「東洋のベニス」と記しているほどです。これはこの時よりもさらに後年の話ですが、それほどのにぎわいを獲得する前の景気をこのころの堺は既に獲得していました。

この堺の商人たちの寄付への同意はセンセーショナルに京の町にも伝えられ、時には眉をひそめるような奇矯な行動をする人物として認識されてはいたものの、人気のあった一休の元には、貧しい人々からの寄付も集まるようになりました。

こうして、大徳寺は再建され、荒廃した京の町のシンボルのような存在になりました。その後も豊臣秀吉や諸大名の帰依を受け、江戸時代以降も寺運は栄え今日に至っています。

ところが、一休はこの寺の住職でありながら、ここには住まず、「真珠庵」という小さ塔頭(たっちゅう)を建てて、その後の一生をここで過ごしました。

この「真珠庵」という名の由来ですが、日本臨済宗の祖の一人となった楊岐方会(ようぎほうえ)が雪の夜に楊岐山の破れ寺で座禅をしていた時に風が舞い、部屋の中へ雪が降り込んできたという故事にちなんでいます。その時、床に積もった雪が月に照らされて真珠のように輝いたといい、これもって真珠庵の名を一休が名付けたものでした。

後に「一休寺」とも呼ばれるようになったこの寺は現存し、京都府京都市北区紫野にあります。小さいといっても、大徳寺よりも小さいという意味であり、同じく堺の豪商の寄進によって建てられたものですから、それなりの規模もあり、その後も増築がされているため、現在ではかなり立派なお寺です。

現在に至るまでも天皇家も親しく接せられてきたといわれており、そのためもあってか特別公開時を除き、通常は非公開になっています。

一休はここで88歳まで生きました。死因はマラリアだったといわれています。その昔は、瘧(おこり)と称される疫病で、原虫感染症です。その墓は、酬恩庵というお寺に作られ、「慈揚塔」と呼ばれています。さすがに天皇家の御落胤であり、この寺は昔から皇室によって保護されてきており、現在も宮内庁が御廟所として管理しています。

「陵墓」とみなされるものであり、このため一般の立ち入りや参拝はできません。彼が生きた時代にあれだけ庶民に愛された人のお墓を現在では見ることもできない、というのは少々寂しい気がします。

冒頭でも書いたように、一休は書画や詩などに達者だったそうで、「狂雲集」「続狂雲集」「自戒集」といった詩集が残されているほか、後世の茶人の間ではその墨蹟が極めて珍重されました。

「骸骨」の絵をあしらった書画が数多く残っており、このモチーフが大好きだったようです。生前、杖の頭にドクロをしつらえたものを突いて歩きながら、「ご用心、ご用心」と叫びながら練り歩いたという逸話も残っています。

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この骸骨とは、髑髏(どくろ)ともいい、俗にされこうべ、しゃれこうべ、ともいわれるものですが、言うまでもなく、白骨化したヒトの頭部の頭蓋骨です。「されこうべ」(しゃれこうべ)は「さらされた(晒された)頭(こうべ)」の意味で、ようするに処刑されたのちに見せしめのために晒された首が白骨化したものです。

このため、一般には死の象徴とされ、欧米では「海賊旗」にもよく使われました。海賊が船や港を襲撃する時は常に「海賊旗」を掲げる必要があり、これはすなわち「襲撃するぞ」という意思表示のために用いられていたものです。相手に降伏を求め、「然らずんば、汝の運命かくの如し」、つまり逆らえば殺されてこうした骨に化すのだぞ、という脅しでした。

襲われた船は、抵抗する術がない場合降伏の印に白旗を掲げ拿捕されますが、こういった無抵抗の降伏の場合、海賊は船や乗組員には危害を与えることなく、ただ略奪を行って去っていったといいます。

しかし降伏がなされない時は海賊旗は降ろされ「赤旗」を掲げ容赦ない攻撃を加えました。一方では、政府の軍艦は「海賊旗」を掲げる船に遭遇した場合、その船は「海賊船である」と了解され、警告することなく攻撃、撃沈することが出来ました。

現在でも、日本では、海上保安庁や水上警察のテロ取締訓練において、「テロリスト」役の船にはこの海賊旗を掲げさせるといいます。このほか、ブラジルの特殊警察作戦大隊のように、警察や軍組織が紋章として利用している例もあります。

その昔、ナチス・ドイツの親衛隊、武装親衛隊等の紋章や徽章として使われたものは、交差した骨の上に頭蓋骨を置いたデザインで、一般には、「トーテンコップ」として知られています。骨が頭蓋骨の後ろに置かれて下顎骨がないというのが海賊旗のデザインと異なっている点です。

このように、この髑髏は一般的に死の象徴として知られ、死神を連想されることも多いシンボルであるがゆえに軍隊などで多用されてきたデザインですが、しかし同時に不死、人の未熟さに対する神の永遠性などを指すこともあります。

ヨーロッパでこれを最初にシンボルとしたプロイセン王国では、王であるフリードリヒ2世が、自分の騎兵たちが永遠に生き続けるようにと願い、その徽章として髑髏をあしらったことが、そもそも髑髏が使われるようになった走りといわれています。

同様な意味では、スカル・アンド・ボーンズのような秘密結社においても、髑髏は永遠の象徴であり、社会的な成功を意味するものだ、としてそのシンボルに選ばれたといわれています。

スカル・アンド・ボーンズ(Skull and Bones)というのは、通称、S&Bとして知られる結社で、その本部はアメリカのイェール大学にあります。「The Brotherhood of Death(死の義兄弟)」の異名もあり、組織内容は秘密厳守ですが、会員名簿は公開されています。

ウィリアム・ハンティントン・ラッセルと、従兄弟のサミュエル・ラッセルという二人の人物が1832年に設立したもので、そもそもは商社として発足したものだったようですが、その後構成員同士が協力し合いアメリカで経済的・社会的に成功することを目的とした結社に発展しました。

2004年秋のアメリカ合衆国大統領選挙の2人の候補者である、ジョン・ケリーとジョージ・W・ブッシュが2人ともS&B出身だったことはよく知られており、また、第43代アメリカ合衆国大統領のジョージ・W・ブッシュの父である第41合衆国大統領のジョージ・H・W・ブッシュや、祖父のプレスコット・ブッシュもS&Bのメンバーでした。

プレスコット・ブッシュはユニオン銀行の頭取と社長として知られる人物であり、ヒトラーの資金援助者だったドイツの鉄鋼石炭王フリッツ・ティッセンとも深い関係を築いていたといい、何やらきな臭い臭いがします。

また、きな臭いといえば、歴代のCIA長官はS&Bのメンバーボーンズマンが務めており、その他、金融、石油といった産業界の中枢だけでなく、国防総省、国務省などの政府機関にも数多くのメンバーが存在しています。

そうした結社のシンボルが髑髏というのは、自分たちの組織を永遠に保たせるためこれ選んだのだ、といわれれば理解できないこともありません。が、やはり髑髏というのは死を連想させ、軍隊の精鋭部隊の紋章などに使われるほかにも、現代では一般には危険物ないし毒薬の標識として用いられることが多くなっています。

この髑髏=危険物、という表示は、1829年に、米国ニューヨーク州において有害物質容器のすべてにこの標識を取り付けるように義務付けられるようになったのが初めてといわれています。以来、世界中で用いられるようになり、現在様々なデザインが存在します。

おそらくは放射能汚染の恐れのある場合に使うマークと同じく、世界で一番危険なモノ、という印象を抱かせ、近づかないようにさせる意図があるわけです。それほどこの骸骨というのは昔から忌み嫌われてきたわけで、どうしてもマイナスイメージが伴います。

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とはいえ、誰もが死んだら、その肉体は滅び、いわゆる「白骨」と呼ばれるものになるわけであり、死したのちに残されたそれには魂は宿っておらず、ただのカルシウム、という考え方もあります。

より物理的な視点からだけみれば、白骨化とは、硬い骨を持つ脊椎動物の死体が長期間放置され、腐食や風化をした結果、皮膚や筋肉、内臓などの組織の大半が抜け落ち、ほとんど骨格だけが残された状態のことです。

海などの塩分濃度の高い水の中では白骨化が急速に進みます。が、通常の場合、死体が白骨化するまでにかかる時間は、ヒトの場合、腐肉食動物による死体の損壊や周囲の環境にも強く影響されるが、地上に放置されていた場合、夏場では1週間~10日、冬場では数ヶ月以上かかるといいます。

また乾いた土中に埋められていた場合、大人で7 ~8年、水中では夏場で2週間、冬場では1ヶ月で頭蓋骨の一部が露出します。

意図的に骨格標本を作るためには、炭酸ナトリウム1%の水溶液につけて沸騰させないように煮込むと比較的短時間で白骨化させることができるといい、骨を傷めることなく、骨の中にある油や雑菌を取り除くことができるため、保存性が良くなります。そのほかの方法ではどうしても骨が傷むため、骨格標本には向かないことが多いそうです。

「標本」というぐらいですから、骨格のかなりの部分が残っている場合は、骨格の様々な特徴から性別や年齢を判別することもできます。男性の骨は凹凸が多く、女性よりも筋力があるため、女性の骨よりも長く、厚いという特徴があります。性別の判定には、性別判定式という数式から求めた値が限界値を超えた場合は男性と判断できます。

また、骨折が治癒した箇所は独特の隆起が見られるため個人を特定する手がかりとなります。このほか、外科手術で骨髄内釘、骨螺子、骨接合プレートなどの治療器具を骨に取り付けられる場合は、その後の治癒のため、元々のその人の骨格が特に重要になるそうです。

さらに、何等かの事件や事故に巻き込まれた場合でその身元が特定できない場合などには、古くから歯型や虫歯の治療痕などが手がかりにされてきました。歯牙から個人を特定する方法を研究する「法歯学」と呼ぶ学問もあります。

近年ではDNA型鑑定も行われるようになり、骨からでもDNAを採取することもできるといい、ここから身元特定につながるケースもあるようです。

ただし、日本ではDNAのデータベースそのものが少ないため、DNAだけで個人を特定することは極めて困難です。このため主に親族のDNAと照合するという手段がとられますが、遺体の人物の身元にまったく手がかりがない場合、誰のDNAと照合すればいいのかもわからないため、DNA型鑑定が必ずしも身元特定の決定打とはならないといいます。

このように「白骨」にはひとつとして同じものはなく、その微妙な差異そのものが、それまでその人が生きてきた証しともいえるものです。日本では死した後もその骨が大事に祀られ、墓に入れられたのちは、人々はこれに盆暮れお参りし、ときにはその一部を持ち帰って大事にお守りとしたりもします。

こうした風習は日本だけではなく、世界的にも当たり前といった感覚であり、遺骨は貴いもの、とするのが一般的です。

ところが、これをあくまでも標本とみなし、その収集を日常とする趣味の悪い学者がその昔いました。「ジョン・ハンター」といい、イギリスの解剖学者、外科医でした。一方では「実験医学の父」「近代外科学の開祖」と呼ばれ、近代医学の発展に貢献したことでも知られています。

種痘で有名なエドワード・ジェンナーとは師弟関係にあったといい、解剖教室のための死体調達という裏の顔を持ち、ロンドン中心部の有名な繁華街レスター・スクウェアにあるその自宅は「ジキル博士とハイド氏」のモデルになったといいます。

ロバート・ルイス・スティーヴンソンの代表的な小説の1つで、1885年に執筆され、世界的に有名になりました。二重人格を題材にした代表的な小説であり、現在でも二重人格の代名詞として、「ジキルとハイド」という語が使われる事もあります。

そのモデルとなったのは、18世紀半ばのエジンバラの市議会議員で、石工ギルドの組合長をしていたウィリアム・ブロディーという人物です。ブロディーは昼間は実業家でしたが、夜間は盗賊として18年間に数十件の盗みを働いていました。

ところが、その正体を見破られそうになったため、あろうことか捜査を行っていたスコットランド税務局本部の襲撃しようとしてその計画が露見して捕まり、1788年に処刑されました。

そうした人物がモデルとなった小説に登場する家として彼の家が選ばれた、ということはすなわち、書き手のスティーヴンソンもまた、このジョン・ハンターにあまりいい印象を持っていなかったのでしょう。世間的にもこの時代にはかなり変人視されていたことが推測できます。

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スコットランドのグラスゴー郊外の農村に生まれ、ロンドンで医師・解剖学者として成功を収めていた10歳年長の次兄ウィリアム・ハンターの元で助手として働くようになりました。兄ウィリアムが開いていた解剖講座に使用する新鮮な死体を集めるため、調達に伴う裏の部分を一手に引き受けます。

やがて解剖講座の助手も務めるようになり、講義の弁は兄より劣っていましたが、持ち前の手先の器用さで標本作成や解剖の実践では兄を凌駕するようになります。

33歳のとき、兄の元を離れ、七年戦争に外科医として従軍。帰国後、歯科医ジェームズ・スペンスと協業し歯の治療と研究に従事し、成果を有名なオランダの画家による挿絵つきの論文「ヒト歯の博物学および歯疾患の報告」として発表しました。これにより医学界で知名度を上げるようになります。

40歳のとき、兄の影響力もあって聖ジョージ病院の常勤外科医となり、4年後には自宅に解剖講座を開きました。医師としてのジョン・ハンターは内科医による瀉血や浣腸、水銀治療といった旧弊な治療を否定し、外科医としても安易に手術を行うことに慎重であり、症例によっては自然治癒に任せたといいます。

教師としては、観察し、比較し、推論することを学生に要求しました。ハンターは当時の医学界では異端とみなされていたようですが、この聖ジョージ病院での臨床による評判と彼の解剖講座に押し寄せた多くの弟子が彼の名を世界に広げる役割を果たしました。

人体のみならず、多数の動物実験や動物標本の作成を行い、解剖学と博物学の分野で評価されており、聖ジョージ病院の職員なる前年の39歳のときには、王立協会の会員にも抜擢されています。

ところが、彼には「骨格標本の収集家」としての側面があり、世界中から一万四千点もの標本を集めたことでも人々の耳目を集めました。中には、非合法な手段を問わず集めた物も多く、珍獣どころか特徴的な人間を見つけると葬儀業者に金をつかませて死体を手に入れたといいます

チャールズ・バーンという身長が249センチにもなる巨人症の人物を標本にするためにいつ死ぬか人を雇って見張らせていたという逸話もあります。

この人は「アイルランドの巨人」という別名でも知られていた人です。彼の正確な身長は推測の域を出ませんが、大多数の記述が8フィート2インチ(2.48m)から8フィート4インチ(2.54m)の身長であったと言及しています。

21歳のとき故郷のアイルランドを離れ、ロンドンでへコックスズ・ミュージアムという見世物小屋に職を見つけました。そしてこの小屋で彼はすぐさま街の人気者となりました。しかし、どんな珍しいものも日々目にしていると誰しもが飽きるものであり、やがてロンドン市民の興味が他に移ると、彼の富と名声はすぐに去っていきました。

やがては過度の飲酒を行うようになり、当時の新聞によると、ポケットに全財産の700ポンドをいれ、飲み歩いていたといいます。悲嘆にくれた彼は酒で悲しみを紛らわそうとしていたようで、1783年6月、22歳の若さでロンドン市内の安アパートで死にました。

ところが、ジョン・ハンターは、このチャールズ・バーンの世にも珍しい「骨格」にその生前から目をつけていました。バーン自身もその生前、ハンターから見張られていることに気づき、万一自分が死んだら彼の標本にされないように棺桶に重りをつけて海に沈めてくれと友人たちに遺言していたほどでした。

しかし、ジョン・ハンターはバーンが死ぬと、葬儀業者が遺体を海に沈めるために彼を運んでいる途中に賄賂を渡して遺体を盗み出すという暴挙に出ました。バーンの希望に反して、彼の亡骸は500ポンドでジョン・ハンターが入手したのでした。

ジョン・ハンターは喜々とし、さっそく盗み出した遺体をチャールズ・バーンのために用意していた特大の鍋で煮込んで骨格標本に加工したといいます。

その彼の遺骨は、7フィート7インチ(2.31m)の骨格標本として、現在もロンドンにある王立外科医師会のハンテリアン博物館に現在も収蔵されています。しかし、実は彼の標本を欲しがっていたのはハンターだけではなかったようです。

彼の死についてある雑誌の伝えるところによれば、「ロンドン中の外科医が貧しい死んだアイルランド人を要求して、さながら漁師が巨大な鯨を狙うようにバーンのアパートの周りを取り囲んだ」とされています。この当時の多くの外科医がバーンの骨格標本を手に入れさえすれば新しい研究テーマが手に入る、と考えていたのでしょう。

とはいえ、このハンターの行為は、当時の法律に照らしても犯罪であり、明らかに異常です。コレクションのためなら手段を選ばない人物だったようで、レスター・スクエアの家には表通りと裏通りに面した入り口があり、表は妻の社交界の友人や患者が出入りし、裏は解剖教室の学生の出入りや死体の搬入出のための玄関にするという念の入れようでした。

そうした奇怪な屋敷の作りもまた、小説ジキル&ハイドのモデルにピッタリであり、また彼自身の名も何やら猟奇的な臭いがします。「ハンター」には「狩人」という意味もあり、これから根っからの骨収集家、「ボーン・ハンター」が連想できるからです。

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しかし、ジョン・ハンター自身も1793年10月16日に狭心症で死亡しました。遺言に従って彼の遺体は弟子や学生の前で検死解剖が行われましたが、その後セント・マーティンズ教会の地下納骨堂に安置され、1879年ウェストミンスター寺院に改葬されました。

彼が生前収集したコレクションは現在も、王立外科医師会のハンテリアン博物館として現存しています。が、彼自身の骨格標本は作られることはなく、その遺骨もまた、ここには入っていません。

過去の模型の造形が困難だった時代には、彼が行っていたような行為は犯罪とはいえ、医療行為の一環としては大っぴらに認められていたようです。また、インドや中国から骨が移出されたり、献体を使った標本があたりまえのように製作されていました。

しかし、21世紀の現在においてこれら本物の骨格標本が一般に展示されているケースは稀です。その後人体模型を作る技術も進み、このため現代では販売されている人体の骨格標本は、倫理上や衛生上の問題からも模型であることがほとんどです。

本物の人骨が売買されることは現在ではないわけです。しかし、売買の対象であろうが、信仰の対象であろうが、人が死んで残った骨は所詮はカルシウムです。死んだらそこに魂は宿っていない、と私は考えています。

一休禅師もまた、そうしたことに気付いていたようであり、死すればただの物体に変わる人の一生というものの無常をいつも考えていたようです。

であるからこそ、骸骨は骸骨にすぎない、とその絵を描いて笑い飛ばし、生きているうちが花だとばかりに、杖にドクロの形をあしらえてそれを突いて歩きながら、「ご用心、ご用心」と叫びながら練り歩いたのでしょう。

生前、たくさんの川柳を残していますが、その中には自らが帰依した仏教そのものや、死そのものを笑い飛ばしているものもあります。例えば、

「南無釈迦じゃ 娑婆じゃ地獄じゃ 苦じゃ楽じゃ どうじゃこうじゃと いうが愚かじゃ」

「親死に 子死に 孫死に」

「釈迦といふ いたづらものが世にいでて おほくの人をまよはすかな」

こういうのもあります。

「世の中は起きて稼いで寝て食って後は死ぬを待つばかりなり」

今晩食ったあと明日の朝、私は起きることができるでしょうか。起きていなくてもそれはそれ、残るその肉体は、いずれこの世においては骨というカルシウムになるだけ、です。

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