言霊のこと

2015-0567先日来、各種メディアではつんくさんが声帯を摘出して声を失ったという話でもちきりです。

ファンだけでなく、その名を知らなかった人たちも驚きとともに、切ない思いに駆られたと思いますが、私も同じです。

しかし、自分が一番大事にしてきたものを犠牲にしても、ともかく生きる、という選択をとられたことについては、誰もがエールを送っているかと思います。

それにしても声を失う、ということはいったいどういうことなのか。改めてこの「声帯」というものについて調べてみました。

すると、声というものは、まず、肺から押し出される空気が声道を通過することによって生み出される、ということがわかりました。声道というのは、人間を含めた哺乳類の場合、喉頭と咽頭、つまり我々が「のど」と認識している部分に加え、口の中の空洞と鼻の穴を合わせたものの総称です

このうちの咽頭、これは食べ物が通る食道とつながっている部分ですが、この咽頭の前にある部分が喉頭で、肺とつながっている管です。この喉頭の部分には、粘膜で覆われ内部に筋組織を持つ両側に存在する1対のひだがあります。これが、声帯です。

この声帯は、普段は開いていますが、肺から空気を押し出して空気を出す時、無意識に閉まったり、開いたりします。これにより、通過する空気が振動し、音になります。ただ、この時点では声と認識できるものではなく、このあと、口腔と鼻腔がこの震動をさらに変化させ、共鳴音を作り出します。

そして、口や鼻の外から外へ放射されるのが、「声」です。

今回のつんくさんの病気は、この声帯の部分に癌ができたことにより、その切除手術を行い、他への転移を防ぐ、というものだったようです。過度の物理的刺激、例えば大声を張り上げ続ける、歌い続ける、といったことにより、声帯にポリープができることはよくあるようで、通常は声帯への負荷を避けることにより自然治癒するようです。

が、何等かの要因である一線を超えると癌になるようで、その要因もいろいろあるようですが、飲酒や喫煙、精神的なストレスといったものがあげられているようです。つんくさんの場合が何だったのかは明らかにされていないようで、よくわかりませんが。

とまれ、なかなか治りにくい病気です。「声帯癌」という呼称は一般的ではなく、もっぱら「喉頭がん」と呼ばれるようです。これまでも芸能人や有名人で亡くなった人はたくさんおり、例えば同じくミュージシャンの忌野清志郎さんもこの病気でした。このほか立川談志さん、池田勇人元首相なども喉頭がんで亡くなられました。

それにしても、声帯を切除するということは普通にしゃべれなくなるということであり、その決断にはさぞかし勇気がいったことでしょう。が、声帯を取らなければ他への転移も考えられるわけであり、苦渋の選択としても本当に辛いことだったでしょう。

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私自身も仮に声をなくすとしたら、やはりそれは人生の一大事に違いありません。そこで、改めて、この声を失う、ということの意味を考えてみました。

まず考えられる物理的な意味は、文字通り、「言葉を失う」ということです。言葉というものは、話す・書くことによって、心、気持ち・思い・考え等を表すための手段です。

人は言葉によって認識を共有する事が容易となります。太古の時代より、人間はそれぞれの民族毎に意味を持った言葉を作り出してきましたが、言語の形成は、さらに人間に「思考」というものを与えました。

考える、ということを言葉を使って行うようになったわけです。これにより意志・感情を言葉で表現することによって複雑な心理を明確にすることができるようになり、そして、このことによって自己理解もまた深まり、知能を発達させたと考えられています。

この、言葉というものがまだ無い時代の原始時代の人は、その意思伝達を行うために、ただ、あーとかうーとか、動物と同じように唸るだけで相手の注意を喚起していたようです。しかし、それだけでは伝えられないことも増え、次第にこれに加えてボディーランゲージや絵文字等を指し示す、といった行為も行われるようになりました。

こうした行為は、日常の生活の中では、だいたい同じパターンになります。社会生活の中で、同じボディランゲージや絵文字を指し示す、といったことが何度も繰り返されるうちには、一定の規則性が生じます。そしてあるとき、これを発声行為に置き換えればいいんだ、と気づきます。

やがてはただのあー、うーだったのが、がぁ~とか、うぅーも加わって、そのバリエーションも増えて規則性のある言葉が増えます。それと絵文字等が合致し、絵文字を指し示すと、それに関する音を口から出す、といったことで言語が生まれたと考えられており、これがやがて時代を経てさらに高度な言葉の文化になっていきました。

従って、声帯を失い、その言葉を口から出す、という行為ができなくなる、ということは、いわばその文化を生み出すための原動力、能力の一つを失った、ということになります。しかし、声は失われたかもしれませんが、まだ書くことで意思を伝えることがでるわけで、意思伝達方法のすべてを失ったわけではありません。

相手に何らかの方法で意思を伝えることができ、それを言語と呼ぶのなら、口がきけなくなっても言語を失ったとはいえないわけです。目は口ほどに物を言う、とも言うように、目による意志疎通もでき、ボディランゲージで自分の考えていることも伝えられます。無論、手話も言語のひとつといえるでしょう。

また、現在では、言語に代わり、科学的な方法で自分の意思を伝える方法はたくさんあります。音声合成などがそれで、これについては後述しますが、従って自分の声を失ったからといって意思伝達の方法がまったく失われたわけではありません。

しかし、声を失うということでもうひとつ大きな喪失があります。それは、歌うことです。歌、唄とは、声によって音楽的な音を生み出す行為のことであり、リズムや節をつけて歌詞などを連続発声するという行為は、娯楽とも考えられますが、より洗練されたものは「芸術」といわれるものになります。

「歌う」ことは、「感情を表現とすること」を最大の目的としており、その点で、事件や事象を聴く人にわかりやすく伝達することだけを目的とした言葉を「語る」こととは大きく異なります。極論すれば、歌詞などもまったくめちゃくちゃの意味不明でもよいわけで、この点が単に「言語を話す」ということと違います。

鳥もまた、「うたう」というぐらいで、彼等は言語なんか知りません。歌詞などなくても、歌えるわけです。そういう意味では、そうした自分らしさを表現をする重要な手段を失ったということの喪失感は大きいでしょう。

とくにつんくさんのように人気歌手だった方が自分のアイデンティティを示す最大の手段を失うということは、相当に大きなダメージだったに違いありません。

しかし、ハミングなど、歌詞をともなわない歌唱方法もないわけではありません。つんくさんもハミングができるのではないでしょうか。

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結論からいうとこれは難しそうです。ハミングというのは、鼻音唱法とも母音唱法ともいい、いわゆる鼻歌です。言葉の明瞭さはないものの、実はこれも声帯の振動によって音を出しています。

普通の人はハミングしている状態で甲状軟骨を優しく触診すれば声帯振動を指に感じることができます。つまり、ハミングは声帯を使って音を出していることがわかります。

声帯をなくした人が訓練を積み、食道などの部分を使ってこれを共鳴させ、共振による音造りをする、ということは聞いたことがあり、ある程度は可能なようです。しかし、これはかなりの厳しい鍛錬が必要になるといい、また、仮にハミングができるようになったとしても、普通とはかなり違う音になるようです。

従って、つんくさんも普通のやり方で健常者と同じ程度に歌うことができるようになるかというと、それ相応の努力が必要になる、といえるでしょう。

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とまれ、もう少し、この「歌う」ということの意味を考えてみましょう。

「うた・歌う」の語源は、「うった(訴)ふ」だそうです。これからもわかるように、歌うという行為には相手に訴えたい内容、すなわち何等かの「歌詞」の存在を前提としています。また、この歌詞は「うた」が語源です。

このうたとは、古代では「言霊」と考えられており、言葉そのものが何等かの霊力を持っていると考えられていました。これを発することによって相手の魂に対し激しく強い揺さぶりを与えることができます。つまり、相手を「打つ」わけで、この打つが、「打た」、に変わり、「うた」になっていったという説があります。

この言霊は、ことだま、とよみますが、清音では「ことたま」とも発音します。仮名文字(平仮名、片仮名)を母音に基づき縦に五字、子音に基づき横に十字ずつ並べたものを「五十音」といいますが、古代の日本では、この言葉ひとつひとつによって森羅万象が成り立っているという考え方があり、これを「コトタマの法則」といいます。

古代では、声に出した言葉が、現実の事象に対して何らかの影響を与えると信じられており、この五十音を使って良い言葉を発すると良い事が起こり、不吉な言葉を発すると凶事が起こるとされました。このため、何等かの行事で祝詞を奏上する時には絶対に誤読がないように注意されたといいます。

今日にも残る結婚式などでの行事でもこのコトタマの法則の名残はあり、例えば「忌み言葉」というのがあります。サル、キル、カエルなどがそれであり、これは「去る」「切る」「帰る」などであり、こうしたおめでたい席では使ってはいけないことばです。これも言霊の思想に基づくものです。

また、その昔の日本人は、この日本という国は言魂の力によって幸せがもたらされると信じ、そうした国を「言霊の幸ふ国(さきわうくに)」としました。言霊があふれて幸せな国、という意味になります。また、この「幸ふ」は「万葉集」などでは、「佑ふ」と表現されており、大和の国(日本)は、「事靈の佑(さき)はふ國」などの表現がなされています。

この「佑」という漢字は「助ける」という意味があり、つまり、言霊によって助けられている国、ということになります。ちなみに、この例からもわかるように、この時代には「言」と「事」が同一の概念でした。漢字が導入された当初も言と事は区別せずに用いられており、例えば古事記では「事代主神」が「言代主神」と書かれている箇所があります。

なので、これは正しいのかどうかはわかりませんが、「事件」という現代用語は「言件」とも書けるわけであり、これは言霊によって起こされた出来事、ということになります。言い争いなどによって起きた結果、というほどの意味になり、事件の本質を表しています。

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さらには、自分の意志をはっきりと声に出して言うことを「言挙げ」と言い、それが自分の「慢心」に基づいて発せられたものであった場合には悪い結果がもたらされると信じられていました。

例えば「古事記」において倭建命(ヤマトタケルノミコト)が伊吹山に登ったとき山の神の化身に出会った際、「これは神の使いだから帰りに退治しよう」と「言挙げ」しました。しかし、この言霊は彼が、自分は強いんだぞ、という慢心によるものであったため、命は神の祟りに遭い亡くなってしまった、とされます。

このように、言霊思想というのは、それを発する人間の心の持ちようによっては良いものにもなり、悪いものにもなるという、心のありようを指し示す物差しと考えられたわけで、さらには、万物にもその言霊によって神が宿る、と考えられていました。

日本だけでなく、他の文化圏でも、こうした言霊と共通する思想は見られます。旧約聖書や新約聖書でも、「言霊」に相当すると考えられることばがあるそうで、これを「プネウマ」と呼んでいました。これは「吹く」という意味の動詞を語源とし、息、大いなるものの息、といった意味です。

聖書には、「風はいずこより来たりいずこに行くかを知らず。風の吹くところいのちが生まれる」といった表現があり、この「風」と表記されているものが「プネウマ=言霊」です。「風の吹くところ」を言い換えると、「言霊があるところに命が生まれる」というふうに訳すことができます。日本と同じです。

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このように、洋の東西を問わず、一般に、言霊は、禍々しき魂や霊を追い払い、場を清める働きがあるとされます。また、言霊は言葉だけでなく、「音」にも宿るとされます。

祭礼や祝い、悪霊払いで、神事での太鼓、カーニバルでの笛や鐘、太鼓などはこうした音を立てて場を清めたわけであり、日本の神社で柏手を叩いたり、中華圏での春節の時の爆竹を使うのもそのためです。

そして、こうした祭事に出された音が次第に高度化していったものが、「音楽」であり、また音と言葉が合体したものが、「歌」であるわけです。呪文や詔(みことのり)には、時に抑揚をつけて現代のような音楽のようにして唱えられていましたが、その霊的な力を利用して神事を執り行おうとしたわけです。

無論、さまざまな文化により、時代により、また個人によりそうした行事の内容は大きく異なっているわけですが、いずれにせよ、歌もまた言霊であり、言い換えれば真理や魂の叫びを伝えるものだということになります。

単なる言葉よりもさらに高度な、心から神に伝えたい気持ちを表出するための手段でもあり、それを失うというのは、人間にとってはかなりつらいことかもしれません。なんにせよ、それを自分の体から発することができなくなるわけですから。

しかし、ここでちょっと考えてみてください。歌が歌えても音痴な人はいます。音痴な人はどうするかというと、他の人が歌っている中に混じって自分の歌の下手さをごまかすか、あるいは楽器を奏でてこれを補ったりします。

またメガネをかけている人はメガネが無くなったら何もできません。このメガネは視力が弱いことを補助する道具に過ぎませんが、その道具を使うことによって、目がみえるようになります。

ごく普通に正当化されていることであり、それならば、声が出せない人は同様に何等かの道具を使って音を出しても何ら人に不思議がられることはなく、ましてや非難されるようなことは何もありません。

メガネ同様、自分自身の力で矯正できないからと言って恥じることは何もなく、言霊を自らの体から発せないならば、何等かの手段でもってそれを出せばいいだけ、ということになりませんか。

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ご存知のように、最近は音性合成技術がかなり進んでいます。

イギリスの理論物理学者であるスティーヴン・ホーキング博士の例で有名になりましたが、博士は意思伝達のために「重度障害者用意思伝達装置」を使って生活しています。スピーチや会話ではコンピュータプログラムによる合成音声を利用しており、その音声を聞いたことがある人も多いでしょう。

こうした音声合成技術を使って、現在ではメガネのように気軽に自分の声を合成して出す、という技術が確立されつつあります。

まだまだ、完成度は低いようですが、いずれはもっと進化し、つんくさんが生きておられる間には、声を失う前とほとんど寸分変わらないような声を出したり、歌ったりすることができるようになるかもしれません。

実はこうした音声合成技術の歴史は古く、現代的な電子信号処理が発明されるずっと以前から、音声を模倣する試みはなされてきました。西アフリカには、「トーキングドラム」とうものが昔からあり、これは日本の鼓(つづみ)のような形をしていますが、これを叩いて人の声を真似た合図が遅れるそうです。

ただ、もっと科学的な意味での音声合成の試みとしては、1779年にドイツ人クリスティアン・クラッツェンシュタインという人が、母音(a, e, i, o, u)を発声できる機械を製作したものが嚆矢とされているようです。

1791年には、オーストリア(ハンガリー)のヴォルフガング・フォン・ケンペレンがこれを改良して、ふいごを使った機械式音声合成器を作っており、この機械は舌と唇をモデル化しており、母音だけでなく子音も発音できたそうです。

同様の試みは、1837年のイギリスの物理学者、チャールズ・ホイートストンも行っており、彼はケンペレンの合成装置をさらに改良し、「しゃべる装置」のレベルまで引き上げたとされています。

さらには、1930年代、アメリカのベル研究所のホーマー・ダドリーが、通信用の電子式音声分析・音声合成マシンとして、ヴォコーダー(Vocoder、Voice Coderの略)を開発しており、その後この器械の音声合成部にキーボードを付加した、世界初の「鍵盤演奏型スピーチ・シンセサイザー」、ヴォーダー(voder)を製作しました。

この器械は、ニューヨーク万国博覧会 (1939年)に出展されましたが、その発声は十分理解可能だったと言われます。その後も、多くの科学者が同様の機械の開発に取り組みましたが、最初のコンピュータを使った音声合成システムは1950年代終盤に開発され、最初のテキスト読み上げシステムは1968年に開発されています。

1961年、ベル研究所の物理学者ジョン・ラリー・ケリーとルイス・ゲルストナーは、IBM 704というコンピュータを使って音声合成を行い、「デイジー・ベル」という歌を歌わせることに成功しました。これは、現在でいうところの、「ボーカル・シンセサイザ」ーの走りです。

この器械の噂を聞いてベル研究所に来ていたアーサー・C・クラークは、このデモを聴いて感銘を受け、これにより「2001年宇宙の旅」でHAL 9000が歌うクライマックスシーンが生まれたといいます。この器械は現在までにさらに進化しています。これは後述します。

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一方、ただ単に言葉をしゃべるだけの音声合成装置はこれ以上に進化してきています。初期の電子式スピーチ・シンセサイザーの発声は、ロボット的であまり明瞭ではないものが多かったようです。が、その後の発達により、単にテキストを読み上げるだけならば、人間の声と区別が付かないほどになっています。

最近では、文字を読むことが困難な障害者や、文字が読めない人(幼児、外国人など)のために、画面を読み上げてくれるコンピュータソフトは既に普及しており、これは「スクリーンリーダー」といいます。

また、家電製品の音声ガイダンスや、公共交通機関や防災関係のアナウンス用途として音声合成されたものが広く使用されるようになっており、カーナビでもこうした音声装置は普通に使われています。

ただ、これらの電子式の機械式音声合成装置は、スピーカーから音が出ているため、どうしてもどこか機械が出している音のように聞こえてしまいます。そこで、ロボットで人間の体の構造を模倣した機械式音声合成しようとする試みも最近は進んでおり、これなら、もっと人間に近い発声になると考えられています。

とはいえ、これはつまり人間の声帯を真似たロボットということになり、そこまで優れたものはまだ完成されていないようです。いわんやロボットに歌を歌わせるというのは、かなり難しい技術らしく、人と寸分変わらず歌が歌えるというものはまだないようです、

しかし、上述の「ボーカルシンセサイザー」のようなコンピュータとスピーカーの組み合わせだけで音声合成するものは、かなり開発が進んでいて、メロディと歌詞を入力することで歌声の合成ができるものができているそうです。

特に有名なボーカルシンセサイザーはヤマハのVOCALOIDで、動画共有サイト利用者の間で爆発的に普及したそうです。2003年に発表され、編集ソフトの最新版は昨年暮れに最新版が出ています。

2010年にはこの装置とソフトを用いた「EXIT TUNES PRESENTS Vocalogenesis feat.初音ミク」という曲が、VOCALOIDをボーカルに用いた楽曲を集めたアルバムで初のオリコン週間チャート1位を獲得したそうです。

メロディーと歌詞を入力することでサンプリングされた人の声を元にした歌声を合成することができるそうで、対応する音源については、主にヤマハとライセンス契約を締結した各社から販売されています。

これらの各社と契約した歌手から音声サンプリングを収録してライブラリを製作し、ヤマハ製のソフトウェア部分と組み合わせて製品として販売されているそうで、このサンプリングを過去のつんくさんの歌った歌で行えば、つんく版の音声合成はできそうです。

このほか、AquesTalk(アクエストーク)といった音声合成ソフトも出回っており、これは「アクエスト」という会社が開発・販売しているものです。
この技術を応用しているボーカルシンセサイザーもあり、2013年1月現在は試作品という形で無料にて配布されているといいます。

このように、声を失ったとはいえ、つんくのようにたくさんの声を録音しているような人はその過去の遺産を生かして、これをさらに別の曲に作り替えることもできるはずであり、音楽業界にお詳しい方であろうことから、当然こうしたこともご存知でしょう。

とはいえ、口で言うのは簡単で、それを実際に行うのは、ご当人も大変でしょうが、これを支える人達もまた大きな労苦が必要になってくるでしょう。

が、自分で発する言霊は失ったかもしれませんが、自分の意思で現在の技術を使って新たに生み出せる言霊もあるはずであり、従来作品以上に素晴らしい言霊をぜひ再び提供していってほしいと思います。御健闘をお祈りします。

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夜間飛行

2015-6833桜の季節だというのに、天気が悪く、この状態はしばらく続くようです。

天気予報によれば、明日も曇りがちだということで、この分だと、明日の夜に見ることができるという皆既月食のチャンスも空振りに終わりそうです。

今回の月食は、月のすべての部分が地球の影によって隠される皆既月食だそうで、一部分だけが影に入る部分月食よりもよりダイナミックな天文ショーになる予定なのに、残念なことです。

再来年の2017年には部分月食があるそうですが、次の皆既月食みられるのは2018年の1月と7月だということで、3年待たなくてはなりません。

石の上にも3年……ということで天文ファンにとっては我慢の月日となるわけです。が、何もこの間他の天文ショーがないわけではなく、今年も4月23日には、こと座流星群が極大になり、8月13日にもペルセウス座流星群が極大になるそうです。

このほか、10月22日~オリオン座流星群極大、11月18日 しし座流星群極大、12月15日 ふたご座流星群もあり、流れ星が好きな人はそれなりに堪能できることでしょう。

それにしても、最近は夜になると光々とした灯りが町中を覆いつくすため、星空が見えにくくてしょうがない、とぼやいている人も多いことでしょう。今や日本で天の川が見える場所というのはほとんどなくなっているようで、気象条件にもよるのでしょうが、東京近郊ではまず不可能なのではないでしょうか。

この「光害」の原因となる光は、家庭や会社、工場、街灯、パチンコ店のライトなどなど、色々ですが、星空観測においてとくに有害となるのは、光があらゆる方向に発されるむき出しの電球や、光源の周りをただのガラス球などで覆ったような街灯などが主なものです。

これらをすべて上に光が行かないように上半分を覆ってしまう、というのが対策のひとつなのでしょうが、一説によると、こうした不適切な街灯を減らすことで電気代に換算して少なくとも200億円相当が節約できるともいわれます。

また、自動販売機などの光も光害の中での大きなパートを占めているとも言われ、夜間明るい光を放っています。日本全国の自動販売機設置台数がどのくらいあるかを調べてみたところ、2000年(平成12年)に560万台だったという統計が見つかりました。今はもっと増えているのではないでしょうか。

また、大規模な照明施設が設置されることの多い、スポーツ施設も光害の源泉であり、夜通し灯りをつけっぱなしの防犯灯や、数あまたある工業団地、ビル群の灯りもまたしかりです。

こうした光害を少しでも減らそうと、環境省(旧環境庁)は、1998年に「光害対策ガイドライン」を策定しており、以後、全国各地の自治体でも、パチンコ店などから発せられる無駄なサーチライトを禁止する条例が制定されるようになりました。

また自治体ぐるみで町おこしの一環として光害対策に取り組みところが出てきており、岡山県美星町(現井原市)では、1989年から、美しい星空を守るための「光害防止条例」が制定されました。

具体的な取り組みとしては、屋外照明は水平以上に光が漏れない設計したものを使用するように推奨しており、建築物、看板等を照明する場合は、下から上に向けて投光することを禁止しているほか、サーチライト、スポットライト、レーザー等の野外灯光器は継続的なものでない場合には、原則として禁止しています。

このほか、事業所等の屋内照明で、大量の光を使用する場合は、カーテン、ブラインド、雨戸等の遮蔽物により、できるだけ屋外に光を漏らさないよう配慮することなどを定めており、これにより、この街の夜空はかなり暗くなったといいます。

それにしても、「美星町」という名前はまさに光害防止の町として相応しいものですが、この光害対策のために新たに町名を付け直したのかと思ったらそうでもないようです。元々この町の中に源流を持つ美山川と星田川という川があり、ここから一文字ずつ取ったものだということです。

また、この星田川の地名は、かつて美星町に三つの流れ星が落ちたという星伝説に由来するものだそうで、この星が落ちたといわれる3カ所にはそれぞれ神社があるということです。なんともロマンチックなお話ですが、美星町では、こうしてきれいになった星空を売りにして色々な町おこしにも取り組んでいるそうです。

このほか、岡山県としても、サーチライト禁止条例を制定しており、同様の条例は佐賀県や熊本県にもあり、群馬県の高山村でも、「高山村の美しい星空を守る光環境条例」を1998年に制定しています。

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こうした町がどんどん出てくれば日本の夜空ももっと暗くなるのではないかと思うのですが、最近監視カメラが全国のあちこちに取り付けられるようになり、その視程確保のためには街灯やその他の灯りが不可欠だということで、夜間の無駄な点灯を自粛するという動きも阻害されがちです。

いっそのこと、毎日とはいいませんから、日にちを決めて、灯火管制などひいたら、夜空のありがたみがみんなわかると思うのですが、どうでしょう。

灯火管制とは、第二次世界大戦などの戦時において民間施設および軍事施設・部隊の灯火を管制し、電灯、ローソク等の照明の使用を制限することです。これにより、夜間空襲もしくは夜間砲撃などの目標となることを防げると考えたわけです。

大戦中は日本だけでなく、イギリス、ドイツ、なども灯火管制をしていたといい、これにより、敵機から都市の位置がはっきりと視認できないようにし、精度の高い空襲を防ごうとしました。

具体的な方法として、窓を塞いだり、照明に覆いをつけたりしたようですが、本当に効果があったかというと、灯火管制下にある中で、明かりが漏れてしまったためにその家が標的になったという証言や記録も残されているそうです。

しかし、その効果は低かったのではというのがもっぱらの評価であり、例えば日本を爆撃したアメリカの爆撃機B-29は高性能のレーダーを搭載していたので、それを頼りに都市の市街地や目標物を爆撃することができたといいます。

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また、イギリスを爆撃したドイツの爆撃機He111やドイツを爆撃したイギリスの爆撃機ランカスターはレーダーの発達していない時期から無線方位測定機器を用いて夜間爆撃を行っていました。ただ、精度に欠けていたため、アメリカ製のレーダーを搭載した戦闘機をパスファインダーとして運用しました。

パスファインダーとは、「開拓者」「先駆者」の意ですが、ちょっと前にNASAの火星探査機でマーズ・パスファインダーというのがあったのを覚えている人も多いでしょう。が、この爆撃に用いられたパスファインダーは、「先導者」の意味であり、最初に爆弾を投下して後続機に目標を示す先導機のことです。

難しい言葉では、嚮導機(きょうどうき)ともいうそうです。イギリスは、この戦闘機として、デ・ハビランド社の「モスキート」という飛行機を使いました。

驚くなかれ、木製でつくられた飛行機であり、このため「The Wooden Wonder(木造機の奇跡)」と呼ばれ、爆撃機を誘う夜間戦闘型以外にも、爆撃型や偵察機型、さらには旅客機型なども作られるなど、幅広い運用が行われました。

このモスキートという飛行機は、イギリスのロールス・ロイスが開発、生産したロールス・マーリンエンジンを両翼に1基ずつ搭載した双発機であり、コクピットには操縦士と航法士が並んで座る並列複座機でした。

エンジンやプロペラなどを除けばほとんど木材を使うという変わった構造で、当時でさえ時代遅れだと考える向きもありました。が、生産にあたって家具など木工分野の工場も動員できる上、木製ゆえレーダーに察知されにくい、表面を平滑にできるため空気抵抗では金属製よりも優れる、といった副次的なメリットもありました。

この当時の金属製の飛行機は板と板の接続を鋲で行いましたが、この突起により飛行機全体としては空力特性が落ちていました。木製であれば内部で接続が可能であるため、こうした突起が外に出ることはありません。

3つの異なる種類の試作機が製作され、爆撃機の試作機が1940年に初飛行を行い、翌年には夜間戦闘機型と写真偵察機型がそれぞれ初飛行を行い、それぞれ成功させました。こうして量産化が決まり、戦術爆撃機のほか、上述のパスファインダー、昼間及び夜間戦闘機、攻撃機、写真偵察機など、幅広い任務に投入されるようになりました。

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この機体を創ったのは、デ・ハビランド社という会社で、1930年代から既に合成木材を使った高速機の開発に実績がありました。イギリス航空省(Air Ministry)は、長引く戦争の中において鉄とアルミニウムが不足していることを憂慮し、使用されていない家具業界の資源とデ・ハビランド社の技術力を利用した木製の航空機が有用であると判断したのです。

その開発においては、当初3基の機関銃砲塔と機関銃要員6名を搭載することを前提に機体が設計され、これにマーリンエンジン2基を搭載しました。しかし平凡な性能しか発揮しなかったため、設計構想を何度かやり直し、エンジンを3基にする案も出されました。

しかし、同社の技術者たちは研究を進めていくうちにまったく別の方向性に気づきました。それは、必要のない重量がかさむものを思い切って全て取り除く、ということでした。機関銃砲塔を1つ1つ撤去していくうちに、性能は次第に改善されていき、なーんだ、防御火器を必要としないほど高速じゃないか、ということになりました。

重いものを減らせばスピードが出るようになるのは、当たり前のことではあるのですが、この結果、より効率的な機体の設計がなされ、小型エンジン2基搭載で乗員2名しか乗れないものの、いかにも高速な爆撃機が考え出されました。

それでも、計算上は、1,000ポンド (454kg) 爆弾を搭載することができ、2,500kmの距離を650km/hで飛行できるはずで、その性能は、鉄やアルミで出きた飛行機にはない性能であり、この特性を活用することで従来機と比肩できるものができると考えられました。

しかし、デ・ハビランド社の提示したこの案に対して航空省は、木製で武装を持たない爆撃機に疑問を拭いきれず、一度はこの構想を却下しました。が、同社はこの構想に不安な点はないと確信し、自社で開発を続けたいと考えました。しかし、資金調達は自腹を切ることになり、その開発には大きなリスクが伴うことになります。

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ところが、思わぬところに助っ人が現れます。既に退役寸前の老体でしたが、大将の肩書を持つウィルフリッド・フリーマンという人で、従来の数々の実績から空軍には幅が効きました。彼は木製機であるがゆえに高速で飛ぶという点に興味を惹かれ、同社を支援することにし、こうして、「フリーマンの道楽」と呼ばれる開発計画が始動しました。

陰口を叩かれながらも、社内呼称 D.H.98というプロジェクトがスタートしましたが、軍当局も「貴重なアルミ資源を浪費しない」という説得に折れ、渋々と貴重なマーリン・エンジンを回してくれました。このため一応、英軍側にも「B.1/40」というプロジェクト名が付けられました。が、実質は一企業による民間開発です。

しかし、誰も期待していないプロジェクトだけに高性能機開発にありがちな横槍も入らず、これが功を奏し、デ・ハビランド社の技術者たちは自分たちが培ってきた技術をのびのびと使うことができました。

軍への計画書が提出されてから2年後の、1940 年11月には早くも初飛行を迎えることができましたが、このとき、その試作機はいきなり 632Km/h という速度を叩き出し、「木製機など」と鼻で笑っていた空軍当局者達の度肝を抜きました。

この当時は、500Km/h程度の爆撃機が、「高速」と呼ばれていたわけですから、632Km/hははるかにこれを凌いでいます。軍は早速、これを偵察機として採用することとし、1940年3月に試作機のB.1/40を含む50機が同社に正式発注されました。

こうして、同機の製造が開始されましたが、ちょうどこのころ、イギリス軍は、フランスにおける西部戦線においてドイツ軍の猛攻の前に屈し、1940年5~6月には、ダンケルクの撤退という史上最大の撤退作戦を余儀なくされるなど、戦況はかなり不利な状態になっていました。

とくにイギリス空軍では戦闘機の不足などが深刻となっており、爆撃機の開発においてもその内容が見直され、航空省は先の爆撃機50機のうちの30機を重戦闘機に変更するように命令を出しました。これに加え、飛行に必要ないものを全て取り除いた専門の写真偵察機も試作するよう注文されました。

この偵察機は、1941年9月20日に初任務に就き、これがその後のこのモスキートの短くも華々しい活躍の嚆矢となりました。

その後の開発により、爆撃機型にも改良が加えられ、227kg(500ポンド)爆弾を胴体内爆弾倉に4個搭載することができるようになり、このタイプは1942年5月に第105飛行隊へ引き渡されました。

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以後、戦中を通じて実に1200機が以上の爆撃機型が生産されるようになりましたが、その過程においてさらに改良を重ねた結果、4,000ポンド(1,816kg)爆弾を爆弾倉に搭載できるようにまでなり、500ポンド爆弾なら最大で6個まで搭載できるようにもなりました。

また、この爆撃機型には、フル・オートマチックで射撃できるように改造した57mm対戦車砲と7.7mm機関銃2門を搭載するという重装備が施されました。航空省は、このような重厚な装備が有効利用できるわけがないと考えていましたが、実際に配備してみるとこれまでのロケット弾を上回る対艦攻撃力を発揮することが、後に分かりました。

このころから、モスキートはパスファインダー・フォース(嚮導飛行隊)にも配備され、夜間戦略爆撃の目標に目印をつける役(パスファインダー)を演じるようになりました。しかし悲しいかな木製であるため、当初の損耗率は高かったようです。

ただ、その後高性能レーダーなどを積載したものは、敵機をより効率的に避けることができるようになったため、同じ任務を実行した際の他の航空機に比べればその損耗率は最も低く、この爆撃機型モスキートは大戦終結まで投入されました。

一方、戦闘機型は、最初に夜間戦闘機型が実戦に就き、1942年1月に第157飛行隊に投入されたのを皮切りに、終戦までに466機が生産されました。

この戦闘機には、20 mm機関砲4門と、7.7 mm機銃4挺が積まれ、最新の機上レーダーを機首に搭載していました。しかし、当時のイギリス軍は、夜間戦闘の戦果がレーダーによるものであることをドイツ軍に知られるのを嫌い、これを隠蔽するため、夜間迎撃部隊のパイロットは優れた夜間視力を持っている、と喧伝していました。

そのために、パイロットたちは、毎日ニンジンを食べている、とPRしていたといいます。

現在、ニンジンに含まれるアントシアニンやカロテノイドが網膜の保護に効く、ということは医学的にも証明されているようですが、視力との因果関係は証明されておらず、ニンジンのために目が良くなったというのは、イギリス情報部による全く根拠の無い捏造話でした。

こうして、戦闘に投入された戦闘機型モスキートもまた、優れた性能を示しました。高性能レーダーを積んだ「パスファインダー・モスキート」は正確な爆撃コースへと重爆隊を誘導しましたが、これを墜とすため血眼になったドイツの夜間戦闘機の多くは随伴したこの高速な夜間戦闘機型モスキートの返り討ちに遭いました。

ドイツの空を我が物顔で飛び回るモスキートはドイツ軍にとって実にいまいましい「蚊」であったわけですが、それを撃墜できるドイツ機は新鋭ジェット戦闘機も含めて数機種しかなかったことから、夜空では圧倒的にイギリス軍が優位に立つことができました。

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このように爆撃と偵察、そして戦闘の全ての任務で常にトップクラスの性能を誇ったことで、これには敵ばかりか味方も驚き、これがこの航空機に「木製の驚異(Wooden Wonder)」という渾名が付けられ理由でした。

また、高性能レーダーを積んだ爆撃機型モスキートは、ドイツの海上輸送網を寸断しました。ドイツ自慢の潜水艦Uボートは、浮上中を狙われ、上述の57mm対戦車砲の餌食になりました。

一方では、モスキートは、人口密集地内でも重要軍事目標だけに正確なピンポイント爆撃を行うことができるという繊細な面も見せ、大馬力エンジンを積んだアメリカの四発重爆が絨毯爆撃によってドイツの街を見境なく瓦礫化していったのとは全く対照的な活躍をみせました。

モスキートはその高速を活かして戦時下の要人輸送にも使われました。この旅客機型は、爆弾倉部分に改造を施し、1名の乗客と貨物を搭載できるようにしたものであり、乗客だけでなく、新聞や雑誌などの反ナチス宣伝物を運ぶためにも活躍しました。

要人や重要書類を中立国スウェーデンに運んだ帰りの便にはお土産代わりに貴重なボール・ベアリングを満載したので、この高速便は「ボール・ベアリング・ラン」の異名で呼ばれました。500 回以上を数えたボール・ベアリング・ランの中で失われたモスキートは4機、しかも人命はわずか2名に過ぎなかったそうです。

こうして、モスキートは連合軍の作戦に欠かせない存在として戦争を戦い抜きましたが、極東でも対日本軍対策に使われました。ビルマ方面に投入されたモスキートがそれで、その高速性能ゆえに日本機に撃墜されることは少なかったようです。

しかし、アジアの高温多湿の気候が最大の敵となり、一部の機体を組み上げるのに使用したカゼイン系接着剤が劣化、ひび割れて機体外板が剥離して墜落事故をおこす、ということが頻繁に起きました。このため、1944年11月に全機を飛行停止にして調査した結果、使用する接着材の使用量が少なすぎたり、接着剤が高温で融けたりする欠陥機などが発見されました。

このため、これらの機体は直ちに廃棄処分され、その対策として迷彩塗装を止め、太陽光を反射する銀色塗装に変更されたことで、主翼内の温度を15度下げることに成功しました。もっともこれにより、低空飛行時の被発見率は高まってしまったといいます。

このようにたかが木製の飛行機と揶揄されたモスキートは、逆に多大なる成果を上げた航空機としえ大いに評価されるようになりましたが、戦時中は伝説的な働きをしたモスキートも、戦後はジェット化の波には逆らえず、第一線を引いていきました。

この飛行機は、全木製という構造化が災いして老朽化が激しく、長期にわたって飛行可能な状態を維持するのが困難です。戦後、内戦状態になった中国では、劣勢の国民党軍が安価な対地攻撃機を大量に必要としており、1948年にカナダ製モスキート180機が導入されました。

しかしその多くは機体寿命の短い木製機の中古であり、しかも船積みで輸送中に海水や高温で機体やエンジンにダメージを受けたため、この段階で28機が使用不能となりました。また一定以上の操縦技量も必要で、機体の不調や事故により実戦投入前に50機以上が失われてしまったそうです。

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その後昼間爆撃を中心とする実戦投入されたものの、移動の多くを夜間に行うゲリラ的な共産党軍に対してはあまり活躍できず、革命成立後も残った機は廃棄されました。現存するものとしては、イギリスのコスフォード王立空軍博物館にある1機などの数機のようです。

このモスキートのような、夜間戦闘機や爆撃機が夜空を飛んでいた時代には、灯火管制がしかれ、さぞかし夜空の星が良く見えたことでしょう。

現在ではさらに高性能なレーダー照準器や暗視装置のような光学機器が開発されてたため、仮に灯火管制を敷いても効果はないといいます。

1992年の湾岸戦争の際のバグダード市内では、厳重な灯火管制が敷かれましたが、アメリカ軍の高性能暗視装置や、GPS誘導技術などによる精密爆撃は著しく精度が高く、ほとんど無意味なものだったといいます。この教訓のためか、2003年のイラク戦争時には、積極的な灯火管制は行われなかったそうです。

戦争が終わって平和になった日本でも灯火管制が行われることはなくなりましたが、夜空をみんがための灯火管制を実施する制度といったものが、導入されてもいいのでは、と個人的には思ったりもします。

福島原発の事故によって計画停電が実施されたときの東京の夜空は実に綺麗だったといいます。皆既月食などの天文ショーが見られる夜くらいは、計画停電ならぬ、計画灯火管制などを行うことなどをぜひ制度化していただきたいと思うのですが、いかがなものでしょうか。

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笑い三年泣き四月

2015-06545月になりました。

ウソです。

ということでエープリルフールです。これでひとつウソをついたので、もう今日は嘘をつくのはやめようと思います。

これもウソです。

というわけで、我々は意識しているしていないに関わらず、たいして罪悪感もなく、むしろ面白がってよくウソをつきます。

基本的に、嘘は悪いこと、とされますが、嘘の中には許容されるものも多いようです。しかし、どのような嘘が許容されるかは、時と場合によるでしょう。「嘘も方便」ということわざもあり、人を救ったり、処世術のためならばよかろうというのが一般的です。

また、人を喜ばせるためのウソも良しということで、イギリスやアメリカなどでは、他人を喜ばせるための嘘は「white lie」といい、これは「良い嘘」というほどの意味です。

さらに、人とのコミュニケーションの中で、嘘はこれを円滑にする効果がある場合もあります。例えば夫婦や恋人との会話の中で、「私を気づかって、朝音をたてないように出っていってくれたでしょう」、「いや、そんなことないよ、ドアが痛まないように静かに閉めていっただけさ」といった具合です。

これはもちろんウソなわけですが、ウソをつかれた女性が男性をうっとうしいと思うかといえばそうではなく、奥ゆかしくて男気のある、そしてユーモアのある男性だと思い、より好きになったりするわけです。

が、実際にはパチンコに出掛けるのをとがめられるのが嫌で、そっと出かけていったのにすぎなかったりもします。

このほかにも、大多数の人は、ある程度の言い訳や責任転嫁などの嘘は無意識的、日常的に行っています。なので、一応、この程度のウソならば精神医学的に言えば「正常」の範囲内です。

が、その範囲を超えて、あえて積極的にウソをつき、相手を笑わせるというのは、ジョークの範疇に入ってきます。聞き手や読み手を笑わせたり、ユーモアを感じさせる小咄などのことであり、日本語では冗句と当て字されることもあります。

「悪ふざけ」と違うのは、これはある程度悪意を持って相手にしかけるものであり、道徳的に問題視されることも多いわけで、相手に好意をもって言うジョークとはおのずから性質が違います。

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ジョークにもいろいろあって、ユーモア、駄洒落、風刺などさまざまですが、その結果得られるのはやはり「笑い」です。

人を笑わせる、といことは楽しいもので、ジョークを仕掛けられた相手も楽しくなります。

では、なぜ楽しくなるのか。これは、笑いによって自律神経に刺激が与えられるからだ、と説明されているようです。自律神経は、交感神経系と副交感神経系の2つの神経系で構成されていて、交感神経というのは、「闘争と逃走の神経(Fight and Flight)」などとも呼ばれるように、激しい活動を行っている時に活性化します。

一方、副交感神経は、安静時に重要となる消化管の機能を司ったり、心拍数を減少させ、血圧を下げて皮膚と胃腸への血液を戻したり、といった役割があり、安らぎ・安心を感じた状態のときに優位で、副交感神経が優位な状態が続くとストレスが解消されます。

笑いによってこれら二つからなる自律神経に刺激が与えられると、交感神経と副交感神経のバランスの状態が代り、副交感神経が優位の状態になります。この結果、より安心できる、安らぎを感じる、といった状態になり、これが「楽しい」と感じられるわけです。

一方、怒りや恐怖を感じたときなどの異常な事態の時には交感神経が優位になります。したがってその状態が長く続くとストレスの原因になります。

また、笑うことで全身の内臓や筋肉を活性化させたり、エンドルフィンという神経伝達物質が血液中に大量に分泌されるそうです。

これはモルヒネ同様の作用を示す物質ということで、多幸感をもたらすと考えられており、そのため「脳内麻薬」とまで呼ばれます。麻薬、といわれるとついつい中毒になるのでは、と考えてしまいますが、確かに「笑い上戸」のことばもあるように、笑いにはそうしたところがあります。

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とはいえ、薬害のある本物の麻薬とは異なり、一般的には医学的にみても笑いは体に良いものだとされているようです。従って人々の笑いを誘うような巧妙なジョークは、社会的にも認められやすく、それゆえに、エイプリルフールが認められているのであり、このほかにも喜劇や、落語、漫才、コントといったものが職業として成立するわけです。

彼等にしてみれば年から年中がエイプリルフールのようなものであり、いかに多数の笑いを取るか、ということが命題です。日本では、1980年代に前半に「漫才ブーム」が起こり、多数のお笑い芸人さんが生まれました。

この漫才ブームに火をつけたテレビ番組は「花王名人劇場」(関西テレビ)・「THE MANZAI」(フジテレビ)などだといわれており、その後「お笑いスター誕生!!」といったお笑い界のホープを探し出す番組などが増え、さらにはお笑い界のチャンピオンを決める、「M-1グランプリ」といった番組が次々とできて、人気を博しました。

この1980年代初頭のブームを第一次お笑いブームとするならば、その後、第二、第三のブームが続いており、現在はその4番目か5番目かのブームとされるようです。

こうした数々のブームの中からは、その後バラエティなどでも活躍する大物タレントが多数輩出され、さらにお笑い界は、演劇界とも結びついて、俳優女優として活躍する芸人も多数でるようになりました。

映画監督としても有名になったビートたけしさんや、とんねるず、タモリ、明石家さんま、片岡鶴太郎、山田邦子などなどと枚挙のいとまがありませんが、彼らに憧れて、お笑いの世界に入る若者も後を絶たず、大学を卒業してまっしぐらに吉本興業の門をたたく人もいるようです。

漫才ブームが後世に残した影響は計り知れないといえ、まさにお笑い恐るべしです。私自身は、あまりお笑い番組は見ないほうなのですが、お付き合いでごくたまに見ることもあり、そうした場合はやはり笑ってしまい、楽しい気分になれます。

が、夢中になってそうした番組ばかり見たくなるか、といえばそうでもなく、ましてや自分で漫談やコントをやってみようとは思いません。

強いて言えば落語なら少しやってみたいかな、という気もしますが、何にせよ、人から笑いを取るというのは、なかなか容易なことではなく、一朝一夕にその技術は実に付きません。

「笑い三年泣き三月」というのは、義太夫節の稽古で、笑い方のほうが泣き方よりずっと難しい、とされたことから生まれたことわざですが、芸事の世界では、笑わせるのも泣かせるのと同じくらい難しいようです。

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こうした漫才や落語は、玄人の域に達したものは社会的にも「芸術」とみなされるほど高尚なものでもあります。先日亡くなった三代目桂米朝さんは、1996年(平成8年)に落語界から2人目の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定され、さらに2009年(平成21年)には演芸界初の文化勲章を受章しています。

また、漫才も古くは「萬歳」と呼ばれた古典芸能であり、加賀、越前、三河、尾張などに伝わる各萬歳は、国の指定重要無形民俗文化財に指定されているものです。

こうした笑いの「源流」を辿ってみると、一番古いのは、「古事記」に記されている、アマテラスオオミカミの岩戸隠れのエピソードが、日本で最古の笑いだといわれます。

太陽の神アマテラスオオミカミが、弟スサノオノミコトの乱暴狼藉に腹を立て、岩の洞窟である天岩戸(あまのいわと)に閉じこもってしまい、そのため世界が真っ暗になり災いが起こりました。

そこで神々はアマテラスオオミカミをおびき出す為に岩戸の外で大宴会を行い、女神アメノウズメは着衣を脱いで全裸でこっけいな踊りを披露したところ、これを見て八百万の神々が一斉に大笑いした、という例のはなしです。

その笑い声が気になったアマテラスオオミカミが、岩戸を少しだけ開けて様子をうかがった所、神々の連携プレーで外に連れ出され、再び世界に光が戻った、めでたしめでたし、というわけです。この神々を笑わせた芸能の女神アメノウズメは日本最古の踊り子と言え、また最古の芸能人ということもいえます。

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このように、古代社会においては「芸能」というものは、神や支配者を楽しませるもの、奉納するものとしての要素があったわけで、「竹取物語」、「今昔物語」などにも、こうした、おかしみのある話が多数納められています。

その後、これらは物真似や軽業・曲芸、奇術、幻術、人形まわし、踊りなど、娯楽的要素の濃い芸能として発達していきましたが、それらの中から出てきたものが、能や歌舞伎、人形浄瑠璃(文楽)といったものです。

江戸時代までには、武士の世界で、面白い話を主人などにする「御伽衆」なる職業が成立し、こうした話芸に秀でた人々がまとめた講釈話が庶民に広がり、講談や落語の源流となったと言われています。

滑稽な話を集めた「笑話集」的なものも多数発刊されるようになり、「醒睡笑(せいすいしょう)」「昨日は今日の物語」「浮世風呂」などがヒットしましたが、後世で最も有名なのは十返舎一九の「東海道中膝栗毛」などでしょう。

「エレキテル」で有名な平賀源内も、「笑府」というお笑い本の抄訳「刪笑府」を出版しているぐらいで、そのほかいわゆる「小咄(こばなし)」といわれるようなショートショートコントの原案も、元はこうした和漢の笑話本の翻案に由来しているものが多いとされています。

また、江戸時代初期にはじまって盛んになった「滑稽噺」は、上方では「軽口噺」とも呼ばれ、特に「落ち」が特徴的だったので江戸中期には「落し噺」と呼ばれるようになりました。明治に入って「おとしばなし」を「落語」と書くようになり、明治中期以降はこれを「らくご」と呼ぶようになりました。

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このように、日本における「笑い」は、芸能と結びついて独特の文化の源流となってきましたが、世界的にみると、こうした笑いを「芸術」にまで昇華させたものというのはほとんど例をみません。

「喜劇」はあるいは日本の「狂言」に近いものかもしれませんが、各国でこれを独自の文化としたものは少なく、フランスやイギリスで「スケッチ・コメディー」と呼ばれる笑いを題材にした寸劇が流行した時期があったぐらいです。

演劇のジャンルのひとつであり、19世紀の中ごろからイギリスで発達した文化ですが、そもそも本劇の合間に、酒を飲んだ観客が囃し立て劇場内を盛り上げるためのようなものだったようです。

ところが、その後酒を販売することを禁止する「劇場法」というものが制定されたため劇場では演じることができなくなり、ミュージックホールのような大衆酒場も兼ねたところで、演じられるようになりました。

が、師匠が弟子をとってその技術を伝承していくような類のものではないようであり、ましてや国が認定して賞を与えるようなものではなく、どちらかといえば大道人芸に近いものだったようです。

このほか、「笑劇」というのがあり、これも「道化芝居」ともいわれるもので、観客を楽しませることを目的とした、演劇または喜劇の1形態ではあります。が、これはヴォードヴィルと並んで最も低級なものとされています。

ヴォードヴィル(vaudeville)は、日本語ではボードビルともいい、これは、17世紀末にパリの大市に出現した演劇形式です。その後アメリカにも伝わり、舞台での踊り、歌、手品、漫才などのショー・ビジネスを指すことばとなりましたが、本場フランスと区別するために、「アメリカン・ヴォードビル」と呼ばれるようになりました。

イギリスでは、これがミュージック・ホールで演じられ、上述のように「笑劇」と称されました。イギリス英語では“farce(ファース)”がこれに該当します。

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このヴォードヴィルやファースは、実はその後の映画界において重要な役割を持つようになりました。

発明王として有名な、トーマス・エジソンは動画撮影機「キネトグラフ」を発明した、といわれていますが、これは実は部下のウィリアム・ディックソンの発明です。

しかし、自らはこの映画のプロデューサーとして活躍し、1893年には、自分の研究所の敷地内にアメリカ初の映画スタジオ「ブラック・マリア」を設立し、キネトスコープ用の白黒フィルムを制作しはじめました。そして1901年にはマンハッタンに、1907年にはブロンクスに新しい映画スタジオを開き、約1200本のフィルムを制作しています。

ヴォードヴィルやファースの演芸場は、もともとはこうした映画を観客に見せるための前座でしたが、エジソンは、自らが製作した映画の題材のいくつかにヴォードヴィルの見せ物を取り上げています。

その後、映画はエジソン以外の企業家によっても造られるようになり、その中でもヴォードヴィルは、映画の主題として扱われるようになりました。そして、初期サイレント映画の中でもとくにもてはやされるようになっていきます。

このサイレント映画は、映画の歴史の中で重要な位置を占めており、その理由はチャーリー・チャップリンやバスター・キートン、ローレル&ハーディ、マルクス兄弟、ジミー・デュランテといった、その後の映画界を代表する役者たちを登場させたからです。

こうした1910年代から20年代のサイレント・コメディの有名なスターたちは、ヴォードヴィルやミュージック・ホールに出演したのちに映画産業に入りました。

観客を笑わせること及び観客の笑いを引き出すことを主目的としたこうした喜劇映画の中でも、特に体を張ったコメディ映画のことスラップスティック・サイレント・コメディといい、日本では「ドタバタ喜劇」と訳されるこれらの映画は、次々に大ヒットしました。

そして彼らはヴォードヴィルの伝統をトーキーの時代になっても続けていきましたが、その後あまりにも映画という産業がビックになったため、ヴォードヴィルそのものに出演する役者はいなくなり、結果的には映画がその形態を衰滅させる、という皮肉な結果になりました。

このように、欧米における「笑い」を題材とする産業の発達は、日本とは全くといっていいほど違う発展を遂げてきたわけです。

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この映画は今や日本にも浸透し、数々の喜劇映画なども作られていますが、同じ大衆演芸の笑いを源流とする能や歌舞伎と違って、どこか軽薄な感じがするのは、その歴史が浅いからでしょう。

スケッチ・コメディーの発祥から160年ほど、またエジソンらのキネトグラフの発明からは120年ほどしか経っておらず、日本の能や狂言の起源といわれる、散楽や猿学は既に平安時代からあるといわれています。だとすると、1000年以上のお笑いの歴史があることになります。

ヨーロッパでも昔は古代の日本のような原始的な大衆芸能があり、その中で扱われたお笑いがあったはずなのですが、それが日本のように芸能として育まれなかったのは、やはり多数の国が隣接し、戦争と併合・分離を繰り返すことで、ひとつの文化として育てることができなかった、ということが挙げられるでしょう。

一方、中国やインドといったアジア諸国も、ヨーロッパほどではないにせよ、やはり隣国と接する機会が多く、ヨーロッパと同じく独自の芸能文化が育まれにくかったでしょう。もっとも中国には京劇といった伝統芸能があるようですが、これも発祥はせいぜい18世紀のころのようです。

日本は島国であり、一つの文化が他国の文化と交わることもなく独自化し、またその中で枝分かれして成長し熟成する時間が長かっただけ、その内容が濃くなったということは当然といえるでしょう。

しかし、現在のように欧米はもとより、仲の悪い中国や韓国との関係もそれなりに保っている中で、従来のような独自文化がそのまま維持されるとは限らず、時間を経て変わっていく可能性は大です。

例えば、歌舞伎にすれば、「スーパー歌舞伎」に代表されるように、より現代人には馴染みやすく、また外国人にも楽しめるようなものに変わってきており、変化することで進化する、ということを実践しているように思われます。

落語や漫才もしかりであり、最近は英訳されたものがあちらの人には結構受けたりするだけでなく、欧米人で落語家をめざす人なども出てきているようで、いまや伝統的な日本のお笑いもグローバル化しつつある時代といえるようです。

世界中が日本の文化で笑う、という時代もくるかもしれず、そうだとすると我々の責任は重大です。世界を笑いのるつぼの中に落とし込むことは、平和にもつながるからです。

冒頭で、笑いは医学的にみて色々なメリットがあることを書きましたが、このほかにも笑いには免疫系の「NK細胞」の活性を高めるなどの健康増進作用があると言われており、日本のお笑いは医学にも貢献しそうです。

このNK細胞というのは、癌を抑える効果があるとされる細胞で、「ナチュラルキラー細胞」とも呼ばれ、ガンの予防と治療の効果があるとされるものです。

上でも笑うと自律神経のうちの副交換神経が交感神経が活発になりと書きましたが、この二つの神経の頻繁な切り替えが起こると、その脳への刺激により、免疫機能を活性化するホルモンが全身に分泌されます。

このホルモンのことを、「神経ペプチド」といいますが、NK細胞はこの神経ペプチドを受け取ることによって活性化されるのです。

つまり、笑いは癌をやっつけてくれる、というわけで、癌撲滅のためのひとつの手段にもなりうる可能性を秘めているわけです。このほか、笑いは糖尿病の治療にも有効との研究もあるようです。

さすれば、全国にある癌の研究センターなどでも「お笑い研究室」なるものを作って研究をスタートさせればいいのでは、と私などは思うのですが、今のところその動きはなさそうです。

今日4月1日にそうした研究所ができた、とするウソが出回れば面白いのに、と思ったりもするのですが、どこかの新聞社かテレビ局がこのブログを読まないでしょうか。

そんなかんなで、もう4月です。一年の4分の1が過ぎたことに唖然としている人も多いと思いますが、私も同じです。

今年の初めに計画立てたことを現実にしようと思えば、まだまだ頑張らなくてはならず、とても笑ってばかりはいられません。

が、そんな中でもスマイル、スマイル、と毎日を過ごしましょう。笑う門には福来るといいます。しかし、「笑い三年泣き三月」のことわざにもあるように、実は笑うというものは意外にも難しいものです。

福を呼び寄せるためにも、今年はぜひいつでもどこでも笑える技術を身に着けることにしましょう。

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