恐竜のいた日

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9年前の2006年8月7日、兵庫県丹波市、山南町を流れる篠山川の河床において、白亜紀の恐竜のほぼ全身の化石が発見されました。

後に「丹波竜」と命名されるこの恐竜は、ティタノサウルス(Titanosaurus)類に属し、これは中生代白亜紀前期に生息していた「竜脚類恐竜」です。草食性で四足歩行の恐竜です。首と尾が長く、全長が1m程度のものから約40mの大型のものまでいました。しかし、体のわりには頭が小さいことが特徴です。

その名はギリシア神話の巨神、「ティーターン」に由来します。但し、竜脚類としては大型ではないそうです。

発見されたのは胴体後部の椎骨及び肋骨の部分骨格のみであり、詳しい形態は判明していません。近縁の属からの推定では、おそらくは体長12~19メートル程で四肢は短く、背中に皮骨からなる装甲を持っていたと推定されています。

のちに、兵庫県立「人と自然の博物館」は、この恐竜が新属新種と認められたと発表。学名はティタノサウルス類の「タンバティタニス・アミキティアエ」となりました。これは発見地の丹波と、ギリシア神話の巨人ティタニス、発見者2人の「友情」を意味するラテン語のアミキティアエを組み合わせたものです。

「丹波竜」の名もこの男性2人によってつけられました。当初、二人は他の例などを参考に地元の名を冠した「上滝竜(発見された字が上滝)」あるいは「山南竜」なども考えたそうです。が、丹波市民のみならず丹波地方全域まで含んだ多くの人々にも親しんでもらえるのではないかと思い直し、語呂のよさを考慮して最終的に「丹波竜」にしたといいます。

当初は個人での「丹波竜」の商標登録も考えたそうです。しかし、金儲けとの誤解を招いては不本意と考え、丹波市による申請として特許庁に、「丹波竜」の商標登録を出願したそうです。エライ!

丹波市は、1996年より人口が減少し、過疎化と高齢化が進む町であり、現在約72,000人の人口の65歳以上の高齢化率は2015年には3割を超える見通しです。この降って湧いたような恐竜発見のニュースは、この町に突然、恐竜ブームを巻き起こしましたが、この二人の勇断の結果、町おこしにもつながっていきました。

その後「恐竜ラーメン」「恐竜うどん」「化石巻(巻きずし)」「恐竜たまごっ茶」など恐竜にちなんだ商品が続々登場するようになり、周辺の土産物店や食堂のメニューなどにもその名が並びました。また、「丹波竜」の商標登録を済ませた丹波市は、「恐竜を活かしたまちづくり課」を発足。2007年5月1日からは「恐竜化石保護条例」を施行しました。

さらに、山南住民センター内 1階に、「丹波竜化石工房」を2007年12月に開設。これは、丹波竜のクリーニング作業を見学できる施設で、丹波竜の資料なども多数展示されています。第1次発掘調査で産出された化石のレプリカや、篠山層群より産出した恐竜化石を含む泥岩、生痕化石のほか、丹波竜の解説パネルなども展示されています。

恐竜といえば、福井県、というイメージが先行しますが、このように他の地方でも大発見がありさえすれば、町おこしにつながる、という好例として広く知られるようになりました。過疎化が進む地域で、こうした恐竜が出そうな地層があるところでは、そこをせっせせっせと掘ってみるというのも一つの手かもしれません。

それにしても、この恐竜というヤツですが、実物を見たことがあるわけでもないので、どうもピンとこず、なかなか想像もできません。大型の脊椎動物の一種である、ということぐらいしか知らず、それが大昔にこの地上を闊歩していた、といわれても、そんなオオトカゲが本当に動けるのか?と懐疑的になります。

ちょうど今週から「ジュラシック・ワールド」なる映画が封切りになっているようですが、こうしたCG・SFXを駆使した映像をみれば、より身近に感じられるかもしれません。が、いずれにせよ、本物をみないことには埒はあきません。映画のように残されたDNAが発見され、恐竜が再生される時代がくることを期待したいものです。

中生代三畳紀に現れ、中生代を通じて繁栄した、とされますが、中生代三畳紀っていったいいつよ、と調べてみると、だいたい2億年から2億500万年前のころのようです。サルを含む我々霊長類の進化の歴史は約8500万年前まで遡ることができるとされていることから、それよりさらにはるかに昔であり、これまた想像の域を超えています。

多様な形態と習性のものがおり、現在の陸上動物としては最大のゾウをはるかにしのぐ大型のものもありましたが、約6600万年前の白亜紀と新生代との境に多くが絶滅したとされます。絶滅の主要因に関する仮説には、大別して以下があります。

短時間で滅んだとする激変説(隕石衝突説・すい星遭遇説など)
長時間かかったとする漸減説(温度低下説・海退説・火山活動説など)

過去には、裸子植物から被子植物への植物相の変化により、草食恐竜の食物が無くなったという説のほか、伝染病説、原始的な哺乳類による恐竜の卵乱獲説など諸説がありましたが、これらは現在では否定されています。

というのも、これらの諸説では地球全体の恐竜すべてが絶滅した理由とするにはその影響度が限定すぎるからです。同様に長時間漸減説の海退説・火山活動説なども影響が及ぶ地域が限定され、温度低下説も地球全体を覆うほどの氷河期があったとは考えにくいとされます。

さらに短時間激変説における彗星衝突説では、主たる成分が氷である彗星衝突では地球に与えるインパクトが小さいと考えられ、恐竜絶滅を説明するには無理があります。

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従って現在では、残る巨大隕石の衝突による絶滅が確実視されています。1980年、アメリカ・カリフォルニア大学の地質学者、ウォルター・アルバレスとその父で物理学者のルイス・アルバレスは、世界的に分布が見られる白亜紀と新生代との境にできたと推定される粘土層に含まれるイリジウムの濃度が他の地層の数十倍であることをつきとめました。

これは約6600万年前に恐竜が絶滅したとされる時期と一致し、その境界はその後、白亜紀と新生代の英語表記の頭文字を取って、通称「K-T境界層」と呼ばれるようになりました。

アルバレス親子は、イリジウムが地球の地殻にはほとんど存在しないことから、これが隕石の衝突によってもたらされたものであると考え、恐竜大量絶滅の原因を隕石の衝突に求めました。

この説が登場すると、その後こうした衝突跡を探す研究者が増えました。1990年代初頭にアリゾナ大学の大学院生であったアラン・ラッセル・ヒルデブランド(現・カルガリー大学准教授)がハイチの山地で、K-T層に含まれ惑星衝突時の巨大津波で運ばれたと推定できる岩石を発見します。

これらの岩石は特にカリブ沿岸に集中しており、ヒルデブランドと彼の教官のボイントンはこの調査研究成果を出版しました。が、彼等はカリブ海でその肝心のクレーターを発見することはできませんでした。

この話に興味を持ったアメリカのヒューストン・クロニクルの記者カルロス・ビヤーズはヒルデブランドに連絡をとり、以前、グレン・ペンフィールドという研究者がユカタン半島で発見したというクレーターこそが、このK-T層を形成したときに出来た小惑星の衝突跡ではないかと思う、と話しました。

ペンフィールドは、ユカタン半島付近にある、メキシコ国営石油で油田発見のための地磁気の調査を行う技術者でした。1978年のこと、彼はユカタン半島付近のある地点で、磁気データがひとつの点を中心として綺麗な弧を描いていることに気付きます。

そこで、さらにその地域の重力分布データを調べ、地図上に落としていったところ、チクシュルーブという村を中心として重力分布が同心円状に描けることがわかりました。そして熟考を重ねた結果、これは宇宙から飛来した隕石によるクレーター跡ではないかと結論づけました。

さっそくこのことを発表しましたが、しかしこのときはこの研究成果は、大きな関心事になることはありませんでした。ヒルブランドから連絡があったのは、それにもめげず彼が調査を続けようとしていた矢先であり、彼等2人は早速連絡を取り合って共同で研究を進めることに同意しました。

そして油田から採取されたボーリングサンプルを再調査したところ、クレーターの形成年代がK-T境界と一致すること、周囲の岩に含まれる成分が隕石衝突によってしか作られない天然ガラスであるテクタイトという物質と一致することが判明し、「K-T境界で落下した巨大隕石によるクレーター」であると確認しました。

こうして、1991年、巨大隕石による衝突クレーターと見なされる「ユカタン半島北部に存在する直径約170kmの円形の磁気異常と重力異常構造」という論文が彼等によって発表され、世界中がこの発表に驚きました。

確認されたクレーターは現在のメキシコユカタン半島の北西端チクシュルーブにあったため、「チチュルブ・クレーター」と命名されました。直径は当初170kmとされていましたが、その後の調査で約200kmに及ぶことがわかり、深さは15~25kmであると見積もられました。

このクレーターの直径についてはその後1995年に直径約300kmという説も発表されましたが、現地での地震探査の結果、現時点では「直径200km」が妥当とされています。また、隕石落下地点は当時石灰岩層を有する浅海域だったと推定され、隕石落下により高さ300mに達する巨大な津波が北アメリカ大陸の沿岸に押し寄せたと推定されました。

そして、それまでは、イリジウムの起源を隕石説とは反対に地球内部に求め、火山活動が恐竜の大量絶滅の原因であるとする「火山説」も複数の研究者により唱えられていましたが、このチチュルブ・クレーターの発見により、これを形成した隕石の衝突が恐竜の大量絶滅を引き起こしたとする説のほうが有力であるとされるようになりました。

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この説では、地球規模の大火災で生態系が破壊され、衝突後に生じた塵埃が大気中に舞い、日光を遮断することで起きた急速な寒冷化が絶滅の原因であると主張されました。

宇宙から落下してくる隕石は、大気圏で表面温度が1万度近くまで熱せられます。高速の隕石は高度11000mより下の対流圏を1秒以下で通り過ぎるので、非常に大きな衝撃波を伴います。地上に衝突した直径10kmの隕石は地殻に数十kmもぐりこみながら運動エネルギーを解放して爆発します。

チクシュルーブ・クレーターを形成した小惑星の大きさは直径10~15km、衝突速度は約20km/s(時速72000km)、衝突エネルギーは、TNT換算3×109メガトンと計算されましたが、この量は冷戦時代にアメリカとソ連が持っていた核弾頭すべての爆発エネルギー104メガトンの1万倍以上に相当します。また、広島型原子爆弾の約10億倍とも言われます。

隕石爆発のエネルギーで衝突地点周辺の石灰岩を含む地殻が蒸発や飛散によって消失し、深さ40km、半径70~80kmのおわん型のクレーター(トランジェントクレーター)ができました。このときクレーター部分とその周辺の海水も同時に蒸発・飛散して無くなりました。

爆発の衝撃による爆風が北アメリカ大陸を襲い、マグニチュード11以上の大地震が起こりました。トランジェントクレーターの底には衝突の熱により溶解したものの、蒸発・飛散せずに残った岩石が溜まっており、やがて再凝結していきます。そして大きく開いたクレーター中心部は地下深部の高温の岩石が凸状に盛り上がってきて中央部が高くなります。

中心部の盛り上がりに対応して地下の岩盤の周辺部は低下し、地表ではトランジェントクレーターのおわん型の壁が崩落して外側に広がっていきます。これらの地殻変動によってトランジェントクレーター周辺の地殻は波うち同心円状の構造が形成され(トランジェントクレーターの形状は消えてしまう)、更に大きなクレーター構造となって残ります。

衝突時の半径が70~80kmだったのに対し、最終的にはこれが200kmにまで広がったのはこのためです。さらに、浅海に空いたこの巨大なクレーターに向かって海水が押し寄せるため、周辺海域では巨大な引き波が起こりました。

勢いよく押し寄せる海水はクレーターが一杯になっても止まらず、巨大な海水の盛り上がりを作った後、押し波となって逆に外側へ向かって流れ出し全世界へ広がりました。衝突地点に近い北アメリカ沿岸では300mの高さの津波となって押し寄せたと想定されます。

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さらに地面に衝突して爆発した隕石は全量が飛散し、衝突地点の岩石も衝撃のエネルギーで蒸発・溶解・粉砕されました。トランジェントクレーターでは、隕石質量の約2倍に相当する岩石が蒸発(ガス化)し、隕石質量の約15倍の融解した岩石と、隕石質量の約300倍に達する粉砕された岩石が飛び散ります。

蒸発した岩石には石灰岩(CaCO3)や石膏(CaSO4)が含まれており、これが大気中で分解して大量の二酸化炭素(CO2)と二酸化硫黄(SO2)が発生したと考えられます。融解した岩石は空中で冷えて凝固し微細なガラス状のマイクロテクタイトになります。

衝突地点から吹き上がった高温の噴出物は、クレーター周辺に落下して森林に火事を起こさせ、大量の煤を発生させます。衝突地点から放出された大量の塵や大規模火災による煤は空中に舞い上がり、太陽光が地上へ到達するのを妨げました。

隕石衝突で大気中に巻き上げられた塵や煤は、比較的大きなサイズのものは対流圏(高度約11000mまで)まで上昇し数か月後には地上に落下しますが、1000分の1mm以下の小さなサイズのものはその上の成層圏や中間圏まで上昇し、そこに数年から10年間とどまりました。

これらは太陽光線に対して不透明であり、隕石落下の直後には地上に届く太陽光の量を通常の100万分の一以下に減少させます。この極端な暗闇は対流圏に大量に噴き上げられた煤や塵が地上に落下するまで数か月続きましたが、その期間気温が著しく低下し、光不足で植物は光合成ができなくなりました。

北アメリカのK-T境界に相当する地層のハスやスイレンの化石から、隕石は6月頃に落下したこと(ジューン・インパクト)、落下直後には植物が凍結したことが分かりました。また、K-T境界前後の地層の花粉分析の結果、その花粉中に、ユリの花粉が多量に発見されており、これからも衝突時期はやはりユリの花の咲く6月だったと推定されています。

なお、K-T境界直後の海洋においても植物プランクトンの光合成が一時停止したことが判明しています。

一方、大気中に放出された二酸化硫黄は空中で酸化し硫酸となって酸性雨として地表に落下したり、一部は硫酸エアロゾルとなって空中にとどまりました。さらに高温の隕石や飛散物質が空気中の窒素を酸化させて窒素酸化物を生成し酸性雨を更に悪化させたことも想定されています。

先に述べた煤や塵と同様に、硫酸エアロゾルも地表に届く太陽光線を減少させる物質であり、これらの微粒子の影響による寒冷化は約10年間続いたと推定されます。これらの隕石衝突による地上の暗黒化・寒冷化を「衝突の冬」と呼びます。

しかし、その後寒冷化の影響がなくなった後、蒸発した石灰岩から放出された大量の二酸化炭素によって温暖化が進み、これは数十万年続いたのでは、ともいわれています。

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以上のように巨大隕石の衝突は衝突地点での破滅的な状況のみならず、数ヶ月から数ヶ年におよぶ地球全体における光合成の停止や低温、さらにその後10年も続いた環境の激変を生起させた結果、多くの生物種が滅びる原因となりました。

K-T境界以前の中生代は大型爬虫類の全盛時代でした。特に恐竜は三畳紀末から白亜紀の最後にかけて、主要な生物として地上に君臨しました。また、翼竜は三畳紀末に空中に進出し白亜紀前期終盤まで繁栄しました。彼等陸上を闊歩し、空を飛ぶ恐竜はこの隕石の衝突による環境変化による影響を最も強く受けたといえます。

一方の海中では三畳紀以来の魚竜はK-T境界事件の前には既に絶滅していましたが、首長竜や大型の海トカゲ(モササウルス類)などは白亜紀の最終段階まで生存していました。しかし、それもK-T境界を境にして消滅し、こうして海陸を問わず、これらの大型爬虫類の全てが絶滅しました。

生き残ったのは、爬虫類の系統では比較的小型のカメ、ヘビ、トカゲ及びワニなどに限られました。恐竜直系の子孫である鳥類も古鳥類がことごとく絶滅しましたが、現生鳥類につながる真鳥類が絶滅を免れています。海中ではアンモナイト類をはじめとする海生生物の約16%の科と47%の属が姿を消しました。

こうして地球上からほとんどの大型生物がいなくなった後、それらの生物が占めていたニッチは小型の哺乳類と鳥類によって置き換わり、現在の生態系が形成されました。植物については、海洋のプランクトンや植物類にも多数の絶滅種が出ました。たとえば、北アメリカの植物種の79%が絶滅しました。

一方では、K-T境界直後には、シダ類が異常に繁茂しました。シダ類は現在においても噴火による溶岩や火山灰によってすべての植物が消滅した荒地に最初に繁茂することが確認されています。このため、K-T境界後に広がった荒地をもこうしたシダ類が覆ったと想定されており、シダ類によるこうした顕著な植生変化は「シダスパイク」と呼ばれます。

シダは浅海でも生育が可能ですが、K-T境界後のプランクトンがいなくなった海中で堆積した複数の地層からも大量のシダの化石が見つかっています。

このことは広範囲にわたる地上の植生の荒廃と海洋の絶滅が同時に生起したことを意味すします。しかし、シダ類の優占した期間は短く、最終的にK-T境界以前のレベルの多様性まで回復したのは約150万年後でした。

ただ、我々の先祖である哺乳類は生き延びました。哺乳類が隕石衝突を生き延びた理由については、確かなことはわかっていないものの、以下のような要因がその小さな身体が大災害を生き延びる上で有利に働いたというのが多くの研究者たち共通の認識です。

哺乳類は身体が小さいので、地下の穴に隠れることができたこと
哺乳類の食べ物がそれほど特殊化していなかったこと
哺乳類の繁殖のサイクルは早いため、環境の変化に素早く適応できたこと
哺乳類は胎盤を進化させていたため、弱い存在である子供を生存させることができたこと

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その哺乳類の一員である我々がこうした絶滅した恐竜のことを知るようになったのは、人類の歴史からみてもごくごく最近のことといえるでしょう。学術的な記録としては1677年、イギリス、オックスフォード大学のアシュモリアン博物館における、ロバート・プロット(Robert Plot)という学者による大腿骨の膝関節部分の記載が最初といわれています。

これはオックスフォード州中期ジュラ紀の地層より発掘されたもので、メガロサウルスという体長7~10mの恐竜のものと推測されます。「推測される」というのは、プロットは詳細なスケッチを残してはいるものの、標本は現存していないためです。

ただ、この時代にはまだ恐竜としては認識されておらず、プロット自身も自分が発見した化石をゾウのような大型の動物の骨と考えていたようです。

さらに時代が進み、1815年頃にはイギリスのウィリアム・バックランドという別の学者が新たな化石を入手しました。バックランドもまた、この化石がどのような動物に属するのか判断できませんでしたが、1818年にはフランスの博物学者・ジョルジュ・キュヴィエがバックランドの元を訪れ、この化石が大型の爬虫類のものであると指摘しました。

これに基づきバックランドは研究を進め、1824年には科学雑誌上で論文を発表し、断片的な下顎、いくつかの脊椎骨や腸骨、後肢の一部の化石を記載。これを「メガロサウルス」と命名しました。

1822年にはロンドン地質協会でギデオン・マンテルが、「植物食性と思われる動物の歯の化石」について発表を行いました。この化石については、同協会に所属していたバックランドや比較解剖学の大家であるジョルジュ・キュヴィエらは、メガロサウルスより小型のサイの歯かあるいは魚のものだろう、と評価しました。

しかし後年の精査により、彼らもこれが大型の爬虫類のものであると認め、1825年、マンテルはこの歯の持ち主の恐竜を「イグアノドン」と命名しました。そして1842年には、イギリスの生物学者でキュヴィエの後継者と目されていた、リチャード・オーウェンにより、はじめて”Dinosauria”(恐竜)の名称が用いられました。

オーウェンは、メガロサウルス、イグアノドン、ヒラエオサウルスを内包する、地上を闊歩するグループとしてこの恐竜の名を命名したのでしたが、その後1861年には、ドイツのゾルンホーフェンという場所で、Archaeopteryx(始祖鳥)の化石が初めて発見されました。

始祖鳥は、それまで鳥に特有とされていた羽毛を持ちながら、発達した歯や手指、長い尾を持つなど、爬虫類のような特徴を多く保持しており、このことから、1868年には、イギリスの生物学者、トマス・ハクスリーが、鳥の祖先は恐竜である、と指摘しました。

この主張は論争を呼び、その後も長く論議が続きましたが、1926年になって、デンマーク人の画家、ゲルハルト・ハイルマンにより、鳥はより恐竜ではなく、より祖先的な「主竜類」より分岐したとの主張が出されました。

ハイルマンは学者ではありませんでしたが、動物、とりわけ鳥類の細密な描写で定評があり、その描写力はかつて医学生だったときに学んだ解剖学的な見地から得られたものでした。この説は一時、よく受け入れられましたが、1969年にアメリカの古生物学者・ジョン・オストロムの主張によって再び鳥の先祖は恐竜だとする意見が増えてきました。

オストロムは、小型の獣脚類である「デイノニクス」を研究した結果、それまでの「大型でのろまな変温動物」という恐竜のイメージを、恒温性で活動的な動物へと大きく覆し、この結果、小型動物である鳥もまたその先祖は恐竜であるとの理論を展開しました。

その後、アメリカの古脊椎動物学者かつ系統学者である、ジャック・ゴーティエによる分岐学的手法の発達や、新たな祖先的鳥類やマニラプトラ類(恐竜に極めて近いとされる翼竜)をはじめとする化石の発見が相次ぎ、現時点では鳥の先祖は恐竜である、という説が大勢を占めています。

ただし、鳥類の前肢は翼ですが、恐竜から鳥の系統に近づくにつれ、五本指のうち第4・5指が退縮する、つまり第1・2・3指が残る傾向があるのに対し、現在の鳥の指は位置関係上、第2・3・4指であることが発生学的に観察されており、本当に鳥の先祖は恐竜なのか、という論争は今も続いています。

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なお、オストロムとその弟子ロバート・バッカーらによる、小型の恐竜は変温動物であったとする一連の研究は、ひとつの「パラダイムシフト」と目され、これらの研究成果の発表はのちに「恐竜ルネッサンス」とも呼ばれるようになりました。そしてこれ以降の1970年代には、恐竜の行動や生態、進化や系統に関する多種多様な研究が増えていきました。

2000年〜2003年、アメリカ・モンタナ州の約6800万年前の地層で見つかった恐竜化石から、ティラノサウルス・レックスの化石化していない軟組織が世界で初めて発見されました。

ほかにもカモノハシ竜のミイラ化石とされる「ダコタ(2000年に米・ノースダコタ州で発見)」など、軟組織が含まれているのではないかと考えられる化石が複数発見されるようになりました。

また、かつて恐竜はワニのような皮膚をもっていたという説も開陳されるようになり、実際に鱗が保存された化石も発見されています。近年ではとくに鳥類と恐竜との類縁関係が注目されるようになってきており、羽毛をもった化石も発見されたことから、ある種の鳥類のような色鮮やかな羽毛をもつ恐竜もいた可能性も取沙汰されています。

ただし、図鑑等で見られる恐竜の皮膚や羽毛の色模様等は全て現生爬虫類または鳥類から想像されたもので、実際の皮膚がどんな色だったかは、ほとんど不明です。皮膚自体が残った、ミイラ状態の化石も発掘されていますが、質感はともかく色や模様は化石として残らないからです。

また、これまで別属と考えられていた恐竜が、成長段階や雌雄の差なのではないかとする別の観点からの研究も相次いでおり、1970年代以降に起きた「恐竜ルネッサンス」は、現在もまだ継続しているようです。

しかし、恐竜が隕石の衝突によって絶滅したということはほぼ確実視されています。この事実を知ったアメリカの天文学者カール・セーガンは、「隕石衝突の爆発によって舞い上がった塵が地表の暗黒化と寒冷化を起こすのであれば、核戦争による核爆発でも同様のことが起こるのではないか」と言う点に着目して研究を開始しました。

いわゆる「核の冬理論」です。この理論は世界的な反響を呼び、国際学術連合環境科学委員会の主導で1985年から2年間、30カ国300人の科学者を動員して検討が行われました。

その検討結果では、冷戦下でアメリカやソ連が保有していた核弾頭全部(TNT換算104メガトン相当)が爆発した場合、爆発で舞い上がった塵や大規模火災で生成された煤の影響で地上に到達する太陽光の著しい減少と厳しい寒冷化が起こるとされました。

地上に届く太陽光は爆発の20日後で正常時の20%以下、60日経っても正常時の60%。
北半球中緯度地方の夏至の気温は平均で10-20℃低下。局所的には35℃ほど低下して、オゾン層は壊滅的に破壊されます。

現在、世界の核兵器は、実際に配備されているもののほか予備などを含む「軍用保有核」が約1万100発、退役して解体待ちのものを入れると、総数約1万6400発という推定であり、これだけの核兵器があれば、地球は何度でも死ぬことができます。

宇宙からの脅威はなくても、自らの過ちにより恐竜に続いて人類が絶滅する可能性は無限大ともいえ、そうした恐ろしい現実が訪れる日がくるようなことは、是が非でも避けたいところです。

昨日の広島の原爆の日に続き、明後日、9日には長崎原爆の日が訪れます。これら2都市と多くの命を核によって失い、唯一の被爆国となった日本に住む我々は、先頭に立って世界に核兵器廃絶を訴え続けていくべきでしょう。

原発再起動も絶対に反対です。これを推進する政権が一日も早く退陣することを祈ります。

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ビールと無縁仏

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暑い日が続きます。

国会では安保問題が白熱していますが、戦後70年目の今年の夏は特別に暑く熱く日本をヒートアップさせてやろうという、天の意思のような気もしないではありません。

こう暑いと、ついついビールなど冷たいものに手が伸びます。

伊豆でもあちこちにビールを飲ませてくれるところはあるようですが、ここに住んで3年半にもなるのに、いままでそうしたところへは行ったことがありません。しかし、海を見ながら飲むビールは格別でしょう。今度そういう機会があったら、またこのブログでもリポートしてみたいと思います。

ちなみに日本で最初のビヤホールは、大阪の「アサヒ軒」だそうです。その名の通り、現在のアサヒビールの前身の大阪麦酒株式会社が洋食と一緒にビールを提供するために開いたのが始まりです。1897年(明治30年)7月のことで、ここで売られていたのは「氷室生ビール」だそうで、いかにも涼しげです。

場所は、大阪市北区中之島の大江橋南詰ということで、これは大阪駅南側の四つ橋筋通り沿いのようです。続いてその2年後の1899年(明治32年)8月には、今度は日本麦酒醸造株式会社が、銀座8丁目に「ヱビス(恵比寿)ビヤホール」を開いて「サッポロビール」を売り出しました。「ビヤホール」の名称が店の名前に使われたのはこれが初めてです。

このヱビスビヤホールの後身が、洋食の全国チェーン「銀座ライオン」であり、同社ではこの日を記念して、「ビヤホールの日」としているようです。が、無論オフィシャルなものではありません。同店開店時には、ビール500mlが10銭で飲めたという記録があり、これは現在の価格にすると一杯400円くらいになるようです。

それほど高くない、と現在でも思える価格です。そのためか、この恵比寿ビヤホールは大いに繁盛したようです。なお、この当時のビヤホールは屋内にありましたが、現在のように半屋外型もしくは屋外型のいわゆる「ビヤガーデン」の嚆矢は、1875年(明治8年)横浜市山手で外国人が創業したものだといわれます。

このビヤガーデンでホールで出されていたビールが、現在もサッポロビールと双璧をなす、「キリンビール」であり、これを醸造していたのはノルウェー系アメリカ人の、ウィリアム・コープランドという人です。このコープランドの工場が「スプリング・バレー・ブルワリー」であり、ビヤガーデンはこの工場隣接の彼の自宅を改装したものでした。

当初は、日本人向けではなく、主に外国人居留者と外国船の船員向けの店だったようです。しかしその後は日本人にも提供するようになり、現在では一般的となった、工場で出来立てのビールを提供する飲食店「工場内ビアレストラン」のルーツとも言えます。

一方、日本で最初の「屋上ビアガーデン」は1953年に大阪市梅田でオープンした「ニユートーキヨー大阪第一生命ビル店」です。今ではではこうした屋外ビヤガーデンは夏の風物詩です。デパート、ホテルの屋上に多数のテーブル席をしつらえ、ビールなどを提供するビヤガーデンは全国的に普及しています。

中でも、北海道札幌市の大通公園では、毎年夏になると公園の大半がビアガーデンになり、札幌の夏を代表するイベントとなっています。幅65メートル、長さ数百メートルに渡る広大なビアガーデンは、日本国内では他に類を見ない大規模なものです。

ところで、このビールがそもそもいつのころから日本にあるかといえば、これは、1613年(慶長18年)にイギリスが長崎県の平戸に商館を設置した際、持ち込まれたのが最初のものだったようです。その後、1724年(享保9年)にオランダの商船使節団が江戸に入府した際には、8代将軍・徳川吉宗に献上された記録があります。

一方、日本国内初のビール醸造は、1812年に長崎の出島において、オランダ商館長のヘンドリック・ドゥーフによって行われたのが最初です。また、開国後の1869年(明治2年)には、横浜の外国人居留地、山手46番にドイツのヘフト・ブルワリーの醸造技師であったE・ウィーガントらによって、「ジャパン・ブルワリー」が設立されました。

のちに上述のキリンビールが大いに売れ、ビールが国内で普及するようになりますが、コープランドが設立した「スプリング・ヴァレー・ブルワリー」とウィーガントが設立した「ジャパン・ブルワリ」を、1907年(明治40年)に三菱財閥が合併させてできた日本国籍会社が、現在のキリンビールの前身、「麒麟麦酒」です。

日本人の手による初の醸造は、1853年に江戸の蘭学者の川本幸民が実験的に行ったのが最初です。しかし、産業化されたのは明治になってからであり、1869年(明治2年)に、当時の品川県知事であった古賀一平が土佐藩屋敷跡(現・品川区大井三丁目付近)にビール工場を建造し製造を開始したのが最初とされます。

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その後、1874年(明治7年)には甲府で野口正章により「三ツ鱗ビール(ミツウロコビール)」が設立され、1876年(明治9年)には北海道の札幌で官営ビール事業として、「開拓使麦酒醸造所」が村橋久成と中川清兵衛を中心に設立されました。この二人が翌年製造したのが「サッポロビール」であり、これが恵比寿ビヤホールで売られていたことは上述のとおりです。

「官営ビール」ということであり、二人とも役人ということになります。このビールの製造を通じて同じ職場に配属され、意気投合しますが、その後二人とも官を辞してそれぞれ全く別の余生を送っており、人それぞれ、生きる意味もそれぞれ、という感じがします。

中川清兵衛のほうは、弘化5年(1848年)、越後国三島郡与板(現新潟県長岡市与板町)の与板藩御用商人の長男として生まれました。本家の家業を継ぐべく英才教育を受けますが、17歳で郷里を離れ開港間もない横浜へ向かい、ドイツ商館に勤務するようになります。

程なく幕府の乱世の中、国禁を犯してイギリスへ渡航。ここで明治を迎え、その後ドイツへ移り、その地で長州出身の外交官、青木周蔵(のちの外務大臣、駐米大使)と出会い、青木の支援で、当時ベルリン最大のビール製販会社であったベルリンビール醸造会社ティボリ工場に入り、ここでビール醸造の修業をすることになります。

この当時はまだヨーロッパに日本人などほとんどいない時代であり、東洋人軽視・蔑視の厳しい職場環境の中でビール醸造の技術習得に心血を注ぎました。そしておよそ2年後の1875年(明治8年)5月、同社は中川の修業に対し、社長・工場長・技師長連名の、豪華な羊皮紙の修業証書を与えました。この証書はサッポロビール博物館に保存されています。

1875年に日本へ帰国。この当時はまだ開拓使が管轄していた札幌へ移り、開拓使麦酒醸造所の開業に技術者として採用されます。このときはじめて村橋久成と出会いました。

村橋久成(ひさなり)は、天保13年(1842年)生まれで、中川より6歳年下です。薩摩藩士で、薩摩藩第一次英国留学生の一人としてロンドンに留学し、戊辰戦争では砲兵隊を率いて東北戦争・箱館戦争に従軍しました。

維新後、薩摩に戻り、藩庁会計局出納方の出納責任者の補助などを務めていましたが、明治4年(1871年)、開拓使東京出張所に出仕。獣医師のお雇い外国人、エドウィン・ダンなどの指導下で、開拓使が東京府に設置した、農業に関する試験・普及機関である「東京官園(現在の青山学院大学周辺にあった)」を管理するようになりました。

明治6年(1873年)北海道の箱館に近い七重開墾場に赴き、測量と畑の区割りを行うようになり、翌年には屯田兵創設に伴う札幌周辺の琴似兵村入植地の調査、区割りに携わったあと、明治8年(1875年)に東京に戻り、開拓使が東京で建設を計画中の麦酒醸造所の建設責任者となりました。

ちょうど同じころ、ドイツでビール製造技術を習得した中川清兵衛が北海道開拓使に雇われました。そして、北海道に自生していたホップを原料としたビールの醸造所を東京官園に建設するための計画を立案するよう彼に命じました。当初開拓使としては、東京官園で試験的にビールを醸造し、成功の後、北海道に醸造所を造る方針でした。

しかし、これに対して村橋は、北海道のほうがビール造りに気候が適しており、かつ麦酒醸造所は北海道の産業振興が目的であることなどを挙げ、最初から北海道に建設すべきであると主張しました。結果としてこの意見は通り、こうして札幌に麦酒醸造所が建設されることとなりました。

村下は明治9年(1876年)5月、麦酒醸造所のほか、葡萄酒醸造所と製糸所を建設するため、職人らとともに札幌へ出発。ここで本場ドイツでビール造りを学んだ中川と出会います。早速彼とも相談しつつ計画を練り、最終的に麦酒醸造所と葡萄酒醸造所を札幌の創成川の東、現在、サッポロファクトリーがあるところに建設することを決めました。

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こうして、同年9月、麦酒醸造所と葡萄酒醸造所が完成し、合わせて「開拓使麦酒醸造所」と呼ばれるようになります。この完成により、中川は日本初の国産ビール製造の技術開発者としてその名が知られるところとなり、札幌では大きな洋風の官舎に住み、開拓使から高給を支給され名士の一人となっていきました。

ヨーロッパ生活が長かったため生活も西洋風で、毎年春には札幌の著名人を招待し、自邸の庭でビールを振舞う園遊会を開く程であったといいます。

一方の村下は、醸造所完成の1ヶ月後には東京に戻り、ビールの受け入れ側に回るようになります。翌年夏、「冷製札幌麦酒」と名付けられた最初のサッポロビールが開拓使帆醸造所で出来上がり、東京に運ばれ上述の恵比須ビヤホールなどで売られて好評を得ました。

ビール事業は軌道に乗り、彼は2年後の明治11年(1878年)、札幌本庁へ呼び戻されて民事局副長となりました。民事局は登記や戸籍、土地家屋関する事項や民・商法などに関する案件を司る部門ですが、その副長というのは大きな出世であり、醸造所の成功により出世階段を彼が昇り始めた証しでもあります。

ところが、村橋は翌年、突如病気を発し、このため熱海で療養することとなり、そのまま東京在勤となりました。明治13年(1880年)には東京出張所勧業試験場長に任ぜられましたが、そこでかつて慣れ親しんだ職場の北海道開拓使が事業期間満了(明治15年)を目前にして、麦酒醸造所を民間に売却する動きが水面下で進められつつあることを知ります。

開拓使長官の黒田清隆の独断で、麦酒醸造所を含む開拓使官有物すべてを同郷薩摩の政商五代友厚らの関西貿易商会に安値・無利子で払下げるというものでしたが、この噂はリークされ世論の厳しい批判を浴びるところとなりました。いわゆる「開拓使官有物払下げ事件」といわれるものです。

この事件では払下げの規則を作った前大蔵卿の大隈重信が尻尾切りとして政府から追放されるなどの大きな政変が起きましたが、こうした動きに失望したのか、村橋は明治14年(1881年)、突然開拓使を辞職。北海道知内村に設立された牧畜会社の社長に就任しましたが、その後、家族も捨てて托鉢僧となり、行脚放浪の旅に出ました。

その後1882年(明治15年)に開拓使は廃止され農商務省へ移管、1886年(明治19年)に民間へ払い下げられ後に現在のサッポロビールとなりました。

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と同時に、当時44歳であった中川もまた追われる様にビール醸造の世界から去ります。その後まもなく、パスツールが酵母を発見し、ビール造りは転換期を迎えましたが、中川の退職の理由は、この時点で彼がドイツで習得した技術は古くなってしまったと考えたためでした。

開拓使に変わって新しく出来た道庁は、新しい技術を持ったボールマンという技師をドイツから招きましたが、彼は中川に新しい技術をまったく教えなかったといい、こうしたことが重なり、中川は居場所を失い、開拓使麦酒醸造所を辞めることになったといわれています。

やがて中川は家族を率いて小樽へ移住。現在の小樽運河沿いに船宿「中川旅館」を開業。船着場から近く桟橋が旅館前にある事から繁盛したといいます。

その後海上交通が不便な利尻島の窮状を見かねた中川は、工事資金を低金利で貸しオシドマリ港の防波堤や船着場の整備を支援して一定の成果を挙げました。が、工事費の大幅な膨張で提供した資金の配当金は元より、元金の返済も絶望的となってしまい、その結果1898年(明治31年)、繁盛していた旅館を手放し妻と二人で横浜へ移住しました。

1916年(大正5年)食道癌により死去、享年69。末期の水は生前の彼の希望通りサッポロビールで浸したといいます。

郷里である新潟の与板には、在は長岡市管理の駐輪場となっている生家である中川家跡地に彼の偉業を称えて「中川清兵衛生誕碑」が建立されているほか、彼にちなんだイベントとして毎年7月下旬に「中川清兵衛ビールフェスタ」が開催されています。

一方の村橋は、長年消息不明となった後、明治25年(1892年)9月末、神戸市葺合村六軒道の路上で、所持品もなく、木綿シャツ1枚とほとんど裸の状態で倒れているところを警邏中の巡査に発見されました。

名前を尋ねられ、一旦「鹿児島県大隅国日当山33番地、川畑栄蔵」と偽名を名乗った後、再度問われ、「鹿児島塩谷村、村橋久成。妻はしゅう、長男は定太郎。村橋周右衛門、新納主税という親戚がいる」と名乗り再び倒れました。施療院に運び込まれたものの、9月28日死去。享年50。死因は肺結核および心臓弁膜病でした。

現在のサッポロビールの礎を作った二人が、いずれもあまり幸せとはいえない末路を辿ったわけですが、このことについて、サッポロビールはそのホームページで、「物語サッポロビール」の著者で作家の田中和夫氏の談話を掲載しています。曰く、「激動の時代にあって、彼らは自分なりの美学をもち、夢をもち、それに向かって真摯に生きた」と。

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神戸で行き倒れた村橋は、その後神戸墓地に仮埋葬されました。が、神戸市役所で鹿児島に照会したものの該当者は無く、半月後の神戸又新日報に「行旅死亡人」の広告が載せられました。そしてこれを読んだ東京の新聞「日本」の記者が「英士の末路」と題して、村橋の死を報じたのをさらに、元開拓使長官で上司の黒田清隆が読み、村橋の死を知ります。

そして黒田は、神戸から遺体を東京に運び、自ら葬儀を行いましたが、その葬儀には黒田のほか、陸奥宗光外務大臣、仁礼景範海軍大臣など現役の大臣ほか、複数の県知事、多数の貴族員議員などが出席または香典を出したそうです。生前、いかに信望のある人物であったかがこの一事からもうかがわれます。その墓は、青山霊園にあります。

ところで、この「行旅(こうりょ)死亡人」とは何かというと、これは本人の氏名または本籍地・住所などが判明せず、かつ遺体の引き取り手が存在しない死者を指すものです。「行旅」とありますが、その定義から必ずしも旅行中の死者であるとは限りません。が、旅先で亡くなった人を扱うことが多いことから、こう称されるようになったものです。

行旅死亡人として認定されると、法律に基づいて死亡推定日時や発見された場所、所持品や外見などの特徴などが市町村長名義で、詳細に官報に公告して掲載されるもので、現在でも行われています。また、行旅死亡人となると地方自治体が遺体を火葬し遺骨として保存後、この官報の公告が行われ、引き取り手を待つ事となります。

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こういうふうに旅先で人が亡くなることを、「客死」ともいいます。旅先または「よその土地」で死ぬことであり、旅行や仕事などにより普段の生活を送っている場所から離れている場合など、普段のコミュニティと切り離された状態で死を迎えることであり、外国訪問先で死亡した場合も「客死」と表現されます。

客死は、旅先など急な環境の変化が、肉体にとって重荷(ストレス)となり、急に体調を崩してしまうために起こるものであり、長時間の移動による疲労により起こるといわれます。、また、同じ姿勢を維持し続けることによる疾患の発生、すなわち俗にいうエコノミークラス症候群のような「静脈血栓塞栓症」によって亡くなる場合も含まれます。

慣れない状況での交通事故や、旅先で犯罪(あるいはテロ)・大規模災害との遭遇なども原因です。客死すると、所持品からや当人が生前に伝えるなどした親族など連絡先に一報が入れられるのが通例ですが、当人が自らの出自を明らかにせず、所持品からも身元が判明しなかった場合など、連絡先が判らなくなってしまう場合に行旅死亡人と扱われます。

今日では輸送機関は世界規模で発達しているため、少なくとも身元がはっきりしている遺体を、当人の遺族が待つ地域へ輸送することは可能です。がしかし、現代よりももっと輸送が素朴な手段に頼っていた昔は、こういった客死による死者の輸送は困難を極めました。

塩漬けなど、当時としては可能な保存手段を用いて遺体を保存し、長い年月をかけて輸送する場合もあれば、やむを得ず当地に埋葬することもありました。また、一度は客死した土地に埋葬されながら、後年遺族が訃報を知り、その遺体(遺骨)を出向いて持ち帰ることもありました。

ただ、中には訪れた先を非常に気に入った結果として埋葬先に希望し、客死した地に埋葬されたケースも見られます。例えば日本ではお雇い外国人の内に故国に帰らず、日本国内に葬られた者の墓が青山霊園などに残されています。

一方、身元がはっきりしない場合、その昔遺体は皆、「無縁仏」として処分されました。供養する親族や縁者のいなくなった死者またはその霊魂、またはそれらを祭った仏像や石仏などを意味する用語ですが、現在の日本でもこの言葉はよく使われます。

現代の日本では一般に死者は火葬され、墓に葬られ、子供や兄弟など親類縁者によって供養されますが、代を重ねるに連れ、墓の承継者の消滅などによって無縁化する場合が出てきます。こうして埋葬者が無縁仏となった墓は大都市の霊園では約10%を超えるほどあるともいわれ、供養塔や無縁仏のみを集めた無縁墓地に合祀されたりします。

たとえ数代は供養する子孫が続いたとしても、縁者が遠方に移転したり、代が途切れたりする場合にもいずれは無縁仏と化します。確率論的には子々孫々まで供養される可能性の方がはるかに低く、全ての墓はいずれ無縁化する運命をたどります。

このように無縁墳墓は増え続ける可能性があることから、平成11年(1999年)から施行された法律では、墓地の管理者は、無縁墳墓に関する権利を有する者に対し、1年以内に申し出るべき旨を官報に掲載するとともに墓の見やすい場所に立札を立てるなどして公告し、期間中にその申し出がなかった場合には、無縁仏を容易に改葬できるようになりました。

また、一部にはどうせ無縁化するなら墓など作らず、自然葬や海洋散骨などの方法で、直接遺骨を海、山などの大自然の循環の中に返させようとする人々もあります。これは都市部における墓地不足のためでもありますが、墓園や宗教団体の商業主義に対する反感、宗教観の変化、核家族化、少子化による維持への不安も背景にあるものと考えられます。

また一方で、行政側が無縁仏の遺骨の置き場の確保に苦慮するようになり、一部自治体では遺骨を粉砕して無縁仏の減量化を図ったり、遺骨の保管年数を短縮したりするなどのケースも出てきています。

こうした無縁仏としての扱いは、何も日本に限ったことではなく、欧米にも無縁墓はあります。英語では「Pottersfield」と言い、軍籍の無縁墓では「無名戦士の墓」と呼ばれる共同墓があります。ローマ時代の採石場の後で、無縁仏六百万体が納骨されているカタコンブと呼ばれる地下墓地は有名です。

その昔、パリのセーヌ川で一人の少女の溺死体が見つかり、身元不明者として扱われたのち、こうした無縁墓に葬られました。ところが、このとき彼女のデスマスクが取られた、と信じられており、その後数多くの文芸作品の題材になり、このため1900年以降の芸術家の家では、この少女のデスマスクを壁に飾ることが流行になりました。

少女は、1880年代の終わりごろ、セーヌ川のルーブル河岸で遺体で見つかったとされます。その遺体には暴行の痕跡がなかったことから、自殺と考えられましたが、遺体が運ばれたパリの死体安置所の病理学者は、あまりの彼女の美貌に心打たれ、型工を呼んで石膏のデスマスクを取らせた、とされています。

何分古い話であり、果たして型工まで呼んで本当にデスマスクを取ったのかという疑問は当然わきます。また、この型工を取ったとされるモデル製造業者の末裔が、このデスマスクを見て死体から取ったものではないのでは、という疑義を呈しており、川から引き上げられた死体がこれほど明瞭な容貌を保っているということは通常ないと主張しました。

従って、本当にデスマスクなのかどうかすらもはっきりわからない伝承なわけですが、とまれ、このマスクは芸術関係者の間では人気となり、マスク表面の肌の引き締まり具合から推定するに、モデルである少女の年齢は16歳を越えることはないとされてきました。

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最初にデスマスクが作られたとされる1880年代以降、数多くの複製品が作られるようになり、そうした複製品は、あっという間にパリの前衛芸術家の間で、時代の先端を取り入れた内装品として使われるようになっていきました。

「異邦人」や「カリギュラ」などの作品で知られ、史上2番目の若さでノーベル文学賞を受賞した劇作家のアルベール・カミュなどもこのデスマスクを書斎に置いていた一人であり、ほかにも多くの芸術家が、彼女の謎めいた微笑に魅せられました。

作家ののみならず、彫刻家、画家など多くの芸術家たちがその不気味なまでに幸せそうな表情が物語るようになり、その微笑をモナリザの微笑にもなぞらえ、彼女の人生、死、そして何者であったのかについて、物語がまた物語を産んでいきました。

ある学者は、「この身元不明少女はその時代のエロティックな理想像になった」と語り、また別の作家は、身元不明少女を「彼女は繊細な蝶のようだ。のんきで爽やかで、生命のランプに向かってまっすぐ羽ばたいて飛び込み、そのきゃしゃな羽を焦がす。」などと美化しました。

このほか、ドイツの有名作家、ラインホルト・ムシュラーが1934年に出したベストセラー小説「未知数」では、デスマスクの少女を題材に、ある孤児だった女性が英国の外交官と恋に落ち、ロマンスの果てに捨てられてセーヌ川に身を投げるという感傷的な物語が語られました。この話は、1936年に同名タイトルで映画化されています。

そのほか小説としては、「主人公がデスマスクを凝視したあげく自身の娘の顔と信じこんで、幻覚と罪の意識から心臓発作を起こして死ぬ」といった、不気味な話を作った作家もいます。

近年になって、この身元不明の少女の顔は、欧米で心肺蘇生法の訓練用マネキン「レスキュー・アン」にも使われるようになりました。このマネキンは1958年にはじめて作られたものですが、その後1960年以降数多くの心肺蘇生法の講習会で使われるようになり、広く普及しました。このため、この顔は「史上もっともキスされた顔」と言われます。

無縁仏として単に葬られるだけでなく、死後も多くの人に生前の顔かたちが愛されたということは、亡くなった少女にとっても幸せなことでしょう。

デスマスクではありませんが、晩年不遇だった、村橋久成もまた、鹿児島と札幌にその銅像が建てられています。また、鹿児島中央駅前東口広場に薩摩藩英国留学生17名の像、「若き薩摩の群像」の一人としてその姿が残されています。さらに、札幌市にある北海道知事公館前庭に村橋の胸像「残響」が2005年に建てられています。

が、わたくし的には死して銅像を残すというのは、偉業を成し遂げた人を讃えるという意味では一定の理解はできるものの、やはり個人崇拝の対象やひいては神格化の対象にもなりうるのであまり良いことだとは思っていません。

宗教で言うところの偶像崇拝にもつながりかねませんし、ソ連のレーニン像、北朝鮮の金日成像や、2003年4月9日に撤去されたイラクのサッダーム・フセイン像など特に独裁的な国家の指導者に多く見られるものでもあります。

なので、セーヌ川の少女のように、自分の顔が芸術の対象になりうる、と自信がある人以外はデスマスクや銅像は造らない方がいいと思います。

それでも作って欲しい?そういうあなたは、まず鏡を見てじっくりと客観的判断をされることをお勧めします。

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次郎長と鉄舟 ~静岡市清水区

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1955年8月3日、集英社が、少女漫画雑誌「りぼん」を創刊しました。

「少女ブック」の妹雑誌および幼女向け総合月刊誌として創刊されたもので、その掲載内容は当初、グラビア・おしゃれや習い事についての読み物・少女漫画などで、定価は100円でした。

1958年ごろから、少女漫画の数が増えて純粋に少女漫画誌と呼べる内容になり、1960年代には「ドンキッコ」、「魔法使いサリー」、「秘密のアッコちゃん」がアニメ化され、テレビで放映されて大人気になりました。

また、1970年代末期から1980年代半ばにかけて、マンガ評論流行の影響もあり、本誌の特徴的な作風を「おとめちっく」と呼ぶ一種のブームが起こりました。当時の主要作家の1人、田渕由美子が早稲田大学に在学したことから、「早大おとめちっくくらぶ」をはじめ、東大ほか多数の高校・大学に同種のサークルが男子学生を中心に組織されました。

また、1970年代から付録の多様化が行われ、特に1975年以降は集英社専属のおとめちっく作家による付録が毎号付属し、またその付録自体のファンシーグッズ(装飾品や装身具)としてのセンスのよさが、この時期の高年齢層の読者の支持を集めました。

1977年には小学館から「ちゃお」が創刊されて人気を博し、「りぼん」、「なかよし」とともに、三代少女漫画雑誌(月刊誌)といわれるようになりました。「なかよし」は、りぼんよりも1年早い1954年に講談社が創刊したものです。

講談社はその後1962年にも週刊誌、「少女フレンド」を創刊して好評を博しましたが、これに続いて翌年の1963年には集英社も「マーガレット」を創刊してライバル誌となり、のちに小学館が1970年に「少女コミック」でこの市場に参入し、週刊誌の部門でも、この3社が競合するようになりました。

月刊誌、「りぼん」は1980年代後半から1990年代半ばにかけて部数が上昇し始め、1994年には少女漫画誌では史上最高の部数となる255万部を発行しました。しかし、その年から部数は徐々に減少し、2002年には発行部数で「ちゃお」に抜かれてしまいます。

2010年10月から2011年9月までの平均発行部数は20.9万部と、最盛期に比較して10分の1以下の数字にまで下がりましたが、今度は「なかよし」の発行部数が低下したため、現在では三大小中学生向け月刊誌中の最下位から脱しました。今月、創刊60周年を迎えることになります。

りぼんからアニメ化されたものは、上述の魔法使いサリーやひみつのアッ子ちゃんがありますが、比較的最近のものでは、1990年に「ちびまる子ちゃん」があり、フジテレビ系列ほか放映されて、国民的大ヒットとなりました。

本作品は、1974~5年の昭和50年代初期に、静岡県清水市(現、静岡市清水区)の入江地区で少女時代を過ごした、作者の「さくらももこ」の投影である小学校3年生の「ちびまる子ちゃん」が、家族、友達とともに繰り広げる日常生活を描いた、笑いあり、涙ありのコメディです。

初期は作者自身が体験した小学生時代の実話をもとにしたエッセイ風コミックでしたが、長期連載になるに従って作風が変化し、ほぼフィクションのみの話になっていきます。それに伴い、登場キャラクターも初期は比較的リアルな人物描写だったものが、次第にマンガチックにデフォルメして描かれるようになりました。

もともと実話がベースだったため、ギャグ漫画として独白風のツッコミが入っていることが本作の特徴の一つです。時に自虐的でもあります。さくらももこは、本名(旧姓)、三浦美紀といい、1965年5月8日生まれ。

清水市立入江小学校、同・第八中学校、静岡県立清水西高等学校卒業後、静岡英和女学院短期大学(現・静岡英和学院大学短期大学部)国文学科在学中に「りぼんオリジナル」冬の号(集英社)にて「教えてやるんだありがたく思え!(教師をテーマとしたオムニバス作品。「ちびまる子ちゃん」第1巻に掲載)でデビュー。

英和女学院短大卒業後、上京し「ぎょうせいに」入社しましたが、勤務中に居眠りするなどして上司から「会社を取るか漫画を取るかどちらか選べ」と迫られ「漫画家として生活していく」と回答したため、同年5月末にたった2か月の勤務で退職。同年8月、「りぼん」で「ちびまる子ちゃん」の連載開始。

漫画家のほかにも、エッセイストとしても活躍しており、独特の視点と語り口で人気です。初期エッセイ集三部作「もものかんづめ」「さるのこしかけ」「たいのおかしら」はいずれもミリオンセラーを記録しました。

子供の頃、「青島幸男みたいに偉くなりたい。歌を作りたい」と言ったといい、これに対して父のヒロシは、「青島幸男は国会議員だ。無理に決まっている」と一蹴しました。

その青島を目標としていたさくらが大人になり、漫画ちびまる子ちゃんを描くようになったわけですが、この作品の中でも、主人公であるまる子が青島の作詞したコミックソングに感銘を受け、「大人になったら青島幸男みたいな曲を作る!」と叫ぶシーンが出てきます。

そしてその夢を忘れなかったまる子=さくらが、のちに念願かなって作詞した曲が、大ヒット曲「おどるポンポコリン(BBキング)」だったといいます。

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このさくらが育った清水市は、静岡県中部にあります。現在の静岡市清水区の大半で、旧蒲原町および旧由比町を除いた部分に当たります。2003年4月の合体合併により、現在の静岡市の一部となりました。

日本平の東麓に位置し、古くから富士山を望む湊町です。天然の良港である折戸湾を持ち、古くから海運中継地として栄えてきました。東海道の宿場町でもありますが、近隣には、江尻・興津・由比・蒲原などの宿場もあります。

清水湊はこれらの中でも中心的な宿場であり、西国の赤穂の塩等を江戸へ送る中継基地としての役割を担うと共に、富士川舟運を通じた信濃・甲斐方面からの廻米輸送基地でもありました。

また、駿河をはじめ甲斐、信濃の江戸幕府領地からの年貢が富士川沿いの鰍沢河岸、岩淵河岸に集められ、ここから清水湊に送られ、大型船に積み替えられて江戸へ回送されていました。明治以降も続いて発展し、1899年には貿易港の指定を受ける一方、軍事拠点としても発展し、日本軽金属、東亜燃料、日立製作所等々の軍事工場が次々に進出しました。

1945年7月7日には、米軍による清水大空襲を受けました。同月30~31にも米軍駆逐艦からの艦砲射撃を受けて大きな被害を受け、死者・行方不明360名、重軽傷者445名、家屋被害8689棟に及びました。

しかし戦後は、戦時中に臨海部にあった大企業の技術を引き継ぐかたちで民生品製造工場が作られ、昭和20~30年代にはさらに各種工場が建設され、清水の工業生産高は一時県下一を誇りました。しかし、その後のサービス産業へのシフトなどの産業構造の変化によりその地位を失いました。現在の工業生産高は一時の底を脱し微増に転じているようです。

現在の清水の産業といえばやはり貿易であり、主要輸出品としては二輪自動車・自動車部品・機械類などのが多く、ボーキサイト(アルミの原鉱)・液化天然ガス等の輸入港として国際貿易港としては中枢国際港湾に次ぐ位置を占めます。また、清水港はマグロの水揚げ量日本一で知られています。

このほか、あまり知られていませんが、バラの生産量が多く、かつては日本一であった時期もあります。県内各都市がそうであるように、みかんや緑茶の生産も多いほうですが、漁業ではマグロ以外では駿河湾で獲れるシラスや桜えびなどの海産物が有名です。

江戸初期に、幕府は大坂や江戸の橋や河川、道路を整備して都市機能を持たせるともに、清水湊のような直轄港を整備して国内貿易の振興を図る政策を打ち出しました。が、やはりトップダウンだけでは無理があり、多くの牢人に労務管理として口入業を行わせました。

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このため清水湊のような大きな港町には多くの荷役人が集まってきましたが、これらの人夫の荷役作業の口入れなどで権力を高め、地元に君臨する任侠人を容認するような土壌が江戸時代を通じて育ちました。そうした「親分」の中でも、とくに幕末に力を伸ばしたのが、かの有名な清水次郎長です。

「海道一の親分」ともいわれ、大政、小政、森の石松など、「清水二十八人衆」という屈強な子分がいたとされます。

文政3年(1820年)、清水町美濃輪町(現清水区美濃町)の船持ち船頭・高木三右衛門(雲不見三右衛門)の次男に生まれました。幼少時の名は長五郎といい、母方の叔父にあたる米穀商の甲田屋の主、山本次郎八に実子がなかったため、甲田屋の養子となりました。

その幼少時代の仲間に「長」という子供がいたために、周囲が長五郎を次郎八の家の長五郎、略して次郎長と呼ぶようになり、自らも長じてからも次郎長で通すようになりました。

幕末のころの清水湊というのは、上述のとおり年貢米を江戸へ輸送する「廻米」でもっており、湊の廻船業者の多くは口銭徴収を副業とする口入屋でもありました。が、次郎長が養子にもらわれた山本家は、清水湊の中でも新開地に属する美濃輪町にあり、ここには牢人出の多い廻船業者と一線を画する新々の海運業者も多く、全うな商売をしていました。

養父の次郎八もそうでしたが、天保6年(1835年)に死去し、このときまだ若干15歳だった次郎吉が甲田屋の主人となりました。ところが次郎長は、このころからもう自在奔放なところがあり、妻帯して家業に従事する一方で、博奕に手を出し、頻繁に喧嘩を繰り返すようになりました。

長じてからもその素行は直らず、そして23歳になった年、喧嘩の果てについに人を斬って死なせてしまいます。このとき次郎長は、妻を離別して実姉夫婦に甲田屋の家産を譲り、弟分であった江尻大熊らとともに出奔し、無宿人となりました。そして、諸国を旅して修行を積み、交際を広げ成長した次郎長が清水湊に帰ってきたのは、27歳のときでした。

弘化4年(1847年)のことであり、このとき江尻大熊の妹おちょうを妻に迎え、ここに一家を構えました。このころには子分も何人かでき、清水一家の名前も少しは売れるようになっていましたが、長く清水を不在にしていたためにここを牛耳る博徒の勢力図も変わっており、彼等との抗争が次第に激しくなっていきます。

そんな中、またまた賭場でモメて人を斬り、逃亡の旅に出た次郎長は、今度はその後およそ10年に渡って地方を放浪します。そして、38歳になったころ、清水に残していた妻のおちょうが病気で亡くなったという報に接しました。

彼女の病死の知らせに、慌てて清水へ帰る途中、尾張知多亀崎乙川において彼を捕まえようとした十手持ちの保下田(ほげた)の久六を斬りました。その久六を斬った刀を、次郎長の名代で、四国の金毘羅さんに奉納に行ったのが、子分の森の石松でした。

無事に刀を奉納して帰る途中、石松は近江国の親分から、おちょうさんの香典にと渡された25両の大金を預かります。そして浜松まで戻ってきましたが、このとき石松が大金を持っている事を知った、戸田吉兵衛という博徒がその金を奪って、石松を殺してしまいます。

無論、次郎長はすぐに報復し、吉兵衛を斬りますが、さらにこの年には、菊川において下田金平という別の博徒と手打ちを行う、と言った具合で、これら一連の出来事は、すべて次郎長が清水に38歳で戻って3~4年のうちに起こっています。彼にとってはその生涯で一番激しい起伏のあった一時期です。

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さらに43歳になった文久4年(1864年)には豊川において、甲斐の「黒駒勝蔵」と激しいい戦いを演じました。のちに次郎長最大のライバルと言われる男です。

勝蔵は、甲斐国黒駒(現山梨県笛吹市御坂町上黒駒)の名主の次男として生まれた男で、25歳で渡世人となり、隣村の竹居村の中村安五郎(竹居安五郎)の子分となりました。40歳のとき、安五郎が役人に捕縛され獄死したあとは、その手下を黒駒一家としてまとめ、黒駒を拠点に甲州博徒の大親分として勇名を関八州に轟かせるようになります。

このころから勝蔵ら甲州博徒は、富士川舟運の権益を巡って、清水次郎長と対立するようになり、勝蔵は次郎長の勢力圏である駿河国、岩淵河岸や興津宿を襲撃しました。これを受けて勃発したのが、上述の抗争であり、文久4年(1864年)5月に起こりました。

博徒抗争史上かつてない殺戮戦だったといわれており、黒駒の勝蔵が三河の平井村(現・豊川市平井町)の雲風亀吉(平井亀吉)のところに滞在していること知った次郎長は、大政以下の中心的な子分を勝蔵、亀吉襲撃に送り込みました。

朝早く、豊川河口(現在の豊橋市梅藪町)の前芝海岸に舟で乗り付けた次郎長の襲撃隊は亀吉の自宅へ向かい、勝蔵たちが昼間から酒盛りをしている最中を襲いました。油断しているところを襲われた亀吉と子分たちは必死で応戦し、親分の勝蔵と亀吉を逃がすことはできましたが、子分5人は全員が討ち死にしました。

この時、酒盛りに一緒にいた亀吉の妾も一緒に殺されており、襲われた亀吉の自宅の座敷は、血だまりで染まっていたと言われています。勝蔵、亀吉の殺害には失敗しましたが、この一件により、次郎長一家の名前は東海道に鳴り響きました。

勝蔵はその後の幕末の動乱期の慶応4年(1868年)に黒駒一家を解散し、「小宮山勝蔵」の変名を用いて、「赤報隊」に入隊し、官軍として戦っています。赤報隊は、王政復古により官軍となった長州藩、薩摩藩を中心とする東山道鎮撫のための一部隊です。

勝蔵はここに入って戊辰戦争に参加しましたが、この赤報隊というのは勝蔵のような男を受け入れたことからもわかるように博徒や牢人を集めた烏合集団でした。旧幕府軍を挑発するために江戸の市街を焼き払ったり、伊勢長島藩主・増山正修から軍資金という名目で3000両を強奪するなど、必ずしも正義の軍であったとは言えない一面がありました。

このため、のちに「偽官軍」として新政府軍に処罰されるところとなり、このとき隊長であった元・下総相馬郡(現茨城県取手市)の郷士、相楽総三は処刑され、赤報隊は解散となりました。この後、勝蔵は京都で官軍の一部隊、徴兵七番隊(のち第一遊撃隊)に入隊し、「池田勝馬」の変名を名乗り、駿府、江戸、仙台と転戦しました。

戊辰戦争終結後、徴兵七番隊が解散されると明治3年(1870年)甲斐へ戻り、甲斐の黒川金山の採掘に携わりました。しかし、翌年脱隊の嫌疑で捕縛され入牢し、同年10月14日に山梨県甲府市酒折近くの山崎処刑場で斬首されました。

一説によれば、勝蔵は自分の功績に対して新政府に恩賞を求めたといい、これに対して新政府としては博徒を官職につける訳にもいかないので、過去の悪事を理由に勝蔵を捕え、処刑したといわれています。このように、次郎長の最大のライバルとされながらも、日ごろの素行の悪さや末路の悲惨さなどから、後世の評判は何かとかんばしくありません。

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一方ライバルの次郎長は、勝蔵が赤報隊に身を投じたのと同じ慶応4年(1868年)に、東征大総督府の駿府町差配役から清水湊の警固役を任命され、この役を7月まで務めました。

同年9月18日、旧幕府海軍副総裁の榎本武揚が率いて品川沖から脱走した艦隊のうち、咸臨丸は暴風雨により房州沖で破船し、修理のため清水湊に停泊しました。ところが、その修理が遅れたために、新政府海軍に追いつかれて交戦に発展し、このとき見張りのため船に残っていた船員全員が死亡して海に放り込まれました。

彼等の遺体は、逆賊として清水港内に放置されていましたが、市民の誰もが新政府の威光を恐れて弔おうとしません。このとき、次郎長は小船を出して彼等を収容し、現在の清水港マリンパーク裏にあった向島の砂浜に埋葬して、ここに「壮士墓」を建立しました。

死体の収容作業を見ていた新政府軍は、その行為を咎めましたが、次郎長は一喝、「死者に官軍も賊軍もない」と言って突っぱねたといいます。この話を、新政府において後に静岡藩大参事となる、旧幕臣の山岡鉄舟がのちに聞き、次郎長の義侠心に深く感じ入ったといわれており、これが機縁となって次郎長は山岡と深い付き合いをするようになります。

以後、明治時代以降の次郎長といえば、数々の慈善事業をした篤志家として知られるようになります。1871年(明治4年)には旧久能山東照宮の神領である山林開墾を企図しますが、このときは地元の大谷村の村民の抵抗に遭い断念しています。が、それに懲りず、1874年(明治7年)には本格的に富士山南麓の開墾事業に着手。

このころまでには完全に博打を止めていた次郎長は、清水港の発展のためには茶の販路を拡大するのが重要であると着目し、蒸気船が入港できるように清水の外港を整備すべしと訴え、また自分でも横浜との定期航路線を営業する「静隆社」を設立しました。

このほかにも県令・大迫貞清の奨めによって静岡の刑務所にいた囚徒を督励して現在の富士市大渕の開墾に携わったり、私塾の英語教育を熱心に後援しました。また、明治に入ってから駿府では旧幕臣が新政府に対する恨みを込めてテロ行為を行う、といった事件が相次ぎましたが、次郎長は地元で血を流させないため双方の調整役を買ったりしています。

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ところが、明治17年(1884年)に、突如次郎長は「賭博犯処分規則」により静岡県警察本所に逮捕され、同年4月には懲罰7年・過料金400円に処せられ、井宮監獄(静岡市葵区井宮町)に服役しました。しかし、このときの静岡県令(のちの知事)で、旧幕臣の関口隆吉など尽力により、翌年には刑期の満了を待たずに仮釈放になりました。

その後も次郎長の慈善事業は続き、明治19年(1886年)には、済衆医院という病院を土佐出身の医師らの援助で清水に開設しているほか、富士山南麓開墾官有地払い下げを受け、その開発を横浜の実業家、高島嘉右衛門に依頼しています。

1888年(明治21年)7月19日には深い親交のあった山岡鉄舟が死去し、谷中全生庵で行われた葬儀には清水一家で参列しています。が、自身もその5年後の明治26年(1893年)、風邪をこじらせ死去。享年74(満73歳没)。

戒名は碩量軒雄山義海居士。その墓は、清水区南岡町の梅蔭禅寺にあり、ここには妻のおちょう、大政、小政の墓もあり、次郎長の銅像もつくられています。ちなみにこのおちょうは二代目であり、幕末の動乱の中で精鋭隊(慶喜護衛隊、後の新番組)の隊士に殺害されています。

この新番組の隊長格だったのが山岡鉄舟であり、次郎長と親交があった山岡が統じる隊のメンバーがなぜ次郎長の妻を殺害したのかは謎ですが、おそらくは幕臣である山岡と博徒の次郎長が親しくするのをよく思わない隊士も多かったのではないかと推察されます。

この山岡と次郎長の関係ですが、駿州政財界の御意見番といわれ、元県議会議長を務めた村本喜代作は、1956年に遠州新聞社から「遠州侠客伝」という次郎長の伝記を出しており、この中で、次郎長は鉄舟との出会いがなかったらここまで大物にはなれなかっただろうと書いています。

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山岡鉄舟は、天保7年(1836年)、江戸の幕臣の絵に生まれ、明治政府では、静岡藩権大参事、茨城県参事、伊万里県権令、侍従、宮内大丞、宮内少輔を歴任しました。

勝海舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と称され、人物として評価の高かった人です。剣・禅・書の達人としても知られ、身長6尺2寸(188センチ)、体重28貫(105キロ)と大柄な体格で、家が武芸を重んじる家だったため、幼少から神陰流、樫原流槍術、北辰一刀流を学んで武術に天賦の才能を示し、維新後、一刀正伝無刀流の開祖となりました。

幕末には、清河八郎とともに新選組・新徴組の前身にあたる浪士組を結成。江戸無血開城を決定した勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、官軍の駐留する駿府(現静岡市)で単身で西郷と面会。この時鉄舟は、同じ幕臣の勝海舟から託されていた手紙を西郷に渡し、徳川慶喜の意向を述べ、朝廷に取り計らうよう頼みました。

この際、西郷から5つの条件を提示されますが、それは、江戸城を明け渡す、城中の兵を向島に移す、兵器をすべて差し出す、軍艦をすべて引き渡す、将軍慶喜は備前藩にあずける、という厳しいものでした。鉄舟はそのうちの4つの条件を飲みましたが、このうち最後の条件だけを拒んだところ、西郷はこれは朝命であると凄みました。

これに対し、鉄舟は、もし島津侯が同じ立場であったなら、あなたはこの条件を受け入れないはずであると反論したところ、西郷はこの論理をもっともだとして認め、これによって江戸無血開城がすみやかにおこなわれるところとなりました。

明治維新後は、徳川家達に従い、駿府に下り、静岡藩藩政補翼となりました。このとき知り合ったのが清水次郎長であり、咸臨丸の一件を聞いてからは意気投合するようになり、彼と共同で幕臣の救済事業である牧之原開墾などにも取り組みました。

西郷のたっての依頼により、明治5年(1872年)に宮中に出仕し、10年間の約束で侍従として明治天皇に仕えました。その侍従時代には、深酒をして相撲をとろうとかかってきた明治天皇をやり過ごして諫言したり、明治6年(1873年)に皇居仮宮殿が炎上した際、淀橋の自宅からいち早く駆けつけたなど、剛直なエピソードが知られています。

宮内大丞、宮内少輔を歴任しましたが、明治21年(1888年)7月19日9時15分、皇居に向かって結跏趺坐のまま絶命。死因は胃癌でした。享年53。墓は、東京谷中の臨済宗国泰寺派の寺院、全生庵にあります。没後に勲二等旭日重光章を追贈されました。

その行動力は、西郷隆盛をして「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と賞賛させました。明治政府への致仕後、勲三等に叙せられましたが、これを拒否しており、このときのエピソードが残っています。

勲章を持参した井上馨に対し、「お前さんが勲一等で、おれに勲三等を持って来るのは少し間違ってるじゃないか。(中略)維新のしめくくりは、西郷とおれの二人で当たったのだ。おれから見れば、お前さんなんかふんどしかつぎじゃねえか」と啖呵を切ったそうです。

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第二次世界大戦後の極東国際軍事裁判で、東郷茂徳と広田弘毅のアメリカ側弁護人を務めた「ジョージ山岡」は曾孫にあたります。

ジョージは、静岡県出身の父・鈴木音高のもと、5男1女の長男としてワシントン州シアトルで生まれました。父の音高は、日本では自由民権運動の活動家の中でも過激派として知られており、静岡事件では中心人物として無期懲役を宣告され、北海道で10年間服役した後、1897年にアメリカへ渡ったという経歴があります。

この静岡事件というのは、自由民権運動の名のもとに、明治政府を顛覆しようとする旧幕臣らが起こした事件です。中心人物は、山岡音高と、中野次郎三郎でした。中野はもと丹波亀岡藩(京都府)の藩士で、明治15年静岡の遠陽自由党の常議員となりました。岳南自由党の党員であった山岡音高とは自由民権運動を通じて知り合い、事に及びました。

彼等ははじめ、容易に藩閥政府を顛覆し得ると楽観していましたが、が、各地での試みが失敗するのを見て、挙兵では目的達成は困難であると考えるようになります。このため、少数の者による大臣などの要人の暗殺によって、その目的を実現しようということになりましたが、そのためには先立つものが必要だということになりました。

このため1886年(明治19年)、浜松の金指町にあった銀行に押し入り、ここから逃げようとしたところ、追跡してきた警察の剣道師範を待ち伏せのうえ殺害してしまいます。一味はその犯行が発覚しないのをいいことに、さらに翌年7月に箱根で行われる予定の箱根離宮落成式で大臣を殺害し、天皇を擁立しようという計画を立てました。

爆弾まで作って準備したといいますが、官と通じていた仲間の密告によって事前に発覚、首謀者善意が捕縛されました。罪名は主として強盗であり、1887年(明治20年)に判決言い渡しがあり、首魁2人は徒刑14年、幹部12人は徒刑12年、ほか11人は懲役または禁錮に処せられました。徒刑とは、男は島流し+労役、女は内地で労役に就かせたものです。

しかし、10年後の1897年(明治30年)、英照皇太后死去に際しての大赦減刑に浴し、生存者は大部分、出獄することができ、その後、山岡は単身、アメリカ、南カリフォルニアに移民として渡りました。

1938年に発刊された「在米静岡県人寫真帖」には、初期の移民が紹介されており、この中に山岡音高は「1897年渡米」とされ、ほかに9名ほどの日本人名が記載されています。男性名ばかりですが、多分ほかに女性もいたことでしょう。

1898年(明治31年)には、山岡はシアトルへ移住し、ここで友人二人と合資会社を設立して、日本品の貿易の傍ら鉄道人夫の請負を始めて、成功しました。この当時は、日本人蔑視がはなはだしかったことから、山岡もともに渡米した女性と結婚したと思われます。

そして、1903年(明治36年)にジョージが生まれ、のちにワシントン大学へ進学しました。大学では、法律学を専攻する傍ら、日本人学生会の理事を務めるなどの英才でした。1924年にはインディアナポリスで開催された世界学生大会に、ワシントン大学から選ばれた日系人学生2人のうちの1人として参加しています。

この頃から当時の二世の中でも、将来のシアトル日系人社会における指導者の一人として見なされるようになりましたが、周囲の期待とは裏腹に、山岡はワシントン大学卒業と同時に、首都ワシントンD.C.にあるジョージタウン大学ロー・スクールに進学します。

在学中には、ジョージタウン・ロー・レビューのビジネス・マネージャーを務め、1928年に法務博士号を取得。卒業後は同年から翌1929年まで在米日本総領事館顧問、1929年から1930年にかけてはロンドン海軍軍縮会議日本代表団顧問を務めたほか、1931年にはニューヨーク州で日系人として初めて弁護士登録を受けました。

同年、ニューヨークの法律事務所でアソシエイトとしての活動を開始し、1940年には同事務所のパートナーに昇格ました。東部に移住した結果として、山岡は開戦後も、日系人の強制収容に巻き込まれることもなく、法律家としての活動を続けることができました。

戦後に東京裁判が行われた際は、日英両語に堪能というだけでなく、その能力と識見の高さを評価され、A級戦犯の弁護人として日本に赴くこととなり、ジョージ・F・ブルーエットやウィリアム・ローガンなどと並んで弁護団の要としての役割を果たしました。

帰国後も、弁護士として日米関係の構築に努め続け、1968年に日本政府から瑞宝章を授与されました。1981年11月19日にニューヨークのマンハッタンでタクシーに乗り込もうとした途中、その場で心臓発作により78歳で死去しました。

東京裁判においては、東郷茂徳と広田弘毅の弁護人を務めました。東郷茂徳は、開戦時の外相だったがために戦争責任を問われ、A級戦犯として極東国際軍事裁判で禁錮20年の判決を受け、巣鴨拘置所に服役中に病没。広田弘毅は、戦後の極東軍事裁判で文官としては唯一のA級戦犯として有罪判決を受け死刑となりました。

日本が無条件降伏した日が近づいています。今年は戦後70年。暑い一日になりそうです。

2015-1710