ゲージ戦争

伊豆はここ一週間ほど、ほとんど陽射しがなく、毎日雨か曇天です。

気温のほうも上がったり下がったりで、まさに三寒四温。この季節特有の気象状況が続いています。

そんな中、伊豆中の道路の多くが花街道になりつつあり、ピンクと白に彩られています。

白梅に紅梅、そしてピンクの河津桜という花々に囲まれて迎えるえー春というのは格別なものがあり、なかなか他の地方では味わえない風情でしょう。

つくづくこの地へ越してきてよかったなぁと思える時期ですが、花はこれだけでは終わらず、これからはさらにソメイヨシノにシャクナゲ、サツキツツジへと続いていきます。

わが家がある別荘地の隣にある「修善寺虹の郷」は、そうした伊豆の花の各季節ごとの移ろいをほぼすべて味わえる公園であり、ここへ来た時から、まるで裏庭のように使ってきました。

これといって大きな特徴のある公園ではないのですが、広々とした敷地内は、カナダ村、イギリス村、日本庭園、伊豆の村、といった趣向を凝らしたイベントのある各ゾーンに分かれており、それぞれの表情で季節を味あわせてくれます。

これらの間をつなぐのが、レトロを模したバスと、ミニチュア鉄道であり、広い園内を歩いて見学するのはちょっと辛い、というお年寄りや、子供たちに大人気です。

ミニチュアとはいえ、「ロムニー鉄道」という実際にイギリスを走っていたものを移入したもので、人が乗れます。ただ、レール幅が、たった381 mmしかなく、鉄道というよりはトロッコに乗っているかんじ。381mmは、ちょうど“15インチ“であることから、「15インチゲージ鉄道」と呼ばれます。

ゲージ(gage)とは、これすなわち鉄道の軌間(レール幅)のことであり、元は各種メーターや計量器、燃料などの残量を示していたものですが、鉄道でも列車の規模を示す表示として使われるようになり、定着しました。

たかが40cmに満たないレール幅であっても、鉄道というものは、その延線距離が延びれば伸びるほど大量の鉄材が必要になってくるもの。と同時に、その上を走る車両もこれに比例して数多く作らなければなりません。このため、これをどの程度の幅にするか、ということに関して、昔から激しい論争があり、企業間の争いなども生じました。

鉄道の発祥の地、イギリスでは、その昔、異なる軌間の鉄道の間で、列車をどうやって通すか、という問題が浮上し、軌間が異なると直通運転ができないという弊害が初めて顕在化しました。

1844年のことであり、イギリス南部のグロスターにおいて4フィート8.5インチ(1,372 mm)軌間と、7フィート4分の1インチ(2,140 mm)のそれぞれを走っていた車両をどう通すかで議論が発生しました。

この軌間をどちらに統一すべきか、という問題は、その後「ゲージ戦争(Battle of the gauges)」と呼ばれるまで激しい論争にまで発展することになりますが、翌年の1845年に決着を見ます。

英・王立委員会は広軌の7フィート4分の1インチ軌間の技術的な優位を認めつつも、それまでの敷設の歴史がやや長く、路線長の長い4フィート8.5インチ軌間に統一するのが好ましいと勧告しました。

こうして、翌1846年に制定された軌間法では、グレートブリテン島、すなわちイギリス全土において、今後新しく敷設される新規路線は、原則として4フィート8.5インチの軌間で建設されることになり、以後、これが「標準軌」としてイギリスのみならず、世界のスタンダードになりました。

それにしても、なぜ、4フィート8.5インチといった中途半端なサイズが導入されたかですが、その起源は、イングランド北東部の「キリングワース」という炭鉱で用いられていた馬車鉄道です。




1814年、ジョージ・スティーヴンソンがこの炭鉱鉄道のために、蒸気機関車を製造しましたが、以後、その他の炭鉱向けにも同様の機関車を製造するようになり、1823年にはロバート・スチーブンソン・アンド・カンパニーを設立し、次々と同じ軌間で走る蒸気機関車を設計するようになりました。

スティーブンソンは、各地の鉄道で同じ軌間を使ったほうが機関車や諸設備の量産に都合がよく、また将来これらの鉄道が相互に接続された時にも便利であると考えており、その考えは理にかなっていました。

政府としてもこの考えを受け入れ、1825年に公共用の鉄道としては初めて、イギリスの北東部に建設されストックトン・アンド・ダーリントン鉄道という路線でスティーヴンソンの蒸気機関車が使われました。

そして、さらにその5年後の1830年に、世界初の蒸気機関車による旅客用鉄道といわれある、リバプール・アンド・マンチェスター鉄道が開業したときも、スティーブンソンが提唱する軌間を持つ機関車が用いられました。

ところが、よくよく考えてみると、軌道が大きければより大きな列車が走らせることができるわけで、同じ時間で輸送できる人や物資は軌間が大きい方が多くなります。スティーヴンソンが採用した馬車由来の軌間を用いる必然性はなく、より広い軌間のほうがよいと考える技術者も当然多く、イザムバード・キングダム・ブルネルもその一人でした。

イザムバード・ブルネルは、世界初の河川の下を通るトンネルであるテムズトンネルの建設で有名になった技術者マーク・イザムバード・ブルネルの息子です。マーク・ブルネルはこれより前、世界初の地下鉄開発にも関わっていました。

その息子のイザムバードは、イギリスのポーツマスに生まれ。フランスで教育を受け、20歳で父親のテムズ川のトンネル工事に技師として加わりましたが、2年後出水事故で負傷したためその仕事から離れます。

27歳のとき、ロンドンとブリストルを繋ぐグレート・ウェスタン鉄道の技師となり、以後、橋梁、トンネル、駅舎などを設計し、施工を監督するようになり、次第に父以上の名声を博していきます。

彼は、自分が手掛けたこのグレート・ウェスタン鉄道における安定性と乗客の乗り心地の改善のためには、より広軌のほうが良い考え、7フィート4分の1インチを採用し、以後これは「ブルネル軌間」と呼ばれるようになりました。

今日、優秀なデザインの鉄道車両や鉄道施設などに贈呈される「ブルネル賞」は彼に由来します。ブルネルはまた、2002年、BBCが行った「100名の最も偉大な英国人」投票で第2位となっており、現在では鉄道を発明したとされるスティーヴンソンと同様に、イギリスを代表する技術者と目されています。

ブルネルは当初、自分が手掛けたグレート・ウェスタン鉄道が、スティーヴンソンの4フィート8.5インチ軌間の鉄道と接続する必要はないとして、異なる軌間でも特に問題はないと考えていたようです。しかし、鉄道の普及は彼が考えていた以上に著しく、結果、上のような「ゲージ戦争」が勃発しますが、王立委員会の裁定により、スティーヴンソンとの争いには敗れてしまいました。



ところが、鉄道の普及は、孤島であるイギリスだけでなく、大陸ヨーロッパでも加速しました。ヨーロッパ各国では、イギリスと比べ鉄道の建設や運営に政府の関与が強く、軌間の選択に関しても最初に政府が決定することが普通でした。

当然、輸送量の面で有利と考えられたブルネルの広軌を採用する国も多く、オランダ、バーデン大公国、ロシア帝国、スペイン、ポルトガルの各国ではそれぞれ広軌が採用されました。

広軌鉄道はまた、安定性や技術的には優れているという見解を持つ国も多く、オランダとバーデンでは後に周辺国に合わせて標準軌に改軌ましたが、ロシアとイベリア半島の軌間はそのまま現代に至っています。

ヨーロッパよりもはるかに国土の大きいアメリカ合衆国においても、これは同じでした。1830年代から40年代にかけて、民間の鉄道会社により多くの鉄道が開業しましたが、これらの鉄道は、港と内陸を結ぶことが主目的で相互の接続が軽視されたこともあり、ブルネイの広軌の他にも様々な広軌幅が採用されました。

例えば、1860年代頃までには、北東部では4フィート8.5インチの標準軌が多かったものの、南部では5フィート、ニュージャージー州とオハイオ州では4フィート10インチのように広軌が数多く導入されました。

しかしのちの1863年に、「大陸横断鉄道」が敷設されたときの軌間が、標準軌とされたことがきっかけとなり、以後、アメリカでも全国的に4フィート8.5インチに統一されるようになっていきました。

同じ北米大陸にあるカナダでも、当初の1851年には5フィート6インチの広軌を標準とする法律が制定されましたが、アメリカ合衆国との直通の必要から1870年に廃止され、4フィート8.5インチに改軌されました。このように、ヨーロッパやアメリカでの「標準軌道」は、時代の変遷とともに4フィート8.5インチということで、ほぼ定着するようになりした。

ところが、1872年に開業した日本の鉄道が採用したのは、3フィート6インチ(1,067 mm)という、いわゆる「狭軌」軌道でした。

冒頭でも述べたとおり、鉄道というものは、延長距離が延びれば伸びるほどコストがかかります。鉄製のレールだけでなく、枕木・砂利などの道床にかかるコストも最低限軌間分の幅は必要です。標準軌なら大量の鉄材と枕木が必要でも、狭軌ならそのコストを抑えることができます。

明治維新によって次々とヨーロッパの技術を導入し続けていたこのころの日本には経済的な余裕がなく、政府は、より低規格・低コストの路線を作ることを可能ならしめるためには、狭軌鉄道の方が都合がよいと考えました。

こうした事情は日本だけでなく、その他のアジア、アフリカ、ラテンアメリカなどの鉄道未開業地域においては同じであり、1860年代後半から1880年代にかけては、日本だけでなく、世界中で狭軌軌道の導入が相次ぎ、イギリス人を中心とする技術者の指導により、1067mmや1000mm、914mmなどの狭軌鉄道の建設が次々と行われました。




馬車由来の軌間より意図的に狭い軌間を使った初期の例としては、1836年開業のウェールズのフェステニオグ鉄道の1フィート11.5インチ(597mm)があります。

ただし当時はこうした狭軌鉄道では、小型の蒸気機関車を作るのは難しいという技術的な問題もあり、蒸気機関車を用いることはできませんでした。しかし、1860年ごろからは、狭軌でも実用的な蒸気機関車が製造可能になりました。

冒頭で紹介した、虹の郷のロムニー鉄道こと、ロムニー・ハイス&ディムチャーチ鉄道もそのひとつであり、1920年代に建設され、1927年7月16日に開業しました。全長23kmの路線にすぎませんが、15インチ鉄道の中では英国において最長の路線です。

「本格的な公共輸送を行う、正式営業の実用鉄道」としては、事実上世界で最も狭い軌間を使用するものであり、現在でも運行されています。観光鉄道としての色合いが強い路線ですが、観光客だけではなく、子供達の通学にも利用されています。

以上のように、ヨーロッパ諸国や北米では、標準軌が主流となりましたが、その中でもイギリスのように狭軌を残した国もあり、また日本やその他の国では狭軌のまま定着しました。その後20世紀を迎えるころまでには、新たに鉄道の軌間を選択する機会そのものが稀になったこともあり、やがてこうした軌間の優劣に関する議論は低調になりました。

しかし、20世紀初めごろになってから、南アフリカ、オーストラリア、アメリカ合衆国などで、狭軌鉄道を標準軌に、あるいは標準軌を広軌に改軌すべきであるという議論が起こり、日本においても「改軌論争」が起こりました。

日本で狭軌が採用された理由としては、上述のように経済性によるものでしたが、ほかにも「イギリスから植民地扱い」され、このころ彼の国の植民地で導入がさかんになった狭軌鉄道を押し付けられた、という説があります。大隈重信は、日本の鉄道の発祥時に、半ば適当に外国人の意見に押される形で軌間を1067mmと決定してしまったと述べています。

そのイギリスでは、本国においても、1860年代後半から1870年代初頭までは「新規路線に限らず既存路線も狭軌化した方が経済的、という意見が強くなり、既存の客車や貨車は大きすぎ重量過多なので、小型化した方がよいという意見が出始めていたといいます。

また、日本のように狭くて急峻な地形を持つところでは急曲線になることも多く、この場合「狭軌のほうが有利」とする意見がありました。

ところが、実際に敷設された日本の路線は急曲線どころかむしろ緩やかで、幹線鉄道である「甲線」の最小曲線半径は300m、より低規格の「乙・丙線」ですら250m・200mであり、同じ狭軌のノルウェーと南アフリカの最小半径が150mと100mなのに比べれば、かなり緩い曲線で線路が引かれました。

実際には標準軌に近い最小曲線で線路が引かれていたわけであり、それなら最初から狭軌にこだわる必要はなく、広軌(標準軌)にすればよかったじゃないか、という意見が出てきました。これも必然でしょう。

また、日露戦争後、日本は朝鮮を領土に含め(韓国併合)、満州に南満州鉄道の権益を有するようになりましたが、それまで朝鮮の主たる鉄道路線は標準軌であり、満州の鉄道は元々ロシア帝国が敷設した1524mmの広軌でした。

広大な中国大陸における軍事輸送のためには、広軌のほうが都合がよいとい意見も出始め、実際、満鉄(満州鉄道)の成立後、朝鮮・中国との一体輸送を行う必要から(大連~長春)は標準軌に改軌して旅客輸送が行われるようになりました。

1906年に成立した南満州鉄道の初代総裁には後藤新平が就任しましたが、後藤は、満州同様に日本本土の鉄道も標準軌に改軌する提案を打ち出し、1910年の鉄道会議で東海道本線・山陽本線などの主要14路線を1911年度からの13ヵ年で標準軌(当時はこれを「広軌」と呼んだ)に改築する案が可決されました。

これにより、東京の市街線や東海道・山陽本線で新たに建造される建造物は、標準軌規格で設計する通達が出されるに至ります。

ところが、これに対し、原敬率いる立憲政友会が横槍を入れました。政友会の基本方針は、低規格でもいいから全国に路線を張り巡らせようとする「建主改従」となっており、後藤の提案した「改主建従」と真っ向から対立していたわけですが、帝国議会で両者がぶつかり合った結果、改軌に対する予算は出さないことになってしまいました。

一方、後藤らの後押しによって、1911年4月にはより低予算での改軌と、改軌線区の拡大を目指すため「広軌鉄道改築準備委員会」が政府内に発足し、審議が行われ始めました。しかし同年8月、原敬が内閣鉄道院総裁(内務大臣兼務)に就任したため、広軌計画は中止になりました。

しかしさらに、大隈の後を次いで内閣を発足させた寺内正毅内閣の下で、後藤新平は、内務大臣となります。この内務大臣就任は、内閣鉄道院の総裁との兼任という形になったため、後藤はここぞ絶好の広軌化の機会と考えました。

このころ、内閣鉄道院の工作局長を務めていた島安次郎は、こうした政策論争とは無関係に、独自に改軌計画を練っていました。

島は、東京帝国大学機械工学科(現:東京大学工学部)を卒業後、関西鉄道に入社。高性能機関車「早風」を投入しスピードアップに成功すると共に、客車への等級別色帯の導入や夜間車内照明の導入などの旅客サービスの改善を進め、汽車課長にまで出世しており、広軌化こそがより利用者のサービスアップにつながると考えていました。

そして、この島こそが、のちに「新幹線の父」として、我が国初の標準軌の導入に成功する島秀雄の父です。

これを知った後藤はこの島に命じ、その改軌計画を具体的に策定させました。が、この計画は後援者をあまり得ることができず、大蔵大臣の原はおろか、首相・蔵相や軍部さえ賛成に回らず、計画は早々に頓挫しました。

さらに、1918年に起こった米騒動で寺内内閣が崩壊し、政友会の原敬が首相になると、鉄道大臣には腹心の床次竹二郎を就任させました。床次は早速広軌化計画を弾圧することにし、広軌論者で「改主建従」を標榜する者の多くを左遷しました。

1919年2月24日の貴族院特別委員会において、床次は広軌不要の答弁を下し、ここに日本国鉄の標準軌化計画は終焉を迎えました。日本電気鉄道のように、民間で独自に標準軌鉄道を敷設する動きもありましたが、実現したのは都市周辺の地方鉄道(新京阪鉄道、参宮急行電鉄、湘南電気鉄道など)だけであり、全国的な展開には至りませんでした。

以後、今日に至るまで、日本の鉄道は世界的にも珍しい「狭軌」が標準仕様となっています。

もっとも、狭軌仕様が広軌仕様よりも劣っている、という論理は今日では必ずしも正しいとはいえません。一般に、軌間が広いほど輸送力や最高速度など鉄道の能力は高まり、逆に狭いほど建設費は安くなるとされます。しかし、これらには様々な要因があり、単純に軌間のみで決まるわけではありません。

標準軌間と狭軌の間の差の約30cmを補う技術力は日本は持ち合わせており、現在ではその輸送力にはほとんど差はないといわれています。



また、蒸気機関車の用いられていた時代には、軌間の広いほうが機関車の性能が高いとされていましたが、動力が電力に変わった現代では、標準軌仕様の機関車と狭軌仕様の動力差は著しくないと考えられており、むしろパワーは上回っています。

原敬の主導によって標準軌構想は葬られ、狭軌がスタンダードになってしまった日本ですが、しかしその後、日本国有鉄道内部で、再び標準軌による路線を新設しようという動きが出てきました。それは、「改軌論争」といわれる、上の後藤と原の争いが起こったのち、日中戦争の始まった1938年のことです。

当時、戦争の影響で中国方面への輸送量が旅客・貨物ともに急増しており、特に東海道本線と山陽本線は国鉄全輸送の3割を占めるほどであったため、近いうちに対応ができなくなると予測されました。このため、両本線に並行して新しい幹線を敷いたらどうかという提案が出たのです。

これには軍部も積極的に賛成したため、計画が推し進められ、1939年に「鉄道幹線調査会」が発足し、ここの調査により標準軌ないしは狭軌により別線を東京~下関間に敷設することが決定しました。

これについては、従来路線(在来線)からの直通や部分使用が可能な利点を取り上げ、狭軌新線を敷く案も多勢でしたが、特別委員長に、前述した広軌論者の島安次郎が就任し、島が朝鮮や満州の標準軌路線と鉄道連絡船 (関釜連絡船)を挟んで車両航送ができることを理由に広軌化を推進したため、標準軌での敷設が決定しました。

この新線計画は内部においては「広軌幹線」や「新幹線」と呼ばれ、世間では新聞社が「弾丸のように速い」と報じたことから「弾丸列車」と言われるようになりました。1940年より建設に移され、日本坂トンネルや新丹那トンネルの工事が進められ、ここでの軌道は広軌となりました。

しかし戦況の悪化で、その推進は1943年に中断。さらに、文字通りの「牽引車」であった島が終戦直後の1946年に亡くなり、またしても日本での標準軌導入は頓挫します。

ところが戦後、日本各地で復興が進むにつれ、東海道本線の輸送力不足はいよいよ表面化し、弾丸列車計画のときと同様に、新線敷設の必要性を求める声が高くなってきました。

当初「東海道新線」と呼ばれたこの計画についても、単純に東海道本線を複々線化すればよいとか、狭軌新線にすべきだという案が出ていましたが、戦前に広軌化計画に携わった官僚の「十河信二」国鉄総裁に就任します。

この十河総裁の指導のもと、研究を進めた鉄道技術研究所のメンバーは、標準軌新線ならば東京~大阪間の3時間運転が可能と提言。1957年5月25日の山葉ホールにおける講演で発表されたこの研究結果は大きな反響を呼びました。

このとき、国鉄技術長に就任したのが、島安次郎の息子の島秀雄です。島は、戦前の1937年(昭和12年)、長期海外視察を行い、世界各国の鉄道事情を研究した結果、父も関わっていた「弾丸列車計画(新規広軌幹線敷設計画)」でも、電気動力を本命として計画を立案していました。

戦後ようやく父の悲願を達成する契機に恵まれた彼は、国鉄の優秀な技術者を集めてデータを作成し、これを十河に提出。この十河と島の二人三脚によって、ついに日本で初めて標準軌高規格新線での敷設が決定します。

この計画による「東海道新線」は、戦前の計画の遺構を活用して建設することになり、1964年に「東海道新幹線」として結実し、ようやく、日本において国鉄初となる標準軌路線が実現することになりました。

その後、山陽新幹線・東北新幹線・上越新幹線と、順次新幹線の延伸が進みましたが、これは、従来の狭軌鉄道とは別に、標準軌鉄道の敷設を優先する「改主建従」といえるものでもありました。

その後、この標準軌の新幹線路線と、従来の狭軌路線の相互に乗り入れる、「ミニ新幹線」も導入されるようになりました。新幹線の建設は莫大な費用を要することから、費用を抑制する方法として考え出されたものです。

ただ、これは、在来線を単に新幹線と同じ標準軌へ改軌し、車両も在来線規格、複電圧対応として、新幹線と標準軌に改軌した在来線の間で直通運転(新在直通という)を行うものでした。

しかしこの方法の導入によって直通運転が可能となったために、双方からの乗換えが解消され、所要時間も従来の軌道を使用していたのに比べればある程度短縮されるようになりました。

とはいえ、新幹線が走らない区間との分断が新たに生じ、速度も新幹線ほど早くない(現状では在来線区間は130km/h)ということもあり、全国的な普及には至っていません。いまのところ、1992年に開業した山形新幹線(東北新幹線と奥羽本線)と、1997年に秋田新幹線(東北新幹線と田沢湖線、奥羽本線)だけが実現しています。

1998年、運輸省~国土交通省の施策により、新幹線と在来線との間で改軌を要さずに直通運転ができる軌間可変電車(フリーゲージトレイン、ゲージチェンジトレイン)の開発が開始されており、これによってミニ新幹線が抱えているような改軌に関する諸問題の解決が図られることが期待されています。

いずれ、リニア新幹線の開通に加えて、こうした新しい世代の鉄道が開通する時代がくるに違いありません。その新しい鉄道は、従来の「ゲージ論争」を超えたものになるはずであり、やがては世界に名だたる国産技術になっていくことでしょう。

ただ、伊豆・修善寺虹の郷のロムニー鉄道はそんな中でも、今後とも狭軌鉄道のまま、もくもくと煙を出しながら運行されていくことでしょう。

三寒四温の中、春がもうすぐやってきそうです。ぜひ、このレトロなロムニーに乗るために伊豆までお越しください。