「ひえい」で比叡に行こう!

京都市の叡山電鉄は、観光用にリニューアルした電車を「ひえい」と名付け、本日、21日から運行を始めました。

1925年(大正14年)に比叡山延暦寺への参詣ルートとして開業した「叡山本線(出町柳駅~八瀬比叡山口駅間)」を走る電車で、京都中心部から八瀬、比叡山を経由し、 坂本、びわ湖に至る観光ルートを走ります。

着目すべきはその車両デザイン。車両正面にあしらった金の楕円のデザインが特徴です。

叡山電車の2つの終着点にある「比叡山」と「鞍馬山」の持つ荘厳で神聖な空気感や深淵な歴史、木漏れ日や静寂な空間から感じる大地の気やパワーなど、「神秘的な雰囲気」や 「時空を超えたダイナミズム」といったイメージを大胆に表現したものだとか。

イメージイラストが発表された際には、「なんだこれ」「深海魚みたいで、ブッキー」といった声がSNS上を飛び交ったそうです。

しかし、筆者がテレビなどで放映された実際に登場した車両を見たところ、光沢のある深い緑色の車体に金色の楕円形が調和し、インパクトのあるデザインながら落ち着いた雰囲気が漂い、なかなかの出来栄えです。

ベースとなる車両は、1988年製造の「700系」。その発展系である732号車を大改造して誕生しました。側面に配されたストライプはまた、比叡山の山霧をイメージしているそうです。ロゴマークもしゃれており、Spiritual Energy(スピリチュアル・エナジー)を示しており、大地から放出される気のパワーと灯火を抽象化しています。

外観と同様、車内のデザインも大胆ながら落ち着いた印象で、窓の形も楕円です。一般車両に比べゆったりとした座席や発光ダイオード(LED)照明を採用し、高級感のある内装にしました。増加する訪日外国人向けに英語や中国語などの案内表示も充実させたといいます。

楕円形の窓沿いに従来車両より広めの幅と奥行きを確保したシートが並び、壁面は継ぎ目や機器類の出っ張りなどが目立たないフラットな仕上げとしなっています。このため、壁は従来車両より片側で3cm厚くなってしまったそうですが、若干狭くなる分、シートの座面の角度を調整して、座っている人が通路に足を投げ出しにくいよう工夫したといいます。

デザインは、京阪電鉄の車両カラーリングなども手掛けたGKデザイン総研広島が担当。車両の改造は川崎重工業が行いました。改造費用は非公表とのこと。

新たな観光用車両の導入に向けた検討が始まったのは4年ほど前。京阪グループ全体で比叡山・琵琶湖周辺の観光活性化に取り組む中、700系車両が製造から約30年を経て改修の必要性が高まってきたこともあり、「これに乗って比叡山方面に行ってみたい」という人を増やすための魅力あるコンテンツづくりとして観光車両の導入を決めたといいます。

車両のデザインについてはさまざまな意見があったといいます。緑深い山や秋の紅葉など、沿線風景の魅力で知られる路線だけに、当初は「やっぱりパノラマ車両じゃないか」という意見もあったそうです。楕円形をモチーフとしたデザインに対して「なんやねんこれ」という声もなかったわけではないそうです。

しかし、展望電車としては同様の観光列車「きらら」が既にあるため、最終的には同じテイストの者を作るより、ほかにはない特徴あるデザインのほうが乗りたくなるのでは、と大胆な楕円形デザインが採用されることになったそうです。

火曜日を除き約40分間隔で運行し、通常運賃で乗車できます。通常は1両で走りますが、ほかの車両と連結する場合は連結器回りの部分だけ楕円形の飾りを取り外せる構造だとか。

訪日外国人観光客が増え、にぎわいの続く京都。近年は観光客による交通機関の混雑が問題となっていますが、叡電の場合は紅葉シーズンの11月と、川の上の座敷で食事などを楽しむ「川床」が人気の7~8月に観光客が集中し、繁閑の差が大きいのが課題のようです。

また、叡電の観光利用者数は叡山本線よりも鞍馬山へ向かう鞍馬線のほうが多いといい、叡山本線の観光活性化は京阪グループ全体にとっても重要です。「ひえい」は新たな目玉として、この観光ルートの一翼を担うことになりますが、はたして観光客増加につながるでしょうか。



比叡山とは

この比叡山とは、滋賀県大津市の西南、滋賀・京都県境に位置する、標高848mの山です。古事記には淡海(おうみ)の日枝(ひえ)の山として記されており、古くから山岳信仰の対象とされてきました。

「延暦寺」と称されるのは、実は、比叡山全域です。山全体を境内とする寺院という位置づけであり、地元では延暦寺という呼称よりも、比叡山、または叡山という呼称で親しまれているようです。その昔は、平安京(京都)の北にあったので南都の興福寺と対に北嶺(ほくれい)とも呼ばれました。

平安時代初期の僧・最澄(767年 – 822年)により開かれた日本天台宗の本山寺院です。平安遷都後、最澄が堂塔を建て天台宗を開いて以来、王城の鬼門を抑える国家鎮護の寺地となりました。京都の鬼門にあたる北東に位置することもあり、比叡山は王城鎮護の山とされました。

最澄は俗名を三津首広野(みつのおびとひろの)といい、天平神護2年(766年)、近江国滋賀郡(滋賀県大津市)に生まれました。15歳の宝亀11年(780年)、近江国分寺の僧・行表のもとで得度(出家)し、最澄と名乗るようになります。

青年最澄は、思うところあって、奈良の大寺院での安定した地位を求めず、785年、郷里に近い比叡山に小堂を建て、修行と経典研究に明け暮れました。20歳の延暦4年(785年)、奈良の東大寺で受戒(正式の僧となるための戒律を授けられること)し、正式の僧となりました。

このころすでに京では高層とみなされており、788年、現在の根本中堂の位置に薬師堂・文殊堂・経蔵からなり、薬師如来を本尊とする草庵、一乗止観院を建立しました。

時の桓武天皇は最澄に帰依し、天皇やその側近である和気氏の援助を受けたこの寺は、延暦寺と名を改め、京都の鬼門(北東)を護る国家鎮護の道場として次第に栄えるようになっていきました。

延暦21年(802年)、最澄は還学生(げんがくしょう、短期留学生)として、唐に渡航することが認められ、延暦23年(804年)、遣唐使船で唐に渡りました。最澄は、霊地・天台山におもむき、天台大師智顗直系の道邃(どうずい)和尚から天台教学と大乗菩薩戒、行満座主から天台教学を学びました。

また、越州(紹興)の龍興寺では順暁阿闍梨より密教、翛然(しゃくねん)禅師より禅を学び、延暦24年(805年)、帰国した最澄は比叡山に戻り、ここで天台宗を開きました。法華経を中心に、天台教学・戒律・密教・禅の4つの思想をともに学び、日本に伝えた(四宗相承)ことが最澄の学問の特色で、延暦寺は総合大学としての性格を持っていました。

大乗戒壇設立後の比叡山は、日本仏教史に残る数々の名僧を輩出しました。円仁(慈覚大師、794 – 864)と円珍(智証大師、814 – 891)はどちらも唐に留学して多くの仏典を持ち帰り、比叡山の密教の発展に尽くしました。また、円澄は西塔を、円仁は横川を開き、10世紀頃、現在みられる延暦寺の姿ができあがりました。




僧兵の台頭

ところが、比叡山の僧はのちに円仁派と円珍派に分かれて激しく対立するようになっていきます。正暦4年(993年)、円珍派の僧約千名は山を下りて園城寺(三井寺)に立てこもります。以後、「山門」(円仁派、延暦寺)と「寺門」(円珍派、園城寺)は対立・抗争を繰り返し、こうした抗争に参加し、武装化した法師の中から自然と僧兵が現われてきました。

延暦寺の僧兵の持つ武力は年を追うごとに強まり、強大な権力で院政を行った白河法皇ですら「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と言っています。山法師の山は当時、一般的には比叡山のことであり、山法師とは延暦寺の僧兵のことです。つまり、強大な権力を持ってしても制御できないものと例えられたものです。

延暦寺は自らの意に沿わぬことが起こると、僧兵たちが神輿(みこし)を奉じて強訴するという手段で、時の権力者に対し自らの主張を通していました。この当時は、神仏混交であり、神輿は神と仏は同一でした。

延暦寺の勢力は、やがて貴族に取って代わる力をつけるようにすらなり、のちには武家政権をも脅かすようになります。このころの時の権力者は初め平氏、のちに源氏です。平清盛や源頼朝もともに延暦寺と対立しましたが、その都度攻略に失敗し、さらに延暦寺の力は増大していきます。

初めて延暦寺を制圧しようとした権力者は、室町幕府六代将軍の足利義教です。永享7年(1435年)、足利義教は、謀略により延暦寺の有力僧を誘い出し斬首しました。これに反発した延暦寺の僧侶たちは、根本中堂に立てこもり義教を激しく非難。

しかし、義教の姿勢はかわらず、絶望した僧侶たちは2月、根本中堂に火を放って焼身自殺しました。このとき、根本中堂の他にもいくつかの寺院が全焼あるいは半焼したとされます。

義教は武家としてはじめて延暦寺の制圧に成功しましたが、のちに敵対する赤松氏によって暗殺されてしまいます。すると、延暦寺は再び武装し僧を軍兵にしたて数千人の僧兵軍に強大化させ独立国状態に戻りました。

戦国時代に入っても延暦寺は独立国状態を維持していましたが、明応8年(1499年)、管領細川政元が、対立する前将軍足利義稙の入京と呼応しようとした延暦寺を攻めたため、再び根本中堂は灰燼に帰します。

戦国末期になると、織田信長が京都周辺を制圧し、朝倉義景・浅井長政らと対立するようになりました。これをみた延暦寺は朝倉・浅井連合軍を匿うなど、反信長の行動を起こします。

このころの延暦寺の僧兵の数は4千人ともいわれ、強大な武力と権力を持つ僧による仏教勢力の増長が戦国統一の障害になるとみた信長は、元亀2年(1571年)9月12日、延暦寺を取り囲み焼き討ちしました。

これにより延暦寺の堂塔はことごとく炎上し、多くの僧兵や僧侶が殺害されました。僧侶、学僧、上人、児童の首をことごとく刎ねたと言われており、この戦いでの死者は、「信長公記」には数千人、ルイス・フロイスの書簡には約1500人、「言継卿記」には3,000-4,000名と記されています。

信長の死後、豊臣秀吉や徳川家康らによって各僧坊は再建されました。根本中堂は三代将軍徳川家光が再建しています。家康の死後、天海僧正により江戸の鬼門鎮護の目的で上野に東叡山寛永寺が建立されると、天台宗の宗務の実権は江戸に移りました。

現在、その中枢は比叡山に戻っており、1994年には、古都京都の文化財の一部として、(1200年の歴史と伝統が世界に高い評価を受け)ユネスコ世界文化遺産にも登録されました。

世界遺産として

これに先立つ1987年(昭和62年)には、比叡山開創1200年を記念して天台座主山田恵諦の呼びかけで世界の宗教指導者が比叡山に集い、「比叡山宗教サミット」が開催されており、その後も毎年8月、これを記念して比叡山で「世界宗教者平和の祈り」が行なわれています。

世界文化遺産への登録はそうしたことも評価されたためと思われ、と同時に世界中から観光客がここを訪れる契機にもなりました。

現在の根本中堂は、1571年(元亀2年)9月、織田信長による焼き討ちの後、慈眼大師天海の進言により徳川三代将軍家光の命によって、1634年(寛永11年)から8年もの歳月をかけて再建されたものです。1953年(昭和28年)3月31日に国宝に指定されました。

本尊は最澄が一刀三礼して刻んだ薬師瑠璃光如来と伝えられており(秘仏)、その宝前に灯明をかかげて以来最澄のともした灯火は1200年間一度も消えることなく輝き続けており、不滅の法灯と呼ばれます。この火は、焼き討ち後の再建時には立石寺から分灯を受けたと伝えられます。

拝むと長生きするといわれています。新型列車「ひえい」に乗って比叡山に行き、ぜひスピリチュアル・エネジーを感じ取ってきてください。