龍神 雷神

2008年の今日、私たち二人は、宮島厳島神社で式を挙げ、晴れて夫婦になりました。晴れて・・・なのですが、あいにく当日は朝からの雨模様。宮島からホテルまでの帰りの船からは雨にけぶって淡い色彩の広島の町と海が見えていました。船の中は、式が無事に終わったことによる安堵感があふれていて、我々二人だけでなく、親戚や友人一同もリラックスムード。あちこちで記念写真の撮影大会が始まっていました。

やがて船は、広島プリンスホテル脇の桟橋に到着。船に乗っている間に、少し雨は小降りになってきましたが、あいかわらずの空模様。灰色の雨雲がつぎつぎと足早にホテルの上空を過ぎ去っていきます。やれやれ、せめて披露宴までにはあがらないかな・・・と思いながら、裾をからげてホテルのロビーに入ると、今日これから始まる披露宴への参加客もちらほらと到着されていました。いよいよ宴のスタートか、と新たに気が引き締まる思い。

その日に至るまでのおよそ一年半。あの正月の30年ぶりの同窓会で再会して以降、ふたりの交際は日に日に深まっていきました。再会の翌日には、なんと尾道までクルマで初デート。それまで二人の間にあった溝が一気に埋まった一日でもありました。尾道の海の見えるレストランで食事をし、日がな一日ふたりで話したことが思い出されます。行きも帰りもクルマの中でしゃべりっぱなし。こんなに話が尽きない相手だなんて意外・・・というのは私だけでなく、彼女も同じだったと思います。

そして正月が終わり、私は帰京。私も仕事を持っていましたが、彼女もまた広島のラジオ局の番組原稿を書く仕事をしており、いつまでも遊んでいるわけにはいきません。とはいえ、その初デート以降、仕事が終わった夜になると、ほとんど毎日のように電話をするようになります。たいがいは、夜の9時、10時から始まって、0時か1時には終わるのですが、長いときには明け方まで話していることもありました。最長で、7時間ぐらい話していたこともあったと思います。

一体何をそんなに話すことがあったのか、と今も思うのですがが、お互いの過去30年間にあったことだけでなく、今の仕事のこと、趣味のこと、家族のこと、お互いの過去の恋愛のこと、と話すことはいくらでもありました。そのころオンエアーされていた、オーラの泉をはじめとするスピリチュアル番組の話は二人とも興味深々でみており、こうした番組で紹介される不思議な話は二人が話し合う格好のテーマでもありました。

番組に登場したタレントさんの話に端を発し、自分たち自身のスピリチュアル体験や、自分以外の知り合いのエピソード、これまでに読んだ本のこと、などについても話して意見交換をする、ということを繰り返していましたが、そういう話をするときはまったくといっていいほど時間の流れを感じませんでした。

私の周囲にはそういうことを話せる友人はいませんでしたし、たとえいたとしても、タエさんのように一晩中そのことについて語り合うということはできなかったと思います。そしてそういう会話を通じてまた、数少ない理解者という思いが深くなっていったように思います。

そんなふうにお互いの内面を電話を通じてさらけ出し、お互いの理解を深めあっていった二人ですが、電話ばかりしていたわけではありません。父の四十九日があり、広島に再度帰ったときには、二度目のデートとして広島東部の町、呉へ行きました。かつての軍港である呉の背後には休山(やすみやま)という山があり、頂上までクルマで行くことができます。市内観光をしたあと、夕方近く、そこまで登り、そこからみた瀬戸内海の夕日は絶景で二人にとって忘れられないものになりました。

これを皮切りに、いろんなところへお泊りデートをするようになりましたが、行った先の例をあげると、北海道、岐阜、金沢、新潟、山形・・・・と数えきれないほど。

そして、旅行が終わり、広島と東京それぞれの家に帰るとまた、電話でのデートの繰り返し。そして、そんな電話でのいつもの会話の中、私は多少(かなりだったかな)アルコールが入っていたので、つい軽口のつもりで、「これから二人、どうなるんだろうねー」とつぶやいたのです。それに対して、彼女が間髪入れずに返した言葉は、「そりゃー、結婚しかないでしょ」というもの。「エーッ!? け、結婚~!?」とわたし。

私にすれば、先妻に先立たれたとはいうものの、子持ちでバツイチという感覚でいたので、この何気ない、タエさんのことばにはいっぺんに酔いがさめてしまいました。そして、結局はこの短い会話が、プロポーズなしの結婚へとつながっていくことになりました。

お互い、結婚という目標ができた以上、やることはやらねば、ということで、まずは母に話しました。母は、こころよく賛成してくれましたが、問題は、息子のほうです。どう切り出したもんかなーと思いつつ、ある日の夜、少し酒にも酔った勢いで、「実は、お父さん結婚しようと思うんだけど、どう思う」と思い切って聞いてみました。すると、息子は、たったひとこと、「いいんじゃない」とあっさりOK。えっ、ほんとにいいの?と重ねて聞いたところ、不服はないようです。それじゃー決まった、ということでそのあと、タエさんに報告の電話をしたことは言うまでもありません。

ポーカーフェイスで、承諾してくれた息子ですが、しかし、後日タエさんがその時のことを彼に問いただしたところ、本当はかなり動揺したと白状しました。かなりの衝撃だったらしいのですが、しかし、子供ながらにオヤジにいつまでも家事をやらせておくわけにはいかんなーと思ったとか。ませた小僧です。しかし、タエさんもよく言うのですが、わが子ながら、しっかりした子で、子供のころから自分でこうだ、と決めたことはけっして曲げない性格の子でしたから、いったん自分がOKと言った以上、前言を撤回するということはまずありません。とはいえしかし、彼にとっては義理とはいえ母になる人。ともかくまずは会わせてみて、様子をみる必要がある、と思いました。

そして、そのチャンスは意外に早く訪れます。夏休み中に山口に帰ることを恒例行事としている私は、その年も息子と二人、クルマで帰省しました。途中、広島にも寄って、タエさんに会わせることにしたのですが、これに息子も同意。そして、その日の夕刻、広島の彼女の家につき、玄関から出迎えてくれたタエさんに息子を紹介します。彼はさすがに落ち着かない様子であいさつをしていましたが、彼女に勧められて家の中へ。

その日はタエさんの家に一泊する予定だったので、彼女の手料理なども味わいながら、彼と彼女の様子をそれとなく見ていました。どうなのかな、と観察したところ、彼としてはまんざらでもなさそうなかんじ。タエさん自身はもともとひとあたりのいい人なので、そつなく彼と接していましたが、さすがにまだ母親というよりもどこかのおねえさんというかんじ。

その翌日は、三人でどこかへ出かけようということになりましたが、どこにしようかなーといろいろ候補地をあげていたところ、彼が宮島へは行ったことがないことが分かりました。それじゃあそこにしよう、ということで、朝からクルマで宮島へ行くことに。その日はかなり暑い真夏日の日で、宮島もかんかん照りの状態。

とりあえず厳島神社本殿で参拝し、そのあと別のところへ向かおうとしたのですが、私が道を間違えたことから、山の手の住宅密集地の中を右往左往することに。日頃、運動不足の息子とタエさんは、汗だらだらになりながら、私についてきましたが、ふたりして、私が道を間違えたからだ、と非難を始めました。私は笑いながら「わりーわりー」と言ってかわしましたが、二人はぷんぷん。そのあとも、二人顔を見合わせては、こんなに疲れたのはオヤジのせいだ、と言い続ける始末。

しかし、思えば、この出来事が二人の距離を一気に縮める良いきっかけになったように思います。私を悪者にしながら、あれこれと会話をしている二人は本当の親子のようにも見え、ほほえましく思ったのを覚えています。

そんなこともあり、息子との問題もクリアーできそうだということで、結婚の準備はその後着々と進みます。その当時我々が住んでいた家は、先妻と二人で建てた一軒家でしたが、私がそこへ一緒に住もう、と言ったのに対し、彼女は難色を示しました。それはそうです。亡くなった先妻の思い出が詰まった家に後妻として入るのはいやなもの。それを理解した私は、そこを出て、別途仮住まいをすることを決意。その新居を探し始めました。10月になってようやく、これぞ、というマンションを元住んでいたところからほど近くにみつけ、契約。少しずつ、新居へ荷物を運び始めます。

そして、もう一つの家。広島のタエさんの自宅です。ご両親が残したこの家、かなりの広さがあり、100坪の土地に50坪も広さがあるのです。かつて、ご両親だけでなく、彼女の祖母にあたる方も暮らしていたこともあり、家の中は彼らの遺品だらけ。まずはこれを片付け、必要なものだけにして身軽になる必要がありました。

東京の家と合わせ、広島の家と二軒分のゴミの処理をすることになった私。あー、結婚なんて決めるんじゃなかった~ とは思いませんでしたが、助っ人といえば非力な女性と中学生になったばかりの子供だけ。たいした期待はできません。

そして、それから私の苦闘が始まりました。長い時間をかけ、二軒の家のゴミを捨て、必要なものを選別し、引越しのための荷物整理をするのに、数か月もが過ぎていくことになります。

2008年の1月のころだったでしょうか。ようやく荷物の処分に見切りをつけ、結婚式場をどこにするかを決めはじめた・・・というくだりは、以前のブログ「出航」に書いたとおりです。タエさんとの初デートから一年あまりが過ぎていました。広島の家は、中のものをすべて整理し、捨てられないものは山口の実家に預け、必要なものだけを東京の新居に送ることに。そして、タエさん、息子と一緒に新しいマンションで暮らし始めたのは2月に入ってからだったでしょうか。以後、およそ3年あまりを三人でこのマンションで過ごすことになります。今にして思えば、その生活も楽しいものでしたが。

息子とタエさんはその後、正式に養子縁組をし、法律的にも親子になりました。心配した親子仲ですが、わたしの心配はよそに、ふたりして想像以上に仲がよく、家に帰ってくると、学校のことや友達のことなどは、私よりもタエさんにまっさきに話すほど。タエさんが、母親になってよかったか、などと面と向かって聞いたことは一度もありませんが、その態度が彼の満足を物語っていました。

実の母親の死から5年ほどの歳月が経っていましたが、ようやく日のあたる生活に戻れたようで、私自身の気持ちも日に日に明るくなっていきました。

そして、迎えた6月20日ですが、この日、なんと息子は結婚式に参加できませんでした。実は厳島神社での予約を決めたとき、彼の中学校の修学旅行の日取りをはっきり確認していなかったのですが、その後改めて確認したところ、我々の結婚式と重なってしまっていたのです。

予約を変更しようかなーとか、修学旅行をやめさせようかなとも考えました。しかし、予定のびっしり詰まった宮島での結婚式を延期しようとすると次はいつになるかわかりません。彼にとっても修学旅行は一生に一度のことで、やめさせるのはかわいそうです。

結局息子には申し訳ないが、その日は別々の行動に、ということになったのですが、そのことを当人に話すとさばさばしたもの。むしろ、結婚式なんてめんどうくさいものには出たくなかったので大歓迎、といったご様子。これにはうれしいやらかなしいやらでしたが、まあともかく、両者ハッピーハッピーで事は決着。

・・・そして、結婚式当日のこと。厳島から船で戻り、夕方5時にスタートした披露宴。会場には、親戚や友人、職場の上司のほかに、あの高校時代のクラス担任であった恩師も招きました。その数40人はけっして多くもなく、少なくもなくといったところ。


披露宴の進行役は、タエさんの親友の一人でフリーのアナウンサーなどもしている女性でひろみさんという方。あちこちの結婚式の司会として引っ張り出されることも多いとのことで、軽快なしゃべり口で二人の結婚のお祝いを述べてくれ、華やかに二人の結婚披露パーティがスタートしました。

披露宴のプログラムについては、ホテルの担当の方との打ち合わせ時点から、他の結婚式と変わらないオーソドックスなものにしようと決めていました。が、こだわった点としては、40代後半の熟年夫婦の結婚式として恥じないよう、お呼びした人たちへの気配りが行き届くようにと考えました。

ひとつには、会場のあちこちに配した花などのディスプレイ。派手すぎないよう、シックなものを選ぶとともに、ライムの入ったガラスの花瓶などと組み合わせることで清潔感のあふれるものにしました。また、宴で流れるBGMも二人お気に入りのものを厳選しつつも、会場の雰囲気を壊さないものを選定。

さらに、明るいうちは、できるだけ窓の外の瀬戸内海の景色が楽しめるようカーテンを閉めない、とか、夜になって閉めるカーテンやテーブルクロスは雰囲気を壊さないよう、落ち着いた色を配色。テーブルの種類、配置・・・などなど20代の若いカップルでは決めきれないような細かい部分にも気を配ることができたのは、年の功というべきでしょう。ホテル側の対応もよく、花のアレンジや衣装合わせ、食事の手配、どれをとっても一流ホテルらしいセンスをみせてくれ、宴に色を添えてくれたことには本当に感謝しています。



その効もあってか、宴全体はシックで落ち着いたかんじで進行し、軽快なひろみさんの司会役も子気味よく、用意したプログラムも円滑に進みます。その日の料理をアレンジしてくれたコック長自らが、「鯛の塩釜焼」を解体するというパフォーマンスも見せてくれ、これには会場がおおいに盛り上がりました。


こうした式での定番といえば、宴半ばでのお色直し。それまで宮島から来ていたままの和服をウェディングドレスとモーニングに着替えます。着替えには30分ほどかかるので、この間の間を持たせるために、あらかじめ、私が作っておいたスライドショーを映してもらうことに。このスライドショー、「ムシャとタエコのものがたり」は、これまでこのブログで書いてきたことの集約版のようなもの。仕事のあいまにパワーポイントで作成したものです。あとで、宴に参加した友人に聞いたところでは、かなり評判がよかったらしく、会場の人たちも食い入るようにみていたとのこと。うれしい限りです。

ウェディングとモーニングに着替えたあとの再入場は二人にとって、忘れられないシーン。BGMに平原綾香さんの英語版「ジュピター」をかけるようお願いしてあったのですが、その前奏曲が流れる中、控えの廊下からしずしずと進み会場ゲートの前で立ち止まるふたり。前奏が終わり、曲が本番に入ったところで、一気に会場ゲートが開き、前へと前進。と同時にまばゆいばかりのスポットライトが二人に当たり、きらびやかなウェディングドレスが浮き上がる・・・ それをみた来客からは、一瞬のどよめきがあがり、続いて割れるような拍手が沸き起こりました。

実はこういう演出があることは、ホテル側からはぜんぜん知らされていませんでした。客室係の若い方々が事前に話あって決めてくださったらしく、直前になって事の次第を知らされたのですが、なかなか小粋な演出に二人とも大感動でした。今でも車で外出するときに、平原綾香さんのこの曲がかかると、二人して、あのときは良かったねーと言い合うほど。それほど、心が高鳴る良いシーンでした。

宴の後半は、キャンドルリレーに続いて、来賓によるスピーチ。高校時代の恩師をはじめ、新郎、新婦それぞれの親友や上司、お世話になった方などにお願いしましたが、どれも心のこもった温かいものでした。我々ぐらいの年齢になると、スピーチをお願いする方もそれなりの年齢になっているもの。なので、そのスピーチの内容にも深みがあり、聞いている我々も時に涙し、時に笑わせられで、熟年夫婦の結婚披露宴をさらに深みのあるものにしてくださいました。

スピーチの合間の、私の友人のIさんによるピアノ演奏も宴に色をそえました。外も暗くなり、締め切られたカーテンの内側で宴会場に鳴り響く彼のジャズピアノも心地よく、まさに「大人の宴」というかんじ。

このブログにも再三登場する霊能者のSさんへのインタビューもありました。私は別の人と話をしていたのか、その内容をよく覚えていないのですが、そのあとタエさんに聞いた話によると、その中で、Sさんが思いがけないことをおっしゃったそうです。その日は朝から雨だったわけですが、その理由として、今日は空の上に龍神様・雷神様がいらっしゃっていて、めぐみの雨でもって二人の結婚を祝福してくださったのだというのです。

Sさんには結婚前からいろんなリーディングをしてもらっている二人。その彼女が言ったことはこれまでことごとく、と言っていいほど当たってきています。それだけに、龍神・雷神まで祝福に来てくださったというこのお話もことさら真実味が感じられ、とたんにうれしくなってきました。

最後にタエさんが、読み上げた「新婦の手紙」は、亡くなったお母さんとお父さんへのレクイエムでした。コピーライターである、彼女自身が練り上げたその原稿は、両親への感謝のことばとともに私への切なる思いのメッセージでもありました。見ると、それを読み上げる中、タエさんの目からはツーと涙が・・・ きっと、亡くなったご両親もこれを見て涙されていたことでしょう。

これは霊能者Sさんを宴のあとにお見送りするとき、彼女から直接聞いた話なのですが、このとき、タエさんのご両親は我々二人の隣にいらっしゃっていたとのこと。同じく私の父らしい人も見えていて、お互い、我々二人の横の場所を、いや、そちらがどうぞどうぞ、と譲りあっている姿が見えたというのです。

我々の目にはもちろん、その姿は見えませんでしたが、挙式後に出来上がってきた写真の多くには、たくさんの玉響(たまゆら)が写っていました。無論、どのたまゆらがお母さんかお父さんかわかりませんでしたが、彼女の両親と私の父、それぞれがこの式を祝いにわざわざ来てくれていたのだ、と思うとうれし涙が出ます。

ちなみに玉響は、オーブともいいます。写真ではピンボケしたような白い玉として写ることが多く、その場にやってきた霊魂が写りこんだものと言われています。カメラのレンズについた水滴やゴミなどがピンボケして写りこんだものだ、と説明する人もいますが、長年写真をやってきている経験からみて、私はそれらは水滴やゴミではないと思いました。

さて、こうして最後のプログラムも終わり、最後に私がスピーチをする段になりました。何をしゃべろうかと式の前に考えていましたが、特段変わったことをしゃべる必要もないと考え、素直にそのとき思ったことだけを口にしました。それは、タエさんのご両親に対する感謝であり、亡くなった父への感謝でもあり、会場へ来てくださった方々への感謝のことばです。そして、忘れてはならないのが亡くなった先妻、生代さんへの感謝。それらを口ごもることなくとうとうと述べることができ、会場からは温かい拍手をいただきました。

こうして、我々の結婚披露宴はひとまず終わりましたが、このあとさらに、別室では披露宴に参加できなかった高校時代の同級生たちが集まってくれており、二次会としてのお披露目が始まりました。当初、この会は派手なイベントもなく落ち着いたものにする予定でしたが、同級生の一人が、近くの神社の知り合いの神主さんに交渉して、普段はお正月にしかやらない、獅子舞を披露してくれることになっていました。

二次会が始まって間もなく会場には獅子二頭が乱入。にぎやかな舞いを披露し、みなを楽しませてくれたのです。舞いが終わり、獅子のお面をとって中から出てきたのは、なんとその同級生。ちょっとしたサプライズです。なんでもこうした形でしばしば神社の行事に参加しているとのこと。聞くところによると、その神社の祭神は厳島神社の神様の姉妹だそうです。その朝出向いた厳島神社の姉妹社の奉納舞いで、その日の宴を締めくくることができたのも、厳島神社の神様の粋なはからいだったのかもしれません。

二次会での奉納舞いの後は、同級生同士、昔話にも花をさかせつつ、皆で写真を撮りあい、お互い、またいつの日か会おうね、と約束を交わしつつ別れを告げ、ようやく長かったその日一日の行事すべてが終わりました。

終わったとたん、さすがにどっと疲れ、ホテルが用意してくれた最上階のスイートルームへ帰ったときは、服を脱ぎ捨てるなり、どっとソファーに倒れこみました。二人とも結婚したんだーという感慨のようなものはなく、むしろ一大イベントを無事終了した安堵感のほうが大きかったように思います。

スイートルームを開けると、雨にけぶる広島の町灯りが見えます。かつて私が15年暮らした町、彼女にとっては40年以上を過ごした町です。そのうちの、わずか2年ほどを共に過ごしただけのご縁なのに、今こうして二人が夫婦になったことを思うと、人の運命の不思議さを思わざるをえません。このあと、何歳まで二人でいられるかはわかりませんが、これからもそうした運命ドラマは続いていくのでしょう。終わったのではなく、スタートなんだ。しかも一人でなく二人にとっての・・・とその時しみじみ思ったものです。

・・・我々の結婚ストーリーは、これで終わりです。いかがだったでしょうか。ずいぶんと長い回想文になってしまいましたが、それは、人さまに読んでいただく、というよりはむしろ自分たちの記録のためでもありました。結婚後4年を経た今、結婚に至るまでの経緯を振り返り、ああ、そういえばあんなこともあった、そんなこともあったな、と思い出すにつけ、忘れかけていた出来事がこんなにも多かったかと改めて考えさせられます。

時間が経つにつれ、記憶というものはあいまいになっていくもの。自己満足だと言われればそれまでですが、そうした記憶が風化していく前の、あの頃の気持ちを少しでも取り戻し、文章にしておくことができたことは、結婚記念日の今日にふさわしい作業だったと思います。自画自賛。

明日からはまた通常のブログに戻ります。しかし、ときおりまた、あの時代に舞い戻って、その回想をするかもしれません。が、それはお許しください。それほど二人にとっては素敵な結婚式でしたから・・・