みっつめの奇蹟

私が先妻を亡くして1年半、タエさんもご両親を亡くして1年ほど経った夏のことです。夏・・・といっても、もう9月に入っていたかと思いますが、カナカナゼミが良く鳴いていたのを覚えています。

その頃私は、2年ほど前から始めていた建築関係の仕事に見切りをつけ、東京都内にあるNPO法人の仕事を手伝い始めていました。建築の仕事は面白かったのですが、思うようには収益があがらず、また家内を亡くしてから一人で仕事を続けていくことが苦痛になってきていました。NPO法人の代表者は、前にいた会社を私とほぼ同時に辞めた方で、防災関係の公共事業へのコンサルタント業務を収益源としていろいろな社会活動を始めようとしていました。

防災は仕事として手掛けたことはありませんでしたが、もともとの専門が海洋だったため、津波や高潮といった海事には詳しく、自分の能力を発揮できるかもしれない、という期待もありました。

しかし、その頃まだ息子は母親を亡くしたばかりでしたし、一人残して毎日都内に通うというのは正直抵抗がありました。ですから、基本的には自宅で仕事をし、必要なときには都内へ出る、ということでOKか、と聞いたところ、代表はこころよく承諾してくださいました。

その日は、午前中だけそのNPOへ出所し、午後は自宅で仕事をしていました。仕事が一段落したので、トイレ休憩に立ったときのことです。玄関横のポストをみると、一通のはがきが入っているのに気が付きました。どうせ何かのダイレクトメールか何かだろう、と思いながら裏面を見て、あっ、と驚きました。

そこには、30年前に卒業した高校時代の同級生の名前とともに、30年ぶりの同窓会の案内が書かれていたのです。発起人は男女4人でしたが、そのうち二人は女性。苗字にカッコ書きで旧姓が書かれているところをみると、結婚なさったようです。そりゃあそうだよなー、あれから30年。みんな結婚しているはずだよなー、と自分が結婚したことも忘れ、ハガキの詳しい内容を読み始めました。

それによると、来年の正月、かつて卒業した母校に、卒業する前のクラス担任だった先生も招いて「ホームルーム」をやるというのです。いまどき「ホームルーム」なんて言葉を使うのかどうか知りませんが、まあ言ってみればクラス会議のようなもの。クラスの問題点をみんなで話し合って解決する場であるとともに、クラス全員の親交を深めるための場でもありました。懐かしい~

以前のブログでも書いたように、わがクラスはその当時から結束が強く、何かとみんなで行動したがる連中。卒業して一年後に野外キャンプを兼ねたクラス会を催したこともその表れです。私は参加しませんでしたが、その後も何度かクラス会をしたようです。しかし、いつも全員が集まるということもなく、東京や大阪への就職、転勤や結婚で広島を離れる人も増え、やがて30年の月日が過ぎる間、みんなちりじりばらばらになってしまっていました。

私の最近の東京の住所は高校時代の誰にも教えたことがないはずなのに、なぜわかったのだろう、と不思議でしたが、よくよく考えてみると、数年前に広島在住の一人の同級生から電話をもらったことを思い出しました。高校時代、とりわけ仲のよかった友人の一人で、その電話をもらって話をしたとき、おそらく新住所を伝えてあったのでしょう。

その頃の私は、家内を亡くしたばかりで、新しい仕事にもさほど集中できず、もんもんとした時を過ごしていました。ふたりだけの男所帯は気楽といえば気楽でしたが、掃除洗濯、弁当づくりは当然やらねばならず、仕事を持っている上での家事はわずらわしいかぎり。いっそのこと、東京を引き払って、山口の実家へでも帰ろうか、と考え始めていたちょうどそのころのことです。

そのハガキには、行方しれずになっている同窓生がいると書いてありました。早速、発起人の一人のN君に電話をかけて確認したところ、ハガキに書いてある人たちだけでなく、私以外の東京に出た面々はほとんど連絡がつかない状態だとのこと。そういえば、留学前には、東京に就職した面々とよく遊びに行っていたものですが、帰国し、結婚してから彼らとは連絡はほとんどとったことがありません。

その頃、私はNPO法人の仕事をしているとはいえ、自宅勤務だったため、自由に使える時間はかなりありました。なので、N君に電話したときも、それなら、俺が東京にいる面々の連絡先を調べてとりまとめ、君に送るよ、と言いました。N君は今、広島の地方郵便局の局長をやっているとのことで、かなりお忙しいご様子。私の言葉に対して礼を言ってくれ、その電話を切りました。

・・・そして、それからは怒涛のような行方不明者の捜索が始まります。まず手始めに東京に在住の面々の行先さがしから始めました。これは、比較的簡単でした。なぜなら、みんなそれぞれの就職先を知っていましたから、職場に電話をして事情を話すことで、連絡先を教えてもらえるケースが多かったためです。就職先が変わって行方が分からなくなっている面々も、既に連絡がついた友人が行き先を知っている場合もあり、ほぼ1週間で全員の行先がわかりました。東京在住の私としては、N君との約束を果たしたわけで満足でした。しかし、N君に、ほかにまだどのくらい行方不明者いるのかを聞いたところ、かなりの人数にのぼることがわかりました。

その頃、N君は、自前でクラスの卒業生専用のホームページを開設しており、ここに行方不明者の消息情報などを自由に書き込める掲示板も掲載されていました。30年ぶりの同窓会が開催されることが、かつてのクラスメートに伝わる中、このホームページへの書き込みは異常な盛り上がりを見せ始めていました。はじめは、私を含めて数人の書き込みしかなかったものが、一か月もたつころから、クラスの半数近くが書き込みを行うようになります。

それまでのお互いの暮らしぶりや近況を伝えあい、懐かしさも手伝って書き込みは日に日に増え、書き込み熱はさらにエスカレートしていきます。30年のブランクがあるにもかかわらず、クラス一丸だったかつての結束力がよみがえってきたのです。そして誰が言い出したのかよくわかりませんが、誰ともなく、今度の同窓会は必ず成功させよう!そうだ!全員を必ず集めよう!ということになっていったのです。

やがては、書き込みを行っている人同士が連絡をとりあい、行方不明者の捜索に乗り出すことまで始めました。かつての同級生が住んでいた家にまで行って、その近所の人に引越し先を聞く、ということまでやったようです。行方不明者の中のひとりに現在岡山在住の女性がいますが、この人に至っては、インターネットで似たような苗字の人を探し当て、直接電話をして確認する、という探偵まがいのことまでやりました。電話の結果、なんとその当人に間違いないことがわかったとき、掲示板には全員から絶大なる賛辞が送られました。

このほかにも海外勤務でドイツ在住の男性、愛媛県で医者をやっている男性など次々と行方不明者が見つかっていきます。みんな広島や東京以外の町に住み、連絡が取れなくなっていた人たちばかりでしたが、結婚して苗字が変わっていたので発見できなかったという女性も多かったようです。

そして、タエさんは、というとそれを見つけたのはほかならぬ私でした。私が現在は茨城県に住む男性を探し当てたときのことです。その彼は今、つくば市で、料理店を営んでいますが、数年前に行われた「鯉城(りじょう)同窓会」で購入した同窓会名簿を持っていると私に教えてくれました。鯉城とは、広島城のことで、その昔、鯉の産地であった広島にちなんでつけられた名前で、わが母校もその名前を同窓会名に冠しています。ちなみに広島カープのカープも鯉のこと。ご存知の方も多いでしょうが。

その鯉城同窓会は、卒業生全体の総合同窓会なのですが、毎年幹事を決め、総会が広島で行われています。その総会の数年前の幹事をタエさんがやったことがあるらしく、同窓会名簿に最近の住所が書いてあるらしいというのです。

早速、そのつくばの友達からファックスで名簿を入手した私。見ると、そこには確かに広島五日市区の住所と電話番号が・・・ そして早速電話をしてみることにしたのです。

正直言って、その昔、タエさんに振られたことが頭をよぎりました。しかし、30年も前のこと。彼女もほとんど覚えていないだろうし、私自身、若いころにやった失敗のひとつ、と考えることができるほど「大人」になったつもりでいました。実は名簿には、タエさんだけでなく、ほかにも行方不明になっている人の名前と住所が何件かありました。このため、このとき電話をしたのはタエさんのところだけではありませんでした。しかも、タエさんは不在で留守番電話に切り替わったため、メッセージだけを残してその日の連絡を終えました。

翌日の朝のことです。東京のNPO法人にまた出所する用事ができ、事務所のある四谷のビルの前の坂に差しかかった時のこと。突然携帯電話が鳴りました。かけて来た相手の番号は見知らぬもの。誰だろうな、と不信に思って出たその相手こそ、誰あろうタエさんでした。昨日彼女に電話をしたときは、タエさんだけでなく、あちこちに電話をしていたので、留守番メッセージに自分の携帯電話の番号を伝えていたことをすっかり忘れていたのです。何でこの電話番号知っているの?と聞く私に、笑いながら、だって昨日、メッセージに電話番号残してたでしょう?

「・・・」。こうして、彼女との30年ぶりの「ニアミス」がふたたび始まったのでした。

それにしても・・・まさか、30年ぶりにいきなり電話で話せるとは思っていなかったので、ちょっと動揺したのを覚えています。しかし気を取り直して、同窓会のことを伝え、そしてお互いの近況について、それから数分だけ話をしました。そして彼女から、最近両親を亡くし、ひとりで住んでいる、と聞かされたとき、思わず実は僕も・・・と家内を亡くしたことを話したのです。

もっと話をしたかったのですが、出所前の路上の電話でもあり、長話をするのもなんだし、今日、夕方自宅へ帰ったらまた改めて電話するよ、ということになり、その電話は切りました。

・・・それから自宅へ帰り、タエさんとその後の30年について長い電話をしました。おそらく2時間近く話をしたのではないでしょうか。その時の心境を彼女に聞いたことはありませんが、お互い、近親者を亡くしたばかりの心の穴を埋めたいという気持ちがあったのではないかと思います。今もそうですが、身近な人の死を乗り越えようとしている人の心情はよくわかるもの。お互い、そうだとは口に出して確認などはしませんでしたが、そのことでなにか、ある種の親近感を感じていたのは確かです。

加えて、いろいろ話をしていくうちに、彼女もスピリチュアル的なことには興味を持っていることもわかりました。そのころは、あまりまだそういうことについて深く意見を交わしたりすることはありませんでしたが、その後、彼女との交際が深まる中、スピリチュアルに対する理解は二人の関係をさらに深めていく大きな要素になっていきました。

とはいえ、その後も1度か2度彼女とは電話で話をしたと思いますが、そのころはまだそれほど親しい間柄、という関係でもなく、まして30年もの間、お互いの顔を見ているわけではありません。電話で話すよりもメールで連絡を取り合うほうが、より気楽、というところもあり、もっぱら彼女とはメールでやりとりをするようになります。

しかも、当初の彼女は、恋愛感情というよりも、お互いが近親者を亡くしたことに対しての憐憫の情がそうさせるのだ、と思っていたようなふしがあります。一方の私は、30年前のリベンジ、というつもりはなかったのですが、どこかにあのころの淡い慕情のような感情が残っていて、かつての失敗を取り戻したい、あのころを取り戻したいという気持ちがだんだんと強くなっていったように思います。

気が付いてみると30年前と同じように、私からの彼女への一方的なメールが届くようになっていきます。彼女にすれば、昔そういうことがあったにせよ、今は何の関係もないただの同級生。少々しつこいメールにそろそろうんざりしはじめたのでしょう。突然、私とのメールのやりとりに「待った」をかけてきました。

文面をよく覚えていないのですが、彼女から来たメールには、お互いが近親者を亡くしたことは事実だが、そのこととあなたとのお付き合いは別。近親者を亡くして悲しいという共通の感情を恋愛感情にすり替えていくというような過ちはしたくない、といった内容だったと思います。

そのメールが来る少し前、私は九州方面に仕事で行く予定を立てていましたが、そのついでに、広島に立ち寄り、来年の正月に先駆けて、タエさんとも会おうかと考えていました。タエさんにもそのことを伝えていたのですが、そのメールには、それについては棚上げ。そして、来年の正月に再会するまで、メールのやりとりもしばらくやめましょう・・・とまで書いてありました。そしてその頃を境にタエさんは、それまでは頻繁にしていたN君のHPへの書き込みも全くやらなくなってしまいます。

彼女からのそのメールは強烈でした。かなり落ち込みもしました。ところが、そこへ思わぬ救世主が現れます。同じクラスメートの女性、Sさんです。Sさんは現在東京でデザイナーをやっていて、旦那さんはノンフィクションなどを書いている作家さん。20代のころ、ほかのクラスメートと一二度飲みに行ったことがある程度でしたが、それほど親しい、という間がらでもありませんでした。

が、私が東京在住のクラスメート全員を探し当て、その後、30年ぶりのプチ同窓会をやったころから、親しくメールのやりとりをするようになり、タエさんとのことなども相談するようになっていきました。

ちなみに、そのプチ同窓会とは、正月に予定されていた本番の同窓会に先立ち、関東地方に在住のクラスメートだけで、30年ぶりにやろうということになったもの。丸の内で行われたその会には10人ほどが集まったのですが、なにせ30年ぶりのこと、懐かしいやらお互いの変わりようを揶揄するやら、昔の子供のころに帰って大騒ぎ。会が終わるころには男性陣はほとんど泥酔状態に近く、私もどうやってウチへ帰ったのか覚えていないほどでした。この関東組プチ同窓会は、その後毎年の恒例行事になり、同窓会以外にもときどきみんなで会って、さらに親交を深めています。

その会で久々に出会ったSさんにどうタエさんのことを話したかよく覚えていません。しかし、彼女のほうから、タエさんのことについて相談に乗ってあげられるかもしれない、と伝えてきてくれたのにはわけがありました。というのも、今回の30年ぶりの同窓会の開催にあたり、開催場所や日時、趣旨が書いてある「招待状」を作ろう、という話になり、その装丁デザインを本職のデザイナーである彼女ともうひとりの同級生が、招待状の文面はコピーライターのタエさんが引き受けることになったためです。かつてのクラスメート三人組が、その制作ための相談を電話やメールでやるようになっており、その中でお互いのプライベートのことなども話すようになっていたらしいのです。

Sさんは、そうしたやりとりの中で、タエさんから私のことも聞いたらしく、なんとか二人を結び付けたいと考えたようです。いわば、二人を結びつけるキューピット役を買って出たわけ。今考えると、彼女がいなければ二人は結婚していなかったかもしれません。これも後日談ですが、結婚後は、二人とも彼女のことを生涯の恩人と考えるようになり、今もメールや電話でのやりとりのほか、時には会食もして親しくお付き合いをさせていただいています。

ところで、タエさんとSさんたちが作った招待状ですが、キャッチフレーズは「ふたつめの奇蹟を起こそう!」というものでした。タエさんが考えたコピーです。30年前に初めて母校の教室でみんなが出会ったことが最初の奇蹟。そして、来年行われる同窓会で全員がふたたび同じ教室で再会することを、「ふたつめの奇蹟」とした、なかなかの力作でした。

キャッチフレーズの書いてある面の裏面には、全員参加を呼びかける短文がつづってあり、現職のコピーライターが書いたその文章は、クラス仲間全員の賞賛を浴びました。「ちっぽけなプライドが邪魔をして、肝心なひとことが言えなかった時も・・・わけもわからない感情に流されて、暴走してしまった時も・・・」と昔、我々が若かったころの心情をうまく表現し、昔できなかったこと、言えなかったことを今度の同窓会でぜひ実現しよう、という呼びかけに共鳴した人も多かったようです。もっとも、私自身は何やら私のことを言っているような気もして、ドキッとしたものです。しかし、おそらくそこまでは彼女も考えてはいなかったことでしょう。

Sさんが仲介に入ってくれたとはいえ、それはもう11月の下旬のこと。広島での同窓会までもうあまり時間もありませんでした。しかし、Sさんは私に対してタエさんへの接し方をアドバイスする一方で、タエさんのほうにも熱心に働きかけ、音信不通になっていた私と彼女を結びつけるよう二人の親身になって働いてくれました。

そして・・・お互いの腹の中を探り合うようにして時間だけが過ぎていくようにみえた12月はじめごろのこと。少しタエさんの心境に変化があったように思われました。それまで中断していたN君のホムペへの書き込みを再開したのです。私との直接的なメールのやりとりこそは回復していませんでしたが、私が掲示板に書いた文章に対して、間接的ながらコメントを書いてくるようにまでなっていました。私もようやく彼女との接点が出てきたことを素直に喜びました。が、その直後、とんでもない事件が起こります。

12月の10日のお昼頃のことだったと思います。母からの電話で、突然父が亡くなったとの連絡が入りました。その年の夏には父が入っている病院に母と一緒に見舞い、元気そうな様子を確認していたので、まさか、と耳を疑いましたが、電話で聞こえる母の声は間違いなく父の死を告げています。

その時は、ちょうど連日の出張を終え、前日に重要な委員会が終わったばかりで、仕事は一段落していました。その日もそれほど忙しくなかったため、その晩、息子とふたり、夜通しクルマを飛ばして山口まで帰りました。あまりにも急な父の死でしたが、母の友人の方々が手分けしてお手伝いをしてくださったことから、翌日にはもう葬儀の準備を整えることができ、二日後には無事、葬式を出すことができました。

その葬儀の朝のこと、あのSさんから携帯に電話が入りました。電話の内容は、父の死に対するお悔やみが主でしたが、それに加え、タエさんが掲示板で私に対してメッセージを書いている、と教えてくれたのです。

そのときはネットが使える環境にはなかったので、後日そのメッセージを読んだとき、正直うれしく思いました。あとでSさんに聞いた話では、タエさんはこのころにはもうかなり私に対して変なわだかまりのような感情は捨てていたようです。くれたメッセージにもそうした彼女の心境の変化も見て取れました。

以前のブログにも書きましたが、父の死をきっかけにタエさんとの仲が急速に接近したことについては、Sさんの存在が大きかったことは確かなのですが、それとは別に、もしかしたら父の仕業だったかもしれない・・・そう思えてならないのです。ちょうど仕事の一区切りがついたと思ったとたんに逝った父。案外とそのタイミングを計って昇天し、そのついでにタエさんにメールをするようにささやいて行ったのかも、とさえ思ってしまいます。

しかし、そのときはもう12月も半ば。1月3日に行われるという同窓会まではもうほとんど日にちがありません。あいかわらず掲示板での間接的なコメントのやりとりだけで、日々が過ぎていき、そして年明けを迎えることになります。

そして、迎えた1月3日。午後3時から行われた恩師の特別授業を皮切りに、30年ぶりの同窓会が開催されました。懐かしい面々同士、長い間封印されていた身の上話を披露しあい、にぎやかな宴会が夜遅くまで繰り広げられていきます。集まった総数39名。欠席者はわずか7名でした。すばらしい出席率です。全員参加という目標は達成こそできませんでしたが、「ふたつめの奇蹟」は見事達成されました。

その39名の中に私とタエさんがいたのは言うまでもありません。そして、その後の二人の結婚は、「みっつめの奇蹟」としてクラスメートの記憶にも長く残るものになっていくことになります。

その日、30年ぶりの長い同窓会が歓喜の声とともに終わりを告げようとしていたときのことです。私のところへ、あのSさんがそっと私に近寄ってきて言いました。「タエさん、明日は何も予定ないみたいよ。声をかけてみたら」

これに対して私は即答せず、うーむとうなっただけ。しかし、宴会会場をあとにみんながそれぞれの帰りのタクシーを探し始めたころ、勇気をふりしぼって彼女に声をかけました。
明日のご予定は?もしよかったら・・・と。

・・・そして、その後のことはご存知のとおりです。書くだけヤボという気がしますが、ここで終わるのも中途半端なかんじです。実は、それから結婚まではさらに、一年半という時間が過ぎるのですが、それについてはまた、いずれお話することにしましょう。

明日はいよいよ結婚記念日。4年前のその日も雨でしたが、奇しくも今年も雨。しかも台風の中の記念日になりそうです。4年前のあの日、宮島で結婚式を挙げた二人。降りしきる雨の中、披露宴会場であるホテルへと向かう船の上から見えた広島の町の灯りが思い出されます・・・(続く)