嵐が過ぎて

台風が近づいているようですね。伊豆へ移住してきてから初めてのことになります。去年の秋に来た台風では、購入前の我が家では屋根のテレビアンテナが吹き飛ばされました。この別荘地は、東西南北からの風の通り道になっているようで、ここを最初に訪れたときから風の強いところだなーという印象でした。前回の台風時にはまだ住んでいなかったのでそのすごさは体感できませんでしたが、今度の台風ではそれを初体験することになります。楽しみ・・・というのも変ですが、ここに住むことの良し悪しを知ることは、けっして無駄ではないように思います。嵐の過ぎたあとには、良いこともある。人生の嵐も同じかも・・・

今月は4周年目の結婚記念日を迎えるブライダル月間ということで、時に、ムシャ&タエのなれそめなどを回想しています。はっと気がつけばその記念日も3日後に迫ってきたので、続きを書いていきたいと思います。そんなの関係ないよ~つまらんお話はやめてもっと面白いことを書け~ とお叱りを受けるかもしれませんが、今少し我慢しておつきあいください。

さて、大学時代にタエさんに果敢なアプローチをして、見事撃沈された私・・・ その後東京に出て就職をし、新たな人生をスタートさせました。タエさんも同じく広島で就職。私は理科系、彼女は文科系とそれぞれ全く別の分野で自分を磨き始めます。今振り返っても20代というのは、実によく働いたなーと思う時代です。

朝も早くから夜遅くまで残業も厭わず働き、時には土日出勤、徹夜が続くこともありました。これはタエさんも同じだったようで、お互い、その仕事柄、締切というものがある職種を選んだという点ではふたりとも同じ。もし、そのころ締切などというものがない自由業に就いていたら二人の人生はまた変わったものになっていたかもしれません。

しかし、そうはならず、お互い会社という組織の歯車として馬車馬のように働いた20代前半・・・そして、その仕事ぶりがある程度認められ、自分自身もそれが面白いと感じるようになってきた20代後半のこと。二人に大きな転機が訪れます。大学を出てすぐに就職した人たちの多くは、就職後3年、5年を節目として、大きな転機に出くわすといいます。そういう人ばかりではないのかもしれませんが、我々二人については、セオリー通り?だったのかも。自分が就いている仕事について、ある疑問が沸いてきたのです。

それは・・・このままでいいのか?という素朴な疑問。私の場合、いつも自分のやった仕事に満足できず、もう少し深い知識が欲しい、とか、もっと別のアプローチをしてみたいとか感じていましたし、彼女は彼女でクライアントの求めに応じるまま、締切に追われながら広告コピーを作り続ける中、自分らしさがアピールできない、という悩みを抱えていたようです。そして・・・時をほぼ同じくして二人ともそれまで働いていた職場を離れる決意をするのです。

まったく別々の場所でまったく異なった仕事を選んで人生を歩んでいた二人が、ほぼ同時期に会社を辞めた・・・というのは偶然の一致なのか、それともやはり似たものどうしだったからなのか、についてはよくわかりません。しかし、自分の現状に常に満足せず、殻を打ち破ろうともがいたところをみると、同じような資質を持っていたのかも。そうしたお互いに似たところをその後の再会で気付き、それが結婚をするためのひとつの条件になっていったのではないか、そんな気がします。

・・・そして私は、留学を決意。彼女はフリーのライターとしてそれぞれ会社を辞め、それぞれの新しい道を歩きだします。そのとき二人は27歳。まだまだ若い・・・でもそれなりの分別もつくようになった年齢です。

ところが、それから二人の人生もまったく同じように過ぎていき・・・というふうにはなりませんでした。私はハワイから帰国後、もといた職場に再就職し結婚。一児を設け、家庭と仕事というふたつの環境を行き来する生活を続けることに。

方や彼女のほうは、結婚せず、フリーのライターとしての自分を見つめ続けることになります。彼女の場合、結婚をしなかった、のではなく、バリバリの結婚したい願望派だったようで、相手を求め数多くの恋愛を経験したようです。詳しくは知りませんが、若いころにもお見合いをしたのではないかな?けれど、結局思うような相手にめぐりあうことなく、その後も独身生活を送っていました。

そして・・・長い月日が過ぎていきます。二人とも落ち着いた・・・と書くべきかどうかはわかりませんが、おしなべていえば割と淡々とした毎日だったといえるのかも。私は会社組織の中において主任から係長、課長へと昇進しつつ仕事もかなりハードになり、子育てにも忙しく、別のことにかまっているような時間はありませんでした。

一方の彼女は、何社もの大手のメーカーの広告のコピーを手掛けるようになり、ラジオの放送原稿も書くようになるなど、フリーのライターとして一定の評価を受けるようになっていました。その実力はなかなかのものだったようです。しかし、あいかわらず恋愛遍歴を繰り返し・・・などと書くと怒られそうなので訂正します。・・・えー、好きな人が何度もできて特攻するものの実らず・・・ということが何度があったようです。

20代の彼女は、大学を卒業したてのころまでのおとなしいお嬢さんというイメージを払拭し、自分らしく生きる!を強烈に意識し、自分を変えていったようです。髪をそれまでのおとなしいロングヘアーからソバージュにし、メガネもその当時流行っていた黒縁で大き目のサングラス風のものに変え、週末にはミニスカートにハイヒールでディスコ、時には友達とスキーへ、気が向けば海外旅行を、と青春を謳歌していたようです。自分でも一番はじけていた、と彼女は述懐しています。しかし、そうした毎日を送りながら20代、30代は無常に?またたくまに?過ぎ、やがて40代に突入します。

私の40代ですが、より責任の重い仕事を任せられるようになり、日々忙しく、その頃やっていた環境調査の仕事で、日本全国を飛び回っていました。週末にはなるべく自宅にいるようにし、息子や家内とのふれあいを大切にしていましたが、その息子も小学校に入り、低学年から高学年になるにつれて、手もあまりかからなくなっていました。

ハワイから帰ってきて十数年。生活は安定していましたが、仕事に対してはある不満がありました。私の仕事は、国土交通省や地方自治体などから発注される公共事業。公費を使って行う環境調査が主でした。もともとは海が好きで海洋工学を学んで、海の仕事をしたいがために海を渡った若きころ。しかし現実には、公共事業として海にまつわる仕事というものは全体としては少なく、会社組織としては受注額も大きい河川や道路、環境といったカテゴリーの仕事に会社の精鋭を重点的に振り分ける方針でした。

自分が精鋭、と思っていたわけではありませんでしたが、会社に利益を出させるためには、時にやりたくない仕事にも手を染めなくてはなりません。環境という不慣れな仕事をやるようになったのは、そうした会社の方針でもあったためですが、これからは海洋では食っていけないだろう、という自分なりの読みもあり自ら志願して就いた仕事でもありました。

しかし、「環境」を仕事にしている、といえば聞こえはいいのですが、この仕事ほど役人のエゴが目に余る、目につく仕事はないと思います。現在、原発の存続が大きな問題として取り上げられていますが、ダムや道路、河川といった公共事業の中には、本当にそれが必要なの?と疑問符がつくものがゴマンとあります。

仕事柄、そのあまりにも「無駄」と思える公共事業に数多くかかわってきましたが、人々の生活を守るためのインフラとは建前だけの、役人の自己満足のためにだけ作られたような公共事業がいかに多いことか。そして、環境調査というものは、多くの場合それを肯定するための材料として使われる・・・という実態をどれだけの人が知っているでしょうか。

この件については、さらに熱くなりそうなので、ここいらでやめますが、ともかくそういう長年自分が携わってきた仕事に対する疑問は次第に大きくなっていきます。

そして、44歳になったときのことです。その頃興味のあった建築関係の仕事をするため、会社を辞め、自宅に仕事場を作り、独立して仕事を始めるようになります。自前の会社を作り、建築材料を仕入れて、その頃はやり始めていた「セルフビルド」をやりたい人向けに材料を売る、という商売を始めたのです。

一方、その頃のタエさんといえば、彼女も40代に突入し、このころからはさすがに、ディスコやスキーはやらなくなったようです。しかし、その分男性との出会いも少なくなった?のか相手にされなくなったせい?もあるのか(タエさんゴメン)、同じく独身の女友達どうしとのお付き合いも増えていったようです。しかし、フリーのライターとしてひとり身の気楽さを味わいながらの日々はいやではなかったのかも。

そんなふうにいつまでたっても嫁に行かない一人娘をみていたご両親も、心配はなさっていたようです。ときにはお母さんが薦めた人とお見合いをしたこともあったのかな? 結婚相手の紹介サークルにも入会し、ともかくかなりの人数とお見合いをしたようです。

しかし、これぞ!と思うような人にはなかなかめぐりあえなかった、とのこと。逆に先方からは、ぜひ、ということもあったそうですが、どうしても踏み込めなかったらしい。今思えば、ここで彼女がお気に入りの相手を見つけていれば、私とのことはなかったはず。彼女によれば、その踏み込めなかった理由は相手それぞれにあったそうですが、案外と彼女の後ろについている守護霊さんが否定されていたのかもしれません。

自宅にこもって新商売を始めようとした私。自前のホームページを作り、そのアクセス数も徐々に増えてきたころの夏の日のことです。例年だと、会社から休みをとり、親子三人で実家のある山口に帰り、あちらの海や山、食べ物を満喫するということを繰り返していました。その年もそうしようと思い、山口へ帰るスケジュールをほぼ決めかけていたところ、先妻、「生代」さんといいますが、彼女の顔色がさえません。

聞くと、先日調子が悪いので行きつけの内科医に診てもらい、レントゲンをとってもらったら何やら異常がみつかったとのこと。精密検査をするために近くの大学病院に行くように勧められたというのです。

その時はたいした病気ではないだろう、と思ったのですが、ともかく大学病院での検査結果をみようということになり、予約をとることに。ところが、とれた予約日は、ちょうど山口へ帰ろうと思っていた日と重なっていることが判明。とにもかくにも彼女の体が心配なので、今回はやめよう、と私は言いましたが、彼女は、息子が楽しみにしている帰省だから、あなたと二人だけで帰って、と言います。いやーそれはちょっと、と少し言い争いにまでなりましたが、結局彼女に押し切られ、我々二人だけが山口に帰ることになりました。

後で彼女から聞いた話ですが、我々が山口へ言っている間、彼女はひとりで歩いて大学病院へ行ったようです。おなかに大きな病気を抱えて。のちにその病名を知ったときに、私の心は大きく痛みました。どうして、彼女をひとりにしてしまったのだろう。最後の夏になるなら、一緒に過ごせばよかった・・・と。

・・・そして帰京後、彼女の病気が最悪のものであることを知ることになります。亡くなるまでのその間、必死の看病もむなしく、彼女は、その後1年を待たずして逝ってしまいました。彼女は自分の病気が何であるかを知っていましたし、彼女の闘病生活は気丈なものでした。しかし、最後の時が近づいたことを医師から告げられたとき、そのことは本人と息子には話しませんでした。

本人はおそらく、自分の死期が近いことを知っていたと思います。しかし、彼女は最後まで、「私、元気になるんだから」、と周囲に漏らし、あいかわらずの気丈ぶりでした。しかし、今思えば、最後の時間が短いことを本人と息子に教えていれば、母と息子の二人だけの最後の時間をもっと別の形で持たせてやれたのではないか、と後悔しています。一人で夏を過ごさせたことと、そのことは、今も思い出しても悔やまれることです。

彼女が亡くなる前、三人で夏になると必ず訪れていた場所があります。山口県の北部にある、豊北町というところです。沖に「角島(つのしま)」という島がありますが、そこに渡るために10数年前に橋が作られました。島の先端には明治時代に作られたというレンガ造りの灯台があり、これを中心に公園整備や海水浴場の整備が行われ、遠くは九州や広島方面からも観光客が来て賑わっています。

この角島に渡る橋、角島大橋の本土側の東側には、小さな海水浴場があるのですが、青い海と白い砂のコントラストが見事で、水質もよく、水の中を泳いでいる魚が遠目にも見えるほど。まるで沖縄の海のような風情のこのビーチが三人のお気に入りでした。冒頭の写真は、このビーチで一日中遊んで帰る間際に私が撮ったもの。思い出に残る一枚です。

ここに写っている彼女がもういない、というのが今も不思議なかんじがします。しかし、まごうことなく彼女は逝き、残された私と息子は、その後長い間二人だけのさみしい生活を続けることになります。

実に複雑な心境としか言いようのないのですが、彼女の死がタエさんとの結婚につながったというのは、間違いないところです。その死は悲しみに満ちたものでしたが、同時にそのあとの静寂をもたらすものでもあった・・・ということになります。冒頭でも書いた通り、人生の嵐・・・です。過ぎたあとには静かで穏やかな日々も来る・・・

生代さんの戒名は、「釈尼蓮生」 ハスの花由来です・・・

ところが、その嵐の後の静けさをもたらしてくれるはずのタエさんの周辺にも、その頃、異変が起こります。一人っ子の彼女は、文字通りご両親の目に入れても痛くない存在だったかと思います。こちらも三人とも仲がよく、彼女が独身であるがゆえ、独立先からご両親の家に何日か戻り、一緒に楽しい時間を過ごす機会も多かったと聞いています。

そんなご両親が、あいついで亡くなるのです。お父さんは喉頭がん、お母さんは肝臓がんでのことでした。兄弟姉妹はなく、一人っ子だった彼女がご両親を亡くし、その二人が残しただだっ広い一軒家に一人で生活するようになったのは、46歳のとき。私も妻を亡くし、失意の中を息子と二人で暮らし始めたころのことでした。

運命とは不思議なものです。若きころ、ニアミスのように出会い、別れて別々の人生を送っていた二人が、ふたたび時を同じくして出会おうとしていました。しかも、それぞれが別の形ながら、同じように肉親の死に直面しながら、というのは何か仕組まれたような気さえします。

そして、運命の2006年、平成18年の夏がやってきました(続く・・・)。