外国人居留地のこと

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今日は「大阪港開港記念日」だそうです。1868年のこの日、大阪のほぼ中心部を流れる安治川(あじがわ)の河口に大阪港が開港しました。

この安治川の河口には海港があり、6世紀頃には国際港として栄え、難波津(なにわづ)、住吉津(すみのえのつ)と呼ばれていました。しかし、上流から流れ出た土砂が港内に堆積したことで衰退してしまい、このため平安時代から鎌倉時代に港は安治川の北を流れる淀川の河口に移され、ここは渡辺津(わたなべのつ)と呼ばれようになりました。

この渡辺津は河港でした。「河港」の意味は、淀川を数km遡った場所にあったためです。安土桃山時代に、豊臣秀吉によって 大坂の町割が作られ都市の基盤が築かれ、江戸時代にかけては北前船や菱垣廻船などの寄航地として栄え、日本最大級の港となりました。

しかしながら、大坂市街はここからさらに数km遡る必要がありました。しかし、土砂の堆積で大型船はこれより奥へ進むことができず、ややむを得ず渡辺津から下流部の河口部や、淀川の分流である木津川の河口に停泊し、そこから運河などを使って大阪市内に小型船で貨物を運搬していました。

木津川と安治川は淀川から枝分かれした分流ですが、この当時は部分的には淀川本流でもあり、このため淀川に加えて大阪湾から大坂市中へ遡る航路として使われていました。が、これらの河川には大雨が降るたびに大量の土砂が流れ込み、そのために常に河川の改修や浚渫が必要であり、これは江戸時代を通じて行われました。

このため、1683年(天和3年)には土木・建築の請け負いで財を得ていた豪商、河村瑞賢が、淀川の中途から海へ向かって現在の安治川を開削。これによって、淀川にあった渡辺津へのバイパスができるようになりました。それまでは淀川の浅くなっていた部分を避け、曲がりくねった流路を辿っていたものが、最短で渡辺津へ行けるようになったわけです。

さらに1699年(元禄12年)には、木津川の流路も整えてスムーズにしたため、この安治川(バイパス)と木津川沿いは大阪における二大航路として繁栄するようになりました。

一方、これらの河川とは別に、大坂城の北付近で淀川に合流していた大和川という川がありました。この川は現在は堺にほど近い場所に河口がありますが、この当時は北へ向かって大阪市街を北上し、淀川へ土砂をもたらす大きな供給源でした。

その流域である大阪市街は、ひとたび氾濫すると河内低地が水没するなど甚大な被害を出していたため、これも1704年(宝永元年)に河内郡今米村の庄屋、中甚兵衛らの尽力によって、堺の北で大阪湾に出るよう付け替えられました。

これによって大和川は淀川水系から完全に切り離されるところとなり、土砂の流入は半減しました。しかし、それでも淀川水系では土砂で川が浅くなり続けたため、とくに安治川では再度大規模な浚渫が行われ、この時に出た土砂により、「天保山」が築かれました。

1831年(天保2年)から約2年間行われた浚渫工事であり、これは「天保の大川浚」とよばれました。大坂町人の熱の入れようは相当なもので、大坂町奉行指揮下に延べ10万人以上の労働力がつぎ込まれた浚渫工事は、工事自体がお祭り騒ぎだったと伝えられています。

すくいあげられた土砂を安治川河口に積み上げられてできた築山は十間(約20m)ほどの高さがあり、安治川入港の目印とする意図もありました。そのため当初は目印山と名づけられましたが、後に元号が天保になったときから天保山と称されるようになったものです。

この浚渫工事によって天保山の周囲に町が出現し、海岸べりに高灯籠(灯台)が設けられ、山には松や桜の木が植えられて茶店なども置かれ、大坂でも有数の行楽地となりました。当時の舟遊びをする人々の姿は歌川広重などによって浮世絵に描かれています。

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こうして安治川への大型船の入港が可能になったため、幕末の日米修好通商条約の締結を機に、安治川左岸の西区川口に大阪港が開港されたわけです。しかし、この港は安治川河口から6kmもさかのぼる地点に位置しており、加えて川の狭さと浅さのため、外国の大型船が入れません。このため国際港としての機能はその後次第に兵庫の神戸港へ移りました。

その後、1890年(明治23年)に大阪市民の有志らが発起人となって、天保山付近で新たに港を創る計画が持ちあがりました。築港調査の結果、大治川河口付近では、西風に起因する波に対処するため、河口を南北から挟み込むような大防波堤が構想されました。

こうして1897年(明治30年)、大阪市営のプロジェクトとして「大阪港第1次修築工事」の起工式が天保山で行われ、1903年(明治36年)には築港大桟橋が完成しました。が、思うように利用は伸びず、大型船の代わりに夕涼みと魚釣りの市民でにぎわう有様でした。

1916年(大正5年)、市の財政難と、西風にあおられ地盤も弱い河口付近の難工事により、築港事業は一時中断しましたが、第一次世界大戦景気で利用が増えたため、1918年(大正7年)から再着工され、32年もかかって1929年(昭和4年)に築港事業が完工しました。

しかし、その完工を見る前から大阪港は既に狭いと評されるようになっており、またも神戸港への遷移が目立ち始めたため、大阪市は、1927年(昭和2年)、港域を2.5倍にする築港計画を策定し、1928年(昭和3年)から「大阪港第2次修築工事」に着手していました。

その工事が完工する前の1939年(昭和14年)には貨物取扱量が日本最大となり、大阪港は神戸・横浜と並ぶ日本三大港湾の一つとなりました。この年には北港が完成し、続いて南港の建設に着手しましたが、第二次世界大戦激化のため工事は中断を余儀なくされます。

1945年(昭和20年)、大阪港一帯は米軍による大阪大空襲によって壊滅的な被害を受けました。また同年9月に発生した枕崎台風によって浸水被害が起こりました。そこで中断していた第2次修築工事を改め、大阪港に注ぐ河川を拡幅して内港を作り、その土砂で海抜0メートル以下の地区を全面的に盛り土するという「大阪港復興計画」が持ち上がります。

こうして、1947年(昭和22年)に「大阪港修築10ヶ年工事」が開始されました。その矢先に戦争末期にはB-29が湾内に大量に投下した機雷が発見されるなどのトラブルもありましたが、1948年(昭和23年)までには浚渫も進み、ようやく海外貿易が再開できるまでになりました。

こうして大阪港はその後順調に拡大し、1951年(昭和26年)には、重要港湾、続いて特定重要港湾に指定されました。さらに1967年(昭和42年)にはサンフランシスコ港と姉妹港提携をするなど次第に国際港としての知名度をあげました。

2004年(平成16年)にはスーパー中枢港湾の一つに指定され、2010年(平成22年)に国際戦略港湾の一つに指定されるなど、いまや日本を代表する国際港湾となっています。いまはもうどこからどこまでが大阪港かわからないほどの巨大な港となっていますが、その発端は、幕末に開港したほんの小さな河口港であったわけです。

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その港のあった、安治川左岸の西区川口には「外国人居留地」も設置されていました。これは、日本政府が外国人の居留及び交易区域として特に定めた一定地域であり、日米修好通商条約など欧米5ヶ国との条約により、開港場に設置することが決められ、条約改正により1899年(明治32年)に廃止されるまで存続したものです。

1868年の開港に先立つ半年前の1月には、既に外国人に商取引を認める「開市」がこの川口で施行されており、大阪開港の噂を聞いて多くの外国人がこの地にやってきていました。

開港と同時に外国人居留地と定められた川口町26区画の諸外国への競売が行われたところ、完売したといい、たちまちこの地は街路樹や街灯、洋館が並ぶ西洋の街へと整備されていきました。居留地に接する本田、富島、古川、梅本町も外国人雑居地となり、1886年には人気に応えて10区画の増設が行われました。

また、木津川対岸の江之子島にはドームのある洋風建築の府庁本庁舎(1874年竣工、1926年大手前へ移転)や大阪市役所(1889年竣工、1912年堂島浜へ移転)が建設されました。

1899年に居留地制度が廃止されまでの大正時代末までは、この周辺一帯は大阪の行政の中心であり大阪初の電信局、洋食店、中華料理店、カフェができ、様々な工業製品や嗜好品がここから大阪市内に広まるなど、文明開化・近代化の象徴でした。

ただ上述のとおり、この港は安治川河口から約6km上流に位置する河川港であるため水深が浅く、大型船舶が入港出来ません。このため、貿易港として継続的発展をなしとげることはできませんでした。外国人貿易商たちは良港を有する神戸外国人居留地へと移住していき、機内における国際貿易の拠点は次第に神戸へ移っていきました。

このため、川口においては貿易商に代わってキリスト教各派の宣教師が定住して教会堂を建てて布教を行うようになり、その一環として病院、学校を設立し経営を行いました。平安女学院、プール学院、大阪女学院、桃山学院、立教学院、大阪信愛女学院といった、現在までも続くミッションスクールや聖バルナバ病院等はこのころ創設されたものです。

しかし、それら施設も高度な社会基盤が整備されるに従い、大阪の上町エリア(天王寺・阿倍野等)へ次々と移転して川口は衰退への道を辿ることになりました。そして1899年の居留地廃止後は華僑が進出し、中国人街となりました。戦前の昭和時代前半にはその数は3,000人を超え、洋品店・理髪店・貿易業といった商売を行っていました。

ところが、日中戦争の激化などでその多くは帰国し、大阪大空襲で焼け野原となりました。戦後、これらの華僑は大阪市内各地に拡散し、川口は地味な倉庫街となりました。現在ではいくつかの古いコンクリート建築、赤煉瓦の三井倉庫、モダニズム建築の住友倉庫本社などが残っているものの、往時の繁栄の面影は残っていません。

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こうして衰退の一歩を辿った大阪居留地とは対照的に、1868年に開港した神戸の居留地は隆盛を極めました。神戸港は大型外国船が集まるようになり、1890年代には東洋最大の港へと拡大していました。しかしその外国人居留地は、大阪のように港に隣接していたわけではなく、開港場から3.5kmも東に離れた神戸村に造成されました。

外国人との紛争を避けるためであり、この地は東西が川、北を西国街道、南が海という立地で、外国人を隔離するという幕府の目的に適う地勢でした。イギリス人土木技師J.W.ハートが居留地の設計を行い、格子状街路、街路樹、公園、街灯、下水道などを整備、126区画割りが行われ、開港年の1868年に外国人に対して最初の敷地競売が実施されました。

大阪ともうひとつ違うのは、全区画が外国人所有の治外法権の土地であり、日本人の立入が厳しく制限され点で、事実上の「租界」でした。その後次々と街並みの整備が続き、この当時東洋で最も美しい居留地とされましたが、この整然とした街路は今もそのままです。

神戸居留地では外国人の自治組織である居留地会議がよく機能し、独自の警察隊もあったといい、居留地の北の生田神社の東には競馬場まで開設されていました。ただし、この競馬場は数年で廃止されたため現在では残っていません。

また、神戸市街地は1945年に大空襲を受けたため、市役所西側一帯にあった居留地時代の建物で残っているのは、旧居留地十五番館(旧米領事館、国の重要文化財)が唯一です。

現在多く残る古いビル建築は主に大正時代のものであり、居留地が手狭になったために移転されたものです。また、1880年頃から六甲山麓の北野町山本通付近に外国人住宅が多く建てられ、戦災を免れました。これが今日の神戸異人館になります(重要伝統的建造物)。

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この当時、この大阪(川口)、神戸以外にどこに居留地があったのかですが、これは東京の築地、横浜、そして長崎、新潟、函館です。これらのうち、最も開港が早かったのは長崎と横浜であり、とくに横浜の方は、他の居留地を含めて最大規模の居留地でした。

1859年7月4日に正式開港し、まず山下町を中心とする山下居留地が4年で完成しました。横浜居留地は幕府が勝手に造成したため当初は日本風の造りでしたが、1866年に”豚屋火事”という大火があり、このあとから洋風に改められるようになりました。

居留地は掘割で仕切られていて、入り口にある橋のたもとには関所が設置されていたので、関内居留地とも呼ばれました。この「関内」の地名は現在まで引き継がれています。その後外国人人口がさらに増加したので、1867年には南側に山手居留地も増設されましたが、ここは主に外国商社が立ち並ぶ商業区域となるとともに外国人住宅地として発展しました。

なお、現在観光コースになっている山手本通り沿いにある数棟の西洋館は、旧イギリス7番館(1922年)を除けば、すべて観光資源として昭和時代以降に建築されたものか他所から移築されたものです。

この当時、外国人の行動範囲はかなり制限されていましたが、中には幕府役人の制止を振り切って、東は多摩川、北は八王子、西は酒匂川にまで行く者もおり、幕末の攘夷運動がさかんになるにつれ、彼等にも危険が及びました。

1862年夏、川崎大師見物のため乗馬していた横浜居留地の英人男女4人が生麦村(現・横浜市鶴見区)で薩摩藩の大名行列に切りつけられるという、いわゆる「生麦事件」が起こり、幕府を震撼させるとともに、この事件はその後薩英戦争に発展しました。

横浜居留地周辺もまた、こうしたトラブルの起こりやすい危険区域といえ、攘夷浪人による外国人殺傷事件がしばしば起こる物騒な地域でした。このため、居留民保護のため1875年までは英仏軍隊も駐留していたほどで、これは「英仏横浜駐屯軍」と呼ばれました。

一方で、横浜は文明開化の中心地でもあり、1872年には、英人エドモンド・モレルの指導により新橋-横浜間に鉄道が開通しました。当時の横浜停車場(後に桜木町駅となる)は居留地を出てすぐの所であり、新橋停車場(後の汐留貨物駅)は築地居留地の外縁にありました。つまり、日本最初の一般営業鉄道は横浜居留地と築地居留地をつなぐものでした。

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一方、鎖国時代から貿易港として機能していた長崎港は、神戸より5年早い1854年に国際開放されました。この当時は来航する外国船に薪水を供給する程度でしたが、1859年から本格開放されるとグラバー邸を中心とする東山手・南山手(重要伝統的建造物群保存地区)の大浦一帯の海岸が埋め立てられて居留地が造成されました。

江戸時代から日本唯一の対外貿易港であったこの長崎の新居留地には、当初、多数の外国人が押しかけて繁栄しました。ただ、明治になるとはそれほど発達せず、むしろ上海を中心とする租界に在住した欧米人の保養地として賑わうようになりました。

居留地の海岸に近い方には貿易のための商館や倉庫が建造され、中程にはホテル、銀行、病院、娯楽施設が並び、眺望がよい東山手や南山手には洋風住宅・領事館が建てられました。また、近隣に雲仙を控えていたことも保養地としての魅力を増すこととなり、今日でもオランダ坂に代表される石畳の坂路や点在する洋館などに居留地時代の雰囲気を残します。

さて、このほかの居留地ですが、築地・新潟・函館といった居留地は、大阪と同様、大きな発展は遂げませんでした。築地居留地は、横浜を拠点とする外国商社が多かったこともあり、主にキリスト教宣教師の教会堂やミッションスクールが入っただけで、この地は青山学院や女子学院、立教学院、明治学院、女子聖学院、雙葉学園の発祥地となりました。

また、新潟は、江戸時代に北前船の寄港地として発展し1868年に開港したものの、外国人の来住が少ないため正式な居留地は設置せず、市街に雑居するだけでした。新潟港がその後貿易港として発展するのは、1929年には満州との航路が開設され、1931年の上越線全通で日本海対岸貿易の拠点港として本格的に機能し始めてからのことになります。

箱館も新潟と同様であり、1859年の正式開港以降、元町一帯が居留地と定められましたが、この居留地は、ほとんど有名無実で、実際には外国人は市街地に雑居していました。現在でも赤レンガの倉庫やカトリック教会、正教会の教会堂が少々残っている程度です。

ただ、この函館では、横浜・長崎とともに開港後まもなく、「ゴールド・ラッシュ」と呼ばれる奇妙な現象が起こりました。

世界的に金銀の比価は1:15であったのに、日本では1:5であり、つまり日本では金が安く、銀が異常に高い状態でした。このため、中国の条約港で流通している銀貨を日本に持ち込んで金に両替し、再び中国に持ち帰り銀に両替する外国商人が相次ぎ、彼等は一攫千金、濡れ手で粟で巨大な利益を得ました。

事態に気付いた江戸幕府が通貨制度の改革に乗り出す頃には既に大量の金が日本から流出し、江戸市中は猛烈なインフレーションに見舞われました。片や政治的緊張が続く幕末には、武器や軍艦が主要輸入品となり、逆に日本が輸出できるのは日本茶(グリーンティー)や生糸くらいしかないにもかかわらず、貿易赤字は金銀で決済するしかありません。

金銀は流出するわ、外貨は獲得できないわ、ということで窮地に陥った明治政府がそこで考えた政策こそが、富国強兵・殖産興業です。これにより、先頃世界遺産に認められた「明治日本の産業革命遺産」である、製鉄・鉄鉱、造船、石炭などの産業がこの時期著しく発達するところとなり、世界遺産登録済みの富岡製糸場などが建設されたのもこの時期です。

このころから日本人は海外に出て直接取引を行う「直貿易」を指向していくようになりましたが、貿易を通じて豊かになるきっかけを作ったのもこの外国人居留地が発端といえるわけです。

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開港場の居留地は、長く鎖国下にあった日本にとって西洋文明のショーウィンドーとなり、文明開化の拠点でもありました。西洋風の街並み、ホテル、教会堂、洋館はハイカラな文化の象徴となり、この居留地を中心として横浜、神戸の新しい市街地が形成され、浜っ子、神戸っ子のハイカラ文化が生み出されることになりました。

横浜・神戸・長崎では英字新聞も発行されていました。横浜居留地では、1862年から1887年まで25年にわたって「ジャパン・パンチ」という雑誌が発行されました。風刺漫画で有名な雑誌で、これは、「イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ」特派通信員として来日したチャールズ・ワーグマンが出版したものでした。

その記事には、テニスやラケットボール、クリケット、野球等の人気ぶりや、人口2千人ほどの居留地外国人の楽しみは根岸競馬場での競馬観戦であったことが書かれていました。

1861年から横浜居留地内で居留外国人によって西洋式の競馬が行われるようになり、1866年に根岸競馬場が建設された後は特に盛んとなりました。また、1868年から数年間、神戸居留地でも同様の競馬が行われていました。このような競馬を居留地競馬といい、採用された競技方式は、現在の日本競馬のルーツであるとされます。

多くのスポーツ競技もまた、この居留地から日本に伝わりました。また、日本の発達した軽業や手品は居留地の外国人を驚かせ、人気を集めました。サーカスのパフォーマーだったアメリカ人のリチャード・リズリーという男は、日本での乳製品販売に失敗して帰国する際、日本の人気軽業師や手品師の一座を引き連れ、欧米で興行し大成功を収めました。

このように多くの文明を日本にもたらした居留地外国人の中には、いわゆる「お雇い外国人」などもいました。「殖産興業」を目的として、明治政府や府県によって官庁や学校に招聘された人々です。

高い学歴を持ち、高度な知識を持っているがゆえに日本に招かれたわけですが、そのために欧米でも身分の高い人も多く、そのためもあって得る報酬も莫大なものでした。

太政大臣・三条実美の月俸が800円、右大臣・岩倉具視が600円であったこの時代に、彼等の報酬はこれと同等かあるいは、最高月俸は造幣寮支配人ウィリアム・キンダーのように1,045円を貰っていた人もいました。

平均でも月俸180円程度だったとされており、諸説ありますが、1円は現在の2万~2.5万円だとすると、これは月収360万~450万円ということになります。身分格差が著しい当時の国内賃金水準からしても、極めて高額であるといえます。

国際的に極度の円安状況だったこともありますが、当時の欧米からすれば日本は極東の辺境であり、外国人身辺の危険も少なくなかったことから、一流の技術や知識の専門家を招聘するためにはその身辺警護の費用もばかにならない、といったこともあったようです。

その一方で、お雇い外国人以外の一般住人の多くはそれほど高給取りではなく、また身分も低い者が多かったようです。居留地に暮らす外国人は多岐な人種に渡りましたが、多くは商人で、そのほとんどが35歳以下の男性が占めるなど、若い世代でした。

欧米では被差別対象者であったユダヤ人も商人に多かったといい、ラザフォード・オールコック駐日英国大使は、居留地の商人たちのことをヨーロッパのクズと呼び、クリストファー・ホジソン英国領事は、欲深なハゲタカ、世界各地からの破廉恥の見本と呼びました。

実際、文盲や教育程度の低い商人も多く、欧米各国から派遣されていたお雇い外国人たちや役人たちには、東洋に来るような人間は母国で失敗した者たちである、という偏見も持たれていたようです。こうした偏見は居留地の西洋人社会に広がっており、このため、階層化が進み、また出身国別に小さなコミュニティがいくつも作られました。

粗野な商人や新参者を除外するため、厳格な社交の作法や手順を設けて部外者を締め出そうとする動きもあったといいます。同じ商人でも、事務所を構えるような商人と商店の商人とは線引きされ、観劇のような楽しみの場でも、役人や牧師、老舗の商人といったエリートたちが集まる日と、その他一般人の日は分けられていたといいます。

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この一方で、こうした居留地には、その後中国人も多数住むようになりました。中国人もオランダ人同様、長崎唐人屋敷で長年日本貿易を行ってきた歴史があり、こうした居留地には融け込みやすいという事情がありました。横浜、神戸、長崎では瞬く間に居留地の中に中華街が形成されるようになり、これらはのちの日本三大中華街に発展しました。

なお、このうち、神戸の中華街は横浜や長崎のように街中ではなく、隣接地の元町に造られました。が、中国人の中でも富裕な貿易商は、山の手の北野町に居を構えました。現在この一帯にその当時の面影はありませんが、これら富裕層が崇めた「関帝廟(商売繁盛の神とされた関羽を祀る)」や、中国系の神戸中華同文学校がここにあるのはその名残です。

この神戸や長崎は中国本土からもほど近く、このため来日する外国商人は中国の開港場から来る者が多く、彼等の多くは中国人買弁(ばいべん)を通訳して同伴してきていました。買弁とは、欧米列強の対中進出や貿易を支援した中国人商人のことで、彼らの多くは外国語能力が高く、清朝政府と欧米商会をつなぐ人脈や政治的センスも重宝されていました。

日本人と中国人は漢字を使って筆談することもできるといったこともあり、次第に買弁達は列強の銀行マンや商社マンの商売において重用されるようになり、これが他の居留地でも中国人居留者が増えるきっかけとなりました。

その後日本と中国各地の開港場に定期船航路が開けると、中国人商人のいわゆる「華僑」が独自に進出してくるようになりました。神戸では元町に進出し、横浜に進出した華僑は、その大半が飲食業を営んだために、現在のような巨大な中華街が形成されました。長崎も同様です。

大阪の川口居留地周辺にも、居留地廃止後に華僑が進出しましたが、その後上述のような理由で港自体が一時期衰退したため、現在では数世帯の子孫を残すのみとなっています。

日本では、中華人民共和国または中華民国(台湾)の国籍を有する者は「華僑」であり、日本国籍を取得したものは「華人」とされます。なお、中華民国(台湾)の国籍者は在日台湾人と呼ばれてこれらと区別されることもあります。華僑は第二次世界大戦までその経済基盤からの本国への送金によって、中国や中華民国の国際収支の重要な要素でした。

華僑は当初マイノリティでしたが、やがて同郷者で形成されるコミュニティーと、これをもとにした同業者の集団を形成するようになっていきました。彼等は容易に相手を信頼しないかわり、一旦信頼したらとことん信頼するといわれ、友人を大切にするといいます。それが彼らの団結力の根源でした。

同業者の集団ができあがるのは、先行して商売を始めた経営者が、このようにして信頼できる同郷の人を雇い、やがては独立して同業を行う際にまた同郷人や信頼できる同国人を雇うことを繰り返したためでした。

経済的に実力をつけると政治面でも力をもつようになり、現地の経済・政治に大きな影響力を持つことが多くなります。現在の権力者としても、タイの王室・タクシン元首相及びその妹であるインラック首相(現公民権停止中)、コラソン・アキノ元フィリピン大統領、ミャンマーのネ・ウィン元首相、テイン・セイン大統領は華僑の血を引いています。

また、近代の日本にも多くの華僑が根付き、多方面で活躍が見られます。女優の鳳蘭、野球の王貞治、経済評論家の邱永漢(故人)、インスタントラーメンの発明者、安藤百福(故人)、囲碁の呉清源(故人)、小説家の陳舜臣(故人)、料理家の周富徳(故人)・富輝兄弟、歌手のジュディ・オング、アグネス・チャン、テレサ・テン(故人)などが有名です。

中国本土で生まれ、日本でビジネスをしている生粋の中国人と違い、彼等は生まれながらにして日本に溶け込んでおり、ほぼ日本人といってもいいわけです。が、同じ華僑でも以前から日本に長らく在住する中国人を老華僑、改革開放以後に移住した中国人を新華僑とも呼び、出身地域や価値観の相違から、この二つのグループ間には軋轢も生じています。

日本の対外国人政策や中国の政治事情の変化から、日本に移住するこうした新華僑は70年代後半から急増し、20年で4倍以上に増えたといい、かつての外国人居留地由来の老華僑は確実に圧迫されつつあるようです。

居留地そのものもなくなり、彼等と共存していた多くの欧米人も分散し、あるいは母国へ帰国してしまって彼等が残した痕跡もほとんどありません。が、最後の砦として横浜中華街、神戸南京町、長崎新地中華街の三大中華街が残されており、居留地時代の名残として受け継がれています。

現在日本には約69万人弱の在日中国人が住んでおり、これは役57万人の在日韓国・朝鮮人を軽く凌駕しています。東京では100人に1人は在日中国人であるとされています。それら中には、華人、新・老華僑、在日台湾人などが含まれているわけですが、とかく我々日本人は、彼等を十把ひとからげに「在日中国人」とまとめてしまう傾向にあります。

それぞれの歴史なり民族性を持っているわけですが、最近の中国との関係悪化により在日中国人というととかく色眼鏡で見がちであり、その違いを正しく認識すべきかと思います。

また、どういった卒爾であるにせよ、日本という国土と日本人という民族に適応し、ここに根付く知恵を持った人々といえ、彼等との交流はメリットが大きいに違いありません。在日韓国人、朝鮮人においてもしかりであり、共存共栄していくことが、この国の将来に渡ってのプラスになるのだ、と考えたいと思います。

……と〆の文章を書いていたら、夕方になってしまいました。中国の事を書いていたら、おいしいラーメンが食べたくなりました。そうそう、このラーメンというものも、居留地で誕生した中華街で食べられていた中国の麺料理をルーツとするものです。

当時は南京そば・支那そばなどと呼ばれていましたが、今や中華人民共和国や中華民国では日式拉麺、日本拉麺と呼ばれるほどの国民食です。

そのルーツは函館居留地の南京町の中華料理店で出された「南京そば」だそうです。現在の横浜中華街でもその最古のラーメンに近いものを出す店があるそうで、ラーメン党としてはぜひ食してみたいもの。さて、それにしてもこのクソ暑い中、そのラーメンを食べる気になるでしょうか。

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