北海道の大雪山では、一昨日、初冠雪が観測されたそうで、今年ももうすぐ冬がやってきそうです。
が、目の前にある富士山は、真っ黒いままです。先日の低気圧の通過の際に、もしや……と思ったのですが、空振りでした。
富士の初冠雪は、平年では9月30日。そろそろ降ってもおかしくはないのですが、昨年は16日遅れの10月16日、一昨年は10月19日でした。今月も今日で終わりなので、どうやら今年も初冠雪は10月になりそうです。
その9月の終わりの時期になって、福山雅治さんが、女優の吹石一恵と入籍したとのビッグニュースが入ってきました。夜7時のNHKニュースでも報じられたほどで、その他民放や新聞・雑誌でも「福山ショック」として報じられました。
所属事務所であるアミューズの株価が翌29日に急落。アミューズは、テレビ番組/映画製作等へも多面展開している会社ですが、東証1部上場の大手芸能プロダクションであり、その株価は前日比500円(9.4%)安まで下落し、2013年8月以来の値下がり率を記録したといいます。
シンガーソングライターであり男優にして音楽プロデューサー、しかも最近は写真家としても活躍中というマルチな才能を発揮しておられますが、何よりもその甘いマスクのとりこになっている女性ファンは多いようで、彼女たちにとっては確かに大ショックだったでしょう。
男性からみても好感のもてるタイプであり、頼れる兄貴、というかんじがします。女好きであることを憚りもせずに公言する、といったところなどもおちゃめであり、およそ敵を作るようなタイプにはみえません。
たしか九州の人だったよな、と思って調べたら、長崎市のご出身のようです。地元の工業高校卒業後、5か月のサラリーマン生活を経て上京。アルバイト生活をしながら、アミューズのオーディションに合格し、その後19歳で、映画「ほんの5g」の俳優デビューを果たしました。
主演は福山さんではなく、富田靖子さんが主演でしたが、福山さんはその相手役として、準主役級の抜擢でした。タイトルの“5g”とは、パチンコ玉1個の重さのことです。主人公である女子短大生が、就職活動に明け暮れる忙しい日々を送る中、初めて訪れたパチンコでまさかの“777”の大フィーバーを起こし、人生が変わっていく、という話のようです。
その2年後には、シングル「追憶の雨の中」で歌手デビュー。さらに翌年には、ラジオDJとして、ラジオパーソナリティとしてもデビューし、同年秋からはTBS系ドラマ「あしたがあるから」でテレビドラマデビューも果たしました。
以後、絶大なる人気を誇る歌手、俳優ほかのマルチタレントして芸能界に君臨してきましたが、そんな彼ももう46歳。結婚するには少々遅いよな、と思いつつ、私が再婚したのはこれよりも遅いので人のことはいえません。
いずれは、福山2世の誕生も期待できるかもしれず、美男美女のカップルはこれからも何かと話題になりそうです。ちなみにお相手の吹石さんは大阪ご出身で、「吹石」という苗字は本名だそうで、お父さんは長年近鉄バッファローズで活躍した、吹石徳一さんです。芸能通の方には、そんなのとうに知っているよ~と言われそうですが……
福山さんはデビュー前にアミューズのオーディションに応募した際、結果の連絡がなかったため、書類選考で落ちたのだと思ったそうです。実際には最終選考に残ったことを伝える郵便が手違いで届いていなかったためでしたが、落胆した彼はウサを晴らすため、当時9万5千円で買った中古車で奥多摩にドライブに出かけました。
しかし、ボロ車だったため、途中で車のマフラーが落ちてしまい、あわてて一度アパ―トに戻り、マフラーをつけ直していました。そこへ、オーディション参加を促す連絡が電報で届き、改めて審査に通っていたことを知り、慌ててオーディション会場に駆けつけました。ところが、今度はなんとそのオーディションには遅刻してしまいます。
このオーディションは、「アミューズ・10ムービーズオーディション」というもので、アミューズ創立10周年を記念して、10本の映画を撮るための俳優を募集するオーディションでした。このとき、アミューズ会長の大里洋吉氏は、「遅刻するような時間にルーズな奴は芸能界に向いてないからいらない」と会わずに帰ろうとしたといいます。
ところが、このとき、周囲の女性スタッフ達が「どうしても会って欲しい」と訴えたそうで、「女の子達がそこまで言うからには何か持っている奴なのかも知れない」と大里会長は考え、会うことにしたそうです。
マフラーの故障でオーディションを受けることができたのもラッキーでしたが、女性スタッフに気に入られたのもラッキーであり、ご本人はこの出来事を「運命だった」とのちに自身のラジオ番組で語っておられます。
これについては、運命だったのか、偶然だったのか、など色々な見方ができます。が、人生で起きることはすべて意味のある必然である、とするスピリチュアル的な観点からすれば、起こって当然の出来事だったのでしょう。
吹石さんとの結婚も、人の想いを越えた力によってあらかじめ決められており、「運命の赤い糸」で結ばれていた、といえるのかもしれません。
この運命の赤い糸、という人と人を結ぶ伝説は中国が発祥で、中国語ではこの糸のことを「紅線(ピンイン)」と呼ぶようです。
この赤い糸をつかさどるのは「月下老人(「月老(ユエラオ)」とも)」という老人で、結婚や縁結びなどの神だそうで、この故事にもとづき、中国では、仲人や結婚の仲立ちをする者を指す者を「月下老」というようになりました。
北宋時代(960~ 1127年)に作られた「太平広記」という、前漢以来の奇談を集めた書物にも、「定婚店」というタイトルでこの赤い糸、ならぬ「赤い縄」が登場します。
これは、唐の時代の韋固(いこ)という人物が旅の途中、「宋城」という町の南の宿場町で不思議な老人と会うところから始まります。この老人は月光の下、寺の門の前で大きな袋を置いて冥界の書物、「鴛鴦譜(おしどりふ)」という本を読んでいました。
韋固が不思議に思って、なぜそんな大きな袋を持っているのか、と尋ねると、老人は、自分は現世の人々の婚姻を司っており、冥界で婚姻が決まると赤い縄の入った袋を持って現世に向かい、男女の足首に決して切れない縄を結んでいるのじゃ、と答えました。
どうやら、この縄が結ばれると、距離や境遇に関わらず必ず二人は結ばれる運命にあるようです。以前から縁談に失敗し続けている韋固は、ちょうど目下の縁談もどうなるか気を揉んでいたので、これぞ奇遇とばかりに、この縁談がうまくゆくかどうかを老人にたずねます。
ところが、老人はすでに韋固には別人と結ばれた赤い縄があるため破談すると断言しました。ではその赤い縄の先にいるのは誰かと聞いたところ、相手はこの宿場町で野菜を売る老婆が育てる3歳の醜い幼女じゃ、と答えました。こともあろうに相手が二回りも違う幼女であるとともに、醜いと聞かされて韋固は驚きます。
が、同時に、思うようにならない自分の人生に怒りも覚えた彼は、召使にその幼女を探し出して殺すように命令します。召使が老人の言う宿場町を探したところ、たしかに野菜を売り歩く老婆を見つけ、その女が幼い子供を伴っているのを発見しました。
召使は主人の命令通り、幼女を殺そうと、彼女の眉間に刀を一突き刺そうとしますが、老婆に邪魔をされて深いキズを負わすことができず、しかもとり逃がしてしまいました。
その後も韋固は、あいかわらず縁談がまとまらないままで、やがて14年が過ぎました。韋固はこのころ役人になっており、その職場の上司に、美しい娘がいるからと、紹介されついにその娘と結婚しました。
ところが、この17歳の娘の眉間には、めだたないほどの傷がありました。聞くと、幼い頃、野菜を売る乳母に市場で背負われていたとき、乱暴者に襲い掛かられて傷つけられたといいます。これを聞いた韋固の脳裏には、このとき俄かに14年前のことが蘇りました。
全て打ち明けて、そのときのことを新妻に話したところ、妻もこれを許したため、二人はその後固く結ばれ、「おしどり夫婦」とまで言われるようになりました。
二人が足首を赤い縄で結ばれていた、というこの話を伝え聞いた宋城の町の県令は、その後、この二人が結ばれたこの宿場町を「定婚店」と改名したといいます。絆が結び合われる町、というほどの意味でしょう。
このほかにも中国では、こんな話があります。元振という美男で才能のある男がおり、これを宰相の張嘉貞が婿にとろうと思い、申し入れをしました。そうしたところ、元振は「あなたの家には五人の娘がいるそうですが、その美醜を知りません。あわてて間違いがあったらいけないので、実見を待って判断したく思います」と答えました。
宰相は、「あなたの風貌は並の方ではありませんが、私の娘もどれも容色に優れています。ただ、あなたにふさわしいのが誰か私にはわかりません。わたしは娘たちに糸を持って幕の前に座らせますから、あなたがどれかの糸を引いてください。その糸を持つ娘を差し上げます」と答えました。
元振は喜んでこれに従った結果、一本を引くと、それは赤い糸であり、これを持っていたのは三女でした。その三女は、5人の中でも最も美しい女性であるとともに、元振と結婚したのちは、夫の出世に伴い彼女も尊い地位を得るようになったといいます。
この二つの話のうち、最初のものはのちに日本にも伝わりましたが、もともと「足首の赤い縄」だったものが、やがて「手の小指の赤い糸」へと変わっていったとされます。あるいは二番目の話の主題は、赤い糸だったため、これも伝わって混同されたためかもしれません。その後は運命の赤い縄は赤い糸として語り継がれるようになります。
先の大戦まで日本でさかんに行われた、女性が一枚の布に糸を縫い付けて武運長久を祈る、千人針もこの赤い糸に由来のものとされます。1メートルほどの長さの白布に、赤い糸で千人の女性に一人一針ずつ縫って結び目をつくってもらう、というもので、特例として寅年生まれの女性は自分の年齢だけ結び目を作る事ができます。
これは虎が「千里を行き、千里を帰る」との言い伝えにあやかり、寅年生まれの人は他の人よりもより多くの兵士の生還を祈念することができる、とされたためです。できあがった千人針を、兵士は銃弾よけのお守りとして腹に巻いたり、帽子に縫いつけたりしましたが、こうした風習は、日露戦争の頃から、日本各地で行われていたようです。
こうした「赤い糸」に力があるという考えは、中国以外にも世界各地にあり、日本以外でも中国から上述の伝承が伝えられた仏教国の中では、右手首に赤い糸をお守りとして巻くところがあります。
また、アメリカでは、同様に赤い糸は幸運のお守りとして扱われますし、アメリカにも多数の移住者がいるユダヤ人の間では、邪視のもたらす災いから身を守る為に赤い毛糸を左手首に巻くという習慣があるそうです。邪視というのは、悪意を持って相手を睨みつけることにより、対象者に呪いを掛ける魔力のことです。
ちなみに、ユダヤ教徒社会では、「ハムサ」と呼ばれる、手のひらの真ん中に大きな目が描かれた護符を壁に掛けたりもします。ハムサはアラビア語で「5」を意味する数字で、五本指のことです。
また、中東ベツレヘム近郊のラケルでは、今も参拝者が手に巻いた赤い糸が多数見られます。ここには、旧約聖書の創世記に登場するヘブライ人の族長ヤコブの妻、ラケルの墓があります。イスラエルの民すなわちユダヤ人はみなこのヤコブの子孫を称しますが、赤い糸を巻くのはこの二人がやはり赤い糸で結ばれたと信じているからでしょう。
このほか、ヨーロッパでは、糸ではありませんが、「双子の炎(twin flame)」という考え方があり、これは、 運命で決められた二人には、それぞれの中で同じ紅い炎が燃えている、という伝説です。これはスピリチュアリズムにおける、いわゆるソウルメイト(魂の伴侶)という言葉の元にもなっているといわれます。
現在の日本でも、テレビドラマやアニメなど大衆文化の中にこの「赤い糸」はたびたび出てきますし、特に少女漫画などでは、定番のモチーフです。その昔、TBSが製作し、「赤い運命」など「赤いシリーズ」もこの運命の赤い糸が題材になっています。そのほとんどを山口百恵さんが主演して話題になりました。
このように、人の一生は赤い糸などの運命によって定められているという考え方をよく「運命論」といいます。英語では、”fantalism”です。世の中の出来事はすべて、あらかじめそうなるように定められていて、人間の努力ではそれを変更できない、とする考え方で、人間の意思とは無関係に人生のものごとが決められてゆく、とされます。
「宿命論」ともいいますが、スピリチュアルカウンセラーの江原啓之さんは、「宿命は変えることはできないが、運命は本人次第で変えることが可能だ」といいます。この考え方に賛成の人も反対の人もいるでしょうが、その問題はさておきましょう。
宗教的な観点からみると、キリスト教やイスラム教では、厳密な意味での運命論というのはないようです。運命とは、神が天地創造をした時、既にそのようなシナリオが書かれていたという意味であり、つまり、全部最初っから決まっているとされるためです。が、これは私の解釈なので、間違っているかもしれません。
一方、アジアに広く普及する仏教には因果応報という考え方があり、これは運命論というか、宿命論ともいえます。が、すべての仏教の宗派でそう考えるわけではありません。宿命論はとらず、自分の想いによって世界は変わる、とする、上述の江原さんの考え方に近い考え方もする宗派もあるようです。
たとえば日蓮は「一念三千」と説き、自分の念ひとつを変えることによって、三千世界(百界×十如是×三世間=三千)の生命が呼応し、未来が変わる、といった主旨のことを説きました。
このように、ひとことで運命論、宿命論といっても宗派により、また国によっても様々な考え方があるわけですが、日本人がよく口にする「仕方がない」という諦念のようなことばは、日本独特のものである、とよくいわれるようです。
理不尽な困難や悲劇に見舞われたり、避けられない事態に直面したりしたさいに、粛々とその状況を受け入れながら発する慣用句で、我々はごくごく普通に使っていますが、外国人にはなかなか理解しにくいことばのようです。
同じような表現として、仕様がない(しようがない)、止むを得ない(やむをえない)というのもありますが、古くは「是非も無し」「是非も及ばず」といっていました。
天正10年(1582年)、に織田信長が明智光秀が主導する反乱軍によって、京都四条の本能寺で取り囲まれたとき、これを率いるのが家臣の中でも最も優秀であると信長が認めていた光秀だと知った信長は、「是非に及ばず」と側近に漏らしたといいます。
仕方がない、は英語に訳すと、”There is no help for it” といった表現になりますが、これを逆に邦訳すると、「もう打つ手がありません」あるいは「救済策がありません」ということになります。しかし、これはどうも我々が普段使っている、仕方がない、とはニュアンスが少し違う感じがします。
もう打つ手がない、助けも来ない、と、その時点で何もかもあきらめてしまっていて、いかにも「ジ・エンド」という感じがしますが、「仕方がない」という言い方には、苦しい状況の中でも、挫けることなくなんらかの希望を見出そうというニュアンスが含まれているように思われます。
太平洋戦争時のアメリカやカナダで行われた日系人の強制収容においては、収容所での絶望感と虚無感を克服するべく、「Shikata ga nai」というフレーズが頻繁に用いられたそうです。カリフォルニア州のサンノゼの日本人街には、このときのことを記憶すべく石碑がわざわざ立てられ、そこには「SHIKATA GA NAI」と彫られています。
そこには、”It cannot be helped” と英語翻訳の添え書きもありますが、これでは「仕方がない」の本来の意味が損なわれているような気がしてなりません。
このことばを合言葉に、逆境にもめげずに、頑張っていこうとする、そうした精神性は現在でもアメリカの日系人社会において根強く残っているといい、無論これは彼らが日本人の血を引いているからにほかなりません。
このほか、昭和天皇は、1975年(昭和50年)10月31日に訪米から帰国した際に行われた記者会見において、広島市への原子爆弾投下について質問されると、「遺憾に思っておりますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思っております」と答えています。
この昭和天皇が使われた「やむを得ない」は、とくに意識されていたわけではないでしょうが、その意味は、これでもう終わりで打つ手がない、ではなく、終わってしまったことは忘れ、これからを頑張っていかなくてはならない、の意が含まれているように思われます。
ところが、欧米人にとっては、この仕方がない、という言葉は、どうしても日本人の自己犠牲的な悲観性を表す表現のようにみえてしまうようで、そのことは多くの外国の著述家によって指摘されています。
例えば、ピューリッツァー賞作家のジョン・ハーシーは1946年のルポルタージュ「ヒロシマ」で、広島住民にインタビューしたときのことを書いています。
このとき、ハーシーの質問に答えた多くの広島市民は、おおむねアメリカによる核爆弾使用の道義的責任に対して無頓着であったといい、これを彼は日本人は諦念、あきらめでもってこれを受け止めている、と受け止め、そうした趣旨のことを書きました。
なお、このときもある被爆者が、「戦争だったのだから仕方がない」と答えており、彼はその言葉をそのまま“Shikata ga nai”として著書の中で紹介しています。が。彼がこのことばを、上述の日系人が使っていたのと同じ意味である、と理解していたかといえば、必ずしもそうとは思えません。
また、この「仕方がない」は、最近の欧米のビジネスマンからも、日本人の「強引さの無さ」や「押しの弱さ」「諦めが早過ぎる」といったネガティブな一面を表す概念として否定的に取られることが多いようです。「ビジネスウィーク」などの記事においても日本経済低迷の一因として書かれているようです。
しかし、日本の景気が悪くなっている現状においても、先の東北の大震災においても、日本人が思っている「仕方がない」は違うように思います。
仕方がない、の少し違った表現に、「しょうがないなぁ」というのがありますが、これは「だらしねぇなぁ、もっと頑張れ!」であり、あきらめずにもっと未来を向いて奮起していこう、という鼓舞の意味も含まれています。
不況や震災の影響を鵜k手長い間低迷が続く日本ですが、欧米や中国から輸入した運命論ではなく、日本人が昔から持っている独特の運命論をこれからの時代、展開していくべきなのかもしれません。
「仕方がないなぁ」を連発しつつも、英気を養っていく。「がんばろうニッポン!」は、あるいは、「しかたがないニッポン!」にするといいかもしれません。
が、日本文化に理解がない欧米人に、日本人はついにあきらめたか、と誤解されては困るで、いまのままでいいのかも。下手な説明などせず、少なくとも「しかたがない」の精神だけは保ちつつ、前向きに今後の国づくりをがんばっていきたいものです。