天までのぼれ

2015-6508

10月になってしまいました。

再三このブログでも書いていますが、今年は何もいまだに「何も成し遂げていない感」があり、不完全燃焼気味です。

が、いらついたところで、時は過ぎるのは待ってくれません。自嘲気味に、今年はもう何もやらないぞ!と思ってみたとしても、生きている以上何もしないわけにはいきません。

じっと座っていても息はしているわけで、目に見えなくても新陳代謝で古い細胞は新しい細胞に入れ替わっていっているはずです。呼吸はしない、新陳代謝もしない、というのは仙人以外はありえず、さもなくば死人になってしまいます。

ならば、せめて何も考え事をしないために、ひたすらに「寝る」というのも一手ではあるのですが、悲しいかな、人間はある一定時間睡眠をとると、あとはどうしても目が覚めてしまいます。

なので、諦めて今生きている時間こそを一生懸命生きる、というのが正しいあり方なのでしょうが、そんな道徳の時間に教えられそうなことをいわれても、今さら納得できません。

過去にこんなときはどうしていたかな~と考えてみます。すると……こういうときはたいてい旅に出ていたように思います。旅がだめなら、近所でもいいから散歩をする、ハイキングに行く。それだけでもかなり気分が変わってきます。

旅には目的地のある旅と無い旅がありますが、目的地のない旅です。旅の目的地としてどこそこへ行く、と決めて出かける人も多いいでしょうが、あてもなくぶらりと家を出て、その移動プロセスを愉しむ旅もあり、そこで何らかのインスピレーションを得ることを目的とする旅もあります。

私も過去に色々な所へ行きましたが、そうした旅のほうがむしろ印象に残っているような気がします。また目的地だけでなく期間も定めず、あてどもなく長期の旅に出る人もいますが、これは旅というよりもむしろ「放浪」です。

古来より遊牧民は生活のために放浪を繰り返してきましたが、これは牧畜(遊牧)のために移動しているのであって、生活のためです。が、そうではなく、人生とは何ぞや、といった哲学的な観点から何かを求めて放浪をする、という場合もあります。

とくに何の意図持たず、目的もなく放浪を繰り返す人々のなかには、その放浪の体験やそこから得た印象を元に、優れた文学や絵画を生み出す人も多く、音楽などその他芸術でも放浪体験によってより昇華した作品を生み出すことができた、という芸術家は多いようです。

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日本語では「放浪」ですが、英語ではローム(roam)、ノマド(nomad)、バガボンド(vagabond)、ストレンジャー(stranger)、ストロール(stroll)、ドリフター(drifter)などなどいろいろな表現があります。

ロームとは、なんのあてもないまま歩き回るという意味であり、ノマド(ノーマッド)は牧歌的放浪、ストロールとは、散歩などの場合に使用され、日本語では「ぶらつく」といった程度の意味です。

が、おそらく一番日本語の「放浪」に近いのは、ドリフターもしくは、バガボンドでしょうか。ドリフターといえば、おなじみドリフターズの語源ですが、ロームに比べるとより長期間ぶらりと旅に出ることをさします。また、バカボンドは漂泊者、すなわちアウトローのことです。

井上雄彦さんという漫画家さんによる同名の漫画がありますが、これは剣豪・宮本武蔵が戦国から江戸時代の転換期に真の剣術とは何かを求めて、日本中を漂白する物語です。

また、ボヘミアンというのがありますが、これは伝統や習慣にこだわらない、あるいは世間に背を向け、自由奔放な生活をしている人達のことです。ボヘミアン・アーティストといえば、そうした奔放な生活のなかで美を追求する芸術家や作家を指します。

もともとは、北インド起源の移動型民族であるジプシーのことを指していましたが、彼等は、現在のチェコにあたる、ボヘミア地方からやってきたことから、「ボヘミア人」=ボヘミアンと呼ばれるようになりました。最近では、こうしたジプシーたちは、自分たちのことをロマ(単数形はロム)と呼んでおり、こちらのほうが欧米では定着しているようです。

伝統的な暮らしや習慣にこだわらない自由奔放な生活をしている人達が多く、「簡素な暮らしで、高尚な哲学を生活の主体としている」という評価がある一方で、「奔放で不可解。貧困な暮らしで、アルコールやドラッグを生活の主体とし、セックスや身だしなみにだらしない」とされるひとたちもいるようです。

過去には、パリやロンドンでこうしたロマたちのコミュニティーがたくさんあったようですが、最近では縮小し、北米やオーストリアにその中心が移っているようです。そして、彼等はヒッピーとも呼ばれるようになりました。

現在、アメリカでは、ニューヨークやワシントン、カナダのモントリオール・トロントなどにこうしたかつてのボヘミアンこと、ヒッピーたちのコミュニティーがあります。

さて、だからといって私もヒッピーになって放浪の旅に出たいか、といえばそこまでの意気地はなく、せいぜい小旅行に出かけるくらいのものでしょう。今の生活を捨ててまで芸術心や美的感覚を養いたいか、といえばそうでもありません。

が、結局は安定した生活にしがみついているだけじゃないか、といわれればそうなのかもしれません。おそらくはそのあたりに最近の不振の原因があるのでしょう。

なので、何も考えずぶらりと一ヶ月でも二カ月でも旅をしてきたい、などと思ったりもするのですが、いかんせん先立つモノが……

2015-6512

仮に金に糸目をつけずにどこへ行ってもイイよ、と言われた場合、どこへ行きたいか、と問われれば、できれば宇宙旅行をしてみたいと思ったりもします。

現在では、既に旅行先としては、宇宙も選択肢のひとつになっています。宇宙へ行く行為というのは、通常は、国家政策や科学的研究を目的と宇宙開発のために行われものですが、宇宙旅行、すなわちSpace tourismといえば、もっぱら個人的な興味や関心のもとに宇宙空間に行くことをさします。

SFの世界では、1865年にフランスのジュール・ヴェルヌによって「月世界旅行(De la Terre a la Lune)」という小説が出されて人気を博しました。また、ヴェルヌは4年後の1869年にも、この小説の後編として、にあたる「月世界探検(Autour de la Lune)」を発表しています。

ヴェルヌは270mの巨大な大砲を用いて宇宙空間に到達する方法を科学的説得力のある内容で描いており、赤道付近に発射場を設置することなど、一世紀以上先に実現されることになる宇宙開発の基礎をいくつかの点で言い当てています。

また1901年には、イギリスのハーバート・ジョージ・ウェルズによって「月世界最初の人間」が発表され、これを元に翌年ジョルジュ・メリエスによって製作された、同名のモノクロ・サイレント映画も有名です。こちらも宇宙旅行のためには、砲弾型ロケットが用いられ、大砲で発射されて月へ向かいます。

この映画では、月は擬人化されており、このロケットはこの人面の月の右目に着弾。無事に着陸した6人は月面を探検しますが、月は思いのほか寒いところで雪まで降っていました。寒さに耐えられなくなった彼等は洞窟の中へ避難しますが、そこへ月人が現れ、彼等は捕えられてしまい、月の王様のもとに突きだされ…というコメディータッチの作品です。

その後、月旅行を扱った映画としては、かの有名なアーサー・C・クラーク原作の映画「2001年宇宙の旅」があります。こちらも地球から月に向かう宇宙旅行が描かれていますが、飛行船は「ロケットプレーン」に進化しており、地球軌道上の宇宙ステーションにランデブーした後、月着陸船に乗換え、月に向かうというものでした。

この映画はコメディーなどではなく非常にまじめなもので、宇宙での機内食、客室添乗員の履くグリップシューズ、宇宙トイレなど、綿密な科学考証のもと、宇宙旅行の様子が詳細に描かれたもので、映画史上不朽の名作、とはよくいわれることです。

この映画が公開されたのは、1968年ですが、“人類が宇宙を旅する”という広義の宇宙旅行まで含めるならば、すでにこれより7年前の1961年には既にソ連のユーリイ・ガガーリン少佐がボストーク1号に乗って地球を1周しています。

ただ、この時の「旅」はわずか108分にすぎませんでした。しかし、人類初の有人宇宙飛行であることには違いなく、「地球は青かった」という名言もまた歴史に刻まれました。が、これはあくまで国家政策によって行われた宇宙開発の一環での宇宙旅行であり、その後もソ連および米国で行われた宇宙行もまたすべて国家事業です。

「旅行」というのは、個人的な関心によって行われたものであり、であるがゆえに旅行費用も自己負担でなくてはなりません。そうした意味では、人類初の宇宙旅行が実現したのは、2001年にアメリカの大富豪がソユーズの定期便に乗せてもらう形で実現した例が嚆矢とされます。

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全額自己負担で宇宙に旅立つ、という世界初の試みを実現したのは、デニス・チトーという人です。実業家として成功した人ではありますが、元々宇宙開発関係の技術者でもあったようで博士号を持ち、米航空宇宙局(NASA) ジェット推進研究所に勤めていました。

彼は国際宇宙ステーション (ISS) に人員と物資を補給するソユーズの定期便でロシアから旅立ち、2001年4月28日から5月6日までISSに滞在しましたが、この間、数々の実験業務にも携わりました。

それに続き、翌年には、2002年には南アフリカ共和国の実業家マーク・シャトルワースが宇宙旅行を実現しています。ケープタウン大学でビジネス科学の学位を取得し、卒業後に設立した電子認証サービス会社を成功させ、その資金を元手にベンチャーキャピタルとアフリカの教育を促進する非営利組織 (NPO) シャトルワース財団を設立しました。

2001年にロンドンへ移住。その後、アフリカ人として世界初の宇宙飛行を行うために、嘗てソ連時代に、ガガーリン宇宙飛行士訓練センターがあり、現在でもロシアの宇宙飛行士の訓練機関が集中する、モスクワのスターシティという場所で訓練を受けました。

2002年4月25日に打上げられたロシアのソユーズTM-34に、民間人の宇宙飛行関係者として約2000万ドルを支払い搭乗し、2日後、ソユーズ宇宙船は国際宇宙ステーションにドッキングしました。彼もまた、デニス・チトーと同様に、この宇宙ステーション滞在中に種々の実験に携わっており、おもに、エイズとゲノム関連の研究に参加しました

11日の滞在後、ソユーズTM-33で地球に帰還しましたが、この宇宙旅行の成功で世界的にも有名になりました。この宇宙滞在中、ネルソン・マンデラ南アフリカ元大統領と交信をした際に、同席していた14歳のミカエル・フォスターという、南アフリカ人少女がシャトルワースにプロポーズをする、というハプニングもありました。

この少女は癌に罹った末期患者であり、こうした生命に関わる病気と診断された少年少女の夢を叶える活動している団体からの支援を受けて実現した交信であり、この交信の24日後に亡くなりました。

シャトルワースは亡くなる前の週に少女と会うことを予定していましたが、すでに症状が悪化しており実現していませんでした。が、思いもかけず宇宙で彼女と対面することになりました。とはいえ、さすがにプロポーズを受けるというわけにはいかず、シャトルワースは「大変名誉なことですが……」とユーモアで返しました。

2015-6521

一方、日本人で初の宇宙旅行をしたのは誰か、といわれれば、これはやはり元TBSのアナウンサーだった、秋山豊寛さんでしょう。秋山さんは、上述の二人のように科学者、もしくは科学に造詣が深い人ではなく、TBSのワシントン支局長を務めるなど、純粋に報道人でした。

が、1989年にTBSが、日本人のミール訪問に関する協定をソビエト連邦の宇宙総局と調印すると、TBSが社内で募った公募に応募し、8人の応募者の中から選ばれました。が、この「旅行」もまた、日本人として初めて宇宙から報道を行う、ということを目的とした仕事であり、厳密には旅行とはいえないかもしれません。

上の二人と同じくモスクワ郊外のスターシティの宇宙飛行士訓練センターで訓練を行い、1990年12月2日にソビエト連邦のソユーズTM-11に搭乗、打ち上げは成功し、宇宙ステーションミールに9日間滞在しました。これにより、世界で初めて宇宙空間に到達したジャーナリストとなりましたが、同時に日本人初の宇宙旅行を体験した人物となりました。

予定では、日本人初の宇宙飛行として宇宙開発事業団に所属する毛利衛さんが秋山より先に宇宙へと旅立つ事となっていました。しかし、チャレンジャー号爆発事故の影響で毛利のフライトが延期され、結果として日本人初の宇宙飛行は民間人である秋山さんとなりました。

秋山さんは、科学者ではありませんでしたが、宇宙ステーションでは睡眠実験などの科学実験にも参加し、日本から持ち込んだカエルを無重力環境に置くとどうなるか、扇子で扇いで移動できるかといった実験にも取り組みました。

乗組員兼ジャーナリストとして宇宙飛行士たちの「日常」生活をリポートしましたが、滞在中はひどい宇宙酔いに悩まされたといい、同乗したロシアの宇宙飛行士は、「あんなに吐く人間は見たことがない」と述べています。同年12月10日に、先にミールとドッキングしていたソユーズTM-10で帰還し、カザフスタンのアルカリクに無事着陸。

8日間の宇宙生活を終え、帰還した直後、マイクを向けられた秋山さんは「お酒が飲みたい。タバコが吸いたい」と話しました。地球帰還後は、TBS報道総局次長などを歴任したほか、バラエティ番組などにも出演していましたが、53才になったとき突然TBSを退職。

宇宙飛行士だったということから、次第に会社での居場所がなくなっていったことを、退社した理由の1つに挙げています。が、推測するに、「日本人初の宇宙飛行士」となったのが、本来は「正規の宇宙飛行士」である毛利衛さんではなく、民間人の彼だったことで、いろいろな誹謗中傷があったのではないでしょうか。

その後福島へ移住し、無農薬栽培をてがけるなど農業をやっておられましたが、福島原発の事故を受けて2012年からは、京都府内へ移住。ここで京都造形芸術大学の芸術学部教授に就任されているようです。

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その後、2006年には、アメリカの起業家、グレゴリー・オルセンが、ソユーズ飛行船により、史上3人目の自費での国際宇宙ステーションへの民間人宇宙旅行を果たし、また、2006年には、同じくアメリカ・テキサス州のIT企業の創業者でCEOのアニューシャ・アンサリが、女性初の民間宇宙旅行者となりました。

しかし、2000年代には、コロンビア号の事故などの宇宙航空事故がいくつか起こったことで、宇宙開発には危険が伴う、ということが改めて認識されるようになり、また、宇宙旅行には多額な費用がかかることから、気軽に民間人が宇宙旅行をする時代が来た、とは言い難い状況でした。

これら民間人の宇宙旅行者が利用したのはすべてロシアのソユーズです。当時ロシアは国家経済の事情で民間企業にソユーズの座席を売ることで打ち上げ資金を確保していた状況であったのが、こうした民間人の宇宙旅行が実現した理由でもありました。

一方のアメリカは、あいつぐスペースシャトルの事故の発生により、こうした宇宙旅行に消極的であり、こうした宇宙開発熱の冷え込みがロシア発の宇宙旅行を加速させた、という側面もあります。NASA(アメリカ航空宇宙局)ですらも、コロンビア号の事故以来宇宙開発に自信を失い、ソユーズにISSの維持に必要な物資の輸送を頼っていたほどです。

こうした中、アメリカでは、次第に民間機関の中で、NASAに変わって宇宙開発に取り汲もうという機運が生まれてきました。

米国の旅行会社「ゼグラム社 (ZEGRAHM)」は、ジェット機の背に搭載されたロケットプレーンを高度16kmで切り離し、そこからはロケットエンジンで高度100kmまで上昇し、地球を見ながら弾道飛行による2分半の無重力状態を体験できるという宇宙旅行を企画しました。

ペプシコーラを日本で販売するサントリーは、懸賞でこのロケットプレーン搭乗券をプレゼントするというキャンペーンを行い、当初は2000年に実現予定でしたが、ロケットプレーンの開発の遅れなどから、現在も実現には至っていません。

一方、これに先立つ1996年には、民間による宇宙船開発に対する賞金制度であるX-prizeが発足していました(現在、Ansari X Prizeに名称変更)。

3人以上の乗員(乗員1名と、2名の乗員に相当する重量のバラストでも可)を高度100km以上の弾道軌道に打ち上げ、さらに、2週間以内に所定の再使用率を達成し、同じ機体で再度打ち上げを達成した非政府団体に賞金1000万ドルが送られるというものです。

かつては、地球一周旅行をはじめ、多くの長距離旅行の壁はこうした資本家による賞金制度をきっかけに実現されてきました。しかし、このX-prizeは資金面のみならず、法律面でも発射試験に漕ぎつけるまでにはかなりの問題を含んでおり、脱落者が続出しました。

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その中でスケールド・コンポジッツ社の有人宇宙船「スペースシップワン」は2004年6月21日に高度100キロの試験飛行に成功し、続けて賞金獲得のための本飛行も2004年9月29日と2004年10月4日に2度目の飛行を行いました。

このスペースシップワンは、運搬用航空機により吊り下げられた状態のまま、高度約15キロまで上昇後、切り離され、その後はロケットエンジンに点火し音速の3倍まで加速。ロケットの燃焼終了後は慣性で放物線を描くように弾道飛行し、高度100kmへの到達を果たしました。

そして3分間余りの無重量状態での宇宙飛行を経て、大気圏に再突入し、無事帰還。9月29日のフライトにおいては一時機体が不安定になるなどのトラブルがあったものの、いずれも乗員1名とバラストを載せた飛行を達成し、同社は賞金を獲得しました。

その後、、イギリスの多国籍企業、ヴァージングループが設立した宇宙旅行会社「ヴァージン・ギャラクティック」はスペースシップワンからの技術供与を受け、宇宙旅行ビジネスを開始することを発表、同飛行のスポンサーとなりました。

スペースシップツーによる宇宙旅行ビジネスの実現を目標とし、当初、2012年からのサービス開始を目指していました。2005年にはクラブツーリズムがヴァージン・ギャラクティック社の公式代理店となり、日本での販売を開始。最初の宇宙旅行者として100人が世界中から選ばれ、ファウンダーと呼ばれています。

日本人では外資系IT企業に勤める、32才の稲波紀明(いなみのりあき)さんが、世界最年少のファウンダーに選ばれています。しかし、2014年には試験中に墜落事故を起こすなどのトラブルにより計画は遅延中であり、2015年時点でも実現には至っていません。

しかし、かつてのスペースシャトルのような、地上と軌道上とを繰り返し往復する、いわゆる「宇宙往還機」は、運航経験や過去の研究状況から、使い捨てロケットより経済的ではない、といわれており、こうした「簡易型飛行船」であるスペースシップワンの改良型の成功は、今後とも期待されています。

一方、宇宙旅行をより簡便な物にする手段として、静止衛星と地上とをケーブルで結ぶ軌道エレベーターが考案されており、現在は実現に向けた具体的な動きも見られる様になってきています。

この話は前にもとりあげました(宇宙エレベーターのお話)が、2012年には大手ゼネコンの大林組が宇宙エレベーターの開発に乗り出したと発表しており、2050年の実現を目指すと報道されました。

いずれの方法でもいいから、早く実現してほしいと思う次第なのですが、しかし、私が乗り込もうと思っても、いかんせん先立つものが……

やはり、当面は地上において、放浪の旅に出るしかなさそうです。

今朝までには爆弾低気圧も去り、そろそろ青い空も見えてきました。幸い週末のお天気はよさそうなので、伊豆の山中でも彷徨うことにしましょう。

もしかして、その先で伊豆へご出張中の皆さんにお会いしましたら、わけありですので、けっして声をかけないよう、お願いいたします。

2015-6590