ことたま

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今日は「バーゲンの日」だそうです。

1895年(明治28年)、現在も東京駅にある「大丸」こと、当時の「大丸呉服店」が冬物の大売出しを開催し、日本初のバーゲンを行ったことに由来しています。

大丸のことをご存知の方も多いでしょう。近畿発祥の老舗百貨店で、大阪では心斎橋・梅田にあり、このほか京都・神戸・東京・札幌などにあるのが主力店舗です。これら6店舗だけで単体の91%の売り上げを占めているといいます。

現在では、松坂屋、パルコなども併合し、「J.フロント リテイリング」というグループ会社になっています。上記以外にもあちこちに店舗を有し、従業員は3000人を超す大会社です。

創業者の「下村彦右衛門正啓(まさひろ)」は、1688年(元禄元年)京都伏見の生まれです。父・下村三郎兵衛兼誠(かねなり)は摂津国茨木の武将・中川氏の家臣の子孫で、大坂の陣後、商人になりました。正啓はその第五子であり、三男でしたが、上の兄が早逝したため後継ぎとなり、19歳の時に行商を始めました。

1717年(享保2年)、29歳のとき、生まれた伏見の京町に呉服店「大文字屋」を開業し、呉服業をスタートさせました。その後両替商なども兼営するようになり、38歳で大坂心斎橋筋に進出。その2年後の1728年(享保13年)に名古屋本町に名古屋店を開き、これをはじめて「大丸屋」と称しました。

しかし、京都で創業した当時の「大文字屋」の名は残し、大阪ほか各地に建てた大丸支店の総本店としました。1736年(元文元年)に、全店の「理念」を示しており、これは、「先義後利」というもので、その意味は、「義を先にして利を後にする者は栄える」というものです。

「義」とは商売における正しい道」「公共のために尽くす気持ち」を意味し、「顧客第一主義に徹すれば、利益は自ずからついてくる」という考え方です。

以後、店の者にはこの理念を徹底させるとともに、下村自身も毎年冬になると施餓鬼(せがき)として貧しい人に食べもの、古着やお金を施しました。また、人の集まる寺社に大丸マークつきの灯籠や、手ぬぐいを大量に寄付する等ボランティア活動で利益を社会還元していました。

このため、1837年(天保8年)に起こった百姓一揆、大塩平八郎の乱では、利を優先させた富豪や大商人はことごとく焼き討ちにあっていたのに対し、「大丸は義商なり、犯すなかれ」と大塩が部下に命じたため、焼き討ちを免れたと伝えられています。

この精神は、資本金200億円、売上高4700億円にものぼる大々会社に成長した現在も大丸の企業理念として継承されているといいます。

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創業時の「大文字屋」の名は、京都五山の送り火の「大文字」にちなんで付けられました。名古屋進出にあたって、「丸」の中に「大」の字をあしらった商標を使い始め、広く一般に「大丸」と呼ばれるようになりました。

「丸」は宇宙を表し、「大」の文字は「一」と「人」を組み合わせて成り立っていることから、 「天下一の商人になろう」という志を示したものだそうです。

その後江戸にも進出しましたが、この際には、このマークを染め抜いた萌黄地の風呂敷を大量につくり、商品を包んで運びました。その風呂敷が派手で非常に目立つものだったため、江戸っ子の間で話題となり、開店前から多くの人に認知されるようになっていました。

このため、風呂敷自体、江戸時代前期には銭湯に行く時にすら使われていなかったのにもかかわらず、江戸中で大流行することになりました。

大丸屋江戸店でのこの風呂敷の売上は1750年(寛延3年)には14,500枚でしたが、1828年(文政11年)には60,670枚と4倍に増加。商人ばかりでなく、一般庶民が品物を運ぶ際に使う当たり前の道具として定着することになりました。かくして、大丸屋は、越後屋(現三越)、白木屋(現東急百貨店)と並ぶ江戸三大呉服店と称されるまでになりました。

明治末期には、不況で屋台骨が傾いたこともがありました。しかし、このころの下村家当主が早稲田大学出身であった縁から、大隈重信の斡旋を受け、実業家として敏腕を振るっていた日本生命の社長、片岡直温が改革に乗り出し、店を再興しました。

1913年(大正2年)には、類似商標と区別するため、おめでたい「七五三」にちなんで、「大丸」の「大」の字のうち、「一」の左端に3本、「人」の字の下端左に5本、右に7本のひげをつける改定を行い登録。このロゴは、その後70年に渡って親しまれました。

その後も1914年(大正3年)には大阪店が不渡りの手形を出して京阪二店が休業するなど、呉服店から百貨店への転換過程では問題が続発しましたが、幾度もの困難を乗り越え、1928年(昭和3年)、「大丸」と改称してその近代化に成功しました。

高度成長期には三越と並び「西の横綱」といわれましたが、バブル崩壊後業績は低迷。トヨタ自動車社長・会長、日本経団連会長を歴任した奥田務が社長就任後、他の百貨店よりも一足早く1998年より事業構造改革に乗り出し、国内不採算店舗の閉鎖や海外店舗の全面撤退、人員削減に取り組みました。

結果として改革は成功し、収益力を業界首位級に押し上げました。2007年(平成19年)には松坂屋と経営統合し、持株会社「J.フロント リテイリング株式会社」を設立。2010年 (平成22年)には「株式会社大丸松坂屋百貨店」が設立され、フロントリテインイングの完全子会社になりました。

同社は、同グループの旗艦であり、百貨店事業を担いますが、フロントリテイニングは多角経営企業体であり、ほかにも割賦・信用事業、通信販売、不動産事業なども扱っています。2012年には、 森トラストが保有する「パルコ」の全株式を取得し、ファッションビル事業にも乗り出しています。

なお、大正から昭和に親しまれた大丸のマークは1983年に廃止され、シンボルマークは「孔雀(ピーコック)」をデザイン化したものに変更され、現在に至っています。

但し、正式な社章は現在も「七五三ひげの大丸」で、呉服の包装・一部店舗(心斎橋店・南館屋上や下関大丸など)の外装にも残されているほか、2010年に大丸松坂屋百貨店が発足したあとは、各店の正面入り口脇の店名の銘板の表示が、「丸に大」のマークと、「大丸 創業1717年」と記されるようになりました。

ちなみに、それ以前の銘板は上部に「丸に大」のマークが孔雀の羽で縁取られ、その下に「株式会社大丸 The Daimaru,Inc.」と記されていました。

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創業者の下村彦右衛門正啓は、1748年(寛延元年)に60歳で亡くなっています。背が低く、頭が大きく、耳たぶが垂れ下がるという風貌で、人情に厚く、商売を成功させたことから、「福助人形」のモデルではないか、といわれてきました。

この福助人形をご存知の方も多いでしょう。幸福を招くとされる縁起人形で、大きな頭とちょんまげを結った男が正座している像です。しかし、実は下村がモデルではなく、元々は、文化元年頃から江戸で流行した福の神の人形、「叶福助(かなえふくすけ)」が形を変えたものといわれています。

願いを叶えるとして茶屋や遊女屋などで祀られたもので、当時の浮世絵にも叶福助の有掛絵が描かれ、そこには「ふ」のつく縁起物と共に「睦まじう夫婦仲よく見る品は不老富貴に叶う福助」と書かれています。

この叶福助人形には、モデルとなった人物がおり、享和2年8月に長寿で死去した摂津国西成郡安部里の「佐太郎」という男であるといわれています。従って、現在の福助人形のモデルもこの人物といってもいいかもしれません。

もともと身長2尺足らずの大頭の身体障害者であり、大頭だった原因は、現在でいうところの、水頭症ではなかったかといわれています。

脳の脊髄液の生産が異常を来たし、髄液が頭蓋骨の内側に貯まる病気で、先天性のものや感染症によるものがあります。佐太郎もこの病気にかかっていたとされますが、長生きだったことから先天性のものだったのでしょう。

子供のころ、近所の笑いものになることを憂い、他行をこころざして東海道を下る途中、小田原で香具師(やし)に見いだされました。香具師とは、軽業・曲芸・曲独楽などの神楽をして客寄せをする商売にのことで、後の世では露店で興行・物売り・場所の割り振りなどをする、いわゆる的屋(てきや)とよばれる商売人です。

一般には賤民(人別帳に記載のない人物、無宿人)であり、いわゆるヤクザに近い者たちでしたが、とまれ、この香具師に発掘されたことから佐太郎の人生は一変します。小田原の城下で見世物になることで生活の途を得た彼は、やがて人通りの多い鎌倉鶴岡八幡宮のある雪乃下でも見せ物に出るようになります。

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この見世物の評判は鎌倉でも非常に高く、その後さらに江戸にも進出するところとなり、両国でも大人気となったあげく、江戸中から人々がこの見世物を見にやってくるようになりました。

「不具の佐太郎」と呼ばれたことから、これをもじって「不具助」と呼ばれるようになり、さらに、いっそのこと「福助」にしたらどうかという香具師の助言に従って改名したところ、観客にも名前が福々しくて縁起がよいとますます見物は盛況となりました。

そうしたところ、見物人のなかに裕福な旗本某の子がいて、両親に遊び相手に福助が欲しいをとせがみました。そこで旗本某は福助を金30両で香具師から譲り受け、召し抱えることにしました。

それからというもの、この旗本の家は幸運続きだったといい、このため福助はおおいに寵愛され、旗本の世話で女中の「りさ」と結婚させてもらい、独立しました。そして芝増上寺の門前町、永井町で「深草焼」で人形を作り売り出しました。京都伏見の北東に位置する「深草」の地に由来する陶器で、その人形とは頭の大きい自分の容姿を模したものでした。

この人形は福助の生前にもかなり売れたようで、福助はその収入によって豊かになり、そのおかげで長寿を全うできたのでしょう。死後もこの人形はバカ売れに売れ、幕末の文化年間(1804~1818年)のころにかなりのマイナーチェンジを加えられて発売されたのが「叶福助」です。

その後も少しずつ形を変え、いわゆる「縁起物」として珍重され、だるまや、熊手、羽子板などとも肩を並べるようになり、江戸期の庶民に愛されるようになりました。

縁起五穀豊穣、大漁追福、商売繁盛、家内安全、無病息災、安寧長寿、夫婦円満、子孫繁栄、厄除祈念などなどに効力があるとされ、現在においてもおよそ「ハレ」にまつわる行事ではよくこの福助人形が飾られます。

また、祭礼や縁日や市などの寺社の参道や境内や門前町・鳥居前町などにおいて参詣者に販売されています。最近は招き猫のほうが多いように思いますが、レトロなところがいい、という人もいて根強い人気があります。あなたのお宅にもあるのではないでしょうか。

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ところで、この「縁起物」の「縁起」とは何かといえば、これはそもそも仏教用語であり、仏教の根幹をなす発想の一つです。「原因に縁って結果が起きる」という因果論を指すものですが、これが転じて一般的には、良いこと、悪いことの起こるきざし・前兆の意味で用いられるようになりました。

「縁起を担ぐ」、「縁起が良い」、「縁起が悪い」などとよくいいますが、「験を担ぐ(げんをかつぐ)」ともいいます。縁起を気にする事であり、ある物事に対して、以前に良い結果が出た行為を繰り返し行うことで吉兆をおしはかることです。また、良い前兆であるとか悪い前兆であるとかを気にすることでもあります。

本来は「縁起を担ぐ」でしたが、江戸時代に流行った逆さ言葉で縁起を「ぎえん」と言うようになり、それが徐々に「げん」に変化したとする説が一般的です。また「験」には「仏教の修行を積んだ効果」や「効き目」などの意味があるそうです。

験担ぎに何をするかは人それぞれです。しかし、他人から見れば何の効果もなさそうに思える行為でも、当人が「これは験担ぎだ」と思って行っている行為ならばそれは験担ぎであるといえます。

ただ一般的に多いのが、塩を盛るとか、お茶を飲まない、といったことであり、このほか爪を切らない、というのがあります。親の死に目に会えなくなるから、とはよくいわれることですが、本来は爪を切らないでおくと運気が上がる、と言われたことに由来します。理由はよくわかりませんが、鷹などのおめでたい動物に由来があるのでしょう。

受験生に「すべる」や「落ちる」などの、受験に失敗することを連想させるような言葉を使わない、という験担ぎもあります。このほか、試験に関しては、「カツ丼を食べる(試験に勝つ)」、「五角形の鉛筆を使う(ゴカク→合格)」といった語呂合わせのものがあります。

このほか、ヒゲを剃らないとか、ラッキーなことがあったときに身に着けていたものを、ここぞという勝負事あがるときには身に付けていくとか、お守りを持って家を出る、といったことを験担ぎとして常用している人も多いでしょう。

英語ではジンクス、ということばがありますが、こちらはどちらかといえば悪い方の意味で使われることが多く、縁起の悪い言い伝えに基づいています。欧米ではイエス・キリストの最後の晩餐に出席した人数が13人であったことから「13」を不吉な番号しますし、として、また「666」を悪魔の番号であるとして使用を控えることがあります。

日本でも、4は不吉な数字であり、これは「死」を連想するからで、9は「苦」に通じるといわれます。また、スポーツでも、2年目のジンクスというのがあり、1年目に活躍した選手は2年目に活躍できない、など、否定的に使われることが多いものです。

験担ぎのほうも、悪い予兆を否定するために使われることあるものの、どちらかといえば良い予兆を招くために使われることが多いようです。誰にでもひとつやふたつはあるものですが、私の場合は、寝る時に北を向いて寝る、という験を担ぎます。

いわゆる「北枕」というヤツであり、仏教の祖である釈迦が入滅の際、北の方角へ頭を置いて横になった故事に基づいており、日本では人が死ぬと頭を北へ向けて寝せます。

しかし、北枕は、心臓への負担を和らげるため体にいいとされる考えがあり、風水では頭寒足熱の理にかなった「運気の上がる寝方」とされています。またこの「頭寒足熱」説以外に「地球の磁力線に身体が沿っていることによって血行が促される」とする説も存在します。なので、あなたも今日から北枕で寝てみてください。

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この験担ぎのために「言霊」を発する、というのも古来からの日本の風習です。日本では昔から声に出した言葉には霊的な力が宿ると信じられていたため、良い言葉を口にすれば良い事が、悪い言葉を口にすれば悪い事が起こると言われています。

「言魂」とも書き、発音は、「ことだま」でも「ことたま」でもいいようですが、森羅万象がすべてことばによって成り立っているとされる「言霊学」という学問が、江戸時代までにはあったそうです。

声に出した言葉が、現実の事象に対して何らかの影響を与えると信じられ、良い言葉を発すると良い事が起こり、不吉な言葉を発すると凶事が起こるとされ、そのため、祝詞を奏上する時には絶対に誤読がないように注意されました。現在でも「忌み言葉」というのがあり、結婚式などのおめでたい行事には禁句とされます。

これも、言霊学に基づく、「言霊思想」によるものだといい、古くは万葉集にも日本のことを指して「言霊の幸ふ国」と言う、という文々が出てきます。歌人の柿本人麻呂や山上憶良の歌にも出てくるそうで、古代においては「言」と「事」が同一の概念だったといいます。

中国から漢字が導入された当初も、言と事は区別せずに用いられており、例えば、日本神話に登場する神さま、事代主神(ことしろぬし)は、「古事記」では「言代主神」と書かれています。

こうした古い時代には、自分の意志をはっきりと声に出して言うことを「言挙げ」と言い、それが自分の慢心によるものであった場合には悪い結果がもたらされると信じられていました。

たとえば「古事記」においては、ヤマトタケルの命(倭建命)が伊吹山に登ったとき山の神の化身に出会いましたが、ミコトは「これは神の使いだから帰りに退治しよう」と言挙げした、という記述があります。

ところが、それがミコトの慢心によるものであったため、その後ミコトは神の祟りに遭い亡くなってしまったといわれています。すなわち、言霊思想は、心の「ありよう」を示すものであり、万物に神が宿るとするのは、すべてのものには「こと」という名称があり、その中に霊魂、もしくは霊が宿っているという考え方です。

日本だけでなく、他の文化圏でも、言霊と共通する思想が見られ、例えば、「旧約聖書」の中にも「風はいずこより来たりいずこに行くかを知らず。風の吹くところいのちが生まれる。」と言った表現があり、この「風」と表記されているものが「プネウマ」、すなわち日本で言うところの言霊です。

他の文化でも、音や言葉は、禍々しき魂や霊を追い払い、場を清める働きがあるとされることが多く、日本でも神道においては、「拍手(かしわで)」はそうした浄化作用があるとされますし、神事で叩かれる太鼓の音もそうです。

洋の東西を問わず、こうした考え方はあり、祭礼や祝い、悪霊払いではたいてい音を出す、という行為が行われます。カーニバルでの笛や鐘・太鼓、中華圏での春節の時の爆竹などがその一例です。

口に出して言う言葉も、呪文や詔としてその霊的な力が利用されます。ただし、その霊的な能力のある「こと(事)」が何であるか、ということについてはさまざまな見解があり、国により、また宗教によって異なります。

たとえば某宗教では「真理」である、とされますが、ではいったい真理とは何か、と問われると日本人には理解しにくいようです。「真理とは、巌(いわお)のように堅固なものである」といい、それゆえにヨーロッパでは岩山の上に教会を築くことが好まれる、という例などが示されればなんとなくわかったような気にもなります。

が、なぜ固いものがいいのか、別に土の上でもいいじゃないか、と土に竪穴を掘って住居を作るという縄文文化を受け継ぐ日本人はすぐ思いますし、固いことが真理の象徴というのは理解しにくいことです。

逆に言葉が魂である、というのはアミニズムを蔑視する欧米人には理解しがたいようです。アミニズムというのは、生物・無機物を問わないすべてのものの中に霊魂、もしくは霊が宿っているという考え方で、日本には古来からあります。森羅万象すべてに神が宿っている、という考え方であり、日本人が信奉する神道の根本でもあります。

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神様が憑くものを「依り代」ともいいますが、こうした霊的存在が肉体や物体を支配するという精神観、霊魂観は、日本以外でも世界的に広く宗教、習俗の中で一般に存在しています。しかし、原始宗教的な考え方ともいえ、キリスト教が先進のものと考える欧米人の視点からは、こうしたアニミズムは原始的な未開社会のものであると考えられています。

このため、彼等は「真実を知りたければ鏡に汝自身を映してみよ、それですべてが明らかになる」といいます。が、我々にはさっぱり意味がわかりません。むしろ日本人にとっての鏡はそれ自体が神様だったりするわけです。

このように「こと」が何であるのか、というのは日本と欧米では隔たりがあるわけです。巌や鏡のような例を用いれば実感として捉えられる、という彼等の主張は、それ以外のものすべてのものにも神が宿ると考える我々には理解しがたく、逆に彼等には言葉そのものに魂が宿るという考え方が理解できないようです。

このように「こと」が真理であるのか、魂であるのかについては、さまざまな文化により異なります。また時代によっても色々な変遷があります。さらには多数の宗教や人種が交錯する現代においては、独自の見解を持つ個人も増えてきており、「こと」自体は我々が知りえないものである、といった神秘論のままでいいではないか、という人もいます。

真理なのか魂なのかといった議論に結論を出す必要はないのかもしれません。とはいえ、日本という国に生まれ、その風土で育ち、万物に宿る神様に見守られて生きてきた我々日本人には、やはり言葉には魂が宿る、という考え方がしっくりくるような気がします。

「言葉の法則」というのがあるそうで、言葉自体には何等かのパワーがあり、良い言葉ならば繰り返し言い続ければ、幸せになれる、と唱える人もいます。

「斎藤ひとり」さんもその一人で、東京都江戸川区を所在地にする化粧品、健康食品を販売する会社「銀座まるかん」の社長です。毎年のように高額納税者公示制度(長者番付)の上位に名を連ね、総資産はン百億円だそうです。

観音信仰と経営体験に基づいた独自の人生観を持ち、それらを論じた人生訓・自己啓発に関する関連書籍などを出版しており、「言葉の法則」はそうした本の中でも書かれています。

ひとりさんによると、人の心の大きさは「コップ一杯程度」だそうで、私たちは「言葉」という水滴を一滴一滴、心のコップに垂らしているといいます。狭いコップの中の水ですから、良くない言葉を発すると、心のコップが濁ってしまいますし、良い言葉を使うと少しずつですが綺麗になります。

どんな言葉でも数多く唱えると、心のコップはその言葉の水滴でいっぱいになり、溢れ出します。そして、唱え続けた言葉は、思考の一部となり、私たちの人生を創り上げる材料になるといいます。

そして、どうせなら良いことばでコップの水をいっぱいにしたいものです。どんな言葉がいいか?

ひとりさんによれば、たとえば、「しあわせだなぁ」「ありがたいなぁ」「豊かなだなぁ」「やってやれないことはない。やらずにできるわけがない。」などがイイとおっしゃっています。

たとえ現時点で「幸せじゃない」と思っていても、「幸せだなぁ」という言葉を発することに意味があるといい、何度も何度も繰り返し唱え、口癖になりそうなほど、唱えるようになると本当に幸せだと思える状況が創られるのだといいます。

目標は千回だそうです。千回、目標を達成した自分の姿、周りの状況を「現在形でイメージする」のだそうで、未来形「~したい」「~だったらなぁ」という形式ではなく、「にできる」「になる」という現在形がいいのだとか。

「ありがとう」「感謝しています」「ついてる」「うれしい」「楽しい」「幸せ」「許します」「愛しています」は、「天国言葉」というのだそうで、これらを口にしていれば、いつも幸せでいられるのだともいいます。

ものごとがうまくいかないと、ついつい「クソッ」とか「ちきしょう」とか言いがちですが、これを「やった!」「ラッキー」に置き換えると、幸せになれるような気になってきます。また、「疲れた~」を「金欲しい」に変えてもあるいはいいのかも。

あなたも、今日から実践してみてはいかがでしょうか。

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