三島発フランス経由ポンコツ

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今日は、三島由紀夫の命日だそうです。

戦後の日本文学界を代表する作家の一人であると同時に、日本語の枠を超え、海外においても広く認められた作家でした。が、晩年は政治的な傾向を強め、自衛隊に体験入隊し、民兵組織「楯の会」を結成。

1970年(昭和45年)の11月25日、楯の会隊員4名と共に自衛隊市ヶ谷駐屯地(現・防衛省本省)でクーデターを促す演説をした後、割腹自殺を遂げました。一件は世間に大きな衝撃を与え、新右翼が生まれるなど、国内の政治運動や文学界に大きな影響を及ぼした……とまあ、多くの人が知っている事実ではあります。

が、三島の命日と同じ日に、彼とも交友があった元西武セゾングループの代表、堤清二氏が亡くなっていた、ということを知っている人は少ないでしょう。

弟は元西武鉄道会長として有名な堤義明氏です。西武流通グループ代表、セゾングループ代表などを歴任しました。しかし、事業の急拡大を進めるため、金融機関からの多額の借り入れに依存していたセゾングループは、バブル崩壊により経営の破綻を迎え、グループを率いていた堤氏自身も1991年に同グループ代表を辞任しました。

2000年には不動産デベロッパーとして急速に事業を拡大していた西洋環境開発を含む同グループの清算のため、保有株の処分益等100億円を自らが出捐し、セゾングループは解体されました。

もともと、実業家としての仕事とは別に、プライベートでは小説も書いており、作家としても実力のある文化人でもありました。辻井喬(たかし)のペンネームで作家活動もしており、34歳のときには、詩集「異邦人」で室生犀星詩人賞を受賞しています。

バブルが崩壊し、実業界を事実上引退したのちは、ほぼ作家業に専念するようになり、73歳にして小説「風の生涯」で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞、また同年詩の業績で藤村記念歴程賞も受賞しています。その後も数々の文学賞を受賞しており、2007年、80歳のときには、詩集「鷲がいて」で読売文学賞詩歌俳句賞も受賞しています。

同年、日本芸術院会員となりました。85歳で文化功労者を受賞しましたが、2013年11月25日、肝不全のため東京都内の病院で死去。86歳没。最晩年にはペンネームの辻井喬の名義で、「九条の会」傘下の「マスコミ九条の会」の呼びかけ人を務めていました。

九条の会とは、日本が戦争を永久に放棄し戦力を保持しないと定めた第9条を含む日本国憲法の改訂を阻止するために、大江健三郎や井上ひさしなどの有名作家を含む日本の護憲派の作家ら9人で結成された会です。

一方、同じ日に亡くなった三島由紀夫は改憲派でした。日本国憲法第9条を、「非武装平和主義の仮面の下に浸透した左翼革命勢力の抵抗の基盤をなした」として唾棄し、この条文が「敗戦国日本の戦勝国への詫証文」であり、「国家としての存立を危ふくする立場に自らを置くもの」であると断じています。

このように政治思想が全く異なる二人がどうしてウマがあったのか不思議ですが、そこはやはり同じ作家仲間だということもあったのでしょう。三島が自身の組織した「楯の会」の制服を制作するにあたっては、フランスのド・ゴール大統領の軍用の制服をデザインした「五十嵐九十九」というデザイナーを手配するなどの便宜をはかりました。

三島が割腹自決をした三島事件直後に開かれた三島の追悼会には、ポケットマネーから資金を提供したほか、その後も三島映画上映企画などでも会場を提供するなど、三島の死後も貢献し続けたといいます。そんな堤氏が事件から43年後の三島の命日に死ぬとは彼自身も想像していなかったでしょう。巡りあわせとは面白いものです。

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この五十嵐九十九(つくも)さんというのは、調べてみると1933年東京都生まれで、現在おそらく83歳になられるようですが、いまだ元気でご健在のようです。戦後の混乱期、職を求めて東京のテーラー店に弟子入りし、21歳で独立しました。

東京・田端に「マロニエ洋装店」をオープン。28歳でフランスに渡り、ピエール・カルダンのもとで修業をし、帰国後、自らのブランドを立ち上げ西武百貨店にオーダーサロンを構え、定年まで勤め上げました。

三島由紀夫は、ド・ゴールの制服を気に入っていたといいます。独特のデザインであり、往年のド・ゴールはよくこの制服姿で、写真に納まっています。堤清二と三島は仲が良かったため、堤が経営していた西武百貨店の専属デザイナー、五十嵐さんに「彼のために作ってやってくれ」ということになったようです。

この制服というのは、当時の金で30万くらいかかったようですが、それを楯の会の全員に配ったといいます。100着以上だったと思われ、1970年代の制服といえば3千円も出せばそれなりにいいものができたはずですから今ならば相当な額になるでしょう。

その五十嵐さんがデザインした制服の上着のボタンを外した三島は、1970年の今日、赤絨毯の上で上半身裸になり、「ヤアッ」と両手で左脇腹に短刀を突き立て、右へ真一文字作法で切腹しました。小腸が50センチほど外に出るほどの堂々とした切腹だったといいます。

介錯人で、三島よりも20歳年下の楯の会のメンバー森田必勝(25歳)は、尊敬する師へのためらいがあったのか、三島の頸部に三太刀を振り降ろしましたが、切断が半ばまでとなりました。これに代わって2歳年下のメンバー古賀浩靖(23歳)が刀を取り、一太刀振るって頸部の皮一枚残すという古式に則って切断しました。

続いて森田も上着を脱ぎ、三島の遺体と隣り合う位置に正座して切腹しながら、「まだまだ」「よし」と合図し、それを受けて、古賀が一太刀で介錯しました。その後、古賀を含めたメンバー3人は、三島、森田の両遺体を仰向けに直して制服をかけ、両人の首を並べた、と伝えられています。

介錯に使われた日本刀・関孫六は、警察の検分によると、介錯の衝撃で真中より先がS字型に曲がっていたといい、また、刀身が抜けないように目釘の両端を潰してあったそうです。しかし、三島と森田が来ていたくだんの制服がどうなったのかは、調べてみましたがよくわかりません。おそらくは遺族のどなたかが保管しているのでしょう。

2人を解釈した古賀は、その後裁判で4年の実刑判決を受けましたが、出所後に元楯の会のメンバーが古賀に会ったといいます。

このとき、このメンバーは「あの事件で、何があなたに残ったか」を古賀に訊ねました。すると、古賀はただ掌を上に向けて、何かの重さを感じるようにしてじっとそれを見詰めていただけだったといいます。そして、その何かとは、三島と森田の首の重さではなかったかと思われます。

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ところで、五十嵐九十九さんが三島と同じく制服のデザインをしたという、ド・ゴールの名前を知っているは多いでしょう。

それもそのはず、シャルル・ド・ゴール国際空港は、パリ郊外にある国際空港ですし、同名のバラの品種もあります。また、シャンゼリゼ通りの入口にあり、かつてはエトワール広場と呼ばれていたパリの名所エトワール凱旋門のある広場もまた、シャルル・ド・ゴール広場です。

セーヌ川にかかる橋にも同じ名前が残されており、最近では、イスラム国への反撃のために、ペルシャ湾を航行する、フランス海軍の原子力空母、シャルル・ド・ゴールの雄姿をテレビのニュースで見た人も多いかと思います。

本名は、シャルル・アンドレ・ジョゼフ・ピエール=マリ・ド・ゴールという長ったらしい名前です。1890年11月22日生まれといいますから、我が息子君と誕生日が同じです。

1970年11月9日に解離性大動脈瘤破裂により79歳で亡くなっていますが、政治家であるとともにフランスの陸軍軍人でもありました。第二次世界大戦においてはドイツの新興による本国失陥後、ロンドンに亡命政府・自由フランスを樹立し、レジスタンスとともに大戦を戦い抜きました。

戦後すぐに首相に就任した後、1959年にはフランス第18代大統領に就任して第五共和政を開始し、混乱に陥っていたフランスを立て直しました。共和制というのは、人民が統治上の最高決定権を持つとされる政治形態です。

日本は、議会制民主主義体制であり、国民が選んだ議員の中から密室政治によって首班である総理大臣が選ばれますが、フランスではアメリカと同じく人民が直接大統領を選びます。ただ、政府の大半の意思決定は元首の裁量によるのではなく、成立した法を参照して行われる、とされています。この場合の法とは、これを造りだす議会のことです。

ただし、現在のフランスは、直接選挙で選ばれる大統領(任期5年、2002年以前は7年)に議会の首長である首相の任免権や議会の解散権など強力な権限が与えられ、立法府である議会より行政権の方が強い体制が敷かれています。

フランスは、1799年のフランス革命によって「フランス第一共和政」が成立しました。が安定せず、ナポレオンによる帝政の時代や王政の時代を何度もはさんで複数の共和制が起こっており、ド・ゴールが大統領に就任したのは四番目の共和制、第四共和政のあとの第五共和制のとき、ということになります。

きっかけになったのは、アルジェリア戦争です。これはかつてフランスによって植民地化されていたアルジェリアの内戦に続いて引き起こされた独立戦争です。アルジェリアはフランス系住民も多く、フランスは簡単に独立を認めることはできず弾圧を強めました。

このためアルジェリア戦争は泥沼の様相を呈し始めますが、この政治的混乱を収拾するために大統領に就任したルネ・コティは、これを治めることができませんでした。

1957年、アルジェリア独立問題はこじれにこじれ、フランスがアルジェリアに派遣していた駐留軍は弱腰の政府に業を煮やし、翌年、一度は政界から退いていたド・ゴール将軍の政界復帰を要求してクーデターを起こしました。

これに加えてパリのフランス軍中枢部にも決起部隊に呼応する動きが表面化したため、コティは同年6月に、隠棲していたド・ゴールを首相に指名。大統領に強力な権限を付与する新憲法制定を主張していたド・ゴールはその3カ月後月に新憲法を国民投票で承認させ、10月に第五共和政が成立。第四共和政は12年足らずで終焉しました。

この第五共和制では、第四共和政に比べて議会(立法権)の権限が著しく低下し、大統領の執行権が強化され、行政・官僚機構が強力となりました。このため現在でも共和制国家でありながらもフランスでは大統領の権限がかなり強くなっている、というわけです。

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大統領就任後、東西両陣営の間で冷戦が続く中、ド・ゴールはアメリカとソ連の超大国を中心とする両陣営とは別に、ヨーロッパ諸国による「第三の極」を作るべきだという意識を持ち、フランスをその中心としようとしました。

一方では、このころ南アフリカ連邦のアパルトヘイトに端を発して人種差別に対する国際批判が高まっており、これに賛同したド・ゴールは、アルジェリアをはじめとし、自国が宗主国であったアフリカの植民各国の独立を認めました。

このため、1960年にはアフリカ大陸ではフランス以外の国が統治する植民地も含め多数の国が植民地からの独立を達成し、脱植民地化が進みました。これにより、この年は「アフリカの年」と呼ばれています。

また、同年には核兵器の開発に成功。さらに中華人民共和国の成立を承認し、冷戦下では西側陣営でありつつも独自路線を貫きました。1966年に発生した学生と労働者による五月革命は、政界にも大きな影響をもたらしました。ド・ゴールはこの動きを鎮圧し、総選挙で圧勝することで事態を収拾したものの、翌年には大統領を引退することとなりました。

のちの選挙では社会党のフランソワ・ミッテランが当選し、フランス共産党との左派連合政権となりました。以降の第五共和政下では保守派と革新派が大統領と首相を分け合う、コアビタシオン(保革共存)と呼ばれる状態がしばしば発生しています。

第5代大統領となった共和国連合のジャック・シラクは、イラク戦争では派兵を拒みました。シラクの後継となったニコラ・サルコジ政権(国民運動連合)では対米協調がおこなわれましたが、ご存知のとおり、就任当時から奇行が多く、極右派といわれました。

大統領に当選直後、地中海に自家用ジェット機と豪華ヨットでクルージングし、野党からはあまりに豪華すぎると批判されたりしました。しかし、国民からの支持率は高く、70パーセント台を記録したこともあります。しかし、2007年にフランス大統領府はサルコジの給与を現状の2倍以上に引き上げる意向を示しました。

彼の率いる与党・国民運動連合は「大統領であるのに他の閣僚よりも給与の額が低いから」と説明しましたが、折りしもサルコジの改革に対して野党・国民から批判が高まりつつある時期の給与増額は波紋を呼びました。

2012年フランス大統領選挙に出馬しましたが、決選投票にて社会党のフランソワ・オランドの前に敗北を喫し、2012年5月15日をもって第23代大統領を退任しています。

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そんなフランスが、ド・ゴールに率いられていた時代、1960年のアフリカの年に宗主国から独立したのは17ヵ国に及びます。フランス以外ではソマリランド(イタリアから独立)、コンゴ共和国(ベルギーから独立)、ソマリア(イギリスから)、ナイジェリア(イギリス)の4ヵ国だけであり、残り13ヵ国はすべてフランスからです。

先日、テレビでおなじみの池上彰さんも日経新聞のコラムに書いていらっしゃいましたが、現在、フランスにアフリカ諸国や中東の若者が多く住み、テロリストを生み出す背景には、かつてフランスが、こうした国々を植民地支配していた、ということが関係しています。

植民地からの解放後、大勢の人々が本国フランスに移り住み、彼等に対してフランスは同化政策で臨みました。良きフランス人になれ、というわけで、公の場ではイスラム教徒である女性に顔などを隠すスカーフの着用を禁じるなど、郷に入らずんば郷に従えといわんばかりに、フランスではフランス式に過ごせ、と移民に命じました。

しかし、そんな同化政策にもかかわらず、アフリカや中東からの移民の子供たちは、フランスの文化を迎合できませんでした。社会に馴染めない移民、2世や3世は、近年勃興してきたイスラム国などのアジェンダにかぶれ、過激な思想に傾倒していった、と考えられています。

イスラム国に対するフランスの空爆が、こうした感情に火をつけ、先日のパリの同時多発テロを引き起こしたとも考えられます。彼等にすれば元々の母国を今住んでいるフランスという国が空爆している、ということを耐えられない気持ちで見ているのでしょう。分からないでもありません。

テロは卑劣なやり方ではありますが、これ以上対立が深まれば、移民の3世、4世が社会に絶望して次の世代のテロリストを生み出す可能性があります。空爆だけでは解決できない歴史的な背景のある複雑な問題である、ということを日本人である我々は理解しておくべきでしょう。

ところで、このフランスによるイスラム国への報復攻撃において、象徴のように最近メディアによく登場するシャルル・ド・ゴールという空母がどんな空母なのか、興味が沸いたので調べてみました。

すると、フランスはこれだけの大国でありながら、持っている空母はこれ一隻のようです。1960年代までは、クレマンソー級という航空母艦を2隻持っていたようですが、老朽化に伴い、1番艦は2000年までにフランス海軍からは退役しました。が、2番艦はブラジルが購入し、「サン・パウロ」として再就役させているそうです。

現在、唯一の現役艦である、この原子力空母シャルル・ド・ゴールに次ぐ2隻目を、イギリス海軍が配備予定のクイーン・エリザベス級航空母艦の準同型艦として建造する案が進められているそうです。が、まだ建造が決定されているわけではないようです。

本艦はヨーロッパの海軍では唯一の正規空母です。正規空母の意味は、元より空母として運用されたものを意味します。現代においては、建造国が正規空母という分類で建造した艦であっても、STOVL機(短距離離陸垂直着陸機)の運用能力しか持たなければ正規空母ではなく軽空母と分類されています。

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例えば、イギリスでは、満載排水量2万トンのインヴィンシブル級の空母を保有していますが、STOVL機の運用能力しか持たないためにこれは軽空母に分類されています。このほか、ロシア海軍はが「アドミラル・クズネツォフ」という基準排水量5万トン超の大型空母を持っています。

しかし、この艦は、建造費用を圧縮するという政治的な理由により蒸気カタパルトを装備せず発艦時はスキージャンプを使用します。これは艦載機の離陸滑走距離を短くするため、離艦用甲板の先端部に上向の角度をつけることで、艦載機を加速させて離陸させる形式です。主にSTOVL機の組み合わせで使われます。

このため、「アドミラル・クズネツォフ」もまた、超弩級の空母でありながら、正規空母とはみなされていません。

カタパルトというのは、英語では“aircraft catapult”といい、航空母艦から航空機を射出するための機械で、射出機とも呼ばれています。カタパルトには火薬式、油圧式、空気式、蒸気式、電磁式のものがありますが、近年ではアメリカが開発した蒸気式カタパルトが最も性能が高いとされます。

アメリカが保有している空母はすべてが原子力空母であり、この原子炉は、主機関のほか、カタパルトへの高圧蒸気供給も担っています。逆に言うと原子力であるからこそ、高性能の蒸気式カタパルトが使えるということになります。

同国のニミッツ級航空母艦のカタパルト長は94メートル、フル装備のF/A-18を2秒で265キロメートル毎時に加速させることができるといいます。フランスのシャルル・ド・ゴールもまた、このアメリカ海軍の空母と同じ蒸気カタパルトを備えており、非常に優れた機動性を持っている、といわれています。

デザインは正規空母としてはじめてステルス性を考慮したものとなり、船舶としても高性能で速力も27ノット以上も出せます。もっとも、アメリカのニミッツ級の30ノット+にはかないませんが。

フランス海軍の空母は搭載する航空機に核攻撃能力を与えていて、原子力潜水艦の戦略核兵器と合わせて現在でも重要な任務の一つとされています。2015年1月にイラクで過激組織ISILを標的とした空爆作戦に投入されることが決定、ペルシャ湾に移動後2月より攻撃が開始されましたが、先日の同時多発テロを受け、さらなる攻撃を開始しました。

世界の中でこのほか空母を持っているのは、ブラジルとインドがあります。しかし、インドの「ヴィラート」「ヴィクラマーディティヤ」は、スキージャンプ甲板を利用する軽空母です。

また、ブラジルの空母「サン・パウロ」は、上述のとおり、元フランス空母「フォッシュ」で、カタパルトを装備しますが、排水量は第二次世界大戦当時の空母程度で運用可能な艦載機の重量に厳しい制限があるようです。

このほか、イタリア、オーストラリア、タイなどが、垂直/短距離離着陸機の搭載可能な空母もどきを保有していますが、いずれも小さなものです。また、日本もヘリコプター搭載艦を空母と呼ぶならば、これを5隻ほど保有しています(「かつらぎ」の来る日)。

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あともう一国、「空母といえるようなもの」を持っている国があります。中国です。一隻だけですが、遼寧(りょうねい)といい、これは旧ソ連で設計された航空母艦「ヴァリャーグ」の未完成の艦体を入手し、航空母艦として完成させたものです。

しかし、その入手の仕方が汚い、とさんざんこれまでも各国のメディアから批判的な記事を書かれてきました。同艦はそもそもソ連が崩壊した際、これを引き継いだロシア連邦政府が極度の財政難のために完成させることができなかったものです。

しかも、本艦を建造していた黒海造船工場自体が独立したウクライナに接収されてしまい、本艦の所有権自体がロシアとウクライナで争われることになりました。

結局、ロシア、ウクライナの両政府は、共同でノルウェーの船舶ブローカー、リーベックを通じて海外に売却する事で一旦は妥結しました。リーベックは、同艦は船体及び機関がほぼ完成し、兵装や電子機器は未搭載なので、これらの機器類は購入した国が自由に選べることのメリットを強調して各国へ売込みを図りました。

インド、中国、アルゼンチン、ブラジル等の新興国と接触を図りましたが、この時の売却価格は、搭載機込みで約40億ドル(艦そのものが20億ドル、さらに搭載機が20億ドル)と見込まれており、この金額は当時売り込み先と目された国々の一年分の軍事費の半分以上に当たるものでした。

結局高過ぎてどの国も買えないまま宙に浮いた形となり、海外売却の話も消え、ロシア海軍に就役する見込みもない「ヴァリャーグ」は、岸壁に係留されたまま放置され、他の艦に移設可能な装備を撤去される有様でした。

その後、ウクライナは本艦をスクラップとして2,000万ドルで売却する意向を示し、マカオの「中国系民間会社」である創律集団旅遊娯楽公司が1998年に購入しました。「中国本国で海上カジノとして使用する予定」とされていましたが、実はこの会社の社長は中国海軍の退役軍人でした。

また、創律集団旅遊娯楽公司は、事務所も電話もないペーパーカンパニーであり、カジノの営業資格もありませんでした。そもそもマカオの港は水深10メートル程しかなく、6万トン級の大型艦は入港できません。しかも、動力装置の無い大型艦が曳航されてトルコが保有するボスポラス海峡などを通過し、マカオまで廻航するのは大変危険でした。

また、既に見かけも航空母艦であり、空母の海峡通過を禁じたモントルー条約に抵触することから、トルコ政府は海峡通過に難色を示しました。そこへ仲介を申し出たのが中国政府でした。中国はカジノが開かれたのちには、トルコへの観光客を年間200万人に増やすと約束し、政治的折衝で妥協。2001年、航海を経てようやく中国本国に回航されました。

こうして2002年に中国沿海に曳航されてきた同艦は、案の定、マカオではなく大連港に入港しました。その後同艦は大連船舶重工集団に所属する大連造船所の乾ドックに搬入され、錆落しと人民解放軍海軍仕様の塗装を施され、修理が進められました。

このため一部では「中国が大連において空母の建造を計画」などと伝えられましたが、中国の報道機関はこれを否定。しかし、2008年末に中国海軍報道官が2012年までに中型空母を建造保有する計画を発表した際に、本艦を練習空母として就航、同時に艦載機をロシアから購入する計画があることを表明しました。

2009年には大連造船所のドックから離れ、ドックから大連港の30万トン級の艤装埠頭へ移動し、艤装が本格化しました。そして2011年には「中国初の空母」として出航すると中国メディアの新華社が報じました。

2011年8月には数百人の兵士らが参加する完成式典が行われ、共産党中央軍事委員会高官も視察しました。その後渤海湾等で海上公試が行なわれ、10回の公試を終えた後、2012年9月に遼寧省大連の港で中国人民解放軍海軍に引き渡す式典が行われ、この地にちなんで正式に「遼寧」と命名されました。

2013年2月には、青島の軍港に移動。この軍港は4年間を費やして建造されており、遼寧の母港としての機能を備える軍港とされています。

しかし、この空母はかなりポンコツだという評判でしきりです。「ヴァリャーグ」の機器はその多くが撤去されており、原設計から10年以上経ていることもあって中国では独自に機器を調達し備えることとなりました。が、遼寧の蒸気タービンはヴァリャーグの物が残されており、これが改良されました。

ところが、当初は蒸気を発生するボイラーの圧力があまりに高く危険であったため、出航速力に必要な出力を得られなかったといわれています。また、改良された現在でも蒸気を冷却して水に戻す復水器の冷却水パイプやバルブなどに問題を残したままではないか、といわれているようです。

さらに、空母といいながら、ヘリコプターによる離着艦が報道されているだけで、航空機の離発着は確認されていないようです。この船はカタパルト非搭載であり、搭載機はスキージャンプ式の発艦しかできません。

このため、飛行甲板は270mと比較的長くなっていますが、両翼下にミサイルを搭載するなどの重量機の発艦は確認されていません。また、ロシアから着陸の際に飛行機を短い滑走距離だけで着陸・停止させるための鋼索状の支援設備(アレスティング・ワイヤー)の調達を目指したものの不調に終わり、自主開発したものを使っているようです。

ようするにかなりのズルをしてポンコツを輸入したものの、やはりポンコツにしか仕上げられなかった、というわけで、中国は空母と称しているものの、とても空母とはいえない、というのが専門家の見方のようです。近年、南沙諸島の埋め立てにより軍事施設を築こうとしているのは、いつまでたっても空母が完成できないためだ、とする説もあるようです。

2012年ごろ、複数の中国メディアが伝えたところによると、消息筋の情報としてこの船には「毛沢東」の名前が付けられる、という案もあったようです。しかし、中国の建国の父といわれる彼もこんな船に自分の名前がつけられなくてよかった、と草場の陰で喜んでいるでしょう。

何ごとにつけてもやはり不正はいけません。国際的な批判を無視して建設が続く南沙諸島の軍事施設とともに、この世から葬り去られることを祈りたいところです。

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