2020年に行われる東京オリンピックの競技のうち、自転車競技の一部が伊豆で開催されることが正式決定になりました。
行われるのはトラック競技と、マウンテンバイク(MTB)競技であり、開催されるのは、伊豆市の「山奥」にある、日本サイクルスポーツセンターです。
トラック種目は、既存の屋内自転車競技場「伊豆ベロドローム」の一部を改修し、MTBは敷地内に五輪用のコースを新たに整備して開催する予定だということで、 待望の会場決定に、地元は大喜びのようです。
現職伊豆市長の、菊地豊さんも手放しの喜びようで、「選手が安全で最高のパフォーマンスを発揮できる競技運営の成功に向け、最大限の努力で臨みたい」と意気込みを表明しています。
今後は、東京五輪自転車競技の受け入れにあたり、会場の改修・整備をはじめ、選手の宿泊場所の確保や輸送、アクセス道路整、備外国語の案内サインの充実、などの課題は山積ですが、もともと温泉が出る町であることから旅館やホテルは数多くあり、また、観光案内のための仕組みも出来上がっていることから、心配はないでしょう。
トラック競技が行われる予定の伊豆ベロドロームについては、このブログでも過去に書いたことがありますが、 国内唯一の1周250メートルの木製走路を備える本格的なものであり、これまでも何度か国際大会がここで開かれています。来年1月26~30日にはアジア選手権トラック種目も開催される予定です。
私自身、5年後のオリンピックでは、この地元伊豆で競技観戦している自分の姿を想像したりして今からワクワクしていますが、それまでには少しさびれかけているサイクルスポーツセンターの施設をもう少し刷新してほしいもの。
4年前に完成したばかりのベロドロームはともかく、施設全体はオープンしてから今年でちょうど半世紀が経っており、かなりボロボロになっています。諸外国から大勢の人が来る晴れの舞台になるだけに、政府からの援助なども期待しての改修が期待されます。
サイクルスポーツセンターが今以上に賑わうようになれば、伊豆市の観光収入も増えるはずなので、伊豆市としても今回のチャンスは、ぜひ無駄にしないよう、有効にかつようしていただきたい、と切に思います。
ところで、この自転車というヤツですが、一番最初の自転車は、1817年にドイツのカール・フォン・ドライスによって発明された木製の乗り物、ドライジーネ (Draisine) だとされているようです。
これは、前輪の向きを変えることができるハンドルと、前後同じ直径の二つの車輪を備えただけの簡単のもので、クランクやペダル、チェーンといった駆動装置はなく、動力も足で直接地面を蹴って走るものでした。
その後、40年あまりはほとんど改良がありませんでしたが、1861年にフランスで初めて工業製品として量産されるようになりました。これは「ミショー型」とよばれるもので、こちらは現在の子供用の三輪車と同じようにペダルを前輪に直接取り付けたものでした。
さらに1870年頃、英国のジェームズ・スターレーが、スピードを追求するために前輪を巨大化させた「ペニー・ファージング型」と呼ばれる自転車を発売し好評を博したため、多くのメーカーが追随するようになります。これに伴い改良も進ますが、この間、前輪の大きさはどんどん大きくなり、直径が1.5メートルを超えるものも出現しました。
これはレースなどスポーツ用に使うためであり、前輪が大きければそれだけスピードが出たためです。こうして、このころから、自転車競技は盛んに行われるようになり、長距離のクロスカントリー用の自転車までこのころすでにありました。
しかし極端に重心位置が高いため安定性が悪く、乗車中は乗員の足がまったく地面に届かないことなどにより日常用としては運用が困難でした。また、転倒すれば高所より頭から落ちるような危険な乗り物でもありました。このころ日本でもこのタイプの自転車が輸入されており、そのいびつな形状から「だるま車」などと呼ばれていました。
1879年に英国人ヘンリー・ジョン・ローソンにより後輪をチェーンで駆動し、座席(サドル)の高さが低いため重心が低く、乗員の足が容易に地面に届く物が製作され、ビシクレット(Bicyclette)と名付けられました。「二つの小輪」の意味であり、これがその後、英語における Bicycle の元となりました。
以後、自転車の性能や安全性は飛躍的に向上していき、1885年に、英国自動車ブランド「ローバー」の始祖、ジョン・ケンプ・スターレーが「ローバー安全型自転車 (Rover Safety Bicycle)」の販売を開始します。
これは、側面から見て菱形のシルエットを持つダイヤモンド型のフレームを持ち、ほぼ現在の自転車に近い姿をしています。前輪が後ろに傾斜したフロントフォークではさみこまれ、その先端がハンドルを介して乗り手の手前にあります。後輪はチェーン駆動を介して乗り手の真下にあるクランクとつながっており低重心でかつ操作性に優れていました。
これにより従来のペニー・ファージング型自転車が持つ欠点、高重心による不安定性が解消され、さらにハンドルとペダルが人間の身体に自然な位置にとりつけられた事により操作性が向上し容易かつ安全に自転車を乗る事ができるようになりました。
この安全型自転車の登場により、それまでのスピードは出るものの、危険なペニー・ファージング自転車は徐々に衰退していき、またそれまでスポーツ用が主な用途だった自転車は日常の手軽な交通手段としての側面を強くしていきました。
しかし、この時までの自転車は車輪が木製か空気なしのゴム製であり、乗り心地は非常に悪く「ボーン・シェーカー(背骨ゆすり)」とも呼ばれるようなものでした。
これが大幅に改善されるのは、1888年にジョン・ボイド・ダンロップが空気入りタイヤを実用化してからのことであり、この発明はすぐに自転車に使用され、乗り心地と速度の大幅な向上をもたらしました。その後フリーホイール機構が普及し、自転車の基本がほぼ完成されました。
日本に西洋式自転車が初めて持ち込まれたのは幕末の慶応年間と思われ、これはフランスで初めて工業化されたミショー型であったと推定されています。しかし、ほとんど記録がなく、実際にどこの誰が保有していたのかも不明です。
ただし、これ以前にも彦根藩士の平石久平次時光という人物が「新製陸舟車」という三輪の乗り物を製作して走らせていたという記録があります。
1732年(享保17年)のこととされ、これはちょうど江戸中期のことです。ヨーロッパにおける、1817年のドライジーネペダル式自転車にさかのぼること85年も前のことであり、これが本当なら、自転車に相当する乗り物としては世界初のものといえます。
ただ、文書記録として残っているだけで現物はなく、またこの「新製陸舟車」なるものは個人的な趣味で作られただけで、実用化もなされていなかったようです。
その後、明治に入り、「からくり儀右衛門」の異名をもつ田中久重が、1868年(明治元年)頃、自転車を製造したとの記録が残っています。ただ、こちらも現物は確認されておらず、本人自身による記録も残されていなため、製造の真偽は定かではありません。
この田中久重という人は、江戸時代後期から明治にかけての発明家として知られ、近年になって「東洋のエジソン」とか、「からくり儀右衛門」と呼ばれるようになった人物です。テレビドラマや小説などでも頻繁に出てくる人で、なかなかユニークな人だったようです。
武士ではなく、筑後国久留米(現・福岡県久留米市)の鼈甲細工師・田中弥右衛門の長男として、ほぼ幕末とえいえる1799年(寛政11年)に生まれました。幼い頃から才能を発揮し、五穀神社(久留米市通外町)の祭礼では当時流行していたからくり人形の新しい仕掛けを次々と考案して大評判となりました。
20代に入ると九州各地や大阪・京都・江戸でも興行を行い、その成功により日本中にその名を知られるようになります。特に有名なのが1820年代に製作した「弓曳き童子」と「文字書き人形」で、これらは、からくり人形の最高傑作といわれています。
35才で上方へ上り、大坂船場の伏見町(大阪市中央区伏見町)に居を構えると、次々と発明を繰り出します。折りたたみ式の「懐中燭台」に始まり、圧縮空気により灯油を補給する灯明の「無尽灯」などを考案し、このころから「からくり儀右衛門」と呼ばれ人気を博すようになりました。
その後京都へ移り、天文学を学ぶために土御門家に入門し、天文学の学識も習得した田中は、嘉永3年(1850年)に革新的和時計の須弥山儀(しゅみせんぎ)を製作します。この頃に蘭学も学ぶようになり、様々な西洋の技術を学んだことで、さらにその発明技術は向上していきます。
嘉永4年(1851年)には、季節によって昼夜の時刻の長さの違う日本の不定時法に対応して、季節により文字盤の間隔が全自動で動くなどの世界初となる様々な仕掛けを施した「万年自鳴鐘」を完成させました。
極め付けは、その後、再び西下して佐賀に移住したころに行った偉業で、これはなんと国産では日本初となる蒸気機関車及び蒸気船の模型を製造した、というものです。佐賀に下ったのは、蘭学狂いといわれた肥前藩主、鍋島直正の来国要請に基づいたもので、田中はここで軍事面でも活躍し、反射炉の設計や大砲製造にも大きく貢献しました。
元治元年(1864年)には佐賀から久留米に帰り、久留米藩の軍艦購入や銃砲の鋳造に携わり、同藩の殖産興業等にも貢献しました。自転車を製造したとされるのはこのころのことと考えられ、この幻の日本初の自転車製造には、久留米の車大工や鉄砲鍛冶の技術が活かされたと考えられています。
田中はその後、明治6年(1873年)に、新政府の首都となった東京に移り、75歳となった明治8年(1875年)に東京・京橋区南金六町に電信機関係の製作所・田中製造所を設立。これが、現在の「東芝」の基礎となりました。明治14年(1881年)、82歳で死去。
高い志を持ち、創造のためには自らに妥協を許さなかった久重は、「知識は失敗より学ぶ。事を成就するには、志があり、忍耐があり、勇気があり、失敗があり、その後に、成就があるのである」との言葉を残しています。
その後の自転車ですが、1870年(明治3年)、東京・南八丁堀の竹内寅次郎という彫刻職男が自ら発明した三輪の車について、東京府に製造・販売の許可を求める願書を提出しました。この願書に記載されていたこの乗り物には「自転車」という言葉が記されており、これがこの言葉の日本での初めての使用例、とされています。
この「自転車」は、東京府の担当官による実地運転を経て、正式に許可が下りましたが、これを受けて、同年7月には日本初の「自転車取締規則」が制定されています。これはつまり、現在の道路交通法のはしりともいえるものです。従って、この1870年という年は、名実ともに「日本の自転車」の原点ともいえる年ということになります。
一方、1872年(明治5年)、横浜・元町でボーンシェーカー型自転車を真似て国産自転車を作った者がおり、名前ははっきりしませんが、この人物は自ら東京〜横浜間を6時間で走ったとの記録があります。この自転車はその後「貸自転車」として貸し出されるようになっており、こちらは「貸自転車」における最も古い記録、ということになります。
その後、1876年(明治9年)、福島県伊達郡谷地村(現桑折町)の初代鈴木三元が「三元車」という前二輪の三輪自転車を開発しましたが、その後も改良を重ね、一応の完成を見ました。そしてこの自転車は1881年(明治14年)、第2回内国勧業博覧会にも出品されました。
この三元車は現存する最古の量産型国産自転車であるとされており、1879年にイギリスで発明されたビシクレットによく似た機構を有しています。名古屋市西区にあるトヨタグループが運営する企業博物館、トヨタテクノミュージアム産業技術記念館に収蔵されており、2009年に初めて一般公開されています。
イギリス人、ジョン・ケンプ・スターレーが発明したローバー型安全型自転車は、これが発売された1885年(明治18年)に早くも日本へ輸入されています。これを真似た国産化も早く進み、これを初めて製造したのは、宮田製銃所というライフル銃を製作していた会社でした。
この日本初の安全自転車の製造は1890年(明治23年)のことですが、この宮田製銃所を創設したのは、宮田栄助(1840~1900)という農家の出の男でした。農民の身分でしたが、親類筋にあたる水戸藩の鉄砲指南役をつとめる国友信之門という人物に師事して製銃技術を身につけ、常陸国笠間藩のお抱えとして苗字帯刀を得ました。
「鉄砲師」として同藩で立身しましたが、明治維新の廃藩置県(明治4年)により雇用を解かれ、その後 人力車などを作っていました。この人力車は1台18円だったそうで、これは現在の価値では、50万円以上になります。
かなりの高級車であり、その販売で財を得るようになった栄助ですが、幕末に培った鉄砲士としての技術をさらに発展させるため、次男の宮田政治郎を、明治9年から5年間、自分の師匠でもある国友信之門下へ入門させました。この国友家はその後、徳川家のお抱えなるなど、こちらも有名な鉄砲師として成功しています。
その国友家の銃製造所は銀座にあったようですが、その一方で宮田栄助自身は、は東京小石川にあった 陸軍砲兵工廠に勤務するようになり、日給1円の高給取りとなりました。こちらは月給にすると90万円ほどにもなります。
こうして、人力車の販売や軍での勤務で得た豊富な資金をもとに、1881年(明治14年)、東京京橋区木挽町(現在の銀座)に宮田製銃所を創設。その後、国友家で鉄砲士としての経験を積んだ息子の政治郎は、1887年 (明治20年)、さらにその技術を鍛えるべく、大阪砲兵工廠へ入廠します。
ここでは、軍用の潜水ポンプから羅針盤までの製作を経験し、それらの技術を取得後、自分の代わりに、兄、宮田菊太郎をも入廠させ、自身は田中製造所に入所しました。上述の田中久重が設立した工場であり、ここで宮田親子と田中久重の接点が初めてできました。
ここで政治郎は田中の厳しい指導のもと、政治郎は「小タガネの名人」と称されるようになりましたたが、おそらくは各種の高い工業技術を持っていた田中が、そうした技術とともに、自転車の製造技術も政治郎に伝えたのでしょう。
後年、東芝となるこの製造所には、ほかにも田中門下生がおり、これらの中には後の沖電気創業者である、沖牙太郎やかつてディーゼルエンジンの販売を行う機械メーカーとして名を馳せた「池貝(いけがい)」の創業者・池貝庄太郎もいました(その後倒産し、民事再生手続が終結後、中国上海のメーカーの傘下となっている)。
そして、このころ政治郎は、田中の指導も受けながら、十二番宮田銃という猟銃を開発し、専売特許権を獲得します。そして父の宮田製銃所で製作・販売するようになりました。その2年後の1889年(明治22年)、 東京築地鉄砲洲(現在の明石町)にあった宮田製銃所を外国人居留地に住む一人の外国人が訪れました。
この鉄砲洲という場所は、1869年(明治2年)には築地居留地が設けられ、文明開化の中心地となった場所です。当地には運上所(その後の東京税関)に設けられ、ここにあった電信機役所から横浜裁判所(現・横浜地方裁判所)へ日本初の公共電信が敷かれたことから、電信創業の地とされています。
また、イギリスの宣教師ヘンリー・フォールズは居留地に滞在中、日本の拇印の習慣に着目して指紋の研究を行ったことから、指紋研究発祥の地とされ、このほか慶應義塾や立教大学、明治学院など数多くの大学の発祥地でもあります。
当然多くの外国人も出入り、あるいは居住していましたが、その一人がどういう人物だったかはよくわかっていません。ただ、この男は銀座にあった宮田製銃所に当時最新型であった、安全型自転車を一台持参し修理を依頼しました。
これを見た、宮田親子は仰天します。その安全性に驚いた二人は、そのコピーを製作し、販売すれば必ず成功するだろうと、確信しました。その後、明治政府の富国強兵、殖産興業政策を受け、本業である製銃業も順調に推移していきます。
1890年(明治23年)には、業務拡大のため、東京本所区菊川町(現在の菊川3丁目 出羽松山藩下屋敷跡地)に工場を新築し移転。ここに最新の輸入工作機械を購入、約月産500挺の銃の量産を始めました。
この頃の本所界隈には、本所小泉町に石鹸やマッチの取次店である小林富次郎商店が開業しており、これは現在の「ライオン」になります。また、この3年後には服部金太郎が時計製造の会社を設立しており、こちらはのちの精工舎、現在のセイコーになります。
このように本所というのは、今でこそ下町の風情を残した静かな町になっていますが、この当時は、その後日本を代表するメーカーが数多く集まっていた土地柄でした。
ここで製銃業を営み、業績を伸ばした宮田親子は、その豊富な資金をもって国産の安全型自転車の開発に取り組み、1893年(明治26年)、ついにその試作車を完成。 その後国産第一号となる安全自転車としての販売を開始しました。
その後、本業の製銃業は、日清・日露戦争の勃発などで大儲けし、さらにうるおいましたが、宮田清次郎は、銃後の景気の下落を予想していました。同時に自転車の将来性に着目し、父から受け継いできた従来の製銃業を廃し商号を宮田製作所と改称、自転車の製造に専念するようになります。
1992年(明治35年)のことであり、父栄助はこの2年前に60歳でこの世を去っていました。
その後宮田製作所は、オートバイの製造や四輪自動車の製造まで手掛ける大企業に発展し、
第二次大戦州は、軍需指定工場を受け零式艦上戦闘機(ゼロ戦)等の脚等の車輪部分を生産していました。が、戦後はオートバイ販売と自転車製造に業務を縮小し、その後オートバイ製造からは撤退し、自転車製造を専業とするようになり、現在に至っています。
この宮田親子が明治末期に発売した自転車は、その安全性から飛ぶように売れました。しかし、初期の自転車は高価な遊び道具であり、庶民の間では貸自転車を利用することが流行し、度々危険な運転が批判されました。
所有できるのは長らく富裕層に限られました。1898年(明治31年)11月、東京・上野不忍池のほとりで開かれた「内外連合自転車競走運動会」を皮切りとして自転車競技大会も開かれ、大変な人気を集めたといいます。
当時一般的であったダイヤモンドフレームの自転車はスカートなどで乗るのに適さなかったため、自転車は男性の乗り物とされていました。しかし大正期からは富裕層の婦人による自転車倶楽部も結成されるなどし、女性の社会進出の象徴ともなりました。
初め日本の自転車市場はアメリカからの輸入車が大部分を占めていましたが、明治末期になるとイギリス車が急増しました。この後第一次世界大戦により輸入が途絶えたことをきっかけに、宮田らによる国産化が急激に進みました。
宮田製作所では、このとき規格や形式の大部分ではイギリスのロードスターを基に自転車を製造しましたが、米1俵(60キログラム)程度の小形荷物の運搬用途や日本人の体格を考慮したことで、日本人向けの一つの様式が確立し、日本独特の実用車が完成されました。
この頃の日本の道路は自動車の走行に適してはいないため、運搬に自転車が使われ、自転車で運べない大きな荷物は荷車(特に馬力によるもの)で運ばれることが多かったようです。とくに物資の少ない戦前戦後は、自動車やオートバイに代わり、自転車が国民車であり続けました。
戦後すぐには、まだ自転車の価格が大学初任給を上回り、家財・耐久消費財といった位置でしたが、次第にコストパフォーマンスに優れたものも出回るようになり、庶民の手にも入るようになりました。そして高度成長期前の1960年代半ば頃まで、実用車は日本の自転車の主流であり続けました。
しかし、その後高度成長期になっても自転車は広く普及していましたが、国民の多くが豊になっていくと、その代わりにステータスシンボルとしての地位を自動車に移っていくようになりました。その後、高度成長期には日本の自転車輸出量は世界一となり、世界中で日本製の自転車が乗られるようになりましたが、逆に国内での利用は減ってきました。
現在では円が強くなったことで自転車の輸出は激減し、今日では中華人民共和国製を主とした外国製自転車が日本の市場に多数出回るようになっています。日本サイクリング協会によれば、日本全国の自転車の保有台数は7千万~8千万台で、うち約3千万台が日常的に利用されていると推定されています。
通勤・通学に利用されるほか、日常の買い物などに多くの人が自転車を利用しています。このほか、地域によっては、新聞配達、郵便配達、自転車便、卸売市場関係者、商店、警察官などで職業上の利用もあり、近年スポーツとしての利用も増えているといいます。
伊豆市としては、来たる2020年までには、その自転車のメッカとしてサイクルスポーツセンターを刷新し、晴れ舞台に備えていただきたいもの。
それにつけても、このオリンピック開催年までに、私の年齢もどうやら大台を超えていくことになりそうです。
私も軽量なサイクリング車を一台保有しており、ときおり伊豆の山野を駆け回っています。オリンピックイヤーのころまで元気でいられるよう、私もまたこの自転車のスポーツ利用を続けていきたいと思います。みなさんもいかがでしょうか。