二十日正月

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今日は大寒です。

「寒さが最も厳しくなるころ」とされますが、その文字通り昨日から列島は寒波に見舞われ、あちこちで雪だらけです。

ここ修善寺ではさすがに雪は降りませんでしたが、昨日、ジョギング中に天城山を遠望しところ、山頂部分が真っ白になっていました。目の前にある富士山も今年初めには黒い地肌が目立っていたのに、今はまっ白いアイスクリームのようになっています。

実際、気象統計でもこのころから、2月4日あたりまでが最も寒いそうで、一年で最も寒い時期です。大寒の朝の水は1年間腐らないとされており、容器などにいれ納戸に保管する家庭もあります。

大寒の日を「二十日正月」といい、この日を正月の終りとなる節目とする地域も多いようです。松の内は15日までですが、この日はいわゆる「鏡開き」と称して、正月に年神や仏に供えた鏡餅を下げて食べます。

かつては正月の祝い納めとして仕事を休む、「物忌みの日」でした。京阪神地方では、正月に用いた鰤の骨や頭を酒粕・野菜・大豆などと一緒に煮て食べることから骨正月・頭正月ともいうようです。

他の地方でも、乞食正月(石川県)、棚探し(群馬県)、フセ正月(岐阜県)などと言って、正月の御馳走や餅などを食べ尽くす風習があるといいます。

一般には、神仏に感謝し、正月に供えられたものを頂いて無病息災などを祈って、汁粉・雑煮などで食します。我が家でも正月に食したものがかなり冷蔵庫に残っており、今晩は餅とともに鍋にでもぶち込んで食そうかと考えているところです。

鏡餅は、平安時代には既に存在し、当時に書かれた源氏物語には「歯固めの祝ひして、餅鏡をさへ取り寄せて」と書かれているそうです。 現在のような形で供えられるようになったのは、家に床の間が作られるようになった室町時代以降です。

武家では、床の間に具足(甲冑)を飾り、その前に鏡餅を供えました。このころから鏡餅には、譲葉・熨斗鮑・海老・昆布・橙などを載せるのが通例となり、これは具足餅(武家餅)と呼ばれました。

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江戸時代になって、この日に商家では蔵開きの行事をしましたが、武家ではこの具足に供えた具足餅を下げて雑煮などにして食し、これを「刃柄(はつか)」を祝うといいました。また、女性が鏡台に供えた鏡餅を開く事を「初顔」を祝うといいました。無論、「二十日正月」にちなんでのことでしょう。

江戸城では、重箱に詰めた鏡餅と餡が大奥にも贈られ、汁粉などにして食べられたといいます。こうした武家の具足式を受け継ぎ、柔道場・剣道場などでは現在も鏡開き式を新年に行なうところもあります。

なお、武士の場合、刃物で餅を切るのは切腹を連想させるので手や木鎚で割り、「切る」「割る」という言葉を避けて「開く」という言葉を使用しました。「鏡切り」ではなく、「鏡開き」であるのはそのためです。

また、鏡餅を食すことを「歯固め」ともいいます。これは、硬いものを食べ、歯を丈夫にして、年神様に長寿を祈るためといいます。この固い鏡餅を割ると、ひび割れを境にバラバラになります。この鏡餅の割れ方で占いをする地域もあり、とくに農家では「鏡餅の割れが多ければ豊作」と言われていたようです。

現在では、一般的に大小2つの平たい球状の餅と橙(ダイダイ)が使用されます。が、地方によっては餅が三段のもの、二段の片方を紅く着色して縁起が良いとされる紅白としたものがあり、金沢などの鏡餅がそれです。

形式的には、三方に半紙を敷き、その上に裏白(羊歯の一種)を載せ、大小2つの餅を重ね、その上に串柿・干しするめ・橙・昆布などを飾るのが通例です。が、飾り方は地域によって様々であり、串柿が無い地域や、餅と餅の間に譲葉を挟む地域、昆布とスルメを細かく切ったものを米に混ぜて半紙でくるんだ物を乗せる地域などもあります。

このほか、餅そのものを使わない地域もあります。替わりに砂糖で形作ったもの、細長く伸ばしたものを渦巻状に丸めてとぐろを巻いた白蛇に見立てたものなど様々です。なお、ダイダイは現代ではポン酢を作るのに使われるぐらいでほとんど食用にはなっていません。このため入手が難しくなっており、ミカンで代用するケースがほとんどです。

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一方、一般家庭ではこうした昔ながらの方法で鏡餅を飾る家は少ないでしょう。家庭内に飾ることの利便性と、後で食べる際の衛生面を考え、近年では、鏡餅が重なった姿を型取ったプラスチック容器に充填した餅などが発売されています。これでお正月気分を楽しめば十分、といった家が多いようです。

この鏡餅が丸いのは、これがその名の通り、鏡を表しているからです。鏡は円満を、開くは末広がりを意味します。昔の鏡は青銅製の丸形で、神事などに用いられるものでした。三種の神器の一つ、八咫鏡(やたのかがみ)を形取ったものとも言われます。

また、三種の神器の他の二つのひとつは、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)であり、これに見立てた物がダイダイ、もうひとつは天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)であり、これに見立てた物が串柿です。それぞれが鏡餅の添え物の代表です。

日本神話によれば、八咫鏡は、天照大神の岩戸隠れの際に石凝姥命(イシコリドメ)という鏡を鋳造することに精通した女神様が作ったとされます。天照大神が岩戸を細めに開けた時、このイシコリドメが作った鏡で天照大神自身を映して興味を持たせ、外に引き出しとされます。

これによって、天照大神がお隠れになっていたために真っ暗になっていた、高天原(天国)と葦原中国(地上の日本国)は明るくなった、といいます。そしてこののち天孫降臨(天の神様たちが地上に下る)の際、葦原中国を統治する代表として瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に鏡は授けられました。

このとき、この鏡を天照大神自身だと思って地上でも祀るようにとの神勅が下されたといい、これを「宝鏡奉斎の神勅」といいます。以来、天皇家ではこれを最も大事な「神宝」として大事にしてきました。

この八咫鏡ですが、そのままでは呼びにくいので、単に神鏡または宝鏡とよばれることもあります。「八咫」の咫(あた)とは円周の単位であり、約0.8尺であることが、「八咫」といわれるゆえんです。その昔は、径1尺の円の円周を4咫としていたため、したがって「八咫鏡」は、直径2尺(46cm 前後)の円鏡を意味します。

福岡県糸島市に弥生時代後期のものと考えられる平原遺跡というのがありますが、ここからは、銅製の5面を含む鏡40面をはじめとして多数の出土品があり、其の昔の王家の墓所と目されています。その大部分は「福岡県平原方形周溝墓出土品」の名称で2006年、国宝に指定されています。

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ここから出土した「大型内行花文鏡(内行花文八葉鏡)」という鏡は、直径46.5cm、円周は46.5×3.14 = 146.01cmであり、弥生時代後期から晩期にこのサイズの鏡が存在したことは確かとなりました。その文様と大きさから、伊勢神宮にある八咫鏡と同型の鏡ではないか、という説を唱える学者もいます。

副葬品の多くが勾玉や管玉、耳璫(じとう:耳飾り)などの装身具であり、武器類が少ないことから、この墓に埋葬された人物は女性であると考えられています。

このため、墓の主は天照大神とされる人物ではないかという説、または玉依姫(タマヨリビメ)ではないか、という説もあります。タマヨリビメの末子は、カンヤマトイワレビコノミコであり、すなわち後の神武天皇です。

伊勢神宮では、天照大神の「御神体」として、これと同型の八咫鏡が内宮に奉安されているとされます。明治初年に明治天皇が天覧した後、あらためて内宮の奥深くに奉納安置されたことになっています。

同社に残る「御鎮座伝記」を解読すると、約三回ほど内宮の火災があり、このいずれかの際に焼失してしまっており、現存するものはその時に新たに作り直されたのではないかといわれています。

一方、皇居にも八咫鏡があり、こちらはかつて京都御所の「賢所(かしこどころ)」に奉置されていました。八咫鏡を天照大御神の神魂として祀っている場所であり、威所・尊所・恐所・畏所などとも呼ばれていました。現在は都内の皇居内、吹上御苑の東南にある「宮中三殿」の中央がこの賢所とされています。

この八咫鏡がかつて奉安されていた京都御所内の賢所は、天徳4年(960年)、天元3年(980年)、寛弘2年(1005年)に起こった内裏の火災により焼損しています。このとき、この神鏡も半ばが焼失し、形をとどめないものとなったといいます。とくに寛弘の際には、ほとんど灰になってしまい、やむなく灰の状態のまま保管したそうです。

このため直後から鏡を改鋳する議論が持ち上がり、翌寛弘3年7月には一条天皇御前で公卿会議が行われ、左大臣藤原道長が改鋳を支持したものの、公卿の大半が反対したため改鋳は行われませんでした。その後、平家の都落ちとともに西遷し安徳天皇とともに壇ノ浦に沈み、それを源義経が八尺瓊勾玉とともに回収したものが現存するものだとされます。

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しかし、実際には、宮中に現存するとされるこの八咫鏡は「形代(かたしろ)」だといいます。形代というのは、いわゆるレプリカとされるものです。「コピー」ということになりますが、そこは万一に備えての予備品であり、「神器に準ずるもの」とされます。

実物については祭主たる天皇も実見を許されないため、その現存は確認できません。ただ、三種の神器の本物もしくは、この形代を所持することが皇室の正統たる帝の証しであるとして、皇位継承と同時に継承されてきています。

現在では草薙剣の「本物」は熱田神宮に、八咫鏡の本物は伊勢の神宮の皇大神宮に、そして、八尺瓊勾玉の本物は東京の皇居内にあるもの、とされているようです。

しかして皇居内の賢所にある八咫鏡は「形代」です。また八尺瓊勾玉(本物)は草薙剣の形代とともに皇居の吹上御所の「剣璽の間」に安置されているといいます。がしかし同皇居内に皇族らが住みながらその実見は未だになされていないといいます。

なんだそれは、とだれもが思うでしょう。しかし、今年は、神武天皇即位紀元から2676年に当たりますが、これほどまで長い間、同じものが保存されてきた、ということはありえません。

伊勢神宮のお宮と同じようにコピーが何度もなされてきたはずであり、それがコピーであることを誰でもが実見できる、その結果伊勢神宮にあるとされる八咫鏡などと比較される、というのは皇室にとってもあまり好ましからざることであるわけです。

ただ、コピーである形代を含むとはいえ、長い歴史の上で皇室の三種の神器には変わりはありません。歴代の天皇はこの八咫鏡の形代を含む三種の神器の前で即位の儀式を行います。時代が江戸から明治に移った際、明治天皇が即位するときには、まだこの三種の神器は京都御所にありましたから、践祚の儀式はその賢所で執り行われました。

その後、ご存知のとおり、皇居は東京に移ることになりました。このため、明治天皇が崩御されたあと、大正天皇の即位の際にはその践祚の儀式は東京で行われることになりました、ところが、当時の皇室典範には「即位ノ礼及大嘗祭ハ京都ニ於テ之ヲ行フ」と規定されていました。

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つまり、即位のために三種の神器のある京都に逆に天皇が出向く必要がありました。京都の賢所において数回の儀式を執り行う必要があったわけですが、しかし、この間に東京は天皇不在になります。また、政府の要人などもすべて東京在住におり、即位を円滑に進めるためには儀式は東京で行われる必要がありました。

このため、賢所の神鏡のほうを東京から京都へ移送するほうが望ましいと考えられました。ただ、まがりなりにも「神」とされるものですから、京都から東京へと安易に運んでいいのか、という議論がおこりました。

一方では、神鏡といえども「物」であり、即位式に臨む天皇と同じ御料車内に積載しての輸送でも構わないのではないかという意見も出ました。これに対して、賢所の神鏡は「皇室といえども極めて畏れ多きもの」であり、天皇であっても同じ室内はもちろん、同じ車両内に長時間あることすらはばかられるもの、という反対意見が出されました。

また天皇が崇拝する神器を、天皇が乗られる御料車より格下の供奉車(ぐぶしゃ)に積載することもできません。供奉車とは、お召列車が運転される際、随伴員(宮内庁関係者や警備関係者、鉄道職員などが乗車する車両のことで、皇室用客車の一種です。

この議論は白熱したようですが、結局のところ、この御料車とは別に神鏡のみを積載し輸送するための専用車両として、「賢所乗御車(かしこどころじょうぎょしゃ)」を製造しようと、ということになりました。「神」を輸送の対象とする鉄道車両は世界的にも類例がないと思われ、その意味でも極めて珍しい車両です。

製作にあたったのは、日本国有鉄道の前身である鉄道院です。完成した車両は、他の鉄道車両と異なり、記号や番号、形式は一切付与されておらず、「賢所乗御車」もしくは「賢所奉安車」)が、この車両を特定する名称となりました。

ところが、本車の製作にあたり、鉄道院の設計担当者を最も悩ませたのが、輸送対象である神鏡の寸法と重量でした。神鏡は皇室が最も崇敬する神器で、その御座所内では皇太子ですら立位での歩行を許されず膝行するほどのものであり、一般人は手を触れることはおろか、目にすることすら難しいものです。

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こうした宮中の古い慣習に縛られ、空前絶後の神鏡の寸法計測にこぎ着けるまでには紆余曲折がありました。宮内省との幾度にもわたる粘り強い折衝が行なわれましたが、結果としてなんとか寸法測定が許可されました。

しかし重量までは量ることができず、明治の初めの東京奠都(とうきょうてんと)に際して賢所の神鏡が京都から東京に輸送されたときの記録を参考にすることになりました。

このときの「16人の若者が賢所の神鏡の乗御する御羽車を担いで東海道を上ったが、いずれも重さに汗をかいた」という記録を元に重量を(十分な余裕をもって)推定し、奉安室内部と輸送装置の設計が行なわれました。

ちなみに、「遷都」ではなく、「奠都」と呼ばれるのは、京都は依然帝都で、政治上の必要から江戸にも帝都を定めたのだから遷都と言うことは妥当ではないとする声が上がったことに由来します。「遷都」は都を移す事をいいますが、東京も京都も帝都であるとするため、「奠都」という言葉をわざわざ作り、世の混乱を避けようとしたわけです。

こうしてできあがった車両の側面片側には、幅2,438mmの戸口があって観音開きの開き戸が設けられており、神鏡の乗降は、この扉を開けて行われます。扉を閉じ、施錠した後は、皇室の紋章である「菊花紋章」を外から合わせ目に取付けるようになっています。

車内は、車体中央部に「賢所奉安室」その前後に各3室の「掌典室」があり、賢所奉安室の奥には壁を隔てて幅385mmの側廊下があり、その側には戸口がないため、車両側面は左右でまったく異なっています。

賢所奉安室の内装は、天井は格天井で室内は総ヒノキの白木神殿造りとなっており、金具にはすべて金メッキが施されています。奉安所となる場所は床面は30cmほど高くなっており、移御台を定位置に固定できるようになっています。

掌典室の内装は、化粧板にナラやクヌギ、天井板にはカエデ、窓框にはチーク材を使用しており、各室とも長椅子をレールと並行に配置してあります。奉安室の両隣の掌典室では長椅子に折り畳み式の肘掛を装備しており、調度品も奉安室と調和するように配慮されています。

また、別の1室には便所と手水所(洗面台)を設けており、手水容器・便器とともに黒漆塗りで、手水容器の内側は朱漆で仕上げ、白木の柄杓を備えています。

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こうして、1915年(大正4年)の大正天皇の即位式のために製造されたこの車両はこのときの往復で2度使われました。その後、1928年(昭和3年)の昭和天皇の即位式に際しても内装などを更新のうえ使用されており、従って、本車が実際に神鏡を乗せて走ったのは両天皇の即位式の際の往復、合計わずか4回だけです。

その後、皇室典範に定められていた即位は京都で行わなければならない、という規定は太平洋戦争後に廃止されました。このため、今上天皇の即位式は東京で行われ、神鏡の輸送は不要となりました。

それにしても、現在皇居内にある三種の神器がいつ、どうやって京都から運びこまれたのか、については調べてみましたがよくわかりません。戦時中に消失を恐れてどこかに保管されていたのでしょうが、それが現皇居内なのかどうかもはっきりとしません。

このように戦中から戦後に至る時期の皇室の話には不明なことが多く、終戦のときの玉音放送のレコードもかつてはその行方がわからなくなっていた時期がありました。が、最近になってNHKで保管されていることが先日明らかになったばかりです。このため、こうした事実もまた今後明らかになるのかもしれません。

戦後、この賢所乗御車は廃車になりました。1959年(昭和34年)10月のことであり、廃車後は「浅川分車庫」に保管されたといいます。この浅川というのは、おそらく現八王子市の東にあった、「東浅川駅」にあった車庫ではないかと思われます。

大正天皇の御崩御に伴い、その墓所である多摩御陵がこの近くに造営されましたが、大葬列車終着駅のための仮設駅とし て、高尾駅(当時は浅川駅)の東に作られたのが東浅川駅です。

仮設駅だった東浅川駅はその後に本格建築され、多摩御陵への皇族専用アクセス駅「東浅川宮廷駅」となりましたが、その後皇族の参拝にも車を使用することが多くなり、1960年(昭和35年 )に廃止されました。

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駅舎はその後に八王子市に払い下げられ「市立陵南会館」という公民館になりました。ところが1990年(平成2年)、過激派の放火により全焼してしまい、現在は「陵南会館」と刻まれた門と大きな立ち木を残すだけの単なる駐車場になって います。

実は、この綾南会館のすぐそばに亡き先妻の実家がありました。同じくその後亡くなった義父に呼ばれてここへ何度も酒を飲みに行ったものですが、その際、ここへよくクルマを止めていたのを覚えています。無論、飲酒後の運転はタブーなので、たいていはこの義父との大酒宴となり、朝帰りになりましたが……

この駅舎の廃止の際、浅川分車庫も廃止となり、賢所乗御車の処遇も検討されました。しかし幸いにも、1963年(昭和38年)に品川区にある大井工場(現・JR東日本東京総合車両センター)内の御料車庫に移動することになりました。

その後、JR東日本が運営する、大宮の鉄道博物館の企画展などで公開されたことなどもあったようですが、どうやら現在はお蔵入りのようです。が、鉄道博物館にはその他各種の御料車の現物展示があるようなので、ご興味のある方は一度訪れてみてはいかがでしょうか。

私も一度行ってみたいのですが、場所が場所だけになかなかその機会に恵まれそうもありません。

さて、寒い日が続きますが、立春はもうすぐです。立春といえば節分、豆まきであり、今年も、もうそんな時期かぁ~と溜息がついつい出てしまいます。

できるだけ長い一年であることを祈りつつ、今日の筆は折ることにしましょう。

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