投げたらあかん

2016-0031北朝鮮がついに弾道ミサイルと目されるものを打ち上げました。

彼の国は「これは弾道ミサイルではなく宇宙ロケットだから問題ない」と言っているようですが、その行為は世界中から非難されています。

なぜかといえば、国連安全保障理事会はこれまでに何度も北朝鮮に「弾道ミサイル計画に関連するすべての活動の停止」を求めてきたためです。北朝鮮が核実験などで周辺地域の平和を脅かしていることを国際社会は非難しており、ましてや他国を直接的に攻撃できる弾道ミサイルを打ち上げるのはとんでもないことだというわけです。

この弾道ミサイルを北朝鮮は衛星の打ち上げのためだと言っているようですが、たとえ衛星の打ち上げであっても弾道ミサイルに関連する活動であることは明らかです。国際社会から実験はダメだよと言われているものは、弾道ミサイルでも宇宙ロケットでもダメなわけで、その行為自体が避難されているのです。

それにしても、弾道ミサイルとロケットは何が違うのでしょうか。

よく言われるのはミサイルは先端に爆弾が搭載されているけれども、ロケットはそうではなく人工衛星などが搭載されている、ということです。

これは間違いではありません。が、そもそもロケットというのは、重量物を大気圏外に打ち上げる技術のことであり、弾道ミサイルもまたロケットという推進装置を用いているので、ロケットの一種に違いはありません。

ただ、その利用が平和目的ではないため、普通のロケットとは区別してミサイル、と言っているわけです。従って、世界的な通念としては武器であり、宇宙の平和利用のためのロケットとは別物と考えられています。

また、弾道ミサイルとロケットにはそれを飛ばす飛行ルートにも違いがあります。弾道ミサイルは、爆弾を「ボールを投げるように敵地へ落とす」ものですが、宇宙ロケットは人工衛星を「ボールを投げるように、地球の丸みに沿った軌道へ落とす」ものです。やっていることはほとんど同じですが、目標とするところが違うわけです。

ほかにも違いがあり、ひとつは、飛ばし方です。ボールを投げるとき、遠くへ投げるには高く山なりに投げますが、速く投げるには低くまっすぐに投げます。同様に、長距離の弾道ミサイルも遠くへ飛ばすために高度数千kmもの高さまで打ち上げます。これに対して、宇宙ロケットは遠くへ飛ばす必要がないため、できるだけ素早く大気圏外へ打ち上げます。

宇宙ロケットは、このあと高度数百kmで水平に加速することになりますが、弾道ミサイルはさらに高高度まで達したあと、ようやく落下を始めて遠くの目標物に達します。つまり、意外なことに、宇宙まで達したあとは宇宙ロケットより弾道ミサイルの方がより高く飛ぶということになります。

このように宇宙ロケットと弾道ミサイルはどこへ飛ばすか、またその目的により飛ばし方も違うということになりますが、基本的な原理は燃料に火をつけて推進力を得るということであり、構造的にはほとんど同じです。実際に、初期の宇宙ロケットは弾道ミサイルと同じものが使われていました。

ただ、弾道ミサイルの場合、高高度まで打ち上げるためには、初速が足りないので、通常の宇宙ロケットの上にさらに上段ロケットを追加して加速します。この段数が多いというのも弾道ミサイルと宇宙ロケットの違いになります。ただ、下段は全く同じものでも構わないわけであり、弾道ミサイルを宇宙ロケットとして使うことはよくあることです。

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従って北朝鮮の弾道ミサイルを宇宙ロケットと呼ぶことは、宇宙開発の常識から言えば少しもおかしくないことであるわけです。しかしだからといって、日本人宇宙飛行士も利用しているソユーズ宇宙船を、あれは事実上弾道ミサイルだ、などと言ったりはしません。

それでも、北朝鮮の打ち上げたものはロケットではなく弾道ミサイルだと非難されているのは、国連安保理違反であるためです。現時点では、昨日打ち上げられて宇宙に達したものが本当に人工衛星だったか確認されていないようですが、たとえそうであっても国際的には「弾道ミサイル関連活動」であるわけです。

それでは、日本の宇宙ロケッも弾道ミサイルとして使えるのではないか、というとこれは可能です。日本の宇宙ロケット技術で弾道ミサイルを作ることは難しくはありません。液体水素を使う日本のHⅡロケットは兵器として使いにくいもののようですが、固体燃料ロケットの技術も日本にはあります。

弾道ミサイル固有の技術は開発しなければなりませんが、弾道ミサイル自体は半世紀も前から作られているわけで、日本の技術力をもってすればその開発は難しくないでしょう。そうした意味においては、日本の宇宙ロケット技術も弾道ミサイル技術と言えなくはないわけであり、このため情報が流出しないよう細心の注意が払われています。

日本が宇宙ロケットを打ち上げても弾道ミサイルを打ち上げたと非難されないのは、そうした秘密漏洩の対策がしっかりしていることが国際的によく知られているとともに、北朝鮮と違って日本には核兵器を保有する意図がなく、宇宙ロケットの技術で弾道ミサイルを開発するつもりがないと、国際社会から信頼を得ているためです。

ところで、この「ミサイル」の原義は何か名と調べてみたところ、これはラテン語の動詞 mittere(投げる)から派生したもののようです。その名詞形は missileであり、これは「投げられるもの」ということになり、ローマ時代では“ミッシレ”と呼ばれていたようです。

正式な軍事用語として「ミサイル」という用語が登場するのは、1947年にアメリカ空軍が発足した際に航空兵器全般の正式な命名規則を制定し、それまでは定まった名称がなかった誘導ロケット系や飛行爆弾系の兵器をあらたな定義である「ミサイル」に一括分類したときです。

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一方、ロケットの語源は、1379年にイタリアの芸術家兼技術者であるムラトーリ(Muratori)が西欧で初めて火薬推進式のロケットを作り、それを形状にちなんで「ロッケッタ(Rocchetta:小さな糸巻棒)」と名づけたことによります。

1792年にはインドにあったマイソール王国の支配者スルタンによって対英国、東インド会社との戦い、マイソール戦争で初めて鉄製のロケットが使用されました。戦争終結後、このロケットに興味を持った英国は改良を加え、19世紀初頭までにウィリアム・コングリーヴという人が中心となり、コングリーヴ・ロケットを開発しました。

この兵器は現在のロケットとは外見や制御の仕組みがかなり異なり、巨大なロケット花火のようなものであったようです。弾頭は黒色火薬が1kgから10kg用いられており、言ってみれば火矢のようなものです。初期には事故が多発していたようですが、それでも3kmという当時としては長大な射程を持ちました。

イギリス軍はナポレオン戦争や米英戦争でこれを用いており、1814年のボルティモアの戦いでは英国艦エレバスから、陸のフォートマクヘンリーにむけてロケットが発射されました。これを観戦していた弁護士フランシス・スコット・キーが作曲したのがのちのアメリカ国家であり、この歌の歌詞には「rocket」の語が登場します。

ミサイルにせよロケットにせよ、こうした「飛び道具」は人類が太古から利用してきました。手持ちの道具の先端部が届く限られた範囲にしか届かないのに対し、一部ないしその全体が飛翔し標的に衝突することで何等かの作用を生じさせることができる、ということは画期的なことです。

とくにその対象物が敵ならばその効果は絶大です。なぜなら指一本自分の体に触れさせないで敵を駆逐できるからであり、太古の昔からヒトは最も敵に向かって上手に物を投げられる動物でした。原人から新人にいたるまで、投石はもっとも基本的な狩猟/攻撃方法であり、これは動物を倒すには遠距離から一方的に攻撃するほうが安全だったからです。

石を投げることを投擲(とうてき)ともいいます。ヒトは他の生物より際立って投擲が上手であり、有史以前から投擲によって狩猟や戦闘を行なっていました。現代人以外の絶滅人類も投擲を行なっていたと考えられており、道具の高度化と平行して、ヒトが狩猟・自衛能力を獲得するうえで重要な要素であったと考えられています。

また、人間対人間の闘いでも、投擲は重要かつ効果的な戦術でした。弓矢を発明するまで、ヒト科はもっぱら投擲によって戦っていたと考えられています。現代のように舗装されていない土地が多く、武器となる石を見つけるのは容易であり、その後発明された弓矢に比べて風の影響を受けにくく、鎧ごしに打撃を与えやすいという特徴もあります。

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有史以後も、投擲は主要な戦闘技術で在り続けましたが、現代でも兵士は手榴弾などを投擲しますし、また、砲丸投げやハンマー投げのように投擲の能力を競う投擲競技が陸上競技に含まれています。

しかし、ただ単に手で投げるだけでなく、その投げ方について人類はいろいろな装置を考えるようになりました。

発射した側から飛び出した瞬間から、その石は空気抵抗などにより運動エネルギーを奪われ減速するほか、重力など他の力が働く場では弾道を描くため、距離が離れるほど命中させることは難しくなります。このため、命中させるには「どのように飛んでいって当たるか」を予測し、加減する必要があります。

単なる石を投げる場合でも、それをうまく扱うためには特別の練習を必要とする必要がありますが、その後人類はそれをどういう角度で、どういう初速で投げれば遠くへ届くかということの研究を重ね、より遠くへ飛ばす道具を工夫するようなっていきました。

その一つが投石器です。片手で握れる程度の石を遠くへ投げるための紐状の道具であり、安価に作れて弓矢と同等以上の射程と十分な威力を持ちます。スリング、投石具、投石紐とも呼ばれます。紐の一方の端は投げる時に手から離れないようループになっているか、手に巻き付けられる様にやや長くなっています。

材料は羊毛や麻の繊維を編んだものや皮革や布でできたものなどがあり、長さは二つ折りの状態で0.5mから1.5m程度です。

全体を二つ折りにして一端をループを手首に通すか手に巻き付けるなどして手に固定して他端とともに握り、広い部分に石をくるんで頭上で振り回すか(オーバースロー)、体側面で振り回す(アンダースロー)かして、適当な位置で握った手を緩めるとひもの片方が手から抜けて石が飛びます。

ひもの一方を放すタイミングが方向や射程に大きく影響するので、飛び道具の中で最も修得が困難であるといわれます。オーバースロー、アンダースローともそれぞれ長短あり、使い分けを要します。またそれぞれの射程に適した投石紐の長さがあり、標的までの距離に応じて選択する能力も要求されました。

一般的に近距離の標的に当てる時は短い紐の物を使い石も比較的大きく重い石を使用し、逆に遠距離の場合は長い紐の物で小さく軽い石を用いました。弾としては川原などで選んだ玉石のほか、軍用には陶製・鉄・青銅・鉛製の弾も使われました。

古代ギリシアで使われた鉛弾は、ラグビーのボールをやや長くしたような形で、「服従せよ」など往々敵に対する短い言葉が鋳込んであったといいます。また羊飼が使う弾にも同様の形に作って焼いた土製のものがあり、こちらは、飛ばした時に大きな音が出るように作られていたそうです。

古くから羊飼が羊の群を誘導したり害獣を追い払ったりするのに使い、鳥など小型の動物を対象とする猟にも使われました。古代のシュメール人やアッシリア人が投石器を使っていたことは当時の浮彫などにより知られており、投石器による石弾の射程は当時の弓による矢の射程より長かったと推測されています。

その後さらに時代が進むとカタパルトと呼ばれる投擲装置も考案されるようになりました。木材や獣毛や腱・植物製の綱などの弾力と、テコの原理を利用して石などを飛ばすもので、中には大きな弓を取り付けて威力をあげる改良をほどこした物や金属製のばね式の物もありました。

それまでの人力による投擲よりも格段に威力が強いため、城などの建築物を標的とし射出攻撃する攻城兵器としても使われ、古代中国では遅くとも紀元前5世紀初頭には使われはじめていました。紀元4世紀頃の古代ギリシャでもアレクサンドロス大王の東征において使用されています。

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中世には中央アジアや西アジアに流入し、改良が加えられ、「トレバシェット」という大型の投石器も発明されました。これは「平衡錘投石機」とも訳されるもので、巨大なおもりの位置エネルギーを利用して石を投げます。宮崎駿さんのアニメなどでもよく登場します。大型で威力と安全性に信頼の置ける火砲が出現するまで利用されました。

西洋では、これを用いて主に城攻めをしたと考えられていますが、重量のある石を飛ばす場合、城壁の上部を目指して飛ばし、城壁の端から崩していく方法がとられました。

このほか、石や砂利の詰まった袋を飛ばして城門などを攻撃するほか、火のついた藁や火薬を飛ばして城内に火災を起こさせたり、汚物や死骸を投擲して敵の士気を下げたり、疫病を流行させたりするなどの使われ方をすることもあったようです。平時においてはその投射の力量をひけらかすために花を投射する事もあったといいます。

また、守城側の攻撃を防ぐために装置に装甲を着けたり、攻城塔の上に設置することも多かったようです。野戦において敵の密集隊形を撃ち崩すために使われることもあり、投射に使用する石は着弾後も跳弾してより多くの範囲に被害を与えられるように球状に加工されていました。

このほか、西洋では「バリスタ」と呼ばれる投石機も発明されました。テコを用いて弦を引き絞り、石や金属の弾、極太の矢(あるいは矢羽のついた槍)、複数の小型の矢、火炎瓶などを打ち出すものです。矢弾を弾き出す動力は弓が主でしたが、複数の弓を並べたり、捻った動物性繊維の太縄や金属製のばねを用いるなどの改良を加えられた物もありました。

白兵戦の支援、攻城戦における攻城兵器、それらからの防衛に使われ、軍船に搭載することもありました。その後火薬が発明され、鉄砲が発明されるとこうした投石器は徐々に姿を消していきましたが、先込め銃の時代にはその信頼性が低かったことから他の投げ武器と併用して用いられていました。

さらに時代が進み火砲の改良が進められるにつれ、さすがに主流の兵器ではなくなりましたが、第一次世界大戦の塹壕戦では、手榴弾の投擲のためにカタパルトが使われたという記録が残っています

また、第二次大戦末期の日本では、対戦車戦用として爆薬を投射するために室蘭でカタパルトが制作された、という記録があります。実戦では使われなかったようですが。

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その日本においても、15世紀後半の応仁の乱の際に「発石木」「飛砲」という投石機が使用されていたという記録があります。しかし、日本は山がちで、雨が多いためにすぐ地面がぬかるみます。このためこうした大型の投石機は運べないという事情がありました。

また、山城などの天然の要塞が多く、平地の石壁を崩すことに特化したトレバシェットやバリスタではあまり意味がありません。また、もしこれらがあったとしても日本の石垣は地震も想定して作られるので、西洋のこうした攻城兵器でもびくともしなかったでしょう。大砲でもその衝撃を吸収してしまうほど優秀な城が多かったようです。

しかし、単に石を投げる投擲は有効な戦術のひとつだったようで、日本ではこれは「印地(いんじ)」と呼ばれました。手で投げることをはじめとして、上述のスリングのような投石器を使用するものもありました。

が、モノのない時代であったため、そこは日本風の手ぬぐいを使うことも多く、縄、竹、蔓(つる)などを網状に編んだ畚(もっこ)をもってそれに代用していました。このほか、女性が両肩に掛けて左右へ垂らした長い帯状の布、領巾(ひれ)を使用するもの、砲丸投げのように重量のある物を投げつけるもの、など様々な形態がありました。

投石技術でこの技術に熟達した者を、印地打ち(印地撃ち)、印地使い(印地遣い)とも呼び、一種の職業軍人でもありました。印地の使い手そのものを印地と呼ぶこともあり、技術や行為を印地打ちと呼ぶこともありました。軍用に加工した飛礫種は、約3寸(約9cm)の平たい丸石で、縁を欠いてあったといい、これは当たるとかなり痛そうです。

このほかにも石を紐で縛ったものを大量に用意しておくことで次々に投げつける方法、ハンマー投げの玉ようなものを投げつける方法などもありました。近距離では分銅鎖という投擲具もありました。一本の鎖の両端に錘をつけたもので、敵に投げつけて刀をからめ捕り落としたり、足めがけて分銅を投げつけ相手がひるんだ隙に逃げ出します。

捕り物としても使用され、搦めて捕縛する目的で女性の領巾と小豆が入った小袋の錘がセットされている分銅もあり、護身用としても使われたようです。西洋にも似たようなものにボーラ(Bola)があり、これは、複数のロープの先端に球状のおもりを取り付けた投擲武器です。動物を捕まえる狩猟目的でも使用されていました。

戦国時代には、元亀3年(1573年)の甲斐武田氏の西上作戦に伴う三河徳川氏との三方ヶ原の戦いにおいて、武田方の武将小山田信茂が「投石隊」を率いたとする逸話があります。また、武田氏は「水役之者」と呼ばれる投石隊を率いていており、三方ヶ原の戦いでは徳川軍を挑発して誘い出すなど、実戦で活躍したと伝わっています。

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投石器自体は単純な構造であり、手首に縛り付けてあるので手元に残り、新たな石を挟むことで、即座に次の石を投擲出来るため機動力にも優れます。手ぬぐいが一本あればそれがそのまま武器になるわけで、戦場以外でも喧嘩や抗争に多用された記録が残っています。

石は河原にいけば簡単に確保できるため、合戦においては、そのローコストさで非常に使いやすかったらしく多用されました。熟達した兵士が使用した場合は弓よりも飛距離があった上、甲冑の上からでも衝撃が伝わるなど、武器としての威力もありました。戦場では、弓矢、鉄砲に次ぐ兵器として、盛んに使われたとされています。

戦国時代には石の代わりに火薬や油壺を投げたりもしたらしく、これは近年過激派が火炎瓶を投げるのとも似ています。煙玉を投げて、敵をかく乱する、といったこともあったようです。

この印字は、その後、行事としても定着するようになりました。印地、印地打ち、印地合戦、石うち、石合戦、向かいつぶて、向かいつぶて合戦などと呼ばれ、少し前まではや5月5日に印地を行う地域があったそうです。合戦をまねて二手に分かれて石を投げ合うこの行事は子供のものでしたが、大人たち参加することがありました。

大人達が行うものは、「向かい飛礫(つぶて)」と呼ばれました。頑丈な石を投げ合うため死亡者・負傷者が出る事も少なくなく、大規模な喧嘩に発展することも多かったようです。水の権利・土地争いなどを解決する手段として石合戦が採用されるケースもあり、このため、鎌倉幕府3代執権北条泰時などは、向い飛礫を禁止する条例を発布しています。

一説に依れば、織田信長も、幼少時代にこの石合戦を好み、近隣の子供らを集めて良く行ったといい、信長はこれを模擬実戦として最適と考えていたといわれます。また、徳川家康は少年たちによる石合戦を見に行き、少人数の側が勝つと言い当てたそうです。これは少人数ゆえに仲間が協力し合っている点を瞬時に見抜いたからだと言われています。

この向かい飛礫が行事化した印地は、江戸時代までにはまだやっている地域があったようですが、負傷や死亡も相次いだため、大人は参加しなくなり、明治までには完全に子供の遊びとなりました。しかし昭和に入るとなりを潜め、現在においては無論、そんな遊びが許されるわけはありません。

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ただ、石ならぬ雪であれば怪我の心配もない、ということで、最近「雪合戦」はスポーツとしても認知され、各地で大会も開かれるほどの盛況だといいます。「日本雪合戦連盟」という長野市に本部を置く社団法人まであり、いまや全国14もの県に連盟支部があります。

世界各国への普及を目指しているそうで、オリンピックでの正式競技種目に採用されることを視野に普及活動を行っているとのことで、毎年全国大会も開かれています。認知度が高まるにつれ、年々外国人の参加も増えているといいます。

正式ルールがあり、チーム対抗で行なわれるものは「Yukigassen」の名で海外でも広まっているそうです。1987年にチーム対抗のニュースポーツとしてアレンジされ、1988年に公式ルールが国際ルールとして制定されました。

このルールを設定したのは北海道の壮瞥町(そうべつちょう)なのだそうです。が、なぜか日本雪合戦連盟には加入しておらず、北海道は北海道で「北海道雪合戦連盟」というのがあるようです。組織が分かれている理由はよくわかりませんが、道人には雪合戦の発祥の地は北海道である、という誇りがあるからなのかもしれません。

そのとおり、スポーツとしての雪合戦は、壮瞥町で生まれたとされており、1988年に正式な国際ルールが策定された翌1989年に初めての本格的な大会「昭和新山国際雪合戦大会」がスタートしています。現在、この壮瞥町の国際雪合戦は、北海道遺産の一つに選定されています。

その後、このスポーツ雪合戦は急速に全国へ広がり、他の大会でもこの壮瞥町の国際大会のルールで試合が行われることが多いようです。多くの地方連盟・団体が設立され、このシーズン、全国各で雪合戦が繰り広げられています。

ただ、新潟県魚沼市(旧小出町)の小出国際雪合戦のように独自ルールを採用している大会もあるようです。魚沼市には、「雪合戦発祥の地」の石碑が建てられているといい、新潟は新潟で自分のところが雪合戦の発祥の地だと考えているようです。

これは、越後守護の一族上条定憲と越後守護代長尾為景が争った際に、刀折れ矢も尽きてもなお、両者は戦いをやめず、雪を固めて投げ合ったことが由来とされており、雪合戦としては自分たちのもののほうが老舗さというわけです。

それにしても、長野や北海道といい、この新潟といい、独自にそれぞれ大会を催さずに、みんな統一してJリーグやプロ野球のように共通した大会にすればもっと盛り上がるのに、と思うわけですが、それはそれ、それぞれの土地での思惑やプライドがあるのでしょう。

ちなみに、この魚沼の小出国際雪合戦は、昨日おとといの2月6~7日に開催され、成功裏に終了したようです。北海道で行われる、第28回昭和新山国際雪合戦は、今月の20~21日開催だそうで、また日本雪合戦連盟による第3回雪合戦選手権大会は、3月5~6日に長野で行われるそうなので、ご興味のある方は観戦に行ってはどうでしょうか。

第28回昭和新山国際雪合戦

第3回雪合戦選手権大会

ここ、伊豆ではさすがに雪合戦は望めそうもありません。が、来る27~28日には伊東温泉で「第4回日本まくら投げ大会in伊東温泉」が催されるそうです。こちらも競技化を目指した5対5のドッヂボール形式で行われるそうですが、浴衣またはパジャマを着用し布団を楯にするなど、かなりおちゃらけた大会のようです。

伊東市民体育センターで行われるそうです。そろそろ梅が咲く季節になってきましたが、温かい伊豆に来られることがあったら、ぜひのぞいてみてあげてください。

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