養老の日に向けて

台風が接近中とのことで、せっかくの三連休の先行きを心配している人も多いでしょう。

ところで何の休日だったかなと?? と改めてカレンダーを見てみると敬老の日…

まてよ、15日じゃなかったけかな、と思って調べてみたところ、2003年(平成15年)から9月第3月曜日になったようです。

2001年(平成13年)に成立した祝日法改正、いわゆるハッピーマンデー制度の実施によるもので、もう10年以上もそうなっているのに気が付かないとはボケたもんだな~と思うわけです。

が、会社勤めをやめてからは、毎日遊んでいるというわけではありませんが、時間感覚的には日々が休日のようなものなので、言い訳にはなりませんが、これまではあまり意識してこなかったわけでもあります。



ただ、初年度の2003年の9月第3月曜日が偶然9月15日であったため、9月15日以外の日付になったのは、2004年(平成16年)の9月20日が最初だそうです。で、今年は18日。

私のように覚えが悪い人間がいることなどを考えると、毎年、日にちが変わるのは、敬老会の予定を組んだりするうえでいろいろ問題があったりするのではないかな、と思ったりもします。

するとやはり、導入当初はいろいろあったようで、敬老の日を第3月曜日に移すにあたっては、財団法人全国老人クラブ連合会(全老連)が反対を表明したそうです。長年親しんできた日にちを変更されるというのは心理的にも抵抗があるし、正月や端午の節句のような正式な?休日に比べて格下げになったような気分もあるからでしょう。

それにしてもなぜこの日が敬老の日なのか?といえば、これは、1947年(昭和22年)9月15日に兵庫県多可郡野間谷村(現在の多可町八千代区)で、村主催の「敬老会」を開催したのが始まりなのだとか。

これは、この当時、野間谷村の村長であった「門脇政夫(故人 2010年逝去)」という方が「老人を大切にし、年寄りの知恵を借りて村作りをしよう」という趣旨から開いたもので、9月15日という日取りは、農閑期にあたり気候も良い9月中旬ということで決められたのだそうです。

2013年からのハッピーマンデー法によるこの祝日の変更に関しては、当時存命であった、この門脇政夫さんも日付の変更について遺憾の意を表明したそうです。

休日への昇格?にあたってはいろいろなご苦労がおありだったようで、なんでもかんでもパッパぱっぱと変えてしまうお役人のやり方には反発もあったでしょう。

この9月15日という日を門脇政夫さんらが決めたのは、上述のように農閑期で気候がいいことなどに加え、「養老」にまつわる話なども参考にしたといいます。

岐阜県養老郡養老町に「養老の滝」というのがあります。落差32m、幅4mの滝、「日本の滝百選」や「名水百選」に選定されています。ここに「養老の滝伝説」というのがあり、これは、古今著聞集に記載されているもので、「養老孝子伝説」ともいいます。

“親孝行の伝説”とされる故事で、その昔、美濃の国に、源丞内(げんじょうない)という貧しい若者がいました。丞内は、毎日老父を家に残しては、山へ薪を拾いに行き、それを売って日々の糧を得ていましたが、時には父親のために酒を買うこともありました。

老父は、目が不自由で日々酒だけが楽しみでしたが、ただ、さすがに毎日高価な酒を与えるというわけにはいきません。そんなある日、丞内は薪ひろいに疲れてしまい、山の中で転んで眠ってしまいました。そうしたところ、夢うつつのなか、プーンといい匂いがします。

はっと気が付いて目を覚ますと、小さな泉があり、そこからはなんと、香り高い酒がこんこんと湧き出ているではありませんか!源丞内は喜んで、瓢箪にその酒を汲み、持ち帰って老父に与えました。すると、みるみるうちに老父の目が見えるようになりました。

源丞内はほかの村人にも酒を分け与えましたが、不自由な体を直すということで有名になり、泉の酒を売ってお金持ちにもなりました。

この「養老の酒」の噂は、この当時の帝の耳にまで達し、帝は親孝行の丞内をほめたたえるとともに、源丞内を取り立て、美濃の守に任じたとのこと…めでたしめでたし。



このはなしは、夢物語、というばかりではなく、実際、霊亀3年(717年)9月に滝を訪れた元正天皇(680~748)は、この泉を訪れています。飲んで、そのおいしさに驚嘆し、「醴泉は、美泉なり。もって老を養うべし。蓋(けだ)し水の精なればなり」と称賛したそうです。

まるで水の精が創ったような銘水だ、これを民に知らしめ、老を養わせるとしよう、というわけで、元正天皇はそれだけではなく、「天下に大赦して、霊亀三年を改め養老元年と成すべし」との詔を出し、この年から年号を「養老」に改元しました。また、元号が変わったこの年には、全国の高齢者に賜品まで下したといいます。

このほか、聖徳太子が四天王寺に悲田院を建立した日が593年9月15日だった、という話もあり、これが養老の日と結びついたという説もあります。四天王寺は、大阪市天王寺区にあるお寺さんで、寺院蘇我馬子の法興寺(飛鳥寺)と並び日本における本格的な仏教寺院としては最古のもの。国宝、重要文化財で埋め尽くされているような寺です。

悲田院(ひでんいん)は、四箇院(しこいん)の一つとして建てられたものです。四箇院とは悲田院に敬田院(きょうでんいん)、施薬院(せやくいん)、療病院(りょうびょういん)合せたもので、これは現在の医科学大学のようなものです。

非田院とは、身よりのないお年寄りなどを受け入れる施設、療田院とは、今日の病院と同じ病気を治療するところ、施薬院とは、薬を調合して施薬する薬剤師のいる場所、敬田院とは、仏教の経典を学ぶ寺院で、つまり現在の大学のような場所です。

現在の四天王寺には悲田院のあとは残っていないようですが、四天王寺のある大阪市天王寺区内には、悲田院町(JR・地下鉄天王寺駅近辺)があり、地名としては残っています。このほか京都市東山区の泉涌寺の塔頭の一つとして悲田院があります。

上の門脇政夫さんも、敬老の日を決めるとき、養老の滝伝説だけでなく、この四天王寺の話なども知っていたようです。

その当時のもう少し詳しい経緯について書くと、そもそも1948年7月に制定された「国民の祝日に関する法律」においては、こどもの日、成人の日は定められてはいたものの、老人のための祝日は定められていませんでした。

このため門脇さんは、自らが提唱して開催されるようになった敬老会のうち、1948年9月15日に開催された第2回「敬老会」において、9月15日を「としよりの日」として村独自の祝日とすることを提唱しました。ちなみに、このときの門脇村長は、37歳であり、やり手バリバリの活動家だったようです。

その後、県内市町村にも祝日制定を働き掛けたところ、その趣旨への賛同が広がっていき、1950年(昭和25年)には、ついに兵庫県が「としよりの日」を制定するに至ります。1951年(昭和26年)には中央社会福祉協議会(現全国社会福祉協議会)が9月15日を「としよりの日」と定め、9月15日から21日までの1週間を運動週間としました。

こうした動きを受け、国も動きます。1963年(昭和38年)には、「老人福祉法」が制定され、ここに、9月15日が老人の日、9月15日から21日までが老人週間として定められ、翌1964年(昭和39年)から実施されるようになりました。

さらに1966年(昭和41年)に国民の祝日に関する法律が改正されて国民の祝日「敬老の日」に制定されるとともに、老人福祉法でも「老人の日」が「敬老の日」に改められました。

以来、2012年までのおよそ半世紀にわたって9月15日が敬老の日であったわけですが、その「伝統」もいまやなくなり、毎週9月第三月曜日がこの日、と定められるようになったわけです。

もっとも、伝統という意味では、9月には、重陽(ちょうよう)という五節句の一つがあります。旧暦9月9日のことで、現在では10月にあたり菊が咲く季節であることから、菊の節句とも呼ばれ、邪気を払い長寿を願う日でした。菊の花を飾ったり、菊の花びらを浮かべた酒を酌み交わして祝ったりしたといい、酒という点では上の養老伝説ともつながります。

現在では、他の節句と比べてあまり実施されていませんが、このことからもやはり9月10月というのは老いをいたわるにはちょうど良い季節のようです。

アメリカでも、9月の第一月曜日の次の日曜日がNational Grandparents Day(祖父母の日)とされているほか、エストニアでは9月の第2日曜日、ドイツでは10月の第2日曜日、イタリア10月2日といった具合です。

韓国でも10月2日が「老人の日」として記念日になっているほか、10月は「敬老の月」として記念月間に指定されています。重陽の習慣の輸入元、中国でも旧暦9月9日を「高齢者の日」と定めています。

さらに国際連合は、高齢者の権利や高齢者の虐待撤廃などの意識向上を目的として、1990年12月に毎年10月1日を「国際高齢者デー」とすることを採択し、1991年から国際デーとして運用しています。



日本の高齢者も毎年のよう増え続けており、高齢者人口は3186万人で過去最多総人口に占める割合は25.0%で過去最高となり、4人に1人が高齢者 65歳以上の高齢者という時代になっています。

100歳以上の人のことを、「センテナリアン」といいます。日本はアメリカ合衆国に次いで2番目に数が多く、推計51000人超もセンテナリアンがいるそうです。

国際連合は2009年、世界中に推計45万5000人のセンテナリアンがいると発表しており、まさに地球はセンテナリアン時代に突入しようとしているようです。

敬老の日を提唱した門脇さんは、1967年(昭和42年)から1979年(昭和54年)まで3期12年にわたり兵庫県議会議員を務め、自民党県議団幹事長、農林常任委員会委員長などを務めました。

2010年2月19日、急性呼吸不全により98歳で亡くなりましたから、もう2年長く生きていただいたなら、センテナリアンでした。

日本では、100歳の百寿を迎えた人には銀杯と共に総理大臣から祝状が送られ、長寿と生涯の繁栄を祝されるといい、アメリカ合衆国では、伝統的に大統領が手紙を送り、長寿のお祝いとしています。

このほかスウェーデンでは国王又は女王から電報が届くといい、多くの文化において、100歳の誕生日に贈り物を進呈するなど、何らかの祝賀を行う国は多いようです。

なので、ご近所にもし今度の敬老の日にセンテナリアンになる方がいらっしゃったら、銀杯とはいいませんが、せめてお祝いのお酒など差し上げてみてはいかがでしょうか。先手なり?あーん?と誤解されるかもしれませんが、喜ばれること必至です。

それにしても高齢化社会の中、我々もまたその予備軍ではあることには違いありません。高齢者予備軍のボクやワタシ、そして何も人生でいいことがなかったと思っているあなた。そんなことはありません。

長く生きていさえすれば、やがて国から表彰されるのです。センテナリアンを目指してお互い頑張りましょう。