4月になりました。相変わらずテレビも新聞も東北関東大震災と福島原発の話題で埋め尽くされていますが、少々気になったので、宮崎(鹿児島)の新燃岳の様子をネットで調べてみました。
ウェザーニュース社のホームページによると、東北地方で地震津波があった直後の3月13日、17時45分と18時15分頃に続けて二度の噴火が起きていました。久々の大噴火だったようです。最初に噴火したほうが大きく、噴煙の高さは火口上4000mまで達しました。
3月13日の噴火(写真:ウェザーニュース社HPより)
その後、3月22日の火山噴火予知連絡会による発表では、発表されま新燃岳は最盛期(2月上旬まで)に比べて、噴火活動は低下した状態が推移しているとのこと。ただし、地下のマグマだまりへのマグマの供給は続いており、マグマの上昇は断続的に続いていることから、今後も活動は続くとのことでした。
専門家により噴火活動は低下しているとの見解が示され、13日の噴火以降、10日ほどは穏やかな状況が続いたためこれを受け、気象庁は、爆発的な噴火により大きな噴石が3kmを超えて飛散する可能性は低くなったと考え、火口からの立ち入り規制区域を、これまでの半径4kmから3kmに縮小しました。
ところが、その翌日の3月23日にはまた、中規模の噴火があり、噴煙の高さは火口から1000mほど噴煙をあげており、相変わらず活発な噴火活動が続いているようです。
ところで、私は、この新燃岳周辺の住民の方々の避難計画を作る仕事に関わらせていただく機会があり、2月の終わりから3月のはじめにかけて宮崎市内に滞在していました。避難計画を検討する関係上、周辺の市町村のホームページなども見せていただきましたが、その中で、私にとってひときわ印象的だったエピソードがありましたのでここで紹介しておきます。
ご存知ように宮崎県では、昨年の5~6月頃から牛や豚などの家畜の病気である口蹄疫が著しくまん延しましたが、新燃岳のすぐ東側にある、高原町(たかはるまち)においても、口蹄疫が猛威をふるいました。高原町は人口一万人ほどの小さな町で、椎茸や山芋などの特産品のほか、宮崎牛による畜産業が町の重要な産業であり、口蹄疫の発生により多数の牛などの家畜が処分され、町の住民に大きな打撃を与えました。
口蹄疫が広がる前の5月に、高原町の広報誌「広報たかはる」は、4月に行われた「高原町総合畜産共進会」という牛の展覧会が町畜産振興センターにおいて行われたことを報じていますが、このときの会には肉用種々牛の部に74頭、乳用種々牛の部に21頭、肉牛枝肉32頭の合計127頭の出品があったと伝えています。町内の畜産農家による町内産宮崎牛や乳製品の販売は町の中心的な産業であり、これらがほとんど失われたということは町の人々にとって著しいダメージだったに違いありません。
高原町では次第に広がる口蹄疫をなんとか防ごうと全力を尽くされたようで、「広報たかはる」でもその7月号で「口蹄疫特集」まで組んで口蹄疫まん延を防ごう、と町の人々に奮起を促していました。
ところが、その翌月の8月号をみると、もう広報のどこにも口蹄疫予防に関する記事はなく、宮崎牛等の畜産に関する一切の記事が見当たらなくなっており、ただ、口蹄疫に関して全国から集まった支援金の額だけが記されていました。それまでの「広報たかはる」では毎号、町の特産であり、自分達の誇りでもある牧畜牛の記事を必ず掲載していましたが、この号に関しては一切の記事はなく、たださしさわりのない日常の記事だけが掲載されているのです。どこかに何か一行くらい書いてあるだろう、と思って捜してみたのですが、本当に牛のことについてはウソのように何も書いていないのです。
これを見て私は、町のシンボルともいえる牛を失った町の人々の悲しみを痛烈に感じました。おそらく、広報誌を作った町役場の人達は、牛たちの処分の状況や、その後の農家の動向などについては一切触れないことにしたのだと思います。広報誌でさえ、掲載することすらはばかれるような沈鬱な空気が町中にあふれていたのだと想像されます。町の人々の悲しみにおもんばかる役場の人達の思いやりと、その当時の町の雰囲気が、口蹄疫についてはまったく触れらていない、広報誌から伝わってくるようでした。
ちょうどそのころ、とある民主党前衆議院議員が、ツイッターで、「牛や鳥を大量に殺処分して、命を粗末にしていることに宮崎の大地の神様が怒り猛っているように感じる」と投稿していたそうですが、地元民の置かれている状況も正しく理解せず、そのような投稿をするなんて 言語道断です。町の人のこころをくみ取り、広報誌でもそうした人々の傷を刺激しないように、気配りをした高原町役場の方々と比べると大違いです。
そうした町中が悲しみにおそわれているさ中、その翌年に噴火した新燃岳の噴火は、高原町の人々に更なる試練を与えました。町の中心的産業を失った上に、たび重なるようにふりかかる災難を、高原町の人々がどのように感じているかは、想像するに余りあるものがあります。平時なら大きく取り上げられるであろう厳しい状況が、東北地方での災害が大きく報道される中、まだまだ続いるのです。
東北関東大震災からの復興が今後の日本の第一の目標には違いありませんが、その陰でこのように二重の苦しみを味わっている人々の救済もけっして忘れてはいけない、そう思います。(む)