アンティキティラの機械

先日、NHKのBS放送の録画をみていました。このブログでも時々引用する「コズミックフロント」という番組ですが、最新の宇宙科学を素人にもわかりやすく解説してくれており、なかなかのお気に入りです。

私が見たのは、「アンティキティラ島の機械」と呼ばれるものに関するもので、この機械は、長い間、ギリシャ沖のクレタ島の近くの海底に沈んでいましたが、1901年に古代の難破船の積み荷が発見され、様々な財宝と共に海綿採集者の手で引き揚げられました。

今からもう100年以上も前の話です。現代よりも当然科学は遅れており、この当時の人は大昔のからくり玩具程度のものと思っており、その複雑さや重要性は何十年もの間気づかれることがなかったそうです。

作られた時期が紀元前150~100年ころだということだけはその後しばらくしてわかったようですが、これと同じような複雑さを持った技術工芸品は、その後何百年も造られておらず、当初は本当にこれがそんな昔に作られたものかどうかが疑われたといいます。

何等かの複雑な機械らしいことは想像できましたが、それが何のために作られたかは長い間解明されず、発見から1世紀近くもの間、科学界の謎とされていたそうで、これがようやく何であるかが解明されたのは、ガンマ線やX線を用いた分析装置やリニア断層撮影装置などの最新の3D技術のおかげでした。

これらの最新の科学分析技術によって腐食し石化の進んだこの機械を調べたところ、これは実は最古の複雑な科学計算機であることがわかりました。多くの歯車が組み合わさっていることがわかったことから最古のアナログコンピュータとも呼ばれていましたが、その謎がようやく解明されたのは2006年11月のことだそうです。

問題は何に使ったのかで、多くの学者によってその制作目的が調査されましたが、結論として、機械の表面に書かれてあった文字などの分析からこれは天体運行を計算するために作られた古代ギリシアの歯車式機械であることが判明しました。

ギリシャの天文学者らにより進められた天文学と数学の理論に基づいて製作されたのではないかと推察されましたが、誰がいったいこうした精巧な機械を作ったかについてはいろんな議論が交わされました。

ひとつの仮説として、古代ギリシアにストア派という哲学研究の一派がありましたが、その一人の哲学者に「ポセイドニオス」という人がいました。

紀元前95年にエーゲ海南部のロドス島(現ギリシャ)に移り住み、哲学者であっただけでなく、政治家、天文学者、地理学者、歴史家、教師でもあり、とくに科学の研究で高い評価を得ており、この時代の最高かつ万能の知識人であったといわれています。

ロドス島から何度か科学研究のための海外旅行を行い、旅行した場所にはギリシャ、イスパニア、イタリア、シシリーなどの地中海沿岸だけでなく、現在のクロアチアであるダルマチアや現フランス・ベルギー・スイスとなったガリアやリグーリア、更には北アフリカ、アラビアの東海岸にまで足を延ばしました。

そしてイスパニア(スペイン)では潮の干満を研究し、その原因が月の運動にあることを発見したほか、天文学の分野では太陽の距離と大きさを測定し、また月までの距離の測定も行いました。

地理学の分野においてもアレクサンドリア(エジプト)とロドス島間の緯度差を高い精度で測定しており、船の速度と航海の期間などから、地球の全周長まで推定しています。

こうした様々な分野において膨大な著作をおこなったといわれていますが、現在はその断片しか伝わっておらず、古代ギリシア・ローマ時代の最大の天才といわれながらもその業績はいまひとつはっきりしていません。

しかし、共和政ローマ期の政治家、文筆家、哲学者であったキケロ(BC106~43年)が、ポセイドニオスは太陽や月や惑星の位置をしめす器具を組み立てたという記述を残しており、これが、このアンティキティラ島の機械と呼ばれる装置か、あるいはその原型になったものではないか、とする研究者が多いといいます。

また、ポセイドニオスと同時代の同じくギリシャ人の天文学者に「ヒッパルコス」という人がいましたが、この人は天空の46星座を決定した人として知られ、また恒星を1等星から6等星までの6段階に分け、世界で初めて三角法による測量を行ったことでも知られています。

アンティキティラ島の機械を詳しく調べたところ、月の運行の計算技術にこのヒッパルコスの理論が用いられていることがわかったそうで、このため、おそらくはポセイドニオスかヒッパルコスのどちらか、または両方が製作に関わっていたのではないかともとみられています。

この当時、ロドス島には天文学と数学の中心として知られていたアカデミーが設立されていたそうで、この機械はそこで製作されたものと考えられており、その指導者がこの二人ではなかったかと研究者たちは言っています。

機械が積まれていた船が沈没した地点は、ギリシャ沖のクレタ島付近であり、研究者たちは、この当時のローマ帝国の将軍ジュリアス・シーザーがこの地を征服した際にその凱旋式を称えるため、この機械をこの島から略奪されたその他の財宝と共に船でローマに運ぶ途中、その船が沈没したのではないかと考えています。

地図をみないとわかりにくいのですが、ギリシャのアテネより約80kmほど南西に行ったところにコリントスという町があります。ちょうどペレポネソス半島とギリシャ本土との間の狭い「陸峡」付近にある都市です。

アンティキティラ島の機械は、ここから貨物船に載せられて、ローマへ運ばれる途中だったのではないかといわれており、その運搬に至る経緯は不明ですが、学者たちの共通見解としてはこの機械自身はギリシャで作られたことは間違いないということです。

すべての使用説明はコイネーとう現代ギリシャ語の元になった言語で書かれており、これが根拠となっているようです。

紀元前150~100年ころのギリシャは、その基礎となったマケドニア王国が滅亡すると内紛と分裂を繰り返し、古代ローマの侵略を受けてその多くの地域がローマの属州のような状態になっていました。

こうしたこの混乱の中で、ポセイドニオスやヒッパルコス以上に高名な学者のアルキメデスもローマ軍に蹂躙されて殺されています。

アルキメデスが住んでいたシラクサは、イタリア半島南部のシチリア島にあります。もともとはギリシャ人が開拓した島です。

アルキメデスの時代には、アフリカ東部の国のカルタゴの侵略を受け、シラクサのある島東部を残してギリシア人とカルタゴ人が対峙するような状態になっていましたが、ここにローマ軍が乱入。そのさなかにアルキメデスも殺害されました。

ポセイドニオスやヒッパルコスやアルキメデスは、住んでいた場所こそは違いましたが同じギリシャ人ということになりますが、このローマ人に殺されたアルキメデスもこのアンティキティラ島の機械の開発と何等かの関わりがあったのではないかと言われています。

2008年に発行されたイギリスの科学雑誌ネイチャーで発表されたアンティキティラ島の機械研究プロジェクトの最新報告では、この機械の概念はこの当時ローマの植民地になりつつあったシラクサに住んでいたアルキメデスとも関係があると考えられると発表しています。

その根拠としては、前述のキケロが記した哲学対話集「国家論」という書物に、太陽、月、その他当時知られていた5つの惑星の動きを予測する2つの装置についての記述があり、これは、アルキメデスにより作られたことが確認されているためです。

紀元前212年にシラクサがローマ人に包囲されて彼が死んだのち、この機械はローマの将軍マルケッルスによって、ローマに運ばれました。マルケッルスはアルキメデスに敬意を表し、この機械をマルケッルス家の家宝としたそうで、ある知人に機械について「覚えた説明」を語り、実際に機械を動かして見せた、と言われています。

このため、学者の間には、少なくとも一つ以上のアルキメデスの機械がおよそ紀元前150年の時点まで機能しており、そしてその機械は、おそらくかなりアンティキティラ島の機械と似ていたのではないかと指摘しています。

気になるこの機械の構造ですが、凝縮されたその形状や部品の複雑さはとても紀元前のものとは思えないほどであり、18世紀の時計と比較しても遜色ない程だそうです。30以上の歯車を持ち、歯車の歯は正三角形で、クランクを回転させると機構が太陽、月やその他の天体の位置を計算することができます。

機械の目的が地上にいる観測者を基準とした天球上での天体の位置計算であるため、当然のことながら天動説モデルが採用されています。装置には主な表示盤が3つあり、1つは前面に、2つは背面にあります。

前面の表示盤には2つの同心円状の目盛が刻まれていて、このひとつは365日のエジプト式カレンダーを表示し、もうひとつにはギリシャの黄道十二星座の記号が刻まれています。この前面の表示盤には3つの針があり、1つは日付、残りは太陽と月の位置を示しており、月の表示針を動かして月と太陽との角度が求められと同時に、太陽のほうを動かしても月との角度が表示できます。

このほか、機械に刻まれた文字には火星と水星に関する記述があり、はっきりしたことはわからないようですが、こうした惑星の位置を示すこともできたのではないかと推定されており、おそらくは主要な5惑星全ての位置を表せたのではないかといわれています。

背後にある表示板のほうの目盛は螺旋状に配置されていて、19年周期で235回の月の朔望を表現するために1周47目盛りが刻まれています。この周期は年々微妙にずれていくため、これを修正するための目盛も付加されているそうで、さらにもうひとつの表示盤で日食や月食が起こる日も予測できます。

英国、ギリシャ、米国からの専門家から成る、アンティキティラの機械研究プロジェクトチームは、2008年の7月にこの機械の青銅の表示盤上に「Olimpia」の文字を発見しましたが、これは古代ギリシャのオリンピックの開催日を示すと考えられました。

さらにこの表示盤の4区画には年を表す数字と二つの競技祭典の名が刻まれていたそうで、これは古代ギリシャの全国的な競技祭典の名前だったそうです。

このため、この機械は日蝕や月食といった天体現象を予測や占星術といった目的のために使われる以外に、この当時の大学や寺院、博物館や公会堂といった一般市民が集まるところで展示されて、一般向けに公開されていたのではないかという意見があります。

しかし、展示用としては小さすぎるのではないかとい意見もあり、現代のラップトップコンピューターのような小型化を目指していたのではないかという学者もいます。

現在までのところ、前後の表示盤は公共の場での表示するには小さすぎるのではないかという意見が大勢を占め、公共の場所に固定されて展示されていたというよりも、携帯性を追求していたのではないかという意見のほうが強いようです。

機械には扉のような板が付属しており、そこには少なくとも2000以上の文字が刻まれていたらしいことから、この板は取扱説明書ではなかったかとも言われており、機械に説明書がきちんと付随しているということは、この機械が個人用の携帯機器であると主張する学者もいます。

さらにこの機械は非専門家の旅行者のために作られたのではないかと推測している学者もおり、その根拠は、「説明書」の文章の中によく知られた地中海沿岸の地名が数多く判読されていることをあげています。

それにしても、これほどすごい機械が何故その後の世に伝承されなかったのでしょうか。これと同じもの、あるいはこれ以上のものは、現物があったのであればこれを見本として開発されてもおかしくなかったのではないかと思われます。

その答えのひとつは、こうした優れた古代ギリシアの発明品の品々、すなわちハードとは異なり、アルキメデスらの優れた学者が編み出した数学などの多くの科学技術そのもの、つまりはソフトが、その後のローマ時代以降には正しく伝承されなかったことが考えられます

アルキメデスは、エジプトの大都市アレクサンドリアの学者などと交流が深かったといいますが、アルキメデスからアレクサンドリアに伝わった数学などの学問はその多くがアルキメデスの文章を引用していたにも関わらず、包括的にはまとめられていなかったということです。ようするにそれを理解できるだけの優れた学者がいなかったのです。

ギリシャの国々を滅ぼしたローマ人たちも同様であり、ギリシャ人の優れた発明の数々を没収しておきながら、ついにはそれを生かしきれなかったものと考えられます。

アルキメデスの業績はその後、東ローマ帝国の数学者で建築家のミレトスが、530年に編集し、6世紀には広くその内容が一般に知られるようになりましたが、これらもまた中世までに廃れてしまいました。

その後、14~16世紀のルネサンス期になって、ようやく多くの科学者の目に触れるようになり、その発想の元を提供する役目を持つようになりました。

その後1906年には、アルキメデスがこれらの数学理論を羊皮紙に書いた「アルキメデス・パリンプセプト」が発見されたことから、彼が得た数学的帰結や知られていなかった洞察の過程についての情報が広く一般に知られるようになりました。

しかし、このときにはもうアンティキティラの機械が発明されてからは2000年近い月日が経っていたわけです。

よく歴史に「もしも」は禁物といわれますが、もしアホなローマ人が聡明なギリシャ人たちを駆逐しなければ、あるいは迫害したとしてもその学問を理解するだけの能力があれば、この古代ギリシャの優れたラップトップコンピュータは更なる発展を遂げ、現代人は今よりもはるかに高度な文明を持っていたかもしれません。

このアンティキティラ島の機械に関して、最新の研究を指導しているイギリスのカーディフ大学のマイケル・エドマンド教授は、この装置の価値について、こうした科学技術的な価値以上に、美術品としての価値に言及しています。

「歴史的にまた希少価値から見て、私はこの機械はモナ・リザよりも価値があると言わねばならない」とまで言っているそうですが、実際の美術評論家からみてどうなのかも聞いてみたいところです。

が、私もネットの写真を見る限りは美しい機械だという印象を持ちました。優れた機能を持つものは必然として優れた外観を持つものだ、ということはよく言われます。

我々日本人もまたこうした優れた精密機械を数多く造ってきた民族として知られています。長引く不況や災害に見舞われ、今はあまり元気がありませんが、その技術の発揚はいずれまた自らを救っていくだろう……そう信じたいところです。

ただ、そのときかつてのギリシャ人を滅ぼしたローマ人のような仇敵が日本人の前にも現れないことを祈りたいものです。