塔のはなし

週末の昨日は、愛妻のタエさんのお誕生日でした。なので、「山の神供養」ということで、お昼から外出し、おしゃれなランチを食べたあとお買いもの……というパターンで、財布の中身は「終末」の一日でもありました。

とはいえ、師走の町は賑やかで、いつもはひっそりと山の上で暮らす身にとっては、久々の良い刺激になりました。今日からは三連休ということでもあり、その前日ということもあってか、いつも平日には人の少ない三島のショッピングセンター「SUN TO MOON」も普段よりも人の出が多かったようです。

明日23日は天皇誕生日で、天皇陛下ももう79才になられます。「今上天皇」という呼びかたもあるようですが、これは「在位中の天皇」を意味する用語だそうで、恥ずかしながらこのことを私は知りませんでした。

ただ、「今上天皇」というのは正式な敬称ではないそうで、諸外国の国王・女王などもそうですが、一般的には「陛下」のほうが正式な呼称で、皇室典範でもそう規定されているということです。

従って、正しい敬称は、「今上陛下」または「天皇陛下」であり、多少公的ではない場所では、陛下もしくは、聖上と呼ばれ、古い表現では帝、天子様と呼ばれたようです。

このように天皇にいろんな呼称がある理由としては、そもそも日本や唐以前の中国では、敬意を示すものについてはっきりした言い方を持たない文化があり、当代の天皇の呼称もあまりはっきりしたものがなかったためのようです。

しかし、大正天皇や昭和天皇などの過去の天皇と並べて表記したい場合には「今上陛下」では座りがわるく、「今上天皇」とすると並列したときに客観的な表現に感じられるため、新聞雑誌やテレビなどのメディアではこちらが使われる頻度が高くなったということです。

なお、皇室典範でも「陛下」のほうが正式になっていることから、皇室関係者自らが「天皇」と呼称することは少ないそうで、皇后美智子さまも公の場を中心として「今上陛下」、「陛下」と呼ばれることが多いということです。

さて、この12月23日は天皇誕生日であるとともに、1958年に東京タワーが完成した祝いの式典があった日で、東京タワーが完成した日ということにもなっています。

その高さ333mは、無論、現スカイツリーが完成するまでは日本で最も高い建築物であり、この当時の費用で約30億円をかけ、一年半の間に延べ22万人もの人員を要して完成された本邦一の塔でした。

ところで、この「塔」とは、本来は西洋建築における見張り台のような軍事的目的の構造物や宗教的な意味を持たせるために造られた建造物を指す用語であり、日本では江戸時代までは仏教の構造物のみを指して使用されていました。

五重塔や多宝塔などがそれであり、そもそもは仏教用語でしたが、明治以降は西洋建築物、すなわち英語で言うところの tower の概念も「塔」に含まれるようになり、様々な高構造物に対して使用されます。ただし、この言葉の用法に厳密な定義が存在するわけではありません。

塔のほかにも、「超高層建築物(超高層ビル)」という用語がありますが、こちらも、どの程度の高さ以上の建築物を超高層ビルと呼ぶかについては、統一された明確な基準はありません。「広辞苑」でも、「15階以上、または、100m以上の高さの建築物を超高層建築と呼ぶことが多い」としているだけです。

従って、日本初の超高層ビルとされるのは霞が関ビルディング(147m)やこれ以前に最も高い建築物であったホテルニューオータニ(73m)なども、竣工当時には超高層ビルとは呼ばれてはいませんでした。

法律でも「超高層建築物」の定義はないということですが、ただ、「建築基準法」では高さが60mを超える建築物に対しては、それ以下のものと異なる構造基準が設定されています。そして一応、「60m」という高さが、超高層建築物と呼ばれるものとそうでないものの境界となっているようです。

このため、超高層ビル群の多い新宿区でも、「新宿区景観形成ガイドライン」の中で「超高層ビル」の対象を「高さ60mを超える建築物」としているということです。

ちなみに、現在日本で一番背の高い超高層ビルは、横浜ランドタワーの296mで、これに次ぐのが大阪の「りんくうゲートタワービル」の256mです。いずれも東京タワーには及ばず、またスカイツリーと比べてもその高さは大きく引き離されています。

この「塔」という言葉ですが、そもそもはインドのサンスクリット(梵語)の「stūpa(ストゥーパ)」が語源で、ももともとは「…を積み上げる、蓄積する」という意味だったようです。古代インド仏教において、饅頭(まんじゅう)型に盛り上げた土塚状の墓のことを指すことばだったようで、仏教が日本に伝来してからは「卒塔婆」のことをさすようになったようです。

stūpa は中国で「窣堵坡」とその音がそのまま漢訳され、これが日本では「卒塔婆」と書かれるようになりました。やがて、この「卒」と「婆」が抜けて単独に「塔」と呼ぶようになりましたが、そもそものその発祥の意味からすると、「塔」とは「仏塔」をさす用語になります。

こうしたstūpa(仏塔)を造るという習俗は、初期の仏教において、釈迦やそのほかの聖者のゆかりの品や舎利、すなわち遺骨や遺髪、歯などを、聖なる記念品や遺品・遺物として土中に埋め、盛り土したことに始まります。

当初の仏塔は盛り土の上を日干し煉瓦で囲っただけの建造物だったそうで、釈迦の存命中、最初のストゥーパがインドに造られていたということが、日本の古い宗教書「十誦律」に記されているということです。

これを造ったのは、釈迦の弟子のスダッタ(Sudatta シュダッタ)で、この人はインドのコーサラ国の富豪だったそうですが、その富を捨てて釈迦に弟子入りしたあと、釈迦にその説法場所として「祇園精舎」という寺院を建立して寄進したことで知られています。

釈迦が諸国を遊行して説法をして回っている間は、釈迦に接することができなくなると嘆き、せめて身近に縁の物を置かせてほしいと願い出て釈迦の爪と髪を授かり、これらを納めたのが「ストゥーパ」であり、このため、爪塔・髪塔とも呼ばれたということです。

また、釈迦が入滅したのち、その遺骨の所有を巡って弟子たちの間で争いが起こりましたが、その弟子の一人のドローナ(ドーナ)という僧が他の弟子を仲介し武力衝突は回避されたそうで、これによって遺骨は8つに分けられることになりました。

その遺骨の分配の席では、この武力闘争に参加しなかったもう一人の弟子に釈迦の遺灰が譲られたということで、分配者ドローナには分配に用いた瓶が与えられました。このため釈迦の8つの遺骨と合わせて全部で10のストゥーパが、最初の「仏舎利塔」として各地に建てられることとなりました。

それから200年ほどが経ったあと、敬虔な仏教徒であったマウリヤ朝のアショーカ王がインド統一を果たし、このとき、全国8個所に奉納されていた仏舎利のうちの7か所の仏舎利を発掘しました。

そして、遺骨は細かく粉砕しひと粒ひと粒に分け、灰塵は微量ずつに小分けする作業を行って、最終的に周辺国も含めて8万余の膨大な寺院に再配布を実施しました。

しかし、仏教の伝来国である中国や日本にまでこの本物の仏舎利が渡るわけはなく、中国では多くの僧が仏舎利の奉納されたインドやタイに赴き、仏舎利の収められたストゥーパの前で供養した宝石類を「仏舎利の代替品」として持ち帰り、それを自寺の仏塔に納めました。

これは日本も同じであり、供養した宝石を仏舎利の代用として奉納する手法は古くから日本でも行われてきました。

こうして、東アジアを中心に、こうした仏舎利塔を元祖とする仏塔が各地で造られるようになり、中国では三世紀頃の三国時代から仏塔が造られはじめました。ただ、中国では中国古来の楼閣建築の影響を受けて、インドのストゥーパとは異なり、重層な高層建築物として仏塔が建てられるようになりました。

この中国で造られた仏塔の様式は、その強い影響下にあった東アジア文化圏の朝鮮や日本にも伝えられましたが、その外観はそれぞれの文化の元に変わっていき、中国オリジナルものもとはまた別のものになっていきました。ただ、遺物を納める「器」としての仏塔の位置づけは踏襲されました。

日本でもその仏塔の様式に中国の影響を強く受ました。ただ、日本様式の仏塔は、元来のストゥーパ同様に経文などの聖なる品を納める小さな塔もあれば、楼閣様の独特の塔も造られ、これらの塔は必ずしも中国のような重層建築物ばかりというわけではありませんでした。

一方、タイやインドネシアなどの東南アジア文化圏では、元来のストゥーパの形状がほぼ忠実に引き継がれ、その後の中世時代には「石造」の仏塔が多く造られるようになり、比較的原形に近い「パゴダの様式」と呼ばれる仏塔になっていきました。

ただし、このパゴダは、中国や日本の仏塔が遺物を納める「器」であったのに対し、釈迦が住む「家屋」として受け継がれ、信者が出入りする建築物に変化しました。しかし、これを誤解した西洋人は、パゴダこそが本来の「仏塔」と考えたため、英語では「仏塔」を指す用語が pagoda になっています。

ちなみに、仏教文化圏以外の地域、すなわち、中近東や欧米、古代アメリカなどでの「塔」は、見張り台などの軍事目的の建造物や宗教的建造物であり、「地上と天上を結ぶ象徴」としてのモニュメントのような意味合いを持つものとして発展してきました。

したがって、単なる高い建物というわけではなく、人を天上へと運ぶというような意味があり、こうしたものを英語では tower というようになりました。軍事目的であれ宗教目的であれ、人が立ち入ることを前提する構造物であり、このため、これ以外の目的を満たすために高くなった構造物、例えば「煙突」は tower(塔)とは呼ばれません。

さて、こうして日本にも仏塔が伝来しましたが、日本にはその前からそもそも古神道において「神霊」が宿るとされる山や森の領域を信仰する風習があり、森林や神木、鎮守の森や神体山、あるいは特徴的な岩や滝などを崇拝し、ここに石碑のようなものを建てる「石塚信仰」がありました。

そして、こうして神道で崇められていた石塚などが仏塔と結びつき、神々を祀る「供養塔」となっていきました。「供養」ということばはそもそも仏教用語でしたが、日本古来のこうした神仏を祀る行為と結びつき、神道でもこの行為が「供養」と呼ばれるようになりました。

こうした供養塔は、後年亡くなった人の「墓」を意味するようにもなりましたが、本来は山や森などの自然に対して祈念や祈願を行い、「そこに宿る命」が荒ぶる神にならぬように、慰霊や鎮魂として祀ったものでした。

こうした供養塔の中には、仏教寺の五重塔などを模したものもありましたが、当初はただ単に石を積み上げたり、石版状のものを立てたりするだけのものが多かったようです。そしてこの塔の前に食料として捕獲した魚や鯨などの獲物のほか、包丁や人形などの器物、道具などをお供えし、森羅万象に命が宿るとされる神々を崇めたてました。

一方、こうした神道と結びついた供養塔とは別に、「塔」という用語を単独で使う場合、これは仏教寺の「仏塔」を指す言葉として使用されていきました。したがってたとえば吉野ヶ里遺跡で再現されたような古代の櫓や中世の城郭建築に見られる天守などを「塔」と呼ぶことはありませんでした。

この風習は、江戸時代まで続きました。しかし、明治以降に西洋文明が日本に入ってきたとき、背の高い西洋建築物を指す用語のtower に該当する適当な日本語がみつからなかったことから、この訳語として仏教で使われていた「塔」の文字がそのまま使われるようになってしまいました。

この結果、現在までのように背の高い構造物はすべて「塔」と呼ばれるようになり、電波送信の高いアンテナや送電のための構造物などには「塔」の字があてられるようになりました。しかし、前述のように「塔」の対訳英語である towerの意味は本来、人の出入りができる軍事的、あるいは宗教的な構造物です。

したがって、現在我々が「塔」と呼んでいる電波塔などは、人の出入りできるような構造物ばかりではなく、ましてや江戸時代までの本来の「塔」である仏塔でもないため、厳密的には tower とも「塔」とも呼ばれるべきではありません。

ただ、東京タワーやスカイツリーは、電波塔ではあるものの実際には人が出入りする建造物であるため、towerと呼んでも差し支えないことになります。しかし、軍事的・宗教的構造物でもなく、このあたり「塔」といえども、実にカテゴライズしづらい構造物です。

ちなみに、塔をかぞえるときには、「基」や「層」を使いますがこれも仏塔由来と考えられます。電波塔の場合、「基」は使うことがあるかもしれませんが、「層」は使いません。このことからも電波塔は、日本本来の「塔」を意味するものではありません。

日本に伝播した本来の「塔」すなわち「仏塔」は、五輪塔や宝篋印塔(ほうきょういんとう)、無縫塔(むほうとう)などのように、墓塔・供養塔などに使われる小型のものが多く、石造や青銅製のものがほとんどです。

こうした小型の塔の形は時代の変遷を経て大きく変わったものの、釈迦のお墓であったストゥーパとその意味は変わっておらず先人を供養するためのものであり、日本でも貴人といわれるような人の死後、これを供養するためにその信奉者によって立てられたものが多いようです。

一方、大きい物では層塔・多重塔と呼ばれるものも数多く建築されており、2階建て以上の大規模な仏塔が各地に建造されています。

日本では、各地の仏教寺院や神社などに木造の五重塔や三重塔があり、地区のランドマークとなっているものも多いようです。木造塔のほか、石、瓦、鉄製の塔もあり、近代以降は鉄筋コンクリート造の塔もあります。

古い時代に建造され、現存するものには三重塔・五重塔などが多く、多層塔としてはほかにも十三重塔や九重塔がありますが、木造の九重塔の現存するものはありません。

ただ、奈良県桜井市の多武峰(とうのみね)にある談山神社(たんざんじんじゃ)には木造の十三重塔が残されています。ただし、これは楼閣形の塔ではなく、二重から十三重までの屋根は密に重なっていて、屋根と屋根の間にはほとんど空間がありません。

ちなみに、談山神社は今は神社になっていますが、神仏分離以前は寺院であり、多武峯妙楽寺(とうのみねみょうらくじ)といいました。鎌倉時代に成立したお寺さんで、藤原氏の祖である藤原鎌足の死後、その長男で僧の定恵が唐からの帰国後に、父の墓を摂津安威の地から大和のこの地に移し、十三重塔を造立したものです。

中国の層塔は最上階まで登れるものが多いのに対し、こうした日本の木造多重塔、とくに五重塔は、現代の建築物のような五階建ではなく、内部は軒を支えるために複雑に木組みがなされています。これは耐震性を強化するための知恵であり、この構造のために普通は上層に登ることはできません。

この点、同じ宗教上の構造物として建てられた西洋のtowerが建物内に入れるのと対照的です。ただし、内部にはしごを有していて登ることができる塔もあるにはあるということです。が、そもそもこうした仏塔が高層化したのは、境内に入れない一般の人々が離れた場所から参拝できるようにという配慮からのようです。

現在では宗教と関係なく建てられた観光用のものもあり、こうした近代の建築技術を使った塔では上部まで登れるものも多いようです

なお、層塔と呼ばれるものには、「多重塔」と「多宝塔」の二つの様式があります。多重塔とは、三重塔や五重塔に代表されるもので、平面上から見て四方形(円形や多角形もある)の空間を何層にも重ねたもので、その源流は、中国の楼閣であると考えられています。

一方、多宝塔は本来、多宝如来と釈迦如来の2つの仏像を安置した塔のことです。通常、一層目が方形で、二層目が円形をした二層形式のものが一般的ですが、その外観は一定していません。また、木造の他に長野の常楽寺多宝塔などのように石造の多宝塔も存在します。

さて、今日の塔の話は、これくらいにしたいと思います。海外の塔の話もしようかと思いましたが、とんでもなく長くなりそうなので、またの機会にしたいと思います。

ちなみに、ヨーロッパで過去に造られた最大の塔は、エッフェル塔のような近代構造物をのぞけば、世界の七不思議にも数えられるアレクサンドリアの大灯台ではないかと思われます。

昨日のブログのテーマ「アンティキティラ島の機械」と同様に紀元前に造られたそうで、灯台の全高は約134mもあり、大理石造りだったということです。1650年余もの長いあいだ地中海に臨む一大建築物であったといいますが、14世紀に2度の地震に遭って崩壊したそうです。

こうした塔を初めとして、ヨーロッパ各地には探訪してみたい魅力的な塔がたくさんあります。以前私も訪れたことのあるスペインのサグラダ・ファミリアもそのひとつです。こうした美しいヨーロッパの建築物のエピソードなどもいずれ折を見てこのブログで取り上げてみたいと思います。

さて、今日を含めて三連休という方も多いと思います。この休みを利用してスカイツリーに上るという方もおられるのではないでしょうか。もしかしたら、明日は東京タワーの完成記念日ということでこちらに上る方もいるかもしれません。

あるいは、古都を訪れ、五重塔や三重塔を拝観される方も。いずれにせよ、高いところに登るのは気持ちの良いものです。伊豆には高い塔はないようですが、高い山はありますので、明日以降、天気が良ければも登ってみたいと思います。皆様方も良い連休をお過ごしください。