コクリコの花


先日からひいている風邪はかなりよくなったものの、のどをやられていて、声が魔法使いのジイさんのようです。もとからあやしいジジイなのですが、これが魔法使いのような声になるといかなるキッカイな人物になっているだろうかはご想像にお任せします。

あいかわらず外へ出る元気もまだないので、水仙やアロエ見物のための下田行きは今週末考えていましたが、来週にしたほうがいいかな~とおもったりしています。なので、この週末はコタツに入って、正月に録り溜めてあった映画などをみて過ごすことにしましょう。

昨夜のテレビでも、一昨年前に話題になったジブリ映画の「コクリコ坂から」を放映していました。前から気になっていた話題作でしたが、東京ではついに見に行く機会もなく、伊豆へ来てからはビデオでも借りに行こうと思っていましたが、思いがけなく放映されるということで、ここぞとばかりに録画してじっくり鑑賞させていただきました。

感想としては、とくに派手な描写のある映画ではないものの、全般を通して爽やかな空気が流れているような内容であり、雰囲気づくりといい、絵もきれいでなかなかよかったと思います。誰しもが見たあとにホッとするといったストーリーも単純ながらよかったのではないでしょうか。

この映画、1964年に開催された東京オリンピック前年の1963年5~6月に時代を設定し、その舞台を横浜近くの町にしたということですが、登場する学校や病院などはすべて架空であり、背景画などもこの当時の横浜の風景を想像して描かれたようです。

が、いつかどこかで見たことのあるような風景ばかりだったような気がするのは、私が昔育った広島や山口でも同じように坂を下った先に海が見える風景があり、これと重ね合わせてみていたためでしょう。

映画の主題歌は、1976年に放映されたテレビドラマに使われていたもののリバイバルで、これを唄っていたのは森山良子さんです。「さよならの夏」というタイトルで、この当時高校生だった私は森山さんの声が大好きで、たしかLPも持っていたと思います。

そしてこの曲もその中に入っていたはずであり、どうりでこの映画のプロモーションが一昨年全国で大々的に繰り広げられていたとき、どこかで聞いた曲だよな~と思ったわけです。

作曲は数々の昭和歌謡を手掛けてヒットを飛ばした「坂田晃一」さんで、有名なヒット曲としては、ビリーバンバンの「さよならをするために」とか、西田敏行の「もしもピアノが弾けたなら」などがあり、これらは今すぐにでも歌えそうです。

作詞のほうは、「万里村ゆき子」さんとうことですが、失礼ながらあまりヒット曲はなく、この「さよならの夏」が最たるものかもしれません。ただ、ほかに岩崎宏美さんが歌った「すみれ色の涙」もこの人の作詞であり、これもそこそこヒットしましたね。

妙に懐かしいような哀愁を感じさせる名曲で、この曲をバックにアニメながらも昔ながらの横浜の風景が流されるこの映画をみて、昔見たふるさとの海辺の風景などを思い出されたのは私だけではないと思います。

光る海に かすむ船は
さよならの汽笛 のこします
ゆるい坂を おりてゆけば
夏色の風に あえるかしら
わたしの愛 それはメロディー
たかく ひくく 歌うの
わたしの愛 それはカモメ
たかく ひくく 飛ぶの
夕陽のなか 呼んでみたら
やさしいあなたに 逢えるかしら

こうした曲を聞くと、広島の港の高台から海を眺めて過ごした少年時代を思い出します。太陽の光できらきら反射している海を行きかう船を見ながら、かつての高射砲陣地の跡が残るその高台の草原に寝っころがっていると、ときおり本当に汽笛が聞こえてきて、ああいい気持ちだな~と子供心に感じたことなどが昨日のことのように思い出されます。

今、日本国内においてこうしたのんびりした港風景が見れる場所というのがどのくらい残っているのでしょうか。少なくとも広島港の湾岸はほとんど宅地開発されていて、こうした場所は残っていないでしょう。

この映画の舞台となった横浜もまたしかりであり、へたに横になって海など眺めていようものなら、浮浪者と間違われてしまうに違いありません。

ただ、ここ伊豆ではこうした海の見える高台に草原が残っているような場所も多いと思いますので、これからもう少し暖かくなったら、そういう「特等席」を探して山々を行脚してみるもの良いかもしれません。これはこれで楽しみです。

ところで、「コクリコ坂から」という題名は、1980年代の少女漫画雑誌に掲載されていた同名の漫画のタイトルそのままということで、この「コクリコ」というのはフランス語で「ひなげし=ポピー」のことだそうです。

ヒナゲシは、漢字では「雛芥子」と書きますが、このフランス語のコクリコにも当て字があり、「雛罌粟」と書くようです。ヨーロッパ原産のケシ科の一年草で、あのアヘンなどを作る芥子(けし)の一種ですが、園芸品種として改良されたものであり、アヘンのような薬効はほとんどないようです。

ひなげしは、別名虞美人草(グビジンソウ)ともいわれます。そのいわれは、中国の伝説に由来していて、秦の時代の終わりごろの武将の「項羽」の虞(ぐ)という愛人、つまり「虞美人」にまつわるものです。

三国志の世界のお話ですが、項羽はその領地である中国の大地をめぐって仇敵の劉邦と長年戦ってきましたが、あるときついに劉邦に敗れ、垓下(がいか)という場所に追い詰められます。

項羽軍を完全包囲した劉邦は勝ち誇り、ここで自国の楚の国の歌を配下の兵士たちに歌わせたため、これを聞いた項羽側は大いに嘆き、このことから「四面楚歌」という言葉が生まれました。

このあと項羽は虞美人という愛人と別れ、死を覚悟して敵中を突破してついには果てます。その敵中突破の前に項羽が詠った歌が「垓下の歌」といい、虞美人はこの歌に合わせて舞いを舞ったといいます。その内容は、

力拔山兮氣蓋世 (力は山を抜き、気は世を覆う)
時不利兮騅不逝 (時利あらずして騅逝かず)
騅不逝兮可奈何 (騅逝かざるを如何せん)
虞兮虞兮奈若何 (虞や虞や汝を如何せん)

という、自分が死したあとの虞美人の行く末を案ずる歌でしたが、当の本人の虞美人はこの歌を聞きながら舞ったあとに自害してしまいます。彼女を葬った墓の前には、次の年の夏に赤色のヒナゲシの花が咲き、それからは毎年のように咲くようになったといい、こうした伝説から、ヒナゲシのことを虞美人草と呼ぶようになりました。

同名で夏目漱石が明治40年に小説を書いていますが、その内容は、許婚(いいなづけ)の関係にあった二組の男女の話が絡まって展開していく中で、そのうちの一人の女性の利己と道義の相克心理を描いたものです。

漱石の小説の中ではもっとも地味なもののひとつであり、男女関係の内面をえぐろうとした意欲作であったものの、登場人物にもあまり魅力のない社会小説のような内容であり、虞美人草やコクリコ坂の物語のような悲しい、あるいは哀愁を帯びたラブストーリーが大好きな日本人にはあまり受けませんでした。

このヒナゲシことポピーは、耐寒性の一年草で、初夏に直径5~10cmの赤・白・ピンク・黄・オレンジなどの様々な色の花を咲かせ群生するため、日本各地の庭園で植えられて、「ポピー祭り」なるものがよく開催されているのを目にします。

改良されて八重咲きの品種が多いようで、八重というと豪華に聞こえますが、アヘンがとれるケシやオニゲシに比べるとずっと華奢なかんじで、薄い紙で作った造花のようにも見えます。いかにも弱々しく、すぐに折れてしまいそうな風情があることから、こういう悲恋の物語における象徴花としても使われることが多いのでしょう。

花言葉も、恋の予感、いたわり、思いやり、陽気で優しい、忍耐、豊饒などなどであり、やさしくて芯の強い女性を想像させるようなものが多く、およそ私のような50過ぎのオヤジには似つかわしくない花です。

もっとも、ヒナゲシの花言葉には「妄想」というのもあり、こちらは私にぴったりですが……

この花は、このようにひ弱なイメージがあることから、ヨーロッパでは葬儀の際などに良く使われるようで、この花に対するイメージは日本で言えば「菊」のような印象があちらの人にはあるようです。

とくに第一次世界大戦においてイギリスとその同盟国であった諸国では、赤いポピーがこの戦争における犠牲の象徴とされていて、フランスでもその国旗にある赤色はこの花の色を表しているそうです。

毎年11月11日が「リメンブランス・デー(Remembrance Day)」とされていて、これは1918年の11月11日に第一次世界大戦の講和条約が締結されたことからこの日を記念日としたものであり、イギリス中心としたヨーロッパ各地ではこの日に追悼記念式典が行われます。

イギリスでは、「ホワイトホール」とよばれる中央省庁や政府機関が数多く連立する地区の戦没者記念碑前に女王陛下をはじめ首相や官僚が集まり、戦没者を偲んで毎年この日の午前11時に2分間の黙祷が行われ、ヒナゲシ(ポピー)の花輪が捧げられます。

何故ポピーの花かというと、第一次世界大戦中に、ヨーロッパで戦場になったベルギーやフランスの野では、この当時ポピーの花がたくさん咲いていたそうで、数あるポピーの花の中でもとくに赤い色が戦死者の血の色を思わせることから、赤い色のポピーの花が戦死者のシンボルになったということです。

1915年に、カナダ軍医であり、兵士としてフランスのフランドル戦線で戦ったジョン・マックレア(John McCrae)という人が書いた、戦争の犠牲者を悼む詩も大きく影響しているといわれ、この詞は「In Flanders fields(フランダースの野にて)」という題名でヨーロッパ中で広く知られ、有名です。そのまま引用すると、

“ In Flanders fields “

In Flanders fields the poppies blow
Between the crosses, row on row
That mark our place; and in the sky
The larks, still bravely singing, fly
Scarce heard amid the guns below.

フランダースの野にポビーがなびく
十字架の間に、漕ぐように、
これが私たちの場所、そして空には
ひばりが、雄々しく歌って、飛んでいる
銃の下ではほとんど何も聞こえない 。

We are the Dead. Short days ago
We lived, felt dawn, saw sunset glow,
Loved and were loved, and now we lie
In Flanders fields.

私たちは死んだ。数日前に
私たちは生きた、夜明けを感じ、輝く夕日を見た、
愛し愛された、そして横たわる
フランダースの野に。

Take up our quarrel with the foe:
To you from failing hands we throw
The torch; be yours to hold it high.
If ye break faith with us who die
We shall not sleep, though poppies grow
In Flanders fields.

敵との戦い、
失った手からあなたたちに投げかける
光を、あなたたちのために高くかざし、
もしあなたたちが私たち死者の信頼を裏切れば
私たちは眠れないだろう、ポピーが咲く
フランダースの野で。

という内容であり、ヨーロッパの荒れ果てた荒野に累々と横たわる死者のそばのあちこちで咲くポピーの様子が想像され、いかにももの悲しく悲壮なかんじがします。

ヨーロッパ、とくにイギリスでは11月になると真っ赤なポピーの花を胸につけている人をよく見かけるようで、これは、1921年にイギリス王室関係のセクションが、戦没者への募金を集めるために赤いポピーが売りはじめたところ、この運動が年々盛んになっていったためのようです。

現在ではこの日が近づくと店のレジ横などに赤いポピーが置かれていて、毎年多くの人々が募金活動に参加しているということであり、第一次世界大戦からはもうすでに100年近い年月が経っているというのにヨーロッパの人々はまだこのときの痛ましい記憶が忘れられないのでしょう。

日本でも第二次世界大戦後で多くの方が亡くなりましたが、第一次対戦中のヨーロッパと異なり、その国内の戦場の多くは焼け野原となり、ヒナゲシの花の咲くような風情どころではありませんでした。

が、終戦を迎えた夏におもに咲く「野菊」がみられる地方も多く、戦争を主導したとされる皇室の紋章も「菊」であることから、敗戦というと「菊」をイメージする人も多いことと思います。

死者に花をたむけるという風習の起源は、死臭を花の香りで消すためであったというのが定説のようですが、ヒナゲシも菊もどちらかというと芳香漂うという花ではありません。

なのに、これらが死者の花として使われるのは、その花弁の美しさには、この世にあって最高の芸術作品であると感じさせるような何かがあり、その何かがこの世の生命の営みを感じさせるためでしょう。

この世の役目を終えて逝く人には、そうしたこの世の最高のものを持たせたいと古人は考えたに相違なく、時に香り発ち乱れ咲く花は、いつかは一生を終える人間にとっては生命への惜別の象徴でもあります。

花の種類こそ違え、洋も和も問わず人々が死者に花を手向けるのは、花には何かそういう役割というか、深い意味が持たされているような気がします。

ただ、「人はなぜ、死者に花を手向けるか」を論じ始めると、これはかなり奥の深い文化論になっていきそうなので、今日のところはこれ以上この問題について語るのはやめておきましょう。

そういう難しい問題は棚上げにするとして、今はこの風邪をいかになおし、下田へ花を見に行く体力を回復することに執念を燃やすことにします。

まだまだ寒波の襲来が続くようです。みなさんも暖かくて栄養のあるものを食べて体力を温存し、来たるべき「花見の季節」に備えましょう。