ここのところ、お天気が悪く……といってもザンザンと雨が降るでもなく、曇ってばかりでお日様がちっとも拝めないという煮え切らない日ばかりが続きます。
いわゆる「花曇り」というヤツで、このサクラの咲くころの曇天は、ちょうどこの時期には、移動性高気圧と低気圧の出現間隔が短くなるために起こる現象のようです。日本南岸に前線の停滞することも多く、これが花曇りの原因となるとのこと。
理屈はなんとなくわかるのですが、せっかくのサクラがスポイルされているようで、気分良くありません。ただ、今日は少し陽射しが出てきそうということで期待しましょう。
今日は4月1日ということで、今年も世界各国できっと何やら馬鹿げたメディア報道があるのではないかといつも新聞やニュースなどをそれとなく期待してみたりしています。しかし、最近ではあまり秀逸なのがありません。
ちょっと前には、2005年に日本の某新聞社が掲載した「スマトラ沖地震の余波で沖縄南端に新島が出現」などというのがあり、エッ!?ホントかな、と思わせるものであっただけに秀逸だと思ったものです。が、最近のネタは言ってはなんですが、パロディー化されすぎていて、おもしろいと言えば面白いのですが、なんというか姑息です。
沖縄新島の話は、韓国の新聞社がニュースとしてしまうなど、それなりにインパクトがあり、どうせウソをつくなら、これくらいの世界中をだませるようなスケールの大きいもののほうが後で笑えます。
もっとも、おふざけが過ぎて、北朝鮮と韓国が交戦状態に突入!なんてのは困りますが……
一方、最近ではインターネットが普及しているので、ウェブサイトで手の込んだジョークコンテンツを公開するといったことも頻繁に行われるようです。
しかし大企業発の大労力をつぎ込んだものであっても、どことなく空々しいものも多く、すぐにウソとわかってしまうようなものはお金をかけてまでやる必要はないと思うのですが、いかがなものでしょう。
もっとも、企業発のジョークは、それなりの宣伝効果を期待してのことでしょうから、収益に見合わないことはやらないわけで仕方のないことではありますが……
しかし、そのジョークの出来不出来によっては、その企業の質までユーザーに見透かされるわけであり、そう考えると、たかがジョーク、されどジョークということになります。
このエイプリルフールの起源ですが、その昔、フランスのシャルル9世が1月1日を新年とする暦を採用したことが発端という説が有力です。
この当時、ヨーロッパでは3月25日を新年とし、4月1日まで春の祭りを開催していましたが、1564年にシャルル9世がこの新暦の採用を発表したところ、これに民衆が反発。4月1日を「嘘の新年」とし、馬鹿騒ぎをはじめたのが由来という説です。
しかし、シャルル9世は自分が発したこの規則をあくまで押し通そうとし、「嘘の新年」を祝っていた人々を検挙して片っ端から処刑していきます。
処刑された人々の中には、まだ13歳だった幼い少女も含まれており、フランスの人々は、この事件に大いにショックを受け、以後もフランス王への抗議とこの事件を忘れないためにということで、毎年4月1日には「嘘の新年」を祝う習慣を続けるようになったといいます。
しかし、一方では13歳という若さで処刑された少女への哀悼の意を表す日にしようという意見もあったことから、少女が亡くなった年齢にちなみ、1564年から13年ごとの4月1日を「嘘の嘘の新年」とし、逆にこの日を一日中全く嘘をついてはいけない日に定めたということです。
いまではこの風習は全く廃れてしまったということですが、もしこの習慣が定着していたとすれば、最近ではこのウソの嘘の日は、2006年にあたり、次は5年後の2019年になります。
2006年といえば、現在の総理大臣の安倍晋三さんが、9月の臨時国会において内閣総理大臣に指名された年であり、戦後最年少で、戦後生まれとしては初めての総理大臣ということで大いに話題を呼びました。
しかしその翌年には体調不良と参議院議員選挙での敗北を理由に辞職し、これがその後民主党政権によるマニュフェスト嘘つき政治につながっていくわけであり、そう考えると、この年が本来ならば「ウソをつかない年」であったというのは、その後の政治の混乱を予見するようで、何やら意味深です。
次は、2019年ということなのですが、このとき日本はどうなっているのでしょう。文字どおりウソのない真っ正直な政治が行われていることを願うばかりです。
フランスの故事が起源だろうとい説は有力とはいえ、エイプリルフールの起源は、実のところは全く不明なのだそうです。いつ、どこでエイプリルフールの習慣が始まったかはわかっていないそうで、このフランス発祥説のほかにも、インドで悟りの修行はが春分から3月末まで行われていたことにちなむという説もあるようです。
これは、インドの修行僧たちがこの期間に精進を積んで修業をするのだけれども、だいたい3ヶ月も経つとすぐに迷いが生じることから、その節目にあたる4月1日を人々が「揶揄節」と呼び、修行僧たちをからかったことによるとする説だそうです。
フランス説にせよ、インド説にせよ共通するテーマは、愚かな制度や行為ということであり、つまりは「馬鹿」そのものです。
他にも「馬鹿」は、一般常識、知識の乏しい人物という人を表現するときにも使われますが、「親バカ」などの表現にもみられるように客観的で理性的な判断が出来ない状態を指すこともあります。
「数学バカ「野球バカ」などのようにある特定分野にのみ通暁し、一般常識が欠落している人物を評する場合使われる場合もあるし、「ネジが馬鹿になる」などのモノが役に立たなくなることにも使われます。
「馬鹿正直」「馬鹿騒ぎ」「馬鹿でかい」などの接頭語に使い、並外れて凄いものを表現する場合もあって、最近では「バカ受け」「バカ売れ」などもよく使われる言葉です。
こうしてみると、バカというのは、おそらく日本語の中にあって最も良く使われることばのひとつでしょう。
さきほどの「エイプリルフール」同様、その語源については様々なものがあるようですが、文献にみられるものの中で有力なのは、史記の「鹿を指して馬という」の故事です。
これは、秦の2代皇帝・胡亥の時代に、その部下として権力をふるった宦官(かんがん)の趙高(ちょうこう)はあるとき謀反を企みます。しかし、旗を上げるにあたっては廷臣のうち自分の味方と敵の区別がなかなかしずらかったため、一策を案じます。
彼は宮中に鹿を曳いてこさせ「珍しい馬が手に入りました」と皇帝に献じ、これを見た皇帝が「これは鹿ではないのか」と尋ねますが、趙高が左右の廷臣に「これは馬にまちがいないよな?」と聞きます。このとき、彼を恐れる者は馬と言い、彼を恐れぬ気骨のある者は鹿と答えたといい、趙高はこのあと、鹿と答えた者をすべて殺し、排除したそうです。
これだけだと、鹿なのに趙高の権力を恐れてこれを馬と言った者がバカなのか、逆に正直に鹿であると言った廷臣がバカなのかの評価が分かれるところですが、あるいはその両方がバカなのかも。本当の賢い人物なら、こんな茶番は「馬鹿げている」と皇帝に進言して、趙高を排除したと思うのですが、どんなもんでしょう。
ほかにも、禅宗の仏典などに出てくる破産するという意味の「破家」と「者」をくっつけて、「破産するほど愚かな者」という意味で「馬鹿者」いう言葉が生まれたという説や、中国にいた「馬」という富裕な一族が、くだらぬことにかまけて散財して没落したため「馬家の者」から「馬鹿者」となったとする説などもあるようで、バカの語源も様々です。
馬鹿の他にもアホ(あほう、阿呆)というのもあって、その違いは何ぞや、ということなのですが、阿呆と馬鹿はまったく同じ言葉ではない証拠には、例えば「野球阿呆」のような使われ方はしません。同様に「馬鹿でかい」とはいいますが、「阿呆でかい」とはいわず、「阿呆らしいほどでかい」のように言うなど、その使い方にも明らかな違いがあります。
阿呆の方の語源も、何だかはっきりわかっていないようですが、中国の江南地方の方言に「阿呆(アータイ)」というのがあり、これが日明貿易で直接京都に伝わったという説があり、この言葉は現在でも上海や蘇州、杭州などで使われているそうです。
「阿」は中国語の南方方言で親しみを示す接頭語であり、意味は「おバカさん」程度の軽い表現だということで、これは近畿地方で意味するところの「アホ」に似たニュアンスのようです。
阿呆と馬鹿では受け取られるニュアンスに地域差があって、関東などのようにどちらかというと「阿呆」よりも「馬鹿」を常用する地域の人に「アホ」と言うと、「馬鹿」よりも侮蔑的でとられることが多いようです。
逆に関西など「アホ」を常用する地域の人に「馬鹿」と言うと、「阿呆」よりも尊大に見下されたと受け取られる場合があるということで、阿呆という表現は京都を中心に広がった「方言」の一種だという説もあるようなのですが、私は関西圏に住んだことがないので、なんともいえません。関西の方、そうなのでしょうか。
かつて、朝日放送が放映していた、「探偵!ナイトスクープ」というバラエティ番組では、「アホとバカの境界線はどこか」という調査に取り組んだことがあるそうです。
これは、関東人である夫がよく「バカ」という言葉を使うのに疑問を持ったという関西人の女性から番組に、「アホとバカの境界線はどこか調べて欲しい」という依頼が寄せられたことに端を発します。
この依頼を、番組のコメンテーターの北野誠(北野武のお兄さん)が受けることになり、北野さんは、アホとバカの境界線を調べるべく大真面目に東京駅から調査に乗り出したそうです。
その結果、名古屋駅前での調査で、「アホ」でも「バカ」でもない第三の言葉として「タワケ」という表現が出てきたため、急遽「アホ」と「タワケ」の境界線を探ることに変更して調査を続けたところ、岐阜県関ケ原町の住宅街で「アホ」と「タワケ」の境界線と思われる地域を発見したそうです。
ところが、この番組の「局長」だった上岡龍太郎が、「じゃあ、バカとタワケの境界線はどこなんですか?」という質問が出、またまた他の「探偵」からも「大阪の西の境界線はどうなっているのか」などの質問が相次いだため、その後も北野さんは継続調査を行うハメに。
こうして、本格的なアホとバカの境界線の調査に探偵局は乗り出したものの、調査が難航するうちに、番組そのものが休止状態となります。しかし、視聴者からは引き続いての継続調査を望む声が強かったため、約1年後に調査が再開され、その結果が1991年(平成3年)5月に「日本全国アホ・バカ分布図」として特番放送されたということです。
この調査は、テレ朝としてはそれまでとは比べもののないほど大きな予算を組んで行われ、言語学者の徳川宗賢氏のアドバイスを受けつつ、地方自治体の教育委員会への大規模なアンケート調査まで行われたということです。
この調査結果をみると、やはりアホの西の境界は、兵庫県と岡山県の県境付近になっており、また岐阜県と京都、愛知県と三重県の県境あたりが東側の境界になっているようです。
この結果は、番組のプロデューサーの松本修さんによって「全国アホ・バカ分布考 はるかなる言葉の旅路」という名前で出版化され、新潮文庫にも納められているということなので、興味のある方は本屋で探してみてください。
この調査結果においてはまた、京都を中心とし、同心円状に離れた同じ距離にある異なる地方で、同一の方言が使われていたことなども判明したといい、「方言周圏論」という分野があるのだそうですが、この分野における重要な検証例として「国語学上大変貴重な」調査結果としてその道の学者にも評価され、学問的にも認められたということです。
後に日本方言研究会でも取り上げられるなど、大きな反響を呼んだほか、特番はビデオ化までされ、そして番組そのものも、1991年(平成3年)日本民間放送連盟賞テレビ娯楽部門最優秀賞受賞、第29回ギャラクシー賞選奨、第9回ATP賞グランプリなどの数々の賞を受賞したということです。
バラエティの一つのテーマにすぎなかったバカ、アホの調査もここまでくると、立派な研究であり、ひとつのことを「馬鹿正直」にやるというのも、けっして無駄にはならないというひとつの良い例です。
私もせっせせっせと馬鹿正直にこのブログを書き続けていますが、いつかこれがみなさんの評価につながればうれしいな、と思ったりもします。
政治的用語には、「役に立つ馬鹿」というのがあります。英語ではuseful idiot といい、意味は、目指している方向を理解しないまま宣伝活動を行う人々、ということのようです。
ようするに政党などのリーダーに踊らされ、そのリーダーが実際に何を目指しているのかもわからずに活動を続けている党員たちを、その指導者が冷笑して指す軽蔑表現です。
元々、ヨーロッパの西側諸国で活動していたソビエト連邦のシンパを指す言葉として用いられたようで、本人たちは自分自身をソ連の協力者であると無邪気に考えていたのですが、実際にはヨーロッパ諸国の人達は彼らを軽蔑し冷笑していたわけです。
それ以降、良い活動をしていると無邪気に信じ実際には無意識に悪事に荷担している宣伝者を指す、広義の用語となっているといいます。
こうして考えると、日本の政治家たちの中にも「役に立つ馬鹿」がたくさんいるような気がします。政権が変わるたびに、マドンナやらなんとかチルドレンがたくさん出てくるような政治はもうそろそろ終わりにしていただき、本当の意味で役に立つ政治家さんたちの登場に期待したいもの。
安倍さんは大丈夫でしょうか。初めて総理大臣になった2006年がウソをつかない年であったことにちなみ、今後ともウソをつかない政治を心掛けていってほしいものです。
さて、私はといえば、馬鹿正直に「ばかうけ」するブログを書いていけるよう努力しましょう。そしてこれを集大成して、本として出版することにしましょう。
…… ウソです。