海峡


西洋に対するのは東洋であり、その英語表記は、それぞれthe West、the Eastです。

この東洋を学術的に語るときには、「東方世界」を表すために「オリエント」ということばが使われますが、それでは、オリエントに対して、西洋世界を示す言葉はなんと言うかご存知でしょうか。

正解は、オクシデント(Occident)であり、またはオチデントとも呼ばれます。19世紀ごろ以降、東洋・西洋の概念が定着したことを受け、その後学術用語として使われるようになったオリエント(Orient)の対義語としてこのオチデント(Occident)ということばも使われるようになりました。

ただし、現代では、東洋・西洋を表すときには、the West、the Eastで済ますようになり、学術用語としても古風なオクシデントはあまり使われなくなりました。

一方のオリエントのほうはそのエキゾチックな響きのためか、文学的表現を中心としていまだに生き残っていますが、オクシデントのほうは現代用語としては既にその役割を終えているかんじです。普段あまり耳にしないのはそのためです。

オクシデントとは、元々ラテン語で「日の没する所」という意味であり、転じて西の方角を表すようになりました。一方、古代ローマではシリア・エジプトなどを「日が昇る方角」を意味するオリエンス(Oriens)と呼びました。

古代ではオクシデントとはローマを中心とした西欧世界そのものであり、これより東側すべてがオリエンスでした。このオリエンスという言葉は、さらに時代が下るにつれ変じてオリエントと呼ばれるようになり、オクシデントの対極になっていきました。

このオリエントとは、トルコから東のアジア全域を指す場合もあれば、イスラム社会である中東を除いた東南アジアから極東を漠然と指す場合もあります。

しかし、主にヨーロッパの人々の歴史観からみた西洋と東洋を分類する場合には、オリエントとはトルコを起点とし、その東側のロシアやバルカン地域までもがその範疇になります。これらの概念は近東、中東、極東という言葉にも表れており、これらの中には東洋の「東」という文字が含まれていることでもわかります。

そして、この東洋と西洋を分けるトルコの中にあって、厳密にこれを分けているのが、ボスポラス海峡です。西洋史においては、正式にはオリエントとはトルコのボスポラス海峡より東の地域ということになります。

ボスポラス海峡(Bosporus Strait)は、このトルコのヨーロッパ部分のオクシデントとアジア部分オリエントを隔てる海峡です。

ボスポラスとは古代ギリシャ語では「牝牛の渡渉」という意味です。ギリシャ神話の中では、不倫をしていたゼウスが妻ヘラを欺くため、その不倫相手のイオを牝牛の姿へ変えますが、ヘラはそれを見破ります。そしてイオを襲わせるために、恐ろしいアブ(虻)を放ちました。

そのためイオは世界中を逃げ回ることになり、牛の姿のままこの海峡を泳いで渡ったことから、ここをボスポラス(牡牛の渡り場)と呼ぶようになりました。

トルコ語では「海峡の内」を意味するボアジチ(Boğaziçi)という名で呼ばれており、イスタンブール海峡という呼び方をされることも多いようです。

地図を見るとすぐにわかると思いますが、南北に細長く、北は黒海、南はマルマラ海で、マルマラ海とエーゲ海を繋ぐダーダネルス海峡とあわせて黒海と地中海を結ぶ海上交通の要衝をなしています。

長さは南北約30km、幅は最も広い地点で3700m、最も狭い地点でわずか800m程です。水深は36m~124m。両岸の全域がイスタンブール市の行政区内で、南側のマルマラ海への出口の西岸、金角湾との間の地は、かつてビュザンティオン、コンスタンティノポリスと呼ばれた古い地域で、イスタンブールの旧市街になります。

この海峡はイスタンブールを文字通り分断しているため、市民の足として、両岸の各所に定期船の船着場があるほか、1973年に建設された全長1074mの第一ボスポラス大橋(別名ボアジチ大橋)、1988年建設に建設された全長1090mのファーティフ・スルタン・メフメト橋(通称第二ボスポラス橋)の二つの自動車用橋が架けられています。

また、日本の大成建設グループなどにより建設が進められた、総延長13.56kmの鉄道用海底トンネルが通っており、このうち海峡下の長さは1387mもあります。このトンネル掘削計画は、マルマライ計画と呼ばれ、2004年5月に着工、2013年10月に開通しました。

ただし、海底トンネル沈設完了の公式セレモニーはこれ以前の2008年10月に、貫通記念セレモニーは2011年2月にそれぞれ執り行われています。

今年2013年8月4日には、ここを通る地下鉄の試運転が始まり、トルコ共和国建国から90周年に当たる2013年10月29日に開業にこぎつけました。その開業記念式典・開通式典には日本の安倍晋三内閣総理大臣も出席したことが、先月末のニュースでも大々的に報道されたので、ご存知の方も多いでしょう。

この全事業区間のうち、ボスポラス海峡下を通る13.6 kmの区間は、沈埋トンネルによって建設され、これは「ボスポラス海峡横断トンネル」と呼ばれています。これ以外の区間は既存設備を改良してリメイクされ、その延長は63 kmとなり、事業区間の東端のゲブゼと西端のハルカリ間の合計76.3 kmには高頻度で鉄道が運転される予定です。

この建設にあたっては、日本の大成建設と現地トルコのガマ重工業、ヌロール社の3社によるJVが組まれ、高度な技術を必要とする沈埋トンネル部分を主に大成建設が、近隣対策が必要な郊外部分を主にガマ重工業およびヌロール社が施工しました。

海峡区間は、11個の函を組み立てた全長1,387mの沈埋トンネルにより構成されています。沈埋トンネルとは、あらかじめ海底に溝を掘っておき、そこに鉄筋コンクリートで作ったケーソン(沈埋函)を沈めて土をかぶせるという、沈埋工法で作られたトンネルのことです。

地中を直接トンネルを掘りながら進む開削・シールド工法によるトンネルよりも水深(海底の地中深度)の浅い海底付近トンネルを設けることができるため、比較的短距離のトンネルを作ることができるというメリットがあります。

その工事手順は次のとおりです。

1.ケーソン製作 ケーソンを地上で構築する。
2.基礎工事 ケーソンを設置する部分に平らな穴を掘っておく(海中)。
3.曳航 両端をバルクヘッドという蓋で閉塞して浮上後、船で目的の位置まで牽引する。
4.埋設・埋め戻し アンカーワイヤーで位置を調整をしながら、所定の位置に設置する。
5.内部構築 内部の仕切り壁などを構築する。
6.完成 側部と上部を埋戻して完成。

ちなみに、私はかつて大学を卒業して間もないころに務めていた建設コンサルタント会社で、このケーソンを設計したことがあります。設計自体は難しくない、といってもそれなりの知識を必要としますが、設計よりもこれを浮かべて正確に沈めるのはかなり難しいだろうな~と考えながら設計をしていたのを覚えています。

その通り、その設置にあたってはかなり高い測量技術が必要であるとともに、ドックヤードでのケーソンの施工にあたっても高い精度が求められます。

ボスポラス海峡では、これらの函はもっとも深いところで海面下約60mの場所に水平に置かれました。正確には、もともとの海底の平均水深が55mで、ここから海底を5m掘り下げた位置です。

この海峡は、世界有数といわれる海流速を持ち、その速さは約2.5m/秒(9km/h)もあります。鳴門海峡における最大流速は20km/hにもなりますから、これには及びませんが、それでもかなり厳しい条件下での施工になります。

2004年5月に着工し、2008年8月には海中60mでの沈埋函接続が実施され、2010年2月にはこの沈埋工法による海底トンネルとアジア側のアイルルクチェシュメからシールド工法によって掘り進められていた陸地トンネルとの接続を成功させました。

2011年2月にはさらにヨーロッパ側のカズルチェシュメから掘られたトンネルとも接合され、こうしてトンネル全体が貫通しました。

このトンネルはすぐ近くの北アナトリア断層から18kmしか離れていないため、地震時の危険性を懸念する技術者や地震学者もおり、30年以内にマグニチュード7.0以上の地震に見舞われる可能性が最大77%になるという予測結果もあるようです。

このため、トンネルが建設された下の土壌が地震で液状化する可能性が考えられ、これを防止するため海底下24mの深さまで海水に強いセメントが筒状に注入されました。

また、トンネルの壁面は防水コンクリートと鋼鉄のシェルで形成され、それぞれが独立して水の浸透を防ぐしくみになっています。さらに万一地震が発生した場合に、トンネル構造体は高層建築物のように曲がるように造られており、壁が壊れた場合には、函の接続部にある水門が閉まり、水を隔離できる仕組みも導入されました。

いずれも日本の建設業界が世界に誇る最先端技術であり、こうした技術がなければボスポラス海峡トンネルは実現しなかったかもしれません。

このトンネル掘削計画は、マルマライ計画(Marmaray project)と呼ばれました。Marmarayの名称は計画区域のすぐ南にあるマルマラ海 (Marmara) と、トルコ語で鉄道を意味するrayを合成した混成語です。

このトンネル掘削の完成は、トルコ国民の長年の夢でした。

イスタンブールは人口1300万人を有し一大経済圏を形成し、またアジアとヨーロッパ結ぶという地理的な要因によって交通の要所として栄える、イスラム圏最大級の世界都市です。そのイスタンブールにおいて都市形成に大きな障害になってきたのが、ヨーロッパとのアジアとを分断する全長約30kmのボスポラス海峡でした。

上述のようにこの海峡には第一ボスポラス大橋、ファーティフ・スルタン・メフメト橋という2本の道路橋やフェリーなどの船舶があるものの、道路橋は常に渋滞に見舞われ、船はいつも満員になるなど、人口増加や経済発展に伴い深刻化するイスタンブールの交通事情のボルトネックとなっていました。

このため地下トンネルによって両岸を鉄道で結ぶ事で街の混雑緩和を図り、海峡で二分された街の一体化によって名実ともに“アジアとヨーロッパの結合点”として成長させることが長年求められてきており、トルコ国家を挙げての大事業がマルマライ計画でした。

計画自体はオスマン帝国時代の1860年に設計図が描かれて以降、何度も計画が立ち上がったものの、政治的あるいは技術的理由により頓挫した経緯を持っており、トルコ国内では“トルコ150年の夢”として国民の多くが高い関心を寄せていました。

全線開通後にここを通る鉄道の地下駅としては、ユスキュダル駅のほか、シルケジ駅、イェニカプ駅などが新たに建設され、ボスポラス海峡を隔てて東西左右に従来あった37駅は改築あるいは改装されます。

東西のイスタンブール市内では、海峡を通る地下鉄と周辺のライトレールが接続される予定だそうで、これに伴い市内の郊外線も改良され、これらによって海峡を通る輸送能力は7万5000人/時に増やされ、ゲブゼ~ハルカリ間は104分で結ばれる予定です。これまでフェリーで30分間かかっていた海峡間の移動は、このうちの4分間に短縮されます。

完成すると、イスタンブールでの公共交通の鉄道利用率が3.6%から27.7%にまで急上昇するといわれており、東京の60%、ニューヨークの31%に次いで世界第3位になるといわれています。

この海峡を通る地下鉄車両は、全長22mのステンレス車は5両編成または10両編成で組成され、現在トルコの車両製造メーカーなどのほか国外の会社によって製造中です。車両は3次に渡って製造され、最初の2011年には160両製造され、2014年にもすべてが完成する予定です。

しかし、マルマライ計画は、2年以上の遅れが発生しています。この遅れは海底トンネルのヨーロッパ側の終端予定地でのビザンティン帝国時代の遺跡の発掘が大いに関係しており、トンネルの建設中の2005年に、4世紀のコンスタンティノープルの港「ポルトゥス・テオドシアクス(テオドシウス港)」の遺跡が掘り当てられました。

さらに発掘により、アンフォラと呼ばれる陶器が発見されました。これは2つの持ち手と、胴体からすぼまって長く伸びる首を有する美しい壺で、古代ギリシア・ローマにおいて飲料や穀物を入れて、ブドウ、オリーブ・オイル、ワイン、植物油、オリーブ、穀物、魚、その他の必需品を運搬・保存するための主要な手段として用いられたものです。

このほかにも古器物や加工品、その他の陶器の欠片、貝殻、骨、馬の頭蓋骨のほか、袋の中に入った9つの人間の頭蓋骨さえも発見され、放射性炭素年代測定等によってこれらの器物は紀元前5000年ほど前のものであることなどもわかりました。これにより、古代のギリシア人やローマ人がこの時代からイスタンブールに定住していたことがわかりました。

現在のイスタンブールの前身は、コンスタンティノープルと呼ばれていました。東ローマ帝国の首都であった都市で、強固な城壁の守りで知られ、330年の建設以来、1453年の陥落まで難攻不落を誇り、東西交易路の要衝として繁栄した町です。

ギリシャ正教会(東方正教会)の中心地ともなり、このため現在もコンスタンディヌーポリ総主教庁(正教会で筆頭の格を有する総主教庁・教会)が置かれています。

キリスト教におけるその正式称号は「新ローマ・コンスタンディヌーポリの大主教、全地の総主教」であり、コンスタンティノープルの時代にこの町につけられた「新ローマ」の名称は、キリスト教信者の間では現在もなお使われています。

ちなみに、このコンスタンティノープルの守護聖人は聖母マリアです。それほどキリスト教においては重要な町ということです。

コンスタンティノープルは、330年にローマ皇帝コンスタンティヌス1世が、古代ギリシアの植民都市ビュザンティオンという場所に建設した都市でした。調べてみると、このビュザンティオンというのは、ボスポラス海峡の西側に広がる市街のやや北寄りの海岸近くにあった町で、イスタンブールの旧市街地にあたるようです。

この地は古来よりアジアとヨーロッパを結ぶ東西交易ルートの要衝であり、また金角湾と呼ばれる天然の良港を擁していました(現在も金角湾の名で親しまれている)。当時の都市名の「コンスタンティーノポリス」はこのころのローマ皇帝の名前にちなんでおり、「コンスタンティヌスの町」を意味します。

395年のローマ帝国東西分割後は、東ローマ帝国の首都となり、「新ローマ」「第2のローマ」という意識が定着していきました。正教会がこの町を新ローマと呼び始めたのもこのころのことです。

やがてこの町は、東ローマ帝国の隆盛と共に、30万~40万の人口を誇るキリスト教圏最大の都市として繁栄し、「都市の女王」「世界の富の3分の2が集まる所」とも呼ばれるまでに成長していきます。

現在もこのころに造られた立派な建造物が残っており、この当時は無論、ヨーロッパ屈指の大都市としてその偉容を誇りました。それゆえに、キリスト教の頂点とも目される正教会の首長であるコンスタンディヌーポリ総主教座が置かれたのであり、これによって正教会の中心ともなり、やがてはビザンティン文化の中心にもなりました。

ビザンティン文化というのは、世界史の時間に聞いたこともある人も多いと思います。

古代ギリシアや、古代ローマの文化にキリスト教・ペルシャやイスラムなどの影響を加えたこのコンスタンティノープル(コンスタンティーノポリス)を中心に発達した独自の文化です。

その後14世紀にはイタリアへ伝えられ、やがてここを中心として広まったルネサンスは正教会を信仰する諸国および西欧諸国の間に広まり、各国の文化芸術に多大な影響を与えました。

また、とくにその建築技術などは、その後のイスラム文化と相互に影響し合いました。

ギリシャ人が国民の多くを占め、キリスト教を国教とした東ローマ帝国においては、ヨーロッパの文化の二大基盤といわれる「ヘレニズムとヘブライズム」が時には対立をしながらも融合してこの文化を形成し、このことがその後のルネサンスなどのヨーロッパの文化形成に大きく寄与したのです。

(※注:ヘレニズムとは、古代オリエントとギリシアの文化が融合した「ギリシア風」の文化のこと、またヘブライズムとは、「ユダヤ人(ヘブライ人・ユダヤ教)風の文化性」のこと)

先述のとおり、このコンスタンティノープルは強固な城壁の守りでよく知られ、東ローマ帝国の長い歴史を通じて外敵からの攻撃をたびたび跳ね返してきました。

しかし1204年に第4回十字軍の攻撃を受けると衰退が加速していきました。十字軍とは、中世に西ヨーロッパのキリスト教、主にカトリック教会の諸国が、聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪還することを目的に派遣した遠征軍のことです。

この第4回目の十字軍は、1202年から1204年にかけて、フランスの諸侯とヴェネツィアなどの国が中心になって行われた遠征であり、結果的には、キリスト教国であった東ローマ帝国をも攻略し、コンスタンティノープルを陥落させ、略奪・殺戮の限りを尽くしたため、最も悪名の高い十字軍とも呼ばれています。

この十字軍は、東ローマ帝国を一旦滅亡させたために、当初の目的とは逆にこの地域のキリスト教国家の力を削ぐことになり、後にイスラム文化を持つオスマン帝国によって東ヨーロッパの大部分が支配されるようになってしまうきっかけを作りました。

やがて1453年にオスマン帝国によりコンスタンティノープルが陥落し、東ローマ帝国が滅亡すると、この街はオスマン帝国の首都となりました。ちなみに日本ではこれ以後、この町のことをトルコ語によるイスタンブールの名で呼ぶことが多いようです。ただし、公式にイスタンブールと改称されるのはトルコ革命後の1930年のことになります。

さらにこのオスマン帝国が滅亡し、オスマン帝国が所有していた、次回の冬季オリンピック開催地ソチを含む海岸地帯が、帝国の崩壊により、1829年にロシアに割譲されていったことなどは、3回ほど前のこのブログでも書きました。(ソチは何者?

19世紀になって衰退を示し始めたオスマン帝国の各地では、ナショナリズムが勃興して諸民族が次々と独立してゆき、帝国は第一次世界大戦の敗北により英仏伊、ギリシャなどの占領下におかれ完全に解体されました。

コンスタンティノープルもまた、ギリシャやアルメニア人たちに侵略されそうになりましたが、これに対して旧帝国軍人などの旧勢力、進歩派の人たちは国土・国民の安全と独立を訴えて武装抵抗運動を起こし、その結果1919年5月にトルコ独立戦争が勃発。

その結果、1922年には初代トルコ共和国大統領となるムスタファ・ケマルを中心として、現在のトルコ共和国の領土を勝ち取ることに成功。

トルコ革命後8年を経た1930年からは、コンスタンティノープルはイスタンブールと呼ばれるようになったわけです。

トルコはその後、西洋化による近代化を目指すイスラム世界初の世俗主義国家となり、二次世界大戦後は、巨大勢力になりつつあったソ連に南接するこの国は、反共の防波堤として西側世界に迎えられ、NATO、OECDに加盟するようになります。

現在のトルコは、イスラム国家とはいえません。しかし、イスラム人は圧倒的に多く、このためイスラムの復活を望む人々は多数います。が、彼等による国内の反体制的な勢力を強権的に政治から排除しつつ、西洋化を邁進している国であり、半イスラム国家ともいえる国です。

その最終目標はEUへの加盟です。しかしその加盟には、クルド問題(独自の国家を持たない世界最大のイスラム民族集団)やキプロス問題(トルコが実効支配する北とギリシャ系住民が居住する南に分断)、アルメニア人虐殺問題、ヨーロッパ諸国の反トルコ・イスラム感情などが大きな障害となっています。

ところで、日本とトルコの関係については、かつてのオスマン帝国時代(1299年~1922年)に遡ることになります。

といっても、江戸時代以前には、直接的な関わりはありません。15世紀に入ってオスマン帝国の勢力が伸長すると、それまで陸路でアジアから香辛料を入手していたヨーロッパは、通商ルートを帝国に遮られることとなり、新たな通商ルートの開拓の必要性に迫られました。

このため、ヨーロッパ諸国の中でも、強力な艦隊を持っていたポルトガルやスペインは喜望峰廻りの海洋通商ルートを開拓し、アジアにも勢力を拡大していくこととなりました。

ということはすなわち、1543年の鉄砲伝来によってはじまる日本と欧米との接触は、オスマン帝国の勢力伸長と大きく関係があり、その間接的な影響を受けて起こった出来事であると言えるわけです。

実質的なトルコと日本の接触の最初の出来事は、これより更に300年以上も後のことです。

1887年(明治20年)、小松宮彰仁親王がヨーロッパ訪問の途中でイスタンブールに立ち寄り、これに応える形で1890年、オスマン帝国スルタン(イスラム世界における君主)であったアブデュル・ハミト2世の使節としてフリゲート艦「エルトゥールル号」が日本へ派遣されました。

使節は明治天皇へ親書などを手渡し帰国の途につきましたが、運悪く和歌山県沖で台風に巻き込まれ座礁沈没。このとき特使オスマン・パシャを含め500名以上の乗組員が亡くなりました。

しかし紀伊大島の住民が救援に駆けつけ69名を救出。さらには報せを聞いた明治天皇が直ちに医者と看護婦を派遣させ、介護に全力をあげました。その後、このときの生存者には日本全国から多くの義捐金・弔慰金が寄せられ、1891年、生存者は日本海軍の装甲コルベット「金剛」、「比叡」の2艦によりオスマン帝国まで丁重に送還されました。

その翌年の1892年には日本各地で講演を行い義捐金を集めた山田宗有がトルコに渡り、アブデュル・ハミト2世に謁見しています。この事件はトルコ国内で大きく報道され、日本人に対する友好的感情はさらに高まっていきました。

この山田宗有(そうゆう)という人は、もともとは沼田藩(現群馬県)の江戸家老の家の次男として生まれた人です。

その後、茶道の名家の宗徧流家元の山田家に養子入りしましたが、17歳のときに、家元が亡くなったあともその名を襲名せず、言論界に入って活躍するようになりました。このとき、名前も養子入り前の実名、寅次郎を名乗るようになります。

明治23年のこのオスマン帝国軍艦エルトゥールル号の遭難事件を知ると、寅次郎は民間に義捐金を集めて犠牲者の遺族に寄付することを思い立ち、親交のあった新聞社に働きかけて募金運動を起こし、日本中を演説会をして回って、2年をかけて5000円(現在の価値で1億円相当とされる)の寄付を集めました。

そして明治25年(1892年)、寅次郎は義捐金を携えてオスマン帝国の首都・イスタンブールに渡り、早速オスマン帝国外相を訪問し、義捐金を送り届けます。

これにより彼が遠い日本から民間人でありながら義捐金をもってやってきたことがイスタンブールの人々に知れわたりました。やがて、朝野から熱烈な歓迎を受けるようになったことから、皇帝・アブデュルハミト2世にも拝謁できることになりました。

アブデュルハミト2世は、寅次郎に仕官学校での日本語の教育や、東洋の美術品の整理を依頼したため、彼はイスタンブールに滞在するようになりました。そしていつしかトルコに愛着を覚えるようになり、そのままイスタンブールに留まって事業を起こすことを決意します。

30歳になったころから、イスタンブールに中村商店という店を開いて日本との間での貿易事業を始め、以後、日本とトルコの間を何度か行き来しながら、前後20年近くイスタンブールに滞在しました。

この間、一時帰国した時に大阪の紡績商の娘と結婚し、子供も設けましたが、妻子は大阪に置いたままで、日本に落ち着くことはほとんどなかったといいます。

彼がイスタンブールに滞在していた当時は、日本とオスマン帝国の間では正式の国交がもたれていませんでした。大日本帝国側が欧米列強と同等の待遇の条約を望み、治外法権を認めるよう要求したのに対し、このころヨーロッパにおける勢力が弱小化しつつあったオスマン帝国はこれを認めると日本の権益が大きくなりすぎると警戒したためです。

このため、彼はこの町で唯一人の日本人長期滞在者でした。彼はトルコ人から呼びやすいムスリム名をつけられて親しまれ、これによって事業も順調に推移していきました。

このころイスタンブールを訪問する日本人たちは官民、公用私用を問わずみな中村商店を訪問し、寅次郎に様々な便宜をはかってもらっていたといいます。また、日土両国の政府関係者と繋がりを持ってトルコにおける日本の便益をはかったので、この時期の寅次郎は、事実上の「大使」であったともいわれています。

彼のイスタンブール滞在中に起こった日露戦争では、ロシア黒海艦隊所属の艦艇3隻が商船に偽装しボスポラス海峡を通過したとの情報がイスタンブールから在ウィーン日本大使館を経て日本に送られ、これは重要情報として高い評価を受けました。晩年の寅次郎が語ったところによれば、この監視と打電を行ったのは寅次郎自身であったといいます。

その後はイスタンブールに大正3年(1914年)まで滞在しましが、第一次世界大戦が勃発するとドイツら同盟国側に引き入れられつつあったオスマン帝国の対外情勢は緊迫したため、寅次郎はイスタンブールを最終的に退去、帰国しました。

帰国後、昭和2年(1927年)には吹田製紙(現・三島製紙吹田工場)を創業しました。寅次郎はその後合併して昭和11年(1936年)に三島製紙と名前を変えるこの会社の社長、会長を歴任するようになりましたが、トルコとの親善交易にも関心に持ちつづけました。

昭和6年(1931年)には17年ぶりにトルコを訪問し、イスタンブールに滞在して現地の財界から大歓迎を受け、このとき独立戦争を経てトルコ共和国の初代大統領になっていたムスタファ・ケマル大統領にアンカラに招かれて面会しました。

このとき、ケマルは士官学校で宗有が日本語を教えていた時、自分もその中のひとりとして日本語を教わったという思い出を語り、寅次郎に対して大変な友誼を示したといいます。

昭和23年(1948年)、宗有は三島製紙の会長を辞任して実業界から離れ、以後は茶道に専念、90歳で没しました。

ちなみに、ですが、1904年から始まった日露戦争では、この当時まだオスマン帝国であったトルコ国民は、この戦争に大きな関心を寄せました。これは1853年~1856年に勃発したクリミア戦争や、1877年~1878年の露土戦争などによって、オスマン帝国(トルコ)がしばしばロシアからの圧力を受けていたことによるものです。

この当時、両国にとって南下政策を推し進めるロシアは共通の敵であり、ロシア黒海艦隊に対する封鎖など、日本に協力的な政策を行うとともに、上述のようにロシアの情報を日本へ送ろうとしていた山田宗有を支援しました。

1905年日本が日本海海戦でロシアバルチック艦隊に対し決定的な勝利をおさめると、オスマン帝国国内では自国の勝利のように喜ばれたといいます。

しかし、ロシアに対抗する必要のあったオスマン帝国は、第一次世界大戦には同盟国側として参戦、このとき連合国側として参戦した日本とは交戦国同士となりました。山田宗有がイスタンブールを離れ、帰国した理由はこれによります。

敗れたオスマン帝国は1920年セーヴル条約によって広範な領土を失い、さらなる列強による国土分割・植民地化の危機にありましたが、独立戦争で勝利を勝ち取り、現在のトルコ共和国が成立。1923年に日本を含む8か国が参加したローザンヌ条約で現在の国境が確定しました。

大正13年(1924年)には、ようやく日本との国交が樹立されました。その後トルコでは近代化政策が進められましたが、民族資本の育成や国立銀行の設立、法制面の整備などの諸改革は、日本の明治維新を手本にしたものであったといいます。

1930年、日土通商航海条約が結ばれ両国の関係はより強固になりましたが、その後勃発した第二次世界大戦でははじめ、トルコは枢軸国側に参加することはありませんでした。戦時中もトルコは中立を宣言していましたが、やがてイギリスをはじめとした連合国の圧力により、1945年日本に宣戦布告しています。

しかし国内世論は宣戦布告に反対であったといい、実際の戦闘においてもトルコは日本に対しての軍事行動は一切行わなかったそうです。

やがて二次大戦が終了し、戦中に破棄された両国の国交はサンフランシスコ平和条約によって回復しましたが、このときもトルコは日本に対して賠償金その他の請求を一切行いませんでした。

戦後は経済大国へと発展した日本によるトルコへの政府開発援助での支援が積極的に行われるようになり、特にイスタンブール市内のインフラの整備などに日本の多額の資金と技術が投入されました。

その後もトルコと日本の友好関係はさらに続いていきます。

1985年3月、イラン・イラク戦争が激しくなり、イランに取り残された日本人215名は国外脱出をしないと命の危険がある状況になりました。ところが、日本は彼らを脱出させる飛行機の準備ができませんでした。

あわや全員、イラクが空爆を宣言したテヘランに取り残されると思われた寸前、トルコ航空が日本人の救出にかけつけ、攻撃開始寸前にどうにか脱出することができました。

さらには1990年、湾岸戦争直前、アメリカその他の多国籍軍にイラクを攻撃させないため、サダム・フセインに日本人や他の外国人が人質にとられるという事件がありました。この際、どうにか助け出された日本人人質を国外に連れ出してくれたのも、トルコ航空です。

その後、1999年のトルコ大地震の際には、日本からは国際緊急援助隊として消防(国際消防救助隊)と海保の隊員により編成された救助チームが生存者を救出しました。このときは合わせて緊急円借款供与、緊急物資・無償援助、仮設住宅供与などが行われました。

これに対して、2011年の東日本大震災では、トルコは最大限の支援を表明し、外務省内に状況把握を目的とした特別チームを設置、トルコ赤新月社は緊急救助隊3チームの派遣。支援・救助隊の33名が送られてきました。

また、トルコ政府は震災のあった翌月の4月、飲料水約18.5トンを宮城県に、豆およびツナの缶詰約68,800個を福島県に、毛布約5000枚を東京都世田谷区他の被災者受入れ3区に支援物資として提供してくれました。

ちなみに、東日本大震災にトルコが派遣してくれた支援・救助隊33名は、各国の救援隊のうちもっとも長く日本に残って支援活動に協力してくれたといいます。

さらには、トルコの災害救助グループ「GEA」が来日しトルコの子供たちが製作した21500枚のカードと、2300点の絵画、2500個の玩具、日本の子供たちのため作った「友情の架け橋」というタイトルのビデオクリップが届けられました。

世界広しといえども、これだけの友好関係を示してくれる国があるでしょうか。もっともかつての敵国でありながら今や同盟国であるアメリカもまた日本には好意的ですが、その親意の裏には何等かの含みがありそうなかんじがします。が、トルコからの援助にはストレートな温みしか感じられません。

ちなみに、私のハワイ大学留学時代に、指導教官のひとりにトルコ人の先生がいました。コンピュータによるシミュレーション技術を教えていた先生で、あるとき奨学金を出すから自分の研究室へ来ないかと誘われました。

私としても非常に興味があったのですが、この時すでに別のポーランド人の先生からのオファーを受けたあとだっために、丁重にお断りしました。が、その後も卒業まで何かと親身になって接してくれたこの先生のことは今も忘れていません。

今思えば、奨学金のオファーもトルコ人の日本びいきのせいだったのかな~とも思い、お断りして申し訳なかったという気持ちになってきます。

さて、トルコ政府は、現在さらに原発建設計画の推進を決めており、黒海沿岸では原発輸出に力を入れる日本と協力文書を締結しており、東日本大震災による福島第一原発の事故後も「原子力発電所建設計画は継続する」と述べ、原発導入を見直す考えはないとの意向を示しています。

先月の29日、安倍首相は、トルコのエルドアン首相とイスタンブールで会談後、トルコの黒海沿岸シノップに原子力発電所4基を建設する計画をめぐり、三菱重工業などの企業連合とトルコ政府が合意書に調印した旨を発表。安倍首相による原発輸出の「トップセールス」が実ったことを明らかにしました。

日本の原発輸出は東京電力福島第一原発事故以降初めてで、安倍首相は会談後の共同記者会見で「原発事故の教訓を世界で共有することにより、世界の原子力安全の向上を図っていくことは我が国の責務だ」と強調しています。

が、本当に大丈夫なの?と原発反対派の私はついつい思ってしまいます。

この原発が将来、トルコの人達の仇にならないよう、それによって両国間に長い年月をかけて培ってきた友情が失われないよう、彼らの期待を裏切らないよう、くれぐれも慎重に事を運んで行って欲しいと思います。