前世はスパイ?

 伊豆西海岸・恋人岬からの眺め ちょっとハワイに似ています・・・

これから、毎日ブログを更新しようと思います。

・・・ウソです。でも、伊豆へ引っ越してきて、家のなかの片づけも進み、最近ようやく落ち着いて、何かいろいろやってみようという気分になってきています。ただ、毎日続けようとすると、長文はちょっと辛い・・・かな。なので、できるだけ、昔の出来事で思い出したことや、日常のことなどでも、ちょっと気になったこと、興味があることなどを、自分の負担にならない程度に気分次第で書いていこうかと思います。

さて、そのむかし、私はハワイにいたことがあります。ハワイ大学の学生としてホノルルに3年ちょっと滞在していました。なので、学校が休みの日には、50ccのバイクを飛ばしてはホノルルの町中だけでなく、オアフ島のあちこちを散策して回ったものです。なので、普通の観光客が行かないような名所もたくさん知っています。

それはさておき、その当時のわたしの一番のお気に入りの場所は、「パンチボール」と呼ばれる山の上。昔小さな火山だったそうで、頂上に近い一帯は第二次世界大戦で軍役で亡くなった方の墓地になっています。墓地の間の小道を抜けると小高い場所に展望台があり、そこからは太平洋はもちろん、ワイキキビーチやホノルルの町全体が見渡せます。その向こう、ホノルルの東の端にはダイヤモンドヘッドがそびえていて、そこからの眺めをさらに引き立てていますが、このダイヤモンドヘッドの頂上へ上る遊歩道も整備されています。

一般観光客が立ち入れますが、実はダイヤモンドヘッドは今もアメリカ軍の要衝地で麓には軍の施設があります。この施設を横目にみながら、汗をかいて頂上まで登ると、パンチボールの頂上からの眺めに勝るとも劣らない景色が広がります。その当時は、どちらの場所も、忙しい勉強の中で気持ちを安らげてくれる一番のお気に入りの場所でした。

考えてみれば、昔から高いところへ上るのが好きで、子供のころから、家の周囲に見える高い山や丘の頂はたいがい制覇していました。中学校に入るころからは、自転車を飛ばして自分が住む町以外の町にある山にまで登るようになり、頂上などの眺めの良いところに着いたら、そこから見える町や海をあきもせず1時間でも眺めているような少年でした。

高いところへ上るのだけでなく、街中を歩いたり、自転車に乗りまわすのも大好きで、小学校では2km離れた学校まで一人で歩いて通っていましたし、中学校も3kmほど離れた学校へ歩いて行っていました。自転車に乗っては、ひとりで、10キロも20キロも離れた海まで行き、夕日が沈むまでよく海を眺めていました。

高校になると、学校はさらに遠くなり、4km離れた公立高校に通うようになりました。さすがに両親もバスの通学定期を買ってくれましたが、人ごみの中が苦手な性分なので、込み入ったバスの中がいやになり、半年もたたないうちに、歩いて通うようになりました。自転車通学も認められていたはずですが、わざわざ歩いて通うようになったのには理由があります。

その当時の私がよく読んでいたのは、司馬遼太郎さんの小説と新田次郎さんの小説で、この当時本屋に出ていた二人の小説はほぼ全部読破していたかと思います。このうち、新田次郎さんの小説には山岳小説が多く、そのうちの一冊で「孤高の人」というのがあります。伝説的な登山家として知られる「加藤文太郎」という人を題材にしたもので、戦後すぐの復興期に天才的なクライマーとして世に出、人々に認められるようになっていくまでの生涯がつづられています。この本が気に入り、おそらくは5~6回は読み返したかと思います。

何がそんなに気に入ったかといわれると、ちょっと説明に困りますが、その生き方をかっこいい!と感じたからでしょう。どこがかっこいいか、といわれるとこれまた説明に窮しますが、その超人的なところをヒーローのように思っていたのだと思います。この加藤文太郎という人が天才といわれたのは、人が一日かかるような工程の山登りを半日でこなしてしまうほど足が速かったためで、かなり若いころから関西の登山界で着目を浴びたようです。山に登るのに登山靴ではなく、いつも地下足袋でのぼっていたので、「地下足袋の文太郎」と呼ばれていました。

好んで地下足袋を履いていたのではなく、貧乏で登山靴を買うお金がなかったからと言われていますが、そんな貧乏な境遇にもかかわらず、地道な努力をして上司に認められ、一流の技師に成長していきます。造船技師だったそうですが、わたしとしては、高校時代のこのころすでに、将来は何か海に関係する仕事をしたいと考えており、その自分の未来像に加藤文太郎を重ねていたような気がします。

周囲と歩調を合わせるのが苦手で、人嫌いと言われてもおかしくないような性格だったようで、登山でも誰かと一緒に登るのではなく、3000m級の山でもすべて「単独行」で登っています。本のタイトルが、「孤高の人」になっているのはそのためです。最後は単独行であるがゆえに、遭難して亡くなってしまうのですが、最後まで「ひとり」を貫いたその姿勢を「かっこえー」と思ったものです。

学校まで遠距離をもくもくと歩くようになったのはその頃で、加藤文太郎と自分を重ね合わせ、よーし、おれの人生も単独行でいくぞーと、いきがりっていました。寒い日も暑い日もせっせせっせとよくまあ歩いたものですが、おかげで人一倍足は丈夫になりました。その後、ホノルル時代にはフルマラソンにまで出場しましたが、このころの足の鍛錬のたまものだったかもしれません。

さて、このように、考えてみれば、その頃から歩くのは好きでした。この癖?は長じてからも治らず、ともかくどこか新しい土地に行くと、必ず自分の足でその土地のあちこちを歩き回ります。ただ単に歩くだけでなく、歩きながら、どこにどんなところがあるのかを見て歩き、とりわけ眺めのよい場所が好きでした。考えてみれば、高い山の上はもっとも眺めの良い場所に違いなく、山に上りたがるのも、できるだけ広範囲を見渡したかったのかもしれません。

と、いろいろ考えていたところ、以前このブログでも紹介した、広島在住の霊能者Sさんに前世のリーディングをしてもらったときのことを思い出しました。

Sさんによると、私の前世のひとつは、遠―い昔のアラビアンナイトの時代の行商人だったそうです。異国の町を旅してものを売り買いし、そのついでにその町々の情報を自国へ持ち帰って報告する仕事をしていたそうです。現代風にいえば、いわゆる「スパイ」ということのようで、そういわれてみるといろいろ思い当たる節があります。

たとえば、普通の人は、たいてい手帳やらメモ帳やらを持ち歩いて、スケジュールなどを忘れないように書き込むということをやるようですが、私はこれが大嫌いで、たいていのスケジュールは頭にしまいこみ、メモはとらないようにしています。このことをSさんに言うと、スパイは万一捕まった時にメモを持っていると正体がバレてしまいますからねー。なるべくメモはとらず、すべてを記憶することにしていたんでしょう。とのことでした。

自分の足であちこちを歩き回りたがることや、高い山の上に上りたがるのも、昔スパイだったときの名残・・・と考えると、なるほどうなずけたりします。うーん。ふ・し・ぎ・・・

Sさんによれば、私の前世はほかにもあって、大きな船で物品を動かす海の行商人だった前世もあるとか。その昔海に関係する仕事を選んだのも、ハワイに行くことになったのもそのためか・・・考えてみると、子供のころから、船に乗るのも大好きで、昔から船に乗るとワクワクどきどきしたものです。

・・・ハワイの話をもっと書こうかと思っていたら前世の話になってしまいました。が、まあこれはこれでよいか。私の前世の話はまだまだほかにも余談があるのですが、それはまた今度にしましょう。

それはともかく、このように、自分の好みや性癖はすべて前世からの名残と考えると、なかなか面白いものです。Sさんによる前世リーディングをみなさんが信じるかどうかは別として(わたしは無論、信じていますが)、半分夢物語としても、自分の性格から前世を想像してみるのもなかなか楽しいのでは。知り合いに霊能者がいなくても、すこしのあいだ、そういう想像にひたってみて、自分だけのタイムトラベルをしてみるのも面白いのではないでしょうか。