今日は、北条時宗が亡くなった日だそうで、その死は弘安7年(1284年)のことでした。といっても、旧暦の話なので、現在では4月20日ころになるようです。
鎌倉幕府の第8代執権で、内政にあっては北条一族の幕府内の権力の強化を図る一方で、モンゴル帝国の2度にわたる侵攻、つまり元寇を退け、このことにより日本の国難を救った英雄とも評される人物です。
しかし、二度目の元寇である弘安4年(1281年)の弘安の役後のわずか3年後の弘安7年(1284年)に34歳で病死しており、その亡骸は自らが開いた鎌倉山ノ内の円覚寺に葬られました。死因は結核とも心臓病とも云われています。
先日、この北条時宗の先祖である北条家の発祥の地、伊豆長岡に行く機会があったので、今日はこの北条家の一族のことを少し書いてみようと思います。
はっきりとしたことはわかっていないようですが、この時宗の死より40年ほど前には既に伊豆では現在の三島市の三嶋大社の近くに国府が造られたようです。仁治3年(1242年)ころに書かれた「東関紀行」には、「伊豆の國府に到りぬれば、三島の社の…」云々の記述がみられるそうです。
伊豆はそれ以前は流刑地であり、鎌倉幕府の祖である源頼朝が伊豆韮山の蛭ヶ小島に流されていたことは有名です。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられて以降頼朝は本拠を鎌倉におきつつも、まだこの地に残る反源氏の豪族の討伐を続け、かつて自分が流されていた伊豆の平定を続けていたことは想像に難くありません。
伊豆は、頼朝をサポートしてくれた北条氏の本拠地でもあり、国府の建設に至ったのはこの北条氏の意向でもあったことでしょう。頼朝は建久10年(1199)に53歳で亡くなっていますが、ちょうどこのころに書かれた「吾妻鏡」の文治5年(1189年)の記述には、田方郡内には南条・北条・上条・中条と呼ばれる地域が並んでいたとあるそうです。
田方郡というのは、現在は函南町の一町だけを有する郡部ですが、かつては、現在の伊豆市の大部分や三島市の一部、伊豆の国市の一部をも含む広いエリアであり、そのほとんどが北条氏が拠点としていた区域です。
北条氏は、「得宗」と呼ばれる嫡流を中心に名越、赤橋、常葉、塩田、金沢、大仏などの諸家に分かれ、一門で鎌倉幕府の執権、連署、六波羅探題などの要職を独占し、評定衆や諸国の守護の多くも北条一族から送り出しました。
その権勢を確立したのは、頼朝の舅である北条時政であり、娘北条政子が源頼朝の妻となったことから頼朝の挙兵に協力し、鎌倉幕府の創立に尽力したことはよく知られている史実です。
頼朝が征夷大将軍に任じられると、有力御家人としての地位を得、頼朝亡き後もその子源頼家・源実朝の外戚として幕府内で強い影響力を持ち、初代執権となりました。そして2代将軍頼家を追放し、修善寺に幽閉した上で謀殺。
さらに、3代将軍実朝をも暗殺して娘婿の平賀朝雅を将軍に立てようとしましたが、あまりにも自分に権力を集中させようとしたため、娘の政子や息子の義時の反発を招き、出家させられました。
そして、2代執権義時から数代にわたって北条家は、鎌倉幕府などの他の有力御家人を次々と排除し、執権政治を確立していきます。実朝を暗殺したあと、義時は京都から九条頼経を4代将軍に迎え、将軍の地位を名目的なものとし、後鳥羽上皇の討幕運動である承久の乱に勝利し、幕府を安定させることに成功しました。
こうして3代執権北条泰時の時代には、かの有名な「御成敗式目」が制定され、北条家は幕府の御家人としてその支配をゆるぎないものにしました。
以後、鎌倉幕府における権力の中枢は北条家に集まるようになり、得宗家の家臣は「御内人」と呼ばれ、しばしば得宗家の代官として各地の所領や守護所などに派遣され、権力をさらに強化しました。
上述の8代執権北条時宗のときに勃発した元寇もまた、結果としては北条氏にプラスになりました。これを機に軍事指揮権も獲得できるようになっためで、これによって西国での支配権をも強化することができるようになり、北条一門から鎮西探題、長門探題なども派遣されるようになりました。
これと同時に北条一門の諸国守護職の独占も進み、時宗の息子・9代執権北条貞時は平禅門の乱で内管領の平頼綱を滅ぼして得宗専制を確立しました。これらにより、北条系以外の御家人層の没落はますます進行していきます。
ところが、貞時の子・14代執権北条高時のころになると、そろそろその権力は末期を迎えるようになります。
京都では後醍醐天皇が、「正中の変」を引き起こそうとしますが、これはからくも未然に防ぐことができました。ところが後醍醐天皇は、引き続いて元弘の乱を1333年(元弘3年/正慶2年)に起こし、再度挙兵すると、御家人筆頭の足利高氏(尊氏)がこれに呼応しました。
尊氏は京都の執権北条家の拠点たる六波羅探題を滅ぼしましたが、これに上野国(現東京)の新田義貞も呼応し、高氏の嫡子千寿王(足利義詮)が合流すると関東の御家人が雪崩を打って倒幕軍に寝返りました。
こうして、反北条・反鎌倉幕府の勢力は増大しつづけ、ついに鎌倉が陥落。この結果、北条一族のほとんどが討死または自害し、鎌倉市域において行われた東勝寺合戦において、ほぼ北条氏は滅亡しました。
最後の執権は、第16代の北条守時でしたが、39歳であった彼は、新田義貞率いる倒幕軍を迎え撃つべく先鋒隊として出撃し、鎌倉中心部への交通の要衝・巨福呂坂という場所を拠点として、敵方と激戦を繰り広げ、伝説では一昼夜の間に65合も斬りあったとされます。
しかし、衆寡敵せず現在の神奈川県鎌倉市深沢地域周辺で自刃したと伝えられており、このとき、子の益時も父に殉じて自害しました。
そのほか、地方に守護職などで派遣されていた北条一族ものきなみ攻め滅ぼされており、第13代執権である北条基時の子であり、京都の北方六波羅探題(探題は北と南ふたつあった)であった北条仲時なども、後醍醐の綸旨を受けて挙兵に応じた足利尊氏(高氏)や赤松則村らに六波羅を攻められています。
このとき仲時は、親鎌倉幕府派であった光厳天皇・後伏見上皇・花園上皇を伴って東国へ落ち延びようとしたそうですが、近江国(滋賀県)の番場峠(現米原市)で野伏に襲われ、軍勢に行く手を阻まれ、やむなく番場の蓮華寺というお寺の本堂前で一族432人と共に自刃しています(享年28)。
かつて権勢をふるった北条得宗家は、彼等の復権を恐れる尊氏ら一派によってほぼ完全に根絶やしにされており、その中でも一番最後に葬られたのは北条時行だといわれています。
第14代執権北条高時の次男であり、文和元年(1352年)に、上野国で挙兵しようとしますが、武蔵国で尊氏とその子基氏に敗れて捕らえられ、翌年5月に鎌倉で処刑されました。
こうして葬られた北条一族の面々の墓の多くは、関東地方のあちこち、あるいは鎌倉に集中しているようですが、一族のもともとの出自である伊豆には、本家である得宗家を初めとしてその他の連家についても新しい墓はないようです。
おそらくは、伊豆長岡にある第2代執権の北条義時のものが一番古いものだと思われ、これは、伊豆の国市南江間にある臨済宗建長寺派の北條寺にあるものがそれだと言われています。
しかし、「吾妻鏡」には「頼朝の法華堂の東の山をもって墳墓となす」という記述があり、この頼朝の法華堂というのは、鎌倉市内にあるものです。
従って伊豆にある、北条得宗家の墓所というのは、伊豆の国市寺家の願成就院にある初代執権の時政のものと、その息子で義時の弟である北条宗時のものだけということになるようです。
函南町の函南駅周辺にその宗時の墓があるのですが、なぜ得宗家の本拠地であった伊豆の国市にないかといえば、頼朝が挙兵したとき、宗時は平氏方の伊東祐親軍に包囲され、この地で敵方の小平井久重に射られて死んだためです。
つまり、北条氏の発祥の地といわれる現伊豆の国市における一族の名残というのは、時政の墓のある願成就院とその関連寺院のいくつかと、あとその背後にあって、古北条氏の館跡があったといわれる「守山」という小高い山だけということになります。
山の中腹に古い砦跡があり、これに隣接して北条氏の館があったと伝えられているようですが、わずかばかりの遺構が発掘されているばかりのため、具体的な規模などはわかっておらず、これを復元しようとする動きなども今のところないようです。
この守山のすぐ側には狩野川が流れており、そのほとりにはソメイヨシノが30~40本ほども植えられていて、このあたりではこれでも有名なお花見スポットです。
先日退院してきたばかりの母を連れて、そのあたりを散策したのですが、少々お天気が悪く、曇りがちなのが残念でした。
お天気の良い日には、見張り番があったというこの守山の山頂から富士山も眺められ、遠くには鎌倉へと続く箱根山も望むことができるとともに、眼下には頼朝が居住していたという蛭ヶ小島や、北条早雲の居城であった韮山城跡のある小山もみることができます。
今日この北条氏の栄枯盛衰の話を書きながらこの景色を思い出し、この範囲なら自転車で巡るにはちょうどいいな、と思い始めているところです。
またもう少し季節が進んだら、これらの史跡をまとめて巡り、また新しい発見などがあったら、また今日のこのブログの続きを書くこととしましょう。