渡ってみたい三途川?

2014-1080592昨日の日経新聞の朝刊に、「観光列車」についての特集が組んであり、最近日本各地の鉄道で、次々と豪華な観光列車が導入されていることなどについて、現地取材に基づくレポートがなされていました。

昨年秋に登場した、JR九州の「ななつ星in九州」は、博多から3泊4日で九州を1周し、景勝地では時速30キロほどでゆっくり走るというもので、列車内の装備の豪華さもさることながら、その値段も超豪華で、3泊4日で38~95万円(車中2泊・旅館1泊)もするそうです。

1泊2日のコースもあって、こちらは15~ 40万円(車中泊)と比較的リーズナブルですが、誰がこんな高い列車に乗るのかと思いきや、昨年10月に運行を開始して以降、ひっきりなしに予約が相次いだため、その後は切符の入手は抽選となり、この列車に乗れる倍率はいまや10倍とも20倍ともいわれているようです。

不況下での運行開始でもあり、当初は中国などのアジアの富裕層の利用が多いのではと予想されたようですが、なんのなんの国内需要のほうがすごく、関東・関西の都市圏を中心として多くの日本人が利用しているということです。

ななつ星の「ななつ」の意味は、九州の7つの県(福岡県・佐賀県・長崎県・熊本県・大分県・宮崎県・鹿児島県)と、九州の主な7つの観光素材、自然・食・温泉・歴史文化・パワースポット・人情・列車、そして7両編成の客車を表現したということで、これだけ盛りだくさんの素材を満喫するには、やはり最低でも4日は必要ということのようです。

このため、列車もチョー低速で走るみたいで、一応「特急列車」ということなのですが、時速は50kmまでしか出さないそうです。JR九州の担当者は、最近の旅行は「自分だけの物語づくり」と考えているそうで、何か体験したり地元の人とふれあったりする時間を楽しむ旅行が人気で、これは消費全般にも通じる傾向だと分析しているようです。

このななつ星の盛況を受け、柳の下のどじょうを探せ、ということで、他の鉄道でも観光列車の導入が進んでおり、熊本・鹿児島間を結ぶ、肥薩おれんじ鉄道の「おれんじ食堂」や、近鉄の「しまかぜ」、JR東日本の、「東北エモーション」「SL銀河」「越乃シュクラ」といった列車が次々導入されています。

このほか、長野県の「しなの鉄道」も、「ろくもん(ROKUMON)」という観光列車の導入を予定しており、新たな旅客需要の創造や沿線地域の活性化などを目的に、7月から軽井沢~長野間で運行するようです。

ただ、通年運航ではなく、土休日や夏休み・冬休み・春休み期間などを中心に年間180日程度だけ稼働する予定だといいます。観光列車に使用される車両は、同社の現有車両を改造した3両編成で、車内の床やイス、テーブルなどに長野県産材を使用し、子供の遊び場を設置し、ファミリーやグループ向けに仕立てるとか。

沿線地域の景観を楽しみながら食事できるカウンター席やソファ席を配置し、車両のひとつには2人組の客が食事を楽しむことができるよう、個室的な空間も設けられるそうです。

長野県はここ静岡にも近く、我々も興味深々なのですが、いくらするのかな、と調べてみたところ、食事付プランで12,800円だそうで、結構リーズナブルです。軽井沢発と長野発の両方あって、それぞれ2時間半程度の運行のようです。

すでに4月から予約受付が始まっているようなので、ご興味のある方は「しなの鉄道」のホムペに行ってみてください。

ところで、この列車の名称「ろくもん」は、沿線地域を代表する戦国武将・真田氏の家紋・旗印である「六文銭」が由来だそうで、このため、この列車の外観も真田幸村の武具の「赤備え」をイメージした濃い赤色が基本色で、これは「ろくもん赤」という正式名称があるのだとか。

真田家では、幸村の先祖にあたる真田幸隆という人が中興の祖とされており、この戦国時代の武将は、信濃の在地領主から甲斐国の戦国大名である武田氏の家臣となり、息子三人と共に、武田二十四将にも数えられるほどになりました。

幸隆の智略と功績は武田信玄にも高く評価され、外様衆でありながら譜代家臣と同等の待遇を受け、甲府に屋敷を構えることを許され、武田家中でも一目置かれていました。

六文銭の紋章は、この幸隆の代に定められたようで、「六文銭」といえば、三途の川を渡るための船賃という不吉な意味を持ちます。

なぜそんな不吉なものを紋章としたかといえば、幸隆はかつて仕えていた山内上杉家を見限って武田家へ移ってきたといういきさつがあり、身命を賭して武田家に仕えて家名を残す、という強い覚悟主君に示すために、この旗印を用いることにしたそうです。

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それにしても、三途の川を渡るための賃料がなぜ「六文」なのか、ですが、そもそもこの三途の川の「三途」というのは、「三種類の渡河方法」を指すことばだったそうです。

その三つとは、善人は金銀七宝で作られた橋を渡り、軽い罪人は山水瀬と呼ばれる浅瀬を渡り、重い罪人は強深瀬あるいは江深淵と呼ばれる難所を渡る、というものでした。

しかしながら、平安時代の末期に、まず「橋を渡る」という考え方が消え、その後は全員が渡舟によって渡河するという考え方に変形し、このときに渡船料金が六文と定められたそうで、以後、仏教様式の葬儀の際には六文銭を持たせるという習俗が続くようになりました。

なぜ六文か、の答えにはなっていませんが、これは私の推測ですが、この当時の物価価値として、渡船料金は六文程度だったのでしょう。

この三途川という概念は、中国からもたらされた仏教からきており、もともとは、地獄・餓鬼・畜生の3つを「三悪道」と称し、この三悪道の「道」が「川」に変化して三途川と称するように変わっていったといわれています。

中国で成立した「十王経」という経典にこれらのことが書かれているといい、この経典の日本への渡来は飛鳥時代と思われ、さらに三途の川信仰として広まったのが平安時代末期とされています。

正式には「葬頭河」というそうで、また三途の川以外にも「三途河」という当て字もあり、これは「しょうずか(正塚)」と発音するようです。ほかに地方によっては「三瀬川」、「渡り川」などとも呼ばれる場合もあるということです。

仏教でいう地獄には、複数の王様がいて、これはいわゆる裁判官的な尊格ですが、10人いたため「十王」と呼び、これは現在においてもよく知られる、不動明王、釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩、地蔵菩薩、弥勒菩薩、薬師如来、観音菩薩、勢至菩薩、阿弥陀如来など、我々にもなじみの深い仏様です。

それにしても地獄なのに仏様?と思うかもしれませんが、「地獄に仏」とよく言うように、もともと仏教ではこれらの仏様、というよりも仏教でいうところの「王」が地獄で亡者の裁判をするという思想がありました。

ちなみに、閻魔大王に相当するは、このうちの地蔵菩薩であるといわれています。

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また、三途川にはこの十王の配下として位置づけられる、懸衣翁(けんえおう)、奪衣婆(だつえば)という老夫婦の係員がおり、六文銭を持たない死者が来た場合には、渡し賃のかわりに衣類がこの二人によって剥ぎ取られるということになっていました。

奪衣婆が服を剥ぎ取る役、懸衣翁はこれを「衣領樹」という木の枝に掛けるという役割分担で、衣領樹に掛けた亡者の衣の重さにはその者の生前の業が現れ、その重さによって死後の処遇を決めるとされました。

罪の重い亡者は三途の川を渡る際、川の流れが速くて波が高く、深瀬になった場所を渡るよう定められているため、必ず衣はずぶ濡れになって重くなり、衣をかけた枝が大きく垂れることで罪の深さが示されます。

また亡者の中には生前さらに深い罪を犯しているため、服を着ていない場合があり、この亡者は代わりに奪衣婆によって生皮を剥ぎ取られてしまいます。

この二人の係員のうち奪衣婆は、俗説ではありますが閻魔大王の妻であるともいわれており、江戸時代末期には、民衆信仰の対象となり、盛んに信仰されました。

奪衣婆を祭ったお堂などが建立され、ここにお参りすると疫病除けや咳、特に子供の咳止めに効くといわれました。東京の世田谷区の宗円寺や、新宿区の正受院が奪衣婆を祀る寺として知られ、正受院の奪衣婆尊は、咳が治ると綿が奉納され、像に綿がかぶせられたことから「綿のおばあさん」「綿のおばば」などとも呼ばれています。

この「今生」と「あの世」を分ける川があるという考えは、仏教概念として三途川思想が渡来する以前より日本にあったらしく、古墳時代すでに「境界としての川」のイメージがあったという説もあります。なので、もしかしたら三途の川の概念は、飛鳥時代よりはるか前からシルクロードを通って既に日本に導入されていたかもしれません。

これを裏付けるように、三途の川と同じような川は、ギリシア神話にも登場します。「ステュクス・アケロン」という川が想定されており、そこにはカローンという渡し守がいます。

このカローンは、ボロボロの服を着て櫂を持ち、ギラギラした光る眼と長い髭を持つ無愛想な老人で、死者の霊を獣皮を縫い合わせた小舟で彼岸へと運びました。このアケロン川の渡し賃は1オボロスとされていたそうです。

オボロスと六文が、同じ程度の価値があるのかどうかはわかりませんが、江戸時代の一文はだいたい10円ぐらいではないかといわれていますから、文を基準にするなら、大昔の渡船料金はだいたい5~60円ほどということになります。安いですよね。

古代ギリシアでは死者の口の中に1オボロス銅貨を含ませて弔う習慣があったそうで、1オボロスを持っていない死者は後回しにされ、200年の間その周りをさまよってからようやく渡ることができたといいます。つまり、たった50円ほどの金も持てずにあの世に行くというのは、よほど生前悪いことをした人、ということになります。

日本における三途の川ですが、これは実際の川にもそう名付けられものがいくつかあります。

群馬県を流れる利根川水系の白倉川支流には、その名も三途川というのがあるそうです。この川に架かる国道254号の橋はその名も「三途橋」だそうで、この三途橋のたもとには、奪衣婆を祭った姥子堂もあるといいますから、奪衣婆に自分の罪を占ってもらいたかったら、この場所へ行ってみるといいかもしれません。

このほか、千葉県の長生郡長南町を流れる川も三途川であり、宮城県刈田郡蔵王町を流れる川も三途川と呼ばれていて、このほかの各地にも三途の川は存在するようです。

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イタコで有名な青森県むつ市の恐山にも三途川があり、これはむつ市を流れる正津川の上流部の別名です。ここに霊場恐山があるため、こう呼ばれているようですが、もともとの河川名の「正津川」も、仏教概念における三途川の別名だそうです。恐山の麓にある宇曽利山湖の周辺には、この三途の川の河原であるとされる「賽の河原」もあります。

賽の河原は、親に先立って亡くなった子供がその親不孝の報いで苦を受ける場とされており、そのような子供たちが賽の河原で積み石(ケアン)をすると罪が許されるといいます。が、この積み石はいつも完成する前に鬼が来て壊してしまい、再度、再々度築いてもその繰り返しになってしまいます。

このことから、「賽の河原」という言葉は、かつては「報われない努力」「徒労」の意で使用されることもあったそうです。

とはいえ、こうした水子達は、最終的には地蔵菩薩によって救済されるとされており、上に書いたとおり、この地蔵菩薩こそ、閻魔大王です。ただ、こうした賽の河原に関する話は、いずれにもが民間信仰による俗信であり、本来の仏教とは全く関係ないそうです。

賽の河原は、京都の鴨川と桂川の合流する地点に「佐比の河原」というのがあり、これに由来したネーミングだという説があり、ここで京都の市民が、地蔵の小仏や小石塔を立てて亡くなった人の葬送を行ったといわれています。

その後の時代ではこうした仏教の地蔵信仰と民俗的な道祖神が集合してごっちゃになり、道祖神のことを「賽(さえ)」ともいうことから、こうした葬儀を行う河原の中の土地を賽の河原と呼ぶようになっていったようです。

この三途の川や賽の河原ですが、いわゆる「臨死体験」をしたことがある人が、実際にここを渡ったと証言する例が、日本でも数多く報告されています。

ノンフィクション作家の立花隆さんが、その実例を調べたところ、国内だけで243件もの臨死体験例が収集できたそうで、これを分析した結果、これらの臨死体験には、体外離脱やトンネル体験(あの世に行くときにトンネルのようなところを通る)、光体験といった欧米の人達がよく経験するものも多かったそうです。

ところが、日本人の場合は、これ以外にも三途の川やお花畑に出会ったという人が多く、その体験数の比率は欧米よりも高く、逆に光体験に出会う確率は低いという調査結果になったといいます。

また日本人の臨死体験者でも光体験は多く報告されていますが、それはあくまで自然的な光であり、欧米の臨死体験者と比べて「愛」や「神」としてそれを認識する者は少数であるというデータもあるそうです。

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このように、日本と欧米などのように文化が異なると臨死体験が異なるのはなぜかということについては長いこと心霊研究家たちの議論の焦点となっているそうで、地域により臨死体験の内容に違いが見られる事から、その地方地域において信じられている宗教による脳内イメージによるものとする解釈もあるようです。

しかし、キリスト教文化圏での臨死体験の中に、神の審判、地獄といったイメージがほとんど現れておらず、日本においても、臨死体験として、仏様に出会ったという事例や仏教絵画などにもよく登場する「閻魔大王」などのイメージは出てきません。

なのに、なぜ「三途の川」やお花畑なのか、欧米では光体験なのかについては、疑問が残ります。

私的解釈では、これはその臨死体験をした人たちが帰依する「霊団」の性格によるものなのかもしれないと考えています。

スピリチュアル的なことを信じていない人には、俄かに信じがたいことかもしれませんが、霊界では魂の偉大さ、霊性の高さ、つまり奉仕的精神、人や動物への愛の強さが重んじられ、その地位は地上時代に培った霊性の成長度によって決まります。

霊界には、地上人類に真理をもたらすために組織された一団があり、これは地上へ行っては学んで帰ってくる霊たちを指揮する高級な霊の集団であり、これを霊団といいます、霊団たちの下にはもっと低いレベルの霊たちがいて霊団の人達の指導を受けていますが、これらの低いレベルの霊が我々のように地上で色々苦しいことを経験している霊たちです。

なので、この高級霊たちが司るあちらの世界が、主に光で形成されているときには、臨死体験として光を感じ、また緑や水の豊かな世界ならば、その故郷へ一時帰国したときには、三途の川やお花畑を見るのではないか、と考えることができます。

つまり、日本には日本独特の霊団があり、日本人の多くはこの霊団に属しているため、臨死体験をした多くの人が三途の川やお花畑を見るというわけです。

臨死体験したときに、どんな世界を見るかについては、このように日本と欧米に違いがあり、さらには他のアジア諸国やアフリカなどでも違うようですが、それはともかく、何故臨死体験をするのか、についても諸説があり、これについては医学や科学の面から、合理的に説明しようとする人達も多いようです。

が、科学者たちの多くはこの現象を、必ずしもうまく説明できていません。一方では、臨死体験者たちの多くは、自らの体験を「肉体から魂が離れ死後の世界を垣間見た」ものであったと考え、スピリチュアル的な観点からこれを説明されて納得する人も多いようです。

医学や科学の世界でも第一人者といわれるような研究者の一部も、その主張をそのまま受け入れており、それらを体験知として認めていくトランスパーソナル心理学といった学問体系も確立されつつあるといいます。

このトランスパーソナル心理学というのは、1960年代に展開されはじめた心理学の新しい潮流で、基本的にはスピリチュアル的な事象を認めた上で、人間心理を研究しようというもので、行動主義心理学、精神分析、人間性心理学に続く第四の心理学ともいわれています。

このように、あの世は存在する、というのは科学者の間でも広く認知されるようになってきており、アメリカでは1975年ごろに、アメリカ人医師のエリザベス・キューブラー=ロスと、同じく医師で心理学者のレイモンド・ムーディが相次いで臨死体験に関する著書を出版したことで一躍注目されるようになりました。

そのひとつのキューブラー=ロスの「死ぬ瞬間」という本は、約200人の臨死患者の経験を聞き取りして取りまとめられたもので、これ以後、アメリカでは臨死事例に関する統計や科学的アプローチがさかんに行われるようになりました、

1982年には、やはり医学博士のマイクル・セイボムも調査結果を出版し、これらの一連の動きを受け、1977年には「臨死現象研究会」なるものが発足し、これは後に国際臨死体験研究会(IANDS)に発展し、国際会議が開かれるほどになりました。

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アメリカには、ギャラップ調査と呼ばれる有名な世論調査がありますが、これは社会調査を行うギャラップ社というコンサルティング会社が、ワシントンD.C.本社を置き、世界の30近くの国に拠点を設けて手掛けているものです。

日本にも1995年に日本オフィスが開設されていますが、この調査は世論調査と呼ばれるものの先駆け的存在であり“Gallup Poll”と呼ばれて、世界的にも高い信頼を得ています。

そのギャラップ調査による臨死体験の調査が、IANDSの依頼によって1982年に行われ、このときに調査されたアメリカの臨死体験者の総数は数百万人に及んだといわれています。

こうした調査によれば、通常の臨死体験者の23%が人生回顧の場面を体験しているといいます。英語では「ライフレビュー」といい、この体験は、かつての自分の人生の全ての瞬間が強い感情を伴って再体験されるものです。

同じ臨死体験でも、病気による臨死体験のときよりも、事故による臨死体験の時のほうが人生回顧現象が起こることが非常に多いそうです。

人生回顧では、日常では忘れていた過去の全体験がパノラマとなり、ホログラフィックな立体映像となって瞬時に目の前に再現されるといいますが、その際には体験者である自分の視点だけではなく、かつての自分が影響を与えた他の人のたちの視点からも出来事を再体験することができるそうです。

過去に自分が他人を傷つければ、傷つけられた他者の視点からその体験を味わうことになります。しかし逆に喜びを与えればそれも再体験されるといい、こうした体験により、蘇生後は他者への思いやりや自己への責任感が飛躍的に強まるともいいます。

また、かつての他人が当時どういう心境でいたかも全て解るため、たとえ他人に酷い仕打ちを受けた過去であっても、それを許す気持ちが積極的に芽生えるといいます。

この回顧体験には「光の存在」が現れることがあるといい、これが現れる場合と現われない場合では、現れる場合のほうがよりその体験が強烈になることも報告されているそうです。

この光の存在は、一切批判も称賛もせずに回顧体験を見守り続け、臨死体験者が生前の自分の行動の是非を光の存在に尋ねると「あなたのその行動の動機は愛情だったのですか」などと逆に質問するそうです。

つまりは、この光の存在というのは、上で紹介したように、自分が所属する霊団のリーダーということなのでしょう。なぜそのリーダーのところへ呼ばれることになったのかはよくわかりませんが、その人の人生のある時期において、そうした臨死体験がどうしても必要だとこのリーダーは考えたのでしょう。

臨死体験者をした人にその後、多くの「良い変化」があることも報告されており、例えば、
何気ない会話、行動、自然など、日々の生活にある「当たり前のもの」を評価するようになる、他者からの評価を気にせずに、ありのままの自分を認められるようになる、他者への思いやりが増大するといったことがあるようです。

また、生命への尊敬の念が高まったり、社会的な成功のための競争への関心が弱まる、物質的な報酬への興味が薄れる、精神的な知識への強烈な渇きを覚えるようになる、といった変化も現れることも多く、臨死体験経験後には死への恐怖すらも克服されることが多いといいます。

何よりも臨死体験によって、死後の世界があることを確信し、生まれ変わりの存在についての肯定できるようになることは、「光への信頼」にもつながり、その助けを得て小さな自己という殻を破り、宇宙全体へと開かれていく、といった大きな心の成長が望めるようになるのだと、といいます。

アメリカに住むある臨死体験者は、自らの変容について、「臨死体験が起きる前、私の優先事項は滅茶苦茶だった。その順位が完全にひっくりかえった。一番上だったものが一番下になった。人生を一日一日大切に生きるということがわかった」と語っているそうです。

なので、三途の川を渡る夢やお花畑にいる夢を見た人は、たとえ夢であったとしても、もしかしたらプチ臨死体験をしているのかもしれません。

朝目覚めてみて、その日一日が「良い変化」に満ち満ちていたら、きっと光の存在から何かを伝授されたに違いありません。

臨死体験をしたことのない皆さんも今夜はぜひ、そんな良い夢をみてください。

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