今年は午年ですが、先日のこと、新聞で6月に行われる公的行事の一覧表をぼんやり見ていたら、スポーツの欄ではやけに競馬の大会が多いのが目につきました。代表的なものは国内では東京駿馬、安田記念のほか宝塚記念などがあり、イギリスでも、かの有名な「ダービー」(正式名はダービーステークス)」が開催されます。
実は、日本はアメリカ合衆国、オーストラリア、アルゼンチン、アイルランドに次ぐ世界第5位のサラブレッド競走馬生産国であり、世界的にみても競馬がさかんな国のひとつです。この競馬競技を支えるために、北海道の日高地方、青森県、岩手県などで競走馬を生産する牧場がたくさんあり、ばんえい競走の重種馬も北海道の各地で生産されています。
この競走馬ですが、オスの競走馬のことを、「牡馬」と書き、おうま、おすうま、ぼば、おま、などと呼びます。また、メスの馬は、「牝馬」と書き、こちらは、めうま、めすうま、ひんば、めま、と呼びます。種オス馬と繁殖メス馬を交配させ、繁殖メス馬を妊娠させて繁殖させますが、この交尾は一般に、毎年春に起こるメス馬の発情にあわせて行われます。
生まれてある程度成長したら、競走馬として扱われることにウマを慣れさせますが、これを「馴致」を行うといいます。もっとも初歩的な馴致は人間の存在に慣れさせることであり、1歳になると馬具の装着に慣れさせ、最終的には人間が騎乗することにも慣れさせます。
その後競走馬は「厩舎」に入ることになりますが、その前に仔馬に対し、競走馬としての基礎的なトレーニングを積ませます。これを「育成」といい、1歳後半から2歳の前半にかけて育成牧場で行われる騎乗馴致、騎乗訓練、調教などがあります。
競走馬用のウマは当初は生産者が所有しますが、やがて馬主によって購入されます。一般的な時期は生まれた直後から2歳にかけてです。購入方法はセリ市(セール)による場合と、生産者と馬主の直接取引(庭先取引という)による場合とがあります。
競走馬として登録され、デビューに備えて管理にあたる調教師の厩舎(トレーニングセンター)に預けられます。入厩の時期は一般に2歳の春から夏にかけてであり、競走に出走するまでに競走馬名が決定すします。日本においては2歳の春、すなわち4~7月頃以降に競走に出走することとなります。
3歳馬になるのもこの季節です。このため、3歳馬レースの代表的存在であるダービーステークスなどのレースが行われるのもこの季節が多くなり、これが6月に競馬がたくさん開催される理由です。
ダービーステークス(Derby Stakes)の略称である、「ダービー」とはこれを創設した人の名前です。一方、ステークスとは、近代競馬の成立以後、イギリスで賞金を懸けての競走が盛んに行われるようになった際、その賞金を拠出するため、レースに所有馬を出走させる馬主が賭け金、すなわち“stake”を出し合ったのに由来します。
この賭け金のこと、もしくはこれを集めたものは“stakes”と呼ばれ、やがては勝者あるいは事前に定められた番手の入着馬までに分配するという方法そのものをステークス方式と呼ぶようになりました。
ダービーはロンドンから南に約30キロ離れた、エプソム競馬場で行われる競技です。競争距離は約2400メートルほどで、他国のダービーと区別するために、特に欧米ではエプソムダービー(Epsom Derby)という表記も多く見られ。日本のメディア、特にテレビなどではイギリスダービーと呼ぶこともあります
1776年にセントレジャーステークスの盛大さを見たダービー伯爵(エドワード・スミス=スタンリー)とイギリスジョッキークラブ会長のチャールズ・バンベリー準男爵、そしてスタンリーの義叔父であるジョン・バーゴイン将軍の3人によって、1779年に創設されました。
セントレジャーステークスとは世界最古のクラシック競走であり、競走名は18世紀のスポーツ愛好家であったアンソニー・セントレジャー陸軍中将に由来します。出走条件は3歳限定で繁殖能力の選定のために行われるため、去勢を行ったオス馬、これを騸(せん)馬といいますが、当初はこの出走はできませんでした(現在は可)。
また、クラシック競走(Classic Races)とは、古くから施行されていた伝統的な競馬の競走を指す言葉です。
サラブレッド競馬である、2000ギニー(1809年創設。3歳オス馬メス馬限定)、1000ギニー(1814年創設。3歳メス馬限定)、オークス(1779年創設。3歳メス馬限定)、ダービーステークス(1780年創設。3歳オス馬メス馬限定)、セントレジャーステークス(1776年創設。3歳オスメス馬限定)の5競走を“British Classics”(英国クラシック競走)と呼びます。
これに習い、日本でもこの5競走に相当する3歳馬のための皐月賞、桜花賞、優駿メス馬(日本版オークス)、東京優駿(日本ダービー)、菊花賞を「クラシック競走」と称するようになりました。
ダービーステークスは、メス馬専用競争であるオークスステータスのオス馬版として創設されました。オークスステークス(The Oaks Stakes)というのは、ダービーと同じくエプソム競馬場で例年6月に行われる競馬のクラシック競走で、3歳のメス馬限定戦です。距離はダービーと同じです。
オークスのほうは、エドワード・スミス=スタンリ伯爵が自身と友人の所有するメス馬同士のレースを行ったのがレースの始まりで、オークスはこの伯爵の領地名です。ダービーと同様、他国においてもこれにならった競走を「オークス」と称する事例が多数見られ、日本では優駿牝馬(ゆうしゅんひんば)がメス馬ばかりのオークスになります。
一方のオス馬レース、ダービーの名称は、1780年に創始者のダービー伯爵とバンベリー準男爵の間でいずれの名を冠するかをコイントスによって決定したことに由来します。
ダービー伯爵はバンベリー準男爵を尊重して、これをバンベリーとしたかったようですが、当の準男爵は片田舎のレースに自分の名を冠されることをよしとせず、結局くじで決めることになったというわけです。
出走条件は当初、3歳オス馬とされましたが、その後は条件が緩和され、メス馬も走っています。ただし、優勝馬の数はオス馬が圧倒的に多くなっています。
ただ、オス馬は、競走時に興奮しやすい難点を抱えています。これが競走能力を妨げていると判断された場合、気性を穏やかにし、能力を発揮しやすくするために去勢がなされることがあります。この去勢されたオス馬は、上でも述べたようにせん馬(騸馬)として区別されます。
また、特に障害競走においては、オス馬は去勢しないと危険であり、事故の危険が高まるといわれています。このため、イギリス・フランスやオーストラリア・ニュージーランドなど障害競走を有する多くの国では、障害馬はほとんどがせん馬ですが、日本においては障害馬でも去勢されないことが多いようです。
去勢によって能力が開花する馬も多く見られますが、去勢によって繁殖能力を喪失するため、そもそも優秀な繁殖馬の選定を目的としたクラシックなどの重要な競走では、出走権が無くなるというのがその理由です。
ダービーもまた、繁殖馬の選定のために行われるレースなので騸馬の出走はできません。かつては出走できた時期もありましたが、騸馬が優勝したことはありません。
ウィンストン・チャーチルはかつて、「ダービー馬のオーナーになることは一国の宰相になることより難しい」と述べたといわれていますが、実はこれは後世の創作であることが確認されており、それが巷間信じられているほど、ダービーに勝つことの難しさとその名誉を物語っています。
現在、世界各国で本競走を模範としてダービーの名を冠した競走が開催されています。本場イギリス以外ではアメリカ合衆国のケンタッキーダービーが有名であり、日本の東京優駿なども国内最大級の競走で知られています。
この東京優駿(とうきょうゆうしゅん)とは日本中央競馬会(JRA)が東京競馬場の芝2400mで施行する競馬競走です。一般的には副称である「日本ダービー」が広く知られており、現在の日本の競馬においては代名詞とも言える競走です。正賞は内閣総理大臣賞をはじめ日本馬主協会連合会会長賞・東京馬主協会賞、朝日新聞社賞などです。
1932年(昭和7年)にダービーステークスを範として創設されたもので、後に創設された皐月賞・菊花賞とともに「牡(オス)馬三冠競走」を構成するようになり、第3回より施行場を現・東京競馬場(府中)に変更して以降は、開催地・距離ともに変更されていません。
日本の競馬に関わる全ての者が目標とする競走で、とくに騎手は本競走を優勝すると「ダービージョッキー」と呼ばれます。1973年までは日本国内の最高賞金競走でしたが、その後、国内最高賞金レースはジャパンカップや有馬記念になりました。しかし2013年から1着賞金が2億円に引き上げられ、有馬記念と並んで2番目の高額賞金競走となりました。
また、皐月賞は「最も速い馬が勝つ」、菊花賞は「最も強い馬が勝つ」といわれるのに対し、本競走は「最も幸運に恵まれた馬が勝つ」といわれます。日本の競馬における東京優駿の位置づけは特別で、創設期には国内に比肩のない大競走でした。
そもそもこうしたレースが作られたのは、日露戦争の勃発に由来します。この戦争で内外の軍馬の性能差を痛感した政府は、国内産馬の育成を奨励するようになりましたが、1908年(明治41年)にギャンブル性が高いとして馬券の発売が禁止されると馬産地は空前の大不況に見舞われました。
その後、大正中期になって、元陸軍騎兵大尉で、その後貴族院議員にまで上り詰め、東京競馬倶楽部会長に就任した安田伊左衛門に対し、産馬業者から、「イギリスのダービーステークスのような高額賞金の大競走を設けて馬産の奨励をしてほしい」という要請がありました。
この提案を自身の構想と合致すると考えた安田は、日本国内の馬産の衰退を食い止める手段としてダービーステークスを興すこととし、4歳(現3歳)オス馬・メス馬の最高の能力試験として、「東京優駿大競走」を創設しました。
施行時期は原則的に春季とし、1930年(昭和5年)にはオス92頭・メス76頭の計168頭が登録。第1回競争は1932年(昭和7年)4月24日に目黒競馬場(旧・東京競馬場)の芝2400mで施行されました。この競走の模様は各馬の発走前の様子から本馬場入場、表彰式に至るまで全国へラジオ中継されたといいます。
優勝馬の賞金は1万円、副賞として1500円相当の金杯のほか付加賞13530円が与えられ合計で2万5000円ほどとなりました。これは、今日の価値では6~7千万円ほどになります。現在の日本ダービーの賞金と比べると少々少なめですが、それでも従来の国内最高の賞金が6000円でしたから、賞金の額も飛び抜けて破格でした。
この東京優駿からは出走馬の登録年齢は2歳(現1歳)とされました。それまで日本国内では出走馬の登録年齢などは不確定でしたが、これにより国内における競走馬の生産、育成、競走と種馬(オスメスとも)選抜のサイクルに初めて明確な指針が与えられました。
国際的な格付も1984年(昭和59年)からは最高の「GI」にあげられました。しかし、日本の競馬は近年、東京優駿を頂点とする従来の国内の競走体系から、距離やその他のカテゴリーごとにチャンピオンを決めるという体系に遷移しており、本競争が必ずしも全ての競走馬の頂点というにはあたりません。
ただ、1年間の競馬を象徴するときにもしばしば本競走の優勝馬が挙げられており、日本競馬界の象徴であり最大級の目標であるという点については創設以来の価値を保っているといえます。このため、多くの馬や騎手が今もこのレースに出ることをめざして、日々の訓練に明け暮れています。
この「騎手」ですが、言うまでもなく、馬を操縦する人のことです。競馬制度は国家・地域によって異なり、それぞれに独自の競馬文化と歴史を有し、開催運営や人材育成のシステムが築かれていますが、日本における「騎手」は、競馬の競走への参加に必要な公的なライセンスとしての資格称号となっています。
英語では騎手のことをジョッキー(jockey)といいますが、もともとこれは、イギリス人に多い、ジャックやジョンという名の蔑称であるジョックに由来します。これがジョッキーと訛るようになり、単に競馬好きや馬好きを表すようになりましたが、日本でも太郎はポピュラーな名前であり、特定商品名やキャラクターをさして何々太郎と呼ぶのと同じです。
現在のような意味になったのは、騎手や調教師、馬主が分業されるようになった19世紀以降のことで、日本では俗称として「乗り役」とも言い、英語表記を略して「JK」と呼ぶこともあります。
騎手の仕事とは、無論、競走馬を正しく操縦し、決勝線に到達するまで可能な限り全能力を発揮させることです。このため、騎手が落馬した場合は落馬した地点に戻って再騎乗しなければならず、元の場所に戻らないで決勝線に到達しても正規の到達とはみなされないという厳しい規則があります。
落馬した地点に馬を戻すというのは現実的には不可能に近く、このため再騎乗をあきらめて競走中止となる場合も多いようです。
日本では、「競馬法」という専用の法律まであり、農林水産大臣の認可を受けた日本中央競馬会(JRA)と地方競馬全国協会(NAR)がそれぞれ試験を実施し、騎手の免許を交付しています。JRAの競馬学校、またはNARの地方競馬教養センターの騎手課程を経て、受験資格を得るのが一般的であり、この資格は国家資格でもあります。
中央競馬では平地競走と障害競走で、地方競馬では平地競走とばんえい競走でそれぞれ免許を交付しています。普段我々がよく目にすることが多いのはテレビなどで放映されることの多い平地競争のほうでしょう。
現在、中央競馬及び地方競馬とも、騎手免許と調教師免許を同時に持つことはできません。つまり、調教師が自分の管理する競走馬に乗ってレースに出走することは現行の規定では不可能です。
これは現在では当然ですが、1930年代以前は「調教師兼騎手」は珍しい存在ではありませんでした。調教師と騎手の業務が分離されるようになったのは、1937年に日本競馬会競馬施行規定が規定されてからです。戦後も一時期兼務が可能でしたが、1948年より調騎分離が厳格に適用されることになり、現在に至っています。
平地競走の騎手は着衣や馬具を含めて50数キロでの騎乗が求められることから、特に体重に関しては並の職業の比ではない厳しい自己管理が必要となり、なおかつ馬に乗り操縦し競走を行うための専門的な騎乗技術が必要です。また、競馬関連法規や騎手としての競走の公正確保のために必要な知識や情報を学習することも必要とされます。
このため、一般の素人がある日いきなり騎手になるということは極めて困難であり、よって極めて専門性の高い教育が必要なスポーツです。このため多くの国では騎手業のライセンス制度が整備されており、日本でも騎手養成のための教育機関や養成所が設置されています。
日本の場合、中央競馬では1982年、騎手養成機関として千葉県に競馬学校が設立され、騎手課程が設けられました。養成期間は3年。この競馬学校の受験資格は、年齢は義務教育卒業から20歳までであり、このため現役の大学生や短大卒・大卒は受験が困難か不可能です。さらに体重は育ち盛りの年頃でありながら、入所時に44キロ以下が求められます。
地方競馬では栃木県に地方競馬教養センターがあり、ここの騎手養成は2年間であり、入所条件はほぼ同じです。どちらの機関でも、卒業前に騎手免許試験を受験して合格し、騎手免許を取得した上で、晴れて騎手となることができます。
試験である以上、不合格となり騎手免許が取得できないこともあり、この場合は次の機会を待ち再度受験する必要があります。中央競馬では年一回のチャンスしかありませんが、地方競馬は年に複数回の騎手免許試験が実施され、年度途中の騎手デビューも珍しくありません。
海外の場合、オーストラリアのように、騎手養成所のカリキュラムを修了し、騎乗技術と公正確保に支障のない人物なら、騎手ライセンスを比較的容易に取得できるという国もありますが、日本は少数精鋭主義を取り、最初の養成機関の入学試験から卒業までの時点でふるいを掛け続けて、徹底的に絞り込む「狭き門」です。
ただし、騎手免許試験については上記の養成機関への在籍経験を持たない人物でも、必要条件を満たせば受験自体は可能です。このため、上記の養成機関に入ることができなくとも、あるいは中退を余儀なくされても、騎手として必要な乗馬技術を持っていれば、俗に「一発試験」などと呼ばれる形で騎手免許試験を受験することができます。
ただ、これについては建前論的であり、特に実地科目では一般的な乗馬技術だけでの合格点到達は現実的に見て不可能で、一般的な乗馬や馬術の経験者が受験したところで合格の可能性は限りなくゼロに等しいといわれます。このため、競馬学校を経ない場合は、見習騎手等の形で騎乗経験を積むなどの手順を踏む必要があります。
こうした経緯を経て「一発試験」を突破し騎手免許を取得した者もいるにはいて、中央競馬では横山賀一、地方競馬では厩舎に入り調教厩務員を経験していた、村尚平・笹田知宏などの例があります。
ところが、競馬学校とは違い、騎手免許試験の受験資格には年齢制限が設けられていません。このため、かつて存在した短期の騎手養成課程を経て騎手となった人物の中には、大学卒業後に縁あって厩舎に入り下積みを経て騎手になるという経歴を辿った、俗に「学士騎手」などと呼ばれる人物がごく少人数ですが存在します。
こうして、騎手免許試験に合格した騎手は競馬を統括する機関より騎手免許やライセンスの交付を受け、その統括機関に騎手として登録されることで初めて競走への参加などの活動が可能になります。いずれの国においても、競馬を開催している国では競馬に関する諸規則や法律が設けられており、特定機関でライセンスが交付され、騎手登録を行います。
日本の場合はJRA・NARのいずれかの組織から免許を受け、中央競馬の場合は美浦トレーニングセンター・栗東トレーニングセンターのいずれか、地方競馬の場合には各競馬場に所属します。また、調教師を頂点とする厩舎制度においては、騎手は厩舎への所属という形で雇用され、調教師から様々な指導を受けます。
ところが中央競馬では、特定の厩舎に所属しない、フリーランスの騎手が多数存在し、このような騎手をフリー騎手と呼びます。ただし厩舎に所属していなくても美浦か栗東、いずれかのトレーニングセンターに所属している上、さらにいえば日本中央競馬会に所属していることになります。
以前は実績のある騎手が所属厩舎と疎遠になったり、所属厩舎が解散したことを契機としてフリー騎手になるケースが多数ありましたが、最近では一定期間を経過した若手騎手が実績に関係なくフリー騎手になるケースも多いそうで、逆にフリーでやってきた騎手が厩舎とのつながりが生まれて厩舎に所属することもあるといいます。
しかし、こうして騎手になっても、競走に参加できなければ収入は得られません。レースをあきらめ、厩舎の裏役に専念して収入を得る道を選ぶ騎手もいますが、騎手として生きていくならばその収入源は賞金からの進上金になります。
騎手として馬に乗るためには、馬主からの依頼を受けなければならず、この馬主からの依頼が得られるかどうかは、所属厩舎を通じた馬主との関係、師匠である調教師と馬主の関係などから決まってきます。
ある厩舎に所属している騎手は当然として、同じ厩舎で働いたという関係で兄弟子、弟弟子などのつながりができ、かつて活躍した兄弟子が依頼を受けた馬主から依頼を受けることが多いといいます。
しかし、馬主から名指しで指定してくる場合もあり、その条件としては、負担重量(斤量)が軽い騎手、成績上位の騎手などであり、時には当日適当な騎手がおらず、空いている騎手だったからというケースもあります。
この様に人間関係が複雑に絡みあって競走への騎乗が決まるわけですが、中でも馬主が同じ騎手に何度か続けて騎乗してもらう場合、これを「主戦騎手」と呼びます。中央競馬においてはエージェントを介在した騎乗依頼も行われており、騎手・エージェント・馬主の三者間の関係も重要です。
他方、いくら騎手が小柄な人物の専売特許の様な商売とはいえ、その体重管理は過酷であり、極限の減量をしているにも関わらず、騎乗不可能という事態も多分に発生します。この場合、軽量の騎手にそれまで全く縁のない厩舎から突然に騎乗依頼が来ることもあるといいます。
こうしてようやくレースに出られるようになっても、日本の競馬には厳しい罰則があり、その地位は常に安泰とは限りません。レース前あるいはレース中の騎乗に際し、騎乗した馬を制御できなかった場合や、他の競走馬の進路を妨害した場合、あるいはレース前後の検量で斤量が大きく異なっていた場合には、競馬法の規定で制裁を受けることもあります。
レースだけでなく、無断欠勤、競馬施設内外での暴力行為などスポーツマンシップに欠ける騎乗や言動があった場合にも制裁を受けることもあり、制裁内容毎に異なった罰金が科されます。とくに、審議により降着以上になるような悪質な場合には一定期間の騎乗停止になったり、悪質な場合それ以上の期間に延長される場合もあります。
またこの騎手が騎乗していた競走馬に対しても再調教をして調教検査に合格するまで出走停止の措置が執られる場合まであり、これらの制裁はポイントにも置き換えられ、30点をオーバーすると競馬学校やトレーニングセンターで騎乗技術などの再教育を受けることまで義務付けられています。
さらに、騎乗停止の制裁は、中央競馬・地方競馬相互間および日本国外との競馬相互間でも適用されるという厳しいものです。しかも騎手の仕事は肉体労働であり、加齢によって筋力や反応速度などが低下し、また基礎代謝の低下により体重・体力を維持し続けることが困難になることも多く、高齢になってまで現役でいることのできる選手は限られます。
また優勝劣敗の厳しい世界であり、成績と収入の両面で伸び悩んだ騎手はもとより、リーディング(勝星)上位の常連として一時代を築いた騎手であっても全盛期を過ぎ騎乗数・勝利数・入着率、そして獲得総賞金額が減ってくれば収入は下がって行きます。
騎手の収入は主に二つに分けられ、それは競走に騎乗することで得られる収入と所属厩舎での業務をすることによって得られる収入です。競走に騎乗し賞金を得た場合には、その賞金の数%(日本の平地では5%、障害は7%)が得られ、騎乗手当もつきます。従って、高賞金の競走に勝利するほど収入は多くなりますが、その逆は当然薄給となります。
従って、一生にわたってこの騎手の仕事を続けることは難しく、本人が限界を感じたときなどに騎手としての免許・ライセンスを返上して引退し、何らかの形で第二の人生を歩むことになります。自分が所属していた厩舎の調教師が数年後に定年を迎えるなどの事情がある場合、その厩舎を引き継ぐ目的で調教師免許試験を受験する者もいます。
また、上位の騎手であっても、支えてくれていた調教師や有力馬主の死去・撤退など、後ろ盾となる人間関係がなくなり成績・獲得賞金額が低下したことをきっかけに、騎手からの引退を検討する者も少なくありません。
他方、騎手デビュー以降に予定外に身体の成長が続き、その結果として身長・体重が増加し若くして体重管理に苦しみ、負担重量などの問題から減量が自己管理の限界を超えて引退を余儀なくされる騎手も少なからず見られます。その中には、20代前半の若さであっても体重の問題で騎手業の継続が事実上不可能となり引退する者も多数います。
さらには、過酷な減量を余儀なくされ、その連続の末に心身に変調を来たす騎手や、脳梗塞など重篤な疾病を発症して倒れ引退を余儀なくされるケース、腎臓結石などの減量を著しく困難にする疾病を発症して長期的な健康面の観点から引退するケースも見られます。
騎手免許を返上した人物の第二の人生としては調教師や調教助手・厩務員などまず厩舎関係が第一に挙げられます。その他では後進の騎手の育成に携わる者、牧場での競走馬の生産・育成や競馬解説者・競馬予想家・馬運車・競走馬用飼料販売などの競馬周辺の産業に携わる者、さらにはまったく異なる職業に転身する者などさまざまです。
ただ、競馬は、他のスポーツの選手に比べれば純粋に身体的な能力を要求される要素は低く、勝ち星と収入を安定して確保し続けられる騎手は年齢を問わず第一線に留まることができます。日本の場合、騎手には定年制度がないため、歴代のリーディング上位騎手の中にも50代まで騎手業を続けた者は少なからず見られます。
とはいえ、競馬における競走馬のスピードは時速約60km以上にも達し、それだけのスピードを出した競走馬から落馬したり、走行中の馬に接触すれば重傷・死亡に至る危険な競技です。場合によっては即死する危険があり、事実、競走中に発生した事故によって即死した松若勲選手のような例があります。
この松若選手の事故は1977年11月5日に京都競馬場でおきました。第9競走、1400メートルは18頭立ての多頭数レースで、前日までの雨の影響で「重馬場」でのレースとなりました。馬場の状態は、「良」を基本状態として含水率の上昇に伴い「稍重」「重」「不良」と変化していきますが、この日のコンディションは、最悪の不良の次の「重(おも)」でした。
多数の馬のなかで先行争いが激化して先団がごちゃつくなか、第3~4コーナーの中間点で、一人の騎手が先行馬に触れて落馬しました。後方にいた各馬は、重馬場のせいもあって跳ね上がる泥や水蒸気で視界が利かず、またダートコースの幅員が狭いコーナー地点での事故で避ける間もなく、6頭の馬が先に転倒した馬に触れて次々に落馬していきました。
これに巻き込まれた松若選手は、落馬の際、頭蓋底骨折の怪我を負い、救護室に搬送されたものの、その場で死亡が確認されました。即死状態だったそうで、その原因は着用していたヘルメットが落馬の衝撃で外れたためと言われています。
また、福永洋一や坂本敏美の例のように重篤な後遺症が残り再起できなかった騎手もおり、大型動物のサラブレッドを扱う職業であるだけに、レース中以外でも調教中の落馬の他、馬に蹴られる・踏まれるなどの事故も少なからずつきまといます。
この福永洋一という騎手をご記憶の方も多いでしょう。かつて日本中央競馬会 (JRA) に所属した騎手で、1968年に中央競馬で騎手デビュー。3年目の1970年に初の全国リーディングジョッキー(年間最多勝利騎手)獲得以来、9年連続でその地位を保ち、従来の常識からは大きくかけ離れた数々の騎乗もあり、「天才」と称されました。
しかし1979年3月4日、毎日杯の騎乗中に落馬。このときに重度の脳挫傷を負い、騎手生命を絶たれました。1981年にライセンス更新切れの形で騎手を引退。以後はリハビリ生活を送り、まれにその様子がマスメディアで報じられましたが、2004年、騎手時代の功績を認められ、騎手顕彰者に選出、中央競馬の殿堂入りを果たしました。
1971年のクラシック最終戦・菊花賞では、長い距離が苦手で追い込み馬と見られていた乗馬を、残り1500メートルも残して先頭に立たせるという奇策を打って勝利を収め、八大競走(クラシックの5競走プラス天皇賞(春・秋)・有馬記念)初制覇を果たしました。
これは福永選手の騎手生活における代表的な騎乗のひとつとなり、本競走をきっかけとして彼は「天才騎手」と呼ばれるようになりました。
翌年秋の天皇賞でもヤマニンウエーブに騎乗し、パッシングゴールの40馬身の逃げをゴール直前でアタマ差で捉えて優勝。その後しばし八大競走制覇からは遠ざかりましたが、1976年、福永が騎手生活中の最強馬と評したエリモジョージで天皇賞(春)を制しました。
1977年には桜花賞、皐月賞を制覇。この皐月賞では、最後の直線で柵とコースの間のわずかな隙間に馬を突入させ、2着の伊藤正徳、3着の柴田政人が、それぞれ「柵の上を走ってきたのかと思った」、「神業に見えた」と語るほどの走りを見せました。
この年にはエリザベス女王杯にも優勝。さらに、野平祐二が保持した年間最多勝記録を19年ぶりに塗り替える126勝を記録し、翌年にも桜花賞を連覇し、年間最多勝記録も131勝に更新しています。
翌1979年も順調に勝利を重ね、3月までに24勝を挙げ、リーディングのトップを独走しており、この年の3月4日、阪神競馬場で983勝目を挙げた後、この日のメインレースの毎日杯で福永はマリージョーイという馬に騎乗しました。
この競走の勝負は最後にまでもつれ込み、ラストの直線において、斎藤博美が騎乗していたハクヨーカツヒデが前の馬に乗り掛かる形となり、まず斎藤が落馬。さらに後方から走ってきたマリージョーイの脚が斎藤に接触しました。
福永選手は大きく前方にのめったマリージョーイの背から落ちて馬場に叩き付けられ、頭を強打するとともに舌の3分の2以上を噛み切る重傷を負い、その場で意識不明となりました。直ちに馬場に待機していた救急車に乗せられて競馬場内の救護所に搬送され、救命措置が行われます。
しかし舌からの出血が気管に流れ込み、呼吸障害による窒息死の危機が差し迫っていました。ところがこの前日、まったくの偶然に納入されていた新たな医療機器のひとつである「気道チューブ」を気管に挿入して気道の確保を行うことができ、なんとか危機を回避できました。
とはいえ、瞳孔は散大し、血圧は低下、自発呼吸も極めて薄弱であったことから、救護所での応急的な処置を終えると、直ちに関西労災病院に搬送されました。この時点で周囲は怪我がそれほど重篤なものとは考えていませんでしたが、その後息子の博、妻の裕美子が病院に赴くと、そこで初めて洋一が危篤である旨が伝えられました。
病院への到着後、福永はただちに集中治療室に入りました、落馬時の頭部へのダメージが大きいためにすぐには手術ができず、容態が落ち着いた2日後に脳内の血塊を取り除く手術が行われ、成功しました。やがて人工呼吸器の補助も不要となり、事故から13日後には、危篤状態からは脱したとの主治医の判断により、集中治療室から一般病棟に移動。
しかし意識は回復せず、やがて医師や妻の呼びかけに少しずつ反応するようにはなったものの、意識が完全に戻るまでには至りません。しかし徐々に容態は安定し、相変わらず意識は明瞭ではなかったものの、院内でのリハビリの効果により、少しずつ回復の兆しを見せるようになりました。
その翌年の、1981年になってようやく意識が明瞭となったころ、妻の裕美子が「ドーマン法」という脳障害に対するリハビリテーション法を知り、夫とともに1週間アメリカへ渡りました。リハビリプログラムを教授され、これを機に退院。自宅近くの騎手宿舎の集会所を借り、自宅とともにリハビリ機器を搬入して、厳しいリハビリを開始しました。
こうして約1年間のリハビリにより、同年9月、数歩ではありますが事故以来初めての自力歩行をすると、「おはよう」という挨拶に対し、「おはよう」と、たどたどしいながら応えるまでに回復しました。その後も徐々に回復を続け、事故か5年経った1984年10月には栗東トレーニングセンター内の角馬場において、約5年半ぶりに馬に跨りました。
このとき馬上で、かつて好んで歌っていた故郷の高知を舞台にした歌謡曲、「南国土佐を後にして」を口ずさんだといい、このころ行われたインタビューでも、「騎手に復帰して勝ちたい」と語りましたが、騎手免許は、既に1981年に更新切れとなっていました。
騎手時代に福永のライバルと目されていた武邦彦は、福永を評して「乗り役として必要な要素を何もかも備えていた」と言い、なかでも優れていた点として「瞬間的な判断力」を挙げています。同期生の別の選手も優勝した皐月賞を例に出し、この優勝は彼の百分の数秒の判断によるものが大きかったと語っています。
また、常に前方を遮られることなくレースを運ぶことができた秘訣について、「前が開いたから行くんじゃない。福永の場合は(開くところを予期して)行ったところ、行ったところが開いていくんだ」と述べています。
福永と同じく「天才」と呼ばれる武豊ともよく比較され、武は「ミスのない選択ができ」、福永は「彼にしか考え出せないような選択肢をいつも見つけ出す」と評する同僚もいて、ともに直感的に正しい選択ができる騎手だといわれます。
もっとも、福永は他のスポーツは苦手としていたそうで、養成所時代も「運動神経まるでなし」と同期生に笑われていました。が、人が十回やってようやく身に付けられるようなことを一回やって習得できたといい、身体的にはとくに背筋力が強かったことが知られています。
「背骨に鋼が埋め込まれているのでは」というほどの強靱な背筋力であったといい、軸がしっかりしているため、少々のことでは体勢を崩すことがなく、強い背筋力が必要といわれるゴルフでは、小柄ながらボールを遠くまで飛ばす「飛ばし屋」だったそうです。
さらに、騎乗というほとんど無酸素運動の中で、フォームも乱さず、馬の能力を100%引き出すためには、筋肉のパワー、腱の柔軟性といった身体的な能力が絶対に欠かせず、福永はそうした身体能力、スタミナが人一倍優れていたと評する人もいます。
また、福永には騎手時代、「天才」のほかに「歩く競馬四季報」という異名も付されていました。「競馬四季報」や競馬新聞などの資料に囲まれて生活していたといい、寸暇を見てはこれらに目を通し、「栗東所属馬の全脚質を頭に叩き込む」と放言していました。
こうした「勉強に裏打ちされた記憶力」プラス、コンピューターのように瞬時に判断が可能な頭脳がその並外れた騎乗能力の秘訣の一端であると考えられます。馬に関する情報収集を常に欠かさなかったため、癖などが分からず敬遠されがちな初騎乗馬も嫌うことはなく、素早くその馬の癖を掴み、最適なペースを見出してレースを運べたともいいます。
この福永選手の長男もまた、騎手となりました。彼がリハビリを続ける中、この長男・祐一は1992年に競馬学校を受験し、2世騎手への道を進み、1996年3月2日に騎手としてデビューし、初騎乗初勝利を挙げました。
彼は父が築き上げた人脈の恩恵も受け、この最初の年、新人としては異例の50以上の厩舎から騎乗を依頼され、新人騎手として当時史上3位の記録となる53勝を挙げ、JRA賞最多勝利新人騎手を受賞しました。
この翌年に行われたインタビューの中で、祐一は「福永洋一の息子」と喧伝されることに対して「僕は全然嫌じゃないです。だって実際に僕は福永洋一の息子なわけですから。父がいなければ僕もいないんだし、父のことは尊敬していますしね。このまま最後まで”洋一の息子”でもいいと思ってます」と語りました。
以後、祐一は毎年ランキングの上位を占める騎手として定着し、2008年9月には984勝を達成して父の記録を更新。同年11月には父が直前まで迫りながら達成できなかった通算1000勝を記録しました。
この時彼は、「福永洋一の息子として競馬の世界に入り、父に縁のある方々に支えられ、ここまでやってこられました。先日、父の勝利数を超えたことで自分の中でもおもりが取れ、福永祐一個人として歩み出せたような気がします」と語りました。
昨年10月の菊花賞ではオス馬クラシック初制覇し、父・福永洋一との親子制覇を達成。さらには、天皇賞(秋)を制覇し、2週連続で八大競走を親子制覇を達成しました。菊花賞と天皇賞の連覇は1965年以来であり、この年には最終的にはリーディングジョッキー(年間最多勝利騎手)を達成し、これも日本初の父子受賞となりました。
この祐一が2009年に高知競馬場で行われたトークショーに出席した際、「生まれ育った高知は父親にとって特別な場所。おやじの名前がタイトルについたレースができたら」と発言し、この意向を汲む形で高知競馬が2010年より「福永洋一記念」を新設しました。
同年5月に行われた第1回競走当日は、親子でこの競馬場を訪れ、プレゼンターとして表彰式に出席したそうで、途中感極まって本人が涙をこぼす場面があったといいます。福永洋一が公の場に姿を見せたのは事故以来31年ぶり、祐一との同席は初めてのことだったそうです。
現在、父洋一は66歳、不自由ながらも日本競馬界の重鎮として活躍し続けており、息子さんの祐一は38歳となりましたが、まだまだ現役選手として数多くの輝かしい成績を残していくでしょう。今度、福永選手が出る競馬中継があったら、今日のこのブログを思い出し、ぜひ応援してあげてください。
今日は、チョー長くなりました。終りにしましょう。